聖霊降臨後第21主日礼拝(2023年10月22日)
イザヤ書45章1-7節(1135)
Ⅰテサロニケの信徒への手紙1章1-10節(374)
マタイによる福音書22章15-22節(43)
本日の福音書にはイエス様の「皇帝のものは皇帝に」という有名な御言葉が記されています。この言葉はことわざ事典などに「カイザルのものはカイザルに」という表現で掲載されており、「神への服従と国家への義務は次元が違うので、両者を共に守ることは矛盾しない」と解説されています。私たちは辞書の意味だけでなく、イエス様がどのような思いを持ってこの御言葉を語られたか考えてみましょう。
この時、イエス様を陥れようとして何かと白黒つけるファリサイ派と皇帝寄りのヘロデ派が手を組み、イエス様の元へやってきます。この二つのグループは政治的立場の違いから、仲が良くはありませんでした。しかしイエス様を陥れたい思いはどちらも同じだったので、ひとまず協力し合うことにしたのでしょう。
彼らは周到に質問を用意していました。それが「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか適っていないか」という質問です。
ここでイエス様が「皇帝に税金を納めるのは正しい」と答えるならば、民衆はがっかりして、イエス様のもとから離れていくだろう、と彼らは考えました。多くの民衆はイエス様こそイスラエルを独立に導き、皇帝に人頭税を納めなくて済むようにしてくれる新しい王様では?と期待していたのです。ですからイエス様が「皇帝に税金を納めるべきである」と言えば群衆は期待を裏切られることになります。
またその反対に、イエス様が「皇帝に税金を納めるべきではない」と答えるならば、これもまた指導者たちの思う壺です。「イエスはローマのやり方を批判している」とローマ皇帝への反逆者としてヘロデ派の人たちがローマに密告し訴えることができるからです。
そのような状況だったからこそ、イエス様がおっしゃった「皇帝のものは皇帝に」という言葉には深い意味がありました。イエス様は、十字架と復活を経てご自分が帰る神の国がどんなに素晴らしいかご存じでした。イエス様が心を込めて「神の国はこの世とは比べ物にならない豊かさがある」とお伝えになりました。しかし、この世の人々はいつの時代も、金持ちは他人を陥れてでもさらに金持ちになろうとしますし、貧しいものはそこから這い上がりたいと必死になります。金持ちであっても貧しくても、富を求めるあまり、信仰がすっかりお留守になるのが人間の悲しさであるとイエス様はご存知でした。
だからこそイエス様は、折に触れて「富というのは、神様からの恵みであり、神様ご自身が分け与えているものだ」と教えてこられました。もちろんイエス様の独断ではなく、旧約聖書を引用して教えられたのです。
しかし、旧約聖書に精通しているはずのファリサイ派の人たちはイエス様の言葉を理解しようとしませんでした。ファリサイ派の人たちはなぜこれほどにイエス様を目のカタキにしたのでしょう。
少し説明が長くなりますが、イエス様の時代から遡ること160年前、イスラエルは隣の国シリアに支配されていました。シリアはギリシア神話に登場するゼウスを神として崇め、ユダヤ人たちにもギリシアのゼウス信仰を強要しました。
それに反発したユダヤ人たちは、戦争を起こして勝利し、ユダヤの独立を勝ちとります。その時、私たちの神は唯一であり、神の律法を守ることが大切なのだ、という教えを徹底します。ファリサイ人たちは律法を守ってさえいれば神様の恵みが自分達から離れることはない、と信じていたのです。
しかしその後もイスラエルは周辺諸国に脅かされ続け、今度はローマから支配を受けるようになってしまいます。それでも、ファリサイ人たちは、変わらず律法を守っていれば、やがて再び独立できると信じ、さらに厳しく民衆を指導しました。
こういった律法重視の政策は、何らかの理由で律法を守れない人々には辛く厳しいものとなりました。そういった人々は律法中心の信仰生活から脱落し、自分は神様に捨てられた存在だ、と思い込んでわびしく生きていくしかなかったのです。
そこに登場したのがイエス様でした。イエス様は社会から見捨てられた人々だけでなく、開き直って悪に走った人々にさえ暖かい言葉をかけ、寄り添い「神様はあなたたちを愛している」と伝え、ご自身もそのように行動されました。
これが「律法を守る事こそ全て」と信じるファリサイ人の思いとは相容れなくなったのです。イエス様は彼らの悪意に気づいておられました。ですから「なぜ私を試そうとするのか」と言われた後、税金に納めるためのデナリオン銀貨を見せるようにおっしゃいました。
皇帝の肖像が刻まれているこのコインは「お前たちが無事に生活できているのは皇帝のおかげである。だからお前たちは、皇帝に感謝と敬意を払いなさい」というメッセージが込められていました。これはローマの支配を望まないユダヤ人にとっては、非常に屈辱的な出来事だったのです。
そこでイエス様は肖像は誰かを問いただし、相手に「皇帝のもの」と答えさせた上で、「皇帝は皇帝のものに、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。注目していただきたいのは、イエス様は「皇帝に納めなさい」とは言わず、「皇帝に返しなさい」と言われたことです。
「皇帝が税金を寄越せというなら、そのコインは皇帝に返してやりなさい。しかしあなた方は神の民なのだから、誇りを持ちなさい。信仰まで渡してしまってはいけません」イエス様は人々にそう告げたのです。
この教えは今も昔も変わりません。私たちが、地位や権力や金銭欲の虜になったら、神を見失ったものとして、滅びの道に歩むことになります。しかしもし、自分は神様によって命を与えられた存在でことを弁え、自分のは全て神のものであることを深く心に刻むことができたら、私は神のものとして生きることができるのです。
先週の土曜日は幼稚園の運動会でした。
牧師は毎回音響担当です。
先生方はさまざまなイメージを膨らませ、音響に関して「ここで◉◉してほしいんです」「ここで○○やってください」と発注してきます。
それを形にするのは一苦労ですが、牧師になる前、録音スタジオで仕事をしていた経験が生かされて、毎回少しずつ機材を買い足しながら、なんとかなっていることを神様に感謝します。
それにしても数週間前に運動会をした学校は熱中症に注意が必要でした。
今頃は急激に寒くなり、空気も乾燥してきてインフルエンザに注意が必要です。
気候の急変による体調不良に、皆様もお気をつけください。
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