2023年10月29日日曜日

「救い主への疑い」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・宗教改革記念礼拝(2023年10月29日)

詩編 46編(880) ローマの信徒への手紙 3章19-28節(277)

マタイによる福音書 11章12-19節(20)


 今から500年ほど前、当時のカトリック教会はヨーロッパで絶大な権力を誇っていました。その中心はバチカンにあり、威厳を示すために贅を尽くした教会が建てられました。また、教会に仕える人々は教皇を頂点とするピラミッド型の厳格な序列に従っていました。教会内部ではより高い地位を目指して権力闘争も起きるわけで、当時の教会内部は結構ドロドロしていたといえるでしょう。


 宗教改革者であるマルチン・ルターは、そんな時代にローマから遠く離れたドイツに生まれました。ドイツでは政治を担う人々が賢かったこともあって、教会は秩序や教育の大切さを民衆に伝えていました。ルターの両親は教会の「人間形成には教育が大切である」という考え方に共感し、息子の教育にお金を注ぎ込みました。そのおかげでルターは優秀な成績を納め、将来は約束されていました。


 しかし、ここで「まさか」の事態が起きます。ルターが実家から学校へ帰る道で、雷に打たれそうになり、命の危機にさらされたのです。彼は神に祈り、生き延びられるなら「修道士」になると誓います。


 辛くも生き延びたルターでしたが、父親は修道院入りに猛反対しました。会社経営者であった父はローマのドロドロした権威主義を嫌い、息子が組織内部に入ることを心配したようです。しかし若いルターは一日中神様に祈りを捧げ奉仕する修道院生活に憧れました。そしていつかキリスト教の中心地であるローマに行ってみたいと願い、反対を押し切って修道士として教会に身を投じたのです。


 ルターはドイツの教会で順調に出世し、ローマに巡礼に行くチャンスも比較的早く巡ってきました。しかし彼がローマで見たのは、位の高い聖職者たちが品の悪い冗談を言ったり、礼拝で不敬行為を行ったりする様子でした。


 ルターの憧れは無惨に打ち砕かれ、その幻滅をこのように記録しています。「ローマにおいて、どんな罪や恥ずべき行為が行われているかは、想像できない。実際に見聞きしなければ信じられないほどである。『もし地獄があるとならば、ローマはその上に建っている。』」


 ルターは教会には心底ガッカリしましたが、神様への愛は変わりませんでした。むしろますます燃え上がり、神様の愛を正しく伝えるため、キリスト教会のあり方を聖書を通して根本から捉えなすため、孤独な戦いへと踏み出したのです。


 このルターの行動はたちまちローマから睨まれます。彼は教会から破門され、ついに命まで危うくなりました。すると、そんな彼を、ドイツの高い地位にある人物が匿い、活動の支援もしてくれました。ルターの考えに賛同する人々も次々と生まれ、ルターとその仲間たちによる宗教改革はローマの権威に対抗できるほどに大きなうねりになっていったのです。


 ただ、ルターの時代の聖書はラテン語で書かれていて、貴族や教会内部の人々しか読むことはできませんでした。聖書に書かれている、イエス様の思いやりに満ちたメッセージも、一般の人は読むことができません。そこでルターはどんな人でも聖書を読めるよう、まずドイツの言葉に翻訳し始めました。聖書に親しむことができたなら、心は成長し、その人々が集まる教会も成長していくと信じたのです。


 今日、ドイツから遠く離れた日本に住む私たちも、そういった宗教改革の流れを受けて、日本語で聖書を読むことができるのです。


 さて、本日読みましたマタイ福音書には「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。」という言葉が記されています。これは「笛吹けど踊らず」ということわざの元となっています。


 イスラエルのこどもは、結婚式や葬式のごっご遊びをよく行ったそうで、この様子をイエス様は譬えに用いました。誰かが結婚式ごっこをやろうと呼びかけ、笛を吹き始めると、他のこどもたちもこれに乗っかって、さあ、楽しい遊びが始まるぞ、と思った瞬間に誰かが「つまらない」と言い出して遊びが止まります。そこで「じゃあ葬式ごっこをしよう」と、葬送の歌を歌い始めると、誰かが同じように「つまらない」と言い出して、遊びが中断してしまうのです。


 始める前は何か楽しいことが始まるように思ってワクワクするのに、少しでも自分の思いと違うことがあると「や~めた」と言い出す、わがままな子ども。イエス様は今の時代の人たちは、それと同様であるとおっしゃったのです。


 これは、神様が人々を神の国に導こうと洗礼者ヨハネやイエス様を地上に送られ準備をされたのに「ヨハネもイエスも自分の考えていたのと違う」と文句を言い、疑い、難癖をつけたのです。


 洗礼者ヨハネは禁欲的な生活をしていたため、食べ物も飲み物も限られたものを口にするだけでした。立派な人だと評価する人が多くなると、ファリサイ派や律法学者が『あれは悪霊に取り付かれている』と悪口を言い始めました。


 イエス様が人々から慕われ始めると、これも疑い難癖をつけます。イエス様が社会から嫌われていた人々を悔い改めに導いた時、彼らが感謝を込めて招待してくれた食事会で楽しく過ごしていると、またまたファリサイ派や律法学者が『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と批判をしたのです。


 しかし、それでもイエス様は「知恵の正しさは、その働きによって証明される。」とおっしゃいます。諦めずに神様の導きによって正しいことをしているなら、時間はかかっても認められる時は必ず来る」と言われたのです。


 確かに、ルターはさまざまな困難に耐えて理解者を増やし、イエス様が私たちの罪の赦しのため身代わりになって十字架に掛かられたことを福音(良いニュース)と呼びました。これこそ信仰の中心であると、何度も人々に語り聞かせたのです。


 み言葉を聞く人自身が聖書に記されたイエス様の前に謙虚にこうべを垂れるとき、神様が一人一人の魂に直接語りかけてくださいます。イエス様を受け入れ、信じる者は、それまでどのような人生を歩んでこようとも「神の子」として迎え入れられる、その素晴らしさを伝えることこそ教会の役割である。そう説いたルターの考えが、今のプロテスタント教会の土台となったのです。


11月19日はこども祝福式です
いつも演奏してくださっていたハンドベルの皆さんは
スケジュールが合わず、来ていただくことは
かないませんでしたが、その分
「ルーテルキッズバンド」が頑張ります
どうぞ聴きに来て、一緒に楽しんでください!


 

2023年10月22日日曜日

「神のものとして生きる」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第21主日礼拝(2023年10月22日)
イザヤ書45章1-7節(1135)
Ⅰテサロニケの信徒への手紙1章1-10節(374)
マタイによる福音書22章15-22節(43)


 本日の福音書にはイエス様の「皇帝のものは皇帝に」という有名な御言葉が記されています。この言葉はことわざ事典などに「カイザルのものはカイザルに」という表現で掲載されており、「神への服従と国家への義務は次元が違うので、両者を共に守ることは矛盾しない」と解説されています。私たちは辞書の意味だけでなく、イエス様がどのような思いを持ってこの御言葉を語られたか考えてみましょう。

 この時、イエス様を陥れようとして何かと白黒つけるファリサイ派と皇帝寄りのヘロデ派が手を組み、イエス様の元へやってきます。この二つのグループは政治的立場の違いから、仲が良くはありませんでした。しかしイエス様を陥れたい思いはどちらも同じだったので、ひとまず協力し合うことにしたのでしょう。

 彼らは周到に質問を用意していました。それが「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか適っていないか」という質問です。

 ここでイエス様が「皇帝に税金を納めるのは正しい」と答えるならば、民衆はがっかりして、イエス様のもとから離れていくだろう、と彼らは考えました。多くの民衆はイエス様こそイスラエルを独立に導き、皇帝に人頭税を納めなくて済むようにしてくれる新しい王様では?と期待していたのです。ですからイエス様が「皇帝に税金を納めるべきである」と言えば群衆は期待を裏切られることになります。

 またその反対に、イエス様が「皇帝に税金を納めるべきではない」と答えるならば、これもまた指導者たちの思う壺です。「イエスはローマのやり方を批判している」とローマ皇帝への反逆者としてヘロデ派の人たちがローマに密告し訴えることができるからです。

 そのような状況だったからこそ、イエス様がおっしゃった「皇帝のものは皇帝に」という言葉には深い意味がありました。イエス様は、十字架と復活を経てご自分が帰る神の国がどんなに素晴らしいかご存じでした。イエス様が心を込めて「神の国はこの世とは比べ物にならない豊かさがある」とお伝えになりました。しかし、この世の人々はいつの時代も、金持ちは他人を陥れてでもさらに金持ちになろうとしますし、貧しいものはそこから這い上がりたいと必死になります。金持ちであっても貧しくても、富を求めるあまり、信仰がすっかりお留守になるのが人間の悲しさであるとイエス様はご存知でした。

 だからこそイエス様は、折に触れて「富というのは、神様からの恵みであり、神様ご自身が分け与えているものだ」と教えてこられました。もちろんイエス様の独断ではなく、旧約聖書を引用して教えられたのです。

 しかし、旧約聖書に精通しているはずのファリサイ派の人たちはイエス様の言葉を理解しようとしませんでした。ファリサイ派の人たちはなぜこれほどにイエス様を目のカタキにしたのでしょう。

 少し説明が長くなりますが、イエス様の時代から遡ること160年前、イスラエルは隣の国シリアに支配されていました。シリアはギリシア神話に登場するゼウスを神として崇め、ユダヤ人たちにもギリシアのゼウス信仰を強要しました。

 それに反発したユダヤ人たちは、戦争を起こして勝利し、ユダヤの独立を勝ちとります。その時、私たちの神は唯一であり、神の律法を守ることが大切なのだ、という教えを徹底します。ファリサイ人たちは律法を守ってさえいれば神様の恵みが自分達から離れることはない、と信じていたのです。

しかしその後もイスラエルは周辺諸国に脅かされ続け、今度はローマから支配を受けるようになってしまいます。それでも、ファリサイ人たちは、変わらず律法を守っていれば、やがて再び独立できると信じ、さらに厳しく民衆を指導しました。

こういった律法重視の政策は、何らかの理由で律法を守れない人々には辛く厳しいものとなりました。そういった人々は律法中心の信仰生活から脱落し、自分は神様に捨てられた存在だ、と思い込んでわびしく生きていくしかなかったのです。

そこに登場したのがイエス様でした。イエス様は社会から見捨てられた人々だけでなく、開き直って悪に走った人々にさえ暖かい言葉をかけ、寄り添い「神様はあなたたちを愛している」と伝え、ご自身もそのように行動されました。

 これが「律法を守る事こそ全て」と信じるファリサイ人の思いとは相容れなくなったのです。イエス様は彼らの悪意に気づいておられました。ですから「なぜ私を試そうとするのか」と言われた後、税金に納めるためのデナリオン銀貨を見せるようにおっしゃいました。

 皇帝の肖像が刻まれているこのコインは「お前たちが無事に生活できているのは皇帝のおかげである。だからお前たちは、皇帝に感謝と敬意を払いなさい」というメッセージが込められていました。これはローマの支配を望まないユダヤ人にとっては、非常に屈辱的な出来事だったのです。

 そこでイエス様は肖像は誰かを問いただし、相手に「皇帝のもの」と答えさせた上で、「皇帝は皇帝のものに、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。注目していただきたいのは、イエス様は「皇帝に納めなさい」とは言わず、「皇帝に返しなさい」と言われたことです。

 「皇帝が税金を寄越せというなら、そのコインは皇帝に返してやりなさい。しかしあなた方は神の民なのだから、誇りを持ちなさい。信仰まで渡してしまってはいけません」イエス様は人々にそう告げたのです。

 この教えは今も昔も変わりません。私たちが、地位や権力や金銭欲の虜になったら、神を見失ったものとして、滅びの道に歩むことになります。しかしもし、自分は神様によって命を与えられた存在でことを弁え、自分のは全て神のものであることを深く心に刻むことができたら、私は神のものとして生きることができるのです。


先週の土曜日は幼稚園の運動会でした。
牧師は毎回音響担当です。
先生方はさまざまなイメージを膨らませ、音響に関して「ここで◉◉してほしいんです」ここで○○やってください」と発注してきます。
それを形にするのは一苦労ですが、牧師になる前、録音スタジオで仕事をしていた経験が生かされて、毎回少しずつ機材を買い足しながら、なんとかなっていることを神様に感謝します。
それにしても数週間前に運動会をした学校は熱中症に注意が必要でした。
今頃は急激に寒くなり、空気も乾燥してきてインフルエンザに注意が必要です。
気候の急変による体調不良に、皆様もお気をつけください。

体育館内に即席の音響ブースをこしらえました
相方は今年から若手の給食の先生Mさんに変わりました
機転を利かせて色々動いてくださり感謝です

2023年10月16日月曜日

「思いがけない招き」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第20主日礼拝(2023年10月15日)
詩編23編(1097) フィリピの信徒への手紙4章1-9節(365)
マタイによる福音書22章1-14節(42)


 本日の福音書の個所は「婚宴のたとえ」という小見出しがついていますが、先週のたとえ話同様、なにやら物騒な内容も含まれています。

 イエス様の語るこのお話は、祭司長や律法学者が神の子であるイエス様のことを殺すと具体的に計画し始めた時期に、彼らに向かって語られたものです。イエス様は彼らの悪巧みをご存知の上で、そこに焦点を当てて語っておられますが、このたとえ話の後半にはそのほかの要素も含まれています。

 譬え話を読み解くコツですが、「ある王様」というのは神様ご自身、王子はイエス様のことを表しています。また人々が招かれる婚宴とは「神の国」「天国」を表しています。

 前もって招待されていた人々とは祭司長やファリサイ人、律法学者など、神様について人々に教えてきたはずの人々です。それを頭に置いて例え話を理解してまいりましょう。

 このお話のように、王様が主催となって王子のための開く婚宴に招待されるということは、滅多にあることではありません。そこに前もって招待されていたにもかかわらず、別の日でも良さそうな自分勝手な予定のために出席を断るのです。
 王様の招きを平然と断れるのは王様を軽んじているから出来ることです。彼らがもし心から王様を愛し、尊敬していたなら、自分にどんな事情があろうと王様を悲しまたくない、出席しなくては、と思うでしょう。

 しかしこの招待客たちは、王様の好意を踏み躙っただけでは済まず、「王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」のです。これはもう王様に対する明らかな反逆です。そこで王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。

 今までご一緒に譬え話を読んできた方はピンとくると思いますが、これは「率先して神様に忠実に仕えるはずの宗教指導者た」ちが、自分の利益や名誉を優先し、神様をないがしろにしたことを指しています。彼らはイエス様の教えを受け入れないどころか十字架につけてしまったため、神様から、天国に入る資格はない、と捨てられてしまう。そして指導者たちに丸め込まれた多くのユダヤ人も同じ目にあった、ということを指しているのです。

 しかしお話はこれで終わりではありません。王様は「婚宴の用意はできているが、招いておいた人は相応しくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた人はだれでも婚宴に連れてきなさい」と家来たちに命令を下したのです。

 これは「神様の愛と恵み」は、イエス様を拒んだユダヤから取り上げられ、イエス様を素直に受け入れる、あらゆる人達に与えられ、その教えと共に拡がっていくことを表しています。

 そして最後の部分、せっかく改めて招かれたのに「礼服」を着なかったために追い出された人とは誰を指しているのか、考えてみましょう。

 この当時、婚礼に出席する人のためには花婿の家族が礼服を用意する習慣がありました。ですから通りから貧しい人が裸同然で連れてこられたとしても、婚礼の宴で着るのにふさわしい服はちゃんと用意されていたのです。

 また、礼服を着ない人に王様はいきなり怒ったりせず、「友よ」と語りかけます。神様は親身になって、礼服を身につけない理由を聞いてくださいます。しかしこの人は黙ったまま、反抗的な態度を取ったのです。

 この人物とは、キリスト者になったにも関わらず、その教えにふさわしく生きることを拒んだ人のことです。つまり、神様に導かれて教会に足を踏み入れ、洗礼まで受けながら、それまでの自分の在り方を全く悔い改めをしようとせず、変わろうとも考えなかった人のことです。自己主張ばかり強く、反抗的で、「別に俺は俺のママでいいだろう」と、お粗末な自分を晒しながら恥じもせず、傲慢で失礼な態度を隠そうともしなかったので、結局外に放りだされてしまいます。

 イエス様はこのたとえ話の最後、14節で「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と言われます。これは、最初から神様の招きに完璧に答えられる人はいないことを表しています。ただし、神様は短時間で相手を判断したり、一方的に「お前はダメだ、お前はふさわしくない」と決めつける方ではありません。

 王様にしてみても、空っぽの宴会の席ををいっぱいにするために強引に招いた人々が、招く予定だった身分や知識のある人たちのようにお行儀よく振る舞えるとは思っていません。ただ、不完全であっても招かれたことに感謝し、王子の婚礼を共に心から祝ってくれるなら、その人々に愛を注ぎ、粗相が有ったとしても温かく受け入れ、共に豊かで楽しい時間を過ごそう、と呼びかけてくださるのです。

 ローマの信徒への手紙13章14節には「主イエス・キリストを身にまといなさい」という御言葉があります。

 苦難の多い世の中から救い出されて天の国に招かれ、神様の御前に進み出る時、完璧に振る舞える人は誰もいません。しかしそこには礼服が用意されています。それを身につけさえすれば神様は心から喜んでくださいます。その礼服こそは「イエス様への愛と信頼と謙虚さ」に他ならないと思うのです。

 聖書を土台として、お互いに補いあい祈りあいながら、2000年前のキリスト者がそうであったように「神様とイエス様と共に過ごす国」を作り上げて参りましょう。


お子様のすこやかな成長を願ってお祈りしてきた「児童祝福式」は

「こども祝福式」と名称を変え、さらに幅広い年齢のお子様をお誘いしています。

どうぞお子様とご一緒にお越しください。予約は不要です。


祝福式の中では、卒園児(現在小学生)を中心としたルーテルキッズバンドの歌と演奏をお届けします。


また祝福式の後、ささやかな「ルーテルマルシェ」を計画しています。こちらにもふるってご参加ください。こども店長も大歓迎です。

 (牧師・朝比奈晴朗)




ベース担当はMちゃんとお母さん
親子でコード進行や指遣いの確認中

ドラムスはNちゃん!とっても上手です
曲を理解して、自分でタム回しも考えてます

ボンゴを演奏するのはS君
びっくりするくらい良い音を出してくれます


今回のボーカルは4人娘
Yちゃん、Iちゃん、Tちゃん、Hちゃん
ステップ踏んで、ハンドクリップ入れて
歌詞の量が多い曲も、暗譜できそうです

2023年10月8日日曜日

「救いの土台」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(2023年10月8日)

イザヤ書 5章1-7節(1067) 

フィリピの信徒への手紙 3章4b-14節(364)

マタイによる福音書 21章33-46節(42)


 本日の福音書には、自分に非があることに気づかず結果的に恐ろしいことをしでかした人々が登場します。ここにいるのはイエス様に論争を挑んできた祭司長や民の長老たちです。イエス様は彼らに聞かせるためにこの物語を語られました。


 ある家の主人がぶどう園を作ります。「主人は垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てた」と記されています。設備は十分に整えられているのです。勤勉に働くなら、数年後には豊かに葡萄がみのり、美味しいぶどう酒ができる、そんな場所を主人は作り上げたのです。


 しかしぶどう園を作り終えると主人はその場所を農夫たちに貸して、外国へと旅立ちます。農夫たちが善良な人間だったなら、主人がそばにいようがいまいが、主人のためにせっせと働いたことでしょう。もちろんこの農夫たちも真面目に働いたに違いありません。しかし、主人は遠くに行った、主人が突然やってきて自分達を咎めるようなことはしない、と思い始めた時、彼らはここが自分のものであるかのように勘違いし始めます。何年か働くうちに、彼らはそこで生み出される成果は全て自分達のものだと考えるようになったのです。


 しかし、もちろんそうではありません。主人は収穫を受け取ろうと何人もの僕を派遣します。すると農夫たちは自分の成果を横取りされるように思い込み、やってきた僕たちを殺したり傷つけたりしました。そして、最後にはお使いにやってき主人の息子まで殺されてしまいます。


 このお話をよく理解するためには、イエス様が語られる譬え話のルールを思い出す必要があります。先に種明かしをしますと、この「主人」というのは神様のことです。また、ぶどう園とはイスラエルの国を指し、雇われた人々というのは神様からイスラエルを委ねられた宗教指導者たちのことです。また僕たちというのは、神様の言葉を民衆や指導者に伝える役目を負った歴代の預言者たちのことです。


 それらをこの譬え話に当てはめ直していますと、まず、神様はユダヤの人々が安心して住めるようにイスラエルという国を作り、祭司や律法学者たちといった宗教指導者に国をよく統治するようお命じになります。しばらくの間は良かったのですが、やがて彼らは神様が目に見える形で君臨なさらないのを良いことに、イスラエルの国を自分の思うように統治し始めます。そこにはさまざまな思惑があったのでしょうが、政治的な駆け引きを重視するあまり祈りや礼拝に心が伴わなくなっていきます。国を守るのは政治力だ外交力だ、特定の宗教に頼るのはむしろ邪魔だ、と思い込むようになった時、神様への信仰は形だけのものになっていきました。


 それを嘆いた神様は、イスラエルが正しくあるようにと、何人もの預言者を派遣しますが、その預言は受け入れられず、預言者たちは迫害され、中には悲惨な死に方をした者もいました。


 そこで神様は最終手段として独り子であるイエス様をこの地上に送られますが、彼らはイエス様の言葉にも耳を傾けず、跡取りを殺せば葡萄園を我が物にできると考えた、というのです。イエス様のいわれる「息子を殺してしまった」という事は、この後ご自分が十字架にかかることを指しておられます。神様から、またイエス様からご覧になれば、彼らは国のリーダーになどしておけないひどい人々です。


 ただ、少しだけ見方を変えれば、農夫たちの言い分もわかるような気はします。自分達は散々苦労して収穫の時を迎えた。主人は遠くにいて何にもしていないのに、収穫を受け取るために、当然のように僕たちをよこした。今更なんだ、勝手すぎるだろう、という感情なのでしょう。


 しかし、約束は約束です。彼らはぶどう園で誠実に働くために雇われた、自分の立場を忘れるべきではありませんでした。つまり、祭司や律法学者、ファリサイ人たちは、神様のために汗を流して働くことの喜びや、このような私に大役を任せていただいて、なんて感謝なのだろう、という謙虚さを持ち続けるべきであったのに、それをすっかり忘れて自分が神様のように振る舞ってしまったのです。


 あなた方がこのまま神様に不忠実な道を歩んでいくなら、神様の愛はあなたたちから取り上げられる、それはすでに旧約聖書に予告された約束でもある、とお示しになったのです。そしてイエス様が十字架にかかって蘇られた後、実際そのようになっていきました。

 イスラエルのトップ政治家や宗教リーダーたちがどんなに勘違いをし、神様のご計画やイエス様のなさることを妨害しようとしても、イエス様を救い主と信じる人々によって神様の愛と恵みは正しく広められ、聖書の教えと言葉も地の果てまで伝えられていったのです。


 その予兆がこの箇所にも記されています。同じ21章の14節です。イエス様は、エルサレム神殿の境内で不法に金儲けをしている人々を厳しく追い出しますが、そんなイエス様を恐れないでそばに近づいて来たのは、目の見えない人や足の不自由な人でした。イエス様はその人たちを受け入れ、お癒しになります。普通なら社会のお荷物とも言われる人々をイエス様は大切になさり、癒されたのです。


 イエス様が人々に求められたのは、幼子のようにイエス様を慕う素朴な信仰であることがよくわかります。この素直な信仰を土台として、キリストの教会は作られ堅固なものとなっていくのです。


 私たちの役割は、この世で役に立たないとなげ捨てられた石を集め、関わり、共にこの教会をしっかりしたものに作り上げていくことなのです。



昨日は10月の土曜学校が行われました。

複数の小学校から参加しているため

運動会の日程と重なるところも多く

参加者は少ないだろうと考えていました

(昨年は3人でした)

ちょっと遅刻した人もいましたが

11人のお友達が来てくれました


テーマは自分だけのリンゴの木

葉っぱや木の実をお米粘土で作ってつけていくと

重みで幹がまっすぐ立たなくなります

みんな四苦八苦しながら

ブランコや小鳥も作って

楽しい作品になりました

中にはスーパーボール(?)を作るのに夢中で

リンゴの木そっちのけというお友達も(^^;)


ともあれ子どもたちは粘土が好き、というのは

間違いなさそうです



バスケットと掛け持ちで来てくれるAさん

ルーテルキッズバンドでボーカルも
頑張ってくれているHさん

いつも集中して楽しい作品を作ってくれるDくん


2023年10月3日火曜日

「主の示される道」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(2023年10月1日)
詩編25:1~9 エゼキエル書18:1~4、25~32(1321~1322) 
フィリピの信徒への手紙2:1~13(362) 
マタイによる福音書21:23~32(41)


 本日の詩篇25篇はダビデ王が書いたと言われています。ダビデは紀元前1000年頃のイスラエルの王様で、イエス様の時代にも伝説的英雄として尊敬されていました。しかし彼はここで神様に向かって「私の若い時の罪と背きは思い起こさないでください」と深刻な祈りを捧げています。なぜならこの時ダビデ王は実の息子にクーデターを起こされ殺されそうだったのです。


 この恐ろしい出来事の発端はダビデ王がたくさんの妻をもったことでした。彼には地位も経済力もあり、気持ちの赴くままにさまざまな女性を自分の側に置きました。最大のゴシップは欲望に駆られて部下の美しい妻を奪い取り、それがバレないよう、その夫をわざと戦地に置き去りにして戦死させたことでしょう。


 さすがにその事件は神様の怒りに触れます。ナタンという預言者が神様に遣わされてダビデの元を訪れ、ダビデを叱りつけます。そして「あなたのしたことが原因で家族の中に争いが起こる」と宣言するのです。


 その言葉通り、妻同士は対立し、母親の違う子供たちの関係も複雑化し、恋愛沙汰や揉め事、殺人事件まで起こります。そしてついに三番目の王子アブサロムがクーデターを起こしたのです。ダビデは何もかも自分の欲望のせいであると悟り、涙ながらに神様により頼みます。


 「主よ、あなたの道を私に示し、あなたに従う道を教えてください」そしてこうも祈ります。「私の若い時の罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、私を御心に留めてください」


 やがて父と子の悲惨な戦いは、戦力に勝るダビデ軍が勝利します。ダビデは王位に返り咲きますが、アブサロムの死を大いに嘆いたことが聖書に記されています。


 ダビデ王は自分がこうありたいと望む道を祝福してください、とは願わず、自分の思いは全て白紙に戻して、ただただ、神様の示してくださる道をゆきたい、と願い、神様はそれを受け入れられたのでした。


 さて、もう一箇所旧約聖書から「道」についてご紹介したい御言葉は「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良いだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」です。ここには、「私の示す道は命に通じているのだから、こっちに来なさい」という神様の強いメッセージが込められています。


 このような旧約聖書の神様のメッセージを心に刻んで、本日の福音書を見てまいりましょう。


 マタイ福音書21章28節以降では、祭司長や民の長老たちがイエス様に議論を挑んでいます。祭司長たちはイエス様のお考えに強い反発心を持ち、詰問してきたのです。今日の箇所はそんな彼らとのやり取りの後半で、イエス様はお話の中に二人の息子を登場させます。


 兄息子は父親から「葡萄畑に行って働きなさい」と呼びかけられ、「嫌だ」と言ったものの、後で考え直して働きに出かけます。しかし弟息子は「承知しました」と調子の良い返事をしただけで結局出かけませんでした。イエス様はどちらが父親の望み通りしたか?と問いかけられます。祭司長や長老たちはバカにするなとばかり「兄の方です」と答えます。


 イエス様の譬え話で「父親」というのは、たいてい神様のことを表し、息子たちとは人間のことです。「ぶどう園へ行って働く」というのは「神様のために働く」あるいは「神様の呼びかけに真摯に応える」という意味にとって良いでしょう。


 つまりここで神様は2種類の人々のところに来て『私のために働いておくれ』と語りかけたのです。「兄」グループとは徴税人や娼婦たちで、「弟」は祭司長や律法学者たちであるとわかります。イエス様はズバリ言われます。「神の国に先に入るのは、あなたたち司長や律法学者たちではなく、徴税人や娼婦たちである」。


 弟に例えられた祭司長や律法学者たちは、自分達こそ様の求めに忠実だと自負し、民衆にも自分達を見習うようにとに教えていました。ところが神様の使者である洗礼者ヨハネが傲慢な人々の痛いところをついて「悔い改めなさい」とメッセージすると、そんな必要はない、とそれを拒否しました。


 それに対して、兄に例えられる「徴税人や娼婦たち」は経済的な事情や社会から差別される何かがあってずっと律法を守れないで生きてきました。ところが洗礼者ヨハネやイエス様が正しい道を示すと、それに心を打たれ、過去の罪を責めないと約束してくださる神様の愛に委ねて、新しい道とへと踏み出したのです。


 このたとえ話を福音書に記したマタイは、かつて徴税人として働いていた時、イエス様に招かれて弟子となりました。彼の過去は思い出したくない事だらけだったはずです。イエス様はそれを全て無かったこととして、まっさらな人のように扱ってくださいました。マタイはそれを伝えないではいられなかったのでしょう。


 私たちの人生は過ちだらけです。ダビデのように直接戦争を引き起こすような大きな罪は犯さなかったとしても、日常の中の小さな過ちや罪は数え上げればキリがなく、それが積み重なって取り返しがつかなくなることもあるかもしれません。


 あんなことをしなければよかった、こっちの道を選んでおけばよかった、今更もう手遅れだ。そんな思いは私たちの心を暗くし、信仰生活にも大きな影を落とします。しかし神様に縋るのに遅すぎることはないのです。


 私たちの過去がどれほどの失敗や過ちに満ちていようとも、神様は強い愛で「どうしてお前たちは死んで良いだろうか」と呼びかけ、道を示し、この道をゆけ、と導き続けてくださるのです。聖書は赦しの奇跡で満ちています。この神を信じて、示される道を共に歩んで参りましょう。



今年は飯田の「りんご並木」70周年です。
第二次世界大戦直後に飯田市をった大火は市街地の70パーセントを焼き尽くしたとか。その時当時の飯田教会も幼稚園も被害にあって建物は焼失しました。
復興のためにリンゴ並木を、という飯田東中学校の生徒達の発案に「盗難に遭って終わりだろう」という大人たちの反対の声もありましたが、「それでもやるんだ」という強い意志のもと、歴代の中学生たちががお世話を引き継ぐことで、今まで続けられてきたりんご並木。

もっともっと広く知られても良い、素晴らしい歴史だと思います。

今年はクラウドファンディングでりんごの品種のプレートも新しくなり、式典や記念商品も盛りだくさん。
収穫したリンゴで作られた100%ジュースやジャムも絶品です。