聖霊降臨後第13主日礼拝(2020年9月6日)
エゼキエル書3:3-11 ローマ13:8-10 マタイ福音書18:18-20
私たち人間は、血の繋がった親子、兄弟、家族と言えども、顔も違えば性格も違います。もちろん夫婦でも違います。よく「価値観が違う」と言いますが、人間というのは一人一人、考え方が違うものなのです。
聖書には、神様が男と女を創った時からそうであったと記しています。エバは神様から禁じられていたにも関わらず、蛇の「賢くなれる」という言葉をあっさり信じ、禁断の木の実を夫と仲良く分けて食べたのです。興味深いのは、この時エバは独り占めせず、アダムと分けて食べようと考えたのです。それだけ、この木の実を食べる以前の人間はピュアだったと言えます。しかしどれほどピュアであろうと、神様よりも蛇の言葉を信じたのは致命的な誤りでした。
神様は何よりも人間の幸せを考えてこの楽園に住まわせてくださったのに、人間は神様を疑い、裏切り、自分から楽園を去る道を選んでしまったのです。私たち人間は、神様が自分を愛し、関わってくださることをしばしば忘れ、その手を振り払って、自分が正しいと思い込んでいることを優先しようとするのです。
神様は人間をお作りになった時、なんでも神様の命令に従うお人形のような存在にしようとは思われませんでした。二つの選択肢があったとして、自分で考えた上で神様のお考えを尊重する存在であってほしいと願って「自由な意思」と言うものを人間に与えられたのです。
この「自由意志」は、最初の人アダムとエバのエピソードが示すように、人間にとって悪い結果、悲劇的な選択になることもあります。それでもなおも、神様は人間を放っておくことはできず、再び良い結果へと導こうと、語りかけ続けてくださるのです。
こうした深い深い時の流れが、旧約聖書から新約聖書に渡って、書き記されています。聖書を通して神様のメッセージは人々に読まれ、学ばれ、祈られ、行われ、繰り返し繰り返し人の世界や考え方に影響を与えました。大きく間違っても悔い改めて軌道修正していくしていく力は聖書を通して私たちに与えられています。
本日読みました福音書の中で、イエス様は私達にこうおしゃっています。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれを叶えてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
イエス様の時代、ローマという強大な軍事国家が世界を治めており、ユダヤの国もその支配下にありました。ユダヤ人たちは独立を求めていましたがうまく行きません。その上、彼らは神様の前に本心から悔い改めることを忘れ、神殿さえ豪華に保っていれば神様が守ってくれるという間違った思い込みを持ち、祖先からの信仰の本質を失っていました。
西暦70年、ユダヤの国はローマに完全に滅ぼされ、神殿も壊され、ユダヤ民族は散りじりになります。普通なら民族ごと消滅してしまうような事態です。ところがユダヤ人たちは度重なる迫害にも関わらず21世紀の今日も民族としての形を保っています。これは世界に類を見ません。それは彼らが旧約聖書を大切にし、神への信仰を持ち続けたからです。
ただ、そうは言っても当時のユダヤ人たちの願い、「自分たちの神様はローマに勝利してくださる」という祈りは全く聞かれなかったではないか、と思うかもしれません。しかし、そうではないのです。
イエス様は当時、ユダヤ教の間違いを正し、逆にユダヤ教徒に憎まれ、十字架にかかられました。イエス様が復活なさり天に帰られた後は、その教えは弟子たちによって広められました。最初は2人、3人と集まって祈る小さな群れによって伝えられたその教えは、やがて民族を超えて宣教師、違いを認め合うキリスト教となって、世界に伝わっていきました。そしてユダヤの国を迫害したローマはキリスト教を自らの国の宗教とし、神の教えの前にひざまずいたのです。
かつてユダヤの人々は武力によってローマを叩き潰すことだけを考えていましたが、イエス様を信じる人々は武力ではなく聖書の伝える愛の力こそ、勝利を産むことを確信したのです。
私達は自分の価値観、自分の考え方から離れることができません。自分は正しい、いう思いをなかなか変えられませんが、神様はその思い、その祈りを全て受け止めてくださいます。私たちが自分の考えに固執するがゆえに感じる、悪いことも良いことも、神様の手によって全てはあいはたらきて、私たちの人生の中でもっとも良い形となるのです。
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