聖霊降臨後第18主日礼拝(2023年10月1日)
詩編25:1~9 エゼキエル書18:1~4、25~32(1321~1322)
フィリピの信徒への手紙2:1~13(362)
マタイによる福音書21:23~32(41)
本日の詩篇25篇はダビデ王が書いたと言われています。ダビデは紀元前1000年頃のイスラエルの王様で、イエス様の時代にも伝説的英雄として尊敬されていました。しかし彼はここで神様に向かって「私の若い時の罪と背きは思い起こさないでください」と深刻な祈りを捧げています。なぜならこの時ダビデ王は実の息子にクーデターを起こされ殺されそうだったのです。
この恐ろしい出来事の発端はダビデ王がたくさんの妻をもったことでした。彼には地位も経済力もあり、気持ちの赴くままにさまざまな女性を自分の側に置きました。最大のゴシップは欲望に駆られて部下の美しい妻を奪い取り、それがバレないよう、その夫をわざと戦地に置き去りにして戦死させたことでしょう。
さすがにその事件は神様の怒りに触れます。ナタンという預言者が神様に遣わされてダビデの元を訪れ、ダビデを叱りつけます。そして「あなたのしたことが原因で家族の中に争いが起こる」と宣言するのです。
その言葉通り、妻同士は対立し、母親の違う子供たちの関係も複雑化し、恋愛沙汰や揉め事、殺人事件まで起こります。そしてついに三番目の王子アブサロムがクーデターを起こしたのです。ダビデは何もかも自分の欲望のせいであると悟り、涙ながらに神様により頼みます。
「主よ、あなたの道を私に示し、あなたに従う道を教えてください」そしてこうも祈ります。「私の若い時の罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、私を御心に留めてください」
やがて父と子の悲惨な戦いは、戦力に勝るダビデ軍が勝利します。ダビデは王位に返り咲きますが、アブサロムの死を大いに嘆いたことが聖書に記されています。
ダビデ王は自分がこうありたいと望む道を祝福してください、とは願わず、自分の思いは全て白紙に戻して、ただただ、神様の示してくださる道をゆきたい、と願い、神様はそれを受け入れられたのでした。
さて、もう一箇所旧約聖書から「道」についてご紹介したい御言葉は「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良いだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」です。ここには、「私の示す道は命に通じているのだから、こっちに来なさい」という神様の強いメッセージが込められています。
このような旧約聖書の神様のメッセージを心に刻んで、本日の福音書を見てまいりましょう。
マタイ福音書21章28節以降では、祭司長や民の長老たちがイエス様に議論を挑んでいます。祭司長たちはイエス様のお考えに強い反発心を持ち、詰問してきたのです。今日の箇所はそんな彼らとのやり取りの後半で、イエス様はお話の中に二人の息子を登場させます。
兄息子は父親から「葡萄畑に行って働きなさい」と呼びかけられ、「嫌だ」と言ったものの、後で考え直して働きに出かけます。しかし弟息子は「承知しました」と調子の良い返事をしただけで結局出かけませんでした。イエス様はどちらが父親の望み通りしたか?と問いかけられます。祭司長や長老たちはバカにするなとばかり「兄の方です」と答えます。
イエス様の譬え話で「父親」というのは、たいてい神様のことを表し、息子たちとは人間のことです。「ぶどう園へ行って働く」というのは「神様のために働く」あるいは「神様の呼びかけに真摯に応える」という意味にとって良いでしょう。
つまりここで神様は2種類の人々のところに来て『私のために働いておくれ』と語りかけたのです。「兄」グループとは徴税人や娼婦たちで、「弟」は祭司長や律法学者たちであるとわかります。イエス様はズバリ言われます。「神の国に先に入るのは、あなたたち司長や律法学者たちではなく、徴税人や娼婦たちである」。
弟に例えられた祭司長や律法学者たちは、自分達こそ様の求めに忠実だと自負し、民衆にも自分達を見習うようにとに教えていました。ところが神様の使者である洗礼者ヨハネが傲慢な人々の痛いところをついて「悔い改めなさい」とメッセージすると、そんな必要はない、とそれを拒否しました。
それに対して、兄に例えられる「徴税人や娼婦たち」は経済的な事情や社会から差別される何かがあってずっと律法を守れないで生きてきました。ところが洗礼者ヨハネやイエス様が正しい道を示すと、それに心を打たれ、過去の罪を責めないと約束してくださる神様の愛に委ねて、新しい道とへと踏み出したのです。
このたとえ話を福音書に記したマタイは、かつて徴税人として働いていた時、イエス様に招かれて弟子となりました。彼の過去は思い出したくない事だらけだったはずです。イエス様はそれを全て無かったこととして、まっさらな人のように扱ってくださいました。マタイはそれを伝えないではいられなかったのでしょう。
私たちの人生は過ちだらけです。ダビデのように直接戦争を引き起こすような大きな罪は犯さなかったとしても、日常の中の小さな過ちや罪は数え上げればキリがなく、それが積み重なって取り返しがつかなくなることもあるかもしれません。
あんなことをしなければよかった、こっちの道を選んでおけばよかった、今更もう手遅れだ。そんな思いは私たちの心を暗くし、信仰生活にも大きな影を落とします。しかし神様に縋るのに遅すぎることはないのです。
私たちの過去がどれほどの失敗や過ちに満ちていようとも、神様は強い愛で「どうしてお前たちは死んで良いだろうか」と呼びかけ、道を示し、この道をゆけ、と導き続けてくださるのです。聖書は赦しの奇跡で満ちています。この神を信じて、示される道を共に歩んで参りましょう。
今年は飯田の「りんご並木」70周年です。
第二次世界大戦直後に飯田市をった大火は市街地の70パーセントを焼き尽くしたとか。その時当時の飯田教会も幼稚園も被害にあって建物は焼失しました。
復興のためにリンゴ並木を、という飯田東中学校の生徒達の発案に「盗難に遭って終わりだろう」という大人たちの反対の声もありましたが、「それでもやるんだ」という強い意志のもと、歴代の中学生たちががお世話を引き継ぐことで、今まで続けられてきたりんご並木。
もっともっと広く知られても良い、素晴らしい歴史だと思います。
今年はクラウドファンディングでりんごの品種のプレートも新しくなり、式典や記念商品も盛りだくさん。
収穫したリンゴで作られた100%ジュースやジャムも絶品です。
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