聖霊降臨後第2主日礼拝(2023年6月11日)
詩編50編7-15節 ローマの信徒への手紙4章13-25節
マタイによる福音書9章9-13節(60)
本日のお話のタイトル「神の国の採用試験」を見て、神の国、つまり天国に入るのに採用試験があるのだろうかと不安になられたかもしれません。しかし実はあるのです。創世記の初めから、採用された人と振り落とされた人の出来事がはっきりと記されています。
ただし、合格・不合格の基準は100%神様の側にあり、その基準は人間である私たちには永遠に謎です。素晴らしい人格者だから合格するとは限りませんし、犯罪歴があるから不合格という事でもありません。繰り返し言いますが、本当に謎なのです。ただし、この採用試験に合格した者は何をすべきかは、聖書にはっきりと示されてされています。
言い換えるなら、神様の「謎の基準」によって合格者とされた者たちは合格者にふさわしい生き方をし、合格者として目指すところに進んでいく必要があります。イエス様からせっかく合格通知を頂いたのに、その方を中心とする生活ができないならば、与えられる恵みも受け止めそびれて中途半端になってしまいます。そのようなもやもや感は、常に私たちの周りにあるように思えるのです。
2000年前のイエス様の時代、ユダヤの民は積み上げてきた聖書の教え、神の教えを守っていると自負していました。しかしイエス様は神様ですから、宗教リーダー達である神殿の祭司たちやファリサイ派の人々、律法学者たちの指導のあり方には問題があることもわかっておられました。
リーダーたちは宗教儀式や律法について豊かな知識を持っていましたが、その解釈は時代と共に歪んでしまっていました。神殿への捧げ物にしても、病気や障害の解釈にしても、そんなこと神様が望んでいたっけ?と思うようなことがまかり通っていました。その考え方の中には、病気も障害も神の罰であり、神からの恵みが与えられるのは、律法を守ることができる清らかな人々だけであるという基準がありました。障害があったり娼婦や徴税人といった差別的な職業についていたり、リーダーたちが決めた掟に反する人々は神様に捨てられた存在で、一般の人々は一切関わりを持たぬように教えたのです。
しかしそれが神様の御心に反していることを知っていたイエス様は、祭司やファリサイ人たちと、ことあるごとに対立します。彼らはイエス様の教えの深さが全く理解できなかったわけではありませんが、イエス様のお話や考え方の素晴らしさを認めてしまうと、自分の間違を認めなくてはならないので、言葉尻を捉えてどうでもいい議論に巻き込み揚げ足を取ったり、悪霊に取りつかれていると出まかせを言ったり、「イエスは神を冒涜している」とまで言い切りました。
そのような緊張状態の中でイエス様は歩まれたわけですが、新約聖書に記されたイエス様の弟子の召し出し、つまり「合格通知」の手渡し方は非常にユニークです。30歳で宣教を開始されたイエス様は自ら歩いて弟子を招いて回られます。しかし、しつこいようですがその採用基準は神様にしかお分かりになりませんでした。
それがよくわかるのがイエス様の弟子の選び方です。当時の社会基準で言えば汚れきった罪人、民族の裏切り者である徴税人のマタイに、いきなりイエス様は「合格通知」を手渡し、弟子に招かれたのです。
マタイ福音書の9章にマタイ自らイエス様に召された時のことを書き記しています。そしてその前後には、いやしの出来事が記されています。マタイにとって、自分のような堕落し切った人間がイエス様に召し出される出来事は「中風の人が癒やされる出来事」や、死んだはずの少女が蘇る出来事」に匹敵する程にあり得ない奇跡だと思えたのです。
神様が憐れみをかけてくださり、いやしてくださったおかげで、不治の病は癒やされ、死んだはずの少女は息を吹き返し、罪人は罪の穢れの中から救われて神の民に迎え入れられた。マタイは熱い感謝の祈りを込めて、これらのことを並べて書き記したのです。
マタイは、イエス様の「わたしに従いなさい」という呼びかけを聞くと立ち上がってイエス様に従います。ここでイエス様の「私に従いなさい」という言葉は命令形で記されています。また「彼は立ち上がって」は、その言葉を聞いた時に立ち上がり、「イエスに従った」は、今もずーと従い続けているというニュアンスがあります。イエス様に声をかけられ、唐突に「神の国の採用試験」に合格したことを告げられたマタイは、一瞬もためらわなかったこと、紆余曲折ありつつもずっと従い続けたことが、この短い文章から伝わってくるのです。
「神の国の採用合格」とは、私たちが何か良いことをしたから与えられる、ということでは一切ありませんが、もしかしたら神様の憐れみを理解して歩むことのできるものを選んでおられるのかもしれません。神様の憐れみによって、私たちは救われ、神の国に生きるものになっていることを今一度確認する必要があるのです。
人間にはプライドがありますから「憐れみ」「憐れみ」と連呼されるとあまり嬉しくないかもしれません。しかし絶対的なお力を持っている神様が、小さなことでオロオロするちっぽけな人間を憐れんでその独り子の命さえ惜しまなかったと理解できた人は、他者からの憐れみも喜んで受けるものへと変わるのです。人の苦しみに対して、優越感ではなく、同情と悲しみの気持ちを抱くことができるようになるのです。
病にある時、罪にある時、何らかの理由で不自由な生活を強いられる時、憐れみを与えるだけでなく自分自身も素直に受け取るように、イエス様は教えられ、学ぶように示されているのです。
ただし、合格・不合格の基準は100%神様の側にあり、その基準は人間である私たちには永遠に謎です。素晴らしい人格者だから合格するとは限りませんし、犯罪歴があるから不合格という事でもありません。繰り返し言いますが、本当に謎なのです。ただし、この採用試験に合格した者は何をすべきかは、聖書にはっきりと示されてされています。
言い換えるなら、神様の「謎の基準」によって合格者とされた者たちは合格者にふさわしい生き方をし、合格者として目指すところに進んでいく必要があります。イエス様からせっかく合格通知を頂いたのに、その方を中心とする生活ができないならば、与えられる恵みも受け止めそびれて中途半端になってしまいます。そのようなもやもや感は、常に私たちの周りにあるように思えるのです。
2000年前のイエス様の時代、ユダヤの民は積み上げてきた聖書の教え、神の教えを守っていると自負していました。しかしイエス様は神様ですから、宗教リーダー達である神殿の祭司たちやファリサイ派の人々、律法学者たちの指導のあり方には問題があることもわかっておられました。
リーダーたちは宗教儀式や律法について豊かな知識を持っていましたが、その解釈は時代と共に歪んでしまっていました。神殿への捧げ物にしても、病気や障害の解釈にしても、そんなこと神様が望んでいたっけ?と思うようなことがまかり通っていました。その考え方の中には、病気も障害も神の罰であり、神からの恵みが与えられるのは、律法を守ることができる清らかな人々だけであるという基準がありました。障害があったり娼婦や徴税人といった差別的な職業についていたり、リーダーたちが決めた掟に反する人々は神様に捨てられた存在で、一般の人々は一切関わりを持たぬように教えたのです。
しかしそれが神様の御心に反していることを知っていたイエス様は、祭司やファリサイ人たちと、ことあるごとに対立します。彼らはイエス様の教えの深さが全く理解できなかったわけではありませんが、イエス様のお話や考え方の素晴らしさを認めてしまうと、自分の間違を認めなくてはならないので、言葉尻を捉えてどうでもいい議論に巻き込み揚げ足を取ったり、悪霊に取りつかれていると出まかせを言ったり、「イエスは神を冒涜している」とまで言い切りました。
そのような緊張状態の中でイエス様は歩まれたわけですが、新約聖書に記されたイエス様の弟子の召し出し、つまり「合格通知」の手渡し方は非常にユニークです。30歳で宣教を開始されたイエス様は自ら歩いて弟子を招いて回られます。しかし、しつこいようですがその採用基準は神様にしかお分かりになりませんでした。
それがよくわかるのがイエス様の弟子の選び方です。当時の社会基準で言えば汚れきった罪人、民族の裏切り者である徴税人のマタイに、いきなりイエス様は「合格通知」を手渡し、弟子に招かれたのです。
マタイ福音書の9章にマタイ自らイエス様に召された時のことを書き記しています。そしてその前後には、いやしの出来事が記されています。マタイにとって、自分のような堕落し切った人間がイエス様に召し出される出来事は「中風の人が癒やされる出来事」や、死んだはずの少女が蘇る出来事」に匹敵する程にあり得ない奇跡だと思えたのです。
神様が憐れみをかけてくださり、いやしてくださったおかげで、不治の病は癒やされ、死んだはずの少女は息を吹き返し、罪人は罪の穢れの中から救われて神の民に迎え入れられた。マタイは熱い感謝の祈りを込めて、これらのことを並べて書き記したのです。
マタイは、イエス様の「わたしに従いなさい」という呼びかけを聞くと立ち上がってイエス様に従います。ここでイエス様の「私に従いなさい」という言葉は命令形で記されています。また「彼は立ち上がって」は、その言葉を聞いた時に立ち上がり、「イエスに従った」は、今もずーと従い続けているというニュアンスがあります。イエス様に声をかけられ、唐突に「神の国の採用試験」に合格したことを告げられたマタイは、一瞬もためらわなかったこと、紆余曲折ありつつもずっと従い続けたことが、この短い文章から伝わってくるのです。
「神の国の採用合格」とは、私たちが何か良いことをしたから与えられる、ということでは一切ありませんが、もしかしたら神様の憐れみを理解して歩むことのできるものを選んでおられるのかもしれません。神様の憐れみによって、私たちは救われ、神の国に生きるものになっていることを今一度確認する必要があるのです。
人間にはプライドがありますから「憐れみ」「憐れみ」と連呼されるとあまり嬉しくないかもしれません。しかし絶対的なお力を持っている神様が、小さなことでオロオロするちっぽけな人間を憐れんでその独り子の命さえ惜しまなかったと理解できた人は、他者からの憐れみも喜んで受けるものへと変わるのです。人の苦しみに対して、優越感ではなく、同情と悲しみの気持ちを抱くことができるようになるのです。
病にある時、罪にある時、何らかの理由で不自由な生活を強いられる時、憐れみを与えるだけでなく自分自身も素直に受け取るように、イエス様は教えられ、学ぶように示されているのです。
「京鹿子」が咲き始めました 2年前、ご近所の方がご自分の庭から ワイルドに引っこ抜いて(笑)下さったもので プランターに植え、駐車場脇の植え込みで管理してきました 日陰に強い植物なので、日当たりの悪いここでも 綺麗に咲いたのでしょう ただ、西日が当たり過ぎるのは良くないらしいので 何かの影になるようにして育てたいと思っています |
0 件のコメント:
コメントを投稿