2021年7月5日月曜日

イエス様の悲しみ(7月4日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第6主日礼拝(2021年7月4日)
エゼキエル書2章1-5節  マルコによる福音書6章1-6節


本日の聖書箇所は教会の説教ではよく「ナザレでは受け入れられない」という表題でお話されるところです。時折、「どんなに立派なことをしても言っても、小さい頃に泣き虫だったりやんちゃだったりした様子を知っている人には頭が上がらない」ということですよね、と感想を述べる方がおられます。

 しかしイエス様は神の御子ですから、幼い時から神様を信じ、神様から離れず、神様の導きに従って、歩み続けました。わがままをいって親を困らせたり、理不尽な兄弟喧嘩で弟や妹泣かせたり、といった人間の幼子とは全く違う子ども時代を過ごされたはずです。大人になって、近所の人々から「あのときのイエス君と来たら…」と、暴露されて困るようなことはなかったと思うのです。

 人としてのイエス様は、父親であるヨセフを早くに亡くしたとされており、長男として弟や妹を養う必要がありました。ヨセフの木工技術を引き継ぎ、聖書の記述から見て8人以上の家族を養いました。

 イエス様は幼い頃から神の教えに精通していましたし、人格的にも優れた存在だったはずですが、世間から見れば「なかなかよくできた一般家庭の長男」にすぎなかったのかもしれません。


 さて、この日、イエス様はご自身が幼い頃より通いなれた会堂でお話をされました。そのお話には誰もが感じ取れる権威がありました。それは他でもない神様の権威であり、この権威は、本来なら有無を言わさないほどの、強い権威であるはずでした。しかし彼らはそれを素直に受け止めることができませんでした。彼らの心は「大工のイエスがなぜこんな話ができるようになったのか」という疑問でいっぱいになり、それ以外のことを受け付けられなくなっていたのです。

 その上、イエス様に敵対する人々が、イエス様の奇跡や不思議な業や力強い言葉は、神様の力ではなく、ベルゼベルという悪霊の頭の力を使っている、という噂でを流しました。

 イエス様は、誤解を解き、神様の救いに素直に預かれるよう、身近な人々を導くことを望まれました。しかし、その愛は受け入れられることも理解されることもありませんでした。

 ルカ福音書の4章にも、本日のマルコ福音書と同一の記録があります。その記録は非常に過激で、イエス様がナザレ人々によって崖に連れていかれ、突き落とされそうになったと書かれています。 イエス様の教えを受け入れることのできなかった彼らは、神様の真の教えも愛も受け入れることができなくなってしまったのです。


 人間の命は限りがありますし、その命さえ、いつまで生きていられるのか知ることができません。当たり前のような顔をして生きていても、心の奥底には不安が渦巻いています。悲惨な事件や事故が起こると、信仰を持っていても、この出来事は、神の罰ではないか、と思うことがあります。絶望の深さによっては、もはや神はいないとまで、言い切ってしまうことすらあります。イエス様そのような人間を救いに導きたいと徹底的に願われました。

 ですからイエス様は、そのご生涯をすべて人々のためにささげられました。その中には、罪人もいれば心や体の病に苦しむ人もおりました。社会からはみ出し、見捨てられ、絶望していた人々たちでした。

 その時代のすべての人が彼らを人を見捨てたとしても、イエス様は彼らを見捨てませんでした。彼らがからし種の一粒ほどでも信仰を持って求めるならば、イエス様は喜んで癒しや社会復帰の道を与えられました。

 イエス様は荒れ狂う湖の波や風を鎮めることがお出来になりますし、悪霊を追い出したり、死んだはずの少女の命さえ取り戻す力をお持ちでした。

 イエス様のなさるすべての奇跡には目的がありました。神様は世界にあるすべてのもの、命も自然も創造を支配しておられること、そのお力を持ってすべての人を愛そうとしておられること。イエス様はそれを誠実に証しするため、数々の奇跡を行われました。

 そのイエス様が、5節には「奇跡を行うことがお出来にならなかった」と書かれています。「お出来にならなかった」というのは、ナザレの人々はそれほどまでに強烈に神様を拒んだ、ということです。イエス様は驚かれるとともにに深く悲しまれたのです。自分の身近な人に殺されそうになった事実は、誰であれ、大きな驚きと苦痛を感じます。イエス様は人の心と肉体を持つ神様ですから、誰よりも悲しみと苦しみを感じられたことでしょう。


 人の不信仰というものは、イエス様を驚かせ悲しませ、その奇跡の力すら阻んでしまうほどに恐ろしいもの。この出来事はそう伝えているのでしょう。

 キリスト教の歴史においては、神様の名のものとに数々の過ちが行われました。互いにイエス様の名を掲げていても、建前や権力欲第一で戦うとき、信仰は脇に押しやられてしまいますから、イエス様もお手上げということになりかねません。人間のそんな愚かさはイエス様を驚かせ、悲しませ続けるのです。

 しかし私たちが神の愛に生きる時、この世が、この社会が、私たちに関わる人すべてが変わります。すぐには結果は出ないかもしれませんが、神様に、この地上での生涯の歩みをゆるされるかぎり、時間をかけて、「誰も悲しませることなく」イエス様を中心とした神の国を、ここに実現させて参りましょう。



7月3日は月一回の土曜学校の日でした。

飯田では一ヶ月以上コロナ感染者の発表がありませんので

感染対策に神経をとがらせつつも

楽しく実施することができました。

この日は18名のお友達が参加。


今まで工作の時は「先生アレは〜?」「先生コレは〜?」と

あっちこっちから上がる声に振り回されていましたが

先月から教会の皆さんが色々とお手伝いくださるので

グループに分かれて楽しく作業を進めることができました


今月の工作は万華鏡です


まずは礼拝から
今月の聖句はルカによる福音書6章31節
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
牧師先生は最近読みやすい字を書くことにこだわっています

テーマに沿ってお話しです
紙芝居や視聴覚教材の絵を利用しながら
オリジナル展開に持っていくのがお得意の優子先生

さて工作です!
まずはビーズを選びます
散らばらないよう紙皿の上で
真剣に選びます

付属のカプセルの中に
こんな風にビーズを入れて蓋をします

ビーズを選び終わったら
ミラーシートを貼り合わせます
万華鏡の心臓部
真剣にミラーシートの保護フィルムを剥ぎます

紙筒に入れて組みたてれば一先ず完成
ここから20分かけて紙筒を思い思いにデコります(^^)

どのグループも力作が出来上がりました
代表でこのグループの写真をご紹介

来月は8月7日の予定
「なんちゃってローズウインドウ」を作る予定です


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