2020年7月22日水曜日

8月の土曜学校のお知らせ

8月1日(土)
午前9時から11時30分まで
土曜学校を行います
テーマは「ノアの箱舟」
保護者の方も参加大歓迎です!
コロナ禍にありますが
今の所飯田は落ち着いていて
6月の再開以来
連続して実施できていることに
感謝です


工作は、昨年好評だった
「あきかんランタン」をリピ(^^)
出来上がったら
夏の夜、お庭に飾ってみてください

2020年7月20日月曜日

御霊(みたま)に生きる(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(2020年7月19日)
イザヤ44:8  ローマ8:12-15 マタイ福音書13:24-30

 本日のたとえに登場する人々が育てているのは麦です。生きるために最も大切な作物です。それなのに、自分達が眠っている、ほんのちょっとの隙に、畑の真ん中に毒麦の種を蒔かれてしまったのです。しかし主人は僕たち責めることなく、収穫する時まで待てと命じます。良い麦と毒麦を一緒に実らせておき、最終的に選別するから大丈夫だ、というのです。
 調べてみますと、イネ科の中にドクムギ属と呼ばれる分類がちゃんと存在していて、アルカロイドという毒を含んでいるそうです。ドクムギは成長しきらないうちは小麦とよく似ていて、根も小麦と入り組んでいるため、無理に引き抜くと良い麦を間違って抜くことになりかねないそうです。そこで主人はあえて収穫の時を待ち、はっきりと二種類の麦の穂が判別できるようになったら、毒麦の穂を先に借り集めて焼いてから安落ち着いて小麦を刈り取ることにしたのです。

 しかし、興味深いことに、どうやら、この僕たちが刈り取る作業をするのではないようなのです。30節を見ますと「刈り取る者」というのは他にいるようです。
 この例えで押さえておくべきは、僕たちの役割は、主人が種を蒔いた畑を見守り、管理し、小麦も毒麦も共に育てていくことなのです。

 このたとえについて、37節以降でイエス様が改めて解説しておられます。これを私たちの身近なところに当てはめてみましょう。 
 「イエス様がこの世に来られて、弟子たちを集め、育てておられます。そこは豊かな畑のようです。今の教会をイメージして見てください。
 しかし教会に集うようになった人の中には、教会を混乱させる者も出てきます。伝道がうまくいかなくなる様子は、まるで悪魔に妨害されているようです。しかしそういった人々を裁いて教会から追い出してはいけない。成長の過程で「悪い」と判断して、抜いて捨ててしまうのは同じ教会の中にいる人々の役割ではない。この世界が終わる時、天使、つまり神様から任命された御使がその役割を果たすことになっている。あなた方はとにかく忍耐し続けるように、そうイエス様がいっておられる」
 
 イエス様は、私たちが憎しみや怒り、自分独自の正義感に振り回されやすいことをご存知です。また、せっかちですぐに白か黒かと決着をつけなければ気が済まないところがあるのも知っておられます。だからこそ、カッと頭に血が上ったり、結論を急いでイライラしたりするときこそ、主の言葉をわが身に当てはめて聞いて行く必要があります。世の中一般の「こうしたほうがいい」という無責任なアドバイスや価値観に振り回されないように注意しなければなりません。

 「御霊(みたま)に生きる」とは、何か根拠のない、見えないものにすがるのではありません。私たちを導く「御霊」、「聖霊なる神」は、聖書のみ言葉を通してどんな時も語りかけてくださいます。自分の心に毒麦のように生えてくる怒りや憎しみを正当化しながら生きるのではなく、また、無理やり抑え込んでストレスを溜めるのでもなく、毒麦かもしれない存在と共に生きることの中にも恵みや楽しみを見出しながら、必ず訪れる収穫の時を待ち望みながら生きる。み言葉に導かれるなら、こんな私たちでも必ずそうなれる事を、主は教えてくださるのです。

 この毒麦のたとえを記したマタイは徴税人でした。社会の嫌われ者、と軽蔑の目で見られたマタイは、イエス様に招かれて弟子となり、やがて伝道者となります。かつてのマタイは、他の人から見れば抜かれて当然の毒麦のような存在でした。しかしマタイは自分をそのように扱った人々に、イエス様の愛を伝える立場となったのです。
 伝道活動していく中でマタイは、ユダヤ教とキリスト教のぶつかり合いを体験します。ある場所ではユダヤ教徒がキリスト教徒を迫害し、別の場所ではその反対のことが起こります。どちらも自分たちこそ神様の教えに忠実だ、と張り合い、憎しみあい、結局御心から離れてしまう様を何度も見たことでしょう。だからこそマタイはすべてのキリスト者が、収穫の喜びを待つ間に起こる憎しみや怒りの感情で暴走するのではなく、主の手に委ねながら生きていくことを教えたのです。

 大人も子どもも、主に招かれてここに集う私たちは何度でも何度でも、み言葉に耳を傾け、やり直していく必要があります。わたしたちも、今も、これから先も御霊に生きるものです。憎しみや怒りに生きる以外にキリストの愛に生きていくという道が与えられているのです。





先週の金・土は
年長クラスの「一泊お泊り保育でした
あいにくの雨でしたが
先生方の周到な準備によって
無事に楽しく終えられ、感謝です
写真は1日目3時過ぎに行われた
「お買い物」の様子
あらかじめ10円玉を10枚渡された子ども達が
セットしてあるおやつを買いにきます
さっと決める子
迷いに迷う子
様々で見ていて興味深いです

2020年7月13日月曜日

種蒔く人(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第6主日礼拝(2020年7月12日)
イザヤ55:10-13   ローマ8:9―11 マタイ福音書13:18-23

 聖句を丸暗記する習慣は、大切なことだと私は思っています。聖書のみ言葉は神様からのメッセージの完全な現れとして、私たちに与えられ、時に誘惑から救いだし、時に弱った信仰を強くする、励ましと愛と力にに満ちた言葉だからです。
 覚えるよう促された時は、その行為にどんな意味があるのか、わからないかもしれません。しかし身に危険が迫った時、突如としてその言葉が蘇ってくる。そして神様が私に「どうせよ」とおっしゃってるのかわかる。それこそが神様が共にいてくださる証拠であり、それを感じられることが、聖句を覚えることの大切な意味なのです。
 イエス様は、聖書の言葉を、そして、イエス様の言葉ご自身を、そして、その後に続く弟子たちの言葉全てを、聖霊の言葉と示されました。そして後の時代にそれらを聖書としてまとめるよう信徒たちを導かれ、神ご自身の言葉となさって、長く後世に伝えられるようにされたのです。

 先ほど読みました福音書は「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と始まります。直訳すると、「あなたがたは、そのような関りで、この種を蒔く人の譬えを、過去も現在も未来も聞け」という意味の言葉となります。
 イエス様は、一度覚えたつもりで忘れてしまっても、何度でも耳を傾け直し、新しい発見をすることを願っておられるのです。もしあなたが自分の信仰生活になんの実りも感じられないとしたら、本気でみ言葉を聞いていないからです。イエス様に言わせると、心にみ言葉の種を撒かれていながら、それを育てようという気がないから、ということにもなります。

 本日のたとえ話で、イエス様はみ言葉をタネにたとえ、御国の言葉をいつまでも聞いて悟らなければ、道端に落ちたタネ同然にを悪い者がやってきて奪いとるとおっしゃいます。み言葉の学びが続かない人の心を、石ころだらけの土地や茨だらけのやぶにたとえたりなさいます。
 この話を聞いていた主だった弟子たちはガリラヤ湖の漁師出身で、農夫ではありませんでしたが、イエス様の導きに従って自分自身が成長していくにはどのような心構えが必要なのか、また、伝道して新しい仲間を増やしていくときには何が大切なのか、タネのたとえ話とその解釈を通して、次第次第に理解できるようになっていったのです。
 ここで注意しておかなければならないのは、イエス様は一足飛びに高い収穫量を目指せとはおっしゃっていません。イエス様のみ言葉に促され、信徒として成長しようと努力し、伝道の苦労を重ねても、一気にたくさんの結果を得られるわけではないことをイエス様はご存知だったからです。
 あなたがクリスチャンとして伝道に携わっていこうと決心し、苦しみがあっても、収穫が上がらなくても、止めることなく続けられているということは、あなたの心はすでにイエス様によって耕された良い土地だということなのです。そこを疑う必要はありません。
 しかし、あなたがより多くの収穫を得ていくには、より多くの失敗を経ていかなければならないであろうことをイエス様は誰よりも知っておられました。ただ、「私を受け入れたあなたの心は良い土地なのだ、それを忘れないように」と語りかけ続けてくださるのです。

 収穫の上がらない働きを続けながらも、神様の言葉を伝えていきたい、神様からの救いの言葉をより多くの人々に伝えたい、神様はあなたのこともちゃんと愛している存在であることを気づかせてあげたい、といった思いが途切れないなら、それが神様が蒔いて下さった種が育った結果であり、イエス様の思いなのです。
 
 私たちは、与えられたこの場所を、神様の喜ばれる豊かな場所にしていく必要があります。聖書の言葉、イエス様の言葉、信仰の言葉を大事にしながら、私たちは地上の命が終わる時まで育ち続ける存在であり、み言葉に繰り返し繰り返し聞き、新たに悟り、発見していくことができるのだ、と心に刻んで参りましょう。
 どのような時代が来ても、また、どんなに環境が変わろうとも、人が生きている限り、命がある限り救いは必要です。私たちも種蒔く人となり、成長し、又、誰かの成長を促す者となるために、日々み言葉を心に抱いて、それに基づく歩みを一歩一歩進めながら、豊かな収穫の時が来ることを信じて参りましょう。


幼稚園では今「ミックスジュース」や
「飛んでったバナナ」などが
うたわれています
こんなお天気なので
せめて掲示板の中だけは明るく、と
「飛んでったバナナ」をイメージした
レゴ作品を入れました


ミックスジュースといえば
朝比奈牧師の出身地
大阪が本場(?)でしょう
コロナの影響でなかなか大阪に
帰省できないので
先日、お取り寄せをしてしまいました

2020年7月6日月曜日

共に重荷を担う方(日曜のお話の要約)

まず初めにこの度の豪雨と
球磨川の反乱で被害を受けられた皆様に
神様の慰めと救いの御手がありますよう
お祈りいたします

聖霊降臨後第5主日礼拝(2020年7月5日)
ゼカリヤ9:12   ローマ7:23-25a マタイ福音書11:25-30

 私たちは一人一人何らかの重荷を負って生きています。特定の宗教を持たない人でも、時には神社仏閣にいって手を合わせ、重荷を取り除いて欲しいと祈ることもあるでしょう。
 本日の福音書の箇所には「重荷を負う者」という言葉が登場します。「重荷を負う」という言葉は「上に置く」という意味があります。
 私たちは父なる神様を信じていますので、神様がわたしたち一人一人に荷物を与えてくださったのだと理解していますが、時にあまりの重さに潰れそうになり、信仰そのものが揺らいでしまうことも少なくありません。

 この「重荷を負う」をもとの言葉にあたってみますと、その重さというのが、船に乗り込ませる荷物の量、つまりは私たちが、長い旅行をする時のような大荷物を背負わされているというイメージです。そもそも私たちは一人で運べないほどの荷物を負わされていることになります。これでは到底ひとりでは生きていけないので、周りの人と助けたり助けられたりしながら生きていく存在なのです。
 
 私たちが住むこの世界は、神様がお創りになった時、はなはだ良いものでした。そして私たちの命、一つ一つが重要で尊いものだったのです。しかし人間は神様との約束を破ることによって、その良きものを台無しにしてしまいました。
 私たちはその良き世界に戻るために、それぞれが悔い改めて神を神として崇め、平和で、調和の取れた、神様が与えてくださったルールを守れるよう学び、実践していかなければなりません。そのような世界を、クリスチャンである私たちは、神様の子どもとして守り、管理していく役割が与えられているのです。
 多くの人がその役割を放棄したり、気づいても気づかないふりをし続けてきました。その結果、私達の住む世界は楽園とは程遠い状態になっています。物の溢れた時代、科学万能を信じる人々が圧倒的に多い時代に、神様のみこころにしたがって物事を見極め、行動しています、と説明しても理解してくれる人は少ないでしょう。
 なぜなら神様の導きは、ルールブックやマニュアル書のような具体性はないからです。赤いボタンを押したら、次は青いレバーを引っ張りなさい、みたいに書いてあればわかりやすいのですが、そういうわけにはいかないのです。
 マニュアルに慣れた現代の私たちにとって、神様の御心は凄く抽象的に思えます。しかし私たちは、イエス様から「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」という招きの言葉を受け取りました。イエス様は、「あなた一人でやるんじゃない、私が一緒にやるから」と聖書を通して約束してくださっているのです。
 突っ走りやすい性格の人も、おっかなびっくりでなかなか進まない人も、み言葉に学んでいくうちに知らず知らずのうちにイエス様の配慮のもとで自分に適したペースを学んでいきます。決して私たちがダメだから、と見捨てることがないのです。
 私たちが単独で神の思いに応えていくことは不可能でも、イエス様に見いだされた一人一人だからこそ、弱い力ながらも用いられ「わたしの軛を、わたしと共に担いなさい」とおしゃってくださるのです。

 軛とは、本日の週報の表紙の写真にありますように、牛や馬などの大型の動物に農機具や車を引かせる時につける頑丈な木製の器具です。動物が一頭の時もありますが、その重さによって、二頭、三頭と動物を増やすこともあります。
 軛に繋がれてしまうと逃げ出すこともできず、ヘトヘトになっても労働させられるとうイメージがあります。ここから転じて、一般的な言葉では「自由を束縛するもの」という意味があります。
 確かに、がっちりと首を抑えられて、後ろから鞭で追い立てられながら進んでいかなければならないとしたら、想像しただけでうんざりします。
 しかしそんな軛をイエス様ご自身が私の横に来て、喜んで並んで繋がってくださるというのです。自分の力だけでは前進することができなくても、イエス様が横にいて、励ましながら前進してくださるのです。そのお姿は信仰で感じ取れるだけで、目で見ることはできません。しかしそれは私たちのこの地上での人生が終わるまで、変わらない、と約束してくださるのです。


牧師館から車で15分ほどの山沿い
飯田インター近くに
ポツンとブルーベリーとりんごの
観光農園があります


先日の梅雨の晴れ間
車のメンテナンスのついでに
立ち寄ってみました


これから色づく実もたくさん
どの木が甘いかと探しているうちに
エデンの園にいるような気分に
なりました



お土産に持って帰ったブルーベリーは
ナッツと一緒にヨーグルトに乗せて
飯田産の蜂蜜で少し甘みをつけました
これはうまい!

2020年7月4日土曜日

7月4日の土曜学校報告

主題聖句
:初めに、神は天地を創造された。 
 (創世記1章1節)
賛美
:かみさまにかんしゃ
 聖者の行進
礼拝出席
 :子ども 土曜保育8名
      教会学校13名 
  おとな 7名

3密を避けながら
今日も楽しく土曜学校を行いました
土曜保育のみんなと一緒に
礼拝と7月のお誕生会
お誕生月の人は5名!
おめでとうのガラポンで
プレゼントが当たりました

製作は「海のリース」
教会学校のメンバー13名が参加


新曲「聖者の行進」には
りか先生もマラカスで参加してくれました


マスクをしたまま賛美やお話は
なかなか大変ですが
子どもたちも慣れてきたようです


お誕生日ガラポン



海のリース製作中


出来上がりました!














年中さんから中学生まで
同じ様に見えてみんな少しずつ違います
よく頑張りました
おうちに飾ってくださいね

次回の土曜学校は8月1日
みんな来てね