2018年5月28日月曜日

「霊によって、新しく生まれる」(ヨハネ福音書第3章1節~12節)


2018527日、三位一体主日礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第6章1節-8節、ローマの信徒への手紙第814-17節、ヨハネによる福音書第31-12節、讃美唱19(詩編第192-15節)

説教「霊によって、新しく生まれる」(ヨハネ福音書第31節~12節)

 今日は三位一体主日という特別の主の日である。私どもは、父と子と聖霊という三位一体の神を、主の日の礼拝ごとに確認しているが、それは、いったいどういうことなのかを、特にヨハネ福音書第3章1節から12節までを通して、ご一緒に考えてみたい。
 ある夜の事、エルサレムにおられる主イエスのもとに、ニコデモが主イエスに教えを、乞おうとやって来る。あなたのなさっているようなしるしは、神が共におられるのでなければ、できないことですと、ニコデモが言うと、主はお答えになる。人は、新しく生まれさせられるのでなければ、神の国を味わうことはできない。ニコデモは真意がつかめず、年老いて、人がもう一度、母の胎内に入って生まれることなど、どうしてできましょうかと、反論するのである。
 すると、主は、あなたは、イスラエルの教師であり、議員であり、指導者でありながら、こんなことも分からないのかと、再び言われます。よくよく言っておくが、だれでも、新しく霊によって生まれさせられるのでなければ、神の国には入りえないと。
 そして、霊から生まれるものは霊であり、肉から生まれるものは、肉にすぎないと教えるのである。そして、風を見なさいと言われる。風はその欲するところに吹き、人はその声を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのかはわからない。霊から生まれさせられるというのも、同じである。それは、目に見えないが、厳然としてあるのである。行動や人徳によっては、それは生まれない。まず、新しく生まれさせられるのでなければ、新しい人に成ることはできない。そして、そのためには、水と霊によって生まれさせられることがなければならない。洗礼の時、人を洗礼の水を、頭にかけられて感じ取り、み言葉と結びついて、聖霊を受けて、新しく変えられるのである。
 そのように、聖霊の風のざわめきを受け取ることによって、人は第二の誕生を経験するのである。私どもは、その知っていることを語り、見たことを証しているのだが、ニコデモよ、あなた方はそれを受け入れない。地上の事を語っても受け入れないあなた方は、天上のことをどうして受け入れられようかと、主イエスは、聖霊による新しい人間に生まれさせられる必要があることを、説き続けておられる。聖霊による新しい誕生、聖書はそれを証言するものである。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

2018年5月23日水曜日

―最近読んだ本からー「霊魂の不滅か死者の復活か            ―新約聖書の証言からー」 オスカー・クルマン著


―最近読んだ本からー「霊魂の不滅か死者の復活か
           ―新約聖書の証言からー」
オスカー・クルマン著
岸千年、間垣洋助 訳、辻学 解題
発行日 20171215日 初版発行 発行者 西千恵・間垣純
発 行 日本キリスト教団出版局
定 価 1296
かつて聖文舎から、この本の翻訳は出版されていたが、今回新しく、辻学氏(広島大学教授・新約聖書学)の解題もうしろに加えられている。O・クルマンのこの著書は1962年に出されているが、その後の学説の動き、カトリック教会からの批判などもそこで取り上げられている。むしろ、この最後の解題から読むのが、この本の理解を容易にするだろう。O・クルマンは、ルター派の神学者であり、1948年『キリストと時』(前田護郎訳、岩穴見書店発行)によって世界的に名を知られるに至ったという。お世話になった岸、間垣先生の訳でもあり、また説教塾の加藤常昭先生からもつとに読むよう勧められていたが、この度新たな装いで出版され、ようやく読むことができた。
我々人間は死ぬとどうなるのだろうか。この本に一つの解答を見出すことができるように思う。辻氏が「解題」で紹介しているように、この書の出された当座から、反論も多く出され、特にカトリックの側からの批判もあるようだし、その後の新約聖書学の発展も、十分研究しなければならないようである。しかしここに一つの聖書の、特に新約聖書の人間観が、浮き彫りにされている。
ギリシャ思想、特にプラトンとソクラテスにおいては、霊魂は不滅であり、肉体はいわば牢獄であって、ソクラテスは死を恐れることなく、毒杯を仰いで、黙々と死を迎えたのである。それと対照的に、主イエスは、死を前にして、悶え、おののきながら死んでいったことを聖書は証言している。そして、主イエスの死は、罪から来る死との壮絶な戦いであった。そしてその戦いに主イエスは、完全に勝利したのである。そして死者からの体の復活を遂げる。死のとげは抜かれたのである。罪と肉は、もはや支配せず、キリストは復活の初穂、霊の体となって、死者の中からよみがえられた。復活の命は、聖霊によって、既に成就しているが、しかしなお完結はしていない。キリストを信じた者もなお死を迎えるし、病も経験する。キリストを信じて召された死者たちはいわば眠りの中にあり、安らぎの中にある。そして全被造物も、人間の罪からもたらされた虚無の中でうめいているが終わりの時にすべて霊的な体をもって復活する。

2018年5月16日水曜日

「復活の主はまた来られる」(ルカ福音書第24章44節~53節、使徒言行録第1章1節~11節)


2018513日、昇天主日礼拝(―典礼色―白―)、使徒言行録第11-11節、エフェソの信徒への手紙第115-23節、ルカによる福音書第2444-53節、讃美唱110(詩編第1101-7節)

説教「復活の主はまた来られる」(ルカ福音書第2444節~53節、使徒言行録第1章1節~11節)

 私たちは今年は41日にイースターを祝い、主のご復活の喜びをここまで祝ってきましたが、今朝は主のご昇天を記念する、昇天主日を迎えました。主イエスのご復活の日から、40日目にあたった5月10日が昇天日でありました。そして、今日が昇天主日として祝われ、次週が、ご復活から50日目に聖霊がくだって、教会が誕生するに至った、教会の三大祝日の一つでもありますペンテコステの礼拝、聖霊降臨祭を迎え、聖壇の布も、白から、聖霊を表す赤に変わります。

 さて、今日は、昇天の主日として、第1朗読では、使徒言行録第1章1節から11節までが、福音の朗読では、ルカ福音書第24章44節から終わりの53節までが、読まれました。福音書の方から、使徒言行録へと、今日は両方のみ言葉に渡って、ご一緒に考えたいと思います。

 11弟子たちと、エマオから引き返してきた2人の弟子も含めて、食卓に集まっている弟子たちの真ん中に、復活の主が現れて、弟子たちに語りかけ、手と足も見せ、魚もみんなの前で食された後に、主が天に上げられる際して、弟子たちに、さとされ、また委託して語られたお言葉が、記されています。

 それは、モーセの書、預言者たち、そして詩編に私について書かれていることは、必ず成就することになっていると言われ、そして、そのためにご復活の主は、彼らの心を開かれたとあります。復活の主の聖書すなわち、旧約聖書の説き明かしによって、初めて弟子たちは、旧約のみ言葉の意味がわかるようになるのであります。

 そして、そこには、メシアが苦しみを受けて殺され、三日目に死人の中からよみがえらされる。そして、罪の赦しに至る悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる、ということが書かれていると主は言われるのであります。旧約聖書を読み通してみましても、まったく、主が言われる通りに文字通りにそういうふうに書かれてあるわけではありません。しかし、ここで復活の主が言われているように、旧約聖書は読まれる必要があるのです。また、新約聖書も、旧約聖書と照らし合わせながら、その光のもとに読む必要がある。

そして、主は、あなた方は、これらのことの証人になると言われるのであります。それはどういうことでありましょうか。特に三つ目の、罪の赦しへと悔い改めが、主イエス・キリストの名によって告げ知らされることの証人になるとはどういうことでありましょうか。だれが、その罪の赦しの悔い改めを説いているのでしょうか。それは、み子を送った父なる神であると言えましょう。今もそれを続けておられる神のみわざを、弟子たちは、これから地の果てにまで、証ししていく者とされると主は約束されているのであります。

 さて、このように弟子たちに、委託された後に、主はさらに言われます。あなた方は、高い所からの力を着るまで、父から約束されたものを、ここ、エルサレムに座ったままで、待ちとどまりなさい、とお命じになられます。それは、聖霊をくだされるとの約束であります。聖霊によって、主イエスの言われたことの意味が分かるようになる、そして、力を受けることになる。その時まで、エルサレムを離れず、この場で祈り、待ち続けるようにと指示されたのであります。

それから、主は、彼らを、ベタニアの方まで導いて行かれながら、彼らを祝福するということが起こりました。これは、主のご復活の日の出来事であります。何と長い一日であったことでしょうか。両手を挙げて、主は別れる弟子たちに祝福なさる。これは、良い言葉を語るというのが、その言葉のもとの意味であります。そして、弟子たちが「ほめたたえる」「賛美する」というのも同じ言葉なのであります。彼らのこれからの宣教を、またその生活を、主はご存じで、そこへとお遣わしになり、祝福してくださるのであります。殉教もあるであろう、数知れない艱難や失敗や恐れや困却もあるであろう、彼らのこれからの宣教の歩みの中へ、主は祝福しながら、別れを告げられるのであります。そして、主は天へと上げられつつありました。その祝福は、天と地とを結ぶ祝福と言えましょう。

 そして、弟子たちは、その主にひれ伏し、大喜びで、エルサレムへと引き返します。羊飼いたちが、ベツレヘムでお生まれになった主イエスを拝して、羊飼いの野へと賛美しながら、引き返したように、ここでも弟子たちは、別れの悲しみに嘆きながらではなく、喜びに満ちあふれて戻って来るのです。
 
 つい先日まで、恐れ、嘆き、おじ惑っていた弟子たちでした。この変えられている、弟子たちの喜びとは何なのでしょうか。彼らは、エルサレムの神殿に絶えず詣でて、神をほめたたえていたと、ルカ福音書は、終わりを締めくくっています。「絶えず」とありますのは、「すべてのことを通して」という言葉です。私たちのすべてのこと、衣食住も、悲しみも喜びも、すべてのことを通して、神のなさったみわざを感謝し、ほめたたえ、礼拝を中心に、一週間の生活に遣わされていくのであります。

 さて、ルカは、福音書を、ティオフィロ閣下に献呈したのでしたが、続いて第二巻の使徒言行録をも、ティオフィロに献呈して、言います。主イエスの出来事を、それは主が、聖霊を通して、教えられたその受難の死と復活の出来事であり、エルサレムから始まって、エルサレムでの昇天に至った出来事、そして、そこから、その主イエスと、聖霊の働きによって始まった、この救いの出来事を、順序正しく記して伝えましたが、と言って書き始めるのであります。

ルカ福音書と同じ著者でありますルカは、使徒言行録第1章1節から11節においては、復活の主は40日間、食事を共にした弟子たちのもとに現れ、多くの証拠によって、ご自分が生きていることを、お示しになり、神の国について、親しく教えられたと記しています。

それは、何もルカにとっては、矛盾ではありませんでした。40日間とは、主イエスの荒れ野での誘惑の期間でもありましたし、荒れ野の40年の出エジプトの旅や、ノアの洪水が4040夜続いたことも思い起こされ、ここでは聖霊降臨に備える準備の時と考えることができます。

 そして、主は弟子たちと食事を共にしていた時に、あなた方は先に私から聞いた聖霊を、このエルサレムから離れず待ちなさい。あなた方は、やがて、聖霊の洗礼を受けることになると約束なさいます。

 それに対して、弟子たちは、「イスラエルの国を、あなたが建て直すのは、この時ですか」と質問しています。それに対して、復活の主は、天の父が権威をもって定められた時や季節、カイロスは、あなた方の知るべき分ではないとおっしゃいました。弟子たちはまだ、主イエスによる救いが、イスラエルの国の再建なのか、神の国とは、異邦人にとっても及ぶものなのか、定かではなかったのであります。御子の死と復活、罪の赦しも、ユダヤ人の救いにしか関わらないとのではないか、まだよく分からないでいるのであります。

 しかし、主は、彼らに対して、「あなた方に聖霊がくだると、あなた方は力を受ける。」そして、エルサレムから始まって、地の果てに至るまで、あなた方は、私の証人になる」とお答えになられたのであります。

 そして、こう話し終えると、彼らが見ている前で、主は天へと上げられていきます。すると、雲がさえぎって、彼らの眼から、主は見えなくなります。これは、主の変容の時と同じであります。神の栄光に包まれていくのであります。そして、その時と同じように、二人の青年が白い衣を着て、そばに立つのであります。

なぜ、あなた方は、天を見つめて、立ち止まっているのか、その方は、再び、あなたがたが見たのと同じ装いでお出でになると語ったのであります。

 世の終わりの時に、再臨の主は、雲に乗って、天使を従えてお出でになると約束なさいましたが、この主のご昇天の時、二人の天使たちも、終わりの日に再びお出でになられる主イエスについて、弟子たちに呼び覚ますのであります。

 このように、使徒言行録を記すにあたって、ルカは、これから、このエルサレムから始めて、地の果てにまで弟子たちが、主イエスの福音を宣べ伝えていくが、実はこの働きは、この復活の主と、聖霊の働きであることを、この始めから、私たちに教えているのであります。このあと、ご復活の日から50日目に当たる五旬節の日に、祈っている弟子たちの上に、聖霊がくだります。そして、ここに教会が生まれるのであります。

 この聖書の救いの壮大なドラマの一つのピークが、今日のルカ福音書の結びの個所と使徒言行録の始めに、記されているのであります。そして、今日は聖餐はありませんが、この日と同じご復活の主が、私たちの礼拝の中で、聖卓を囲み、主のみ言葉とみわざを聞きに集まっている私どもに、「祝福があるように」と両手を広げて、天から今も、良い言葉をかけてくださるのです。

 そして、私どもも、その主にひれ伏しながら、主をほめたたえ、また、お互い同士も、良い言葉をかけ合う者となって、1週間の生活の中へと、この復活の主によって、この日、昇天なさる主によって遣わされていくのであります。
                        アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

2018年5月11日金曜日

―最近読んだ本からー新訳「キリス者の自由・聖書への序言」 マルティン・ルター著  石  原   謙 訳


―最近読んだ本からー新訳「キリス者の自由・聖書への序言」
マルティン・ルター著
 石  原   謙 訳
 発行者 岡本 厚
 発行日 19551220日 第1刷発行
     201795日  第65刷発行
発行所 株式会社 岩波書店
定 価 520+
私たちの日本福音ルーテル飯田教会では、宗教改革500年を記念し、マルティン・ルターの著書等を中心に学びを続けている。この度、ルターの「キリスト者の自由」を学び始めた。500年記念著作の「『キリスト者の自由』を読む」を中心に学び始めたのだが、岩波文庫の著名な「キリスト者の自由・聖書への序言」を読むことができた。かつて手にしたときには、それほど深い感動を覚えなかったのだが、今回、月に一度の「ルターの学び」で読んでみて、こんなに素晴らしい本があるのだろうかと改めて驚いている。
ある出会った信徒の方は、無教会の流れを汲む信仰歴の方であるが、ミッションスクールで中高生と長らく教鞭をとられた方である。その方の述懐してよく仰ったことには、「私は毎年、年明けには、ルターの『キリスト者の自由』と「世界の名著」(中央公論社)のアウグスチヌスの『告白』を読んで来たのです」とにこやかに言われるのであった。確かにこれは、得難い本である。1520年に、ルターはこの書を、執筆し、時のツヴィッカウの市長に献呈している。この底本はドイツ語版であるが、ラテン語版の方は、まだ正式に破門される前と見えて、時の教皇に献呈している。石原謙の岩波文庫訳は1955年が初版で、古くから読まれてきたものだが、学習会の感想でも、非常にわかりやすいと、好評である。ルターが最も力をつけて活躍していた1520年の宗教改革的著作の代表格の本である。キリスト教的人間は、すべてのものの上に君主であって、なにものにも従属しない。キリスト教的人間は、すべてのものにつかえる僕であって、
すべてのものに従属するという、矛盾するかに見える二つの命題が、鋭い執筆で展開されていく。キリスト教とは何であるのか、聖書は何を教えているのかを、すべてを含めて50頁足らずで見事に論じ切っているのである。一緒に収められている「聖書への序言」等も、新約聖書また旧約聖書がいかなるものなのか、どのように読めばいいのかを、適切に紹介していて、どなたにとってもキリスト教を理解し、また確認する上で、またとない小著(全123ページ)だ。