聖霊降臨後第9主日礼拝(2023年7月30日)
列王記上3章5-12節(531) ローマ書8章26-39節(285)
マタイによる福音書 13章44-52節(26)
本日の福音書はイエス様が天の国についてたとえ話で語っておられる所です。
本来たとえ話というのは、物事を分かりやすく説明するために用いるものですが、この箇所に限って言えばかえって分かりにくくなっているよにも思えます。
従来のユダヤ人は「天の国」について2つほどの考え方を持っていました。まず一つ目は「神殿」を何より大切にする祭司たちが中心になって教えた考え方で「地上における天の国とも言うべき神殿に仕えることができたのだから、それで十分ではないか」「死んだ後で行く天国なんて存在しない」という考え方です。
2つ目は律法学者やファリサイ人の教える「天の国」で、神様に従って正しく歩んだ人だけが行くところで、神様に逆らう悪い人々は決して行けない、という考え方です。ただ、律法学者の教える「神様に従って正しく歩む」というのは、「律法を守って生きる」という意味で、わたしたちの倫理観とは少し異なっています。
ただし、彼らの教える律法は、先祖からの教えにあれこれ付け加えられ、解釈が複雑になっていました。歪んだ律法主義がよくわかるのが「良きサマリア人」のお話かもしれません。私たちは瀕死の状態の人がいたら助けるのが正しい行いだと考えますが、律法学者たちは「もしその人が死んでいた場合、助けようとしてうっかり触ると汚れるから律法違反になる、だからダメだ」と教えるのです。なんともおかしな考え方です。
しかしイエス様のお教えになる「天の国」はどちらとも全く異なっていました。結論から言うならば、イエス様と共にあるならば、その場所こそが天国である、という教えです。
しかしこれは当時の弟子たちの理解を遥かに超えていました。なぜなら、この当時、弟子たちはイエス様のことを「すばらしい奇跡を行う、権威と優しさのある指導者」と信じていて、ローマと戦ってイスラエルの独立を勝ち取り、王様になってくださることを望んでいました。弟子たちにとって、ローマと戦って勝ち取った祖国こそ何より素晴らしい場所だと思っていたのでしょう。
しかし、この世の人々が高い能力を権力闘争に用い、多くの犠牲を出しながら傲慢に振舞い、弱い立場の人々を虐げる姿をイエス様は深く深く悲しんでおられました。それらのことを天から見ておられたイエス様は「私が行かなくてはどうにもならない」と思われたのかもしれません。世の中の人々が「神のようになりたい」という願いを持つならば、本当の神とはこのような存在である、とお手本を示そうとされたのかもしれません。
旧約聖書の中には、神様に従うことの喜びを知りながら、この世の誘惑に負けて信仰を見失った人々の人生が数多く記されています。そのような人々に対し、神様は厳しい言葉で叱責されます。しかしこの厳しさには深い愛が込められていて、きっと立ち戻ってくれると信じる期待がありました。甘やかすだけでもなく、簡単に切り捨てるわけでもない、神様の忍耐がそこにあるのです。
しかし人間の方はと言いますと、一度神様の愛を裏切ってしまうと、そんな自分を悔やみつつも、神様から裁かれることを恐れ、立ち返るどころかますます逃げ回り、どんどん深みにはまってしまいます。だからこそ、人間には神様の愛に満ちた呼びかけかけと導きが必要なのです。
人々を神様のもとに呼び返すためにイエス様はこの世に来られました。人として生まれ、お過ごしになる中で増し加わった「深い人間理解」と、それに基づいた「神様の愛に満ちた呼びかけかけと導き」それこそがイエス様の本質的なお姿でした。
イエス様という存在は神様の思いが凝縮した宝石です。その方を切に求めること、これはこの世のどんな価値あるものよりも貴いのです。それはどれほど金貨を積み上げても手に入れることはできません。ただひたすらイエス様が自分を愛してくださっていることを信じ、委ね、忠実に生きようとすること。それがこのかけがえのない宝を得るために必要なことなのです。
私たちが日曜ごとに集まるキリストの教会とは、神様が天国の前味を味あわせてくださるため与えてくださった場所です。ここに集まる一人一人は神様のご意志のもとにイエス様が集めてくださった一人一人なのです。
神様は神様ご自身にしかわからない理由で私たち一人ひとりを選び、忍耐強く、私たちを見守り、導いてくださっているのです。
この世で天国とか楽園とか呼ばれるようなところは、たくさんあります。時には教会も「あんなふうにすれば伝道がうまくいくのではないか?」と迷うこともあるかもしれません。しかし価値観が変わればこの世の流行りはやがて衰退し、閑古鳥が鳴くような場所になるのです。イエス様を主といただく教会は、あれかこれかと奔走しなくてもいいのです。
教会に招かれた私たち一人ひとりが、イエス様を自分に与えられた宝物だと信じ、その教えを深く知ろうと努力し、互いに祈りあい、聖書がわからないとか分かりきっているとか言わないで丁寧に親しみましょう。与えられた賜物と奉仕の業を愛し、団らんを創っていけば、イエス様がそこにおられることを感じることができます。そしてその場所は祝福され、豊かにされていくのです。
「平和について考える」夏 教材として小川未明原作の紙芝居を 読むことにしました 原作と比べると、戦死した若い兵隊が 幻となって老兵士の元に戻ってくるシーンが かなり異なっています 個人的には原作の方が好きですが… 子どもたちの反応を楽しみにしています でも実はこの日は飯田の大きなお祭り さあ、何人来てくれるかな? |
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