2026年5月3日日曜日

「あなたの居場所」(日曜日のお話の要約)

復活節第5主日礼拝(2026年5月2・3日)(白)

使徒言行録 7:55–60 (新) 1ペトロ2:2–10(新431)

ヨハネによる福音書 14:1–14(新)


 私達は毎日のように、何かしら「今のままでいいのだろうか」「本当にこの道で合っているのだろうか」「もっと別の道があったのではないか」と、心配事や不安に振り回されます。そんな私たちに、聖書は「唯一の道」について教えてくれます。それを上手に受け止めることができれば人生は豊かになります。


 先日のこと、平日の昼間に、近所に住むある人が教会にやってきました。私はその方のことを、心の中で「ザアカイ」さんみたいだなと思っています。と言いますのも、ご自分の背の低さに劣等感に思っているのか、どでかいBMWに乗って、教会の駐車場にぶんぶん音を響かせて駐車するのです。歩いて数分のところに家があるのに、です。


 最初は「幼稚園の子ども達が自分に挨拶をしてくれる」と、感謝の電話を幼稚園に頂きました。先日は、家の倉の整理をしていたら、1996年、つまり30年前に配られた、幼稚園と会堂の完成記念の文鎮が出てきた、と教会を訪れました。


 その方は25年前に、東京から飯田に戻ってきたそうです。彼の思い出話をまとめますと、飯田ルーテル幼稚園を卒園したが、これは親が先見の明があり、小さい時から海外に目を向けるように育ててくれた、おそらく親はここの教会の礼拝に出席していたようだが、いつのころからか行かなくなり、俺も大人になって、いいとこの大学を出て、商社マンとなり、イタリアやフランスなどの企業と貿易を行った。そこで知ったことは、日本人はなんと了見が狭いことか、ということだった。


けれども、母親が認知症になった為に、父親から強く飯田に帰るよういわれ、東京での仕事を全部やめて、介護しながら株で儲けて生きていこうと決めた。その後両親は他界したので、今は日本人の心の在り方や、飯田の歴史を深掘りしながら、これからの生き方を誰かに伝えていければと思っている。と、おっしゃいました。


それならキリスト教を信じてみませんか、と言ってみますと、その辺りは日本人の常套句で、「日本は仏教国だから」と言ってみたり、「釈迦や仏陀の伝記や本を読んでみたが、すべては弟子が作った組織運営の教えで、本心はそこにない」等、自慢げに語られました。


 「受けるより与えるが幸い」という聖句や、イエス様の招きに応じられなかった「金持ちの男」の話が私の頭の中で巡りましたが、1時間半ほど話し合った後、最後に「先生、今度はうちに来てください。車は2台止められます。」と誘われました。


 「すぐそこやん、歩いていくわ」と思いつつ、やっぱりこの人は「ザアカイ」さんタイプで、救いを求めつつも素直になれず、同じようなところをぐるぐる回っているのだな、とも感じられました。


 本日読みましたヨハネ福音書からは、弟子たちがイエス様のお言葉に大きな不安を感じて迷いが生じている様子がわかります。イエス様が「去っていく」と告げられたからです。


 一番弟子のペトロは「なぜ今ついて行けないのですか、あなたのためなら命を捨てます」とまで言いますが、私たちはこの時点でのペトロの覚悟がまだまだ甘かったことを知っています。


 そんな彼らに向かってイエス様は言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)


さらにイエス様はこう断言されます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、誰も父のもとに行くことができない。」(同14:6)ペトロの手紙では、私たちが「霊的な家」であり、イエス様を土台とした「生きた石」だと教えています。


 イエス様はご自分を「道」であるとおっしゃり、あなたが出会った人々を私のところに案内するだけでいい、と言われます。しかし道案内する人が道をよく知らなければ一緒に迷ってしまい、いつまで経っても目的地には辿り着きません。そんな自信のなさから伝道に腰がひけているならば、もう一度素直になって御言葉を学ぶ必要があるのです。


 もちろん、どれほど学んでも終わりはありませんし、自分自身の力や、身につけた学問で人を救うのではないけれど、イエス様の御言葉に正しく耳を傾け、日々学び続けることで得られるものは大きいのです。


 今の日本は、江戸時代のような世界に例を見ないような徹底した迫害もなく、戦時中のような外国文化排斥に伴うキリスト教追放の動きもありません。しかし表立って行われないからこそ恐ろしく、外部からも、内部からも見えない迫害が私たちクリスチャンを取り囲んでいます。家族、親戚、ご近所、会社、そうした人々の冷たく白けた目と向き合うことの悲しさ恐ろしさを感じたことのない方はおられないでしょう。


 しかし、その中にも必ず、先ほどの「ご近所のザアカイさん」のような、救いを求めてうろうろしている方はおられるのです。


 使徒言行録では、ステファノが石打ちの刑で殺される場面が描かれています。しかし、彼は死の恐怖の中でも、天を見上げ、イエス様が神の右に立っておられるのを見て、平安を保ちました。彼を支えたのは、イエス様が唯一の命の道であるという確信でした。


 私たちの伝道も、厳しい状況があるかもしれません。しかし、主が共におられ、主こそが「道」であることを信頼するなら、私たちには必ず平安が与えられます。


 どんな時も「あなたは愛されている」「神様に大切にされている」と伝えるには、あなたが本気で思っていなくてはなりません。教会だけのクリスチャンではなく、生活のすべてでキリスト者であることを誇りとし、イエス様にある「唯一の道」へ案内する伝道の働きを、いつまでも私たちが担えることを喜びといたしましょう。




昨年苗で何株か購入したすずらん
牧師館の庭で一株だけ花が咲きました
何年か経って増えたら
教会の植え込みに移植しようかと思っています



さて、みなさん連休はいかがお過ごしですか?

朝比奈牧師は昨日の土曜日、ピンチヒッターで

夫妻で甲府教会の礼拝に行ってきました

 妻は礼拝に出席するだけで何の役割もありませんが

 甲府のみなさんとお会いしたい、と

 母をデイケアにお願いしてついてきました


甲府の礼拝はこの春から土曜の午前11時になったので

朝8時に飯田を出て、ひどい渋滞に引っかかることもなく

夕方には戻ってきました

金曜日は土砂降りの雨と雷のひどいお天気でしたが

土曜日はスッキリ晴れて

富士山もはっきり見えました


なぜ日本人は富士山を見ると

嬉しくなるのでしょう

(日本人に限らない?)

双葉サービスエリアで休憩した時

また何枚も写真を撮ってしまいました


甲府教会の方によると

平地で雨が降っている時は富士山頂は雪

最近の暖かさで溶けていた雪が

再び降ったのでと良い眺めだったでしょう?

とのことでした

なるほどです!



双葉サービスエリアから撮影した富士山


連休が終われば土曜学校の
お楽しみが待ってますよ
ぜひおいでください

2026年4月26日日曜日

「良き羊飼い」(日曜日のお話の要約)

復活節第4主日礼拝(2026年4月26日)(白)

使徒言行録 2:42–47 (新217) 1ペトロ2:19–25(新431)

詩編23編(新854)ヨハネによる福音書 10:1–10(新186)


今日のお話のタイトルは「良き羊飼い」といたしました。福音書でイエス様は、ご自身を「羊の門」であり、羊を導く「羊飼い」と語られます。この箇所と旧約聖書の詩編23編を少し比べてみましょう。


 詩編23編には「あなたの鞭、あなたの杖が、それが私を力づける」と記されています。杖も鞭も武器になりますが、それは言うことを聞かない羊に体罰を加えるためではなく、外敵から羊を保護するために用いられます。ですから羊にとって「鞭と杖」が見えることは、羊飼いがそばにいて自分を外敵から守り、迷わないよう導いてくれる証拠です。


 しかしイエスは、杖や鞭すら用いず、自分の声で羊を導き、必ず安全な場所に連れていく、そのような「良き羊飼い」です。何より羊は羊飼いの声を聞き分け、その声に絶対的な信頼を持って従って歩きます。


 イエス様の「羊はその声を知っている」と言う御言葉は、私たちに深い慰めを与えます。私たちがどれほど弱く、迷いやすくても、イエス様は、私たちを知り、呼び、導く声を持っておられるということです。


 長年教会に通っていると、礼拝も聖書も、どこか「知っているつもり」「わかっているつもり」になってしまうことがあります。詩編23編の解釈も、ヨハネによる福音書の10章の「羊の囲い」についても、礼拝説教の中で何度も聞いてきたはずです。御言葉の中にイエス様の呼びかけや聖霊の導きがあることはわかっていても、右から左へ抜けてしまって集中ができなかったり、全く心が動かない時があるのではないでしょうか。


 そんな時は「イエスが語っておられない」のではなく、「自分の中にその声を聞こうとしない何かがある」と気づくと良いのです。


 残念ながら、人は自分の感情に訴えかける声に耳を傾けようとします。耳ざわりの良い声や、自分を甘やかしてくれる声。心のどこかで、その声に委ねてしまってはいけないと思っても、そちらに惹かれてしまいます。


なぜなら、私たちは、日々の生活の中で、あまりにも多くの思い煩いを持っていて、自分を受け入れ、手軽な解決方法や慰めてくれる何かを求めているからです。そして間違った「入口」を選んでとんでもない場所に入り込み、身動きが取れなくなることもあります。


しかしイエス様は「私は羊の門である」と言われました。門とは、出入り口です。羊は門を通って外へ出て、草を食べ、また門を通って囲いに戻りそこで休息します。つまりイエス様は、「私たちの生活の入口であり、出口であり、守りであり、導きである」ということです。


 「私を通って来る者は救われる」イエス様を通して歩むとき、私たちは迷わず、命へと導かれます。羊飼いは私たちの弱さを知りぬいておられますから、わたしたちを泥沼から導き出す方法も導く声も持っておられます。同じ言葉でも、今日の私に必要な響き方で語られるのです。


イエス様はさらに言われました。「私は、羊が命を得、豊かに得るために来た」。

ここでいう「豊かさ」は、成功、財産、順調な人生を意味しません。人々は宗教や信仰に、そうした結果を求めがちですが、キリスト教信仰は、目先の問題が解決すれば良い、と言うようなお手軽な救いは教えていません。「どんな状況でも、神に守られているという深い安心」、「失敗や弱さの中でも、神様に愛されているという確信」そして、世の中の人から「それでは損をするだろう」と言う批判を押し返して進んでいく。これこそが、イエス様が与える豊かさです。


 詩編23編には「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない」と記されています。それはもちろん羊飼いが共にいるからです。


 また、使徒言行録2章43節には「イエス様を羊飼いとし、羊飼いの声に従う群れ」その初代教会の姿が描かれています。彼らは「使徒の教えに熱心に聞き」「交わりを大切にし」「パンを裂き」「祈りに励んでいました」。これは羊飼いの声に従う群れの姿です。彼らは完璧ではありませんでしたが、「主の声に耳を傾け、互いに支え合うことで、神の命が満ちていった」のです。そのために「キリストは、あなたがたのために苦しみを受けられた」と1ペトロ2章に記されています。


 良き羊飼いは、迷った羊を探し、傷ついた羊を抱き上げ、弱った羊を休ませ、命をかけて守る。十字架のイエス様は、まさにその姿です。私たちがどれほど弱くても、どれほど迷っても、どれほど心が冷えてしまっても、イエス様は見捨てません。


 長年教会にいる私たちも、同じように、どんな時も招かれています。「知っているつもり」をやめて、もう一度謙虚に「主の声に耳を澄ませる」その姿勢が求められています。


 今日、私たちが聞くべき「良き羊飼いの声」とは、「あなたは私のもの。私はあなたを知っている。恐れなくてよい」という御声です。この声は、不安の中にいる人には慰めとなり、疲れている人には休息となり、迷っている人には道しるべとなり、長年教会にいる人には、新しい感動となります。


 イエス様は今日も、私たち一人ひとりの名を呼び、「私について来なさい」と語りかけてくださるのです。


どうか今日、主の声があなたの心に新しい響きをもたらし、豊かな命へと導きますように。私たちは今一度、「イエス様の声に耳を澄ませる者として歩みたい」と思います。イエス様以外の、別の声に振り回されていないか、正しく思える何かに気を取られ、主の声を聞く時間をないがしろにしていないか、羊としての自分の弱さを知りながら、信仰生活の歩みをご一緒に豊かで確かなものとして参りましょう。


5月の土曜学校は9日
母の日の前日なので
「お花紙」を使ってプレゼントを作る予定です
いつも悩むのは子どもたちにとって
簡単なのか難しいのか
今ひとつわからないところです
もし時間が余ったら紙コップに
メッセージを書いてもらおうかと
考えています

2026年4月19日日曜日

「エマオのキリスト」(日曜日のお話の要約)

復活節第3主日礼拝(2026年4月19日)(白)

使徒言行録 2:14a&22~32(新215) 1ペトロ 1: 3~ 9(新428)

ルカによる福音書 24:13~35(新)


 私たちの幼稚園と教会は、10年前から国の基準に合わせた耐震工事事業を始めました。私は7年前に名古屋からこちらに赴任してから関わることになりました。


 私は新人牧師として神戸市長田区の神戸教会に赴任した時、震災からすでに4年目でした。しかし三宮などの繁華街は復興していたものの、一歩住宅街に入るとまだ更地が目立ち、屋根にはブルーシートがかかっていました。


 しかし神戸教会を取り巻く人たちは好奇心旺盛で温かく、どうすれば震災に強い建物や街や人間関係が作れるか、という課題に共に懸命に取り組みました。その経験が活かされたことを神様に感謝しています。


 飯田では、コロナ禍や戦争の影響による資材の高騰など、さまざまな問題がありましたが、幼稚園は無事新築され、昨年の6月には会堂の耐震工事とリノベーションが終了しました。昨年の11月の終わりには園児を迎え入れてアドベントの合同礼拝を始めることができました。先日は卒園式と入園式を行いました。これから、ここでどんな物語が繰り広げられているいくか楽しみです。


 さて、本日お読みした聖書には、イエス様が復活された後、それをなかなか信じられなかった二人の弟子が登場します。イエス様が十字架にかかってから三日目のことです。お墓に行った女性の弟子たちから復活のイエス様にお会いした、と聞いたものの、どうしたら良いかわからず、エルサレム近隣のエマオという村を目指していました。おそらく二人のどちらかがエマオの出身だったのでしょう。


 神様の御子であったイエス様が、なぜ残酷な十字架刑で命を落としたのかといえば、当時の政治が複雑に絡んでいます。


 イエス様がこの世にお生まれになった目的は、絶望や失望だらけの闇の世界に光を与えることでした。イエス様を慕う人々は日に日に増え、たくさんの弟子ができました。弟子たちにとってイエス様は太陽のような存在でした。イエス様はこの世界に生きる人々に救いと希望を与えるために、数多くの奇跡を行い、寄り添い、愛を注がれました。


 ところがイエス様が有名になり始めると、周囲は勝手に「新しい王様だ」とか「革命家だ」と盛り上がり、担ぎ上げようとしました。その一方、社会の実権を握っていた人々はイエス様が邪魔になり「イエスは神を冒涜して治安を乱す悪人だ」と罪をでっち上げ、ついに十字架にかけて殺してしまったのです。


 まさかそんなことになると思っていなかった弟子たちは、自分も同じように逮捕されるのではないかと恐れ、逃げ出したり隠れ家に閉じこもったりしました。この二人の弟子もまた、追手に怯えながらも、「復活されたってほんとかなあ」「いや、そんなことは信じられない」などと堂々巡りの会話をしながらエマオ村を目指していたのです。


 そんな二人に近づいてきたのはイエス様ご本人でした。しかし聖書には「二人の目は遮られていてイエスだとはわからなかった」と記されています。復活などあり得ない、と思うあまり、イエス様を認めることができなかったのでしょうか。

 しかしイエス様は「歩きながらやりとりしているその話は何のことですか」と穏やかに問いかけます。聞いた二人はイエス様が十字架にかかったという大事件も知らないのか、と驚きますが、旅人から重ねて「どんなことですか」と問いかけられ、自分達の抱えた葛藤や悲しみや疑いの思いを、謎の旅人に向かって語ったのです。


 状況を考えると、彼らはイエス様の仲間だとバレるのはまずかったかもしれません。それでも語らずにはいられない安心感と優しい雰囲気をイエス様がお持ちだったのです。


 結果として、二人の弟子は自然と「イエス様は復活されたのだ」という喜びの結論へと導かれていきます。イエス様は決して「私がイエスだ!」と名乗ったりしていません。ただ、彼らの中にある信仰に働きかけ、もう一度弟子としてやり直す力を引き出してくださったのです。


 イエス様がよく、優れた教育者とか比類なきカウンセラーと評されるのはこのお力によります。相手の言葉に耳を傾け、訂正すべきところは静かに訂正し、正しい結論に導いてくださるのです。

 私たちがイエス様に学ぶことは数えきれないほどありますが、日々現場にいる時のその心には、子ども達の言葉に耳を傾けることが大切です。その対話の中に、実はイエス様が神様が共にいてくださるのです。


 大人である私たちは受けてきた教育と経験によって「正解」を知っていますが、子どもにとっては全てが初めての体験です。友達とのやり取りや、初めてする運動、上手くいかなくて、泣いたり、怒ったりする光景が毎日繰り広げられています。


 そうした日々の中で、私たちが強引に子ども達を正解に導こうとしても無理があります。そんな時、イエス様ご自身が私たちと子ども達の間を歩いておられることを知り、教師自身が安心感をいただけることが、キリスト教保育の特長でしょう。私たちは誰ひとり完璧ではありませんが、どんな時も、イエス様に祈ることで、ここは神様によって建てられた場所だ、という思いに立ち返ることができます。みなさんが神様の平和に心を委ねる時、子どもたちにも保護者の方々にも平和の心が広がっていくのです。


 最後になりますが、改めて、日々この園で、そして教会学校で、子ども達の隣りを歩み続けている先生方に心からの感謝を申し上げます。


 皆さんのその尊い働きを、神様は決して見過ごされません。皆さんが子ども達にパンを分け与えるように愛を注ぐ時、神様もまた、皆さんの心に新しい命のパンを与えてくださいます。どうぞ、一人で背負わないでください。イエス様と共に神が共におられます。そして、この教会も、私も、皆さんと共に歩みます。



この4月から、朝比奈は山梨県の甲府教会と兼牧を

することになりました。

甲府教会は残念ながら無牧となりましたが

土曜日の午前11時から、週替わりで複数の牧師が

礼拝をいたします

朝比奈は第3週の土曜日、礼拝と役員会を担当

他の土曜日は東京方面から他の牧師先生が

行くことになっています


飯田からは高速道路を使って片道2時間半ほど

今日は良いお天気で、富士山が見えました





さて飯田教会の周辺ではさまざまな花が一気に咲き始めました


戦後に飯田市内を襲った大火
復興のために中学生たちが大人の反対を押し切って
りんご並木を作りました
今でもその伝統は東中学に受け継がれています


りんご並木近くの公園では
藤の花が咲いています
白藤も良いものですね