2023年8月6日日曜日

「五千人の給食」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第10主日礼拝(2023年8月6日)
イザヤ書 55章1-5節(1152) ローマの信徒への手紙 9章1-5節(286)
マタイによる福音書 14章13-21節(28)

 本日共に読みました5000人の給食の出来事は私たちに「良い業」に挑むときの心構えについて教えてくれています。


 イエス様の奇跡の一つである「5000人の給食」からは、イエス様が人々の飢えや困窮にどれだけ心を痛めておられるかが伝わってきます。しかし弟子達はイエス様ほどのの強い思いはなかったようです。弟子たちは、いつもイエス様のおそばにいて、さまざまなことを学びつつ、恩恵をいただく時は何の躊躇もなくいただき、イエス様のアシスタントをする毎日で、大切なところはイエス様任せの楽しい毎日でした。しかしこの時、彼らは突然、五千人以上の人々に、自分の頭で考えて食事を与える側へと押し出されたのです。


 マタイ福音書は、そんな弟子の心の動きを丁寧に記しています。15節では、夕暮れになったのでイエス様に「もう時間もたちました」と呼びかけるのです。この時、イエス様はご自分の元に集まった群衆を深く憐れんで 次々と病人を癒しておられました。弟子たちはそのお姿に尊さを感じつつも、日が傾いていくのを見てジリジリしており、ついに「もう時間もたちました」とストップをかけたのです。


 弟子たちが一番不安に感じたのは、集まってきた人々が暴動を起こすことでした。男性だけでも5000人、とありますので、女性や子どもを入れればもっとたくさんの人がいたことでしょう。かつて出エジプト記16章で民衆がモーセに向かって「俺たちをこんな人里離れてところに来させといて、飢え死にさせるつもりか」と詰め寄った出来事がありました。旧約聖書をよく知る弟子たちは、それと同じことが起きるのではないか、と想像したのでしょう。


 人間がイエス様に癒されて心優しくなれるのは一瞬のことです。弟子たちは、空腹に耐えられなくなった誰かが文句を言い始めればあっという間に不満が広がるだろうと考えました。イエス様のお力を信じているとはいえ、イエス様がこの場を収める方法をお持ちであるとは想像もできなかったのです。これが弟子たちの信仰の限界だったとも言えます。


 そんな弟子たちでしたから、イエス様から「あなた方が彼らに食べるものを与えなさい」と命じられて大慌てです。しかしこの時、ペトロやアンデレたちは、イエス様に召された時のことを思い出すべきでした。ガリラヤの湖で漁師をしていた時、イエス様のお言葉を半分疑いながらも「お言葉ですから」と船から網を垂らすとあり得ないほど大量に魚が獲れた、という経験を思い出すべきだったのです。もしそれ思い出せたなら「今更解散しても手遅れかも」という不安の代わりに「イエス様が仰るのだから、今からでもなんとかなる」と思えたかもしれません。


 そしてまた、弟子たちが、せっかく出エジプト記のモーセの出来事を思い出したのなら、その時、神様がマナとうずらで民衆を養って下さったところまで想像すべきでした。ですが弟子たちは早く民衆を解散させないと大変なことになる、という焦りで頭がいっぱいだったのです。


 イエス様は神様だからと言って「かすみを食べて生きている」ような方ではありませんん。人間としての肉体をお持ちですから、空腹の辛さも知っておられましたし、「大酒飲みの大食らい」と誤解されるほど、人々と共に食事をする喜びを知っておられました。イエス様は体のためにも心のためにも、人間には適度な食事が必要なことを知っておられますし、与えようとしてくださる神様なのです。


 しかしこの時、弟子たちの戸惑う様子をご覧になったイエス様は、今はまだ弟子たちがご自分の求めに応えられるほど成長していないことに気づかれました。そこで弟子たちから「ここには5つのパンと2匹の魚しかない」という報告を受けられると、それを手に取られました。


 ここからはまさに神の領域でした。イエス様は、私たちが行う聖餐式のように、賛美の祈りを唱え、パンを裂き、弟子たちに渡されたのです。


 弟子達がイエス様に言われるままに群衆に食糧を配りを始めますと「5つのパンと2匹の魚」しかなかったはずなのに、いくら配ってもなくならないのです。弟子たちは最初は驚きますが、配っていくうちに先ほどの焦りや恐怖も忘れて、なんだか楽しくなってきたことでしょう。そして、イエス様のお力なのだからこれで当然なのだ、という思いが心の中に溢れてきました。最初の迷いはどこにいった、というくらい、自然な姿で彼らは奉仕をやり終えたのでした。


 5千人の給食という出来事は、現代の私たちも大きなチャレンジを与えてくれます。私たちはイエス様に導かれて奉仕をすることに喜びを持っていますが、その働きの規模が大きければ大きいほど、信仰の戦いもあります。「そんなことは無理」という恐怖や戸惑い。「今からそれをやっても手遅れだ」という諦め。「こんなことに取り組むなんて所詮は自分のエゴじゃないのか」という迷い。


 しかし私たちがご命令を実行できなくて足踏みをしている時、イエス様は「お前は信仰が弱いからもう何も命じない」と働きを取り上げてしまうような方ではありません。「お前は駄目だ」とは、おっしゃらないのです。イエス様は目の前の五千人の空腹を見て、弟子達にできることを促されたように、私たちにも出来る奉仕を示してくださるのです。それをやり遂げる時、神様の祝福が必ずあるのです。


 私たちは神に養われる民です。神の民として人々が安心して集える場所を考えて、考え抜いて、形にしていきましょう。神様は5000人一人一人を蔑ろにせず食事を与える方です。私たちもその恵みにお応えして、一人一人なすべきことを果たしてまいりましょう。


昨日は「飯田りんごん」という地元のお祭りでした

(歴史が浅く、これといった宗教性はないようです)

午前中、恒例の土曜学校をワイワイと終えた後

「私はりんごんで踊るんだよ!」という

声かけが何人かからありました


教会のすぐ近くを練り歩くので

夕方6時過ぎから見に行ってみました


いくつものグループ(連)が気ままな衣装で

決められたシンプルな振付を踊る

素朴なお祭りです


土曜学校に来ているお友達が

バレエを習っていて

そのグループがバレエの衣装で

優雅に踊っているのは

珍しく、楽しい光景でした



この衣装で踊ってるグループは珍しい!

揃いのTシャツや法被で踊るグループがほとんどです
いつか参加してみたいような
ただ見ているだけの方が
楽しいような(笑)



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