聖餐式・聖霊降臨後第19主日礼拝(2021年10月3日)
詩編8編2~5節 マルコによる福音書10章13-16節
本日の福音書は、イエス様が「離婚」について触れられています。最初の人アダムとエバは一夫一婦制のパートナーとして神様に創造されましたが、信仰の父アブラハムは正妻のサラの他にハガルという女性との間にも子どもをもうけています。アブラハムの孫ヤコブは4人の妻をめとり、彼女たちの産んだ男子はイスラエル12部族の祖先となりました。英雄であるダビデ王も複数の妻を持ちました。これらはイスラエル人であれば誰でも知っています。戦争の多かった時代、未亡人を守るためにも複数の妻を持つことが奨励された、とも言われています。
しかし歴史が移り変わるにつれ、婚姻制度も大きく変わり、イエス様の時代になると一夫一婦制が定着していたようです。しかし、これは男性が妻に何らかの不満を感じた場合、申し出によって簡単に離婚できる制度でした。あくまで、男性の申し立てだけが取り上げられるところが大いに問題ですが、当時の男性中心社会では全く問題にされていませんでした。
イエス様は姦通の罪を犯した女の人が石打ちの刑で死刑になる寸前、民衆を論破して命を救いましたから、イエス様の言動は当時の社会から見れば、女性に甘いように見られたことでしょう。
当時の社会は寛容ではありませんでした。標準的な生き方が尊重される社会の中で、生きづらさを抱える人々を救うためにも、イエス様はこの世に来てくださったのです。イエス様は理想を語るだけでなく、徴税人を身近な弟子にお招きになるなどして、実際に行動なさいました。ですから、多くの人々がイエス様の教えに引きつけられ、その教えを信じたのです。
本日の聖書箇所ではファリサイ人たちがイエス様に離縁について質問をします。「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」というのです。ファリサイ人は聖書に精通していましたから、申命記24章でモーセが合法的に離婚する方法を記しているのを当然知っていました。彼らはイエス様を試すために質問を行なったのです。
ファリサイ人達は、イエス様が離縁についても女性の立場を尊重した答えをするに違いない、律法で定められていることと食い違うに違いないから、指摘して揚げ足をとってやろう、と考えました。イエス様は彼らの意地の悪い質問の意図を十分わかっておられたの上で、そもそもの神様がどのようなお考えを持って結婚の制度を定められたのか解き明かされました。
まず、エデンの園で人間が作られ、神様に愛されて暮らしていた時のことをお話されました。男と女との関係は、自らの欲望を満たすためではなく、お互いに支え合い、仕えあうため、お互いが一つとなって歩んでいくことために作られた、と教えられたのです。そしてその関係は神様が結び合わせてくださったものだから、人間の勝手な利害関係で離婚するのは御心ではない、とも言われたのです。ファリサイ人たちはイエス様の確信を持ったお言葉に驚きつつも、文句をつけることはできなかったことでしょう。
しかし、このお話はイエス様の弟子達にも衝撃を与えました。彼らは家に帰ってから、もう一度このお話について尋ねました。そこでイエス様はもう少し踏み込んで教えられました。「夫であれ妻であれ、自分の勝手な都合で配偶者と離婚するなら姦通の罪を犯すのと同じだ」と言われたのです。同じ出来事を記したマタイ福音書は弟子達はこの教えに対して、「それじゃあ結婚しない方がマシだ」と口答えしています。しかしイエス様が弟子たちに教えようとされたのは、弟子達の男性中心の考え方を改めなさい、ということだけではありませんでした。
旧約聖書には、妻や夫に不誠実な人間がしばしば登場します。配偶者から愛されているにもかかわらず、他に恋人を作って姦淫を行い、ひどい裏切りをするのです。これが何を意味しているかというと、神様から愛されているにもかかわらず、他の神々や権力、金銭に心惹かれる人々を表しているのです。実際の歴史の中で、まことの神様を忘れて他国の神々に頼ったり、さまざまな権力に擦り寄った結果、何度も国が滅亡しかかっていることがわかります。その度、神様はご自分の民に向かって、浮気をされた夫のように嘆き悲しみつつも、もう一度やり直そう、と手を差し伸べられるのです。
イエス様がご自分の弟子達に理解してもらいたかったのは、そのような神様からの呼びかけに誠実に答え、権力や金銭に目移りすることなく、信仰を持って歩んでいくことだったのです。
しかしこの時期の弟子達は、素朴な信仰を失いつつありました。イエス様に王様になって頂き、自分たちはその側近として出世することに気持ちが奪われていたのです。その心得違いがよく表されているのが、イエス様の元に集まってくる子ども達を追い払おうとした箇所に出ているのです。
子ども達の親にどういう思惑があったかはわかりません。しかし連れて来られた子ども達は、ただ単にイエス様のことが好きで、一緒にいたら、楽しくなる、安全だと思ったことでしょう。信仰なんか分からないかも知れないし、大人の考えや計算なんて知ったことではない。イエス様のそばにいることが安心なんだ、平安なんだ、その単純な信仰に生きており、イエス様も、その信仰を喜ばれたのです。
私たちは、ただイエス様だけを信じて生きる、神様の祝福を日々いただいているのですが、イエス様の弟子達がそうであったように、時折それを忘れてしまいます。しかし幸いなことにこの教会は、幼児の姿を見て、信仰を取り戻すことのできる幸いな環境の中にいます。
わたし達の教会、幼稚園は多くの苦難がありましたが、今は話し合い、祈りあい、共通の目標に向かって進んでいます。神様が私たちを愛してくださり、祝福された未来がここにあります。これから100年、200年先、また、世の終わりがやってきても、ここには、イエス様によりて神様の愛に応え、神様を信じぬいた人々が集い続けたことを語り継ぎ、変わらぬ祝福を示して参りましょう。
10月2日は本当に久しぶりの土曜学校でした。
コロナのため、8月、9月がお休みになったからです
ローズウインドウを作りますよ、と予告して三ヶ月
やっと制作することができました
…が、あいにく子ども達の通う小学校は
運動会のところが多く
成立するのかと気を揉みました
飯田市内のすべての小学校が運動会だったわけではなかったようで
やる気満々のメンバーが集まってくれました
薄紙を切って作るローズウインドウ 光を通してみると綺麗です |
光を通さないと切り紙細工です これもまた綺麗です(^^) Mちゃんは元気なビタミンカラーをチョイス |
こちらは優しい色使い 同じように作っても個性があります |
個性豊かなK兄弟 最後まで頑張りました |
薄い紙を折ってからハサミで好きな形に刻みを入れ そっと開き、丸い枠にノリで貼ります 慎重に作業中の一コマ |
可愛らしい色をチョイス |
C君の切った形は思い切りが良くてかっこいい! |
Mちゃんの作品はいつも丁寧でおしゃれです |
最後は神様にお祈りです 怪我もなく楽しく制作させてくださって ありがとうございました また来月ね |
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