2020年8月25日火曜日

「わたしたちのミッション」

例年でしたらこの日は牧師はお休みをいただいて
飯田を離れ帰省し
引退教職の先生に
講壇奉仕をしていただくのですが
今年はコロナの影響でどこにも行けず
また、東京から来ていただくはずだった
引退教職の先生もいらっしゃれず
あれこれ考えた結果
牧師は休暇返上でここにとどまり
その代わり幼稚園の黒河内智子園長に
お話ししていただくこととなりました



黒河内先生は飯田ルーテル幼稚園の出身で
子どもの頃から幼稚園の先生になりたいと
思っておられたそうです

少人数制の良さを生かして
他の保育園やこども園に適応できなかった
子どもたちを受け入れ
のびのびとした幼児教育を
行っておられます

この日は園が今抱えている問題や
新園舎建築を控えての
これからの目標をお話いただきました

一つ印象的だったのは
子どもたちの間で流行している
いささか血生臭さに過ぎるような
あるテレビアニメに触れられたことです
夢中になる子どもたちを全否定するのではなく
バランスよく関わり
キリスト教保育の現場として
何を伝えていくか
祈りながら進めておられる様子に
現代ならばのご苦労と
ブレない姿勢を感じさせられました


週報にはフィンランドミッションによって
始められた教会と幼稚園の
懐かしい写真をあしらいました






2020年8月16日日曜日

すべては憐れむために(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第11主日礼拝(2020年8月16日)
イザヤ書56:1 ローマ11:29-32 マタイ福音書15:29-32

 本日の新約聖書は、ユダヤ人々が、自分たち民族に高い誇りを持ち、他の宗教を持つ人々を見下げ、積極的な交流をしないよう細かい掟を作り上げていた、という前提を踏まえて聞いてまいりましょう。
 本日の福音書の「そこをたち」ですが、この出来事の少し前、イエス様はガリラヤ湖の西側の街に滞在しておられました。そこにファリサイ人と律法学者たちがわざわざエルサレムからやって来て、イエス様に論争を挑みます。イエス様の弟子たちがユダヤ教の教えを守らず、食事の前に手を洗わないから汚れている、という指摘でした。
 これに対しイエス様は、律法学者逹こそ口先だけの「偽善者」で、神様の教えを踏みにじっている、とおっしゃいます。しかし弟子たちはイエス様のお言葉の意味を理解できません。それでイエス様は代表して質問したペトロに向かって「まだ悟らないのか」とおっしゃっています。

 この後でイエス様が向かわれた先が、「ティルスとシドン地方」でした。ここはイスラエル世界のはずれの海沿いの街です。様々な異文化や、異邦人、異教の教えが混ざり合った土地で、ファリサイ人達に言わせれば「汚れた土地」ということになります。そこで彼らは「カナンの女」つまり「外国人の女性」と出会います。
 彼女の娘は悪霊に苦しめられ続けており、そんな時イエス様が自分の町に来られたことは神の奇跡だと信じました。イエス様に向かって「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び、つきまとったのです。
 「ダビデの子」という言い回しはユダヤ人にとって最高の王、という意味です。イエス様は最近、同じユダヤ人のファリサイ人たちから無理解に苦しめられ、貶められたばかりでした。ところがこの異邦人の女性はイエス様を唯一の救い主と信じ、ユダヤ人の使う尊敬の言葉でイエス様に向かって叫んだのです。

 弟子たちが「この女を追い払ってください」とイエス様に願いますとイエス様は「私はイスラエルの家の失われた羊にしか遣わされていない」とおっしゃいます。つまり「私は外国人を助けるためではなく、ユダヤ人を助けるために神様から遣わされたのだ」と言われます。
 しかしこれを聞いた彼女は諦めるどころかイエス様の前に出てひれ伏し「主よ、どうかお助けください」と懇願したのです。ここでようやくイエス様は女性に目を向けます。そして口調は柔らかでしたが、拒絶の言葉を語られたのです。「子ども達のパンを取って小犬にやってはいけない」
 この「こども達」というのは、ユダヤ教を信じるイスラエルの人々です。イスラエルの人々は、神の多大なる恩寵を受けた民族でした。彼らはその恩恵を聖書に書き記して大切に子孫に伝え、どれほどの苦難が襲っても、ずっと信じ伝えて来たのです。ところがイエス様の時代には、「信じ方」に狂いが生じており、イエス様は人々の間違った信仰を正すために、神様から遣わされた者として苦悩しておられたのです。
 カナンの女はユダヤ人ではありません。しかし彼女は神は小さきものを憐れんでくださる、ということを信じていました。彼女は言いました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」
 言い換えるなら「私はどうしようもなくちっぽけな人間で、苦しい時の神頼みしかできないような、不義理で失礼な人間です。だから神の民であるユダヤ人を差し置いて助けていただく資格など全くありません。しかし、神は大いなる憐みの心をお持ちで、その偉大な御力は、ユダヤ人に十二分に注がれた後、なおも溢れ出て、このような私でもおこぼれが頂けるほど限りないことを知っています。」ということです。

 律法学者やファリサイ人たちやイエス様の弟子たちが理解できなかった神様の御心を、この異邦人の女性は見抜きました。イエス様は彼女の信仰をお褒めになりました。こうして彼女の娘は癒されたのです。この出来事は、「なかなか悟らない人だらけ」の宣教活動の中で、イエス様を大いに力づけたことでしょう。

 私たちは聖書を日々学んでいても、時々大いに勘違いをします。それは自分が罪を犯すことなく、人に憐みをかける側に立つことが正しい、という勘違いです。しかし、誰も自らの力で神に喜ばれる完全なものになることはできません。ただ、どれだけ私たちが不完全で、深い知識など持ち合わせていなかったとしても、神の憐みは注がれているのです。
 辛く不幸なことはこの世に満ち溢れています。しかしそれをはるかに上回る神の憐れみと慈しみは私たちに注がれています。私たちはこれからも共に神の憐みを受けながら、神に感謝し、キリストの愛の中を歩んで参りましょう。


牧師館の「物干し台」で
咲き誇るペチュニア


物干し台からは花火もよく見えます
(手ぶれ写真ですみません)
今年は大きな花火大会は中止ですが
日曜の夜8時から15分ほど
何回か実施されました
打ち上げ場所シークレット
うまく方向が合えば
素晴らしい眺めが楽しめます




2020年8月10日月曜日

キリストに助けを求めて(日曜のお話の要約)

 聖霊降臨後第10主日礼拝(2020年8月9日)
列王記上19:11-12  ローマ10:9-11 マタイ福音書14:22-33

 本日の「イエス様が湖の上を歩く箇所」は、先週の五千人の給食の続きです。食事の後、イエス様は民衆を解散させ、弟子たちには舟で向こう岸に行くよう強くお命じになります。その後でお一人で祈るために山に登られるのです。
 同じ出来事を記録しているマルコ福音書によれば、実は弟子たちは五千人の給食の前、かなり厳しい伝道の働きを終えたところでした。イエス様も弟子たちを休ませてあげるつもりが、思いがけなく五千人が押し寄せてきた、という流れになっています。それならば弟子たちはこの時かなり疲れていたことでしょう。本当は休みたいと思いながら無理をして嫌々やっているので、案の定トラブルが発生するのです。
 漕ぎ出した舟は強い風によって湖の真ん中に吹き寄せられました。この湖は諏訪湖の約4倍くらいの大きさで、山に囲まれているので、四方から風が吹き下ろします。舟は木の葉のようにくるくる回ります。漁師出身の弟子たちはこれが非常にまずい状況であることはすぐにわかりました。
 「イエス様が舟に乗りなさいと言われ、その通りにしたのに、なぜこんなことになったのか」と、弟子たちはパニックになります。こんな時は誰でも最悪のことを想像するものです。例えば、五千人の給食の時、自分達は、人々を帰しましょうと言ってしまった、それでイエス様に愛想をつかされてしまったのではないだろうか。神の子に見捨てられた自分たちはここで死んでしまうのかもしれない。そんな思いが頭の中に渦巻きます。
 福音書を書いたマタイも12弟子の一人ですから、もちろんこの時舟の上で怯えていた一人でした。その記憶を元にかなり興味深い表現をしています。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。」
 弟子たちは湖の上の人影を見ました。水の上を歩いてやって来るとしたらこの世の者ではありません。イエス様に見放された自分たちを、亡霊がとり殺しに来たのだ、彼らは恐怖の叫び声をあげたのでしょう。
 そんな弟子たちに人影は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言葉をかけられます。聞き覚えのある声です。それでも弟子たちは水の上に立っている人影がイエス様ご本人であるという確信はまだ持てないでいました。
 しかしペトロは弟子を代表するかのように、口を開きます。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」これは「あんたが亡霊でなく本当にイエス様なら、俺に水の上を歩かせてみろ」という、試すようなニュアンスではありません。むしろ「イエス様、あなたでしたか」という安堵の思いが込めれています。
 ペトロはこの人影がイエス様だと信じ、自分も水の上を歩いてイエス様のお側に行きたい、という単純な望みを抱いたのです。招かれて、思い切って舟から降りてイエスの方へ進んだのです。信仰が恐れに勝利し、不要な恐怖を頭の中から追い出したのです。
 ただ残念ながらこの勝利は長くは続きませんでした。ペトロは強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたのです。イエス様以外のことに気を取られた時、恐怖が再び彼を捉えてしまったのです。しかし今度はすぐそばにイエス様がおられました。ペトロは躊躇なく「主よ、助けてください」と叫び、救われたのでした。
 イエス様は、一度信仰を持ったものに対して、その信仰が薄かろうが弱かろうが、助け導く方なのです。自分の力でなんとかしようとして失敗し、ピンチに陥り、イエス様の声が聞こえなくなってしまった時も、イエス様から「安心しなさい。わたしだ」と呼びかけてくださり「なぜ疑ったのか」と叱ってくださる、そして改めて共に歩んでくださるのです。

 湖の出来事からおおよそ1年、弟子たちは今度こそイエス様と離れ離れになります。イエス様が十字架にかかられた後、天に帰って行かれたからです。しかし彼らは「イエス様はもう側にいない」と悲嘆にくれ何もで出来なくなった、という訳ではありません。聖霊なる神として、目には見えなくとも常に共にいてくださるイエス様を感じつつ、躓いては立ち上がることを繰り返しながら宣教していったのです。
 私たちは、自分の信仰の弱さを知りつつ、主よ助けてくださいという祈りの声をあげながら、助けられる喜びと感謝を持って生きていく者となりたいのです。日々の歩みの中で、「主よ助けてください」の声を聞いてくださるイエス・キリストが共におられると信じて、先行きの分からない今の時代を乗り切って参りましょう。



遅くなりましたが、8月1日の土曜学校の様子です


あらかじめ金色のスプレーで
着色しておいたアルミ缶に
千枚通しで穴を開け
ランタンを作ります



1個目はこちらで用意した図案を使って
2個目からはオリジナルにチャレンジです


とにかく抜群の集中力!
年長クラスのMちゃん


女子率高い中で
男子だって頑張ってます


万が一のことを考えて
保険に入っておきましたが
怪我もなく
無事に終えることができました



最年少のSくん(年少クラス)
K先生に手伝ってもらいながら2個完成
ご満悦です

ちなみに最年長は小学4年生
みんなのレベルにあった工作を考えるのは
なかなか骨が折れますが
完成した時の笑顔を見ると、いつの間にか
「さて次は何を作ろうか」と
考えています(工作指導:朝比奈優子)



からし種は畑の中に(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝(2020年7月26日)
列王記上3:10-15 ローマ8:28-30 マタイによる福音書13:31-33

 日本のクリスチャン人口が1パーセントからなかなか増えない、というお話は皆さんも耳にしたことがあると思います。少ないがゆえに不便や苦労の多い私たちですが、イスラエルにおいてイエス様が教え始めたその最初は、キリスト教徒は一人もいませんでした。当たり前ですね。イエス様の周りは皆ユダヤ教徒だったのです。
 そんなイエス様の一番弟子となったのはガリラヤの漁師ペトロでした。ルカ福音書によれば、ペトロが夜通し漁をしていても一匹もとれず、落胆をしているところにイエス様が現れ、群衆に話を聞かせたいからと、お願いされ、しかたなく船を出します。お話が終わって船に岸に戻そうとしたら今度は「沖に漕ぎ出して漁をしなさい」と言われるのです。
 ペトロが渋々「お言葉ですから」と言う通りにしたところ、たくさんの魚が捕れました。あまりのことに恐怖すら感じたペトロは、思わず「わたしから離れてください」と言ってひれ伏すのです。
 一番弟子のペトロでさえ、初めの内はまるでイエス様に対する信仰がなかったのです。ペトロだけでなく、人間の心にはイエス様を信じ受け入れる下地が全くないのです。ただイエス様がお招きになったことで変化するのです。このような過程を経て、イエス様の弟子集団は形成されていきました。
 その業は初めのうち、どこに繋がっていくのかわからないような孤独な働きでした。しかし、イエス様と弟子たちは、誤解や恐れしかない人々の間でも宣教を続けます。
 やがて3年が過ぎる頃には、イスラエルの中でもイエス様を支持する人々が増えていきました。すると今度はイエス様が望まない間違った期待をする人も増えていきます。王様となってローマと戦い、イスラエルの自治を取り戻してくれるのはこの方だ、という期待をかけられるようになったのです。それは一般民衆だけでなく、最初から付き従ってきた弟子たちでさえ、そのように思うようになていました。
 こうなると、権力を持った人々からは当然敵視されるようになり、最後には国家の反逆者として十字架にかかられたのです。イエス様という方は、どこまで行っても、誰からも正しく理解されることのない、孤独な歩みを続けられたようにも思えます。
 ですが、イエス様は、こうした神の業をからしだね に例えられました。その種は、地面に落ちた時、土に紛れて見えなくなります。虚しく死んだように思えるもしれません。しかしイエス様は「成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」と言われました。それは後になって弟子たちにも理解できるようになったのです。

 十字架で命を落としたイエス様が復活された時、弟子たちは初めて出会った時のように、「わたしは罪深いものです。わたしから離れてください」と言ったことでしょう。なんと言っても彼らは十字架に架けられたイエス様を見捨て、命惜しさに逃げ出したのですから。
 しかしイエス様は初めから彼らに怒りなど覚えておられませんでした。ご自分が彼らの弱さを含めて丸ごと受け入れていることを改めてお示しになり、新たな宣教へと押し出されたのです。これが、弟子たちの心に落ちた小さなからし種が芽吹いた瞬間でした。

 この「からしだね」はどの植物を指しているのか、諸説あるのですが、今回は「ガリラヤ湖周辺で普通に見られるアブラナ科の草」という説をとって週報の表紙に載せました。特に黒ガラシと呼ばれる種類は3000年ほど前からタネを香辛料として利用するために地中海沿岸で栽培されていたようですが、植物としての見た目は雑草のような素朴さです。
 私たちが、この植物の種を手のひらに乗せていても、発芽などしません。それはどうしても畑の中に埋められなければならないのです。からし種は、畑の中に入って根を出し芽を出し、殻を破ってどんどん形を変えていきます。素朴な雑草のような植物であっても、神の御心に叶ったとき、樹木のように大きく成長するのです。
 ただ、ここで勘違いしてはならないのは「からしだね が大きく成長するように、あなた方も偉大な伝道者になるよう努力しなさい」ということではありません。もちろん神の言葉を語り伝える過程で、あなた自身も忍耐強くなり、柔和な人となることでしょう。しかしそこが目的ではないのです。大きく成長するのはあなたではなく神の言葉です。あなたという人を介して、神の言葉が大きく広がっていくことをこそ、神様は望んでおられるのです。

 神様が望んでおられるのは、神の言葉を宣べ伝えることの大切さを信じて、素朴にコツコツと努力を重ねる人々なのです。 
 私たちの集うこの小さな教会も、私たちを介して続けられる小さな働きが神の国への一歩であることを信じるならば、その道は、神の国へと通じていくのです。この場所が神の言葉によって成長していくために必要なのは立派な経営者でも、言葉巧みな指導者でもありません。ただひたすらに神の国が実現することを望む、小さな志があれば良いのです。

2020年8月3日月曜日

五千の罪人の給食(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2020年8月2日)
イザヤ書55:3-4 ローマ9:3-5 マタイによる福音書14:13-21

 本日読みました福音書の箇所は「五千人の給食」と呼ばれ、4つの福音書全てに記されている有名な出来事です。この話には前段階があります。マタイによる福音書は、五千人の給食の始まりを、こう記しています。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」

 「これを聞くと」とは何かと1パージ遡ると、「洗礼者ヨハネ、殺される」と書かれています。洗礼者ヨハネは、ヘロデ王一族の不道徳を非難して捕らえられていました。その彼がついに処刑されたというのです。
 イエス様は、ヨハネの弟子たちからこの出来事を聞いて、人里離れた場所へと向かおうとなさいましたが、イエス様のこの時の行動について、後世の学者たちは様々な解釈を試みました。イエス様は権力を恐れて逃げた、という解釈もあります。しかしイエス様はそもそもご自分が十字架によって死ぬことをご存知な方ですから、死を恐れて逃げた、とは考えにくいのです。見方を変えれば、イエス様は何があろうと、今この時点で死ぬわけには行かないのです。そこで一時的に身を隠そうと退かれたのでしょう。

 ですが、群衆はイエス様を必死になって追います。民衆はヨハネの死を知り、不安と怒りの中、新しい導き手を求めました。彼らがイエス様を追ったのはそのような状況の中だったのです。
 21節には女と子どもを別にして男が五千人ほど、と書かれていますので、イエス様を見つけ、追いかけたのは、男性五千人に加えて女性と子供、合わせて2万人ほどいたのではないか、と言われています。あえて女性と子どもを別に数えているのは、血気盛んな男性が五千人いた、という意味でしょう。不道徳な権力者を倒すためなら兵士になろう、と思う男たちが五千人いたと考えられます。

 しかし、イエス様ご自身が争いを望んでおられないのは、福音書記者であるマタイはよく知っていました。イスラエルの人々が、血を流しても革命を起こしたいと求める声とイエス様の思いとが食い違っていることをマタイは知っていたのです。
 彼らは勇敢に戦うものこそ神様に愛される資格があると思い込んでいて、情けない弱虫が無条件に愛されているなどとは思いもしません。こそれはイエス様の思いと正反対なのです。
 しかしイエス様は、この群衆を深く憐み、その中にいた弱り果てた病人をいやされます。そして人々に向かって、神の平和が来ることや、神の愛が注がれている事を繰り返し繰り返し、お話しされました。先ほどまで、一人静かに神様と語らい、祈りの時間を持とうとされていたのに、いざこうした人々を目の当たりにすると、放っておくことはお出来にならなかたのです。

 夕方になり、弟子たちは群衆を解散させ、各自で村へ食べ物を買いに行かせるのが良いだろう、とイエス様に提案します。
 ところがイエス様は、弟子たちがこの2万人の群衆の食事の面倒を見るように、と言われるのです。弟子たちは、自分達には、パン5つと二匹の魚しかない、無理だ、と答えます。もちろんこれは常識的な答えです。しかし、彼らはこれがイエス様のご命令なのだ、と気づくべきでした。

 イエス様はかつて悪魔から「石をパンに変えたらどうか」と誘惑され、拒まれました。ご自分のためには、奇跡の力をお持ちいにならなかったイエス様が、ここで食べ物を増やす奇跡をなさったのです。
 ここには、神様に愛されている私たちがまごころをもって捧げるなら、小さな業や捧げも出会っても神様は喜んで豊かに豊かに用いて下さることが示されています。イエス様の人々を思う愛はこれほどまでに深かったのです。
 ただ、この五千人の人々も弟子たちも、イエス様が十字架にかかるその道で、イエス様を裏切り、見捨て逃げてしまうのです。イエス様はそれを見通しておられたはずです。ここにイエス様ご自身の深い孤独がありました。イエス様は注いでも注いでも穴の空いたバケツのように底から抜けてしまうような思いをなさったたことでしょう。
 それでも、罪人を救うという神様の目的が実現するために、ご自分の目の前の人々が決して優等生になり得ないとわかっていても、空腹のまま去らせることができないほどに、慈しまれたのです。

 たとえ今、彼らが罪人であったとしても、また、ただ目先の飢えを満たすことや病の癒しを望むだけであったとしても、そういった人々と関わり続けることにイエス様の目的があったのです。罪人を救う、どんな罪人をも救うという大きな目的を持っておられたからです。
 人の目にどれほど徒労に映ることであっても、五千人の罪人たちは、イエス様にとってかけがえのない愛の対象だったのです。

 五千人の給食は五千の罪人の給食でもあります。ここにいる私たちも、ありとあらゆる罪を犯しつつ、人生を歩むものです。それでも私たちはイエス様の愛に触れて、満たされた愛の中に生きることができます。私たちはイエス様の示される道を共に歩き、この場に人々を招き続けて参りましょう。


道沿いの掲示板の中に
新しいレゴ作品を入れました
前回の続編
「飛んでったバナナ」
船長さんがバナナの島に
上陸しようとしているようです