2022年11月20日日曜日

「愛のかたち」(日曜日のお話の要約)

こども祝福式礼拝(赤)(2022年11月20日)
創世記2章8節(旧2) ルカによる福音書18章16節(新80)


 今日のお話は「愛の形」についてです。「愛」が全部目に見えるわけではありませんが、少なくとも見える形があります。それは私たち一人一人です。ここにいる全員は、お母さんが大変な思いをして産んでくれた愛のかたちなのです。


 お母さんのお腹から、赤ちゃんで生まれて、お乳をもらって大きくなる生き物を哺乳類と言います。おうちで大切に飼われている犬や猫は別として、大抵の哺乳類は助けてもらわないでも自分だけで赤ちゃんを産むし、すぐ歩き回ることもできます。

 でも人間は緊急の場合を除いて、一人だけでは出産しません。他の哺乳類と違って赤ちゃんが産まれるまでとても時間がかかるので、その間誰かに助けてもらう必要があります。でも医学が発達した今でも、助けがうまくいかなくてお母さんが死んでしまうこともあります。出産は命懸けなのです。


 ところで、生き物の中で赤ちゃんを産むのが一番大変なのは人間なのは、なぜだと思いますか。「チコちゃんに叱られる」風に言うと「それは人間が頭がいいから~」です。頭がいい、つまり人間は他の生き物に比べて飛び抜けて脳みそが大きいので、頭も大きいのです。大きい頭の赤ちゃんが、お母さんのお腹から狭い道を通って出てくるので、それはそれは大変なのです。

 頭がいい、賢いから、生まれてくるのが大変とは皮肉なものですね。

でもこれは実は聖書にちゃんと書かれていることなのです。ここから聖書のお話になります。


 最初の人間は神様と一緒にエデンの園という素敵な場所に住んでいました。神様は人間が大好きだったので、人間に「たった一つだけ約束を守ってくれたら、ずっとここに住める」と言ってくれました。それは「エデンの園の真ん中にある木の実だけは取って食べてはいけない」という約束でした。神様は「死ぬといけないから」とだけ言って、細かい説明はしてくれません。でも人間も神様が大好きだったので、よくわからないけど「神様のおっしゃることに間違いはない」と信じて約束を守ることにしました。ちょっとボ~ッと生きていたのかもしれないけど、それはそれで幸せだったのです。


 ところがそこに蛇がやってきて「あの実を食べると賢くなれる」と唆しました。人間は迷ったけれど、あんまり深く考えないでその実を食べてしまいます。すると確かに賢くなった感じがしました。というのは「約束を破るのは悪いことだ、悪いことをしたから叱られる」とわかったからです。人間は神様の約束をやぶったことが恐ろしくなったので隠れましたが、すぐにバレてしまいます。

 神様は正しい方なので、一度した約束をご自分から破ることができません。嘘やごまかし、なあなあができないのです。神様はとっても寂しかったけれど、最初に決めた約束通り、人間をエデンの園から追い出さなければなりませんでした。その時神様は厳しいことを言いました。「女の人よ、あなたは赤ちゃんを産むとき苦しくなるよ」


 はい、ここです。人間は賢くなって脳みそが大きくなった代わりに出産がしんどくなってしまったのです。


 でも神様は一つだけ希望の約束をくれました。いつか必ず迎えに行く。あなたたちを辛い世界にそのままにしてはおかない。

 それから長い長い、本当に長い時間が経って、人間は神様のことを忘れかけていました。でも神様の方は約束を忘れません。約束通り迎えに来てくれた方、それがイエス様だったのです。イエス様は神様の子どもですが、わざわざマリヤさんのお腹から生まれました。人間が産まれて大人になるまで育つのはとっても大変だということをご自分でも体験されたのです。


 イエス様は「幼な子を私のところに来させなさい」とおっしゃいました。幼な子とは、小さい子どものことだけではありません。すべてのお母さんから生まれた、お母さん、そしてお父さん、そしてあなたのことです。だから、みんな子どもに返ってイエス様に甘えて良いのです。


 飯田教会の「こども祝福式」は、私たちは全員神様の幼な子だということを確認する日です。おじいさんになってもおばあさんになっても、私たちは神様の大切な子ども、愛の形であることを忘れないで欲しいのです。そして、教会はイエス様と一緒に皆さんが生きていくお手伝いをする場所です。それはこれからも絶対変わらないのです。


毎年この時期に咲いてくれる
「ダイヤモンドリリー(ネリネ)」です
神戸の教会にいた時近所の花屋で球根を購入して以来15年以上
引っ越しのたび持って歩きました
今年も花弁がキラキラと輝いています



2022年11月13日日曜日

「終わりの日に」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第23主日礼拝(緑)(2022年11月13日)
マラキ書3章19-20節a   ルカによる福音書21章5-11節


 2000年前のイエス様の時代、イスラエルの人々の誇る素晴らしい建物といえばエルサレム神殿でした。建物は大理石を積み上げて作られており、屋根は金色に輝いていたそうです。成人したユダヤの男性はこの神殿に巡礼に来ることが義務付けられていました。彼らは全国から集まって来るたびにこの神殿の壮麗さに目を奪われ、自分たちがイスラエル民族であることに強い誇りを抱いたことでしょう。


 旧約聖書に記されたイスラエルの民は、始まりは本当に少ない人数でしたが、神様に愛され、導かれるうちに人数が増していきます。エジプトで奴隷生活を経験したり、そこから脱出して荒野に導かれたりと様々な苦難を経験して、神様が与えると約束してくださった地、パレスチナへ到着し、定住します。


 先住民族や近隣の民族との戦いに勝利したイスラエルの民はやがて王様をたて、王国へと変わります。3代目の王様ソロモンの時、イスラエルは大繁栄し、神様への信仰の証として、13年の月日を費やして神殿を建設します。この時ソロモンが祈った祈りは有名です。曰く「偉大な神様が人間が建設した神殿にお住まいにならないことは分かっているけれど、ここで祈りを捧げたなら、あるいは地方にいる民が神殿の方を向いて祈ったなら、その祈りに耳を傾けてください」と言うものでした。そして民衆に向かっては「主こそ神なのだから、地上のすべての民は心を一つにして歩もう」と語りかけたのです。


 民は大いに喜び、神殿は信仰の中心となります。しかし残念なことにその熱い思いは、時間が経つにつれて、形式ばかりを重んじ、信仰の本質がどんどん忘れられていくという、お決まりの堕落に陥ってしまいます。そのせいもあって、ソロモン王の時代から500年ほど経って、神殿は一旦戦争で破壊されてしまいます。


 しかし悔い改めた人々によって紀元前515年に神殿は再建されます。これが第2神殿です。そして紀元前20年にはヘロデ大王が神殿の拡張工事を行い、ヘロデ神殿あるいは第3神殿と呼ばれました。エルサレム神殿はそのような複雑な歴史を持っていました。


 福音書を読みますと、イエス様はこの神殿の崩壊を予告なさいます。それも完璧に破壊され、崩れ去る、と言われるのです。それを聞いた弟子たちはイスラエルの歴史を知っていますから、神殿崩壊が絶対ありえない、とは思えませんでした。

 そして紀元70年、イエス様が十字架に掛かり昇天された、そのおおよそ30年後、支配国であるローマとの戦争に負けて、神殿はローマの兵隊に放火され、瓦礫は土で埋め尽くされ、跡形もなくなります。まさに福音書でイエス様が預言された通りになってしまったのです。


 それまでのイスラエルの人々にとって、神殿の崩壊は信仰の崩壊であり、世の終わりそのものでした。しかし聖書の教えは失われませんでした。

 イエス様は前もって「神殿が全てではない」と仰って、神様の教えをご自分のお言葉に変えて弟子たちに伝えておられました。イエス様が天に帰られた後、聖霊なる神の力を得た弟子たちは旧約聖書に記された神様の愛を正しく理解する力をあたえられ、その上でイエス様の教えを受け継いだのです。


 弟子たちはユダヤの一般庶民にも、サマリア人にも、異邦人にも、分け隔てなくその教えを広めていきます。

 「イエスこそ神である」という教えは祭司やファリサイ人と真っ向から対立し、弟子たちは神殿から追い出され、各地にあるユダヤ教の会堂からも追われました。しかしその教えは確かであり力強かったので、仲間に加わってクリスチャンになろうとする者は後を断ちませんでした。やがて、キリスト教徒を迫害していたパウロが悔い改めに導かれ、宣教者へと変えられると伝道は一気に広がりを見せ、地中海沿岸に次々と伝道の拠点、教会が生まれていきました。


 とはいえ、従来のユダヤ教にとってキリスト教は異端であり、皇帝を神とするローマ帝国にとっても邪魔な教えでしたから、キリスト者たちは厳しい迫害を受け、多くのものが命を落としたとされます。


 新約聖書は、こうした危機の時代に記されたものですから、まさかその教えがやがてローマの国教になり、ヨーロッパ諸国のスタンダードな考え方、思想になっていくとは思いもしなかったでしょう。


 しかしこの教えが広まれば広まるほどに「天国」や「愛」という概念が一人歩きし始め、やがて聖書抜き、イエス様抜きでそれらが語られるようになり、人々は聖書から「美味しいところ」だけをつまみ取って、独立した人間こそが素晴らしいという教えを説き始めます。再び人間は神様から離れ、心から愛してくださる絶対的な存在を見失って、自ら崩壊を招いてしまうのです。


 イエス様の愛を履き違えた人々が政治を行う世の中に生きていて、世の中が終わるのと自分の人生が終わるのと、どちらが早いだろう、と思うこともあります。それならばいっそ自分のしたいことだけをして人生を過ごしたほうが楽しい、という考えにと取り付かれる人も多いかも知れません。


 しかし、私たちは、イエス様を神様と信じ、何をするにもイエス様の名によって行い、祈り、聖書に学び、生き方を整え、互いに支え合いながら人生を歩むよう招かれました。

 壮麗な神殿などは必要ないけれど、共に集う場が、神様の愛を分かち合う場が必要なのです。ルターは「明日世界が終わるとしても、りんごの木を植える」と言った、と伝えられています。私たちもまた、今日を誠実に、信仰に生きて参りましょう。神様はそのような私たちをご覧になって、終わりの日に必ず天国に招いてくださるのです。



皆さんは先日の皆既月食をご覧になりましたか?
うちにはコンパクトなデジタルカメラしかありませんから
天王星まで写すことは到底できませが
思わず何枚もシャッターを切りました
神様は私たちに不思議な光景を見せてくださるものですね


2022年11月6日日曜日

「キリストの愛」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・全聖徒の日礼拝(白)(2022年11月6日)
エフェソの信徒への手紙 1章11-16節(352)
ルカによる福音書 6章20-23節(112)


 本日はルカによる福音書からイエス様の御言葉に聞いてまいります。

 ここに記されたイエス様の教えは、マタイ福音書の有名な「山上の説教」とほぼ同じ内容です。ただ、マタイ福音書は「心の貧しい人は幸いである」と、「精神的な貧しさ」について説いていますが、本日のルカ福音書では、経済的に立ち行かない貧しさ、本当に今お金がなくて飢えている人々へのメッセージが語られています。


 マタイの「山上の説教」で語られる「貧しさ」とは、学があり、経済的にも不自由のない人が幸福について思いめぐらす時、どこかに自分の求める真理があるに違いない、と心が叫んでいる。それに対してイエス様は必ず答えてくださる、と記しています。

 一方ルカは「平地の説教」と呼ばれています。ここでイエス様が「幸いだ」と言っておられるのは、今飢えている人々、今泣いている人々なのです。抽象的な例えではありません。


 貧しさや飢え、悲しみを積極的に喜ぶ人はいません。しかしここでイエス様がおっしゃる大切なポイントは、「人の子」つまり、イエス様と繋がったために貧乏になったりお腹を空かせたり、人から憎まれたりするなら、喜び踊るほどに幸せなことだ、と言われるのです。


 ただ、イエス様を信じ抜こうとする時、漏れなく不幸がついてくるとしたら、本気でキリスト教を信じようとする人はいなくなるかもしれません。しかし、イエス様が人間の不幸を望まれる方でないのは私たちがよく知っています。聖書に描かれたイエス様のイメージは、罪人を救うために愛のこもった配慮を行い、集まってくる子どもを愛し、友なきものの友となる方だからです。そんな方が私たちが不幸になるのを単に喜ばれるはずがありません。それを前提にさらに考えてみましょう。


 イエス様は不治の病に犯された病人を癒やし、5000人に食べ物を与え、あれ狂う波や風を鎮めることもなさいました。それはもちろん、イエス様が神様だったからです。しかし、それ以上に、イエス様が父なる神様に完全な信頼を置き、その御心に従うことをご自分の使命として疑うことなく、とことん信仰に生きておられたからです。


 イエス様の弟子たちは自分たちの信仰の弱さを知っていましたから、決して揺らぐことのないイエス様を尊敬し、どこまでも従おうとしました。しかしユダヤ教の教師たちや政治的リーダーたちは自分たちより神様のことを知っているイエス様を妬みました。


 ファリサイ派の人達や律法学者達が、聖書にはこの様に書いているけれど、実際にその通り行動するのは無理だ、と考えていることを、イエス様は「それこそが大切だ」と断言して易々とやってのけるのですから、劣等感を刺激され、嫉妬して悪口を言ったり、足を引っ張るようなことをしてしまうのです。


 私たちキリスト者は、イエス様を信じて生きることを決意して洗礼を受け、弟子となりました。しかし、キリスト者として過ごせば過ごすだけ、イエス様をお手本にして歩むことがどれほど困難なことかわかってきます。例えば、日本社会では日曜日に何かと行事が組み込まれますから、それを退けて礼拝を守るのは一苦労です。「礼拝に行きます」と強く主張すれば変人と思われたり、人間関係が壊れてしまいそうで不安になるのです。


 それでもどうにか日曜日は教会に行く、という習慣が身についたとしても、教会の中の人間関係に躓くこともあります。経済力や、学力や、地位や名誉といった価値観が教会の中にもあることを知って、結局世の中の人と同じではないか、とショックを受けてしまうこともあります。先輩クリスチャンから、励ましのつもりで「私たちはイエス様と同じことはできないから信仰生活にも妥協は必要だよ」と声をかられ、かえってがっかりした、という話を聞いたこともあります。


 こんなふうに、私たちがイエス様をお手本として歩むことの難しさはそこら中にゴロゴロしています。それでも私たちは、厳しい現実の中で、信仰を貫くように召されていることを忘れてはいけないのです。どんなに迷った時でも、洗礼を受けたときに信じたこと「私はイエス様に招かれた」という確信に立ち返ることが、信仰を失わないで生きるたった一つの秘訣なのです。


 会社より信仰を優先して、職を失ってお腹を空かせたり、友人だと思った人から絶交を言い渡され涙することもあるかもしれません。それでもイエス様が私が失ったものを補って、有り余る恵みで満たしてくださる、と信じぬけるなら、その人は幸いだ。イエス様はそのように言っておられるのです。


 私たちが決して忘れてはならないのは、イエス様がご自分を信じる者たちの人生を導き、その人生がどのような終わり方をしようとも、天国の場所をすでに用意されている、ということなのです。


 今日、私たちは、先に天国に召された兄弟姉妹を偲びながら、自分の生き方を、振り返り、どんな時もイエス様がそばにいて導いてくださったことを確認したいと思うのです。


 現代、日本全体を見た時、キリスト教は元気が良いとは言えません。しかし、こんな今だからこそ、貧しい人、飢えている人、泣いている人の助けになりなさい、とイエス様が語りかけておられるのです。そのためには、私たち一人一人がキリストに愛されていることを疑わず、すべてのものは必ず備えられていくことを信じましょう。今私たちが貧しくとも、飢えていても、泣いていても、かならず、幸せになれることを受け入れて参りましょう。




11月5日(土)は予定通り土曜学校を行いました

在園児も含め、10名のお友達が来てくれました

飯田でもコロナ陽性者が増え

学級閉鎖も相次いでいます

長野の陽性者増加スピードは全国のトップスリーに入るとか!?


究極の感染対策は教会学校を行わないことかもしれませんが

神様がそれを望まれるとは思えません

子どもも大人もお互いに気遣いながら

神様の愛のもとに集って参りましょう





紙皿を使った秋のリース
みんなチャーミングに仕上げました




9時30分に集まって、まず礼拝です
自分たちで聖書を開き、お祈りも献金もちゃんとします
工作ばかりしているわけではありませんよ(^▽^)
↑たまには教会学校らしい写真も一枚

2022年11月4日金曜日

明日の土曜学校について

明日、11月5日の土曜学校は予定通り行います
9時30分から11時30分まで
礼拝堂で行います

足が冷えるかもしれませんので
なるべく上履きをお持ちください
マスクの着用をお願いいたします