2020年9月5日土曜日

十字架を背負う(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2020年8月30日)

エレミヤ書15:19-21 ローマ12:15-17 マタイ福音書16:21-28

 「十字架を背負う」という言葉は辞書には「耐えがたい苦難を負うこと」と記されており、責任ある仕事に就いた時、その苦難を表す言葉として使ったりします。また重い病気や障害を負った時などにも「これが私の十字架です」などと使われて、意味はわからなくはないのですが、なんとなく違和感を覚えることがあります。

 クリスチャンは十字架を信仰のシンボルとして大切にしています。元々はイエス様が磔になった道具です。本日はご一緒に、本来死刑の道具であった「十字架」を「背負って」イエス様についていく、とは何を表しているのか、ご一緒に聞いてまいりましょう。

 先ほど読みました福音書では、イエス様は弟子たちに対して「自分の十字架を背負って」と表現されましたが、もちろんイエス様は比喩的な表現として「十字架を背負う」という言葉をお用いになったのです。ご自分は十字架で命を落とすことを知っておられましたが、弟子たちに同じように殉教を進めた言葉ではありませんでした。


 ユダヤ地方を監督するためにローマから派遣された総督、ポンテオ・ピラトは、イエス様が自分の元に連行されてきたとき、イエス様に死刑に値する罪はなく、何かユダヤ人の間に陰謀が有ることを見抜きます。そこで何とかイエスを処刑しないで済むようにユダヤ人を説得しようとしますが、ユダヤ人たちは譲らず、「十字架につけろ」と叫び続けました。

 ユダヤの一般的な死刑は「石打」といい、下半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に、大勢の人々が石をぶつけて死に至らしめる処刑法でした。罪人が即死しないよう、握り拳程度の大きさの石打ち用の特別な石を山盛りに準備していたそうです。相当に残酷な死刑と言えます。

 一方十字架刑はもともとローマが国家への反逆者を見せしめにするために支配する属国に対して行った死刑方法です。ユダヤ人たちはその死刑方法をイエス様に要求しました。

 木にかけられるという死に様は、ユダヤ人にとっては神にも見捨てられた最低の死を表しました。旧約聖書の申命記21章23節に「木に架けられた死体は、神に呪われたものである」と書かれています。ですからユダヤ人にとって十字架刑は石打よりも屈辱的な死に方でした。それを承知の上で同胞たちは十字架にかけろと叫んだのです。


 このようにして、イエス様は神からも同じユダヤ人からも徹底的に見捨てられ、名誉も信仰も何もかも奪い取られてローマに屈する形で、ユダヤ人として最低の死に方を選びとられました。

 しかし、全てはご計画としてイエス様の内側にありました。イエス様が地上に生まれる前から神様に定められていたのです。イエス様は人間の愚かさというものを知り抜いておられました。仲間同士でも、ほんの少しの心のすれ違いがきっかけで命を奪い合うような戦いを繰り広げるのが人間です。人は赦し合い、受け入れ合うより、憎み合い、罵り合い、排除し合うのが得意なのです。

 人間社会の中で争いに敗れ、どん底に落とされた人間は、自ら死を選ぶか、他人を憎み呪い、人としての心を失って生きていくかのどちらしかないのです。しかしイエス様はそこに救いの手を差し伸べられたのです。

 「どんなことがあっても神はあなたを見捨てない。綺麗事ではなく、私自身が世界中の全てから裏切られ、捨てられた経験をしたから言えることなのだ」と語りかけられるのです。イエス様は誰よりも説得力を持って苦しむ人間に寄り添い、救ってくださる神の存在がそこに有ることを教えられるのです。


 私たちにとって、十字架を背負っていくということは、結局のところ、イエス様がなさったように、神のご計画と導きを信じ抜くことであり、自分に差し伸べられた神の手を取り、握り返し、そのあと何があろうとも、どこまでも従って生きていくことなのです。自分が何者であるかということは全く関係がないのです。

 この世には罪のない者などいない、自分も含めて誰でも一皮むけばその内側に醜い本性を持っている。そうしたことを全て知った上で、そこに囚われ立ち止まるのではなく、ただイエス様に従うことに集中する。

 神様の下ではどれほどの罪を抱えていようと、全ての人が愛の対象であり、全ての人が平等に扱われていくことを信じ、自分はイエス様の弟子だ、と心に刻むこと。信者というものは、そのことを心に納めておくようにと示されているのです。




9月になりましたので
新しいレゴ作品を掲示板に入れました
コロナであまり遠方に旅行できない私たちですが
夢を乗せて、汽車で遠足に出発です






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