聖霊降臨後第15主日礼拝(2026年9月6日)(緑)
エゼキエル書 33:7~11 (旧1350) ローマ 13:8~14 (新293)
マタイによる福音書18:15~20(新35)
本日の福音書は「兄弟の忠告」という小見出しが付けられています。イエス様は将来キリスト教会の中で頻繁に起きる様々な問題を解決するために、前もってご自分の弟子たちにお話しされています。
イエス様のお言葉の根底には神様の愛があるのはいうまでもなく、先に読んでいただいだ旧約聖書のエゼキエル書にも、人間に対する神様の愛が、高い倫理観を持って記されています。かいつまんで言いますと、「神様に選ばれた人には、神様が悪と定めた人に警告する義務がある」ということです。
もしあなたが神様から委ねられていながら、その悪人に何の警告も発しないまま放置し、結果的にその悪人が死んだなら、その責任は忠告しなかったあなたにある、というのです。逆にもし悪人が警告を無視して死んでしまった場合は、あなたには責任はない、とも書かれています。本日はこの御言葉を心に留めながらイエス様のお言葉を改めて見てみましょう。
イエス様は「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と語り始めます。この「兄弟」とはもちろん、教会の仲間という意味です。
間にかトラブルが起きた場合、陰口や噂話を広めるのではなく、当事者同士で静かに話し合い、解決できなければ証人を連れていき、教会に相談するなど、段階を踏むことの大切さを教えておられます。
マタイ福音書は、ユダヤ人でありながら徴税人に身を落としたマタイが記録した福音書です。罪人であった自分を神様の元に連れ戻してくださったイエス様の愛の深さは人一倍知っていました。そんなマタイが「何度警告しても神の愛を忠告を受け入れない人間は、徴税人と同様に扱いなさい」というのです。その言葉の裏には「自分のような者を救ってくださった神様の愛がその人に伝わるなら、きっと更生できる」という思いがあったことでしょう。
イエス様が天に帰られてしばらく後、マタイは教会の指導者の一人となります。その頃にはユダヤ教からキリスト教に移ろうとする人々がたくさんいました。また地道な宣教活動により、外国出身のクリスチャンも増えていきました。それは喜ばしいことでしたが、同時に教会で共に過ごすうち、お互いに、常識だ、当たり前の行動だ、と思うことが違うことが見えてきました。
例えば、ユダヤの人々にとっては、以前は律法を守ることは義務でしかなかったものが、イエス様の新しい教えを学ぶことで、律法の奥深さを知ります。そこで、異邦人にも立法を守ってもらいたいという熱意が強くなっていきます。
それが先ほど読んでいただいたローマ信徒への手紙にあるような、盗むな殺すな浮気するな、といった倫理的な教えであれば、文化の違いがあっても共感も得やすかったでしょう。しかし例えば「豚肉は汚れているから食べてはいけない」と言った教えとなると、外国人クリスチャンは、そんなことを守る必要があるのか、とイラついたはずです。
異邦人クリスチャン達は、イエス様の愛の教えに打たれて洗礼を受けました。彼らの中には奴隷出身者や無学なものもいましたから、ユダヤ人クリスチャンが知識や歴史を自慢して自分達を見下しているように思えたかもしれません。この二つのタイプの人間が教会の中にいたなら、揉め事が起きないはずはないでしょう。
しかしイエス様は排他的な気質をもっているユダヤ人に繰り返し、関わりを持つように、と勧められます。イエス様のお言葉には、罪を犯した人があなたを通して再び神様とのつながりを得られるように、との願いが込められているのです。つまりこれはキリスト教会の始まりの人間関係の繋がりを示している箇所なのです。
ちなみに先ほどのローマ書の少し後には「信仰の弱い人を受け入れなさい」という御言葉があります。ローマ書はマタイ福音書よりも先に書かれています。この二つの聖書箇所を同時に読む時、この教えを持って教会が成り立ち、発展していったことがよくわかるのです。
飯田ルーテル教会の始まりも、最初からスムーズに伝道が進んだわけではありません。かつては遊郭のあった町ですから、記録によれば、やくざが日本刀を持って怒鳴り込んできたり、病気の女の人をも搾取しようとする悪人もたくさんいる中での宣教であり、恐れをなして教会を離れた人々もいたと思います。
そのような環境で、はるばるフィンランドから来日した女性宣教師達は毅然とした態度で働き続けました。全ての女性の尊厳を守ることを、宣教の軸にすえ、迷える女性を救う嘔吐した彼女達は、ヤクザだけでなく町の有力者から嫌がらせを受けても決して諦めなかったのです。
こうした人道的な働きは、やがて、人々の心を変えてゆきます。最初は、町の発展の為には歓楽街もいたしかたないとしていた有力者が、義勇団として、フィンランドの女性宣教師の教えに従い、キリスト者として生きる決意をし、その数は200人はいたと聞きます。
今、私たちの周りには極悪人もいない代わりに強い正義感を抱く人も見当たらないように思えます。教会に集う方々も、なんとなく今が幸せなので、教会であえて考え方の違う人たちと苦労しようとも思わないのかもしれません。ただ、そのような態度を取り続けるならフィンランドの女性宣教師が命がけで開いた幼児教育事業は、看板だけ、建前だけとなり、身内から崩れることも知っておきましょう。
日本のキリスト教は存続の岐路に立っていると言われますが、岐路に立っているのはキリスト教ではなくて、私たち自身なのです。何事も他人事、他人任せで、少し離れたところから眺めて生きるのは楽ですが、神様のみもとで生き、宣教のために苦しみがあっても、そこに本当に生きる意味があるのです。
それこそがイエス様が味合われた苦しみでもあります。私たちはイエス様から託された愛をもち、それをバトンしていくことへ強い自覚を持って、諦めずに宣教の業を勤しんで参りましょう。
この数ヶ月、地震や水害が日本だけでなく世界各国で続いています
あまりの悲惨さに、どこにどう支援したらいいのか分からなくて、混乱してしまいます。みなさんはいかがですか?
この夏休み、ルーテルキッズバンドのメンバーは「こども讃美歌」に収録されている「コスレボナヨ」がお気に入りでした。これはネパール語の讃美歌なのです。子どもたちはネパールがどこにあるのか、どんな国なのか説明してもあまり興味を持てなかったようで、ただただ「コスレボナヨ フルハルライ」と大声で楽しそうに歌っていました。
ネパールで大水害が起こった後、練習の中でネパールの人たちを覚えて皆で祈りました。
さまざまな被災地に目を向けるようにとの神様のお導きなのかもしれません。
これからも子ども達と共に祈り続けていきます。
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| ネパールの国旗 三角形を二つ重ねた国旗はとても珍しいですね ヒマラヤ山脈の山並みや、ネパールの二大宗教を表しているそうです |




