2023年6月25日日曜日

「涙の預言者」甲府・諏訪教会での説教・要約

聖霊降臨後第4主日礼拝(2023年6月25日)【講壇交換】
エレミヤ20章7-13節(1214) 
ローマの信徒への手紙6章1b-11節(280)
マタイによる福音書10章24-39節(18)


 私たちは聖書を読むことで、神様がこの世界を創り、支配しておられることを知り、さらにその偉大な神様が直接私たち人に命を与えられ、生かしてくださっていることを知ります。神様はその愛ゆえに、人間がどれほど愚かであろうともやがては神の国に招き入れてくださることも、イエス様の約束として知っています。


 しかし、この約束を信じてクリスチャンになったにもかかわらず、目の前の苦難に心乱され不安になる、そんな自分が情けなく、悲しい気持ちになったりします。聖書に登場する人物や聖書を書き記した人々も、信仰があるがゆえの苦しみや切ない思いを「涙」で表現しています。


 有名な聖句としては詩編126編に登場する「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」が挙げられるでしょう。伝道の苦しみと成果を上げる時の喜びの歌です。またヨハネ福音書11章35節には、聖書の中で一番短い節「イエスは涙を流された」という御言葉が登場します。イエス様はこの世の悲しみに翻弄される人々を見て、深く深く同情されて涙を流されたのです。


 聖書の中には他にも涙が溢れていますが、旧約聖書の「エレミヤ書」は別格です。エレミヤは古くから「涙の預言者」「悲しみの預言者」と呼ばれているからです。エレミヤ書20章を見てみましょう。


 彼は預言者として召され、神様の言葉を人々に取り次ぎますが、その内容は「迫り来る祖国」の滅びでした。神様はエレミヤに命じて、その国、ユダ王国が滅びることを容赦なく語るようお命じになったのです。


 しかしエレミヤ以外にも預言者と呼ばれた人々がおり、彼らは王や指導者に腰ぎんちゃくのようにくっついて美味しいことだけ語りました。それらの人々はのちに偽預言者と呼ばれました。ユダ王国は本当にバビロニア帝国との戦争に敗れ、神殿は跡形もなく壊されたからです。


 しかし人々はこの段階では真実から目を背け、偽預言者の語る「大丈夫、何も起こらない、滅びなどない、神様は絶対守ってくださる」という根拠のない言葉に縋りました。そしてまことの預言者であるエレミヤを「偽りの預言者」と罵り、迫害し、遂には命まで奪おうとしたのです。


 エレミヤが真実の神の御言葉を伝えようとすればするほど、人々から否定されるのです。エレミヤは張り裂けそうな胸の痛みを覚えて嘆きます。あまりの苦しみに、なぜ自分は生まれて来たのかと呪います。預言者など辞めたい、耐えられない、もう解放してほしい、誰かに代わってほしいという想いが伝わります。


 ところが驚くことに、人々の仕打ちがどれほど苦しくても、主の名によって語ることをやめる方がもっと苦しくて耐えられない、とエレミヤは言うのです。預言を誰にも語らないでいると、御言葉はエレミヤの心の中、骨の中でメラメラと燃え上がり、とうてい押さえつけることができないからです。つに彼は神様に対し「私の負けです」と語ります。エレミヤの自罰的な表情が見えるようです。


 神の言葉を語る使命を授かった人間は、その使命からどんなに逃れようとしても、神ご自身がその人を離さず、預言を与え、語り続けるようお命じになる事が、エレミヤ書にはわかりやすく記されています。


 エレミヤの味わった苦しみは、実は他人事ではありません。私たち、信仰に生きる者たちは、エレミヤと同様の使命と苦しみが与えられていると言っても過言ではないのです。


 イエス様は社会で見捨てられた罪あるものや貧しきものに手を差し伸べ、病にある人、苦悩の中にある人を受け入れ、隣人となり、何一つ報いられなくても、彼らが神様の愛を信じて人生をやり直そうとする様子に満足しておられる、そのお姿が示す愛を世に伝えていくよう、私たちは迫られるのです。


 世の中には欲しいものを奪うことが愛だと勘違いする人々が存在します。その感情が拡大されて、歪んだ愛国心から戦争が起きるのです。真実の愛ゆえに戦争に反対を唱えた人々が、迫害され殺された歴史は決して遠い昔のことではありません。


 しかし、イエス様は言われます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。
 厳しい御言葉ですが、十字架で命を投げ出し蘇られたイエス様がそうおっしゃっているのです。ほんの少しでも神様の愛に信頼し、その愛に生きようとするならば、神様は愛に応えてくださる、と補償しておられるのです。


本日読みました福音書の中に「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父がお許しにならなけらば、地におちることはない」というみ言葉があります。讃美歌やゴスペルソングとしても歌われている有名な御言葉です。この「雀」は神殿への捧げものとして一番価値の低いものとも解釈されています。けれども、イエス様はそんな雀さえも、神様の捧げものであり、神様のために用いられると教えられたのです。


 小さな雀さえも神様に愛されて、その御用のために、何かを成し遂げるために召されている。ならば、人である私たちは、神様の御用のためならば、迫害を受けてもそれに耐え、み言葉を伝えるために生きていけるはずだ、とイエス様は教えられるのです。


 エレミヤは涙を流しつつ愛する祖国と人々のために苦しみを担いましたが、その姿はやがてこの世に来られるイエス様の象徴でもあります。イエス様は誰よりも涙を流しながら、私たちに愛を注ぎ続けてくださいます。ですから私たちはどれほど苦しんでも帰る場所があります。主イエスの愛の元にはいつでも帰ることができるのです。私たちが今置かれているキリストの教会は人々を愛しイエス様を伝える者たちの最前線の砦なのです。


近所のりんご並木のりんごです
りんごらしい形に成長してきました
雨に濡れる姿もなんだか可愛らしいです

同じくりんご並木
品種によって実の成長速度が違うようです

土曜学校の工作サンプルで作った雨傘
今回はボツにして
2年前に作った万華鏡をもう一度
製作することに決めました

2023年6月18日日曜日

「弟子を派遣する」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(2023年6月18日)
出エジプト19章2~8a節(124) 詩編100編全千夜(937)
ローマ書5章1~8節(279)マタイ福音書9章35~10章23節(17)


 聖書に登場する人物は、順調に成長する人は稀で、がむしゃらに何かを掴もうとする人もいる一方で、「難しい」を連発して逃げ腰になる人もいます。それが良く分かるのはなんと言っても出エジプト記ではないでしょうか。


 エジプトの兵隊に追われて絶体絶命の時、モーセは神様のお力をいただいて紅海を二つに割り、民衆は海の中の道を通って逃げのびるという、劇的な脱出劇をやってのけました。ところが脱出してから3ヶ月、彼らはお腹が空けばエジプトの食事はおいしかったと愚痴をこぼし、喉が渇けば「渇きで殺す気か!」とモーセに詰め寄り、その度にモーセは神様に祈り、食べものや水をいただきました。民衆はぐずって泣く幼な子のようで、モーセはヘトヘトになったことでしょう。


 しかし神様はモーセに対して「これからも契約を守るなら、あなたたちは私の宝であり続ける」と言われたのです。「宝」とはすごい言い方です。

 モーセが神様のお言葉を民の長老たちに告げると、彼らは「自分達は契約を守って神様の民になる覚悟がある」と答えます。モーセは彼らの誓いを信じて一人で山に登り、神様との契約の具体的な内容、つまり十戒を授かります。


 ところがモーセが40日40夜を山で過ごているうちに、民衆はモーセを待ちきれず、モーセの兄のアロンを脅し、目に見える拝む対象をよこせと迫ったのです。圧力に負けたアロンが金の雄牛の像を作ると、民衆は大喜びで「これこそ我々をエジプトの国から見に引き上った神様だ」と祭壇を築いて祭りを始めてしまいます。


 お怒りになった神様はモーセ以外の民を全部滅ぼすと言われますが、モーセの取りなしで神様は怒りをおさめられます。ただその後イスラエルの民は、約束の地に定住するまで40年という長い旅をすることになってしまいました。40年の間にエジプトを脱出した初代の人々は寿命を迎えて自然に世代交代しました。次の世代は旅の間に学び、神様への信仰を中心とした纏りある民に成長していったのです。


 旧約聖書はこんなふうに人間の欠点やダメっぷりを容赦なく記していますので、読むのが辛い時があります。しかし、神様の偉大さを知っているつもりでも、苦難が迫ってくると、目に見える確かなものを求めてドタバタしてしまうのは全ての人間が陥る過ちだと自覚しておく必要があります。


 さて、本日のマタイ福音書には、イエス様がご自分の足でガリラヤ湖周辺の町や村を回って人々を教え、癒しの奇跡を行ったことが記されています。イエス様が一つの村で働きを終え、次の町に足を踏み入れると、人々は飼い主のいない羊のように弱り果て、うちひしがれていました。当時のイスラエルは自分勝手な指導者やローマ帝国の圧力のせいで庶民は恐れや失望などを抱えながら生きていたのです。


 イエス様はそのような姿を見て深く憐れまれた、と書いてあります。「深く憐れむ」という言葉は「はらわたがねじれ、ちぎれるほどの苦しみ」を表す言葉だそうで、イエス様は彼らの様子を見て心が引き裂かれるほど苦しまれたのです。


 しかし、イエス様は肉体を持って人となっておられますから、同時に何箇所も周ることはできません。そこでご自分の弟子の集団の中から12人を選んで派遣することにされます。これが12弟子と呼ばれる人々です。


 特別に選ばれた12名とは言え、彼らはまだまだ学びの途中でした。イエス様から離れて宣教の旅に出れば、困難は山ほどあります。イエス様はそれを見越して非常に細かく注意を与えられました。


 外国人の家には行かず、同じ信仰のイスラエル人のところへ行くこと、お金や持ち物を余分に持っていかなこと、どんな町でも神様を敬う人を見つけ出し、その家を伝道の拠点とすること、などなど。10章の終わりまで延々と記されています。これらを読めば読むほどに、イエス様が弟子たちの身を案じていた様子が伝わってきます。

 とはいえ、イエス様はいずれ天に帰られ、宣教は弟子たちの役目となるご計画でしたから、ご自分がフォローできる今のうちに弟子たちにあれこれ体験をさせて、学ばせていくしかないこともわかっておられたのでした。


 結論から言うと、弟子たちの初めての宣教旅行はまずまずの成功を収めたことがマルコ福音書やルカ福音書に記されています。イエス様は無事に帰って来た彼らと再会して、どんなにか安堵されたことでしょう。


 イエス様はどんな時も、人間の弱さに心を痛める方です。神様を知らない人の悲惨な状況を見るとはらわたがちぎれそうなくらい悲しんで手を差し伸べられます。そしてご自分の代理として弟子を派遣するときにはお心を痛められつつ細やかな心配りをなさるのです。


 今日ご一緒に読んだ伝道の折の注意事項や心構えは、そのままそっくり現代に生きる私たちにも向けらています。イエス様の教えを告げ広める弟子にはとんでも無い苦難があるけれど、とんでもない喜びもある、と約束してくださっているのです。


 私たちはどれほどイエス様に愛され支えられているのでしょう。私たちが何をしたからこれほど神様に愛していただけるのでしょう。その理由は全く分かりません。わかっているのは旧約聖書の昔から、神様がわたしたちを気にかけてくださり、成長を望んで下さったこと。そしてあまりの物分かりの悪さに、ついには一人子イエス様を遣わしてくださった、ということだけです。


 「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」と、ローマ信徒の手紙に書いてある通りなのです。


 私たちもかつての弟子たちと同じように、イエス様の思いを学んでまいりましょう。私たちの周りには、神様や天の国の存在を受け入れられず、飼うもののない羊のように心細い人生を送っている人がたくさんいます。その人たちと出会ってあなたの心がズキズキと痛むなら、それはイエス様の「憐れみの心」が働いている証しなのです。イエス様に派遣されるままに、弟子としての役目を果たしてまいりましょう。そこに私たちの本当の喜びもあるのです。



今の時期、近所のお家の庭や道路沿いなどに
紫陽花がきれいに咲いているのを見かけます
この写真は知人の家の紫陽花です



2023年6月11日日曜日

「神の国の採用試験」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第2主日礼拝(2023年6月11日)
詩編50編7-15節 ローマの信徒への手紙4章13-25節 
マタイによる福音書9章9-13節(60)


 本日のお話のタイトル「神の国の採用試験」を見て、神の国、つまり天国に入るのに採用試験があるのだろうかと不安になられたかもしれません。しかし実はあるのです。創世記の初めから、採用された人と振り落とされた人の出来事がはっきりと記されています。

 ただし、合格・不合格の基準は100%神様の側にあり、その基準は人間である私たちには永遠に謎です。素晴らしい人格者だから合格するとは限りませんし、犯罪歴があるから不合格という事でもありません。繰り返し言いますが、本当に謎なのです。ただし、この採用試験に合格した者は何をすべきかは、聖書にはっきりと示されてされています。

 言い換えるなら、神様の「謎の基準」によって合格者とされた者たちは合格者にふさわしい生き方をし、合格者として目指すところに進んでいく必要があります。イエス様からせっかく合格通知を頂いたのに、その方を中心とする生活ができないならば、与えられる恵みも受け止めそびれて中途半端になってしまいます。そのようなもやもや感は、常に私たちの周りにあるように思えるのです。

 2000年前のイエス様の時代、ユダヤの民は積み上げてきた聖書の教え、神の教えを守っていると自負していました。しかしイエス様は神様ですから、宗教リーダー達である神殿の祭司たちやファリサイ派の人々、律法学者たちの指導のあり方には問題があることもわかっておられました。

 リーダーたちは宗教儀式や律法について豊かな知識を持っていましたが、その解釈は時代と共に歪んでしまっていました。神殿への捧げ物にしても、病気や障害の解釈にしても、そんなこと神様が望んでいたっけ?と思うようなことがまかり通っていました。その考え方の中には、病気も障害も神の罰であり、神からの恵みが与えられるのは、律法を守ることができる清らかな人々だけであるという基準がありました。障害があったり娼婦や徴税人といった差別的な職業についていたり、
リーダーたちが決めた掟に反する人々は神様に捨てられた存在で、一般の人々は一切関わりを持たぬように教えたのです。

 しかしそれが神様の御心に反していることを知っていたイエス様は、祭司やファリサイ人たちと、ことあるごとに対立します。彼らはイエス様の教えの深さが全く理解できなかったわけではありませんが、イエス様のお話や考え方の素晴らしさを認めてしまうと、自分の間違を認めなくてはならないので、言葉尻を捉えてどうでもいい議論に巻き込み揚げ足を取ったり、悪霊に取りつかれていると出まかせを言ったり、「イエスは神を冒涜している」とまで言い切りました。

 そのような緊張状態の中でイエス様は歩まれたわけですが、新約聖書に記されたイエス様の弟子の召し出し、つまり「合格通知」の手渡し方は非常にユニークです。30歳で宣教を開始されたイエス様は自ら歩いて弟子を招いて回られます。しかし、しつこいようですがその採用基準は神様にしかお分かりになりませんでした。

 それがよくわかるのがイエス様の弟子の選び方です。当時の社会基準で言えば汚れきった罪人、民族の裏切り者である徴税人のマタイに、いきなりイエス様は「合格通知」を手渡し、弟子に招かれたのです。

 マタイ福音書の9章にマタイ自らイエス様に召された時のことを書き記しています。そしてその前後には、いやしの出来事が記されています。マタイにとって、自分のような堕落し切った人間がイエス様に召し出される出来事は「中風の人が癒やされる出来事」や、死んだはずの少女が蘇る出来事」に匹敵する程にあり得ない奇跡だと思えたのです。

 神様が憐れみをかけてくださり、いやしてくださったおかげで、不治の病は癒やされ、死んだはずの少女は息を吹き返し、罪人は罪の穢れの中から救われて神の民に迎え入れられた。マタイは熱い感謝の祈りを込めて、これらのことを並べて書き記したのです。

 マタイは、イエス様の「わたしに従いなさい」という呼びかけを聞くと立ち上がってイエス様に従います。ここでイエス様の「私に従いなさい」という言葉は命令形で記されています。また「彼は立ち上がって」は、その言葉を聞いた時に立ち上がり、「イエスに従った」は、今もずーと従い続けているというニュアンスがあります。イエス様に声をかけられ、唐突に「神の国の採用試験」に合格したことを告げられたマタイは、一瞬もためらわなかったこと、紆余曲折ありつつもずっと従い続けたことが、この短い文章から伝わってくるのです。

 「神の国の採用合格」とは、私たちが何か良いことをしたから与えられる、ということでは一切ありませんが、もしかしたら神様の憐れみを理解して歩むことのできるものを選んでおられるのかもしれません。神様の憐れみによって、私たちは救われ、神の国に生きるものになっていることを今一度確認する必要があるのです。

 人間にはプライドがありますから「憐れみ」「憐れみ」と連呼されるとあまり嬉しくないかもしれません。しかし絶対的なお力を持っている神様が、小さなことでオロオロするちっぽけな人間を憐れんでその独り子の命さえ惜しまなかったと理解できた人は、他者からの憐れみも喜んで受けるものへと変わるのです。人の苦しみに対して、優越感ではなく、同情と悲しみの気持ちを抱くことができるようになるのです。

 病にある時、罪にある時、何らかの理由で不自由な生活を強いられる時、憐れみを与えるだけでなく自分自身も素直に受け取るように、イエス様は教えられ、学ぶように示されているのです。


「京鹿子」が咲き始めました
2年前、ご近所の方がご自分の庭から
ワイルドに引っこ抜いて(笑)下さったもので
プランターに植え、駐車場脇の植え込みで管理してきました
日陰に強い植物なので、日当たりの悪いここでも
綺麗に咲いたのでしょう
ただ、西日が当たり過ぎるのは良くないらしいので
何かの影になるようにして育てたいと思っています


2023年6月4日日曜日

「宣教命令」日曜日のお話の要約

創世記1章1-2章4a節(1) Ⅱコリント13章11-13節(342) 
マタイ福音書 28章16-20節(60)


 本日読みました福音書は、全ての使命を成し遂げたイエス様が、天国にお帰りになる時の出来事を記録しています。11人の弟子たちがイエス様に指定された山に登り、イエス様から最後のメッセージを受け取るのです。かつての12弟子のうち、ユダはイエス様を裏切った後自殺していますが、残りの11人は誰も脱落することなくここにやって来たのです。

 言い換えれば、イエス様の十字架の絶望と復活の喜びを知る11名がここに集い、イエス様から「すべての民を私の弟子にしなさい」と命令を受けたのです。これがいわゆる「大宣教命令」と言われる御言葉です。有名な言葉なので、覚えておいていただければと思います。

 しかしこの御言葉を受ける直前、興味深いことが記されています。弟子たちが山の上でイエス様にお会いした時「ひれ伏す者もいれば疑う者もいた」とはっきり書かれているのです。その人物は何を疑ったのでしょう。

 ある学者の説によれば、彼はこの期に及んでもまだ人間の常識に縛られていて、目の前におられるのが本当に復活したイエス様なのか、自分がイエス様に蘇ってほしいと願うあまり夢や幻を見ているのか、と疑ったのだろう、と説明しています。

 何度イエス様にお会いしても、心の底から復活を受け入れることができない、それほどまでに復活の出来事は信じ難いことなのだ、と書かれていました。確かになるほど、と思います。人間が自分だけの力でイエス様の復活を信じることができないからこそ、神様からの、特に聖霊なる神からの働きかけが必要なのです。

 この「疑う」という言葉には「誤解する」という意味も含まれるそうです。何を誤解をしていると言うと、自分と神様との関係です。神様はおられる、と信じているとのと、その神様が自分に強く働きかけてくださると信じているのとでは、全くと言っていいほど違うのです。

 たとえば、道路にある信号機。信号機がある、と知っているだけでは、信号機は役目を成しません。信号機に示される青、赤、黄色を見て、その意味を認識して、行動に活かして事故を防いでこそ、信号機を知っている、と言えるのです。

 ここにいる私たちは「神様はおられる」と信じ、祈りと賛美を捧げます。しかし本当の意味で自分は神様に生かされている存在だと信じることができているでしょうか。「神様が私を愛しているのなら、こんな辛い目に遭うはずがない」「神様はおられることは知っているが、私の人生に関わってくださっているようには感じられない」そんなふうに思ったことはないでしょうか。

 しかし聖書を謙虚に読むならば、そうした私たちの考えが神様に対する誤解であることがはっきりとわかるのです。

 イエス様の復活がどれほど信じ難いことで、しばしば疑いが生じるにしても、あるいは神様は自分などどうでも良いのだ、というやけっぱちな思いが生じるにしても、神様ご自身はそのような人間の弱い心ごと受け止めていてくださいます。そして私たちをご自身の御用のために用いてくださるのです。あなたの過去がどのようなものであっても、それは神様の御用をなすために必要な道だったのだ、と聖書は記しています。不信仰に生きてきた過去も、キリスト者を迫害した過去も、神様によってプラスに変えられた例は聖書にぎっしりと詰め込まれています。

 ただ、こんなふうに神様から語りかけられても、私たちはなかなか「はいそうですか」と信じることができず、過去の過ちを引きずっているのです。失敗や後悔、誰かから傷つけてられた心の傷、年齢を重ねて若い時のようにはできなくなった悔しさ。そんなことが頭の中を駆け巡り、礼拝説教で「神様の御用の為に働きましょう」と何度聞いても、自分のこととしてピンとこなくなってしまうのです。

 それは何もここにおられる皆さんを責めているわけではありません。そのような状況の中にいるのは、もしかしたら、今、生きている世界中のクリスチャン達も同じ状況と言えるかもしれないからです。

 キリスト教は世界三代宗教のトップ人口を誇りますが、近年世界に及ぼす影響力が落ちていると感じています。ローマ・カトリックの教皇がどんなに正当な発言をしても、それを受け入れて自分達の政治や日常の行いに生かそうとする人々はほんの一握りで、今もキリスト教国と呼ばれる国同士で争いが続いています。そんなこともあって、クリスチャン人口の少ない日本ではますます伝道意欲が削がれてしまう傾向にもあるのです。それを自覚した上で、私たちは一人ひとりがきちんと考え、今自分が何をなすべきか、神様と向き合っていく必要があるのです。

 私たちは今、この世の慣習や考え方の真っ只中にあって、神様の宮を建てようとしています。資金について思い巡らすたびに、どこかの金持ちが一括でポンとお金を出してないものか、とか宝くじが当たらないだろうか、とかなんとか楽をして資金を手に入れる方法はないだろうかと、そんな都合の良い奇跡は起きないと知っていても、ついつい思い描いてしまいます。

 私たちがどんなに逃げ腰になっていても、神様の宣教命令は響いており、私たちはこのタイミングで神様に押し出されたのです。それはこのタイミングでなければならないという、神様のお考えがあるのです。

 本日最初に読んでいただきました創世記の出来事を、よくよく振り返って見てみますと、私たち人間も含めて全ての生き物は、神様の言葉から造られたことが記されています。全ての生き物は、神様の言葉を聞くことが一番の命の元で、生きる力なのです。その神様が私たちに「宣教しなさい」「できる限り多くの人々に神さの言葉を伝えなさい」と言っておられるのです。


昨日は月一回の土曜学校の日でした。
天地創造のお話を礼拝で聞いた後、
たくさんいただいた瓢箪を使って
てんとう虫のランプつくりです。
私たち人間が「何かを作りたい」という思いを持っているのは
創造好きの神様が与えてくださった
特性なんだろうな、と思うのです(^▽^)




作品ができたら帰る前に感謝のお祈りをして
恒例の記念写真です
保護者の方の掲載許可を得たお友達の
写真を使わせてもらっています


この二人は幼稚園の年長さんです!
最後まで頑張りました

仲良し二人組は1年生

ちょっとさかのぼって制作風景
時間の関係で基本的な色塗りと穴あけは済ませてあります
参加者は和紙をちぎって羽根の部分を仕上げていきます


可愛い顔を描いて、触角をつけて仕上げます

そうそう、こんなポスターで告知したんでした
事前申し込みの必要なし、ふらっと来てOKにしてあるので
人数が読めない分、工作の準備は毎回大変ですが…

思わず笑顔になっちゃうような
こんな作品が誕生すると、疲れも吹っ飛びます