2026年6月14日日曜日

「小さな宣教師」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第3主日礼拝(2026年6月14日)(緑)

マタイによる福音書 9:35~10:8 


 今日はこの礼拝堂がきれいになってから1年たったことをお祝いする礼拝です。


 専用の玄関ができ、広い台所も、新しいトイレもできました。エアコンが付いて暑い夏でも礼拝ができるようになり、壁紙もきれいに張り替えられました。また耐震補強をして地震にとても強い建物になったのです。大切に使えばこれから20年も30年もここで礼拝することができるでしょう。


 飯田教会には、今ほとんど高齢者しかいないので、そんな先まで考える必要があるのかな、と思う人もいるかもしれません。でもここに集まる人たちは、自分が天国に行った後、未来のこの教会で、イエス様を信じる人たちが聖書を読み、神様のお話を聞き、讃美歌を歌う、と信じてきちんと整えたのです。


 この教会は120年前、遠い北の国・フィンランドやノルウェーから宣教師と呼ばれる人たちがやって来たのが始まりです。宣教師たちは幼稚園と教会を作り、飯田の人たちにイエス様の平和の教えを伝えました。


 飯田で大火事があった時には教会の建物が完全に焼けてしまいましたが、次の人たちのためにちゃんとした建物を作りたいと心から願う人たちがいたので、長い間に何回か建て替えながら120年の間、続いて来たのです。


 さて、建物の話はこれくらいにして、今日ご一緒に読んだ聖書の箇所をもう一度見てみましょう。


 ここに出てくる人たちはイエス様の弟子です。弟子というのは、簡単にいうと、イエス様のことをものすごく尊敬して、「一生あなたについて行きます」と誓って、少しでも多くのことをイエス様から教えてもらおうとする人のことです。


 イエス様の弟子たちは、簡単なことから難しいことまで、次から次へイエス様から教えてもらうことが出てくるので、イエス様から離れたくありません。


 たくさんの人と仲良くに暮らせて、世界が平和になる方法、体や心に障害がある人たちと一緒に暮らす方法、辛い目にあっても負けない方法、貧乏でも楽しく暮らす方法、他にも沢山あります。どれだけ習ってもイエス様みたいにすごい人にはなれないけれど、一生かけてイエス様に似た人になりたいと思って、たくさんの人が弟子となったのです。


 イエス様はその中から特別に12人を選び、他の弟子よりもっと難しいことを教えました。この12人はすごく頭が良かったわけでもないし、びっくりするような才能もありませんでしたが、イエス様だけが知っている理由で、「この人に教えよう」と思って、近くに呼んでくださったのです。


 12人の中には一人だけ、イエス様についていけなくて裏切った人がいました。他の11人も、イエス様が十字架にかけられたとき逃げ出しました。「イエスと自分は関係ない」と言った人もいました。隠れ家に閉じこもった11人はイエス様のことが大好きでした。ただイエス様のように殺されるかもしれないと思うと、卑怯者の弱虫になってしまったのです。


 イエス様はそんな弟子たちの気持ちを知っていましたから、三日目に蘇るとその日の夕方には弟子たちのところに行きました。弟子たちはイエス様が神様のすごい力で蘇ってくださって、自分たちが卑怯でも弱虫でも赦してくださって、あなたたちは今も私の弟子だ、と認めてくださったので、嬉しくて嬉しくて、これから先、何があっても二度と弟子を辞めようとは思わなくなりました。


 それから40日経って、今度こそイエス様が神様の国に帰る日がやって来ました。イエス様は弟子たちに「あなた方は行って、すべての民を私の弟子としなさい。そして私が教えたことを教えてあげなさい」とおっしゃいました。そして「聖霊という神様があなたたちのところに来るから勇気を出しなさい」とも言われました。


 弟子たちはペンテコステの日に聖霊様の力をいただくと、まず自分の周りの人たちに一生懸命イエス様のことを伝えました。力一杯教えたので、どんどん仲間が増えました。そこで今度は生まれた国から飛び出して、イエス様のことを全然知らない人たちにお話しする旅に出ました。故郷に残った人たちは旅がうまく行くよう旅行のお金を献金したり神様に祈ったりしながら支えました。


 やがて、こんなふうに教会の人に祈ってもらって、外国に出発した弟子たちを「宣教師」と呼ぶようになりました。


 宣教師たちが旅した国の中には「障害を持っている人や病気が治らない人は悪魔に呪われている」という人もいました。でも宣教師たちは苦しんでいる人を助けるのは当たり前だと思っていましたから、間違った考え方をやめるよう教えました。


 宣教師たちは自分が怪我をしたり牢屋に入れられたり、殺されそうになったりしても、「イエス様は十字架にかかった時もっと辛かったんだ、自分も負けないぞ」と思いながら弱い人やいじめられている人たちを助け続けました。それで、外国の人の中にも「あなたが信じている神様はすごい」「イエス様のことをもっと知りたい」と思う人が増えて行ったのです。


 今日のお話の題は「小さな宣教師」です。さっき私は「教会の人に祈ってもらって、外国に出発した弟子たちを「宣教師」と呼ぶようになった」と言いました。でも、今は外国に行くだけが宣教師ではないなあ、と思っています。


 私たちの周り、日本に住むほとんどの人はイエス様を知りません。だから、辛い時、誰にも頼れないと思って自殺したり、お金があればなんとかなると思って闇バイトに応募したり、誰かとつながっていたいと思いすぎてスマホが手放せなくて病気みたいになってしまったり。


 私たちはそんな人たちに直接「イエス様はあなたを助けてくれるよ」とお話しすることはできないかもしれません。でもできることがあります。それは、その人たちのことを思いながら、讃美歌を力一杯歌うことです。


 教会には「歌う者は二度祈る」という言葉があります。上手な歌でなくても、意味を考えて祈りを込めて歌うとき、歌には神様の力が込められます。その時神様はあなたを「小さな宣教師」と褒めてくださるはずです。



本日の礼拝ではルーテルキッズバンドに賛美してもらいました

元気いっぱいの歌声でした

礼拝の後はカレーパーティ

アレルギー対策のため、一人ひとりが

好みのレトルトカレーを持参し

大鍋で温めました

献品していただいたお米10合を一気に炊き上げて完食!

ご褒美のデザートはアイスクリームです


高齢や病気、お仕事の関係などで

教会員の出席はかなり寂しい状態が続いています

それでも今日の愛餐には二人の教会員が残って

子どもたちと交流してくれました


どうかキッズバンドが真にイエス様を信じる民となり

今は異なる群れのようでも二つのグループが

互いに支え合って

この教会を続けていけますように




2026年6月7日日曜日

「恵みの雨」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第2主日礼拝(2026年6月7日)(緑)

ホセア書 5:15~6:6   ローマ 4:13~25 

マタイによる福音書 9:9~13、18~26 


 みなさんは中近東に旅行したことがあるでしょうか。大雑把にいうと一部の地域を除いて熱くて乾燥しています。イエス様の故郷であるイスラエルは雨季と乾季に分かれていて4月から10月の半年は雨がほとんど降らない乾季にあたります。地面はひび割れ、草は枯れ、川は干上がり、ただの溝のようになります。


 そしてようやく乾季が終わる頃、突然、空が暗くなり、激しい雨が降ることがあります。その雨が流れ込む谷川を、「ワジ(Wadi)」と呼びます。イスラエルは生き生き残るために知恵を用いて文明を発展させ、こうした自然現象を利用して巨大な水タンクを地下につくり、それを吸い上げるポンプを開発し、国家運営に役立てました。


 普段は乾き切って命の危険さえ感じる場所が、一気に水で満たされ、大地に命が戻っていく。イスラエルの人々にとって、雨は単なる天気ではなく、生きるための恵みそのものでした。


 ところで本日読んで頂いたホセア書6章には「偽りの悔い改め」と小見出しがつけられています。3節には、「主は必ず来られる。夜明けのように、降りそそぐ雨のように。」と記されています。美しい聖句のように思えますが、神様はそこに込められた表面的で自分中心の底の浅い信仰を見抜き、「お前たちの信仰はすぐに消え失せてしまう」と嘆かれるのです。


 ホセア書は少々異色の預言書です。神様がホセアという預言者に向かって、不貞を働く女性ゴメルを妻としてめとるよう命じる所から始まります。ゴメルは他の男性の元へ去りますが、ホセアは再び彼女を連れ戻し、愛し続けます。


 先に種明かしをしますと、この「裏切り続ける妻ゴメル」とは、神様の恵みを忘れて他の神々の元に走り恩恵を得ようとする人々のことで、「それでも愛し続ける夫」とは、どんなに裏切られても、一度愛した人間を守り、破滅から救い出そうとする神様の赦しの愛を表しています。


 神様は、ご自分をもっともっと知って、もっともっと信じて頼ってもらうことを望まれます。「たまには礼拝に行かないとなあ」と義務的な気持ちで礼拝に来たり献金をしたりする。あるいは「クリスチャンになっても良いことがないなあ」とぼやく。そういったことが神様は辛くてしょうがないのです。


 「わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではない」という神様のメッセージは切実です。神様は心のこもらない礼拝出席や形式的な祈りではなく、ご自分と信徒の間に繋がりを欲しておられるのです。


 さて、もう一つの聖書日課、マタイ福音書を見てまいりましょう。複数の登場人物とイエス様の関わりが記されています。徴税人マタイ、死んだ娘の命を取り戻したいと願うユダヤ教の指導者、12年間病に苦しみ続けた女性の3人です。


 まず徴税人マタイについてですが、この職業はローマ帝国のために仲間のユダヤ人から税金を搾取し、余分に徴収した金は自分の懐に入れるという悪どい働き方をしていました。そのため罪人とみなされ、社会から排除されていました。


 しかしイエス様はマタイに向かってただ一言、「わたしに従いなさい」と語りかけ、マタイは立ち上がってイエス様に従ったのです。イエス様は宗教的・社会的境界を越えて、マタイを招き、彼はそれに応えたのでした。


 しかし周囲の人々、特に宗教指導者たちは納得しません。そこでイエス様はホセア書6章6節から「私が求めるのは哀れみであって、生贄ではない」と引用され、神様は罪人マタイを憐れみ、癒すためにご自分の元に招いたのだとはっきり示されたのです。


 次に登場するのはユダヤ教の指導者と12年間病に苦しみ続けた女性です。彼女は不正出血が続く婦人科系の病に12年も苦しんでいました。この病は宗教的に「汚れている」と定められ、周囲の人間も「触ったら汚れる」と信じていましたから、病の苦しみだけでなく、孤独にも耐えてきました。そして最後のチャンスとばかりに人混みに紛れ、そっとイエス様の服の房に触れたのです。


 イエス様だから感じ取れた、ごく僅かな接触だったのでしょう。しかしイエス様はご自分に向けられた彼女の切実な願いを感じ取られ、「娘よ、安心しなさい」と語りかけ、癒されたのです。


 そしてこの出来事を挟み込むように、指導者の娘の出来事が記されています。この指導者はイエス様が女の病を癒すために立ち止まっておられる間、まだかまだかと待っていたことでしょう。それでも「俺の方が身分が高い、俺の方が先だ」などと言い出して場を乱すようなことはせず、ただ信仰によって自分の番が来るのを待ったのです。


 こうして彼の信仰は報いられ、娘は命を取り戻します。


 神様は、民族、律法、社会的地位、清浄・不浄、罪人・義人という区分を越えて、人を招きます。イエス様は私たちが勝手に築いてしまった思い込みという境界を越え、神様の愛を示すのです。


 長く信仰生活を送っていると、それそれの教会内での常識や、組織でとしての振る舞いに縛られやすくなります。教会は「義務の共同体」ではなく、「恵みの共同体」であることを忘れてしまい、神様が示してくださる優先順位がわからなくなって、大きな恵みを受けそびれることになります。


 この渇いた時代に私に恵みの雨を降らせ、次にすることを示してくださる神様に素直に応えてまいりましょう。幼児が傘もささずに、雨に打たれて喜ぶように。私たちはその恵みの雨の中にいるのです。


6月14日は礼拝堂の改修が終わって一周年の記念礼拝を行います

礼拝ではルーテルキッズバンドの賛美があります

礼拝後はレトルトカレーを持ち寄って食事会(愛餐会)を行います

食物アレルギーのお友達への配慮のため

大鍋でカレーを作ることは致しません

別々だけど、一緒

そういう愛餐も良いでしょう?




その前日、6月13日は土曜学校です

聖句は創世記の天地創造から

「見よ、それは極めて良かった


工作は紙を切って貼ってステンドグラス風

今回は雨傘スタイル

ある程度こちらで準備はしますが

枠を含めて必要なものを自分達で切ってもらう予定です

牧師が「雨傘カエル」と命名

何やら人の名前のようです

参加してくれるお友達はどんな「雨傘カエル」を

作ってくれるでしょうか





2026年5月31日日曜日

「託された役割」(日曜日のお話の要約)

三位一体主日礼拝(2026年5月31日)(白)甲府は代読/飯田は説教

創世記 1: 1~2:4a   2コリント 13:11~13 

マタイによる福音書 28:16~20 


 月曜日の朝、園児たちと実習生が広い園庭でタイヤ遊びをしていました。幼稚園で園児の送迎に使っているバスのタイヤをオールシーズンタイプに交換し、保管していた8個ほどの夏用タイヤが不要になったので、別の用途に使うことになったのです。


 この日は1日だけ特別な遊び道具として使って良いことになり、転がしたり、またいだり、くぐったり、運んだりと、手が汚れるのも構わず、大盛り上がりの遊具として使われた後、タイヤは積み重ねられて土を入れられ、花壇となりました。


 タイヤはただの“輪っか”にすぎませんが、子どもたちの手にかかると、遊びはどんどん広がっていきます。その姿を見ながら、ふと心に浮かんだのは、聖霊を受けて動き出した弟子たちの姿でした。


 牧師になる勉強をしていた時に、神学生同士の会話の中で「信仰を持つことは、この世でタイヤを持つことと同じだ」という言葉を聞いたことを思い出しました。


 2000年前、ローマ帝国が領土を広げていくと、まず軍隊が通るための道と乗り物が整備され、やがて商人や一般人など多くの人々が利用するようになります。徒歩中心の生活から乗り物社会が構築されていき、キリスト教の伝道は飛躍的に発展した。そんな話を思い出しました。


 タイヤはそこにあるだけでは動きません。しかし、使いこなすと、工夫とアイデアで、行ける場所が広がり、世界が変わります。


 さて、今日の最初の聖書箇所、創世記1章には、神が混沌の中に秩序を与え、すべてのものに役割を与えていく姿が描かれています。


 光には「昼をつかさどる」役割を。天体には「時を示す」役割を。生き物には「地を満たす」役割を。そして人には「地を治め、いのちを育む」役割が与えられました。


 神様はただ世界を作ったのではなく、作られた世界に意味と使命を与え、そこに住むものたちに、これから後も末長く役割を継続していくことを望まれたのです。


 園児達がタイヤに興味を示し、手にした瞬間、遊びが始まるように、神様が私たちに命を与えた瞬間、私たちの「役割」も始まります。特にキリスト者として聖霊の力をいただき、新しく生まれ変わった者たちは、イエス様からそれぞれに大切な役割を与えられているのです。


 三位一体の神は、大いなる、ただ一つの愛を持って、三つの働きで私たちを包んでおられます。父なる神はいのちを与え、世界に役割を与える方。子なるイエス・キリストは信仰に生きる私たちに寄り添い、使命を示す方。そして聖霊なる神は使命を与えられた私たちに、それを果たそうとする力を与え、動き出す勇気を与える方です。


 園児のタイヤ遊びに重ねるなら、父なる神がタイヤそのものを与え、子なるキリストが遊び方を示して「あなたならできるからやってごらん」と励し、聖霊なる神は実際に動き出す力を与えてくださるのです。


 信仰とは、神から託された“タイヤ”を受け取り、キリストに励まされ、聖霊の力で動き出すことです。


 本日読みましたマタイ福音書には復活のイエス様が弟子たちに言われた御言葉が記されています。「行って、すべての民を弟子にしなさい」。これは「座って待つ信仰」ではなく、動き出す信仰への招きです。


 弟子たちは、神様から「タイヤ」を受け取ると、聖霊に促されるままに歩き、船に乗り、世界へと転がり出しました。転んでも、つまずいても、互いに励まし合いながら福音を運び、人々に伝えました。人類は全て神様の元に平等であること、助け合い、許し合い、話し合い、祈り合い、争いや喧嘩を可能な限り避けて、新しい世界を創っていくことが託されていると話して回ったのです。


 園児たちがタイヤを押したり転がしたりしている時、誰も泣くことはなく、争うことなく、ただただお互いにその扱いを学びながら、笑いながら、協力しながら、飽きることなく遊び続けました。そして最後にそのタイヤはブランコ脇に置かれて積み重ねられ、土を入れられ、花壇になりました。


 弟子たちもまた、たとえ命の危機にあっても、神に託された役割を果たすためにそ歩み続けたのです。


 宣教者パウロはコリントの教会にこう語ります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同とともにあるように」。牧師たちは祝福の時にこの言葉をよく用います。三位一体の神の働きをそのまま表した祝福の言葉です。キリストの恵みが私たちを招き、父なる神の愛が私たちを包み、 聖霊の交わりが、私たちをつなぎ、支える。


 こども達の遊びが一人では成りたたず、友だちや先生との“交わり”があって初めて遊びは豊かになります。信仰の歩みも同じです。私たちはひとりぼっちでは信仰を成立させるのは難しいのものです。三位一体の神を信じる私たちは、神様が自ら集められたその交わりの中で、自信を持って、前へ進むのです。


 繰り返しになりますが、今日の礼拝で読みました聖書箇所は、共通してこう私たちに示しています。神様は私たちに役割を与える方。キリストは私たちを動き出す使命へと送り出す方。聖霊は私たちを支え、つなぎ、導く方。これから先、信仰に悩む時、この三位一体の神が私たちを愛しておられることを、繰り返し思い出してください。


 私たちは、この時代、この場所において、神様から託された“信仰というタイヤ”を持っています。誰かを励ますために、小さな奉仕をするために、祈りを届けるために、平和をつくるために、あなたの方法で転がしていくのです。幼児であれ高齢者であれ、体の自由が効かない方であれ、命ある限り、あなたにしかできない役割は必ずあるのです。


牧師夫人が管理している教会の駐車場脇の植え込みで
今年もリクニス(スイセンノウ)が咲き始めました
この辺りは土質が合うのか
ピンクのリクニスが道端でも
あっちこっちで咲いていますが
白花は見たことがありませんでした
数年前、松本教会の植え込みに白花が咲いていたので
数株いただいてきました
リノベーション工事中は世話ができず
絶えてしまったかと思いましたが
思いがけず今年、綺麗に咲き始めました
なんだか楽しい気分になります