2020年5月25日月曜日

キリストの昇天(日曜日のお話の要約)

主の昇天日礼拝(2020年5月25日)
ルカによる福音書 24:44-53

 キリスト教では「罪」という言葉が多用され、礼拝の中でも「懺悔」の時間が設けられます。自分はそこそこ善人だと思っている人は「人は皆罪人です」と言われて気を悪くすることもあるでしょう。
 しかし罪という概念は、人類が生まれた後、すぐに登場してきます。園の中央にある知恵の実を食べ、神様との約束を破ったことが罪の始まりでした。これは原罪と呼ばれ、全ての人間の持つ性質となりました。人間は、神様の導きに従わず、自分が良いと思ったことをやってしまい、大変なことになるという、悲しい性質をもっているのです。
 「罪」という言葉は元々のギリシャ語では「的外れ」ですが、更に調べますと「正しい道を迷い出る」という意味もあります。「正しい道」とは神様と共に歩む道です。そう考えますと、「罪」という言葉には「人間の愚かさ」を表すと同時に、「神様が人間を正しい道に導こうとする、切なる思い」が込められているのです。
 「罪」という言葉を突きつけられて腹を立てるのではなく「神様は私が道を逸れていこうとするのを見逃すことができず、導こうとして必死で呼んでおられるのだ」と知ることが大切です。そうすれば、「罪人」と言われても神様がこんな自分を愛しておられるのだ、と感謝の思いで悔い改めの時を持てるのではないでしょうか。

 本日読んでいただいたルカ福音書にも「罪」という言葉が出てきます。ルカの想定した最初の読者は、ルカ自身と同じく、エルサレムから離れた場所で生まれ育った外国人達でした。この人々は旧約聖書の知識がなく、イエス様についても「十字架で死んで三日目に復活した方」というくらいしか知りません。そこでルカは、そういった読者にも読みやすいように福音書を記しました。
 ただ、わかりやすく書きつつも、ルカは、人間のできる良いことには限界があって、そこが人間の弱さ、悲しさであることを表現します。この悲しさを生み出すのは、人の罪です。先ほども申しましたように、人は知らず識らずのうちに正しい道から逸れていく傾向があるからです。ルカは、そこに生まれる葛藤や苦しみ、絶望から人間を救うためにイエス様が地上に来られたことを記しました。
 しかし、イエス様のご生涯に込められた神様の計画を知るためには、外国人クリスチャンも旧約聖書を読む必要があります。そこでルカは、イエス様は御自身が天に上げられる直前に「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた」という言葉を記しました。
 心を開くというのは、「ちゃんと説明を受ける」という意味でもあります。神の子としてこの世に来られたイエス様が、愛の業を行い、人々を教え養い、守り通したにも関わらず、同胞からは見捨てられ、この世から否定されて殺されてしまう。しかしこれは聖書、つまり旧約聖書に書かれた全てのことが実現するためだった。そのことが非常に短い言葉で46節、47節に書かれているのです。
 メシア、つまりイエス様がなぜ苦しみを受け復活されたのか、旧約を通してしっかり理解できた人々こそが、神様の愛の深さと自分の罪深さに気づき、心からの悔い改めにも導かれるのです。そして悔い改めて新しく歩みだした人々だけが、あらゆる人々に宣教していくことができる」ルカはそのように考え、自分の福音書を読む人々に伝えたのです。

 さて、最後になりますが、復活したイエス様が40日目でどうして天に昇られたのでしょう。イエス様がずっとそばにおられれば、どれほど心強いだろうに、なぜイエス様は弟子たちを置いて置いて天に帰ってしまったのでしょうか。
 その答えは、私たちが礼拝で共に声を合わせる使徒信条にあります。使徒信条では、イエス様は神の右の座におられる、と唱えています。イエス様が父なる神の右におられることを教える聖書箇所で印象的なのが、使徒言行録7章の最後にあるステファノの殉教です。
 死を覚悟したステファノが天を仰ぐと「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見え」たのです。イエス様はその時まさにステファノの魂を迎え入れようと立ち上がっておられたのでしょう。このステファノの証言は私たちに励ましを与えてくれます。
 イエス様は望む人々全てと共におられるために、肉体という制限あるお姿を脱ぎ捨てられたのです。そしてご自分の代わりに見えざる神、三位一体の神である聖霊を地上に送ってくださいました。私たちが信じるならば、聖霊なる神の存在を通して、いつでもイエス様と共にいることができるのです。


先週の金曜日、花苗を購入しに生産者さんのハウスに行きました
ルーテル幼稚園の園長先生の親戚が作っておられるハウスです
小売もしてくださるというので
牧師夫妻(特にゆうこ先生)喜んで出かけました


ニチニチソウ、ジニア、ブルーサルビア
ガザニア、ベゴニアなどなど
広々としたハウスで元気に育っています


マスクに帽子に日除けサングラス
かなり怪しい姿のゆうこ先生

翌日、彼女は自分の選んだ苗を持って
礼拝堂と道路のすき間の細い花壇に植えるべく
体をねじ込んでいました
なかなか大変な作業です



もう少ししたら大きく育って
また道ゆく人を楽しませてくれるでしょう

2020年5月18日月曜日

弁護者キリスト(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2020年5月17日)
ヨハネによる福音書 14:15-21

 キリスト教主義の様々な施設で大切にしている心構えとして、「愛の精神」があります。これは言うまでもなくイエス様が弟子たちに教えてくださった心構えです。しかし「愛の精神」を持って生きるというのは、自動的に出来るようになるものではありません。イエス・キリストは生まれつきの人間は決してできないからこそ、あえて掟として与え、教えられたのでしょう。
 出来ないことをするのは、とても難しいことです。どんな天才も努力しないで何かを身につけることはできません。「愛」というものも、神様から教わった通りに試みて、失敗して、また学び直す。心が折れそうになっても繰り返し学んでいく。そんな謙虚な姿勢が必要なようです。

 イエス様は最後の晩餐の席上で弟子達をご覧になって「今のままの彼らでは、本当に愛の掟に生きることは難しい」と思っておられました。そこで、「私が天に帰った後、別の弁護者を遣わす」と言われたのです。
 これは「あなたがたは愛の実践なんてできない」と言う意味ではなく、「あなたたちだけでは続かない」という意味なのです。「自分の力だけでは続かないのが愛の実戦だ」そのように教えてくださったのです。
 イエス様の弟子達は、イエス様が生きている時に「愛の業を行いなさい」と命じられた時にはちゃんとできたのです。ヨハネ以外の福音書の話になりますが、イエス様から二人ずつ組になって宣教に行くよう促された時、彼らは素晴らしい働きをし、達成感を得て喜びながら戻ってきたことが記されています。
 この時彼らがうまくいったのは、イエス様が傍らにおられることが分かっていたからです。たとえ宣教に失敗しても、ピンチに陥っても、何があってもイエス様が彼らを受け入れ、待っていてくださると分かっていたから大胆に行動できたのかもしれません。
 ところがイエス様がそばにいてくださらないと、途端に自信を失います。「神様が見ておられますよ」と言われても、目に見えない方を信じて行動するのは難しいのです。かつてイエス様がそばにいてくださった時には自然にできたことが、イエス様が十字架にかかってしまうと、できなくなってしまう。かつての自分の心や行動は何処かに行ってしまい、勇気もやる気も失われてしまう。そしてイエス様を知る前の自分に戻ってしまって、世の大多数の人と同じような考え方になってしまうのです。

 しかし、この世から愛の精神、愛の業や言葉が失われて良いはずはありません 神様は、人々に愛の心をもう一度取り戻させるために、愛の精神をもう一度学び直させるために、イエス様をこの世に遣わしました。そして、イエス様に学び、信じるよう示してくださり、その生き方の中に一人一人を招き入れてくださったのです。

 私たちは他の誰かの痛みを理解しようと心を配り、イエス様に倣って誰かに手を差し伸べようとします。それは時にはうまくいき、時には失敗します。人々に誤解され、嫌われ、絶望的な気持ちになることすらあります。しかし弁護者であるキリストは、失敗した私たちを裁くために存在するのではありません。私たちを力づけ、素晴らしいコーチのとして、「発想は良かった、やり方を変えてもう一度やってみよう」と励ましてくださいます。
 ひどく失敗して、他の誰かから罵られても、すべてわかった上で受け入れてくださり、変わらずにそばにいてくださるのです。イエス様が私たちに愛想をつかすことなどないのです。
 私たちは安心して、諦めることなく間違いを正しつつ、時には、大きな悔い改めをもって、生き直すことも必要です。そのような時間と場が、この世には必要なのです。

 私たちは十字架の主イエスを見つめながら、自分の欠けたところをイエス様が満たしてくださることを信じましょう。
 そうした生き方を選び取る時、主イエスがどんなときも共におられ、見守り、弁護してくださることを思い出し、常に感謝しましょう。そして神の見守りの内に導かれるままに歩んで参りましょう。



5月15日(金)はサツマイモの植え付けでした
例年なら、園児、保護者、先生たちがワイワイと
賑やかに作業をするのですが
今年は三密を避けなければなりません



広々とした畑の中で
限られた先生と…


耕運機を持って駆けつけてくださった保護者の方
そして、そのお子さんだけで作業をしました
畝は半分ほど残して
別の日に園児たちに植え付けしてもらいます



密を避けて、と言いつつも
「棒を斜めに差し込んで苗も斜めに」なんて
おしゃべりをしているうちに
ついつい接近してしまいます(^_^;)

秋のお芋掘りの頃にはもっと自由に
作業ができますように!

2020年5月13日水曜日

前回の記事にコメントをくださった方へ

前任の牧師先生から引き継いだこのページ
実は管理がなかなかうまくいきません
コメントにはお返事を書きたいのですが
あっちこっちクリックしているうちに
なんだか妙なことになってしましました😅

こちらにお返事書き込んでおきます
申し訳ありません

ありがとうございます。他愛無い日常のことも多くupしていますが、よろしかったらお時間のある時にご覧ください😊あなた様の上に神様の恵みが豊かにありますように。草刈り、頑張ります!

2020年5月11日月曜日

天の国の住まい(日曜日のお話の要約)

復活節第5主日礼拝(2020年5月10日)
ヨハネによる福音書 14:1-7
 本日の福音書には「心を騒がせるな」「信じなさい」という言葉が、何度も出てきます。この言葉はイエス様が十字架に掛かる前、最後の晩餐の席上で弟子たちに語られました。
 これまでの3年半、弟子たちはイエス様と共に様々な苦難を乗り越えてきました。仕事も故郷を捨てて、旅から旅へ宣教して回る新しい生活に飛び込んだ彼らは、イエス様と共にあれば大抵のことは乗り越えられる事を体験を通して知りました。
 イエス様の教えと奇跡の力をみた民衆も、ローマに虐げられているイスラエルを再び自由にしてくれるリーダーはこの人かもしれないと期待し始めましたし、弟子たちもイエス様の元でイスラエルの大臣になることを思い描いていました。

 彼らは、自覚はしていなくても、イエス様を押し上げることで自分も高い地位につこうとしていたのです。しかしそれはイエス様を利用する、神様を利用しようとする心の芽生えに他なりませんでした。

 「イエス様を利用する」という発想は「神様を自分の都合で動かそうとする」といことと同じで、神様への裏切りの始まりです。自分の願いや期待を叶えてくれない神様は神様じゃない、と思うようになってしまうのです。もちろん神様は、イエス様を信じる人々に豊かな恵みを与えることを望まれましたが、それは彼らの刹那的な望みを叶えるという意味ではありませんでした。仮に生きている間だけ欲望を満たしてやっても、それは限定的な恵みでしかありません。
 イエス様は、弟子たちに、「自分の願いを叶えてくれるのが良い神様」というイメージを、決して抱かせたくはなかったのです。
 神様がお与えになる恵みとは、神と共に歩もうとしている人々を永遠に変わることのない楽園、神の国にお招きになることでした。人はこの世の命を終えた後、その国に入ることができると信じてほしい、そう願っておられたのです。そしてイエス様は、ご自分が神様の国に至る道そのそのものであると、お教えになりました。

 この食事が終わって数時間ののちには、「私は道である」と言われたその方が、捕らえられ、強盗達と並んで十字架につけられるという、惨めな最期が迫っています。しかし、イエス様はそれを覚悟した上で、弟子たちを真剣な眼差しで見つめながら語られました。
 あなたがたは、人の力に寄らず、自分の成し遂げた行為にもよらず、守ってきた掟やルールにもよらず、神様の力によって、イエス様を信じ、生きている。この一点に揺らぐことなく、天の国があること、その住まいがすでに与えられていることに安心していなさい、と教えられ、迷ったり心を騒がせたりせず、一度信じたイエス様への信仰を保ち続けることを望まれたのです。目には見えなくても、神の国は自分と共にあるのだと確信して、これから起きる事を耐えなさい、と言われたのです。

 ところで、「心を騒がせるな」というイエス様の御言葉を、ギリシャ語から訳しますと、「心が騒がせられるな」という受け身の形で記されていることがわかります。人の心の動きには外からの力が強く影響しています。外からの力によって動揺し、なぜ、このようなことが起こったのか、こんなことが起こるなんて、本当に神様がおられるのだろうか、という風に心が傾きます。
 特に大切な人の死を経験したり、自分の命が脅かされたりしますと、その悲しみと苦しみに我を忘れ、天国なんてない、神様なんていない、と嘆き悲しみます。
 これはイエス様の弟子たちも経験したことでした。弟子たちにとって、かけがえのない存在であるイエス様が十字架に架けられて死に、自分たちにも命の危険が迫っている。その恐ろしい現実に打ちのめされ、一度は閉じこもった彼らでしたが、蘇ったイエス様の力強い証を受けて、天国の存在を信じ、立ち直ることができました。

 死が迫るような出来事があっても、それによって死ぬことになったとしても、神様を信じること、イエス様を信じることを、何があっても止めてはいけないというイエス様の命令を、自分自身のこととして受け止め直し、新たな歩みを始めることができたのです。
 私たちは今、外からの力で心がザワザワと乱れることの多い生活を送っています。こんな時だからこそ、いつにも増して強く神を信じ、世の中に溢れている不安な雑音に心を乱されることなく、イエス様を信じていくことが大切なのです。


教会の隣に空き地があります
園児がときおり先生に引率されて
虫取りに来たりするので
定期的に草刈りをしていますが
なかなか追いつかなくなってきました

ムラサキツメクサは昨年秋に
近くの畦道から頂戴してきたもの
可愛らしい花を咲かせ始めました


ヒメジョオンも一斉に咲き始めました
どこにでもある雑草ですが
江戸時代末期に観賞用として輸入されたものが野生化したそうで
そう思ってみれば可愛らしいかな…とそのままに
しておくことにしました

※上記の植物はハルジオンではないかとの指摘を受け
改めて調べたところ、茎が中空で蕾がうなだれる
などの特徴から、やはりハルジオンのようです
失礼しました



一月前は草刈りも楽でしたが
暑さとともにかなり大変になってきました

2020年5月4日月曜日

良き羊飼い(日曜日のお話の要約)

復活節第4主日礼拝(2020年5月3日)
ヨハネによる福音書 10:1-10
 本日のヨハネ福音書でイエス様は「羊の囲い」の例え話を語られています。この「囲い」という言葉は、原典では「庭」という単語です。ぐるりと囲われた内側に庭があるイメージです。囲いの内側が「神の庭」で、神様の息がかかるところすべてが神様の庭なのです。

 こうお話すると創世記に出てくる「エデンの園」を思い浮かべるでしょう。最初の人・アダムは神様に息を吹き入れられて命を与えられ、妻のエバとともに大切に守られて「エデンの園」で何不自由なく暮らしていました。ただ一つ園の中央にある木の実を食べさえしなければ、いつまでも幸福でいられたのです。ところがある日彼らは神様を裏切り、美しいエデンの園から、つまり神様の庭から追放されてしまいます。
 聖書は、むしろここからが始まりです。神様は庭から追放した彼らを見捨てず、いつの日か救い主を遣わし、再び神の庭に迎え入れると約束してくださったのです。イエス様と言う方は、その約束を果たすために、使命を帯びて地上に来られたのでした。
 イエス様のお話を聞いた人々の多くは感動し、「もう二度と神様を裏切るまい」と決心して新しい信仰生活に踏み出しました。

 しかし、イエス様を神の子とは信じないファリサイ派の人々は、イエス様が言われることを理解しませんでした。ファリサイ派の「ファリサイ」という言葉は、分けるという意味があります。もともとは神様の教えに忠実に従うために「良いこと悪いこと」を分類しました。そして他の人々にもそう教えました。しかし次第にそれが行き過ぎて、ついには自分達の作り出した基準を守ることこそが信仰的なのだと信じ込んでしまいます。
 彼らの多くは社会で力を持つ政治家や先生でした。頭は良いのですが度量が狭いのです。神様の愛の大きさも、自分達の基準で推し量るので、彼らの伝える神様は考え方の狭い、気難しい存在になってしまったのです。

 イエス様はそんなファリサイ人たちに向かって、神様の囲いというのは、あなたたちの思っているよりもはるかに広いと言われました。ただし、無限とも思われるほどに広い神様の庭には門があり、その門を通らなければ永遠に囲いの中には入れない、と言われるのです。
 ファリサイ人のようなやり方で入ろうとするのは強盗であり、神様に許されて正しく門を出入りすることができるのはイエス様だけである、ただし、イエス様の招きに感謝して門をくぐろうとする者は、それがどんな人であろうと喜んで迎え入れる、と言われるのです。
 これを聞いたファリサイ人たちは、自分たちの教えや掟を否定されたと感じて怒りに燃え、イエス様に殺意さえ覚えるようになって行きます。

 ところで、「良き羊飼い」の「良き」とは、人間にとって役立つ「良い」ではなく、「気品がある」とか「健全な」「美しい」という意味です。「がさつ」ではなく「丁寧」なのです。
 「良き羊飼い」は、羊一匹一匹の名前や性質を知り抜いています。そして知識と知恵で羊達を豊かな牧草地に導き、外に出て迷わないように、羊の飛び越すことのできない高さに石をつみ、羊が安心して憩える庭をつくったそうです。
 そこまでしても時には泥棒や強盗、狼といった猛獣からも羊を守らなければなりません。仮にそれで命を落とすことがあっても、それは良き羊飼いとしての、気品であり、プライドなのです。
 ヨハネは、イエス様にこの「良き羊飼い」の姿を見たのです。羊が羊飼いに愛されて生きるように、人もまた、神の子イエス様に愛されていることを伝えました。イエス様は御自身の命を落とすまで愛してくださった、その姿に人は自分の命の大切さを思い知らされ、神に生かされていることを知るのです。

 私たちは新型コロナウィルスの出来事によって、今日の幸せや繁栄が明日も続くわけではない、と改めて知りました。そのような社会の中で、私たちは信仰の歩みをするように招かれているのです。
 私たちは、人の心をむしばむ噂話に振り回されることなく、良き羊飼いであるイエス様に従って可能な限り教会に集い、聖書を通して語りかけてくださるイエス様の御声を生きる指針として参りましょう。これから先何が起こっても、キリストと共に歩んでいく喜びを忘れないでいましょう。
 良き羊飼いであるイエス・キリストは、私たち一人一人の名を呼びながら、神様の御声が届くところに、神の息が感じられるところに、神の庭に留まりなさいと温かい眼差しを注いでくださっているのです。



どこにも行けない毎日
せめて、のどかな田舎の産直を表現して
掲示板に入れました
お花屋さんとパン屋さんです