2021年10月25日月曜日

「奇跡」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第22主日礼拝(2021年10月24日)
エレミヤ書31章9節 マルコによる福音書10章46-52節説教

 人間の目に偶然に見えることであっても、この世界の全ては神様の御手の中にあります。つまり、その奇跡はあなたの人生で起こるべくして起きた出来事だと考えられます。このことをキリスト教の世界では「神の摂理」と呼びます。ただ、「ありえないけれど現実だ」という出来事は、嬉しいことばかりではありません。病気やけが、自然災害、大切な人との突然の別れなど、失望や不幸も山ほどあります。
 

 「心の底から神様を信じ、良いことも悪いことも、委ねて生きていく」と決心することは簡単ではありません。イエス様が地上を歩まれた2000年前の、宗教国家イスラエルに生きた人々でさえ、自分の利益を優先し、信仰をただのお飾りとしてしまことも多々ありました。だからこそ、イエス様は時の権力者と対決しなければならず、十字架の死を覚悟される必要があったのです。


 イエス様の時代、イエス様が3年ほど宣教活動を行ううちにその存在は周囲の人々から注目され、奇跡を求める人々から多くの期待をかけられるようになります。しかし、イエス様は彼らの思いをよそに、十字架の死を受け入れ、ただひたすら十字架にかかるためにエルサレムに向かっておられました。


 エルサレムに程近いエリコの町に暮らす盲人バルティマイは「ナザレのイエス」がすぐ近くに来ておられることを聞くと、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び出したのです。あまりに彼が騒ぐので多くの人々が𠮟りつけて黙らせようとしますが、彼はますます声を張り上げて「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。

 彼は街の人々のざわめきや気配でイエス様が近くを通られることを悟ります。しかし目が見えないため、イエス様がどちらにおられるかわからず、その場で座ったまま、必死になって大声を張り上げました。イエス様はそんな彼の思いを知って立ち止まり、ご自分のもとに呼んでくるようにと命じます。


 バルティマイは踊り上がってイエス様のところにやって来ます。イエス様に「何をして欲しいのか」と尋ねられたバルティマイは「目が見えるようになりたいのです」とはっきりと答えます。するとイエス様はあっさりと「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。

 「行きなさい」というのは、「家に帰りなさい」という言葉です。しかし彼は家に帰るどころか「なお道に進まれるイエス様に従った」のです。イエス様に「従ってきなさい」とも言われなくても、奇跡が起こったこの体を、イエス様に従っていくことで用いていただく道を自ら選んだのです。


 そもそもバルティマイがイエス様に呼ばれた時、マルコはわざわざ「盲人は上着を脱ぎ捨てて」と記しています。当時の盲人の生活状況から考えて、彼の上着は彼の唯一の持ち物だったと考えられます。実際、今の私たちが考える以上に、イスラエル人にとって「上着」は大切なものでした。

 出エジプト記22章には「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。」と書いてあったほどです。

 イスラエルの気候は温度差が激しく、昼間は暑くても夜は冷え込みます。貧しい人にとっては上着が寝具ですから、質に取られたままで夜を過ごすことになれば、命に関わります。上着を持つことはその人が生きるための最低限の権利でした。

 目の見えない彼は、もしかしたらポケットのようなものを上着につけていて、わずかな私物をそこに納めていたのかもしれません。どれほど薄汚く見えようと、その上着は彼の大切な財産だったのです。しかしイエス様の元に進み出るとき、一刻も早く進み出ることを願った彼にとって、その布は重く邪魔となりました。ですからバルティマイは上着を脱ぎ捨てたのです。

 この行為の中には、何もかも捨ててイエス様に従う信仰が初めから込められていたのではないか、と思われるのです。


 ところがエルサレムに到着した後、イエス様はたった一週間で十字架に掛かってしまいます。バルティマイはせっかく見えるようになった目で、無残なイエス様の姿をはっきりと見ることになってしまうのです。自分に奇跡を起こしてくださった方が、自分よりも深い災いにあって、誰も助けようとはしない、その真実をしかと見るのです。目が見えない方が良かったのではないか、従って来るのではなかったとさえ思えたかも知れません。


 しかし、聖書に名前が記されているということは、バルティマイがここでイエス様と決別したのではないことを暗示しています。彼はエリコの町で絶望の暗闇の中で生きていたとき、イエス様こそが光を与えて下さった唯一の方であったと身を持って体験していました。だからこそ、彼は絶望することなく、イエス様が復活することを待ち望んだのです。

 他の弟子たちから「イエス様が復活した」という知らせを聞いた時、バルティマイは「やっぱりそうだったか」と心の底から安堵し、腑に落ちたことでしょう。イエス様との出会いこそが神様のくださった最大の奇跡であり、この奇跡を信じる者はどれほど苦しみを味わったとしても、そのまま絶望の中で人生を終えるはずがない、そのことをバルティマイは再び堅く信じたのです。


 私たちの人生は予想もしない苦難と喜びに満ちています。バルティマイのように、苦しみや失望と喜びの間を激しく行き来した経験のある方もここにはおられるかもしれません。どんな時でもイエス様とともにある限り、思いもよらぬ「奇跡」が、私たちの未来には存在しており、私たちの人生が失望で終わることはないことを胸に刻んで歩いて参りましょう。


朝から小雨が降ってどんよりとしたお天気です
明日は幼稚園(こども園)の芋掘り遠足
写真は昨年の様子です
昨年のようにお天気が回復してくれれば良いのですが
このままでは芋掘りというより
泥遊び遠足になってしまいそうです

2021年10月18日月曜日

キリストと共に歩む日々(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第21主日礼拝(2021年10月17日)
ヘブライ人への手紙5章7-10節 マルコによる福音書10章35-45節

 イエス様は主にガリラヤ湖近辺で奇跡の業を行われました。奇跡で人々を癒やされるたび、触れ回らないようにと念を押されました。しかし癒された人々は喜び、イエス様のすごさを広めて回りました。その評判によって、イエス様の存在が特別であることがガリラヤ以外の地域にも急速に広まって行きました。

 しかし、イエス様のあまりにも大きな奇跡の力は、弟子たちの心に変化を与えました。弟子たちはイエス様を尊敬し、愛していましたが、イエス様のお力に便乗して、自分も地位や権力を手に入れようと思うようになってしまったのです。


 イエス様はそれをもちろん見抜いておられました。ご自分が十字架にかかる予告をなさった後、「仕えるものになりなさい」と弟子達に何度も何度も言わなくてはならないほどでした。ところが、そのような状況の中でゼベダイの子ヤコブとヨハネは「イエス様が偉くなったら側近にしてほしい」と願いを申し出たのです。

 弟のヨハネは、後に福音書を記し、イエス様の教えを正しく伝え、初期のキリスト教会に大きな影響を与えた人物でしたが、この段階ではまだ、全くといっていいほど野心の塊でした。他の福音書では、この二人の母親までが登場し、息子たちの出世をお願いをします。もし彼らがイエス様を神様だとしっかりと認識していたなら、この時このような願いはしなかったことでしょう。


 神様に対して願い事を申し上げる時、よく引き合いに出されるのが、イエス様の時代から1000年近くも前のソロモン王の祈りです。列王記上の3章です。少し長いですが引用します。

 「わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」

 神様はソロモン王の、謙虚で私利私欲を捨てて神の民のことだけを思う願いを大いにお喜びになり、国を治めるための知恵に加えて、富と長寿をもお与えになりました。ソロモン王の統治時代はイスラエルの歴史の中で最も繁栄しました。

 ヤコブとヨハネは、ソロモン王が神に祈ったこの記述を知らなかったはずはありません。しかしそれはそれ、これはこれ。世の人と同様に出世したいという思いをイエス様に願い出てしまうのです。

 しかしそんな二人をイエス様は拒絶することなく、蔑む事もなく、実に丁寧に言葉をかけ、彼らの心得違いをただそうとなさいました。イエス様はご自分に向けられる願いの言葉がどれほどピントのずれたものであっても、聞き流すことはなさいません。その願いの奥底に込められている、本人がうまく言い表すことのできない想いさえも汲み取ってくださるのです。


 この二人の心の奥にある願いは、「イエス様のようになりたい」でした。所々勘違いをしているところがありますが、「この方唯一無二の力を持っていて、この国を救ってくださるに違いない」という直感は本物だったのです。

 しかしイエス様のお返事は、彼らには全く理解できないものでした。「だめだ」でもなく「いいよ」でもなく「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか」というものでした。ここでイエス様の言われた「杯」や「洗礼」はイエス様がこれからお受けになる苦しみを象徴する言葉です。


 イエス様は十字架にかかる前の夜、ゲツセマネの園で父なる神様に向かって「この杯を私から取り除けてください。しかし私の願うことではなく、御心に敵うことが行われますように」と祈っておられます。この「杯」とははいうまでもなく十字架の苦難を表しています。また、洗礼は「一度死んで神とともに蘇る」ことを表しています。しかしこの時ヨハネとヤコブは何もわからないまま勢いで「できます」と言ってしまったのでしょう。


 イエス様だけは彼らがこの後迫害や殉教の道を歩むことを知っておられましたから「確かにあなたたちはそうなる」と慈愛に満ちた目で彼らを見つめられたことでしょう。その姿を他の弟子たちが誤解して腹を立てたのだと思います。

 十字架を目前にしてもなお、肝心なところがわかっていない弟子たちでしたが、イエス様はそのような弟子達の勘違いした野心や見当違いの情熱さえも受け止められたことがわかります。そして「弟子たちのその一途な性質はのちに必ず宣教の役に立つ」と確信しておられたのです。


 私たちの毎日は、ある意味私利私欲や、名誉への欲望との戦いといっても良いかもしれません。教会のため、幼稚園に集う子どもたちのため、宣教のため、自分の時間や才能を注ぎ込む私たちですが、そこに虚栄心や他の組織や教会と張り合う心が全くないと言えば嘘になるでしょう。イエス様のために必死で取り組んでいるようで、心のどこかで誰かから評価されることを求める気持ちは、私たちから完全に取り去ることはできません。

 イエス様は私たちの不完全さを知り抜いた上で受け入れてくださっています。だからこそ、イエス様の言われる「仕える者になりなさい」というみ言葉を忘れてはならないのです。

 キリストに仕える私たちは、世の人々から厳しい批判を受けたり、逆に持ち上げられたりすることに心を乱されず、常にキリストが共におられることを信じて、キリストを自らの手本として「仕える者」であり続けることを自分の目標に据えましょう。



16日(土)は飯田ルーテル幼稚園(こども園)の

運動会でした

コロナの影響で予定よりも開催が遅くなりましたが

子どもたちは元気いっぱい

先生たちも元気いっぱい

無事に終了することが出来ました

牧師は開会のお祈り&音響全般担当

社会人時代の仕事の知識が生かされていて感謝です


運動会の写真です

順不同でご紹介




バルーンダンスは見応えがあります

親子競技の大玉運びも
みんな上手に出来ました

ダンスの時はシャッターチャンス
保護者の皆さんはお子さんを撮影しやすい場所に移動


Uber Eats(ウーバーイーツ)を模した
ルーテルイーツ競技
でも、
ルーテルとはマルチン・ルターのことで
 Lutherと綴ります
どう転んでも始まりは「
 L」なんです
(^^;)
担任の先生ごめんなさい
もっと早く言えばよかったね


運動会の花形競技は今も昔もやっぱりリレーかな

トンネルをくぐる動きはとってもスムーズでした


運動会当日は暑いくらいでしたが

本日はグッと気温が低くなりました

みなさま気をつけてお過ごしください



2021年10月11日月曜日

金持ちの男(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第20主日礼拝(2021年10月10日)
ヘブライ人への手紙4章14節~16節
マルコによる福音書10章17節~22節

 本日の福音書の箇所は「金持ちの男」とタイトルがついています。この話はマタイ福音書にもルカ福音書にも記されており、マタイ福音書では青年、ルカ福音書では「金持ちの議員」と記されています。どの福音書を見ても、彼は金持ちで、良い家庭に育ち、宗教教育にも優秀な成績を収め、人格的には申し分のない人物だったことがわかります。その上で、彼は「永遠の命」に興味を持っていました。
 この男性はもちろん永遠の命が楽して手に入るとは思っていませんでした。今以上に神に喜ばれる生き方をすることで「永遠の生命」を手に入れたいと真剣に考えていたのです。そしてイエス様こそ自分の導き手だと信じて「よき師よ」と呼びかけます。この「よき」という言葉はもともと「親切な」とか「恵み深い」という意味があります。
 しかしイエス様は、この世の中で、本当の意味で、親切で、恵み深いのは、神様だけである、と言われます。そしてご自分を見るのではなく、神様へと目を向けさせようとななさったのでした。

 この頃のイエス様の弟子達にはさまざまなタイプがいました。一番弟子のペトロ等は、腕利きの漁師の職を捨て、イエス様に従ったと言い張りましたし、マタイは徴税人として悪どい金儲けをしていた、その立場を捨てました。
 その一方で、女性の弟子の中には、夫が高い役職についていて裕福な暮らしをしつつ、イエス様の弟子集団に援助している人物もいました。つまりは、イエス様に従う弟子たちは一人一人付き従う方法が違っていて、全員が何もかも捨てて裸一貫になってついていった、というわけではなかったのです。ただ彼らはイエス様の思いを神様の思いと受け止め、不器用ながらも自分に何ができるか必死に考え、従っていく、そこは共通していました。

 さて、この金持ちの男にはどの程度の覚悟があったのでしょうか。確かに彼は掟の上では完璧でしたし、彼を悪くいう人はいなかったでしょう。しかし、たった一つのイエス様からの指摘、あなたも親切で、恵み深いものでありなさい、そのために、持っている物を売り払い、貧しいものに施しなさいというお言葉に、大きな挫折を味わったのです。
 資産家だった彼は、イエス様からそこのところを指摘されるのではないかな、と予想はしていたのです。言われることが分かっているなら質問しなければ良いものを、自分の発した質問によって、自分の足りないところを人々の見ている前で晒されてしまいました。彼はイエス様の指摘を理解しながら、それを実行に移す勇気も信仰もなかった、ということなのです。

 しかし「完全になりたいなら、持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい」この御言葉がイエス様の弟子となる条件ならば、ここにいる全員不合格ということになります。しかしイエス様が言われるのはそういうことではありません。
 先ほども「イエス様に従う弟子たち全員が、何もかも捨てて裸一貫になってついていったわけではない」とお話ししました。大切なのは、神様に従っていく時、神様自らあなたの大切なものを取り上げてしまうように見えることがある。それでも神様についていく覚悟を持ちなさい、ということなのです。

 話が飛躍するように思われるかもしれませんが、キリスト教の社会福祉事業や、教育事業、幼児教育事業の多くは「イエス様に従う弟子たちの覚悟」から始まりました。イエス様から溢れるほどの愛を受け取った人々が、この愛を他の人々にも分け与えたい、という思いを抱き、私にできる事は何か、と考えるところから事業が始まったのです。神様かもらった愛に報いるために何かをしたい、という想いがスタートであり、神様に愛されるために何をすれば良いか、ではないのです。

 多くのクリスチャンは神様に祈りを捧げながら、高い理想を掲げ、歯を食いしばって頑張り、一定の形を作り上げました。日本の社会からその施設や働きが役に立つものとして認められますと、助成金が出ます。しかし、その代わり「どんな人にも平等に」という考えをあてがわれ、キリスト教色を薄めるようにと指導が入ります。日本ではこういうケースが本当に多くあります。
 そこで、働く人々は問いかけるのです。「周囲の人々からは、良い教育だ、良い施設だと褒められています。ですから、施設の方針には自信があります。この施設がずっと栄えていくためには他に何をすれば良いでしょうか。」
 これはこの「金持ちの男」がイエス様に問いかけた質問と同じなのです。次に私たちは何をすれば、良いのでしょうかと。するとイエス様はお答えになるのです。「あなたは他人から褒められることを考えてはいけません、ただなりふり構わず私に従ってきなさい。」
 
 私たちは、イエス様のご命令とあれば、世の中の人が避けて通りたいような苦難の道をあえて選び、経営を潤沢にすることよりも天に宝を積むことを望み、色々な人々と愛と平和を持って暮らし、信仰を持たない人から「神の国はこんなところかもしれない」と思っていただけるような、そんな場所をここに作り上げていきたいのです。
 どんな時もあきらめることなく、これからだ、今からだ、という強い信仰を持って、キリストから愛された者として、惜しみなく愛を注ぎ出しながら歩んで参りましょう。


日中はまだまだ気温が高く
夏日の日もありますが
秋明菊に金木犀
秋の深まりを感じさせる花々が咲き始めました





2021年10月4日月曜日

祝福された未来(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第19主日礼拝(2021年10月3日)
詩編8編2~5節 マルコによる福音書10章13-16節

 本日の福音書は、イエス様が「離婚」について触れられています。最初の人アダムとエバは一夫一婦制のパートナーとして神様に創造されましたが、信仰の父アブラハムは正妻のサラの他にハガルという女性との間にも子どもをもうけています。アブラハムの孫ヤコブは4人の妻をめとり、彼女たちの産んだ男子はイスラエル12部族の祖先となりました。英雄であるダビデ王も複数の妻を持ちました。これらはイスラエル人であれば誰でも知っています。戦争の多かった時代、未亡人を守るためにも複数の妻を持つことが奨励された、とも言われています。

 しかし歴史が移り変わるにつれ、婚姻制度も大きく変わり、イエス様の時代になると一夫一婦制が定着していたようです。しかし、これは男性が妻に何らかの不満を感じた場合、申し出によって簡単に離婚できる制度でした。あくまで、男性の申し立てだけが取り上げられるところが大いに問題ですが、当時の男性中心社会では全く問題にされていませんでした。

 イエス様は姦通の罪を犯した女の人が石打ちの刑で死刑になる寸前、民衆を論破して命を救いましたから、イエス様の言動は当時の社会から見れば、女性に甘いように見られたことでしょう。

 当時の社会は寛容ではありませんでした。標準的な生き方が尊重される社会の中で、生きづらさを抱える人々を救うためにも、イエス様はこの世に来てくださったのです。イエス様は理想を語るだけでなく、徴税人を身近な弟子にお招きになるなどして、実際に行動なさいました。ですから、多くの人々がイエス様の教えに引きつけられ、その教えを信じたのです。

 本日の聖書箇所ではファリサイ人たちがイエス様に離縁について質問をします。「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」というのです。ファリサイ人は聖書に精通していましたから、申命記24章でモーセが合法的に離婚する方法を記しているのを当然知っていました。彼らはイエス様を試すために質問を行なったのです。

 ファリサイ人達は、イエス様が離縁についても女性の立場を尊重した答えをするに違いない、律法で定められていることと食い違うに違いないから、指摘して揚げ足をとってやろう、と考えました。イエス様は彼らの意地の悪い質問の意図を十分わかっておられたの上で、そもそもの神様がどのようなお考えを持って結婚の制度を定められたのか解き明かされました。

 まず、エデンの園で人間が作られ、神様に愛されて暮らしていた時のことをお話されました。男と女との関係は、自らの欲望を満たすためではなく、お互いに支え合い、仕えあうため、お互いが一つとなって歩んでいくことために作られた、と教えられたのです。そしてその関係は神様が結び合わせてくださったものだから、人間の勝手な利害関係で離婚するのは御心ではない、とも言われたのです。ファリサイ人たちはイエス様の確信を持ったお言葉に驚きつつも、文句をつけることはできなかったことでしょう。

 しかし、このお話はイエス様の弟子達にも衝撃を与えました。彼らは家に帰ってから、もう一度このお話について尋ねました。そこでイエス様はもう少し踏み込んで教えられました。「夫であれ妻であれ、自分の勝手な都合で配偶者と離婚するなら姦通の罪を犯すのと同じだ」と言われたのです。同じ出来事を記したマタイ福音書は弟子達はこの教えに対して、「それじゃあ結婚しない方がマシだ」と口答えしています。しかしイエス様が弟子たちに教えようとされたのは、弟子達の男性中心の考え方を改めなさい、ということだけではありませんでした。

 旧約聖書には、妻や夫に不誠実な人間がしばしば登場します。配偶者から愛されているにもかかわらず、他に恋人を作って姦淫を行い、ひどい裏切りをするのです。これが何を意味しているかというと、神様から愛されているにもかかわらず、他の神々や権力、金銭に心惹かれる人々を表しているのです。実際の歴史の中で、まことの神様を忘れて他国の神々に頼ったり、さまざまな権力に擦り寄った結果、何度も国が滅亡しかかっていることがわかります。その度、神様はご自分の民に向かって、浮気をされた夫のように嘆き悲しみつつも、もう一度やり直そう、と手を差し伸べられるのです。

 イエス様がご自分の弟子達に理解してもらいたかったのは、そのような神様からの呼びかけに誠実に答え、権力や金銭に目移りすることなく、信仰を持って歩んでいくことだったのです。

 しかしこの時期の弟子達は、素朴な信仰を失いつつありました。イエス様に王様になって頂き、自分たちはその側近として出世することに気持ちが奪われていたのです。その心得違いがよく表されているのが、イエス様の元に集まってくる子ども達を追い払おうとした箇所に出ているのです。

 子ども達の親にどういう思惑があったかはわかりません。しかし連れて来られた子ども達は、ただ単にイエス様のことが好きで、一緒にいたら、楽しくなる、安全だと思ったことでしょう。信仰なんか分からないかも知れないし、大人の考えや計算なんて知ったことではない。イエス様のそばにいることが安心なんだ、平安なんだ、その単純な信仰に生きており、イエス様も、その信仰を喜ばれたのです。

 私たちは、ただイエス様だけを信じて生きる、神様の祝福を日々いただいているのですが、イエス様の弟子達がそうであったように、時折それを忘れてしまいます。しかし幸いなことにこの教会は、幼児の姿を見て、信仰を取り戻すことのできる幸いな環境の中にいます。

わたし達の教会、幼稚園は多くの苦難がありましたが、今は話し合い、祈りあい、共通の目標に向かって進んでいます。神様が私たちを愛してくださり、祝福された未来がここにあります。これから100年、200年先、また、世の終わりがやってきても、ここには、イエス様によりて神様の愛に応え、神様を信じぬいた人々が集い続けたことを語り継ぎ、変わらぬ祝福を示して参りましょう。



10月2日は本当に久しぶりの土曜学校でした。

コロナのため、8月、9月がお休みになったからです

ローズウインドウを作りますよ、と予告して三ヶ月

やっと制作することができました

…が、あいにく子ども達の通う小学校は

運動会のところが多く

成立するのかと気を揉みました


飯田市内のすべての小学校が運動会だったわけではなかったようで

やる気満々のメンバーが集まってくれました





薄紙を切って作るローズウインドウ
光を通してみると綺麗です

光を通さないと切り紙細工です
これもまた綺麗です(^^)
Mちゃんは元気なビタミンカラーをチョイス

こちらは優しい色使い
同じように作っても個性があります


個性豊かなK兄弟
最後まで頑張りました

薄い紙を折ってからハサミで好きな形に刻みを入れ
そっと開き、丸い枠にノリで貼ります
慎重に作業中の一コマ


可愛らしい色をチョイス

C君の切った形は思い切りが良くてかっこいい!


Mちゃんの作品はいつも丁寧でおしゃれです

最後は神様にお祈りです
怪我もなく楽しく制作させてくださって
ありがとうございました
また来月ね