聖霊降臨後第20主日礼拝(2023年10月15日)
詩編23編(1097) フィリピの信徒への手紙4章1-9節(365)
マタイによる福音書22章1-14節(42)
本日の福音書の個所は「婚宴のたとえ」という小見出しがついていますが、先週のたとえ話同様、なにやら物騒な内容も含まれています。
イエス様の語るこのお話は、祭司長や律法学者が神の子であるイエス様のことを殺すと具体的に計画し始めた時期に、彼らに向かって語られたものです。イエス様は彼らの悪巧みをご存知の上で、そこに焦点を当てて語っておられますが、このたとえ話の後半にはそのほかの要素も含まれています。
譬え話を読み解くコツですが、「ある王様」というのは神様ご自身、王子はイエス様のことを表しています。また人々が招かれる婚宴とは「神の国」「天国」を表しています。
前もって招待されていた人々とは祭司長やファリサイ人、律法学者など、神様について人々に教えてきたはずの人々です。それを頭に置いて例え話を理解してまいりましょう。
このお話のように、王様が主催となって王子のための開く婚宴に招待されるということは、滅多にあることではありません。そこに前もって招待されていたにもかかわらず、別の日でも良さそうな自分勝手な予定のために出席を断るのです。
王様の招きを平然と断れるのは王様を軽んじているから出来ることです。彼らがもし心から王様を愛し、尊敬していたなら、自分にどんな事情があろうと王様を悲しまたくない、出席しなくては、と思うでしょう。
しかしこの招待客たちは、王様の好意を踏み躙っただけでは済まず、「王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」のです。これはもう王様に対する明らかな反逆です。そこで王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払ったのです。
今までご一緒に譬え話を読んできた方はピンとくると思いますが、これは「率先して神様に忠実に仕えるはずの宗教指導者た」ちが、自分の利益や名誉を優先し、神様をないがしろにしたことを指しています。彼らはイエス様の教えを受け入れないどころか十字架につけてしまったため、神様から、天国に入る資格はない、と捨てられてしまう。そして指導者たちに丸め込まれた多くのユダヤ人も同じ目にあった、ということを指しているのです。
しかしお話はこれで終わりではありません。王様は「婚宴の用意はできているが、招いておいた人は相応しくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた人はだれでも婚宴に連れてきなさい」と家来たちに命令を下したのです。
これは「神様の愛と恵み」は、イエス様を拒んだユダヤから取り上げられ、イエス様を素直に受け入れる、あらゆる人達に与えられ、その教えと共に拡がっていくことを表しています。
そして最後の部分、せっかく改めて招かれたのに「礼服」を着なかったために追い出された人とは誰を指しているのか、考えてみましょう。
この当時、婚礼に出席する人のためには花婿の家族が礼服を用意する習慣がありました。ですから通りから貧しい人が裸同然で連れてこられたとしても、婚礼の宴で着るのにふさわしい服はちゃんと用意されていたのです。
また、礼服を着ない人に王様はいきなり怒ったりせず、「友よ」と語りかけます。神様は親身になって、礼服を身につけない理由を聞いてくださいます。しかしこの人は黙ったまま、反抗的な態度を取ったのです。
この人物とは、キリスト者になったにも関わらず、その教えにふさわしく生きることを拒んだ人のことです。つまり、神様に導かれて教会に足を踏み入れ、洗礼まで受けながら、それまでの自分の在り方を全く悔い改めをしようとせず、変わろうとも考えなかった人のことです。自己主張ばかり強く、反抗的で、「別に俺は俺のママでいいだろう」と、お粗末な自分を晒しながら恥じもせず、傲慢で失礼な態度を隠そうともしなかったので、結局外に放りだされてしまいます。
イエス様はこのたとえ話の最後、14節で「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と言われます。これは、最初から神様の招きに完璧に答えられる人はいないことを表しています。ただし、神様は短時間で相手を判断したり、一方的に「お前はダメだ、お前はふさわしくない」と決めつける方ではありません。
王様にしてみても、空っぽの宴会の席ををいっぱいにするために強引に招いた人々が、招く予定だった身分や知識のある人たちのようにお行儀よく振る舞えるとは思っていません。ただ、不完全であっても招かれたことに感謝し、王子の婚礼を共に心から祝ってくれるなら、その人々に愛を注ぎ、粗相が有ったとしても温かく受け入れ、共に豊かで楽しい時間を過ごそう、と呼びかけてくださるのです。
ローマの信徒への手紙13章14節には「主イエス・キリストを身にまといなさい」という御言葉があります。
苦難の多い世の中から救い出されて天の国に招かれ、神様の御前に進み出る時、完璧に振る舞える人は誰もいません。しかしそこには礼服が用意されています。それを身につけさえすれば神様は心から喜んでくださいます。その礼服こそは「イエス様への愛と信頼と謙虚さ」に他ならないと思うのです。
聖書を土台として、お互いに補いあい祈りあいながら、2000年前のキリスト者がそうであったように「神様とイエス様と共に過ごす国」を作り上げて参りましょう。
お子様のすこやかな成長を願ってお祈りしてきた「児童祝福式」は
「こども祝福式」と名称を変え、さらに幅広い年齢のお子様をお誘いしています。
どうぞお子様とご一緒にお越しください。予約は不要です。
祝福式の中では、卒園児(現在小学生)を中心としたルーテルキッズバンドの歌と演奏をお届けします。
また祝福式の後、ささやかな「ルーテルマルシェ」を計画しています。こちらにもふるってご参加ください。こども店長も大歓迎です。
(牧師・朝比奈晴朗)
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