2020年9月29日火曜日

考え直す勇気(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第17主日礼拝(2020年9月27日

エゼキエル書18:26-28 フィリピ2:1-2 マタイ福音書21:28-32


 本日の福音書は、イエス様のたとえ話にもよく登場する「ぶどう園」が舞台です。この物語は、イエス様をおとしめようとする祭司長と民の長老たちに向けて語られています。ということは、イエス様はこのお話に厳しいメッセージを込めようとしておられことが予想できます。

 お話の中の「ある人」とはもちろん神様のことです。神様が直接、ご自分の息子たち、すなわち人間たちに「ぶどう園で働きなさい」と声をかけておられます。これに対する人間の反応は2種類です。「嫌だ」と言いつつ、考え直してちゃんと働いた人と、「やります」と言っておいて何もしなかった人に分かれたのです。


 実は本日の旧約聖書のエゼキエル書にもふた通りの人物が出てきます。一人目は「正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬ」パターンです。この人は「自分が行った不正のゆえに死ぬ」と神様に宣言されています。

 二人目は「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行う」パターンです。神様は、悔い改めて背きから離れた人は、救われて生きる、と言われます。

 エゼキエル書はイエス様の時代から500年以上前に書かれた預言書です。神様はイエス様を地上にお遣わしになる数百年も前から、預言者を通して「悔い改めて背きから立ち直れ」と呼びかけておられたのです。そして今日読んでいただいたところの少し先ですが、神様は「従わないなら滅ぼす」とはおっしゃっていません。「私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ」と言われるのです。

 神様が私たち人間に悔い改めることを望まれる理由はただ一つ、私たちに生きて欲しいからだ、と預言者エゼキエルの口を通して語りかけてくださるのです。

  

 本日の福音書を書いたマタイは、子どもの頃から宗教教育を受けてきましたが、一旦はそれを捨てました。ユダヤ人でありながらローマの手先、徴税人となり、同じユダヤ人からから罪人とされました。しかし欲するものを得ても満たされないことに気づいた時には、もう引き返せないところまで来ていたのです。自分の人生を諦めていた時に、神の国に来いと呼びかけてくださったのがイエス様だったのです。このお話に2度出てくる「考え直して」という言葉は、そんなマタイの心情を反映しているのでしょう。

 マタイは、イエス様の導きによって悔い改め、つまり「考え直す」力を与えられ、神様のために働く道を選んだのです。エゼキエル書の言葉で言うなら「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行う」、まさにそのような人生に足を踏み入れたのです。

 一方、このお話を聞いていたのは、先ほど言いましたように祭司長と民の長老たちです。彼らはその時代のエリートたちで、神様のお言いつけにしたがって生きてきたと自負していました。しかし彼らはイエス様を神様とは認めず、その教えを受け入れようともしませんでした。

 彼らは自分たちのしていることが神様のお働きを妨害していることになっているとは思わなかったかもしれません。それでもイエス様を迫害することは神様の愛を拒否することと同じでした。

 では、この人たちはエゼキエル書にあったように、「自分が行った不正のゆえに死ぬ」という運命なのでしょうか。


 注意していただきたいのは、この時イエス様が「徴税人や娼婦たちの方があなたたちより先に神の国に入る」と言われたことです。これは徴税人や娼婦たちだけが救われる、という意味ではなく、この人たちが率先して導くという意味なのです。

 イエス様に示され、祭司長や民の長老たちもまた、自分が傲慢で間違っていたと気づいたなら、そこから考え直して神様の深い愛との結びつきを取り戻せるはずなのです。神様は「私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ」と呼びかけられる方だからです。


 イエス様に導かれるなら、誰もが赦された者へと変わり、喜びをもって、神様の御心を行える者へと変えられていくのです。その過程は凸凹と曲がりくねっていて、舗装された一本道のを歩くようなわけにはいかないかもしれませんが、確実に神のぶどう園へと、天国へとつながっている道なのです。



近くの「りんご並木」と呼ばれる植え込みの
りんごも色づいてきました


散歩コースにある公園の噴水も
爽やかに秋を演出しています


隣の空き地では「ガウラ」が花盛りです



西日本で生まれ育つと

りんごが木になっているのはとても珍しい光景に見えて

なんどもシャッターを切ってしまいます

2020年9月22日火曜日

神様の思いは(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第16主日礼拝(2020年9月20日)

ヨナ書3:1-5 フィリピ1:21-24 マタイによる福音書20:1-16

2020年9月17日木曜日

9月5日の土曜学校の報告

主題聖句
:主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 
 (詩篇23編1節)
賛美
:フットプリンツ
 さあ賛美しよう
礼拝出席
 :子ども 土曜保育7名
      教会学校11名 
  おとな 8名

製作は「ローズウインドウ(もどき笑)」
教会学校のメンバー11名が参加

送ってきた保護者の方がそのままいてくださり
制作をサポート
教会からも2名お手伝いに来ていただき感謝です

子どもたちの作品、見てくださいね


















2020年9月13日日曜日

主イエスの赦しは(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第15主日礼拝(2020年9月13日)

創世記50:19-21 ローマ14:1-4 マタイによる福音書18:21-35


 本日の福音書で、ペトロはイエス様に「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか?」と疑問を投げかけます。

 ペトロをはじめとする弟子たちはユダヤ人として律法で決められた罪のさばき方は知っていましたが、イエス様はその掟が厳しすぎたり不条理だったりする場合、そこに愛を加えて判断なさいました。ペトロとしては、今までのユダヤ教の掟に従っていくのではなく、イエス様の教えに従っていきたいと考えていました。


 ユダヤ教の教えの中には「過ちは3度ゆるせ」と書かれていたそうで、すが、ペトロはイエス様の寛大さに惹かれていましたから、最大限譲歩して、ユダヤ教の教えに4回上乗せして、7回という回数を考え出し、イエス様に「7回赦す、というのでどうですか?」と問いかけたのです。

 しかしイエス様のお答えはペトロの予想をはるかに超えていました。「7回どころか7の70倍まで赦しなさい」とおっしゃったのです。これは490回という意味ではなく、「無限に赦しなさい」ということです。

 しかも、イエス様の言われる「赦し」とは、罪を犯したものを放任するのではなく、その人が悔い改めるために、しっかりと寄り添うことを求める「赦し」でした。赦すという行為は、「赦す側」に犠牲と覚悟が必要である、とお教えになったのです。

 その上で、イエス様はもっともっと深いお話をなさいました。あなたがたは自分が赦す立場だと考えているが、実は神様の無限の忍耐によって赦された存在なのだ、言われます。それを気づかせてくださるために「仲間を赦さない家来」の例え話をしてくださったのです。


 例え話には家来に金を貸した王様が登場します。その家来は王様に1万タラントンもの借金がをしていました。円に換算すると、30億円位だそうです。どう考えても返せない額であることを表しています。王様は家来に、自分も妻も子も、持ち物も全部売って返済するように命じました。

 するとこの家来はひれ伏し「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と必死に願います。家来の態度を見た王様は、憐れに思って、心から同情して彼を赦し、その借金を帳消しにする決断をします。

 この憐みというのは、内蔵が痛むという意味で、完全に相手の立場になるということです。こうして王様は、彼が借金したことを忘れ、元どおり家来として雇い入れ、借金は自分が肩代わりしたのです。

 ところが、この家来は外に出ると自分に百デナリオンの借金をした仲間に出会います。日本円で50万円〜60万円くらいです。安くはありませんが、王様から帳消しにしてもらった30億円と比べれば小さな額です。しかし家来は、自分が王様から赦されたことはすっかり忘れ、仲間が必死で「待ってくれ」と頼むのもかまわず、彼の首を絞め、引っ張っていって牢に入れたのです。

 これを見ていた他の人々は心を痛め、王様にこの事件のことを残らず告げます。その結果、この家来がどうなったかは皆様も読んだ通りです。

 なんて愚かな家来なんだろう、そう思うのは簡単です。しかしイエス様は自分の身に当てはめて考えてみなさい、とおっしゃいます。私は犯罪者ではないし、誰かからお金も借りていないから関係ない、と思われるでしょうか。いいえ、私たち一人ひとりはイエス様に到底お返しできない借りがあるのです。


 イエス様が十字架に掛かられたのは、「人々の罪のため」というのは模範解答ですが、もっと正しく言うならば、「私の罪のため」です。イエス様は誰か他の人のためではなく、まさに私のために、そしてあなたのために十字架にかかられたのです。

 かつて私たち一人ひとりは、やがて命が終わる日が来るまで怯えながら待つしかできませんでした。地獄や死後の裁き、自分が消えて無くなる恐怖、そんなものに縛られていたのです。しかしイエス様は私たちに永遠の命の約束をしてくださいました。私たちが死んだ後、聖められて天国に迎え入れられるために、イエス様ご自身が大きな罪も小さな罪も全てご自分の身に負われ、私たちの身代わりとして十字架にかかってくださったのです。私たちは、このご恩を永遠にお返しすることはできません。

 私たちが自分のことを愚かで価値のない人間だと思っても、イエス様はそのはらわたが痛むほどに憐れに思い、赦してくださったのです。この感謝の心を忘れずに、私も主が与えてくださった隣人と共に、愛と見守りの精神で生き、悔い改めに共に導かれ、群れが形づくられることを喜ぶのです。




3日の礼拝は牧師が所用で

緊急に大阪や名古屋を往復したため

教会役員に司式と説教代読をお願いしました


3日の礼拝は牧師が所用で大阪や名古屋を往復したため 教会役員に司式と説教代読をお願いしました



牧師夫妻は牧師館からスカイプで参加しました
ご配慮、ご協力ありがとうございました



2020年9月7日月曜日

あい はたらきて(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2020年9月6日)

エゼキエル書3:3-11 ローマ13:8-10 マタイ福音書18:18-20


 私たち人間は、血の繋がった親子、兄弟、家族と言えども、顔も違えば性格も違います。もちろん夫婦でも違います。よく「価値観が違う」と言いますが、人間というのは一人一人、考え方が違うものなのです。

 聖書には、神様が男と女を創った時からそうであったと記しています。エバは神様から禁じられていたにも関わらず、蛇の「賢くなれる」という言葉をあっさり信じ、禁断の木の実を夫と仲良く分けて食べたのです。興味深いのは、この時エバは独り占めせず、アダムと分けて食べようと考えたのです。それだけ、この木の実を食べる以前の人間はピュアだったと言えます。しかしどれほどピュアであろうと、神様よりも蛇の言葉を信じたのは致命的な誤りでした。

 神様は何よりも人間の幸せを考えてこの楽園に住まわせてくださったのに、人間は神様を疑い、裏切り、自分から楽園を去る道を選んでしまったのです。私たち人間は、神様が自分を愛し、関わってくださることをしばしば忘れ、その手を振り払って、自分が正しいと思い込んでいることを優先しようとするのです。


 神様は人間をお作りになった時、なんでも神様の命令に従うお人形のような存在にしようとは思われませんでした。二つの選択肢があったとして、自分で考えた上で神様のお考えを尊重する存在であってほしいと願って「自由な意思」と言うものを人間に与えられたのです。

 この「自由意志」は、最初の人アダムとエバのエピソードが示すように、人間にとって悪い結果、悲劇的な選択になることもあります。それでもなおも、神様は人間を放っておくことはできず、再び良い結果へと導こうと、語りかけ続けてくださるのです。

 こうした深い深い時の流れが、旧約聖書から新約聖書に渡って、書き記されています。聖書を通して神様のメッセージは人々に読まれ、学ばれ、祈られ、行われ、繰り返し繰り返し人の世界や考え方に影響を与えました。大きく間違っても悔い改めて軌道修正していくしていく力は聖書を通して私たちに与えられています。


 本日読みました福音書の中で、イエス様は私達にこうおしゃっています。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれを叶えてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 イエス様の時代、ローマという強大な軍事国家が世界を治めており、ユダヤの国もその支配下にありました。ユダヤ人たちは独立を求めていましたがうまく行きません。その上、彼らは神様の前に本心から悔い改めることを忘れ、神殿さえ豪華に保っていれば神様が守ってくれるという間違った思い込みを持ち、祖先からの信仰の本質を失っていました。

 西暦70年、ユダヤの国はローマに完全に滅ぼされ、神殿も壊され、ユダヤ民族は散りじりになります。普通なら民族ごと消滅してしまうような事態です。ところがユダヤ人たちは度重なる迫害にも関わらず21世紀の今日も民族としての形を保っています。これは世界に類を見ません。それは彼らが旧約聖書を大切にし、神への信仰を持ち続けたからです。

 ただ、そうは言っても当時のユダヤ人たちの願い、「自分たちの神様はローマに勝利してくださる」という祈りは全く聞かれなかったではないか、と思うかもしれません。しかし、そうではないのです。


 イエス様は当時、ユダヤ教の間違いを正し、逆にユダヤ教徒に憎まれ、十字架にかかられました。イエス様が復活なさり天に帰られた後は、その教えは弟子たちによって広められました。最初は2人、3人と集まって祈る小さな群れによって伝えられたその教えは、やがて民族を超えて宣教師、違いを認め合うキリスト教となって、世界に伝わっていきました。そしてユダヤの国を迫害したローマはキリスト教を自らの国の宗教とし、神の教えの前にひざまずいたのです。

 かつてユダヤの人々は武力によってローマを叩き潰すことだけを考えていましたが、イエス様を信じる人々は武力ではなく聖書の伝える愛の力こそ、勝利を産むことを確信したのです。

 私達は自分の価値観、自分の考え方から離れることができません。自分は正しい、いう思いをなかなか変えられませんが、神様はその思い、その祈りを全て受け止めてくださいます。私たちが自分の考えに固執するがゆえに感じる、悪いことも良いことも、神様の手によって全てはあいはたらきて、私たちの人生の中でもっとも良い形となるのです。 



昨日は堅信式と洗礼式がありました
お母さんが堅信礼を
そのお子さんが幼児洗礼を受けられました



神様の愛の中で
すくすく大きくなりますように





 

2020年9月5日土曜日

十字架を背負う(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2020年8月30日)

エレミヤ書15:19-21 ローマ12:15-17 マタイ福音書16:21-28

 「十字架を背負う」という言葉は辞書には「耐えがたい苦難を負うこと」と記されており、責任ある仕事に就いた時、その苦難を表す言葉として使ったりします。また重い病気や障害を負った時などにも「これが私の十字架です」などと使われて、意味はわからなくはないのですが、なんとなく違和感を覚えることがあります。

 クリスチャンは十字架を信仰のシンボルとして大切にしています。元々はイエス様が磔になった道具です。本日はご一緒に、本来死刑の道具であった「十字架」を「背負って」イエス様についていく、とは何を表しているのか、ご一緒に聞いてまいりましょう。

 先ほど読みました福音書では、イエス様は弟子たちに対して「自分の十字架を背負って」と表現されましたが、もちろんイエス様は比喩的な表現として「十字架を背負う」という言葉をお用いになったのです。ご自分は十字架で命を落とすことを知っておられましたが、弟子たちに同じように殉教を進めた言葉ではありませんでした。


 ユダヤ地方を監督するためにローマから派遣された総督、ポンテオ・ピラトは、イエス様が自分の元に連行されてきたとき、イエス様に死刑に値する罪はなく、何かユダヤ人の間に陰謀が有ることを見抜きます。そこで何とかイエスを処刑しないで済むようにユダヤ人を説得しようとしますが、ユダヤ人たちは譲らず、「十字架につけろ」と叫び続けました。

 ユダヤの一般的な死刑は「石打」といい、下半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に、大勢の人々が石をぶつけて死に至らしめる処刑法でした。罪人が即死しないよう、握り拳程度の大きさの石打ち用の特別な石を山盛りに準備していたそうです。相当に残酷な死刑と言えます。

 一方十字架刑はもともとローマが国家への反逆者を見せしめにするために支配する属国に対して行った死刑方法です。ユダヤ人たちはその死刑方法をイエス様に要求しました。

 木にかけられるという死に様は、ユダヤ人にとっては神にも見捨てられた最低の死を表しました。旧約聖書の申命記21章23節に「木に架けられた死体は、神に呪われたものである」と書かれています。ですからユダヤ人にとって十字架刑は石打よりも屈辱的な死に方でした。それを承知の上で同胞たちは十字架にかけろと叫んだのです。


 このようにして、イエス様は神からも同じユダヤ人からも徹底的に見捨てられ、名誉も信仰も何もかも奪い取られてローマに屈する形で、ユダヤ人として最低の死に方を選びとられました。

 しかし、全てはご計画としてイエス様の内側にありました。イエス様が地上に生まれる前から神様に定められていたのです。イエス様は人間の愚かさというものを知り抜いておられました。仲間同士でも、ほんの少しの心のすれ違いがきっかけで命を奪い合うような戦いを繰り広げるのが人間です。人は赦し合い、受け入れ合うより、憎み合い、罵り合い、排除し合うのが得意なのです。

 人間社会の中で争いに敗れ、どん底に落とされた人間は、自ら死を選ぶか、他人を憎み呪い、人としての心を失って生きていくかのどちらしかないのです。しかしイエス様はそこに救いの手を差し伸べられたのです。

 「どんなことがあっても神はあなたを見捨てない。綺麗事ではなく、私自身が世界中の全てから裏切られ、捨てられた経験をしたから言えることなのだ」と語りかけられるのです。イエス様は誰よりも説得力を持って苦しむ人間に寄り添い、救ってくださる神の存在がそこに有ることを教えられるのです。


 私たちにとって、十字架を背負っていくということは、結局のところ、イエス様がなさったように、神のご計画と導きを信じ抜くことであり、自分に差し伸べられた神の手を取り、握り返し、そのあと何があろうとも、どこまでも従って生きていくことなのです。自分が何者であるかということは全く関係がないのです。

 この世には罪のない者などいない、自分も含めて誰でも一皮むけばその内側に醜い本性を持っている。そうしたことを全て知った上で、そこに囚われ立ち止まるのではなく、ただイエス様に従うことに集中する。

 神様の下ではどれほどの罪を抱えていようと、全ての人が愛の対象であり、全ての人が平等に扱われていくことを信じ、自分はイエス様の弟子だ、と心に刻むこと。信者というものは、そのことを心に納めておくようにと示されているのです。




9月になりましたので
新しいレゴ作品を掲示板に入れました
コロナであまり遠方に旅行できない私たちですが
夢を乗せて、汽車で遠足に出発です