2019年4月28日日曜日

墓前礼拝&清掃奉仕

今日は礼拝の後、有志の方達と「日本福音ルーテル飯田教会墓地」に
出かけました。
お墓をきれいに清掃した後、墓前礼拝を行いました。

落ち葉や雑草を片付け、きれいになった墓地で
ともに賛美歌を歌い、御言葉に聞きました。
参加された皆様、ありがとうございます。お疲れ様でした。




※Yさんが顔出しNGということで加工しましたが、おかしな加工で申し訳ありません



エマオへの道(お話の要約)

復活後第一主日礼拝(白) (2019年4月28日)
使徒言行録5:12-32 黙示録 1:4-18 ルカ24:13-35


 一般的に「道」という言葉は、なんとなく「人生」というニュアンスを感じさせます。「通ってきた道」を振り返る時、いつも前向きで何でも計画通りにうまくいき、自分の思うままに生きてきたという方はごく少数で、大多数の方は挫折を味わったり、お先真っ暗とか、途方に暮れた、と言った経験もおありだと思います。

 「信仰を持っている人間が途方に暮れるなんて間違っている」そう思う方もおられるかもしれませんが、人の心というのはそんなに簡単なものではありません。むしろ何かにつけて痛みを感じることの多い人生だからこそ、信仰によって慰められたり、立ち直りを促されたりするものでしょう。
 本日の話は、途方に暮れる人への励ましの出来事であり、支えとなる出来事でもあります。

クレオパ達がエルサレムを離れ、エマオという村へ向かったのは、イエス様が十字架の上で亡くなってから3日目の夕方のことでした。
失望しきって、他の弟子達とも離れてエルサレムから抜け出し、12キロほど離れたエマオの村に向かいます。どちらかがこの村の出身だったようです。故郷に帰り、これからどうやって生きていくべきか改めて考えようと、トボトボとエマオへの道を歩いていたのです。
 ただ、ユダヤ人という人種は議論が好きだと言われている通り、この時もただ愚痴をこぼし合っていたのではなく、イエス様の身に起こった一切の出来事について、なぜこうなったのか、どこで間違ったのか、と言ったことを論じ合っていたようです。
 そんな彼らの傍に、いつの間にかもう一人の旅人が寄り添ってきます。それはイエス様だったわけですが、聖書には「二人の目は遮られていて、イエスとは分からなかった」と書かれています。イエス様が変装していたから見分けがつかなかった、というのではなく、彼らの信仰に問題があってイエス様とは気付けなかったのだ、ということをそれとなく伝えています。
 それはともかくとして、この不思議な旅人は、クレオパ達の会話を耳にして「それはなんのことですか?」と尋ねてきます。二人は暗い顔をして立ち止まり「エルサレムに滞在していたというのに、あんな大騒ぎを知らなかったのですか」と、少し咎めるかのように聞き返します。

 クレオパ達は、突然話しかけてきたこの旅人の目的もわからないまま、ついついイエス様のことを話し始めます。自分たちがいかにイエス様を信頼し、イスラエルを解放してくださる方だと望みをかけていたか、そして、イエス様のご遺体が消えてしまったということまで、とうとうと語ります。
 しかしここで、不思議な旅人が口を開きます。開口一番「あなた達はなんて鈍いんだ」と一喝されます。それを聞いたクレオパはあっけにとられたことでしょう。しかし旅人は続けて「救い主というものは、苦しみを受けることで神様の素晴らしさを現すことが決まっています」と教えられ、聖書を自由自在に引用しながら、救い主について語り始めたのです。
 何しろイエス様ご自身がご自身について語っておられるのです。裏切りに逢うことも、十字架に掛かることも、そして、復活して弟子たちにその姿を示されることも、全ては救い主が目的を達成するために必要な計画だったのだ、遠い昔から聖書にそう約束されているのだ、と、力強く威厳を持って言われるのです。その言葉にクレオパ達は圧倒されて行きます。
 
 やがて目指す村に到着します。弟子達は前もって宿泊する場所も決めていたようでした。予定ではそこで人目を避けて、暗く沈んだ夕食をとるはずだったのですが、二人とも、今は不思議な旅人の話がもっと聞きたくて仕方ありません。村についてもなお先に行こうとする旅人を必死に引き止めます。
 夕食が始まりました。本来なら、パンを裂いて渡すのは、人を招いた側がする仕事です。しかしイエス様は、まるでご自分がその家の主人であるかのようにパンを裂き、二人の弟子に配られたのです。
 その仕草は弟子達にとって見慣れたものだったことでしょう。クレオパともう一人の弟子は、この振る舞いを見た瞬間、一気にイエス様の記憶が蘇ります。そして、今まで一緒にいた旅人がイエス様ご自身だと気づくのです。
 彼らは、イエス様が復活なさったこと、それも弟子に恨み言を言うために化けて出たのではなく、かつてと同じように弟子達一人一人を愛し、招こうとしているお姿に気づくのです。ああ、この方はイエス様だ、そう気づいた途端、イエス様の姿は二人の前から忽然と消えてしまいます。
 イエス様は、ご自分は今も生きていて、あなた方を愛している、と言うメッセージが伝わったとお分かりになると、この場での働きは終わったと言わんばかりに姿を消されたのです。
 しかし二人の弟子は、肉体の目でイエス様を見られなくなった後、むしろイエス様の蘇りと存在をはっきり感じられるようになります。先ほどイエス様が語ってくださった聖書の御言葉の一つ一つを思い出すたび、心のはイエス様への愛と情熱に燃えました。そしてこの大切な知らせを仲間に伝えなくては、と、いてもたってもいられなくなります。
 もう夜も更けているにも関わらず、真っ暗な道をおおよそ12キロ、ダッシュでエルサレムへとって返すのです。先ほど暗い顔をしてとぼとぼ歩いた時とはまるで別人のような彼らの姿がそこにありました。
 こうして、息せき切ってエルサレムに戻ったクレオパ達は隠れて閉じこもっているペトロ達、他の弟子達に自分の経験を伝えるのです。
 弟子達が味わった苦難も、恐怖も、失望も、すべて神様の計画だった、というと神様が意地悪な方のように思えるかもしれません。しかしイエス様ご自身が、最低最悪の苦難の中にも神様がいてくださることを、身を以て証明してくださいました。それを知った時、弟子達はイエス様こそ苦難の中にある自分たちに寄り添ってくださる、ただ一人の神であることを理解していくのです。

 私たちが弱い時、信仰に躓いた時、そのような私を放っておかれる神ではありません。寄り添い、癒し、強めてくださるのです。一番辛かった時に一番近く寄り添ってくださる神の存在を知った時、私たちは苦しむ人に神を知らせる者へと変えられるのです。世の中の人々が神様がいないと嘆けば嘆くほど、私たちは自分の経験を通して神様を伝えて行きましょう。
 希望を失い、挫折して、暗い道をとぼとぼと敵前逃亡してきた自分であっても、復活のキリストに愛されていることを改めて知った時、同じ苦しみの中にある仲間を助けるために走って引き返せる、それが私たちの群なのです。
私たちの人生は主イエス・キリストに用いられて初めて輝きを増すのです。その途上において、途方にくれることがあっても、主イエスが必ず導いてくださることを信じて共に祈り、復活の主イエス・キリストを共に信じる喜びを増し加えて参りましょう。





2019年4月25日木曜日

教会学校のお知らせ

イースターの朝、9時30分からの教会学校の時間に、たくさんのお友達と保護者の方が集まってくれました。礼拝の後は園庭で卵探し。楽しい時間を過ごしました。

大型連休が始まりますが、教会学校はいつも通りの時間に行います。
礼拝堂でみんなを待ってます。
5月から始まる土曜学校にも来てくださいね。




2019年4月21日日曜日

「イースターの喜びをあなたとともに」(お話の要約)

復活祭・職員就任式Ⅱ・聖餐式(白) (2019年4月21日)
出エジプト15:1-11 コリⅠ 15:21-28 ルカ24:1-12


 イースターおめでとうございます!

 推理小説やドラマの手法の一つに、被害者が犯人の手掛かりを残す「ダィイングメッセージ」があります。犯人の頭文字であったり、握った手の中に残されたボタンであったり、死の間際に呟いた言葉であったりします。それがはっきりと犯人を指し示すなら事件は即解決ですが、それでは物語にならないので、敏腕刑事なり探偵なりが登場して、亡くなった人はなぜこのメッセージを残したのか、と推理していくわけです。

 福音書にはイエス様が十字架の上で息をひきとるまでに語られた言葉がマルコ、ルカ、ヨハネ合わせて7つあり、それらは「十字架上の7つの言葉」と呼ばれています。これらは、いわばイエス様の愛に満ちたダイイングメッセージなのです。

 7つの御言葉は、ルカ福音書23章34節の「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」から始まって、同じくルカの福音書23章46節「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」で終わっています。

 当時イエス様の身近にいた人々からみれば、イエス様は人気絶頂の座から転がり落ちて、不当な裁判の末に殺されたわけです。イエス様を愛する人々は涙を流し、恐怖と絶望に顔を引きつらせていました。ところがイエス様ご自身は、恨み言を呟くどころか、苦しい息の下でも気高い言葉を口にしておられます。

 そばで立ち会ってイエス様の言葉を耳にした兵隊たちは、イエス様のあまりにも立派な御最後に、「こんなことができるのは、この人に本当に罪がなかったからに違いない」と確信するのです。それで、マタイ福音書とマルコ福音書では百人隊長は「本当にこの人は神の子だった」とつぶやいています。

 一方、イエス様の弟子たちは、特にほとんどの男性の弟子たちは、自分たちも逮捕されるかもしれないと恐れ、とっくに逃げ去っていました。彼らは大切な十字架上のメッセージを聞き漏らしてしまったのです。
 また、女性の弟子たちも、イエス様が息をひきとるまでメッセージをはっきり聞き取ることができるほどには十字架に近づくことは許可されなかったようです。ですからイエス様を愛していた人々は、ただただ恐れ悲しみながら家に帰り、全ての希望を失って、閉じこもるしかなかったのです。
 三日目の朝、まだ暗いうちに、女性の弟子たちは、イエス様のご遺体に塗るための香料を準備して墓に向かいました。彼女達の心の中には「辛い亡くなり方をされたイエス様の魂を慰めて差し上げなければ」という思いがあったのでしょう。「おかわいそうに」という気持ちに突き動かされていたと言えます。
 そんな彼女達を御使いが待ち受けていて、「あのかたは三日目に復活されることになっていると言われていたでしょう」と告げます。それを聞いた彼女達は、イエス様の言葉を思い出し、大急ぎで男性の弟子達にこのことを知らせたのでした。
 一方、墓に近づきもしなかった男性の弟子達は、イエス様は相当な恨みを抱いていたに違いないと勘違いしていました。イエス様はさぞ無念だったろう、この世に恨みを残して亡くなられただろう、お守りすることのできなかった自分達のこともさぞ恨んでおられるだろう。そんな風に思っていたのです。ですから、この少し後、イエス様が彼らの前に突然現れた時には、本気で亡霊だと思い込み、言葉は悪いですが「化けて出た!」と思い込んで恐れおののいたのです。

 それでも女性達から復活の報告があった時、ペトロとヨハネだけは墓に走ります。しかしこの時はイエス様にも御使いにも会うことはできませんでした。ペトロは、自分の命を惜しんでイエス様を見捨て、みすみす死なせてしまったことに強い後悔とを感じており、自分は決して赦されない、という思いを抱いていました。
 しかしルカ福音書には、最後の晩餐の折、「鶏が鳴く前にペトロがイエス様を3度否定する」と予告しつつも「あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直ったら仲間も力づけてやりなさい」という、力強く温かいお言葉が語られています。

 ペトロだけではなく、すべての人間は、自分の力だけで神様に赦してもらうために何かができるということは決してありません。神様から赦しを勝ち取るためには人間の行うどんな苦行も全く役に立たないのです。ただ、イエス様の「赦しているよ」というお言葉を信じるだけなのです。

 イエス様の十字架上でのダイイングメッセージは、犯人を指し示す暗号ではありません。私は誰も犯人に定めない、私は全て赦している、という愛のメッセージなのです。ピラトも、祭司長も、イスカリオテのユダも、ペトロも、そして私たち全てがそこに含まれるのです。
 私たちの生きているこの世では、数え切れないほどの苦難があります。誰かに裏切られ、なんとかして憎い相手に一泡吹かせてやりたいと思い、一方でクリスチャンなのにそんな思いを抱いていいのかと苦しむ。しかし抑えても抑えても憎しみが湧き上がってきて、忘れることも赦すこともできない。
 自分はその程度の人間であり、神の愛に値しない、と思う時、私たちはイエス様に頼るのです。こんな私でも受け入れ、愛してくださいますか?赦してくださいますか?と問いかけるのです。
 自分自身に絶望して涙を流し問いかける私たちに、イエス様は十字架の上からあの7つのみ言葉の一つを用いて答えてくださいます。「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」この御言葉によって、イエス様と共にいる場所は、この世においても楽園なのだと、私たちは知るのです。

 イースターは、ただ単にイエス様が死んで復活されたことを祝うだけの祝日ではありません。私たちを打ちのめし打ち倒すこの世の恨みや妬み、苦しみの全てが、イエス・キリストによって克服されたことを知り、祝う日なのです。

 イースターおめでとうございます。イースターの喜びをあなたとともに。



2019年4月14日日曜日

「ちいろば、イエス様をお乗せする」(お話の要約)



受難(枝の)主日礼拝(紫) (2019年4月14日)
ゼカリヤ9:9-10 フィリピ 2:6-11 ルカ19:28-48


 今日の聖書箇所にはロバ、それも子ロバが出てきます。この子ロバは親しみを込めて「ちいろば」とも呼ばれています。ロバというのは元来、頑固で融通がきかず、気性も激しいとも言われています。馬に比べて小さいので、かわいいな、と近づいてなでようとしたら、がぶりと噛まれたという人の話を聞いたこともあります。

 もちろん調教さえすれば人を乗せることはできますが、馬のように従順ではなく、乗り手と呼吸を合わせるような作業は苦手で、何か絶対的な安心感が感じなければ、上手に操ることは難しいそうです。

 ましてや「まだ誰も乗ったことのない子ろば」です。ところがそんなロバを、イエス様は完全に乗りこなしてしまわれました。 

 聖書に登場する小さなロバ、チイロバは、今自分がお乗せしているその方が、数日の後に十字架にかかるなどとは思ってもみなかったことでしょう。ただイエス様の、威厳がありつつも優しさに満ち溢れた姿、その信念に圧倒されて、チイロバは自分がチイロバであることすら忘れて、イエス様の召しに答えて誇りを持って一歩一歩、歩いていったことでしょう。

 その道の続きを、今度はイエス様は何にも乗らず、十字架を担いで、歩んで行かれたのです。ゴルゴダ、つまり「されこうべ」という死を意味するところの場所に向かって、神様を信じて、神様が共にいてくださることを信じて、孤独な歩みを続けられたのです。
 もしチイロバがそのお姿を目撃したなら、あまりの落差に衝撃を受け、何が何だか分からなくなったことでしょう。
 しかしチイロバと共に歓声で迎えられた時も、血と汗でドロドロになりながら十字架を担いで歩いた時も、イエス様ご自身は何一つ変わりませんでした。栄光の時も、絶体絶命の時も、イエス様は変わらず神の子であり続け、ひたすらご自分の使命を果たすため歩まれたのです。そしてその過程で、全ての苦しみを身をもって経験されました。だからこそ、私たちの人生の良い時も悪い時も、心から寄り添ってくださることがおできになる方なのです。
 私達は頑固で臆病なロバのような存在です。良いときは何でもできるような気分で気が大きくなりますが、何かに挫折すると急に臆病になり、不安でいっぱいになります。それでも私たちはイエス様に招かれた者達です。一人一人がイエス様をお乗せしているんだと信じ、イエス様の重みを感じるように日々歩んで行くのです。
 歓迎の声も、嘲りや侮辱の声も、イエス様の重さと温もりを覚えてつつ、一歩一歩信じて歩んで行こう。たとえ弱々しいな、頼りないなという声が聞こえてきても、イエス様をお乗せして最後の時まで運び切る、その大役を果たすことが、私達の役割なのです。
 イエス様をお乗せするロバ達として、祈りつつ歩んでいきたい、その祈りや願いが叶えられていくことを覚え、新しいこれからの日々を共に前を向いて進んでまいりましょう。



※「ちいろば先生」こと榎本保郎先生は実在の牧師です。三浦綾子著「ちいろば先生物語」でこの呼び名が広まったのだと思います。興味のある方は是非お読みください。


2019年4月12日金曜日

イースタープログラムのお知らせです



掲示板の説教題の横に貼るために、縦書きのお知らせを作ってみました。
お向かいにある高齢者施設の皆さんの目にも止まることを祈りつつ。

2019年4月9日火曜日

はじめまして!朝比奈です

  神様のめぐみが皆さまの心に豊かに与えられますよう祈りつつ。
 この4月から飯田の地でお世話になります朝比奈晴朗(あさひなはるお)です。よろしくお願いします。
 出身は大阪、ルーテル大阪教会で中学時代に洗礼を受けました。
 18歳で上京し、当時ルーテル神学大学と呼ばれていた現在のルーテル学院大学で社会福祉を学びました。その後キリスト教視聴覚センター(AVACO)で働いていましたが、31歳の時に牧師となりました。
 牧師になる学びをしている時、以前こちらで牧会しておられた小嶋牧師から教会学校のキャンプを手伝うようお招きをいただき、関わらせていただきました。20年以上の前のことなので、記憶は定かではないのですが、礼拝堂の入り口の木の扉や、渡り廊下はよく覚えています。
 その後、神戸で9年、熊本で5年、名古屋で6年の牧師としての歩みをしてきました。現在51歳です。これまで牧師として20年間経験し学んだこと、幼児教育、社会福祉関連の知識や経験を生かして、ご一緒にキリスト教を軸とした愛と平和に満ち溢れた場所を築き上げられることを願っています。
 皆さまと共に、そしてイエス・キリストと共に、喜びと感謝と祈りに満ちた時を飯田の地で末永く重ねて行けますよう祈っています。