2021年7月26日月曜日

五千人の給食

 聖霊降臨後第9主日礼拝(2021年7月25日)
列王記下 4章42-44節 ヨハネによる福音書6章1-21節


 本日の福音書は「五千人の給食」について記された箇所ですが、これは4つの福音書全てに記されているただ一つの有名な奇跡です。この五千人というのは、ここにいる成人男性だけです。女性、こども、高齢者などは数に入っていません。実際には一万人くらいの人々が集まっていたでしょう。


 この奇跡に関して4つの福音書を読み比べてみますと、ヨハネ福音書だけがわざわざ「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」と記しています。

 この過越祭とは、遠い昔エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民が、神様の助けを得て、モーセをリーダーとして脱出したことを記念する祭りです。イスラエル人と近隣諸国の人々ならば誰でも知っている、盛大なお祭りでした。五千人の給食の奇跡が起きた時期が、過越祭の直前である、と記すことにヨハネの意図があります。


 「過越の祭り」の前後、神様はいくつもの奇跡をなさいました。神様はご自分の愛する民を救うためにエジプトに10の禍を下しておられます。最後にはエジプト王の子どもまで神様の裁きの対象となり、命を落としました。

 旧約聖書には神様の裁きの奇跡が至る所に記されています。ただ、これは人類の倫理観や道徳レベルがまだまだ低い時代に記されたものです。その頃の人類は「奪う、盗む、殺す」が日常茶飯事でした。神様は時に、そうした人々に教育的なお灸を据えなければなりません。それを体験した旧約の人々は、自分たちのフィルターを通して神の偉大さを描きましたから、今読む私たちにとっては、神様が非常に無慈悲で野蛮であるかのような印象を受けるのです。

 しかし、イエス様は神様のご計画によって地上にお生まれになって以降、何があっても暴力的で解決するようなことはなさいませんでした。苦難の道を歩まれ、虐げられた者の側に立たれました。イエス様を取り巻く人々がイエス様に危害を加えようとしても決して応戦されず、弟子達の暴力的な発言を諌められました。

 イエス様は「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せと」教えられるほど、暴力さえも甘んじて受けよと教えられました。理性の発達し初めた時代にふさわしく、神様の愛と寛大さを示そうとなさったのです。


 ただ、残念ながらイエス様が向き合われたイスラエル社会も、まだまだ成熟には程遠かったのです。神様との約束事が守れない時、人間は利口になった分、神様を本気で恐れず、あれこれと理屈をつけて逃げ道を探しました。素朴に悔い改めるより屁理屈を言いました。人がまともな道を歩むためには、神様との信頼関係が不可欠なのに、その関係を人間の方からその関係を断ち切ってしまったのです。


 イエス様がこの日、五千人の給食の奇跡を通してお示しになったのは、ご自分を信じて頼るものには日ごとの糧が与えられる、その恵みには限界はない、と言う根本的な約束の再確認でした。五千人の給食の出来事には、全ての人にイエス様を通して恵みを与えようと願う神様の思いがこめられていたのですが、その思いは、イエス様のすぐそばにいた12弟子たちにさえなかなか通じませんでした。

 どの福音書でも、弟子たちはイエス様から「あなたがたが食べ物を与えなさい」と言われ、大いに戸惑っています。これだけの人数の人々に与えるものを何も持っていない。そのことばかりに心を捉えられ、そこにいる人々が腹ペコだろうが何だろうが、どうにかして追い返そうとします。


 結局、集まった人々は皆、奇跡を通して腹を満たしますが、イエス様が一番お伝えになりたかった「神様の慈愛」はきちんとは伝わりませんでした。

 弟子を含めたイスラエルの人々は、イエス様が神様から来た力のある預言者だと理解するや、イエス様が王様になることを望みました。王になっていただいたら、自分たちを支配しているローマ帝国を力づくで追い出して、ついでに傲慢な政治家も追い出して、新しい世の中を作っていただこうと望んだのです。


 しかし、ヨハネ福音書が書かれた西暦90年までに、イスラエルは滅びに向かって一直線に進んでいったのです。イスラエルはローマ帝国との戦いに敗れ、神殿は跡形もなく壊されました。民族の象徴であった神殿が焼かれた戦いでは、多くのユダヤ人が最後まで砦に閉じこもり、最後には追い詰められて自ら死を選びました。福音記者ヨハネはそれら全てを知っていました。その上で五千人の給食の出来事を記しました。


 「過越祭が近づいていた」と言う一文は、過越の祭りの折に十字架にかかられたイエス様を強く思い出させるためにあえて記録したのでしょう。「ヨハネによる福音書」が「過越祭」に触れるとき、それはイエス・キリストの「死と復活」について語るときです。

 この場で配られた5つのパンと2匹の魚は、全員がそれらにあずかり、満腹になりました。それなのに、そこにいた人たちの多くは、次にイエス様が与えてくださる信仰における命のパンは受け取ろうとはしませんでした。そうして結局滅びの道を歩んだことをヨハネは示そうとしたのではなかったでしょうか。


 急に信仰生活のあり方を変えることは難しいことです。しかし私たちは神様の思いに心をむけ、この場所を改めて築き上げ直すチャンスが今与えられています。イエス様の命のパンを受け取って、しっかりと神様の御心に目を向けることができるなら、私たちが滅びに向かうことはないはずです。

 今日もこうして集められ、礼拝していることに感謝いたしましょう。私たち一人一人に目を止められる神に感謝しつつ、五千人の給食に匹敵する業を為せるよう、勤めて参りましょう。




8月3日は土曜学校の日です
ローズウインドウに挑戦します
昨年は紙皿を枠にして作りました
今年は献金をいただいたので
既成の丸枠を使うことができます
正直、準備が楽なのです(^^;)




昨年のゆきちゃんの作品
今年も力作が見られるかな?


昨年、参考作品として作ってみました
今年は丸枠で作ります




紙を折ってパーツをいくつも作り
張り合わせる方法を試してみました
これは根気がいるので低学年には向かないかもしれません

2021年7月19日月曜日

キリストの憐れみ(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝(2021年7月18日)

詩編23編  マルコによる福音書6章30-34節


「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」で始まる詩編23編は、欧米の映画やドラマでは良く用いられていますし、日本に暮らす私たちキリスト者にも馴染みのある聖書箇所だと思います。美しく心に響き、渇いた魂を慰め、逆境に置かれた信仰者を励まします。この詩は、羊飼いと羊のイメージを通して、神の家で過ごす憐れみと恵みに満ちた日々を強い信念を持って期待し、歌い上げているのです。


 作者は、イスラエルの英雄、ダビデ王とされています。イエス様の先祖の系図に名を連ねる人物です。ダビデは王様となる以前、ベツレヘムの羊飼いの家に生まれ、羊飼いとして生きてきました。彼は幼い時から、羊を守るためなら野獣とも命がけで戦い、慈しんで世話をしてきました。羊飼いは強靭な体だけでなく、どこに餌となる青草が生え、どこに飲み水があるかという知識も必要です。一匹一匹の名前や性格を知り尽くし、愛と威厳を持って羊たちを導くのです。


 ダビデの生涯は波乱に満ちていました。ダビデがまだほんの少年であった時、神様は彼がいずれイスラエルの王となるよう選ばれます。やがて勇ましい戦士となったダビデはイスラエル初代の王様サウル王の次女の娘婿となりますが、サウル王の嫉妬によって命を狙われ、ユダの荒れ野をさまよい、何度も命を失いかけました。それでもダビデの方からはサウル王の命を狙おうとしなかったことは聖書の中で高く評価されています。

 やがてサウル王が他民族との戦いで戦死したことにより、ダビデの放浪は終わり、イスラエル王座に就きます。すると彼は戦に連戦連勝、周辺諸国を従えてイスラエルを発展させ、良い政治を行いました。ただ残念なことに、たくさんの妻や子がいたため、王位継承は揉めに揉めました。

 さらには人妻と不倫の関係に陥り、彼女の妊娠をごまかそうとした挙句、その夫を戦地に送り込んで戦死させたことすらありました。さすがにこの時は神様も預言者ナタンを通してダビデを叱りつけました。


 その時預言者は「貧しい人がたった一匹の羊を自分の子供のように慈しんでいたが、ある金持ちが客をもてなすのに自分の羊を提供するのを惜しみ、貧しい人の羊を取り上げて殺し、自分の料理に使った」と話します。ダビデはそんな身勝手な金持ちは死刑だと憤りますが、「その金持ちとはあなたのことです」と指摘され、自分の犯した罪の深さに気づきます。彼は深く悔い改め、神の憐れみを求めました。その心情を詩編51編に綴っていますので、お時間のある時、読んでみてください。

 このように、ダビデ王という人物はざっくりいうならば、神に愛され、彼自身も信仰心が篤く、才能にあふれる人物ではあったけれど、欠点もまた多かった、ということになるでしょう。


 話を詩編23編に戻しましょう。ダビデは自分自身の欠点を知り、それでも「あなたがわたしと共にいてくださる」と歌い上げました。神と人の関係を、自分が熟知している羊飼いと羊の結びつきにたとえたのです。羊は羊飼いとの関わりが深くなれば深くなるほど、羊飼いに全幅の信頼を寄せ、自分の命をゆだねます。その時、自分は自分が羊飼いにとって役に立つ羊だろうか?などと考えません。

 羊が生きていくためには、自分を最も愛しているのが誰なのかを知ることが何より大切なのです。私のために戦ってくれる羊飼いがいる。この羊の性質を引用しながら、ダビデは、自分のダメさ加減も全て受け入れ、愛し、守ってくれる主がいる、神がいる、と私たちに伝えてくれたのです。


 詩編23編がキリスト者に愛されるのは、ダビデのこの思いに共感するからでしょう。キリスト教信仰に生きる私たちにとって、最も安らげる道は、イエス様に愛されていると知ることです。何か特別な才能があるとか、一生暮らしていける財産を持っているとかいうことではなく、今のこの私を神ご自身が、イエス様が憐れみ、愛し、導き、守ってくださり、溢れんばかりの恵みを与えてくださる驚きを、感謝を持って受け止め、歩んでいくことなのです。ダビデは、23編の終わりに「主の家にわたしは帰り」と記しています。「私は主の家にとこしえに住む」それはダビデにとって最も幸せなイメージだったことでしょう。


 そんなダビデは、王様としてひとまず国が安定してきたと見るや、神様のために豪華な神殿を建てることを計画します。しかし神様はそれを止め、神殿建築は次の王、ダビデの息子ソロモンに譲るように、とお命じになります。神はダビデにこのように言われました。「なぜ私のためにレバノン杉の家を建てないのか、といったことがあろうか」、つまり「あなたに立派な神殿を要求したことはない」と言われたのです。そして「あなたがどこに行こうとも、私は共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断つ」と宣言してくださいました。

 ダビデはこの出来事を通して、主に向かって祈るならば、その場所がどおであろうと、主は耳を傾け、答えてくださることを改めて確信したのです。この出来事から私たちは、たとえ神殿や礼拝堂にいなくても、神は祈りを聞いてくださる、という信仰を得ることができるのです。


 今、私たちは新しい礼拝堂を作る使命を委ねられています。どうしても資金のことが頭をよぎりますし、迷いや悩みがたくさん生まれます。だからこそ、私たちは主が共にいてくださり、キリストご自身がわたしたちを慈しんでくださることを繰り返し思い出し、自分たちにできる最善を尽くして計画を進めてまいりましょう。

 私たちのすべてをご存知であるイエス様の憐れみを受けつつ、安らぎを得ながら、歩んでいこうではありませんか。



保護者の方から了解を得たので
11日の賛美礼拝の写真を追加しておきます
よかったら見てくださいね










2021年7月12日月曜日

「オネシモ物語」を上演しました

新約聖書「フィレモンへの手紙」より

7月11日の礼拝は
予定通り特別賛美礼拝として「オネシモ物語」を上演しました

コロサイに住むフィレモン家の奴隷だったオネシモが
自由を求めて逃亡します
紆余曲折を経て、逃亡先のローマで軟禁されていたパウロと出会い
回心に導かれます
キリストを知ったオネシモは、本当の自由とは何かを知り
厳罰を覚悟の上で
再びフィレモン家に戻っていく、という物語です

出演者が全員揃うのは当日朝のリハーサルだけ
各パートごとに練習を重ねました

基本、朗読劇なので、出演者は座ったままセリフを読みます
園の先生方は園児相手に鍛えた声で
会堂に声を響かせてくれました。
場面場面で子ども聖歌隊&先生バンドが賛美します
子どもたちも最後の方でちょっとずつセリフあり(^^)

この日は梅雨の終わり近くの晴れ間と言うのでしょうか
とんでもない暑さ!
古い会堂には冷房設備がなく
体調不良が心配されましたが
飲み物を大量に用意し
クーラーのある保育室を休憩室とし
看護師経験のある教会員に
体調管理をお願いしました

暑さで子どもたちのパワーが
いつもの三分の一くらいになってしまったのは
残念でしたが、無事に終えることができました
体調不良になった人もおらず安心しました

お骨折りいただいた皆様、本当にありがとうございました。



リハーサルのエンディング
この時はまだまだ元気いっぱい


本番のラスト近くです
「ハレルヤ私はクリスチャン」を賛美
暑さでいささか参った表情になっていますが
最後まで頑張りました



原案はこの本です
優子姉が洗礼を受けた直後に教会の本棚で見つけ
牧師先生からいただきました
今回はここから書き下ろしてもらいました

2021年7月7日水曜日


次回の礼拝は特別賛美礼拝です
と言っても、ゲストを
お招きするのではなく
教会のこども聖歌隊と
幼稚園の先生方が出演します

なかなか一緒に練習できないので
全員揃うのは当日のリハーサルのみ
みんな全集中!笑顔で頑張ろう!

2021年7月5日月曜日

イエス様の悲しみ(7月4日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第6主日礼拝(2021年7月4日)
エゼキエル書2章1-5節  マルコによる福音書6章1-6節


本日の聖書箇所は教会の説教ではよく「ナザレでは受け入れられない」という表題でお話されるところです。時折、「どんなに立派なことをしても言っても、小さい頃に泣き虫だったりやんちゃだったりした様子を知っている人には頭が上がらない」ということですよね、と感想を述べる方がおられます。

 しかしイエス様は神の御子ですから、幼い時から神様を信じ、神様から離れず、神様の導きに従って、歩み続けました。わがままをいって親を困らせたり、理不尽な兄弟喧嘩で弟や妹泣かせたり、といった人間の幼子とは全く違う子ども時代を過ごされたはずです。大人になって、近所の人々から「あのときのイエス君と来たら…」と、暴露されて困るようなことはなかったと思うのです。

 人としてのイエス様は、父親であるヨセフを早くに亡くしたとされており、長男として弟や妹を養う必要がありました。ヨセフの木工技術を引き継ぎ、聖書の記述から見て8人以上の家族を養いました。

 イエス様は幼い頃から神の教えに精通していましたし、人格的にも優れた存在だったはずですが、世間から見れば「なかなかよくできた一般家庭の長男」にすぎなかったのかもしれません。


 さて、この日、イエス様はご自身が幼い頃より通いなれた会堂でお話をされました。そのお話には誰もが感じ取れる権威がありました。それは他でもない神様の権威であり、この権威は、本来なら有無を言わさないほどの、強い権威であるはずでした。しかし彼らはそれを素直に受け止めることができませんでした。彼らの心は「大工のイエスがなぜこんな話ができるようになったのか」という疑問でいっぱいになり、それ以外のことを受け付けられなくなっていたのです。

 その上、イエス様に敵対する人々が、イエス様の奇跡や不思議な業や力強い言葉は、神様の力ではなく、ベルゼベルという悪霊の頭の力を使っている、という噂でを流しました。

 イエス様は、誤解を解き、神様の救いに素直に預かれるよう、身近な人々を導くことを望まれました。しかし、その愛は受け入れられることも理解されることもありませんでした。

 ルカ福音書の4章にも、本日のマルコ福音書と同一の記録があります。その記録は非常に過激で、イエス様がナザレ人々によって崖に連れていかれ、突き落とされそうになったと書かれています。 イエス様の教えを受け入れることのできなかった彼らは、神様の真の教えも愛も受け入れることができなくなってしまったのです。


 人間の命は限りがありますし、その命さえ、いつまで生きていられるのか知ることができません。当たり前のような顔をして生きていても、心の奥底には不安が渦巻いています。悲惨な事件や事故が起こると、信仰を持っていても、この出来事は、神の罰ではないか、と思うことがあります。絶望の深さによっては、もはや神はいないとまで、言い切ってしまうことすらあります。イエス様そのような人間を救いに導きたいと徹底的に願われました。

 ですからイエス様は、そのご生涯をすべて人々のためにささげられました。その中には、罪人もいれば心や体の病に苦しむ人もおりました。社会からはみ出し、見捨てられ、絶望していた人々たちでした。

 その時代のすべての人が彼らを人を見捨てたとしても、イエス様は彼らを見捨てませんでした。彼らがからし種の一粒ほどでも信仰を持って求めるならば、イエス様は喜んで癒しや社会復帰の道を与えられました。

 イエス様は荒れ狂う湖の波や風を鎮めることがお出来になりますし、悪霊を追い出したり、死んだはずの少女の命さえ取り戻す力をお持ちでした。

 イエス様のなさるすべての奇跡には目的がありました。神様は世界にあるすべてのもの、命も自然も創造を支配しておられること、そのお力を持ってすべての人を愛そうとしておられること。イエス様はそれを誠実に証しするため、数々の奇跡を行われました。

 そのイエス様が、5節には「奇跡を行うことがお出来にならなかった」と書かれています。「お出来にならなかった」というのは、ナザレの人々はそれほどまでに強烈に神様を拒んだ、ということです。イエス様は驚かれるとともにに深く悲しまれたのです。自分の身近な人に殺されそうになった事実は、誰であれ、大きな驚きと苦痛を感じます。イエス様は人の心と肉体を持つ神様ですから、誰よりも悲しみと苦しみを感じられたことでしょう。


 人の不信仰というものは、イエス様を驚かせ悲しませ、その奇跡の力すら阻んでしまうほどに恐ろしいもの。この出来事はそう伝えているのでしょう。

 キリスト教の歴史においては、神様の名のものとに数々の過ちが行われました。互いにイエス様の名を掲げていても、建前や権力欲第一で戦うとき、信仰は脇に押しやられてしまいますから、イエス様もお手上げということになりかねません。人間のそんな愚かさはイエス様を驚かせ、悲しませ続けるのです。

 しかし私たちが神の愛に生きる時、この世が、この社会が、私たちに関わる人すべてが変わります。すぐには結果は出ないかもしれませんが、神様に、この地上での生涯の歩みをゆるされるかぎり、時間をかけて、「誰も悲しませることなく」イエス様を中心とした神の国を、ここに実現させて参りましょう。



7月3日は月一回の土曜学校の日でした。

飯田では一ヶ月以上コロナ感染者の発表がありませんので

感染対策に神経をとがらせつつも

楽しく実施することができました。

この日は18名のお友達が参加。


今まで工作の時は「先生アレは〜?」「先生コレは〜?」と

あっちこっちから上がる声に振り回されていましたが

先月から教会の皆さんが色々とお手伝いくださるので

グループに分かれて楽しく作業を進めることができました


今月の工作は万華鏡です


まずは礼拝から
今月の聖句はルカによる福音書6章31節
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
牧師先生は最近読みやすい字を書くことにこだわっています

テーマに沿ってお話しです
紙芝居や視聴覚教材の絵を利用しながら
オリジナル展開に持っていくのがお得意の優子先生

さて工作です!
まずはビーズを選びます
散らばらないよう紙皿の上で
真剣に選びます

付属のカプセルの中に
こんな風にビーズを入れて蓋をします

ビーズを選び終わったら
ミラーシートを貼り合わせます
万華鏡の心臓部
真剣にミラーシートの保護フィルムを剥ぎます

紙筒に入れて組みたてれば一先ず完成
ここから20分かけて紙筒を思い思いにデコります(^^)

どのグループも力作が出来上がりました
代表でこのグループの写真をご紹介

来月は8月7日の予定
「なんちゃってローズウインドウ」を作る予定です