2018年10月25日木曜日

―最近読んだ本からー「ルターの預言者ヨナ講解」


―最近読んだ本からー「ルターの預言者ヨナ講解」
         発行所 グロリヤ出版
著者 マルティン・ルター
訳者 岸千年
発行 19821130日 
        (定価):古本でお求めください(2000円程度)
 ヨナ書は、第2章が、宗教改革記念日の聖書日課としてあげられている。そして、マルティン・ルターが、このヨナ書講解を、著したのは1525年であり、1526年に、ラテン語とドイツ語で出版されている。
 1525年といえば、ドイツでは農民戦争のたけなわの時期に当たる。ルターがその苦悩の中で、書いた力作と言えよう。この邦訳の訳者は岸千年先生であり、その歯切れのよい訳で、ルターの息遣いが伝わって来る。ルターの時代には、現代のような正確な聖書釈義は、なかったと推測されるが、その環境の中で、大胆で洞察に富んだヨナ書の講解となっているのではないかと想像される。
 ルターは、ヨナ書の主人公、アミタイの子ヨナを、当時の名だたる預言者のひとりとして、旧約聖書の中に出て来る、現実に存在した人物として位置付けている。そして、宗教改革の時代に生きたルターは、この書をも信仰義認の立場に立って、当時のローマ教会を批判したり、農民戦争の熱狂主義に対する戦いのなかで、預言者ヨナの物語を、その時代の枠組みの中でとらえようとしている。ルターの時代の聖書解釈の手法であった比喩的解釈で、そこに出て来る大魚(クジラ)や、アッシリヤの神の都ニネベや、ルターの時代には分からなかった「とうごまの木」等々を最終章第4章の講解の終わりの部分で、展開している。
 ルターの大胆な聖書解釈が、このヨナ書講解では、一段と鮮明になっている。聖書を、そのテキストの本質に向かって、徹底的に分析して、旧約聖書、新約聖書の神髄に迫って解釈していくのである。この書の邦訳は、1982年に出されているが、その「まえがき」で、岸先生は、われわれは、ともすれば、四百年を空白にしてルターの時代を、そのまま、重ね合わせて、教会の問題を考えがちであるが、それは正当ではないと言い、この四世紀の間でも、神のことばは、生きて働き続けていたことを記憶すべきであると指摘している。 ルターのこの書を、現代の先の見えない複雑な世界で、私たちの置かれている現実の中で、そこに光を見出す道しるべとして、読み直し、捉え直すことが求められていると言えよう。本書は、わずか155ページほどの短い講解ではあるが、そして、興味深いヨナ物語の講解で、初心者向きの書物であるように思いがちであるが、何度も読み直すに値する聖書全巻の神髄に迫る名著ということができよう。


2018年10月20日土曜日

説教「祝福される結婚と家庭生活」(マルコ福音書第10章1節~16節)


20181014日、聖霊降臨後第21主日礼拝(―典礼色―緑―)、創世記第218-24節、ヘブライ人への手紙第25-9節、マルコによる福音書第101-16節、讃美唱128(詩編第1281-8節)

説教「祝福される結婚と家庭生活」(マルコ福音書第101節~16節)

 今日もまた、聖霊降臨後第21主日の聖書個所として、旧約聖書は創世記第2章から、使徒書はヘブライ人への手紙の第2章から、さらには、讃美唱として詩編第128編があたえられ、今日の福音マルコによる福音書第101節から16節までにふさわしい聖書個所がそれぞれ選ばれています。
 創世記の個所では、人がひとりでいるのはよくないと主なる神は言われて、最後に人のあばら骨を取って、ふさわしい助け手として女をお造りになられたとの記事が与えられていますし、ヘブライ人への手紙の個所では、今でも、主イエスにすべてのものが従っているのを、われわれはまだ見ていないが、その主は、私たちの罪のために死なれ、その死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠」を授けられたのを見ていますと記されており、主イエスが、これから、エルサレムに向かっての受難への旅の途上での、今日のマルコ福音書での主の教えであることを改めて指し示しています。
 讃美唱の詩編第128編も、私たちの礼拝では、朗読はまだなされていませんけれども、主を畏れる人の幸いを語り、その人の家庭は、家の奥に伴侶、妻が母親として、ぶどうの木のように食卓につき、子どもたちがその周りをオリーブの若木のように取り囲んでいる姿のように幸せと祝福に満ちていると歌っていて、今日の主イエスの教えに従うときの幸いにふさわしい詩編が与えられていると思います。
 
 さて、今日の福音は、前段は、結婚と離婚の問題が、テーマとなっていますが、それに続けて、子どもを祝福するというエピソードをめぐってであり、次週の福音は、これに続く財産と富に関わる問題がテーマとなっていて、主イエスは、これらの日常的な問題に対して、主イエスに従う弟子たちが、そして、同じ主の弟子である私たちが、これらの生きていくうえで、関りを持たざるを得ない出来事にどのように対処すべきかを、一つ一つ、主イエスが身をもって教えてくださったみ言葉が、このマルコによる福音書第10章に記されているのであります。その福音の中身について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

 まず、主イエスは、ユダヤの地域へと、そして、ヨルダン川の向こう岸へとやって来られます。これは、不思議な言い方であります。エルサレムのありますユダヤへとやって来られ、そしてまた、ヨルダン川の向こう岸であったペレヤという地域へと逆戻りしているようにも取れるのであります。ガリラヤから、南下してエルサレムに向かう途上で、再び、ヘロデ・アンチパスの領土でもあったペレヤへと舞い戻ることもあったのでしょうか。仮にそうだとすると、ヘロデ・アンチパスの敵意の中で、洗礼者ヨハネが、ヘロデヤとの結婚を非難して首をはねられた出来事を思い起こさせられます。そのような場所で、離婚をめぐる問答がなされたということかもしれません。

 主イエスは、そのような中で、いつものように、集まって来た群衆に向かって教えておられたのであります。マルコ福音書によれば、主はもはや、病人を癒すことはなさらず、弟子たちに教えること、群衆にも教えることのみに専念されておられました。そこに、ファリサイ派どもがやって来て質問するのであります。「離縁すること、離婚することは、律法に適っているでしょうか」と。本文には、律法という言葉はないのですが、彼らは、主イエスを罠にかけるために、この質問をしたのであります。離縁することは律法に適っていないと言えば、洗礼者ヨハネと同じ運命に立たされることにもなりかねないでしょう。律法に適っていると答えれば、離婚を大目に見て、姦淫の罪をも容易に赦してしまうことになり、これも窮地に立たされることになるでしょう。ファリサイ派どもは、すでに早い時期から、ヘロデ党と結託して、主イエスの命をねらっていたのであります。

 これに対して主は、モーセは、あなた方に何を命じたのかと、逆に質問を返されるのであります。彼らは、彼は、離縁状を書いて、夫が妻を出て行かせることを許しましたと答えるのであります。これは、申命記第241節以下に記されているのであります。夫が妻に恥ずべきことがあるのを見出したなら、離縁状を書いて、妻に渡し、家を出させる。出させた以上は、別の男と再婚して後に、もとの夫の下に戻ることはできないなどと書かれているのであります。

 それに対して、主イエスは、それは、あなた方の心のかたくなさ、頑固さ、冷酷さに向かって、それに対抗して、モーセはまさにその命令を書いたのだとお答えになります。あなた方男の身勝手さに反対して、そう書き、命じたに過ぎないので、離婚することが、律法に適っていることではないのだと、主イエスはおっしゃられるのであります。実際、離縁状を持たせて、家から出させるのは、妻が離婚されたことを証明するためであり、再婚することができる身であることを証明するためであって、女性を守るために、モーセはいやいや認めたに過ぎないと言われるのであります。そして、主は、結婚がどういうものであるのかを、創世記の第2章から説かれるのであります。「創造の初めから、神は人を男と女とに造られた。それゆえ、人は父母を後にし、妻と一体となる。それゆえ、彼らは二人ではなく一つの肉である。」従って神が合わされたものを、人は離してはならないと。結婚は、人の身勝手さによって、縁を断ち切ることはできない神の創造なさった秩序であると言われるのであります。

さて、弟子たちは、家に再び入った後、主にこの問題をさらに立ち入って質問すると、主は、結婚している夫が妻を離縁し、別の女と再婚したならば、夫は離縁した最初の妻に対して姦淫を犯すことになる。妻が夫を離縁し、再婚するならば、妻は姦淫の罪を犯すことになると言われました。これは、当時では、夫が、別の女と姦通した場合は、その女の夫に対して姦淫の責めを負うと考えられていたのに対して、主は、自分の妻に対して姦淫の罪を犯したのだとされ、夫と妻は一体であることを徹底して捉えた結婚観であると言えましょう。

私どもは、このような結婚生活を送ることが、果たして可能なのでしょうか。現実の結婚生活とは、その長い間には、何度も危機が訪れるものではないでしょうか。その中で、悔い改めと神を見上げ、共に欠けたところを補い合って、それぞれの賜物を認め合いながら、支え合っていくときに、主のみ教えは、祝福への招きとして、大きな力を与えてくれるものとなるでしょう。
さて、後段のエピソードと主の教えに移りましょう。エルサレムへの旅の途上で、主イエスの下に、前段と同じように人々が集まり、主が教えておられたときのことでしょうか、人々が、子どもたちを、主イエスの下に触れてもらおうと連れてきます。ところが、弟子たちは、彼らを叱ってやめさせようとするのであります。

弟子たちは、エルサレムへの旅の途上で、何となく緊迫感にとらわれ、主イエスの教えておられるのを妨害するもののように感じて、親たちを叱ったのでしょう。ところが、逆に主イエスはそれを見て憤られ、叱りつけられたのであります。「子どもたちが来るのをそのままにしなさい、邪魔してはならない、神の国は、このような者たちのものである」と。弟子たちは、自分たちこそ、主イエスに最も近い者であり、子どもたちや、彼らを連れて来た親たちは、周辺の者であり、このようなときに主イエスにふさわしい者ではないと思って、この挙に及んだに違いありません。ところが、彼らの思いに反して、主イエスは、弟子たちに憤慨なさったのであります。それどころか、神の国、神の支配とは、このような者たちのものであると宣言なさるのであります。
この子どもたちとは、どのような存在でありましょうか。子どもたちは、自分の力だけではとても生きていけない、助けを必要とする者であり、そして、自分に与えられるものを、贈り物として喜んで受ける存在であります。

それに対して、大人は、自分の功績を誇り、自分こそは抜け駆けの競争をしてでも、偉い存在になりたいと心の底では追及してやまないところがあるのではないでしょうか。弟子たちは、主イエスの招きに応じて、すべてを捨てて、主に従った者たちでありました。しかし、主イエスに自分たちこそ最も近い存在であると自負し、あるいはお互いに、自分こそ主の一番近くにはべりたいとの欲求は捨てきれてはいませんでした。それに対して、主イエスは、ここでも、近づくエルサレムでの死を前にして、弟子たちを真の弟子にするために自分の存在をかけて、教え続けられるのであります。

そして、よく言っておくが、子どものように、神の国を受け入れる者でなければ、決して神の国に入ることはないと言われました。新しく生まれ変わる、水と霊とによって、上から生まれ変わらなければ、神の支配に与ることはできないと言われるのであります。今日の出来事の後にも、弟子たちは相変わらず、栄光のときの、主の座の左右を争い、主の教えを理解することに遅い者たちであります。そしてそれは、そのまま、今の私たちの現実でもあります。12弟子たちは、主によって教えられ続け、主のご受難と復活の後に、逃げまどった挙句、再び集められ、この日の主の言葉の真意をようやく理解してゆくのであります。

主は、そのように弟子たちに語られた後、子どもたちを抱きしめながら、彼らに向かって両手を置いて祝福なさると、最後に記されています。親たちは、自分の子供を触れてもらいたくて、有名な、霊的な力もあるとのうわさのもとで主イエスのそばに連れて来たのですが、主はその願いをはるかに超えて、自分から子どもたちを抱きしめて、恐らく一人一人順番に、頭に手を置き、祝福までしてくださったのであります。主イエスの祝福の下に子どもたちだけではなく、弟子たち一人一人も招いておられるのであります。そして、私たちもまた、その祝福に招かれている。今日の詩編第128編の主を畏れる人の家庭が祝福されているように、私たちの結婚も家庭も、主イエスの祝福のもとに。アーメン。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。

2018年10月5日金曜日

―最近読んだ本からー「『キリスト教綱要』物語                どのように書かれ、読まれてきたか


―最近読んだ本からー「『キリスト教綱要』物語
               どのように書かれ、読まれてきたか
発行所 教文館
著者 ブルース・ゴードン 訳者 出村 彰
2017830日 初版発行
        定価:3200円(+税)
『キリスト教綱要』は言うまでもなく、宗教改革者ジャン・カルヴァンの代表的著作である。私共は、ルター派であり、昨年宗教改革500年を祝ったが、ルターと共に、宗教改革者としての彼の名は忘れられてはならない。私は、水俣教会に4年間牧師として在任したが、そこで出会ったチッソの研究所長さんの奥様は、日本基督教団の熱心な信徒であられた。ご主人は、ルーテル教会に深く傾倒されていたが、奥様は、教会を完成したのは、カルヴァンだと言われていたのを思い出す。
 今、私も「キリスト教綱要」を少しずつ読んでいるが、膨大な書物であり、その内容・骨格をつかむのは至難の業だと思う。ルターは、組織神学は打ち建てなかったと言われる。聖書を緻密に体系的にとらえたのは、カルヴァンなのであろう。ルターは、聖書講解でも、自分の気に入ったところを集中的に説いているのに対し、カルヴァンはほとんど聖書全体の講解を几帳面に残しているようである。
 さて、本書は、2017830日に、邦訳が初版発行されている。「キリスト教綱領」がどのように書かれ、読まれてきたかを、当初から現代世界に至るまで、広範な資料に基づいて、考察している。「キリスト教綱要」ほど、色々な評価がなされ、また世界に影響力を及ぼした書物は稀であることを、各時代の神学思想や歴史と突き合わせて、紹介している。宗教改革から500年の歩みの中で、この書がどのように読まれ、あるいは誤解され、多様に影響を与えて来たかを説いている。そして、それは、カルヴァン本人の信仰、神学、生活、行動力がいかに理解され、あるいは誤解され、今日に至っているかを物語っているのである。カルヴァンの神学について、私はあまり知らない。二重予定説や聖餐についての象徴説、また異端のセルベトをジュネーブ市参事会が火刑に処したことにカルヴァンが加担した出来事など、背景を知らずに聞かされて、その実体を知らずにいることも少なくない。特にルターとの対比において、カルヴァンを学ぶことも必要なのではないか。現在、アジアやアフリカでのキリスト
教の成長は著しいと言われ、そこでのカルヴァンの影響力は見過ごしにすることはできないと指摘されている。ルターの、どちらかといえば保守的な神学に対して、カルヴァンから学ぶべきところも大きいのではないか。一読に値する。