2023年7月30日日曜日

「天の国のたとえ」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2023年7月30日)
列王記上3章5-12節(531) ローマ書8章26-39節(285)
マタイによる福音書 13章44-52節(26)


 本日の福音書はイエス様が天の国についてたとえ話で語っておられる所です。
 本来たとえ話というのは、物事を分かりやすく説明するために用いるものですが、この箇所に限って言えばかえって分かりにくくなっているよにも思えます。


 従来のユダヤ人は「天の国」について2つほどの考え方を持っていました。まず一つ目は「神殿」を何より大切にする祭司たちが中心になって教えた考え方で「地上における天の国とも言うべき神殿に仕えることができたのだから、それで十分ではないか」「死んだ後で行く天国なんて存在しない」という考え方です。


 2つ目は律法学者やファリサイ人の教える「天の国」で、神様に従って正しく歩んだ人だけが行くところで、神様に逆らう悪い人々は決して行けない、という考え方です。ただ、律法学者の教える「神様に従って正しく歩む」というのは、「律法を守って生きる」という意味で、わたしたちの倫理観とは少し異なっています。


 ただし、彼らの教える律法は、先祖からの教えにあれこれ付け加えられ、解釈が複雑になっていました。歪んだ律法主義がよくわかるのが「良きサマリア人」のお話かもしれません。私たちは瀕死の状態の人がいたら助けるのが正しい行いだと考えますが、律法学者たちは「もしその人が死んでいた場合、助けようとしてうっかり触ると汚れるから律法違反になる、だからダメだ」と教えるのです。なんともおかしな考え方です。


 しかしイエス様のお教えになる「天の国」はどちらとも全く異なっていました。結論から言うならば、イエス様と共にあるならば、その場所こそが天国である、という教えです。


 しかしこれは当時の弟子たちの理解を遥かに超えていました。なぜなら、この当時、弟子たちはイエス様のことを「すばらしい奇跡を行う、権威と優しさのある指導者」と信じていて、ローマと戦ってイスラエルの独立を勝ち取り、王様になってくださることを望んでいました。弟子たちにとって、ローマと戦って勝ち取った祖国こそ何より素晴らしい場所だと思っていたのでしょう。


 しかし、この世の人々が高い能力を権力闘争に用い、多くの犠牲を出しながら傲慢に振舞い、弱い立場の人々を虐げる姿をイエス様は深く深く悲しんでおられました。それらのことを天から見ておられたイエス様は「私が行かなくてはどうにもならない」と思われたのかもしれません。世の中の人々が「神のようになりたい」という願いを持つならば、本当の神とはこのような存在である、とお手本を示そうとされたのかもしれません。


 旧約聖書の中には、神様に従うことの喜びを知りながら、この世の誘惑に負けて信仰を見失った人々の人生が数多く記されています。そのような人々に対し、神様は厳しい言葉で叱責されます。しかしこの厳しさには深い愛が込められていて、きっと立ち戻ってくれると信じる期待がありました。甘やかすだけでもなく、簡単に切り捨てるわけでもない、神様の忍耐がそこにあるのです。


 しかし人間の方はと言いますと、一度神様の愛を裏切ってしまうと、そんな自分を悔やみつつも、神様から裁かれることを恐れ、立ち返るどころかますます逃げ回り、どんどん深みにはまってしまいます。だからこそ、人間には神様の愛に満ちた呼びかけかけと導きが必要なのです。


 人々を神様のもとに呼び返すためにイエス様はこの世に来られました。人として生まれ、お過ごしになる中で増し加わった「深い人間理解」と、それに基づいた「神様の愛に満ちた呼びかけかけと導き」それこそがイエス様の本質的なお姿でした。


 イエス様という存在は神様の思いが凝縮した宝石です。その方を切に求めること、これはこの世のどんな価値あるものよりも貴いのです。それはどれほど金貨を積み上げても手に入れることはできません。ただひたすらイエス様が自分を愛してくださっていることを信じ、委ね、忠実に生きようとすること。それがこのかけがえのない宝を得るために必要なことなのです。


 私たちが日曜ごとに集まるキリストの教会とは、神様が天国の前味を味あわせてくださるため与えてくださった場所です。ここに集まる一人一人は神様のご意志のもとにイエス様が集めてくださった一人一人なのです。


 神様は神様ご自身にしかわからない理由で私たち一人ひとりを選び、忍耐強く、私たちを見守り、導いてくださっているのです。


 この世で天国とか楽園とか呼ばれるようなところは、たくさんあります。時には教会も「あんなふうにすれば伝道がうまくいくのではないか?」と迷うこともあるかもしれません。しかし価値観が変わればこの世の流行りはやがて衰退し、閑古鳥が鳴くような場所になるのです。イエス様を主といただく教会は、あれかこれかと奔走しなくてもいいのです。


 教会に招かれた私たち一人ひとりが、イエス様を自分に与えられた宝物だと信じ、その教えを深く知ろうと努力し、互いに祈りあい、聖書がわからないとか分かりきっているとか言わないで丁寧に親しみましょう。与えられた賜物と奉仕の業を愛し、団らんを創っていけば、イエス様がそこにおられることを感じることができます。そしてその場所は祝福され、豊かにされていくのです。



「平和について考える」夏
教材として小川未明原作の紙芝居を
読むことにしました
原作と比べると、戦死した若い兵隊が
幻となって
老兵士の元に戻ってくるシーンが
かなり異なっています
個人的には原作の方が好きですが…
子どもたちの反応を楽しみにしています
でも実はこの日は飯田の大きなお祭り
さあ、何人来てくれるかな?





2023年7月23日日曜日

「毒麦のたとえ」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第5主日礼拝(2023年7月2日)
イザヤ書44章6-8節(1133) 
ローマの信徒への手紙8章12-25節(284)
マタイによる福音書13章24-30節(25)13章36-43節(26)


 本日のイエス様のたとえ話には「毒麦」が登場します。毒麦は小さな苗のうちは小麦と非常によく似ていて判別が難しく、ある程度成長して毒麦と気づいた頃には根が小麦と絡んでいて、引き抜くと小麦まで一緒に抜いてしまうのだとか。間違って食べると家畜が中毒を起こすそうで、人間が食べても害になりそうです。

 

 このたとえ話は、ある人の完璧な畑に、敵がやってきて夜にこっそり「毒麦」の種を蒔いたところから始まります。やがて使用人はそこに毒麦が蒔かれていたことに気が付いて大いに焦り、すぐに畑から抜き取ることを提案します。しかし主人は「育ちきって刈り入れのときがくれば二つの麦の違いは顕著になるから、刈り取るものに命じて先に毒麦を集めて焼くために束にし、その後で小麦を収穫する。だから大丈夫だ」と言うのです。


 この例え話はイエス様のお話を聞こうとして集まった群衆に語られました。弟子たちも一緒にお話を聞いていたのですが理解することができず、家に帰ってくるなりイエス様に「説明してください」とせがみます。そこでイエス様は改めて「良い麦の種を蒔くものとは私・イエスのこと、畑はこの世界、良い種とは御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」と言われました。


 このお話を理解するコツは、イエス様は「天の国、神の国とはどんなところか」というテーマで話しておられる、と頭に置くことです。イエス様が天の国について語るとき強調して語られるのは「天の国では、そこに住むすべての住人が神様と完全な信頼関係で結ばれており、皆が永遠の命を持っている」ということです。


 イエス様と出会い、信じた人々は、地上の命を終えると神様に「天の国」に招かれます。そこでは地上でどれほど苦しみを経験した人でも、神様がその目から涙を拭い取ってくださいます。


 しかしイエス様は、「天の国」にたどり着くまで私たちが生活しているこの「地上」では、神様と完璧な信頼関係で結ばれた人はいない、と言われます。この世界は、キリストの教会であってさえ、神様に逆らう人や、教会を混乱させる人を内に抱えている不完全な状態である、とお教えになるのです。


 このイエス様の教えを受けて、歴史的に正統な教会は、「そもそも毒麦は生えるものであり、教会の中には必ず毒麦が存在する」と認めて来ました。自分の教会は完璧だから毒麦は存在するはずがない、と否定する方がカルト的で間違っている、ということなのです。これは大切なポイントです。


 ただ、こんなふうにお話しすると、多くの方は「では私は毒麦だろうか」と心配するかもしれません。あるいは「文句ばかり言っているあの人こそ毒麦ではないだろうか」などと考えるかもしれません。しかし自分と考え方が合って、よく奉仕してくださる方を良い麦とし、反抗的で礼拝にもあまり出席しない人々を毒麦だと決めつけてしまうと間違いの元です。


 なぜなら、イエス様は「良い麦と毒麦は、実を実らせて刈り入れる段階になって初めて、きちんと見分けることができるようになる」と言われます。神様に定められた時がやってくるまで、そこに生えているのが良い麦なのか、毒麦なのか、人間には決して分からないのです。


 麦畑で育つ麦の一本一本はイエス様が種をまいて慈しんで育てている一人一人です。イエス様は一人一人を徹底的に大切にされます。ですから私たちは自分が良い麦であることを信じ、生かされていることを感謝いたしましょう。


 最後になりますが、イエス様は「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのこと、刈り入れるのは天使たちである」とも言われました。創世記の始まりを見ればわかるように、この世界はそもそも神様によって楽園として作られました。言い換えるなら、良い麦の畑として造られたのです。


 ところが、現実にはこの世界では小さなグループからトップ政治家たちに至るまで、自分の願望を満足させようと争いを繰り返しています。どうして世の中はこうなのか、と疑問を持ち、悩まれる方々もたくさんおられるでしょう。


 イエス様はその答えの一つとして「神様が良い畑として造られた世界に、悪魔によって毒麦が蒔かれたからだ」と言われるのです。見方を変えれば、この世界こそ毒麦畑で、善良な小麦の方が駆逐されそうです。しかし、そのような毒麦畑のただ中に、イエス様はあえてキリストの教会を建てられ、ご自分の愛する人を働き人として招かれたのです。

 

 イエス様の御言葉によれば、この世界はやがて終わりが来ます。時が来れば、イエス様は天使たちを遣わして、毒麦を刈り取り、燃え盛る炉の中に投げ込ませます。それまでの間、毒麦は栄華を極めるかもしれませんが、神様の裁きは必ず下り、毒麦たちは泣き喚いて歯軋りをするのです。


 この世界の終わりがいつ来るのか私たちにはわかりません。しかし、だからこそ、自分がこの世において弱々しくて役に立たないように思えたとしても、自分は毒麦だろうか、などと気に病んでいる暇はないのです。時は迫っているのかもしれません。祈りと御言葉の学びに時間を献げ、イエス様への信仰を増し加えてまいりましょう。


 毒麦に虐げられ翻弄されながらも御言葉を信じて生きた歴代の人々は、いまこの瞬間、父の国、天の国で太陽のように輝いているのです。イエス様のそのお約束を信じ、悩み多いこの世を共に歩んでまいりましょう。



8月の土曜学校の工作サンプルです
Pinterestというサイトで素敵な工作を見つけたので
小学生1年生でもできるようにアレンジしてみました
リアルな金魚のシールも安いものを見つけたので
誰が作っても結構いい感じになるのではないかと
思っています



2023年7月15日土曜日

「種を蒔く人」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(2023年7月9日)
イザヤ55章10-13節(1152) ローマ書8章1-11節(283)
マタイによる福音書13章1-9、18-23節(24)


 本日の福音書では、大勢の群衆がイエス様のお話を聞こうとやってきます。そこでイエス様は舟に乗って腰を下ろされ、たとえを用いてお話を始めます。いくつか譬え話が語られますが中でも本日の「種を蒔く人」はよく知られたお話でしょう。


 当時のイスラエルは、穀物の種を丁寧に一粒一粒植えることはしないで、土地にばら撒いて育てたそうですから、種が道端や、石だらけのところや、荊の中に落ちたりすることは日常的な風景だったのかもしれません。


 もちろんこれは譬えですから、聞く人の立場やレベルによって、聞こえてくるメッセージが違ってきます。ぼんやり聞いている人は本気で農業の話だと思ったかもしれませんというのも、律法学者たちが一般の人に喩えを用いて聖書を教える時は、もう少し具体的な内容で語ることが常だったからです。


 しかしイエス様はこの時、譬え話を話し終えるとそれ以上解釈をしようとはなさいませんでした。そこで弟子たちはイエス様に「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」と問いかけたのです。つまり、わかりやすく解説してやらないのはなぜですか?と質問したのです。


 イエス様はそんな弟子たちに「あなた方には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない」と言われます。これを聞いた弟子たちは、自分達がイエス様から特別扱いを受けているような気がして、なんとなく嬉しかったのではないでしょうか。


 弟子たちは、イエス様と共に旅から旅への生活を続け、その中で繰り返しイエス様のお話を聞きました。イエス様は彼らが聴き慣れているはずの旧約聖書の救いの出来事を、遠い昔の出来事ではなく、イキイキと語ってくださり、目の前でまさに起こっている出来事として解釈もしてくださいました。


 弟子達は次第に、神様の存在をリアルに感じられるようになり、今まで捉え損ねてきた聖書を知りたいという気持ちが増し加わっていき、もっとイエス様のお言葉の意味をちゃんと知りたいと思うようになったのです。


 この日、イエス様の慈愛に満ちた眼差しを受け「あなたたちはちゃんと見ている、ちゃんと聞いている」と言っていただき、説明を聞いた彼らは、自分達がよい土地に落ちた種であると確認して、ほっとしたことでしょう。自分は御言葉を聞いて悟れている方だなあ」と思ったかもしれません。


 ただ、ここでイエス様が言われている「悟る」とは「なるほどと合点がいく」ことを表す言葉ですから「なんとなく分かった気がする」では、まだまだ不十分でした。しかし、彼らが聖霊の導きによって本当に悟る日が来て、次の世代の心に御言葉の種を蒔く人へと成長することを、イエス様は知っておられたのです。


 ところで、この頃、イエス様はまだご自分が十字架にかけられることを予告してはおられませんでしたが、すでに「自分の十字架を負って私に従いなさい」と言われるほどに十字架のことは意識されていました。


 しかし弟子達は、今、イエス様がなさっていることのように、貧しい人を助け、虐げられている人を救っていれば、神様が喜ばれ、イエス様を王様にしてくださって、世の中はどんどん良くなっていくだろう、と思っていたのです。


 ですが地上では、いくら神の子と言ってもイエス様お一人でなさることには限界がありました。弟子たちはすっかり気が大きくなっていましたが、イエス様がいなくなったら、出来なくなることは、イエス様ご自身が一番分かっておられました。


 結果として、イエス様と祭司やファリサイ人たちとの確執はどんどん強くなり、ついには彼らによって罪をでっち上げられて捉えられ、群衆の前で裁判にかけられるのです。その時イエス様に救っていただいた人々は誰一人動こうとはしませんでした。大群衆の「十字架につけろ」という声に圧倒され沈黙してしまったのです。


 一番弟子のペテロでさえ自分の正体がばれないようについていくのが精一杯で、いざ見とがめられ問い詰められると、「イエスなど知らない」と言い出すほど情けない姿を晒します。


 弟子たちはイエス様の御受難を前に、自分の弱さを嫌というほど知りました。自分の力だけではこの先どうやって生きていくかさえわからないのだと悟りました。女性の弟子たちの報告で空になった墓を確認はしたものの、結局再び部屋に閉じこもり一歩も出られないままでした。


 しかし、そこへ復活したイエス様が戻って来てくださったのです。そしてご自分が十字架で一度死に、復活したことで神様のご計画は全て実現したのだと弟子達にお話しなさったのです。弟子たちがイエス様の譬え話を本当に理解できるようになったのはそれから後のことでした。


 イエス様が天に帰られた後、弟子たちは聖霊の力を与えられ「御言葉を聞いて悟る人は、あるものは百倍、あるものは六十倍、三十倍の実を結ぶ」というイエス様の教えの通り、心の中に豊かに実を実らせ、新たに種を蒔き、み言葉を信じる人々を百倍、六十倍、三十倍と増やしていったのです。


 私たちはイエス様から任せられた「種を蒔く人」なのですから、上手くいこうが、いくまいが全ては神様の御手の中にあり、イエス様は全てをご存じです。私たちが御言葉を受け入れて人生を変えられたように、あなたの撒くタネを待っている人は必ずいます。イエス様によって「種を蒔く人」とされたことに誇りを持ちつつ歩んでまいりましょう。


今年も隣の空き地でブッドレアが咲き始めました
幼稚園の子どもたちを喜ばせたくて
「蝶の来る木」として植えたのです
ただこの空き地も園舎建設のための
ボーリング調査(?)が終わり
間も無く更地になりますから
ブッドレアともお別れです
少し残念ではありますが新しい展開も楽しみです



2023年7月9日日曜日

「この世では愚か者と言われても」(日曜のお話の短縮)

聖餐式・聖霊降臨後第6主日礼拝(2023年7月9日)
ゼカリヤ書 9章9-12節(1489) 
ローマの信徒への手紙 7章15-25a節(283)
マタイによる福音書 11章16-19、25-30節(20)


 本日の福音書の個所には「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。」と記されています。祭りの時に笛を吹いて盛り上げるのはよくありますが、イスラエルの葬式には「泣き女」という人々が登場して、お金をもらって大声で嘆き悲しんでみせ、葬式を盛り上げたそうです。それを子どもたちがごっこ遊びとして取り入れた様子で、特に珍しいものでもなかったようです。

 
 「笛吹けど踊らず」という諺がありますが、それの語源となったのがこの箇所です。「お膳立てをし、いくらすすめ誘っても、人がこれに応じて動き出さない。」といった意味で使われます。あれこれと手を尽くして準備をしても、それに応じようとする人がいなくて、気持ちがすれ違ってしまう様子は、イエス様と、イエス様を取り巻く人々の思いの違いを表しているのでしょう。


 イエス様はいつも堂々としておられましたが、尊大な雰囲気や近寄り難い雰囲気はなく、物腰柔らかく振る舞われました。ですから小さい子どもや母親も安心して近寄ってきましたし、貧しき者、渇き切ったものもイエス様にすがろうとして集まってきました。時にイエス様の周囲はごった返して、弟子達が困惑するほどでした。


 しかしイエス様には、神様を示すというはっきりとした目的がありました。神様はイエス様と合わせたいと計画なさった人々をイエス様のもとに導かれました。イエス様もそれがお分かりになるので、やってきた人々に救いの手を差し伸べられるのです。


 それでも周囲の人々は「もっと人を選んで奇跡を行い、コネ作りをすれば社会的な力を得られるのに」と思ったことでしょう。そうしたら、さらにたくさんの人々が神様を信じることができるのに、と思う弟子がいたとしても不思議はありません。弟子たちはイエス様がイスラエル社会を改革しようとしていると思っていましたから、もっと派手にやったほうがいいんじゃないかな、ヤキモキしていたかもしれません。


 けれども、イエス様はそのようなことを望んではおられません。ただひたすら、神様に導かれてイエス様の元に来る人々と、誠実に、心と心で対話なさいました。そしてご自分を通して神様を知ってもらえることを一番の喜びとなさったのです。


 ここには続けて「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という有名な御言葉も記されています。疲れた者、重荷を負う者とは、社会の中で色々に振り回され、休むことができず、疲れ切った人のことです、当時のイスラエル社会においては、律法の規則が事細かに決められ、この律法を守らないからダメだとか、この規則をちゃんとしないからダメだと、だめだめとばかり言われ、疲れ切った人にもたくさんいたのです。


 そんな人々に対して、イエス様は「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われるのです。


 「休ませてあげよう」の「休む」は、「安息」という意味があり、エレミヤ書6章16節の「どれが幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ」という御言葉と繋がっています。


 今に生きる私たちは律法にがんじがらめになることはありませんが、複雑な社会の中で、大人も子どもも毎日のようにあれかこれかと悩みながら生きています。時に進むこともできず立ち尽くし、止まったままで疲れてしまうことすらあります。


 そんな人々にイエス様は「これがあなたの進むべき道、幸いに至る道ですよ」と示してくださるのです。その道は「こっちに行けば絶対楽しそう」というよりは、寂しい道に見えるかもしれませんし、凸凹していたり、暗かったりするかもしれません。しかしどのように見えても、あなたのためにイエス様が備えてくださった道であり、イエス様ご自身があなたに歩調を合わせて共に歩いてくださるのです。


 それを示すために「くびき」という言葉が出てきます。「くびき」とは牛や馬の首の後ろにかけて車や農機具を引っ張らせるための器具です。首が挟まれているので、同じくびきにつけられた2頭の牛は同じ方向に行くしかありません。ですから「くびき」という言葉は、「自由を束縛するもの」という意味で使われてきました。しかしイエス様はあえて良くないイメージのある「くびき」という言葉を用いて「私はどんな時もあなたと共に歩く」と言ってくださるのです。


 強制的に歩まされているようで嫌で仕方がないと思っていた道を、イエス様が「私とあなたは運命共同体だ。これが行くべき道だから。」と言わんばかりに共に歩んでくださっている、それを知った時、その軛はおのずと負いやすくなり、自分のこと、自分のなすべきことを、神様から与えられた役割として、肩ひじはらず、虚勢もはらずに、粛々(しゅくしゅく)と行えるようになっていくのです。


飯田教会の礼拝堂にはエアコンがありません
数年前までは窓を開ければ良かったそうですが
近年の温暖化で耐え難い暑さになります
私が赴任してきてからは真夏は
空調のある保育室を借りるようになりました
しかし、セッティングもそれなりに大変ですし
何より、園児の中に重度の小麦アレルギーのお子さんがいて
保育室で聖餐式のパンを扱うことができなくなりました

昨年天に召されたTさんのお宅は
教会から歩いて2〜3分の一軒家
現在は空き家で、隣接した児童養護施設が管理しています
ご遺族とその施設長さんのご厚意で
新しく教会を立て直すまでの2年半
家丸ごと集会室としてお借りできるようになりました
本当に感謝です!
快適な環境で教会員の顔にも笑みが溢れていました

ただし、9時30分からの日曜学校は
楽器を扱うのでここではできません
10時15分に終わって子どもたちを送り出したら
牧師夫人が戸締りをして
ダッシュで駆けつけることにしました(^^;)


Tさんのお名前をとって
「集会室リリー」と命名
出席者12〜15名の飯田教会の礼拝には
十分な広さです

2023年7月2日日曜日

「主イエスとつながる」(日曜日のお話の要約)

 聖餐式・聖霊降臨後第5主日礼拝(2023年7月2日)
エレミヤ28章5-9節(1228) ローマの信徒への手紙 6章12-23節(281)
マタイによる福音書 10章40-42節(19)


 福音書や使徒言行録を読んでいますと、イエス様につながって教会を形成し始めた最初のクリスチャンたち、「原始教会」と呼ばれる教会の人々は苦労の連続でした。彼らは先祖からずっとユダヤ教徒であり、それを誇りとしてきました。また、初期のキリスト教はユダヤ教の新しい一派であるとみなされていましたし、弟子たち自身もユダヤ教の教えに背いているという考えを持ってはいませんでした。


 彼らも祭司やファリサイ人とイエス様が対立していることは理解していましたが、それはユダヤ教が堕落してしまったからで、イエス様がこうあるべきところに戻してくださったのだ、という理解だったのです。ですから彼らはイエス様を信じた後も神殿で祈ることになんの不自然さも感じてはいませんでした。


 イエス様の弟子となった人々の中には社会的落伍者のレッテルを貼られてユダヤ社会から弾き出された人々もいましたが、イエス様によって再び神様を礼拝できるようになると、迷うことなくユダヤ教の方法で礼拝を行いました。


 しかし、ユダヤ教の指導者や上層部の人間は心穏やかではありません。イエス様に導かれた人々は神様の御心を知るために熱心に聖書を学びましたし、祈りも形式的ではなく、神様に素直に呼びかけ、導きを得ようとしました。そのようなわけで、神殿で偉そうにしている祭司たちよりイエス様の弟子たちの方が信仰者として成熟しつつあったのです。


 それに危機感を覚えたユダヤ教の指導者たちはイエス様を信じる人たちを迫害し、異端の教えを信じていると罵りました。結果として「キリスト教」はユダヤ教から独立せざるを得ない形となったのです。


 そもそもユダヤ教の指導者やトップの人々というのは、格式のある家系に生まれ、経済的にも恵まれていました。ユダヤ教の伝統を受け継ぎ、政治的指導者となるためにも高度な教育を受けましたが、それが災いして鼻持ちならないほどのエリート風を吹かせる人間に成長する人たちも多くいました。彼らは「いわゆる下々の者」にプライドを傷つけられることを極端に嫌い、相手を見下しながら議論をするのを得意としていたことが、イエス様とのやりとりからも伺えます。


 しかし神の子であるイエス様が、表面的な信仰しか持ち合わせていない彼らとの議論に負けるはずはありません。エリートたちはイエス様に返り討ちにあっては怒りや悔しさを募らせたのです。


 一方、イエス様の弟子達は、庶民育ちで心も体も打たれ強い人々が多かったので、エリートから嫌味を言われたり、妨害されたりしてもぐらついたりびくついたりすることなく、イエス様から教えられた神様の守りを素直に信じていました。かといって、弟子たちが優秀かと言うと、そういうわけではなく、何度も何度も失敗を重ねましたし、世の中で出世したい、偉くなりたいという俗っぽい気持ちも持ち合わせていました。


 ただ、弟子たちとエリートとの決定的な違いは、弟子たちがイエス様の教えによって、神様の御心にグッと近づいたことです。それは自分達がエリートではない、むしろ落ちこぼれであることを知っているからこそだったのです。こんな自分でも神様は愛してくださり、お前には価値がある、やれることがある、と招いてくださることへの深い感謝があったのです。


 弟子たちはイエス様が十字架で死なれた事実に衝撃を受け、手酷い挫折を味わいました。普通ならば二度と立ち上がれないほどの恐怖と苦しみが彼らを襲ったのです。しかし、イエス様が復活され、再び彼らの元へ帰って来られた時、何もかもが変わりました。


 以前の彼らは、イエス様を心から尊敬し、熱心に従ってはいましたが、そのお話の内容をちゃんと理解していたとは言えませんでした。自分達がいずれ天の国に召されること、永遠の命が与えられるという約束をぼんやりとしか把握できていなかったのです。


 しかし今はもう違います。彼らが求めるものはこの世的な成功ではありません。神様が愛しているこの世の全てのものは神様の愛のうちにあることを伝えました。人間に委ねられた大切な仕事は、一人ひとりが神様から与えられた知恵や知識、業を生かして、世界をより良く管理することなのだ、そのためにこそイエス様の導きが必要なのだ、と説いて回ったのです。


 現代に生きる私たちも、最初の弟子たちが発信したメッセージを確かに引き継いでいます。いつの時代も社会的に弱いもの、害になると判断されたものは切り捨られる傾向にありますが、私たちはイエス様から「目の前の存在について、あなたはどう考えるのか?」と常に問われています。


 イエス様と繋がっている私たちは、イエス様に答えを求める為に祈ることができます。電話やメールと違って祈りの答えはすぐに帰ってくるとは限りませんが、腐ってしまった世の中でも、ねじ曲がってしまった世の中でも、神ご自身が、私はあなたといつもいる、繋がっている、と約束してくださいます。私たちは一人ひとりに与えられた信仰によってそれを信じ、悩みつつも判断して進んでいくのです。


 一般的な人々からは、もっと自分の人生を謳歌し、好きなことをやって、気のあう友達と仲良く人生を楽しめばいいと説教されることもあるでしょう。イエス様の弟子達も同じ体験をしたはずです。イエス様はユダヤ教が内部で腐ったことも知っておられましたし、神殿が失われることもご存知でした。だからこそご自分の教えた弟子たちが、一人一人しっかりと自分の足で立ち、従来のユダヤ教の教えに縛られないで、主イエスとのつながりを教会で仲間と共に培い、伝道していくよう望まれたのです。


 イエス様は、そのような働きには苦難があることを知っておられましたが、同時に喜びがあることもご存じでした。ご自分の弟子たちが小さき者に愛情を注ぐとき、小さき者の方から「たいへんだったね、ありがとうね」と、冷たい水一杯を差しされることがある、そこには神様からの報いが必ずある、とお教えになりました。これこそクリスチャンとしての喜びであり、その喜びは2000年経っても生きているのです。


 諦めに囚われ、神様から与えられた賜物や恵みを放棄するなら、同時にクリスチャンとして生きる喜びもまた放棄している事になるのです。苦難があっても共に祈ってこの山を越えていこうと励まし合って取り組むなら、そこに恵みもあるのです。


 イエス様はご自分が召した人々に「善人になれ」とはおっしゃいません。キリストに倣って生きる時、社会的には悪人のレッテルを貼られることは珍しくないからです。社会に媚を売って善人の顔を貫こうとするならイエス様の教えに背くことすらあり得ます。しかし神の平和が実現するために与えられた賜物を感謝して用いるとき、必ず神様の正しさが現れるのです。



昨日は土曜学校でした。
いつもは多くても18〜20人ほどです
(行事と重なって3人だけという日もありました
ところがなんと昨日は子どもだけで28名
保護者の方は2名が参加しました
この日の礼拝後の工作は万華鏡
でもキットはいつも通り20人分しか用意していません
ふらっと来ても良いように予約制は取っていないので
多めに用意しているつもりなのですが
見本で作ってあったものを分解して渡しても全然足りません
仕方なく、きょうだいや家族で参加した方に
一組になってもらい、一家族一個で作業してもらいました
きょうだい仲の良いところは和気藹々と進めていましたが
自分だけの万華鏡を作りたかったお子さんは涙目
いえ、実際ポロポロと涙を流し始めました
あ〜〜(><)、こちらも泣きたいです!
平謝りに謝って、後日、郵送する約束をし
大急ぎでネット注文しました(^^;)

この子たちのすごいところは
工作が楽しいからといって礼拝が終わった頃を
見計らってやってくるようなことはしないこと
みんなちゃんと9時30分に集まって
お話を聞き、暗誦聖句に取り組み、讃美歌を歌い
お祈りもちゃんとします
物心ついた時からルーテル幼稚園で
キリスト教教育を受けてきた子たちの
底力なのかもしれません
神様の愛をしっかり受けて成長してくれますように!

卒園時にもらった新約聖書を開きながらお話を聞いています

ちょっと喉の調子の悪いゆうこ先生を助けて
ベテラン参加者(^^)が賛美してくれました

姉妹で一つ。YちゃんとMちゃんは仲良く作ります

万華鏡の中身を作ったら
外側の筒を飾ります





一人一個作ったお友達は楽しそう
ひと家族一個になったみんな、本当にごめんなさい