2026年5月10日日曜日

「約束の弁護者」(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2026年5月10日)(白)

使徒言行録 17:22~31(新248)  1ペトロ 3:13~22(新432)

ヨハネによる福音書 14:15~21(新197)


 大阪や神戸では、街なかの交差点には必ずと言っていいほどお地蔵さんがありますが、お地蔵さんと閻魔大王は、仏教においては同じ存在で、閻魔大王は地蔵菩薩の化身なのだそうです。裁きを下す恐ろしい閻魔と、子どもを守り人々を救済する優しい地蔵という、二つの顔を持っているそうです。


 ある方は「閻魔さんが地獄から町を監視し、こいつは死んだら地獄に入れると判断する為にお地蔵さんはあるんじゃ」とも言われました。まるで監視カメラですね。もし、闇バイト本部の目の前にお地蔵さんがあって、アジトから出入りするたびにお地蔵さんと目があったら、良心が疼いて犯罪をやめたりしないだろうか。ふとそんなことを思います。


 今の人々は宗教や信仰に対する畏れをなくした世界なのか、宗教の方が形だけになりさがったのかどっちなのでしょう。


 私は最近までよく知らなかったのですが、関東や甲信では「道祖神」をよく見かけます。大きな石に道祖神という文字を刻んであるだけのものもありますが、成人した男と女が握手し、肩を寄せ合い、仲睦まじく、愛くるしい家の形に治められた石像になっているものがあります。


 以前、辰野に節分草と福寿草の花を見に行った時、その町の方に「ここに有名な道祖神がある」と案内されたことがあります。そのお爺さんは、「この道祖神は街の疫病や旅人等を守って下さる」と説明してくださいました。後で調べてみると、現存する最古の「道祖神」は、1505年の室町時代のもので、辰野にあるそうです。もしかしたらこの道祖神だったのかもしれません。


 道祖神は出稼ぎに行く人の旅を守り、疫病を防ぎ、縁結びや夫婦円満の神と言われ、旅人が道に迷った時、特長ある道祖神を見出せば、自分が今どこにいるのか分かる。長野県の道祖神はそんなふうに発達したという言い伝えもあります。


 なぜ、このようなお話をするのかと言いますと、本日の使徒言行録がまさに、私たちの状況を表しているからです。本日読んでいただいた使徒17章22節から31節はパウロがアテネで過ごした時、この町の至る所に偶像を見て憤慨し、町の人々に「イエス様こそ、まことの、唯一の神様である」と力説する場面です。


 パウロがアテネの町を歩いたとき、偶像の中に「知られざる神に」と刻まれた祭壇を見出します。アテネを首都とするギリシャは、遠くない将来にキリスト教を受け入れ、ギリシャ正教が生まれます。しかしこの頃のアテネの人々は、神を知りたいと願いながらも、どこか遠い存在としか捉えられなかったのです。


 しかしパウロは「名前も存在もよくわからない神」に漠然と祈るのではなく、「すぐそばにいてくださり、守ってくださる神」について教え、「神は、私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」と強く語ったのです。そして「神は遠くない。あなたのすぐそばにおられる。」と語りかけました。


 また、イエス様の一番弟子のペトロは、この世の役割を終えて死ねば天国に迎え入れられ、イエス様と再会できると確信していました。しかし、イエス様に対する愛と忠誠心を持って生涯を伝道に捧げ、苦しみの多い人生を歩んだのです。


 そんなペトロだからこそ、イエス様を信じる人々に、率直に励ましを伝える手紙を書き送りました。ペトロの手紙は、信仰に生きる私たちすべての人に時を超えて送られた愛のこもった手紙なのです。


 この手紙を受け取ったのは迫害や不安の中にある信徒たちです。15節には「あなたがたの内にある希望について説明できるようにしなさい。」とあります。迫害の苦しみの中で希望を見出し、迫害してくる相手に向かって堂々と語ることができるよう、キリストが死を打ち破り復活されたことを常に心に思い描き続けなさい、と励ますのです。


 ペトロは直接イエス様から教えを受けた人ですから、その言葉には説得力がありました。とはいえ、2000年後に読んでも今なお生き生きと私たちに迫ってくるよう感じられるのは聖霊なる神様のお力なのです。


聖霊は、恐れに沈む心に勇気を与え、言葉を失う者に語る力を与え、希望を見失った者に光を示し、キリストの勝利を思い起こさせる。そして、キリストを知らない人々から迫害にあう人々に、語るべき言葉を授けてくださる、まさに「弁護者」として働かれる方なのです。


 イエス様はかつて弟子たちに、「私はあなたがたをみなしごにはしない。」と約束されました。そして彼らから不安を取り除こうと、こう約束されました。「神はもう一人の弁護者を遣わす。その方は、あなたがたと共におり、あなたがたのうちにいる。」。


 聖霊は、外側から助ける存在ではありません。私たちの心の内側に住まわれ、そこから導き、慰め、力づける方です。聖霊は、あなたの内に、あなたの心に、今日も共にいてくださる神です。


 私たちが礼拝に集い、祈り、賛美し、御言葉を聞こうと心が動くのは、聖霊がすでに私たちの心に働いているからです。神は、遠く離れた天の彼方におられる方ではなく、私たちの弱さを知らない方でもなく、私たちの祈りを聞かれない方でもありません。私たちに静かに寄り添っておられる方です。そしてその近さを確かに感じさせるために、神は弁護者である聖霊を、私たちの心に与えてくださいました。


 山に囲まれ、色々な宗教もあり、四季の移ろいがはっきりとしたこの南信州で、私たちは日々、神の恵みと守りを受けながら生きています。けれどもまた、どんどんと悪い世界が忍び寄ってきます。


 どうか、あなたの心の内に住まわれる弁護者、聖霊の導きに、愛と平和を示す、イエス・キリストの心と言葉に、今日も耳を傾けてください。父・御子・御霊の三位一体の神様は、遠くではなく、あなたのすぐそばに、そしてあなたの内におられるのです。



昨日は土曜学校でした

常連さん、久しぶりさん、初参加のお友達

合わせて18人がわいわいと集まりました

こんなご時世なので、平和について考えてもらいたくて

小川未明の「のばら」の紙芝居を選びました


工作は母の日プレゼント

お手伝いの保護者の方が2人

教会スタッフは4名

大人達のサポートを受けて

全員作品を作り上げることができました


粘土に綿棒で優しくお花紙を差し込んでいきます
爪楊枝だと勢いよく刺しすぎて穴を開けてしまうので
今回は綿棒を採用

いつものように誇らしげな顔を見てあげてください

久しぶりに来てくれたMさんを真ん中に
記念撮影


2026年5月3日日曜日

「あなたの居場所」(日曜日のお話の要約)

復活節第5主日礼拝(2026年5月2・3日)(白)

使徒言行録 7:55–60 (新) 1ペトロ2:2–10(新431)

ヨハネによる福音書 14:1–14(新)


 私達は毎日のように、何かしら「今のままでいいのだろうか」「本当にこの道で合っているのだろうか」「もっと別の道があったのではないか」と、心配事や不安に振り回されます。そんな私たちに、聖書は「唯一の道」について教えてくれます。それを上手に受け止めることができれば人生は豊かになります。


 先日のこと、平日の昼間に、近所に住むある人が教会にやってきました。私はその方のことを、心の中で「ザアカイ」さんみたいだなと思っています。と言いますのも、ご自分の背の低さに劣等感に思っているのか、どでかいBMWに乗って、教会の駐車場にぶんぶん音を響かせて駐車するのです。歩いて数分のところに家があるのに、です。


 最初は「幼稚園の子ども達が自分に挨拶をしてくれる」と、感謝の電話を幼稚園に頂きました。先日は、家の倉の整理をしていたら、1996年、つまり30年前に配られた、幼稚園と会堂の完成記念の文鎮が出てきた、と教会を訪れました。


 その方は25年前に、東京から飯田に戻ってきたそうです。彼の思い出話をまとめますと、飯田ルーテル幼稚園を卒園したが、これは親が先見の明があり、小さい時から海外に目を向けるように育ててくれた、おそらく親はここの教会の礼拝に出席していたようだが、いつのころからか行かなくなり、俺も大人になって、いいとこの大学を出て、商社マンとなり、イタリアやフランスなどの企業と貿易を行った。そこで知ったことは、日本人はなんと了見が狭いことか、ということだった。


けれども、母親が認知症になった為に、父親から強く飯田に帰るよういわれ、東京での仕事を全部やめて、介護しながら株で儲けて生きていこうと決めた。その後両親は他界したので、今は日本人の心の在り方や、飯田の歴史を深掘りしながら、これからの生き方を誰かに伝えていければと思っている。と、おっしゃいました。


それならキリスト教を信じてみませんか、と言ってみますと、その辺りは日本人の常套句で、「日本は仏教国だから」と言ってみたり、「釈迦や仏陀の伝記や本を読んでみたが、すべては弟子が作った組織運営の教えで、本心はそこにない」等、自慢げに語られました。


 「受けるより与えるが幸い」という聖句や、イエス様の招きに応じられなかった「金持ちの男」の話が私の頭の中で巡りましたが、1時間半ほど話し合った後、最後に「先生、今度はうちに来てください。車は2台止められます。」と誘われました。


 「すぐそこやん、歩いていくわ」と思いつつ、やっぱりこの人は「ザアカイ」さんタイプで、救いを求めつつも素直になれず、同じようなところをぐるぐる回っているのだな、とも感じられました。


 本日読みましたヨハネ福音書からは、弟子たちがイエス様のお言葉に大きな不安を感じて迷いが生じている様子がわかります。イエス様が「去っていく」と告げられたからです。


 一番弟子のペトロは「なぜ今ついて行けないのですか、あなたのためなら命を捨てます」とまで言いますが、私たちはこの時点でのペトロの覚悟がまだまだ甘かったことを知っています。


 そんな彼らに向かってイエス様は言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)


さらにイエス様はこう断言されます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(同14:6)ペトロの手紙では、私たちが「霊的な家」であり、イエス様を土台とした「生きた石」だと教えています。


 イエス様はご自分を「道」であるとおっしゃり、あなたが出会った人々を私のところに案内するだけでいい、と言われます。しかし道案内する人が道をよく知らなければ一緒に迷ってしまい、いつまで経っても目的地には辿り着きません。そんな自信のなさから伝道に腰がひけているならば、もう一度素直になって御言葉を学ぶ必要があるのです。


 もちろん、どれほど学んでも終わりはありませんし、自分自身の力や、身につけた学問で人を救うのではないけれど、イエス様の御言葉に正しく耳を傾け、日々学び続けることで得られるものは大きいのです。


 今の日本は、江戸時代のような世界に例を見ないような徹底した迫害もなく、戦時中のような外国文化排斥に伴うキリスト教追放の動きもありません。しかし表立って行われないからこそ恐ろしく、外部からも、内部からも見えない迫害が私たちクリスチャンを取り囲んでいます。家族、親戚、ご近所、会社、そうした人々の冷たく白けた目と向き合うことの悲しさ恐ろしさを感じたことのない方はおられないでしょう。


 しかし、その中にも必ず、先ほどの「ご近所のザアカイさん」のような、救いを求めてうろうろしている方はおられるのです。


 使徒言行録では、ステファノが石打ちの刑で殺される場面が描かれています。しかし、彼は死の恐怖の中でも、天を見上げ、イエス様が神の右に立っておられるのを見て、平安を保ちました。彼を支えたのは、イエス様が唯一の命の道であるという確信でした。


 私たちの伝道も、厳しい状況があるかもしれません。しかし、主が共におられ、主こそが「道」であることを信頼するなら、私たちには必ず平安が与えられます。


 どんな時も「あなたは愛されている」「神様に大切にされている」と伝えるには、あなたが本気で思っていなくてはなりません。教会だけのクリスチャンではなく、生活のすべてでキリスト者であることを誇りとし、イエス様にある「唯一の道」へ案内する伝道の働きを、いつまでも私たちが担えることを喜びといたしましょう。




昨年苗で何株か購入したすずらん
牧師館の庭で一株だけ花が咲きました
何年か経って増えたら
教会の植え込みに移植しようかと思っています



さて、みなさん連休はいかがお過ごしですか?

朝比奈牧師は昨日の土曜日、ピンチヒッターで

夫妻で甲府教会の礼拝に行ってきました

 妻は礼拝に出席するだけで何の役割もありませんが

 甲府のみなさんとお会いしたい、と

 母をデイケアにお願いしてついてきました


甲府の礼拝はこの春から土曜の午前11時になったので

朝8時に飯田を出て、ひどい渋滞に引っかかることもなく

夕方には戻ってきました

金曜日は土砂降りの雨と雷のひどいお天気でしたが

土曜日はスッキリ晴れて

富士山もはっきり見えました


なぜ日本人は富士山を見ると

嬉しくなるのでしょう

(日本人に限らない?)

双葉サービスエリアで休憩した時

また何枚も写真を撮ってしまいました


甲府教会の方によると

平地で雨が降っている時は富士山頂は雪

最近の暖かさで溶けていた雪が

再び降ったのでと良い眺めだったでしょう?

とのことでした

なるほどです!



双葉サービスエリアから撮影した富士山


連休が終われば土曜学校の
お楽しみが待ってますよ
ぜひおいでください

2026年4月26日日曜日

「良き羊飼い」(日曜日のお話の要約)

復活節第4主日礼拝(2026年4月26日)(白)

使徒言行録 2:42–47 (新217) 1ペトロ2:19–25(新431)

詩編23編(新854)ヨハネによる福音書 10:1–10(新186)


今日のお話のタイトルは「良き羊飼い」といたしました。福音書でイエス様は、ご自身を「羊の門」であり、羊を導く「羊飼い」と語られます。この箇所と旧約聖書の詩編23編を少し比べてみましょう。


 詩編23編には「あなたの鞭、あなたの杖が、それが私を力づける」と記されています。杖も鞭も武器になりますが、それは言うことを聞かない羊に体罰を加えるためではなく、外敵から羊を保護するために用いられます。ですから羊にとって「鞭と杖」が見えることは、羊飼いがそばにいて自分を外敵から守り、迷わないよう導いてくれる証拠です。


 しかしイエスは、杖や鞭すら用いず、自分の声で羊を導き、必ず安全な場所に連れていく、そのような「良き羊飼い」です。何より羊は羊飼いの声を聞き分け、その声に絶対的な信頼を持って従って歩きます。


 イエス様の「羊はその声を知っている」と言う御言葉は、私たちに深い慰めを与えます。私たちがどれほど弱く、迷いやすくても、イエス様は、私たちを知り、呼び、導く声を持っておられるということです。


 長年教会に通っていると、礼拝も聖書も、どこか「知っているつもり」「わかっているつもり」になってしまうことがあります。詩編23編の解釈も、ヨハネによる福音書の10章の「羊の囲い」についても、礼拝説教の中で何度も聞いてきたはずです。御言葉の中にイエス様の呼びかけや聖霊の導きがあることはわかっていても、右から左へ抜けてしまって集中ができなかったり、全く心が動かない時があるのではないでしょうか。


 そんな時は「イエスが語っておられない」のではなく、「自分の中にその声を聞こうとしない何かがある」と気づくと良いのです。


 残念ながら、人は自分の感情に訴えかける声に耳を傾けようとします。耳ざわりの良い声や、自分を甘やかしてくれる声。心のどこかで、その声に委ねてしまってはいけないと思っても、そちらに惹かれてしまいます。


なぜなら、私たちは、日々の生活の中で、あまりにも多くの思い煩いを持っていて、自分を受け入れ、手軽な解決方法や慰めてくれる何かを求めているからです。そして間違った「入口」を選んでとんでもない場所に入り込み、身動きが取れなくなることもあります。


しかしイエス様は「私は羊の門である」と言われました。門とは、出入り口です。羊は門を通って外へ出て、草を食べ、また門を通って囲いに戻りそこで休息します。つまりイエス様は、「私たちの生活の入口であり、出口であり、守りであり、導きである」ということです。


 「私を通って来る者は救われる」イエス様を通して歩むとき、私たちは迷わず、命へと導かれます。羊飼いは私たちの弱さを知りぬいておられますから、わたしたちを泥沼から導き出す方法も導く声も持っておられます。同じ言葉でも、今日の私に必要な響き方で語られるのです。


イエス様はさらに言われました。「私は、羊が命を得、豊かに得るために来た」。

ここでいう「豊かさ」は、成功、財産、順調な人生を意味しません。人々は宗教や信仰に、そうした結果を求めがちですが、キリスト教信仰は、目先の問題が解決すれば良い、と言うようなお手軽な救いは教えていません。「どんな状況でも、神に守られているという深い安心」、「失敗や弱さの中でも、神様に愛されているという確信」そして、世の中の人から「それでは損をするだろう」と言う批判を押し返して進んでいく。これこそが、イエス様が与える豊かさです。


 詩編23編には「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない」と記されています。それはもちろん羊飼いが共にいるからです。


 また、使徒言行録2章43節には「イエス様を羊飼いとし、羊飼いの声に従う群れ」その初代教会の姿が描かれています。彼らは「使徒の教えに熱心に聞き」「交わりを大切にし」「パンを裂き」「祈りに励んでいました」。これは羊飼いの声に従う群れの姿です。彼らは完璧ではありませんでしたが、「主の声に耳を傾け、互いに支え合うことで、神の命が満ちていった」のです。そのために「キリストは、あなたがたのために苦しみを受けられた」と1ペトロ2章に記されています。


 良き羊飼いは、迷った羊を探し、傷ついた羊を抱き上げ、弱った羊を休ませ、命をかけて守る。十字架のイエス様は、まさにその姿です。私たちがどれほど弱くても、どれほど迷っても、どれほど心が冷えてしまっても、イエス様は見捨てません。


 長年教会にいる私たちも、同じように、どんな時も招かれています。「知っているつもり」をやめて、もう一度謙虚に「主の声に耳を澄ませる」その姿勢が求められています。


 今日、私たちが聞くべき「良き羊飼いの声」とは、「あなたは私のもの。私はあなたを知っている。恐れなくてよい」という御声です。この声は、不安の中にいる人には慰めとなり、疲れている人には休息となり、迷っている人には道しるべとなり、長年教会にいる人には、新しい感動となります。


 イエス様は今日も、私たち一人ひとりの名を呼び、「私について来なさい」と語りかけてくださるのです。


どうか今日、主の声があなたの心に新しい響きをもたらし、豊かな命へと導きますように。私たちは今一度、「イエス様の声に耳を澄ませる者として歩みたい」と思います。イエス様以外の、別の声に振り回されていないか、正しく思える何かに気を取られ、主の声を聞く時間をないがしろにしていないか、羊としての自分の弱さを知りながら、信仰生活の歩みをご一緒に豊かで確かなものとして参りましょう。


5月の土曜学校は9日
母の日の前日なので
「お花紙」を使ってプレゼントを作る予定です
いつも悩むのは子どもたちにとって
簡単なのか難しいのか
今ひとつわからないところです
もし時間が余ったら紙コップに
メッセージを書いてもらおうかと
考えています