聖霊降臨後第11主日礼拝(2023年8月13日)
列王記上19章9-18節(566)
ローマの信徒への手紙10章5-15節(288)
マタイによる福音書 14章22-33節(28)
本日の福音書は先週の「五千人の給食」の続きです。この時、イエス様を追いかけて方々の町から男性だけでも五千人の人々が教えを乞う為に集まり、お話を聞き、癒され、食事を頂いて満腹し、満ち足りた時を今過ごしたのです。
この業を終えてすぐ、イエス様は弟子たちだけに声をお掛けになって彼らだけを舟に乗せ、向こう岸のベトサイダに行くように命令されます。弟子たちはイエス様の指示に従って向こう岸を目指しました。距離にして17キロから18キロです。22節にはイエス様が「弟子たちを強いて舟に乗せ」たと書いてありますので、よっぽど強くお命じになったのでしょう。弟子たちの中には漁師も多く、舟を操ることには慣れていましたが、時間や風向き、向かう方向などを考えると、この湖を知っているだけに、気乗りがしなかったようです。
この日、そもそもイエス様は人里離れたところで一人神様に向き合って祈りの時を過ごされる予定でした。しかしその途中で群衆に追ってこられたことで、祈りの時間を奉仕の時間に充てなくてはなりませんでした。
神様との語らいの時を先延ばしにして群集を思いやることを選ばれたイエス様は、夕方になってようやく時間が確保できそうだと気づき、今度こそそれを優先なさったのです。それはイエス様にとってやっとのことで手に入れたの安息の時でした。誰一人ご自分の周りに置かなかったのです。
一方、弟子たちの舟は、彼らの予想通りと言いますか、逆風になって波が押し寄せ、元漁師のペトロやアンデレでさえも思うように漕げません。それが何時間も続きました。焦る弟子達は、次第に強制的に自分達を舟に乗せたイエス様への不審や不満を感じ始めていました湖の怖さを知らないイエス様のせいで私たちは苦労し、こんなに悩んでいる。そのような心境です。弟子たちは、このままでは舟が転覆して自分達は死んでしまうかもしれない、という恐怖にとらえられ始めていました。
そんな彼らのところに、イエス様が水の上を迷うことなく歩いて近づかれました。しかしそれを見た弟子達は恐怖の叫び声をあげます。何しろ夜のあけ切らない暗い湖の上を誰かが歩いてくるのです。死の予感にビクビクしていた彼らにとって、それは自分達の命を奪いにきた幽霊に見えたのでしょう。
しかしイエス様は、すぐに弟子達に話しかけ「安心しなさい。わたしだ。恐ることはない」と言われたのです。この「私だ」という言葉は「エゴーエイミー」という言葉が使われており、聖書的に言いますと、「わたしはある」、つまり私は神だと言われたのです。
するとこれを聞いた弟子たちのうち、一番弟子のペトロが最初に我に帰ります。そして「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と答えます。イエス様はペトロを見つめ、ただ一言「来なさい」と招かれたのです。
湖には相変わらず風が吹き、波が押し寄せており、舟から降りたペトロを容赦なく襲いました。しかしこの時のペトロは、イエス様の「来なさい」というお言葉を完全に信頼していました。ペトロは確かに舟から降りて水の上を一歩二歩と歩き、イエス様の方へと進んだのです。
ただ、それは長くは続きませんでした。ペトロは強い風に気がついて怖くなり、イエス様から目を離してしまいます。そして「人間が水の上を歩けるはずがない」という常識にとらえられ、沈みそうになったのです。
その時ペトロがとった言動こそが、イエス様が何より求められた信仰でした。嵐の中で沈みそうになったペトロは「主よ、助けてください」と叫ぶのです。するとイエス様はすぐに手を伸ばして、ペトロを捕まえます。ペトロが失敗することすら見越しておられたかのように、イエス様はおそらく優しい微笑みさえ浮かべながら、ご自身を頼ったペトロを見つめられたことでしょう。
ペトロを連れて安全な舟の中に戻ったイエス様は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われますが、これはなかなか厳しい言葉です。これはイエス様の弟子となった人々が共通して経験する疑いや悩みと言えるでしょう。言い換えるなら、何もかもお見通しの上で、イエス様から弟子としての訓練が施されていたのです。
イエス様は嵐の中を歩まれ、荒れた湖で遭難しそうになっている舟にさえ乗り込まれる方です。イエス様と共にある時、私たちはイエス様が全てを支配しておられて、自然の力やどんな常識さえも覆す力を持つ方であることを経験するのです。
イエス様は、私たちがペトロや弟子たちのように何度も失敗を積み重ねたとしても、少しずつでもイエス様に信頼する信仰をまし加えていくことを心から喜んでくださいます。そのような忍耐強い愛の中に私たちは生かされているのです。
私たちの毎日は予想もつかないことに満ちています。思わぬピンチに陥ることもしばしばあります。そんな時、過去を思い出して、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったとクヨクヨすることもあります。しかし後悔に囚われるのではなく、ここに至るまでの全てが神のご計画であったことを信じましょう。私たちは、神様が強いていかせる目的地に向かって進むこと、そして溺れそうになったら「主よ、助けてください」と叫ぶことが大切なのです。
私たちの主イエス様は、どんな経験も失敗も、全て祈りの糧、信仰の糧にして良いのだと語りかけてくださいます。今日の困難は私に委ねなさい、と湖の上に佇んで呼びかけてくださるイエス様を心に焼き付けて、前を向いて参りましょう。
牧師夫人が物干し台で育てているプルメリア 園芸関係のお友達から挿木用の枝をいただき 3年目にようやく開花しました 小さな木ですが、花は存在感たっぷりで 桃のような、まさに「南国の花」の甘い香りがします 花の上あたりに うっすら十字架が見えるでしょうか? これが教会と幼稚園の共通玄関の屋根の上に 掲げられた十字架です |
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