2017年8月26日土曜日

―最近読んだ本からー 「牧会学―慰めの対話―」エドワルト・トゥルナイゼン著 (加藤常昭訳)

―最近読んだ本からー
「牧会学―慰めの対話―」エドワルト・トゥルナイゼン
(加藤常昭訳)
昭和36 31日  初版発行   定価850円    
           昭和38210日 六版発行
発行者 日本基督教団 丹羽 巌
           発行所 日本基督教団出版部
  この著書は、加藤常昭先生が若かりし頃、初任地の金沢若草教会で牧会と説教の職務に専念しておられた中で、行き詰まりを覚えておられたときに、出会って翻訳なさり、その後の転機にもなったものだと先生から何度も聴かされたことがある。ちなみに、加藤先生はその後の牧師職を続けられてきた中で、第一線として働かれる現場の牧師を離れようと思われたことはなかったのかとお聞きすると、そんな気持ちになったことは一度もなかったとはっきり答えられたことを憶えている。だいぶ前から、早く読みたいと思っていたが、宗教改革500年のこの記念すべき時に、ようやく読むことができたことは幸いであった。
 トゥルナイゼンの燃えるような牧会に対する意気込みが、加藤先生の立派な翻訳文を通して伝わってくる。それは、トゥルナイゼンの神学の発露であるとともに、それに命がけでついていこうとする加藤先生の信仰理解でもあるように思われた。トゥルナイゼンは、カール・バルトと共に、神の言葉の神学に立っており、バルトの神学を、牧会学を通して展開したものともいえると自身で書いている。トゥルナイゼンはスイスの神学者で、改革派に属するようである。この著書は「牧会学」と題名がつけられているが、加藤先生はそれについて大いに疑問であったそうである。ドイツ語のもとの題は、「Die Lehre von der Seelsorge」だから、「魂の配慮についての学」といったところであろうか。そういう事情もあったのだろうか、副題として「慰めの対話」と付けられている。
 さて、その牧会、あるいは魂の配慮とはどういうことであろうか。それは、カウンセリングとどう違うのか。あるいは、精神科医などによる心理療法等とどう違うのか。また、それらはどのような関係にあるのか、あるいはあるべきなのか。現在ではますます大きな問題となっているが、それを私がまだ6歳のころに、トゥルナイゼンは16章からなる諸テーマのもとに洞察し、答えを明確に提示しているのである。本論に入る前に字数が足りなくなったが、神の言(ことば)に祈りの霊(聖霊)に導かれながら聞きつつ、慰めの対話を通して、相手に罪の赦しを伝えていくことである。説教と聖礼典の働きを深め、広げつつ。

 
昭和36 31日  初版発行   定価850円    
           昭和38210日 六版発行
発行者 日本基督教団 丹羽 巌
           発行所 日本基督教団出版部
  この著書は、加藤常昭先生が若かりし頃、初任地の金沢若草教会で牧会と説教の職務に専念しておられた中で、行き詰まりを覚えておられたときに、出会って翻訳なさり、その後の転機にもなったものだと先生から何度も聴かされたことがある。ちなみに、加藤先生はその後の牧師職を続けられてきた中で、第一線として働かれる現場の牧師を離れようと思われたことはなかったのかとお聞きすると、そんな気持ちになったことは一度もなかったとはっきり答えられたことを憶えている。だいぶ前から、早く読みたいと思っていたが、宗教改革500年のこの記念すべき時に、ようやく読むことができたことは幸いであった。
 トゥルナイゼンの燃えるような牧会に対する意気込みが、加藤先生の立派な翻訳文を通して伝わってくる。それは、トゥルナイゼンの神学の発露であるとともに、それに命がけでついていこうとする加藤先生の信仰理解でもあるように思われた。トゥルナイゼンは、カール・バルトと共に、神の言葉の神学に立っており、バルトの神学を、牧会学を通して展開したものともいえると自身で書いている。トゥルナイゼンはスイスの神学者で、改革派に属するようである。この著書は「牧会学」と題名がつけられているが、加藤先生はそれについて大いに疑問であったそうである。ドイツ語のもとの題は、「Die Lehre von der Seelsorge」だから、「魂の配慮についての学」といったところであろうか。そういう事情もあったのだろうか、副題として「慰めの対話」と付けられている。
 さて、その牧会、あるいは魂の配慮とはどういうことであろうか。それは、カウンセリングとどう違うのか。あるいは、精神科医などによる心理療法等とどう違うのか。また、それらはどのような関係にあるのか、あるいはあるべきなのか。現在ではますます大きな問題となっているが、それを私がまだ6歳のころに、トゥルナイゼンは16章からなる諸テーマのもとに洞察し、答えを明確に提示しているのである。本論に入る前に字数が足りなくなったが、神の言(ことば)に祈りの霊(聖霊)に導かれながら聞きつつ、慰めの対話を通して、相手に罪の赦しを伝えていくことである。説教と聖礼典の働きを深め、広げつつ。


 

2017年8月15日火曜日

「終わりの日まで待ち続ける神さま」(マタイによる福音書第13章24節~35節)

マタイによる福音書第1324-35節、2017813日(聖霊降臨際後第10主日礼拝―緑―)、イザヤ書第446-8節、ローマの信徒への手紙第826-30節、讃美唱119/6(詩編第11941-48節)

説教「終わりの日まで待ち続ける神さま」(マタイによる福音書第1324節~35節) 

 今日の福音は、マタイ福音書第1324節から35節までが与えられています。今日の部分は、主イエスが、群衆に語った天の国の譬えといわれている部分です。群衆は、聞いても、主の譬えを理解することができない。それで、主イエスは、聞いても理解することがなく、見ても、分からず、悟ることがないように、譬えでお語りになり、彼らは癒されることがないと預言者イザヤの預言を引用して、そのわけを弟子たちには伝え、弟子たちにはしかし、天の国の奥義が知らされていると、今日の部分の前の第13章以下ところで、尋ねた弟子たちに説明なさっています。
 そして、今日の個所では、毒麦のたとえ話をお語りになり、続いて、からし種のたとえ、さらにパンだねの譬えが続き、そのあとに群衆にはすべて譬えで、主イエスが語られたことと、その意義が記され、このペリコペー、聖書個所を締めくくるみ言葉で終わっています。
 ここで、主は、3つの譬えをいづれも、彼は別の譬えを彼らの前に、こう語りながら、置かれた、あるいは、主は別の譬えを、彼らにしゃべられたと記されています。二つ目、三つ目の譬えでは、天の国は、人がその畑にからしの木の種を植えたのと似ている。あるいは、女の人が、パン種を取って、3サトンのパン生地、小麦粉の練り粉の中に隠し込んだ事情に似ていると言われています。
 いずれも、その始まりは、取るに足らない、見栄えのしないものであります。パン種も、それは40リットルもの練り粉全体を膨らますのであり、その影響力は考えられないほどである。天の国は、そのように最初は小さなものであるが、その結果は、最初からは考えられない大きな働きを結果するのであります。
 そして、からし種から育ったからしの木には、空の鳥、天の鳥がやって来て、その枝に巣を張るほどになり、最も小さい種から、野菜、庭園草本と言われる中で一番大きくなり、木ともなると言われるのであります。確かに、主イエスの預言された通り、一握りの弟子たちと共に始まった教会は今では、世界の隅々にまで広がっています。旧約の世界で、同じように、天の下のあらゆる鳥が、また野の獣がそのもとに住み着くようになると言われたエジプト帝国やバビロン帝国は、今では見る陰もなくなっていますが、主の教会は、主イエスの約束された通りに全世界にまで波及しております。
 そして、マタイ福音書は、そのあとに、要約して、主はこれらのことを群衆には譬えにおいて語られ、譬えによらないでは何一つ語ろうとはされていなかったと記しています。
 そして、これによって、預言者によって言われていたことが満たされたのであると記し、すなわち、「私の口を、譬えどもでもって開こう。私は世界の創設、種まきの時から隠されていたことどもを、知らせようと」との詩編第78そして編1節、2節の預言が実現したと、マタイは確信して記しています。このような方法を取ることは、何も主イエスの独創によるのではなく、世の初めから、神さまのご計画であると、マタイ福音書記者は信じて疑わないのであります。
 そして、順序は逆になりますが、最初の譬え、毒麦のたとえについてご一緒に考えましょう。それも、先に言いましたように、そのままに訳しますと、「彼は別の譬えを、彼らに対して、その前に置かれた、こうお語りになりながら」と始まっています。「彼らに」とは、ずっと見ていきますと、群衆に対してであることが分かりますが、ここではあえて、「彼らに」とマタイは書いています。それはなぜでしょうか。
 さて、主がここでなさった毒麦の譬えは、こういうものでした。ある人が自分の畑に良い麦を蒔いていった。ところが、人々が寝ている間に、彼の敵がやって来て、同じ麦畑に毒麦を蒔いていっていた、そして、その敵は立ち去ったのであります。やがて、麦は芽を出し、実がみのり、その毒麦も現れました。そのとき、その一家の主人の僕たちがやって来て言います。「ご主人様、あなたが蒔いたのは良い麦ではなかったですか。それなのに、この毒麦はどこからやって来たのですか。」主人は答えます。「敵である人間のしわざだ」と。僕たちは言います。「それなら、私たちが行って、毒麦をむしり集めることを、あなたはお望みですか。」しかし、主人は言うのです。「両方とも成長させておきなさい。そして、刈り入れの時が来た時に、私は刈り入れ人たちに言おう。まず、毒麦をむしり集めて束にして、火の中へ投じるようにと。そして、麦は集めて倉に納めるようにと」。 皆さんは、この譬えを聞いて、自分はまさか毒麦のほうだとは思わないことでしょう。そして、教会の中でも、世の中においても、あの人たちこそ毒麦で、自分たちが引き抜きたいと考えがちではないでしょうか。しかし、主イエスは、両方ともそのままにしておきなさいと答えられるのです。私たちも、敵すなわち悪魔から日々試みられる存在です。そして、終わりの日まで主は裁きを取っておかれるお方であります。だれが良い麦であり、毒麦であるかは、終わりの時まで主はお待ちになられておられます。すべての人のために祈りつつ、み国に共に与る者へと努めたい者であります。
 アーメン。
















 







                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

2017年8月9日水曜日

「世界平和のために」(ミカ書第4章1節~5節)

ミカ書第41-5節、201786日(平和の主日、JELC)(赤)、エフェソの信徒への手紙第213-18節、ヨハネによる福音書第159-12節、讃美唱201(イザヤ書第22-5節)

説教「世界平和のために」(ミカ書第41節~5節) 

 私ども、日本福音ルーテル教会では、毎年8月の第一日曜日を、平和主日として記念し、世界平和のために祈りを合わせ、そのために思いを凝らし、決意を新たにするときとしています。
 いみじくも、今年の平和主日は86日となり、この日、原爆が広島に落とされ、それから72年を経たこの時、広島では世界平和を祈願する式典が行われていることでしょう。あの日の惨禍は、今なお続き、いまだに5万人もの人が行方不明だとのことであります。そして、世界では未だに紛争は絶えず、北朝鮮ではこのところ、核開発も勢いを増し、また、アメリカなどの大国も、自国第一主義を標榜する傾向が強まり、危惧されているのが現状であります。
 このような現実の中にあって、私どもは、今一度、聖書のみ言葉に目を向け、何を祈り、どのように考え、何をなすべきかについて、ご一緒に考えてみたいと思います。今日はいつもとは違って、第1朗読の旧約聖書ミカ書第41節から4節までを中心として学びましょう。
 ここには、驚くべきことが書かれています。実は、このミカ書の第4章以下、終わりの第7章までは、預言者ミカの手によるものではなく、後代の弟子たちの預言者らによって記されたものではないかと、今では考えられています。
 そして、今日の部分の前までが、ミカの預言で、そこには、アッシリア帝国の支配が迫っている中で、一向に悔い改めようとはしないイスラエルやユダの人々、不正や民を圧迫する指導者たちへの神の裁きの預言で満ちています。
 その後に、今日のまことに信じがたい、世界平和の実現とも思われる預言、救いと赦しの約束の託宣が語られているのです。これらのみ言葉は、バビロン捕囚の時代、あるいはバビロン捕囚から帰還して後に与えられた預言の言葉であると考えられています。
 ちょうど同じ記事が、イザヤ書の第21節から5節に記されていますが、その両者の関係については、今日は触れません。ただ、ミカ書の方がより詳しく書かれており、より深く考えられていると言え、そのために平和主日のペリコペー、聖書個所としては選ばれていると考えられます。
 今日のミカ書の預言の言葉は、およそ、以下のようなものであります。
すなわち、次のようなことが起こる。終わりの日々に、主の山、主の家の山が、すべての丘、山々よりも高くなり、すべての山の頭として、堅く据えられる。
 そして、多くの民、国民が、そのシオンの神殿のある山の周りに、流れ来たる。そして、彼らは言うのであります。さあ、我々は、主の山、ヤコブの神の家に向かって登ろうと。我々を、その神は、その道から教えられる。我々は、その方の道において歩もう。
 なぜなら、トーラー、主の教えはシオンから、主のみ言葉はエルサレムから出るからだと。そして、その方は、多くの国民を裁き、遠くまで強い国々を戒める、調停され仲裁されるというのであります。
 そして、彼らは、自分たちの剣を鋤に打ち直し、自分たちの槍をその刃を打ち延ばして刈り込み鎌とするのであり、国は国に対して剣を上げず、彼らはもう戦いに備えて学ぶことはない。そして、人は、自分のぶどうの木の下に、オリーブの木の下に座り、もはや何ものも脅かすものはない。なぜなら、万軍の主の口がそう告げたからだというのであります。万軍の主とは、ダビデが近隣の諸国と戦い、周囲の国をたいらげていったそのイスラエルの神でありますが、それは、天のみ使いの軍団でもあり、ラテン語に訳された聖書では、「全能の主」と訳し変えられています。
 さて、今日のペリコペーの最後のミカ書第45節は、文字通り訳しますと、「けだし、すべての民は、おのおのその神の名において歩む。しかし、私どもは、永遠の昔から、永遠に、私どもの神、主の名において歩むのである」となります。
 昔、イスラエルの人々は、主の名のもとに、部族が集まり、国を成していました。また、ダビデ、ソロモンの栄華の時代には、エジプトからユーフラテス川の近くまでを戦い取り、戦火の後に平和を謳歌した時代がわずかですがありました。そのような歴史をも踏まえたうえで、この預言者は、日々の終わりに世界中の国民が、ヤコブの神こそ、まことの神だと言って、主の山に登ろうと流れ来たる日を預言し、主の教える道に歩む日が来ると約束しました。
 しかし、今日の終わりの5節では、すべての民は、おのおのその神の名において歩むが、私どもは、永遠に我らの主、神の名において歩むと、いったん譲歩したうえで、自分たちの決意を新たにして、今日のみ言葉を終えているのであります。
 それは、私ども人間の罪深さ、一筋縄には、まことの唯一の神に従いえない罪の現実を見据えた預言者の信仰告白の言葉なのでありましょうか。

 今日の聖書の言葉は、それ以後の長い歴史の中で、人々に強い影響を与え続けてまいりました。その一つの例として、戦前の日本の貧しさとの戦いの中で、生活協同組合運動に行きついた賀川豊彦牧師の働きが挙げられます。協同組合国家によって、世界に平和をと考えた彼は、世界連邦構想をも展開しつつ、1960年に、世界平和を祈りながら、天に召されたのでした。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

2017年8月2日水曜日

「無力な者にあらわれる神さま」(マタイ福音書第11章25節~30節)

マタイによる福音書第1125-30節、2017730日(聖霊降臨際後第8主日礼拝―緑―)、イザヤ書第4026-31節、ローマの信徒への手紙第715-25節、讃美唱119/11(詩編第119129-136節)

説教「無力な者にあらわれる神さま」(マタイ福音書第1125節~30節)

 先週までは、主イエスによる12弟子たちの宣教への派遣の記事が与えられていました。今日、与えられている福音は、その主イエスが、御自分も周りのガリラヤの町々に宣教なさり、ベトサイダも、御自分の町であったカファルナウムも、主イエスの告げ知らせた福音、神の国の訪れの使信によっても、悔い改めなかった、まさにその時に、「それに答えて言われた」お言葉であり、祈りの言葉、あるいは執り成しの祈りで始まっているものであります。遣わされていた弟子たちも、みもとに戻って、そばで、この祈りと、自分たちへの励ましと慰めのみ言葉を間近に聞いていて、このような形となって、聖書に残されているのでしょうか。
 主は、周りの町々が、主のみ言葉を受け入れず、拒まれたとき、カファルナウムよ、なんじは天にまで上げられようと思うのか、そうではない、お前は、陰府にまでくだされるのであり、終わりの時には、あのソドムのほうがお前よりは耐え易いであろうとまで言われました。
 その時に、主は、天地の主、父に向かって、ほめたたえる祈りをなさる。ご自分が、イスラエルの民によって、また、特にファリサイ派や律法学者たちによって、拒まれ反対されて終わったときに、嘆いたり怒ったりされるのではなく、感謝の祈り、あるいは信仰告白の祈りをなさるのであります。そして、言われました。「私は、あなたをほめたたえます、なぜなら、あなたは、これらのことを、知恵ある者や賢い者たちにはお隠しになって、幼子のような者におあらわしになりました」と。「幼子のような者たち」と訳されていますが、もとの文は、「幼子たち」そのものの意味の言葉です。それは、遣わされて行って戻って来ていたであろう弟子たち、あるいは彼らの使信を受け入れた小さな者たちのことでしょう。そして、主イエスによる救いの福音をお隠しになった知恵ある者や賢い者とは、イスラエルの民であり、特にその当時宗教的リーダーでもあったファリサイ派など、力ある者たちだったでありましょう。
 そして、それは、今でも同様なことが言えるのではないでしょうか。パウロが言いますように、教会に入れられた者には、もともと知恵ある者や家柄のよい者は多くなく、また世の知恵は、十字架の言葉を愚かなものとみなしているのであります。天の父は、無知、無学、無力な者に、またそのように自分を痛感し、自分を父の憐みに投げ出すときに、その祈りに答えられるお方である。主イエスは、それをご存じで、ここで、私共に代わって、感謝の執り成しの祈りをなさっておられるのであります。そして、このように、あなたのご好意は、あなたのみ前に成りましたと告白されているのであります。世の賢い者に、救いの計画を隠して、世の愚かな者、取るに足らない者にご自分をお顕しになる。
 そして、すべてのことが、自分にゆだねられているのであり、子を知る者は父以外にはなく、また、父を知る者は、子と子が知るようになることを欲する者たち以外にはないと祈られています。
 主イエスだけが、また、御自分がそうなることを望んで選ばれた者たちのみが、父のご計画を知るのであり、父である神のみが、主イエスを遣わされた意味を知っておられ、両者の間に、他の者たちには認識できない深い、親密な関係が出来上がっていると、むしろ私どものために感謝して祈っておられる。
 そして、主は、ここで、私共すべてに招きの不思議なみ言葉を語りかけられる。「すべての疲れている者、そして重荷を負っている者は私のもとに来るがいい」と。重荷を負って疲れていないような者はいるのでしょうか。私たち、キリストの弟子は、どうでしょうか。このお方は、すべてのそのような者は、私のもとに来なさい、そうすれば、私があなた方を休ませてあげようといわれるのです。ルターはこれを、私はあなた方を元気づけてあげようと訳しました。私たちは何によって疲れ果て、重荷を負って苦しんでいるのでしょうか。主イエスのところに行けば、私たちの不安や試練やおののきといったものがなくなると魔法のような言葉を言われているのでしょうか。
 主イエスは、私のところに来なさい、私は柔和な者であり、心低い者でありうからといわれます。そして、私の軛を、あなた方に向かって担いなさい、そして、私から学びなさいと言われる。なぜなら、私の軛は担いやすく、私の荷は軽いからであるというのです。主イエスの言われる私の軛、私から学べ、私の軛、私の荷とは何でしょうか。軛とは本来、圧迫する苦しいものでありましょう。ところが、主イエスの軛は、心地よい、親切なものだといわれる。主が私たちのために負われる、十字架と苦難の軛を、私たちも負うとき、すでにそれは、軽いもの、楽なものになっている。主の軛とは、そのような優しい、親切なものであり、主の荷は、既に私共にとっては軽いもの、恵みに満ちたものとされているのであります。 このお方のもとに来る人はすべて、このお方から学び、弟子となり、その魂に安らぎ、元気、まことの休みを見出すと、主はここに約束されているのであります。そして、弟子とされている私共は、このお方の今日のみ言葉へと絶えず招かれ、呼び戻されるのであります。このお方と共に、このお方の軛を負い、その荷を担うときにのみ、まことの元気が与えられ、まことの生を歩んでいけるのであります。

アーメン。