聖餐式・聖霊降臨後第5主日礼拝(2023年7月2日)
エレミヤ28章5-9節(1228) ローマの信徒への手紙 6章12-23節(281)
マタイによる福音書 10章40-42節(19)
福音書や使徒言行録を読んでいますと、イエス様につながって教会を形成し始めた最初のクリスチャンたち、「原始教会」と呼ばれる教会の人々は苦労の連続でした。彼らは先祖からずっとユダヤ教徒であり、それを誇りとしてきました。また、初期のキリスト教はユダヤ教の新しい一派であるとみなされていましたし、弟子たち自身もユダヤ教の教えに背いているという考えを持ってはいませんでした。
彼らも祭司やファリサイ人とイエス様が対立していることは理解していましたが、それはユダヤ教が堕落してしまったからで、イエス様がこうあるべきところに戻してくださったのだ、という理解だったのです。ですから彼らはイエス様を信じた後も神殿で祈ることになんの不自然さも感じてはいませんでした。
イエス様の弟子となった人々の中には社会的落伍者のレッテルを貼られてユダヤ社会から弾き出された人々もいましたが、イエス様によって再び神様を礼拝できるようになると、迷うことなくユダヤ教の方法で礼拝を行いました。
しかし、ユダヤ教の指導者や上層部の人間は心穏やかではありません。イエス様に導かれた人々は神様の御心を知るために熱心に聖書を学びましたし、祈りも形式的ではなく、神様に素直に呼びかけ、導きを得ようとしました。そのようなわけで、神殿で偉そうにしている祭司たちよりイエス様の弟子たちの方が信仰者として成熟しつつあったのです。
それに危機感を覚えたユダヤ教の指導者たちはイエス様を信じる人たちを迫害し、異端の教えを信じていると罵りました。結果として「キリスト教」はユダヤ教から独立せざるを得ない形となったのです。
そもそもユダヤ教の指導者やトップの人々というのは、格式のある家系に生まれ、経済的にも恵まれていました。ユダヤ教の伝統を受け継ぎ、政治的指導者となるためにも高度な教育を受けましたが、それが災いして鼻持ちならないほどのエリート風を吹かせる人間に成長する人たちも多くいました。彼らは「いわゆる下々の者」にプライドを傷つけられることを極端に嫌い、相手を見下しながら議論をするのを得意としていたことが、イエス様とのやりとりからも伺えます。
しかし神の子であるイエス様が、表面的な信仰しか持ち合わせていない彼らとの議論に負けるはずはありません。エリートたちはイエス様に返り討ちにあっては怒りや悔しさを募らせたのです。
一方、イエス様の弟子達は、庶民育ちで心も体も打たれ強い人々が多かったので、エリートから嫌味を言われたり、妨害されたりしてもぐらついたりびくついたりすることなく、イエス様から教えられた神様の守りを素直に信じていました。かといって、弟子たちが優秀かと言うと、そういうわけではなく、何度も何度も失敗を重ねましたし、世の中で出世したい、偉くなりたいという俗っぽい気持ちも持ち合わせていました。
ただ、弟子たちとエリートとの決定的な違いは、弟子たちがイエス様の教えによって、神様の御心にグッと近づいたことです。それは自分達がエリートではない、むしろ落ちこぼれであることを知っているからこそだったのです。こんな自分でも神様は愛してくださり、お前には価値がある、やれることがある、と招いてくださることへの深い感謝があったのです。
弟子たちはイエス様が十字架で死なれた事実に衝撃を受け、手酷い挫折を味わいました。普通ならば二度と立ち上がれないほどの恐怖と苦しみが彼らを襲ったのです。しかし、イエス様が復活され、再び彼らの元へ帰って来られた時、何もかもが変わりました。
以前の彼らは、イエス様を心から尊敬し、熱心に従ってはいましたが、そのお話の内容をちゃんと理解していたとは言えませんでした。自分達がいずれ天の国に召されること、永遠の命が与えられるという約束をぼんやりとしか把握できていなかったのです。
しかし今はもう違います。彼らが求めるものはこの世的な成功ではありません。神様が愛しているこの世の全てのものは神様の愛のうちにあることを伝えました。人間に委ねられた大切な仕事は、一人ひとりが神様から与えられた知恵や知識、業を生かして、世界をより良く管理することなのだ、そのためにこそイエス様の導きが必要なのだ、と説いて回ったのです。
現代に生きる私たちも、最初の弟子たちが発信したメッセージを確かに引き継いでいます。いつの時代も社会的に弱いもの、害になると判断されたものは切り捨られる傾向にありますが、私たちはイエス様から「目の前の存在について、あなたはどう考えるのか?」と常に問われています。
イエス様と繋がっている私たちは、イエス様に答えを求める為に祈ることができます。電話やメールと違って祈りの答えはすぐに帰ってくるとは限りませんが、腐ってしまった世の中でも、ねじ曲がってしまった世の中でも、神ご自身が、私はあなたといつもいる、繋がっている、と約束してくださいます。私たちは一人ひとりに与えられた信仰によってそれを信じ、悩みつつも判断して進んでいくのです。
一般的な人々からは、もっと自分の人生を謳歌し、好きなことをやって、気のあう友達と仲良く人生を楽しめばいいと説教されることもあるでしょう。イエス様の弟子達も同じ体験をしたはずです。イエス様はユダヤ教が内部で腐ったことも知っておられましたし、神殿が失われることもご存知でした。だからこそご自分の教えた弟子たちが、一人一人しっかりと自分の足で立ち、従来のユダヤ教の教えに縛られないで、主イエスとのつながりを教会で仲間と共に培い、伝道していくよう望まれたのです。
イエス様は、そのような働きには苦難があることを知っておられましたが、同時に喜びがあることもご存じでした。ご自分の弟子たちが小さき者に愛情を注ぐとき、小さき者の方から「たいへんだったね、ありがとうね」と、冷たい水一杯を差しされることがある、そこには神様からの報いが必ずある、とお教えになりました。これこそクリスチャンとしての喜びであり、その喜びは2000年経っても生きているのです。
諦めに囚われ、神様から与えられた賜物や恵みを放棄するなら、同時にクリスチャンとして生きる喜びもまた放棄している事になるのです。苦難があっても共に祈ってこの山を越えていこうと励まし合って取り組むなら、そこに恵みもあるのです。
イエス様はご自分が召した人々に「善人になれ」とはおっしゃいません。キリストに倣って生きる時、社会的には悪人のレッテルを貼られることは珍しくないからです。社会に媚を売って善人の顔を貫こうとするならイエス様の教えに背くことすらあり得ます。しかし神の平和が実現するために与えられた賜物を感謝して用いるとき、必ず神様の正しさが現れるのです。
昨日は土曜学校でした。
いつもは多くても18〜20人ほどです
(行事と重なって3人だけという日もありました)
ところがなんと昨日は子どもだけで28名
保護者の方は2名が参加しました
この日の礼拝後の工作は万華鏡
でもキットはいつも通り20人分しか用意していません
ふらっと来ても良いように予約制は取っていないので
多めに用意しているつもりなのですが
見本で作ってあったものを分解して渡しても全然足りません
仕方なく、きょうだいや家族で参加した方に
一組になってもらい、一家族一個で作業してもらいました
きょうだい仲の良いところは和気藹々と進めていましたが
自分だけの万華鏡を作りたかったお子さんは涙目
いえ、実際ポロポロと涙を流し始めました
あ〜〜(><)、こちらも泣きたいです!
平謝りに謝って、後日、郵送する約束をし
大急ぎでネット注文しました(^^;)
この子たちのすごいところは
工作が楽しいからといって礼拝が終わった頃を
見計らってやってくるようなことはしないこと
みんなちゃんと9時30分に集まって
お話を聞き、暗誦聖句に取り組み、讃美歌を歌い
お祈りもちゃんとします
物心ついた時からルーテル幼稚園で
キリスト教教育を受けてきた子たちの
底力なのかもしれません
神様の愛をしっかり受けて成長してくれますように!
卒園時にもらった新約聖書を開きながらお話を聞いています |
ちょっと喉の調子の悪いゆうこ先生を助けて ベテラン参加者(^^)が賛美してくれました |
姉妹で一つ。YちゃんとMちゃんは仲良く作ります |
万華鏡の中身を作ったら 外側の筒を飾ります |
一人一個作ったお友達は楽しそう ひと家族一個になったみんな、本当にごめんなさい |
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