2026年2月8日日曜日

「地の塩 世の光」(日曜日のお話の要約)

顕現後第5主日礼拝(2026年2月8日(日)(緑))

イザヤ書 58章1-9a  Ⅰコリント 2章1-12節

マタイによる福音書 5章13―20節(新)


 本日与えられたマタイ福音書のイエス様の御言葉は「あなたがたは地の塩、世の光である」という箇所です。「塩」は、食物の腐敗を遅らせたり、加工するにも使われ、世界中で用いられてきました。生活の中でなくてはならないものです。


 しかし使い方を間違えると健康を害することもあり、「健康のために塩分をとりすぎないように」とよく耳にします。塩自体は何も悪くないのに、用いる側の都合で、悪者にされてしまうこともある、塩とはそんな存在なのかもしれません。


 福音書の著者であるマタイは、律法が全ての基準であるユダヤ社会で生まれ育ちました。律法はユダヤ人にとってなくてはならない、言うなれば塩のような存在です。しかし、なんらかの理由で律法を守れない人にとっては残酷な決まりで、律法に基づいて厳しく裁かれる人は、こんな決まりなどいっそ無ければ良いのに、と思ったことでしょう。


 神様がユダヤの民を思って定めた律法が、社会のトップに立つ権力者たちによって都合よく歪められ、当時の人々を苦しめていたのです。マタイはそんな教えならこっちから捨ててやる、と思ったのか、自ら律法を捨てて徴税人となり、ローマ帝国の手先として税金を集め、自らも金儲けをする道を選びます。


 しかし、イエス様に招かれ弟子となった彼は、全く新たな信仰の形が与えられます。生きるためになくてはならない「新しい律法」、つまり「新しい塩」を彼はイエス様から与えられたのです。


 マタイが熱い思いで記した山上の説教は「心の貧しいものは幸いである」との書き出しでイエス様の教えを記しています。ここには一般のユダヤ人の常識を覆すようなさまざまな幸いの形が記されています。順番に、「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」、そして最後に「イエス様のために罵られ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられる人々こそ幸いである」なぜなら、「天に大きな報いがあるから」と教えるのです。マタイはこの教えに人生をひっくり返され、イエス様に命を預けて歩むことに決めたのです。


 そして、まさにイエス様ご自身も、裏切られ、世間から邪魔者扱いされ、馬鹿にされ、兵士から殴られ、唾を吐きかけられ、十字架の上で息絶えます。しかしそれで終わりではありませんでした。神様はたった3日間で、イエス様を復活させ、それを通して死は全ての終わりではないことを示されたのです。


 この出来事を真実として受け止め、の心に刻んだ人々は、この世の中において塩となる。マタイはそう伝えました。そして現実にマタイが世を去った後、どれほど迫害されても受け継がれた聖書の御言葉は、300年後にローマ帝国をひっくり返して世界に大きく広がって行きます。


 世の中が平和な時、塩の教えは「良い教えだね」と共感してもらえます。しかし世の中が不穏な状況になれば「何を非現実的なことも言っているのか」とか「平和ボケしいている」とか「単なる理想主義」などと罵られることもあります。しかし塩が塩として変わらぬスタンスを貫いている限り、世の中は確かに変わる。それは光も同じだと、それは歴史が証明しています。


 私たちの生きる社会はこれから明るい方向に進むかどうか分かりません。80年前に世界を巻き込む大きな戦争が終わった後、国際連合が結成され、その壁には聖書の言葉が刻まれました。イザヤ書2章4節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」がそれです。


 しかし現在それを踏み躙るような出来事が次々とが起きています。イザヤ書の言葉を理想論で終わらせないためには、一握りの権力者や富や成功を神のように崇めるのではなく、真の神の前に無数の地の塩たちが跪いて「アーメン」と唱えてはじめて本当の一歩を踏み出すことができるのです。


 時が悪くて邪魔者扱いされても、神様が与えてくださる恵みの中に生きて、人々に示してゆき、与えて、照らすものとなる。それがこの社会の中で、私たちに与えられた使命であり、私たちの望みであり、私たちのできることなのです。


 2026年に入って、飯田ルーテル幼稚園も教会も工事を終え、ようやくなんとか形になってきて、他教会の方もお招きする集会ができそうだ、となったところで、実はルーテルという組織やプロテスタント教会そのものが存続の危機に瀕していることがわかってきました。


 ルーテル学院大学の閉校もその一例でしょう。また、東京都内のルーテル幼稚園や教会が、施設の古さから集まる人数が激減していると聞きました。さらには下伊那地域の日本基督教団や聖公会なども運営が厳しく、人材的にもひっ迫していることを耳にします。


 そのような中で、私たちはギリギリのところをすり抜けるかのように存続を許されました。私たちは経済的にも人材的にも決して豊かではありませんから初めの内は「なんかしょぼい」集まりになるかもしれません。それでも、主イエスに示された「地の塩、世の光」としての役割を果たすことがまだまだ許されているのです。


 マタイが記したように、私たちはイエス様との繋がりがあるがゆえに、時に貧しくなり、苦しみます。何度も言いますが、私たちが地の塩、世の光である以上、義や平和を求めて世間から「平和ボケ」と罵られることもあります。しかし、人々から馬鹿にされても、それはイエス様の為であり、イエス様が手本となってくださった生き方です。イエス様は私たちと繋がるために命を捨ててくださった。これほどの大きな愛は、この世に他に存在しないのです。その愛に励まされて、キリスト者として生きて参りましょう。


2月の土曜学校の工作はひょうたん小人のランプです

地元で瓢箪を育てている方から献品していただきました

数年前も一度作ったことがありますが

現在、集まってくれるお友達の中には

失敗に過剰反応したり

説明をうまく理解できなかったり

…そんな傾向がある子もいるので

なるべく簡単に、怪我なく作れる方法を考えました

最後まで楽しんでくれるといいのですが


小さめで薄い瓢箪に画鋲で穴を開け
先の鋭くない目打ちで穴を広げます


LEDライトを入れて光らせます

毎回ポスターやハガキで告知しています


2026年2月1日日曜日

「実りある教会」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・教会総会礼拝(2026年2月1日(日)(赤))

ヨハネによる福音書 15章5―23節(新198)


 2026年の年間主題は「キリストとの生き生きとしたつながり」を伝える御言葉、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」ヨハネによる福音書15章5節を用いることにいたしました。


 この御言葉は、幼稚園でこの1月に暗唱聖句として選ばれました。園の始業礼拝の奉仕の時、園児達が「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と大きな声で読み上げているのを聞いて心が震えました。それはこの言葉を聞くことで、ここでの幼児教育を引き継いでゆくという、強い気持ちと畏れが神様から与えられたからです。


 ぶどうは飯田に住む皆さんにとって身近な植物ですからあれこれ説明は必要ないでしょう。


 今更ですが、人間は6000年以上前から野生のぶどうを利用してきました。紀元前4000年ごろの古代エジプトやメソポタミアでは、すでに野生のぶどうを品種改良し、栽培していたようです。


 当時のぶどうの実はまずく、生食はせずワインに加工していました。長い長い年月をかけて品種改良が進み、食べるにしても、飲み物にしても、これはというぶどうが生み出されます。


 しかし、19世紀にフランスでフィロキセラという害虫が大発生し、ヨーロッパのぶどう園が壊滅的被害を受けます。その時、アメリカ原産の、この害虫への耐性のある台木へ接ぎ木することによって、解決策が確立されたのだとか。このように、接木はぶどう栽培を栽培していく上でなくなはならない、非常に重要な技術です。


 ぶどうを実らせる枝には、植物生体液、つまり樹液、植物の体液が流れています。樹液には、養分の運搬だけなく、傷の保護や修復の力があるそうです。


 接ぎ木を行うときには、今まで育った枝を切り、新しく接ぎ木した枝の先まで樹液が流れるように接合部をテープで完全に覆うなど、細やかな作業が必要です、と、こんなことは素人の私が言わなくても、農業や園芸に携わる方ならみなさんご存じでしょう。


 ただ、問題は、必要があるからとはいえ、せっかく育った枝を選んで切り落とすのは全く抵抗がなくできるものなのか、ということです。


 本日の聖書箇所の少し前のところでイエス様は「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と宣言しておられます。ここでは父なる神様を、ぶどうの手入れをする優秀な農夫にたとえ、良い農夫は正確に枝を見極め、バッサリ切り落とすものなのだ、と言っておられます。良い実を結ぶためにはどうしても剪定が必要である、と念を押すということは、神様といえども枝を切って処分するのは、決心が必要なのだと伝えておられるようです。


 この教えを通して、イエス様は「私に繋がるものは、実を結ばないわけがない」と言っておられるのです。そして「実を結ばないとすれば、形だけ引っ付いているだけで、実際には本体から流れ込むはずの樹液を拒否しているのだ」と言っておられるのです。


 イエス様のお話を聞いた人々は、自分が今まで繋がっていた社会から神様の手によって切り離され、キリストを人生の中心とする生き方へと接木されたのだと知りました。これから自分はイエス様の愛と教えという樹液をいただきながら成長するのだということに、希望を見いだしていったのです。


 ただし、それには、切り落とされることに共なう痛みはどうしてもあるのです。以前の生活から切り離される、つまり、以前の生活を全く変えることなく、イエス様につながることはできません。


 イエス様が十字架の痛みに耐えたのは、私たちに繋がるためです。私たちがイエス様の傷口から流れ込んで来る神様への強い愛と信仰を自分の体と心に巡らせるなら、まことのぶどうの実を実らせることができます。信仰によって、人にも自分にもより良い結果を得るためにつなげられたのです。


 私たちは流れ込んでくる御言葉を通して、「愛」とは何か、「平和」とは何かを改めて学んでいくのです。それは今まで生きてきた社会でいうところの「ヒューマニズム」とは別のものです。理屈ではなく、キリストとつながることによって、見えてくる愛の業、平和の業が、お前ならできると示されるのです。それがクリスチャンとしての希望であり、喜びなのです。


 キリストから流れるいのちの水は、傷を保護し、癒し、修復する力があることを私たちは聖書を通して知っています。私たちが困っている人、助けを必要としている人に、枝のように手を差し出し繋がろうとするのは、その人を救いたい神の思いがこの身体に流れているからです。


 私たちは今、さまざまなことに翻弄される社会の中で生きていて、ともすればキリスト・イエスとのつながりを忘れそうになります。目の前の自分の生活で手一杯で、もっと大きな危機があることに気づかず、社会が滅びに向かっていても気づかない、そんな世にあって、毅然としてキリストに繋がることは難しく、枝である私たちに痛みが伴います。しかしそれは主によって癒される痛みだと信じて歩むしかありません。


 痛みがあろうとも、私たちはこの地域で、そして幼稚園を通して、さまざまな人々を招き、つながり、イエス様へと導いていくのです。その結果として、豊かな実が実る、必ず実ると信じていくのです。


 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」この聖句を心に刻み、この1年を「実りある教会」への歩みと致しましょう。



まだまだ寒い日が続いています

飯田は例年あまり雪が降りませんし

積もってもすぐ解けるのですが

今年はうっすら積もってなかなか解けないという

日が多くなりました

私が飯田に来て7年目

今年が一番寒い冬かもしれません


今回もまた雪の写真で申し訳ないのですが

記録のために載せておきます


牧師館の庭のカエルの置物
雪をかぶって寒そうです

早朝の園庭が真っ白になる日も増えました

2026年1月25日日曜日

「宣教の業」(日曜日のお話の要約)

顕現後第3主日礼拝(2026年1月25日(日)(緑))
イザヤ書8章23―9章3節(旧1073)
Ⅰコリントの信徒への手紙 1章10-18節(新299)
マタイによる福音書 4章12―23節(新5)

 本日はマタイ福音書から聞いて参ります。マタイはイエス様の12弟子の一人で、生粋のユダヤ人ですが、彼は祖国ユダヤを裏切り、ローマのために税金を徴収する仕事をしていました。そんな彼がイエス様に救われてからは「どんな過去を持っていようとも、イエス様を信じるならば再生できる」と信じ、その希望を福音書に綴りました。


 マタイ福音書は冒頭に長々と系図が書かれているので敬遠されがちです。しかしその意図は、系図に象徴される、神につながる長い歴史を持つユダヤの国が、これから先、未来へと存続するには、しっかりした信仰の土台を持つ人々がどうしても必要だ、という確信です。そして、ヨハネの洗礼の出来事はその始まりなのだ、と考えました。


 洗礼者ヨハネはヘロデ王に捕らえられたため、ヨルダン川で民衆に洗礼を授ける人はいなくなってしまいます。しかしマタイは、ヨハネと入れ替わりで登場したイエス様こそ、旧約聖書に預言された約束の救い主なのだ、と熱く記しています。


 マタイ福音書によれば、イエス様はヨハネが捉えられた後、首都エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方に拠点を移します。そこで人々を集め、家庭的な集まりを作り、共に旅をし、体験を通して弟子の育成を始められたのです。


 そしてイエス様は弟子たちを連れてガリラヤ中を回ってお話し、奇跡を行い、大勢の群衆に慕われるようになります。マタイ福音書では、イエス様の語られたお話を「山上の教え」、以前は「山上の垂訓」と呼ばれていましたが、イエス様の大切な教えをまとめて記しています。


 みなさんもご存じのように、マタイによる福音書の山上の教えは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と始まっています。この「貧しさ」とは、「自分には満たすことのできない足りなさがある」と自覚し、だからこそ「他者に助けをもとめられる人」のことであり、「満たされることに満足するのではなく、助けられることに喜びと感謝を表す人」です。


 ですから、心の貧しい人物とは、「私は助けなしには生きていけない存在である」と分かっていて、素直に「助けてください」口にし、神様に後押しされながら自分の思いを伝えられる人のことを言うのです。


 自分の足りなさや弱さを素直に認め、必要な時、人に助けを求めることができる資質は人間関係で大切なことで、友人関係や一つの組織、ひいては国を作っていく上で重要です。


 自分が正しい、自分はなんでもできる、と思い込んでなんでもワンマンにやっていこうとするのは危険なことなのです。自分の欲望を正当化して、虚勢を張って強さを演出し、他者に圧力をかけて奪い取ろうとするのは、強いのではなく、弱さを誤魔化す浅ましさにすぎません。


 人間の心を知りぬいているイエス様は、「あなた方は苦しみや罪を抱えながらでも、なによりも神様を信じて、正義と愛、清らかさと平和を求めて生きるように」と人々を励ましました。そのような生き方ができる人こそ幸せなのだと宣教したのでした。


 イエス様の教えは、競争社会や格差社会、弱肉強食のような社会の中では非現実的で弱々しく聞こえたかも知れません。けれどもイエス様のもとに集まってきた人々はイエス様の言葉に希望を見出しました。


 一人一人は弱く、税金の高さやローマの横暴による生きにくさ、病いや障害による差別に苦しんでいました。自分の力ではどうすることもできない、苦しみや悲しみを抱えた人々の心に、イエス様の教えは勇気と信仰を与え、手に手をとって世界を変えていく希望を与えたのです。


 やがて、イスラエルはローマには歯向かったことで潰され、滅びていきます。信仰の中心であったはずの神殿も跡形もなく破壊されました。しかしイエス様の教えの言葉は決して滅びませんでした。


 イスラエルを叩き潰したはずのローマ帝国の中で、受け継がれた御言葉の種は人々の心に根を張り、生き続けました。やがてローマ帝国そのものが危機に陥った時、皇帝自らイエス様の教えを国作りの中心に据え、キリスト教国家となっていくという大逆転が起きるのです。


 パレスチナの片隅でユダヤ教に迫害されながらも確実に育まれて行ったキリスト教が、名実ともにローマの国教となったのは西暦392年、テオドシウス帝の時代です。この出来事はヨーロッパ全土に、そして世界全体を大きく変えていくのです。


 これはマタイから見れば、遥か未来の出来事でした。もちろんマタイは後に何が起こるか具体的に知っていたわけではありません。しかし、神様への信仰を持った人々によって、苦難の時にも揺るがない国が出来上がる、という確信は確かに現実のものとなったのです。


 マタイはイエス様に見出され、「わたしについてきなさい」と言われた時、立ち上がって従ったと記しています。ここで彼は「罪に死んだ私は復活してイエス様に従った」と表明しているのです。


 21世紀になって、科学は急速に進歩し、人々はさまざまな社会問題を解決し、分断をなくし、輝かしい未来がやってくると信じていました。しかし、現実には経済力を持った大国の横暴はますますひどくなり、小さな国々は自衛のためと称して武装する道を選び始め、世界に恐れが広がっています。キリスト教国と言われている国でさえ、イエス様の教えは絵に描いた餅になっているような有様です。


 このような混乱の時代、争いの只中にあっても、決して諦めず「宣教の業」を次の世代へ、未来へとつなげるために、今を大切にして、神と共に、主イエスと共に、ひたむきに歩みを進めて参りましょう。



JPCZ、何の略か、なかなか覚えられません

「日本海寒帯気団収束帯」と言われても

「日本海」以外ほぼ馴染みがない言葉(^^;)

冬の日本海側で大雪をもたらす

帯状に連なる活発な雪雲のことだそうです


他県に住む人からの年賀状には

「飯田は今頃雪景色でしょうか」と書かれていますが

南信州は実はあまり雪は降りません

ただひたすら気温が下がり、凍ります

でも今回は流石の南信もJPCZの影響で

かなり雪が降っています


お読みくださっている皆様の地域はいかがですか?

豪雪地帯の方は雪下ろしなどくれぐれもお気をつけください

雪に慣れていない方は、なんと言っても

転倒に注意してくださいね


教会の花壇に飾ってある陶器のカエル
見た目あまりに寒そうなので
マフラーを巻いたのですが
雪と共に凍ってしまい、ますます寒そうです



早朝の園庭はうっすら雪化粧です

2026年1月18日日曜日

「聖霊に招かれて」(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝(2026年1月18日(日)(緑))

イザヤ書49章1―7節(旧)  

Ⅰコリントの信徒への手紙 1章1-9節

ヨハネによる福音書 1章29―42節(新)


 以前、他の教会の信徒さんから伺った話なのですが、自分がこの教会に来たのは、たまたま青年時代に仲間達と教会に集まることが流行って、仲間の多くは教会から離れてしまったが、自分だけはたまたま進学先にも、就職先にも教会があったので礼拝や教会の集会に出て、たまたま昔からのクリスチャンの家系の方と結婚をして、子ども達はそれぞれ独立し、今、自分は教会のお役に立てることが出来ればと思うようになっていると。


 こんなふうに「私が教会に来るようになったのは、たまたま」と言われる方が多いのです。「たまたま来ました」と連呼され、まるでそんなふうに言うことが謙虚さであると考えているようで悲しくなるのです。


 皆さんお一人お一人が教会に来るようになったのは、決してたまたまではありません。神様があなたを招かれたからであり、つまりは聖霊の招きがあったからなのです。自分で教会に来て、自分で教会につながり続けているのだ、と思い込んでいるなら、それはあなたを愛し、尊い犠牲を払ってまでもここに招いた神様を悲しませ、あなたに働きかけ続けている聖霊の働きを無視していることになるのです。


 クリスチャンや教会員が、自分のことを会社や何かの組織の構成員と同じだと考え、神様に招かれて結び合わされている、と言う自覚を持てない時、自分の都合や損得感情で礼拝に来るのをやめ、好きなように行動するでしょう。「たまたま来た」と言う言葉は、「自分優先でやめて構わない」と言う恐ろしいニュアンスを含んだ言葉だと皆さんには知っておいていただきたいのです。


 さて本日の福音書は、洗礼者ヨハネがイエス様にヨルダン川で洗礼を授けた時の様子を語っています。


 この福音書を書いたのは、イエス様の弟子のヨハネです。ヨハネは自分を取り巻く世界に納得がいきませんでした。ローマ帝国に押さえつけられ、宗教指導者たちは建前ばかりで保身や権力闘争に明け暮れている。信仰も宗教も国家も指導者も信用できないのです。洗礼者ヨハネなら、この世界をよくしてくれるに違いない、と言う思いで弟子となったのでしょう。


 ところで、イスラエルには神様がいつか救い主を遣わして国を建て直してくださる、という信仰がありました。イスラエルは神に愛される国だから、滅んでも滅びない。ただし、そのためには深く悔い改め、律法に定められた生贄を捧げることなど、いくつかの条件が旧約聖書に記されていたのです。


 ヨハネ福音書では、他の福音書の描写とは異なり、洗礼者ヨハネがイエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と紹介しています。そして彼こそ「神の子」である、と断言したのです。


 しかし、この神の小羊というのは元々神様に捧げる生贄を意味する言葉です。イエス様がお生まれになる1000年以上も前、イスラエル民族がエジプトから脱出する時、聖なる子羊の血を門に塗ることで神様への信仰を表し、無事にエジプトを脱出できたという史実があります。


 この世の罪を帳消しにするためには、聖なる小羊を捧げる必要があります。洗礼者ヨハネはイエス様を見た時、この方こそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と信じた言葉を口にしたのです。しかしそれを聞いた人々はすぐには理解することはできませんでした。「イエス様こそ、我々の罪を神さまから許していただくために犠牲者になるのだ」という意味だと知るのはまだしばらく後のことだったのです。


 35節に「洗礼者ヨハネが二人の弟子と一緒にいた」とあります。読み進めますと、この二人の弟子のうちの一人が福音記者ヨハネであり、もう一人がのちに12弟子の一人となったアンデレ、つまりペトロの弟であることがわかります。


 洗礼者ヨハネは歩いておられるイエス様を見つめて、アンデレとヨハネに向かって「見よ、神の子羊だ」と言います。するとそれまで洗礼者ヨハネの弟子であった二人は、吸い寄せられるようにイエス様の後をついていきます。


 やがてイエス様が振り向いて二人に「何を求めているのか」と問いかけられたので、彼らは「どこに泊まっておられるのですか」と問い返します。これは元の言語から考えると「あなたが招いてくださるなら、あなたに繋がりたい」と言う意味になるようです。それに対してイエス様は「来なさい」と答えて二人を招きます。これがヨハネとアンデレがイエス様の弟子となった瞬間でした。


 ヨハネがここで伝えたかったのは、一見自分達から積極的に弟子入りを願ったように見えるけれど、実はイエス様の方が、自分たちを見ておられ、この世のあらゆる疑問、不条理に苦しむ自分達の思いを見抜き、ご自分に繋がるようにと招いてくださったのだ、と言うことなのです。


 聖霊の力をいただき、イエス様に繋がって、改めて世の中を見るとき、世の中の醜さが鮮明に見えてくることがあります。自分の目や心を偽れなくなるからです。それは辛い事ではありますが、そうしたものは全て神様ご自身が私たちに与えたものであり、神様から私たち、そしてその先へと繋がるものを根こそぎ救うために、私たちを用いるために与えられた力なのです。


 私たちの歩むこれからの道は、やはり苦難はあり続けることでしょう。けれどもわたしたちには、神様の招きがあり、私たちを見つめておらえるイエス様が、私たちに「繋がりなさい」と声をかけてくださり、手を握って勇気を与え、なすべきことを示してくださいます。


 神様が与えてくださる招きに応えながら、歩んでいきましょう。なんで私だけ、と苦しみを覚え犠牲になっている、と感じる時には、主イエスもかつて同じ道を歩まれ、今も私たちの前を歩いてくださっていることを、私たちの誇りといたしましょう。



昨日は今年最初の土曜学校

13人のお友達が集まってくれました

礼拝では31年前に起きた阪神淡路大震災の事も

少し聞いてもらいました


工作の時間は毛糸のポンポンを使った

ふわふわうさぎ

みんなかなり苦心しましたが

可愛いうさぎが完成しました

代表して4人のお友達の作品をご紹介




次は2月21日です
予定しておいてくださいね