2020年5月4日月曜日

良き羊飼い(日曜日のお話の要約)

復活節第4主日礼拝(2020年5月3日)
ヨハネによる福音書 10:1-10
 本日のヨハネ福音書でイエス様は「羊の囲い」の例え話を語られています。この「囲い」という言葉は、原典では「庭」という単語です。ぐるりと囲われた内側に庭があるイメージです。囲いの内側が「神の庭」で、神様の息がかかるところすべてが神様の庭なのです。

 こうお話すると創世記に出てくる「エデンの園」を思い浮かべるでしょう。最初の人・アダムは神様に息を吹き入れられて命を与えられ、妻のエバとともに大切に守られて「エデンの園」で何不自由なく暮らしていました。ただ一つ園の中央にある木の実を食べさえしなければ、いつまでも幸福でいられたのです。ところがある日彼らは神様を裏切り、美しいエデンの園から、つまり神様の庭から追放されてしまいます。
 聖書は、むしろここからが始まりです。神様は庭から追放した彼らを見捨てず、いつの日か救い主を遣わし、再び神の庭に迎え入れると約束してくださったのです。イエス様と言う方は、その約束を果たすために、使命を帯びて地上に来られたのでした。
 イエス様のお話を聞いた人々の多くは感動し、「もう二度と神様を裏切るまい」と決心して新しい信仰生活に踏み出しました。

 しかし、イエス様を神の子とは信じないファリサイ派の人々は、イエス様が言われることを理解しませんでした。ファリサイ派の「ファリサイ」という言葉は、分けるという意味があります。もともとは神様の教えに忠実に従うために「良いこと悪いこと」を分類しました。そして他の人々にもそう教えました。しかし次第にそれが行き過ぎて、ついには自分達の作り出した基準を守ることこそが信仰的なのだと信じ込んでしまいます。
 彼らの多くは社会で力を持つ政治家や先生でした。頭は良いのですが度量が狭いのです。神様の愛の大きさも、自分達の基準で推し量るので、彼らの伝える神様は考え方の狭い、気難しい存在になってしまったのです。

 イエス様はそんなファリサイ人たちに向かって、神様の囲いというのは、あなたたちの思っているよりもはるかに広いと言われました。ただし、無限とも思われるほどに広い神様の庭には門があり、その門を通らなければ永遠に囲いの中には入れない、と言われるのです。
 ファリサイ人のようなやり方で入ろうとするのは強盗であり、神様に許されて正しく門を出入りすることができるのはイエス様だけである、ただし、イエス様の招きに感謝して門をくぐろうとする者は、それがどんな人であろうと喜んで迎え入れる、と言われるのです。
 これを聞いたファリサイ人たちは、自分たちの教えや掟を否定されたと感じて怒りに燃え、イエス様に殺意さえ覚えるようになって行きます。

 ところで、「良き羊飼い」の「良き」とは、人間にとって役立つ「良い」ではなく、「気品がある」とか「健全な」「美しい」という意味です。「がさつ」ではなく「丁寧」なのです。
 「良き羊飼い」は、羊一匹一匹の名前や性質を知り抜いています。そして知識と知恵で羊達を豊かな牧草地に導き、外に出て迷わないように、羊の飛び越すことのできない高さに石をつみ、羊が安心して憩える庭をつくったそうです。
 そこまでしても時には泥棒や強盗、狼といった猛獣からも羊を守らなければなりません。仮にそれで命を落とすことがあっても、それは良き羊飼いとしての、気品であり、プライドなのです。
 ヨハネは、イエス様にこの「良き羊飼い」の姿を見たのです。羊が羊飼いに愛されて生きるように、人もまた、神の子イエス様に愛されていることを伝えました。イエス様は御自身の命を落とすまで愛してくださった、その姿に人は自分の命の大切さを思い知らされ、神に生かされていることを知るのです。

 私たちは新型コロナウィルスの出来事によって、今日の幸せや繁栄が明日も続くわけではない、と改めて知りました。そのような社会の中で、私たちは信仰の歩みをするように招かれているのです。
 私たちは、人の心をむしばむ噂話に振り回されることなく、良き羊飼いであるイエス様に従って可能な限り教会に集い、聖書を通して語りかけてくださるイエス様の御声を生きる指針として参りましょう。これから先何が起こっても、キリストと共に歩んでいく喜びを忘れないでいましょう。
 良き羊飼いであるイエス・キリストは、私たち一人一人の名を呼びながら、神様の御声が届くところに、神の息が感じられるところに、神の庭に留まりなさいと温かい眼差しを注いでくださっているのです。



どこにも行けない毎日
せめて、のどかな田舎の産直を表現して
掲示板に入れました
お花屋さんとパン屋さんです

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