聖餐式・宗教改革記念礼拝(2023年10月29日)
詩編 46編(880) ローマの信徒への手紙 3章19-28節(277)
マタイによる福音書 11章12-19節(20)
今から500年ほど前、当時のカトリック教会はヨーロッパで絶大な権力を誇っていました。その中心はバチカンにあり、威厳を示すために贅を尽くした教会が建てられました。また、教会に仕える人々は教皇を頂点とするピラミッド型の厳格な序列に従っていました。教会内部ではより高い地位を目指して権力闘争も起きるわけで、当時の教会内部は結構ドロドロしていたといえるでしょう。
宗教改革者であるマルチン・ルターは、そんな時代にローマから遠く離れたドイツに生まれました。ドイツでは政治を担う人々が賢かったこともあって、教会は秩序や教育の大切さを民衆に伝えていました。ルターの両親は教会の「人間形成には教育が大切である」という考え方に共感し、息子の教育にお金を注ぎ込みました。そのおかげでルターは優秀な成績を納め、将来は約束されていました。
しかし、ここで「まさか」の事態が起きます。ルターが実家から学校へ帰る道で、雷に打たれそうになり、命の危機にさらされたのです。彼は神に祈り、生き延びられるなら「修道士」になると誓います。
辛くも生き延びたルターでしたが、父親は修道院入りに猛反対しました。会社経営者であった父はローマのドロドロした権威主義を嫌い、息子が組織内部に入ることを心配したようです。しかし若いルターは一日中神様に祈りを捧げ奉仕する修道院生活に憧れました。そしていつかキリスト教の中心地であるローマに行ってみたいと願い、反対を押し切って修道士として教会に身を投じたのです。
ルターはドイツの教会で順調に出世し、ローマに巡礼に行くチャンスも比較的早く巡ってきました。しかし彼がローマで見たのは、位の高い聖職者たちが品の悪い冗談を言ったり、礼拝で不敬行為を行ったりする様子でした。
ルターの憧れは無惨に打ち砕かれ、その幻滅をこのように記録しています。「ローマにおいて、どんな罪や恥ずべき行為が行われているかは、想像できない。実際に見聞きしなければ信じられないほどである。『もし地獄があるとならば、ローマはその上に建っている。』」
ルターは教会には心底ガッカリしましたが、神様への愛は変わりませんでした。むしろますます燃え上がり、神様の愛を正しく伝えるため、キリスト教会のあり方を聖書を通して根本から捉えなすため、孤独な戦いへと踏み出したのです。
このルターの行動はたちまちローマから睨まれます。彼は教会から破門され、ついに命まで危うくなりました。すると、そんな彼を、ドイツの高い地位にある人物が匿い、活動の支援もしてくれました。ルターの考えに賛同する人々も次々と生まれ、ルターとその仲間たちによる宗教改革はローマの権威に対抗できるほどに大きなうねりになっていったのです。
ただ、ルターの時代の聖書はラテン語で書かれていて、貴族や教会内部の人々しか読むことはできませんでした。聖書に書かれている、イエス様の思いやりに満ちたメッセージも、一般の人は読むことができません。そこでルターはどんな人でも聖書を読めるよう、まずドイツの言葉に翻訳し始めました。聖書に親しむことができたなら、心は成長し、その人々が集まる教会も成長していくと信じたのです。
今日、ドイツから遠く離れた日本に住む私たちも、そういった宗教改革の流れを受けて、日本語で聖書を読むことができるのです。
さて、本日読みましたマタイ福音書には「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。」という言葉が記されています。これは「笛吹けど踊らず」ということわざの元となっています。
イスラエルのこどもは、結婚式や葬式のごっご遊びをよく行ったそうで、この様子をイエス様は譬えに用いました。誰かが結婚式ごっこをやろうと呼びかけ、笛を吹き始めると、他のこどもたちもこれに乗っかって、さあ、楽しい遊びが始まるぞ、と思った瞬間に誰かが「つまらない」と言い出して遊びが止まります。そこで「じゃあ葬式ごっこをしよう」と、葬送の歌を歌い始めると、誰かが同じように「つまらない」と言い出して、遊びが中断してしまうのです。
始める前は何か楽しいことが始まるように思ってワクワクするのに、少しでも自分の思いと違うことがあると「や~めた」と言い出す、わがままな子ども。イエス様は今の時代の人たちは、それと同様であるとおっしゃったのです。
これは、神様が人々を神の国に導こうと洗礼者ヨハネやイエス様を地上に送られ準備をされたのに「ヨハネもイエスも自分の考えていたのと違う」と文句を言い、疑い、難癖をつけたのです。
洗礼者ヨハネは禁欲的な生活をしていたため、食べ物も飲み物も限られたものを口にするだけでした。立派な人だと評価する人が多くなると、ファリサイ派や律法学者が『あれは悪霊に取り付かれている』と悪口を言い始めました。
イエス様が人々から慕われ始めると、これも疑い難癖をつけます。イエス様が社会から嫌われていた人々を悔い改めに導いた時、彼らが感謝を込めて招待してくれた食事会で楽しく過ごしていると、またまたファリサイ派や律法学者が『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と批判をしたのです。
しかし、それでもイエス様は「知恵の正しさは、その働きによって証明される。」とおっしゃいます。諦めずに神様の導きによって正しいことをしているなら、時間はかかっても認められる時は必ず来る」と言われたのです。
確かに、ルターはさまざまな困難に耐えて理解者を増やし、イエス様が私たちの罪の赦しのため身代わりになって十字架に掛かられたことを福音(良いニュース)と呼びました。これこそ信仰の中心であると、何度も人々に語り聞かせたのです。
み言葉を聞く人自身が聖書に記されたイエス様の前に謙虚にこうべを垂れるとき、神様が一人一人の魂に直接語りかけてくださいます。イエス様を受け入れ、信じる者は、それまでどのような人生を歩んでこようとも「神の子」として迎え入れられる、その素晴らしさを伝えることこそ教会の役割である。そう説いたルターの考えが、今のプロテスタント教会の土台となったのです。
11月19日はこども祝福式です いつも演奏してくださっていたハンドベルの皆さんは スケジュールが合わず、来ていただくことは かないませんでしたが、その分 「ルーテルキッズバンド」が頑張ります どうぞ聴きに来て、一緒に楽しんでください! |
0 件のコメント:
コメントを投稿