聖霊降臨後第18主日礼拝(2023年10月8日)
イザヤ書 5章1-7節(1067)
フィリピの信徒への手紙 3章4b-14節(364)
マタイによる福音書 21章33-46節(42)
本日の福音書には、自分に非があることに気づかず結果的に恐ろしいことをしでかした人々が登場します。ここにいるのはイエス様に論争を挑んできた祭司長や民の長老たちです。イエス様は彼らに聞かせるためにこの物語を語られました。
ある家の主人がぶどう園を作ります。「主人は垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てた」と記されています。設備は十分に整えられているのです。勤勉に働くなら、数年後には豊かに葡萄がみのり、美味しいぶどう酒ができる、そんな場所を主人は作り上げたのです。
しかしぶどう園を作り終えると主人はその場所を農夫たちに貸して、外国へと旅立ちます。農夫たちが善良な人間だったなら、主人がそばにいようがいまいが、主人のためにせっせと働いたことでしょう。もちろんこの農夫たちも真面目に働いたに違いありません。しかし、主人は遠くに行った、主人が突然やってきて自分達を咎めるようなことはしない、と思い始めた時、彼らはここが自分のものであるかのように勘違いし始めます。何年か働くうちに、彼らはそこで生み出される成果は全て自分達のものだと考えるようになったのです。
しかし、もちろんそうではありません。主人は収穫を受け取ろうと何人もの僕を派遣します。すると農夫たちは自分の成果を横取りされるように思い込み、やってきた僕たちを殺したり傷つけたりしました。そして、最後にはお使いにやってき主人の息子まで殺されてしまいます。
このお話をよく理解するためには、イエス様が語られる譬え話のルールを思い出す必要があります。先に種明かしをしますと、この「主人」というのは神様のことです。また、ぶどう園とはイスラエルの国を指し、雇われた人々というのは神様からイスラエルを委ねられた宗教指導者たちのことです。また僕たちというのは、神様の言葉を民衆や指導者に伝える役目を負った歴代の預言者たちのことです。
それらをこの譬え話に当てはめ直していますと、まず、神様はユダヤの人々が安心して住めるようにイスラエルという国を作り、祭司や律法学者たちといった宗教指導者に国をよく統治するようお命じになります。しばらくの間は良かったのですが、やがて彼らは神様が目に見える形で君臨なさらないのを良いことに、イスラエルの国を自分の思うように統治し始めます。そこにはさまざまな思惑があったのでしょうが、政治的な駆け引きを重視するあまり祈りや礼拝に心が伴わなくなっていきます。国を守るのは政治力だ外交力だ、特定の宗教に頼るのはむしろ邪魔だ、と思い込むようになった時、神様への信仰は形だけのものになっていきました。
それを嘆いた神様は、イスラエルが正しくあるようにと、何人もの預言者を派遣しますが、その預言は受け入れられず、預言者たちは迫害され、中には悲惨な死に方をした者もいました。
そこで神様は最終手段として独り子であるイエス様をこの地上に送られますが、彼らはイエス様の言葉にも耳を傾けず、跡取りを殺せば葡萄園を我が物にできると考えた、というのです。イエス様のいわれる「息子を殺してしまった」という事は、この後ご自分が十字架にかかることを指しておられます。神様から、またイエス様からご覧になれば、彼らは国のリーダーになどしておけないひどい人々です。
ただ、少しだけ見方を変えれば、農夫たちの言い分もわかるような気はします。自分達は散々苦労して収穫の時を迎えた。主人は遠くにいて何にもしていないのに、収穫を受け取るために、当然のように僕たちをよこした。今更なんだ、勝手すぎるだろう、という感情なのでしょう。
しかし、約束は約束です。彼らはぶどう園で誠実に働くために雇われた、自分の立場を忘れるべきではありませんでした。つまり、祭司や律法学者、ファリサイ人たちは、神様のために汗を流して働くことの喜びや、このような私に大役を任せていただいて、なんて感謝なのだろう、という謙虚さを持ち続けるべきであったのに、それをすっかり忘れて自分が神様のように振る舞ってしまったのです。
あなた方がこのまま神様に不忠実な道を歩んでいくなら、神様の愛はあなたたちから取り上げられる、それはすでに旧約聖書に予告された約束でもある、とお示しになったのです。そしてイエス様が十字架にかかって蘇られた後、実際そのようになっていきました。
イスラエルのトップ政治家や宗教リーダーたちがどんなに勘違いをし、神様のご計画やイエス様のなさることを妨害しようとしても、イエス様を救い主と信じる人々によって神様の愛と恵みは正しく広められ、聖書の教えと言葉も地の果てまで伝えられていったのです。
その予兆がこの箇所にも記されています。同じ21章の14節です。イエス様は、エルサレム神殿の境内で不法に金儲けをしている人々を厳しく追い出しますが、そんなイエス様を恐れないでそばに近づいて来たのは、目の見えない人や足の不自由な人でした。イエス様はその人たちを受け入れ、お癒しになります。普通なら社会のお荷物とも言われる人々をイエス様は大切になさり、癒されたのです。
イエス様が人々に求められたのは、幼子のようにイエス様を慕う素朴な信仰であることがよくわかります。この素直な信仰を土台として、キリストの教会は作られ堅固なものとなっていくのです。
私たちの役割は、この世で役に立たないとなげ捨てられた石を集め、関わり、共にこの教会をしっかりしたものに作り上げていくことなのです。
昨日は10月の土曜学校が行われました。
複数の小学校から参加しているため
運動会の日程と重なるところも多く
参加者は少ないだろうと考えていました
(昨年は3人でした)
ちょっと遅刻した人もいましたが
11人のお友達が来てくれました
テーマは自分だけのリンゴの木
葉っぱや木の実をお米粘土で作ってつけていくと
重みで幹がまっすぐ立たなくなります
みんな四苦八苦しながら
ブランコや小鳥も作って
楽しい作品になりました
中にはスーパーボール(?)を作るのに夢中で
リンゴの木そっちのけというお友達も(^^;)
ともあれ子どもたちは粘土が好き、というのは
間違いなさそうです
バスケットと掛け持ちで来てくれるAさん |
ルーテルキッズバンドでボーカルも 頑張ってくれているHさん |
いつも集中して楽しい作品を作ってくれるDくん |
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