2022年11月13日日曜日

「終わりの日に」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第23主日礼拝(緑)(2022年11月13日)
マラキ書3章19-20節a   ルカによる福音書21章5-11節


 2000年前のイエス様の時代、イスラエルの人々の誇る素晴らしい建物といえばエルサレム神殿でした。建物は大理石を積み上げて作られており、屋根は金色に輝いていたそうです。成人したユダヤの男性はこの神殿に巡礼に来ることが義務付けられていました。彼らは全国から集まって来るたびにこの神殿の壮麗さに目を奪われ、自分たちがイスラエル民族であることに強い誇りを抱いたことでしょう。


 旧約聖書に記されたイスラエルの民は、始まりは本当に少ない人数でしたが、神様に愛され、導かれるうちに人数が増していきます。エジプトで奴隷生活を経験したり、そこから脱出して荒野に導かれたりと様々な苦難を経験して、神様が与えると約束してくださった地、パレスチナへ到着し、定住します。


 先住民族や近隣の民族との戦いに勝利したイスラエルの民はやがて王様をたて、王国へと変わります。3代目の王様ソロモンの時、イスラエルは大繁栄し、神様への信仰の証として、13年の月日を費やして神殿を建設します。この時ソロモンが祈った祈りは有名です。曰く「偉大な神様が人間が建設した神殿にお住まいにならないことは分かっているけれど、ここで祈りを捧げたなら、あるいは地方にいる民が神殿の方を向いて祈ったなら、その祈りに耳を傾けてください」と言うものでした。そして民衆に向かっては「主こそ神なのだから、地上のすべての民は心を一つにして歩もう」と語りかけたのです。


 民は大いに喜び、神殿は信仰の中心となります。しかし残念なことにその熱い思いは、時間が経つにつれて、形式ばかりを重んじ、信仰の本質がどんどん忘れられていくという、お決まりの堕落に陥ってしまいます。そのせいもあって、ソロモン王の時代から500年ほど経って、神殿は一旦戦争で破壊されてしまいます。


 しかし悔い改めた人々によって紀元前515年に神殿は再建されます。これが第2神殿です。そして紀元前20年にはヘロデ大王が神殿の拡張工事を行い、ヘロデ神殿あるいは第3神殿と呼ばれました。エルサレム神殿はそのような複雑な歴史を持っていました。


 福音書を読みますと、イエス様はこの神殿の崩壊を予告なさいます。それも完璧に破壊され、崩れ去る、と言われるのです。それを聞いた弟子たちはイスラエルの歴史を知っていますから、神殿崩壊が絶対ありえない、とは思えませんでした。

 そして紀元70年、イエス様が十字架に掛かり昇天された、そのおおよそ30年後、支配国であるローマとの戦争に負けて、神殿はローマの兵隊に放火され、瓦礫は土で埋め尽くされ、跡形もなくなります。まさに福音書でイエス様が預言された通りになってしまったのです。


 それまでのイスラエルの人々にとって、神殿の崩壊は信仰の崩壊であり、世の終わりそのものでした。しかし聖書の教えは失われませんでした。

 イエス様は前もって「神殿が全てではない」と仰って、神様の教えをご自分のお言葉に変えて弟子たちに伝えておられました。イエス様が天に帰られた後、聖霊なる神の力を得た弟子たちは旧約聖書に記された神様の愛を正しく理解する力をあたえられ、その上でイエス様の教えを受け継いだのです。


 弟子たちはユダヤの一般庶民にも、サマリア人にも、異邦人にも、分け隔てなくその教えを広めていきます。

 「イエスこそ神である」という教えは祭司やファリサイ人と真っ向から対立し、弟子たちは神殿から追い出され、各地にあるユダヤ教の会堂からも追われました。しかしその教えは確かであり力強かったので、仲間に加わってクリスチャンになろうとする者は後を断ちませんでした。やがて、キリスト教徒を迫害していたパウロが悔い改めに導かれ、宣教者へと変えられると伝道は一気に広がりを見せ、地中海沿岸に次々と伝道の拠点、教会が生まれていきました。


 とはいえ、従来のユダヤ教にとってキリスト教は異端であり、皇帝を神とするローマ帝国にとっても邪魔な教えでしたから、キリスト者たちは厳しい迫害を受け、多くのものが命を落としたとされます。


 新約聖書は、こうした危機の時代に記されたものですから、まさかその教えがやがてローマの国教になり、ヨーロッパ諸国のスタンダードな考え方、思想になっていくとは思いもしなかったでしょう。


 しかしこの教えが広まれば広まるほどに「天国」や「愛」という概念が一人歩きし始め、やがて聖書抜き、イエス様抜きでそれらが語られるようになり、人々は聖書から「美味しいところ」だけをつまみ取って、独立した人間こそが素晴らしいという教えを説き始めます。再び人間は神様から離れ、心から愛してくださる絶対的な存在を見失って、自ら崩壊を招いてしまうのです。


 イエス様の愛を履き違えた人々が政治を行う世の中に生きていて、世の中が終わるのと自分の人生が終わるのと、どちらが早いだろう、と思うこともあります。それならばいっそ自分のしたいことだけをして人生を過ごしたほうが楽しい、という考えにと取り付かれる人も多いかも知れません。


 しかし、私たちは、イエス様を神様と信じ、何をするにもイエス様の名によって行い、祈り、聖書に学び、生き方を整え、互いに支え合いながら人生を歩むよう招かれました。

 壮麗な神殿などは必要ないけれど、共に集う場が、神様の愛を分かち合う場が必要なのです。ルターは「明日世界が終わるとしても、りんごの木を植える」と言った、と伝えられています。私たちもまた、今日を誠実に、信仰に生きて参りましょう。神様はそのような私たちをご覧になって、終わりの日に必ず天国に招いてくださるのです。



皆さんは先日の皆既月食をご覧になりましたか?
うちにはコンパクトなデジタルカメラしかありませんから
天王星まで写すことは到底できませが
思わず何枚もシャッターを切りました
神様は私たちに不思議な光景を見せてくださるものですね


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