2026年3月16日月曜日

「目を開くキリスト」(日曜日のお話の要約)

四旬節第4主日礼拝(2026年3月15日)(緑)

詩編23(旧854)

エフェソの信徒への手紙5章8―14節(新357)

ヨハネによる福音書 9章1―41節(新184)


 私は小学校高学年から中学校へと成長期したのはもう半世紀も前のことです。母親はクリスチャンで一緒に教会に通いましたが、その一方で競争社会に生き抜く為という名目でたくさんの習い事も与えられ、日曜は教会、平日は学校と習い事、という忙しい生活を送りました。


 そんな生活を続けていれば自然と生活も荒れるものです。校内暴力という荒んだ言葉も生まれていた頃で、親しい友達達は、けんかや盗みに手を出しました。喧嘩に勝つためにとか、ばれずに万引をするためになどとと、作戦や計画を立てさせられることもしょっちゅうでした。塾や習い事は適当にサボり、たまり場に集まっては粋がっていました。


 が、やがて1人が盗みで捕まると芋づる式にずるずると捕まってしまい、私もその仲間ということで補導されてしまいました。「闇」から「闇」の世界です。


 もし、みなさんが50年前にタイムスリップをしてその頃の私を見たなら、両親の教育方針やその子の資質など、評論家のようにあれやこれやいうかもしれません。小さい頃から教会で過ごしていたのに、あれは教会の恥だなと思うかも知れません。実際、当時通っていた大阪教会でもそれなりに白い目で見る人もいました。


 しかし感謝なことに、その時の牧師夫妻をはじめとして、私の更生に手を貸してくれる方も何人もいて、私の中でイエス様を思う信仰も成長し、変わっていくことができました。


 私たちはいつも無意識に自分や他人に「レッテル」を貼っています。イエス様に忠実に生きるために犠牲を払うよりも、「あの人みたいな能力はないから」「私が努力しても無駄だから」などなど自分に言い訳をし、いつの間にか「どうせ私は大して能力のないクリスチャンだから」とレッテルを貼ってしまいます。厄介なことに一度レッテルを貼ってしまうとそこからなかなか自由になることができません。そうやって自分の心の目を曇らせ、出口のない暗闇を作ってしまいます。



 本日の聖書の福音書の場面を見てみましょう。生まれつき目の見えない人を前に、イエス様の弟子たちは「この人が盲人なのは誰の責任ですか?本人か両親が罪を犯したからですか?」と犯人探しを始めます。これは現代に例えば、補導された子を見て「親の育て方が悪いから」とか「あの子の根性が曲がっているから」と決めつける世の中の視線と同じです。


 イエス様は、弟子たちの無責任で思いやりのない意見を取り合うことはありませんでした。ただ、弟子たちに向かってきっぱりと「誰の罪でもない。神の業が現れるためだ」と断言されたのです。


 過去の「原因」を探ってあれこれ責めたてるのではなく、この困難を通して「これから何が起こるか」という未来に光を当てたのです。


 弟子たちはただ好奇心で問いかけるだけで、その人と関わりを持つ気などありませんでした。しかしイエス様は全く違いました。目の見えないその人に癒しの手を差し伸べ、私はあなたの人生に責任を持つ、と神様の業を行われたのです。


 ただ、そもそも彼はイエス様に助けを求めていませんでした。どこかのラビが面白半分に自分に関わろうとしているのか、うんざりだなあ、くらいにしか思っていなかったかもしれません。律法によれば生まれつき重度の障害を持つ彼は、神様から捨てられた存在なのです。からかわれたり差別されたりすることに慣れてしまっていたのでしょう。


 そんな彼に対し、イエス様は地面に唾をし、唾で土を捏ねて泥を作ると、その人の見えない目に塗ったのです。唾でこねた泥を塗られて喜ぶ人はまずいないでしょう。もし彼の目が見えていたら、恥ずかしく、不快に感じたかも知れません。しかもそこは彼の人生を絶望に陥れた、最も悲しい部分だったことでしょう。


 しかし、これはイエス様が彼の痛みに直接触れた瞬間でした。イエス様は、私たちが「一番隠したいドロドロした部分、闇に囚われてしまった過去や人間としての弱さ」を汚いとは言わず、そこに手を触れて、変えてくださる方なのです。


 イエス様は泥を塗った後「シロアムの池で洗いなさい」と命令されます。見えない目に泥を塗られた彼の姿は傍目には惨めで滑稽な有様だったでしょう。イエス様が何をしようとしているのか十分に理解できていないため、彼の心はまだまだ闇の中です。しかしイエス様のご命令は一筋の光となって彼の心に差し込んでいました。その光が彼を突き動かしたのです。


 イエス様が行くように、と命じられた「シロアムの池」のシロアムとは、「遣わされた者」という意味です。彼は盲人ではありましたが、シロアムの池の場所くらいは知っていました。しかし、地下水路の端にあるその池に行くには階段を降りなければならず、手探りで歩くのは大変だったでしょう。しかし、自分に関わってくださった方の言葉には威厳と思いやりが溢れていた、きっと何かが変わるはずだ。彼がイエス様を信じて一歩踏み出したとき、奇跡が起こりました。池で泥を洗い流した時、彼の目は見えるようになったのです。


 彼の取った行動は、私たちが教会に集うことと似ています。心に満たされないものを抱え、大した期待もせず、ただ習慣として教会に足を運ぶとしたら、そこになんの意味があるのでしょうか。何も起こらないと嘆くだけの人でしょうか。しかし、ここでイエス様を信じて、本当に歩みだすとき、今の状況がどうであれ、その重い腰を上げた先に、新しい視界が待っているのです。


 この時、目が見えるようになった彼は、その後、イエス様に反発するファリサイ人達から批判され問い詰められますが「あの人が私を治してくれた」という事実だけを握りしめて堂々と生きていきました。


 もしかしたら、礼拝に来られる方の中にも心の中で神様に失望している方がおられるかもしれません。祈ったけれど何も良いことが起きなかった、そんな思いを抱えたままで、クリスチャンになってからも、その過去や失敗に痛みや辛さを覚えているかも知れません。


 私たちは隠したい過去や触れられたくない傷を、神様に差し出すのは勇気がいります。けれども、私たちが信じる神、イエス様、そしてイエス様が示してくださった神様は、あなたが抱えている闇に光を与え、自分自身や世間から貼られたレッテルなど剥がしてくださいます。


 あなたの過去は、これからの迷える人々の闇を抱えている人々の希望になる。

 そう語りかけるイエス・キリストの光の中で、与えられた使命を跳ね返すのではなく、受け入れて、遣わされたものと自覚し、ともに、新しい景色を見ていこうではありませんか。



3月14日は土曜学校でした

長野市に引っ越したお友達が久しぶりに参加するというので

親しかった子ども達が誘い合い

いつもより少し男子が多く

トータル17名が賑やかに集まってくれました

…が、一方こちらはスタッフ不足

うれしい悲鳴を通り越して

礼拝から工作終了まで

かなりハードな2時間でした


ありがたかったのはお子さんと一緒に

参加してくださった保護者の方が

積極的にお手伝いくださったこと

そうでなければ乗り切れなかったかもしれません

本当に感謝です


恒例の「作品と一緒に」の写真

何名か載せておきます

見てやってください


Kくん、Mくん遠くから来てくれてありがとう
また来てね


黙々と細部まで丁寧に作ってくれたNちゃん
選んだ色も爽やかで綺麗
今回の作品大賞はあなたです!

2026年3月8日日曜日

「サマリアの女」(日曜日のお話の要約)

四旬節第3主日礼拝(2026年3月8日(日)(紫))
出エジプト17章1-7(旧) ローマ5章1-11節(新)
ヨハネによる福音書4章5―42節(新)

 本日は「サマリアの女」のお話しです。サマリア人というと、ユダヤ人と対立する人々であることは皆さんご存知だと思いますが、サマリア人とユダヤ人は元を辿れば同じ民族で、過去には共にモーセの十戒や律法を信じていました。
 
 サマリア一帯はかつて北イスラエル王国と呼ばれており、南側は南ユダ王国と呼ばれエルサレム神殿を中心としていました。しかし北イスラエル王国は紀元前8世紀にアッシリアとの戦争に敗れ滅びてしまいます。その後、サマリア地域に他の民族が移り住んで混血が進むと、宗教も変化し、十戒の最後に「ゲリジム山に祭壇を築くべし」という独自の項目が追加されたという記録もあるそうです。

  南ユダ王国の方も6世紀にバビロニアとの戦争に敗れますが、サマリアの人々とは異なり、血統的純潔と聖書の教えの継承に強くこだわりました。やがて復興を果たすと、先祖から受け継いだ律法とエルサレム神殿を信仰の中心とした宗教国家を作り上げます。こうして二つの国は似て非なるものとなり、礼拝する場所や聖書の解釈で激しく対立するようになってしまったのです。
 
 そのサマリアで、一人の女性が、まっ昼間に、一人で水汲みをしています。通常、水汲みは涼しい朝夕に共同で行う社交の場です。この描写だけで、彼女の生き方が後ろ指を指されるようなものであり、人目を避けていたとわかります。 

 ここで著者のヨハネは、彼女の「孤独な水汲み」を、人間の心の奥にある「満たされない思い」の象徴として描いています。 

 一方イエス様はなぜこの時サマリアに来られた理由について聖書にこう書いてあります。「イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を作り、洗礼を授けておられるということがファリサイ派の人々の耳に入った」揉め事を避けようとしたイエス様は、ユダヤ地方を去りガリラヤに向かいます。その通り道がサマリア地方でした。

  ここで不思議なことが起きます。イエス様が真昼間に水を汲む、一癖ありそうな女性に話かけるのです。ユダヤ教のラビと不道徳なサマリアの女、この世的には全く相いれない者同士です。しかしこの女性の抱えている孤独や闇を感じ取ったイエス様はあえて話しかけるのです。会話は初めのうち全くかみ合わないように思えましたが、イエス様は彼女の心の闇に遠慮なく切り込んでいかれます。

  イエス様は、洗礼をめぐって揉め事が起きたことに痛みを感じておられました。水によって洗礼を受けても、多くの人がそこ止まりで、形だけの悔い改め、形だけの信仰になってしまったことを知っておられました。だから不毛な水汲みを続ける女性に向かって、「この水を飲むものは、誰でもまた渇く」と言われたのです。そしてその後すぐに、「わたしが与える水、イエス様が与える水を本気で飲む者は決して渇かない」と約束されたのです。 

 この「渇くことのない水」とは何でしょう。日本でも神社や仏閣を訪ねてみますと、湧き水があって、その水を使って手等を洗い清めて下さいと注意書きがあります。水が湧いているということは、戦さや災害が起きても飲料水が得られ、生活が出来るということでもあります。
 
 イスラエル神殿も同じことが言えて、旧約聖書のエゼキエル書47章には「命の水」と題した預言があり、この神殿から湧いている水によって、生き物がいきいきと生息し、植物は生い茂る、まさに命の水である、と記されています。 

 しかしイエス様は、神殿という固定された場所ではなく、ご自分こそが命の水だ、とサマリアの女性に示されたのです。 

 彼女は今まで心の渇きや孤独を癒そうとして次々と5人の夫を得ました。この人なら私を尊重し、守り、大切にしてくれる。しかしその思いは次々と裏切られ、今は夫ではない男性と共に過ごしていることをイエス様に指摘されます。しかし不思議なことに責められているというより、「心の重荷を打ち明けて神様に委ねるように」と促されているようでした。彼女は自分が心の底では何を求めているかに気づきます。それをイエス様に委ねたとき、彼女は孤独から解放されたのです。

  私たちは神様の前では清く正しく振る舞う必要があると思いがちです。しかし上辺だけの正しさなど神の子イエス様の前では通用しません。イエス様がサマリアの女性のところに来られ、話しかけられたように、神様の方が先に救いを必要としている人に近づき、愛して、その孤独を癒そうとしてくださるのです。

  その後、このイエス様と出会ったサマリアの女に大きな変化が起こります。彼女は水がめをおいて新しい人生へと歩み出したのです。水がめを置くということは、飢え渇きの象徴であった「水がめ」を手放したということです。汲んでも汲んでも空になる水瓶にしがみつくのではなく、イエス様こそ自分の魂が求めていた、乾きを癒してくださる主である、と確信したのです。 

 彼女はイエス様を伝えるものになりました。避けていた街の人々のところへ出向き、自分の過去をあえて晒し、イエス様の偉大さを証したのです。この私でもイエス様によって救われたのだとその喜びを示す時、人々の心に風が吹くのです。

  劣等感や孤独から逃れようと誰かをおとしめたり虚勢を張ったりしても一時的な満足に過ぎず、心の闇は深くなるばかりです。そんな虚しいことはやめて、弱さを分かち合ってくださるイエス様の前に素直になり、自分を変えてくださったイエス様の存在を伝えることで、サマリアという町でさえ命の水を取り戻したように、誰であっても心の闇は清められるのです。
 
 私たちが置かれている社会は、数の論理やお金持ちの論理で動いています。お金持ちになれば、やりたいことができて、満足する生き方ができるという考えが当たり前になっています。しかし、本当はそれだけで人は決して満たされることはありません。

 イエス様が、あなたに与えてくださる「生ける水」を受け入れるとき、あなたの人生が劇的に変わり、あなたがこだわっていた一時しのぎの満足感から解放され、イエス様に繋がっていることに喜びを覚え、人生が回復するのです。そうすることで神様に感謝する日々が、いつまでも続くのです。


3月の土曜学校は14日に行います
100円ショップを覗きますと
2月中から可愛らしいイースターグッズが並んでいます
思わず手に取りそうになりますが、でもちょっと待って
イースターは単なる春のお祭りではなく
イエス様が十字架にかかって復活された日です
そして今はなぜイエス様が十字架にかかる必要があったのか
それは私たちの罪の身代わりだよね、と
思い巡らす「受難節」です

ということで土曜学校でもそういったお話をする予定です
工作は毎年イースターリース
心を込めて復活祭の準備をしましょう、という趣旨なのです

ふわふわの毛糸を使って作ると
優しい質感になります
サンプルを作ってみて
ちょっと可愛らし過ぎたかなあと反省中
ハードなものやワイルドなものが好きなお子さんも
たくさんいますから…(^^;)
でも、やってみれば楽しいと思うので
ぜひ作りにきてください!

2026年3月1日日曜日

「ニコデモとイエス」(日曜日のお話の要約)

四旬節第2主日礼拝(2026年3月1日(日)(紫))

創世記 12章1-4a(旧15) ローマ4章1-5a 3-17節(新278)

ヨハネによる福音書 3章1―17節(新167)


 本日の福音書には、ニコデモというファリサイ人がイエス様を訪れた時の対話が記されています。ここでイエス様が語られた御言葉「神はその独り子を賜ったほどに世を愛された。それは一人子を信じるものが永遠の命を得る為である。」は「小聖書」と呼ばれ、聖書全体に記された神様の愛を端的に表しています。


 ヨハネ福音書が書かれたのは1世紀の終わり頃で、キリスト教はすでにユダヤ教から独立して一つの宗教へと発展し、地中海沿岸を中心に、ローマ帝国の主要都市へと広がっていました。そこに住む人々の中にはギリシャ哲学を学ぶ知識層も多かったようです。しかしその知識が仇となって、せっかくキリスト教と出会っても素直に受け入れられない人もいました。ヨハネはそういった人々と哲学的な論争を戦わせながら宣教していく必要がありました。ですから福音書も哲学的表現が多くなったと思われます。


 ギリシャ哲学にはプラトンの説いた「霊魂不滅」という思想があり、魂は肉体の死後、肉体を離れて永遠に生き続けると考えました。もしそうなら、神様の愛や招きがなくても、人間の魂は不滅ということになります。ですから、この思想に影響を受けると、イエス様が十字架にかかられたことへの感謝や、神様が罪人さえ天国に招いて下さることの尊さなどが全く見えなくなってしまうのです。ヨハネが福音書を書いた時代、この思想がキリスト教の周りにあったことを前提に考えると、ヨハネとニコデモの会話から少し違う光景が見えてきます。


 ユダヤ教に縛られてイエス様の教えを素直に理解することができないニコデモと、ギリシア哲学に囚われてイエス様の教えを受け止めようとしない人々とを重ね、哲学的な言い回しを用いてこの場面を描いた、とも考えられるのです。


 ニコデモは長年、イスラエルの教師として、また議員として、人々を教え、導いてきました。熱心に律法を学び、律法に忠実に生活をしてきたと自負していました。しかし自分は人々を正しく神様の元に導くことができたのだろうか、そう思うと不安と焦りが生じ、いてもたってもいられなくなるのです。


 そんな時ニコデモは、イエス様が神殿から商人を追い出し「私の父の家を商売の家としてはならない」と宣言された姿を見ました。また、貧しきものや病の者に癒しをあたえるしるしを目の当りにしました。そして「神様に従うとはこういうことなのだ」と確信し、残り少ない自分の人生を、神様の御用の為に正しく用いたい、今の自分でも何かできるだろうか、とイエス様から教えを乞う為に、夜の闇に紛れてイエス様を訪ねたのです。ただ、ニコデモは、イエス様から難しいことを要求されたなら、自分のこれまでの経験や知識が役に立つ、と考えていたようです。


 しかしイエス様は、ニコデモの心を見抜いておられました。この世におけるさまざまな知識や経験が、神の国や天の国を本当に知るために邪魔になることをイエス様は知っておられたのです。だからこそ、今まで積み重ねたものを捨て、幼子のようなまっさらな心になってもう一度やり直しなさい、とおっしゃったのです。


 ところがニコデモは「新たに生まれなければならない」というイエス様の言葉に反発します。今までの自分を否定されたと思ったのでしょう。「もう一度母の胎内に入って生まれるなんてできるわけないじゃないですか」と反論したのです。


 イエス様がニコデモに伝えたかったことは、聖霊なる神であれば、あなたを生きながら作り替えて下さる、あなたが老人であろうと若者であろうと関係ない。私の言葉と神の力を信じなさい。そう仰りたかったのです。


 では、神様を信じる上で、生まれなおさなければならない、言い換えれば、捨て去るべきニコデモの欠点とは、なんだったのでしょう。


 ニコデモは、イスラエルの優れた教師でしたから、優秀な人を伸ばすことに喜びを感じていたことでしょう。しかしキリスト教の宣教は、将来性のありそうな人ばかりを教会に歓迎するようなことはしません。イエス様の12弟子たちもインテリばかりではなく、漁師や徴税人と言った人々もいました。学があるなしではなく、育ちがいいか悪いかでもなく、ただ、風が気ままに吹くように、神様はイエス様のもとに人々を吹き集められたのです。


 「風は思いのままに吹く」という御言葉には、人間の側で勝手に「この人は神様を信じるだろう」「この人は神様のお眼鏡に敵わないだろう」「この人は立派な信仰者になるに違いない」などと決められない。それは、神様だけが知っておられる、とはっきり言われたのです。


 時は流れて、イエス様が十字架に掛かった後、アリマタヤのヨセフという人物がローマ側に願い出て、イエス様の遺体を引き取り、墓に葬ったことが4つの福音書全てに記されています。ただヨハネ福音書だけは、ニコデモもアリマタヤのヨセフと共にイエス様を葬った、と記録されています。12弟子さえ逃げ去ってしまった後のことです。二人ともイエス様が復活するとは信じていなかったでしょう。ただイエス様に敬意を払うために葬りの儀式を行ったのです。


 3日後にその墓でイエス様が復活したことを知った時、ニコデモの思いは大きく変化したはずです。伝説ですが、ニコデモはその後、教会形成の為に尽力し、いくつものキリスト教会を作ったと言われています。キリスト教会の古い記録の中にはニコデモという名前が何度も出てくるそうです。それはニコデモがイエス様を信じ「新しく生まれた」記録のような気がしてなりません。


 今の時代、私たちを取り巻くのはギリシア哲学ではなく、自分に都合の良い生き方を提唱する人々です。この思想を持つ人々はキリスト教の考えに関心を持とうとしません。今の時代においては、イエス様を信じ、人に優劣をつけず、愛を持って信仰の成長を共に喜ぶことは困難だと言えます。しかしイエス様を信じる私たち、イエス様に集められた私たちは、過去に縛られず、キリストと同じように苦難を覚え、小さなことから成し遂げてゆく。そこに救いの道が今でも変わらずあるのです。


ミケランジェロの未完成の彫刻『フィレンツェのピエタ』
 十字架から降ろされたイエス・キリストのお体を
母マリア、マグダラのマリア、ニコデモが支えています
ニコデモの顔はミケランジェロ自身の
自画像と言われていますが
1555年頃に制作を放棄したそうです

2026年2月22日日曜日

「荒野の誘惑」(日曜日のお話の要約)

四旬節第1主日礼拝(2026年2月22日(日)(紫))

創世記2章15-17、3:1-7 ロマ書5章12-19節

マタイによる福音書 4章1―11節(新)


 旧約聖書の「ヨブ記」では、サタンと呼ばれる存在が、悪意に満ちた人格として登場します。サタンとは、旧約聖書の元となったヘブライ語で「敵対者」「告発者」「妨げる者」を意味し、聖書では悪魔とほぼ同じか、悪魔のかしらという意味で使われます。ヨブ記は、サタンが神様と駆け引きをしながらヨブを不幸のどん底に叩き込んでいきます。


 神様はサタンに向かってヨブの信仰をお褒めになり、どんな不幸にあっても彼は信仰を失わない、と断言されます。するとサタンは「それならば試して見ましょう」とばかり、ヨブから財産も家族も健康も奪い取ってしまいます。


 そんなやりとりなど全く知らないヨブは「なんできちんと信仰生活を送っていた自分にこんな不幸が起こるのか」と苦しむのです。その呟きを見舞いに来た友人達に逆に責められ「お前になんか問題があったから神様の怒りを買ったのだ」と強く咎められます。ヨブはさらに怒り、絶望し、信仰を失ってもおかしくないギリギリの状態まで追い詰められるのです。


 ヨブ記は「何も悪い事をしていない人がなぜ苦しまねばならないのか」というテーマで書かれた物語です。創作ですから、苦しみ叫ぶヨブに神様が答えられ、全ての苦しみは贖われて終わります。


 しかし、現実社会において財産も家族も健康も友人も失うような経験はそれほど珍しいことではありません。こうなった時、物語のように神様が現れるわけではなく、泣いても喚いても助けの手は差し伸べられず、ついには神様への信仰は失われ、心は闇に落ちていってしまう。それが普通の人の反応であるような気がします。


 しかし本日の福音書ではイエス様はそうではない、とはっきり記しています。イエス様は洗礼を受けられてすぐに、聖霊によって荒野に導かれ、40日40夜、断食なさいます。神の子といえども、人間と同じ肉体を持っておられますから、激しい空腹を覚えられて、生きているのか死んでいるのか分からないほどの限界に追い詰められたでしょう。その時、悪魔が誘惑をしにやって来るのです。


 マタイ福音書は、ユダヤ人であるマタイが記録していますから、旧約聖書がベースとなっています。そして当然ヨブ記をのエッセンスも含まれています。つまり、人間は極限まで追い詰められれば、神様を恨んで叫び、信仰を失う、という考え方です。


 ここで重要なのは「40日40夜、荒野にいた」という表記です。これはユダヤ人であれば誰もが「出エジプト記」を思い出します。モーセがユダヤの民を導いてエジプトを脱出した後、ユダヤの民は、腹が減った、水がない、などなど、何か困難が起きるたびにモーセに不満をぶつけ、自分の信仰をぐらつかせるのです。


 その結果として、40年間荒野を旅する間に不信仰な民はほぼ死に絶え、神様から与えられた掟に従って生きる新世代だけが、約束の地に辿り着くのです。これ以降、ユダヤ人は、聖書に登場する40という数字は、信仰を試される期間を象徴的に表していると受け止めるようになりました。


 福音書の記述に戻りますが、イエス様が40日40夜、飲まず食わずで荒野におられ、なおかつ神様への信仰を全く失うことがなかった、というのは驚異的なことであり、イエス様が完璧な信仰を持つ神の子として、私たちの信仰のお手本として、私たちを導いていかれるのにふさわしい方である、という宣言そのものなのです。


 私たちは、自分の望みを叶えてくれる神様が良い神様、という感覚に慣れ過ぎています。私たちは実際にはヨブ記の主人公ほどの敬虔さもないにも関わらず、「神様を信じているのになんで悪いことが起きるのか」と呟いき、神様への信頼を失い、信仰の成長が止まってしまうのです。表面的にはクリスチャンでも、神を第一にすることをやめ、自分の望みを叶えることが生活の中心となっているのです。それが今、世界全体におけるキリスト教の現状であり、ルーテル教会も、そういった状況に陥っているといえます。


 伝道しない教会、宣教することを使命としない教会、自分達の居心地の良さだけを重視し、救いを求めている人を誘うことをしない教会。


 私のような罪深い人間が伝道するなんておこがましいし、神様の思いの為に生き、働くなんて絶対無理、そのようなことは、医療関係や社会福祉や社会事業に任せれば良い、と考えてしまうのです。


 しかし、ふと周りを見回しますと、医療も社会福祉もパンク状態で、地方の病院は雨漏りし、改修工事にお金を裂くこともできず、赤字ばかりが増えて、次々倒産しています。


 働き手も足りず、人の救いの為に行きたいという理想はあっても、自分の生活が立ち行かず転職してしまいます。そうなると誰がこの世界、自分もその一員である地域社会を、どうやって救うのでしょうか。


 イエス様は、かつてローマの圧政の中に生まれ、同胞から裏切られ見捨てられ十字架の上で死なれました。しかし今も絶望的な社会の只中で、神様の思いを伝えるために生きておられます。


 伝道は言葉だけでなく、イエス様に倣う生き方をすることが重要です。苦しみの中で忍耐し、神様が共にいることを信じ続け、キリスト教会に残り続け、周囲の人々に声をかけ続けることは簡単ではありませんが、イエス様が全ての責任を取ってくださいます。私たちの内にも外にも、悪魔がいようとも、私たちが主の業を行っていくことに、なんの恐れもないのです。


 この場所でキリスト教信仰に歩んでいく喜びを感じながら、やがては共に主を信じ、共に教会を支えるい民がここに形成されることを皆さんとともに信じ、諦めることなく「荒野にある」苦難と忍耐の時代を信仰をもって歩み続けましょう。



昨日は土曜学校でした

礼拝では「聖書は旧約と新訳に分かれている」と理解してもらうため

クリスマスでお馴染みの「神様のお約束」をみんなで歌いました

イエス様がお生まれになるよ、という約束が旧約聖書

イエス様が生まれて私たちと一緒に歩いてくださるというお約束が新訳

みんな覚えてくれたでしょうか

工作タイムは「ひょうたんこびと」のランプを作りました

知人から献品していただいた瓢箪の中から、薄いものを選んで

画鋲と千枚通しを使って穴を開けました

安全のため軍手をはめて作業してもらいましたが

幸い誰一人怪我もなく終わりました

いつものように写真でご紹介します


これこれ、小人は戦いごっこの武器ではありませんよ(^^;)

こちらはお人形さんごっこかな?


いつも来てくれるMさん
今日も素敵なデザインでした