2026年3月1日日曜日

「ニコデモとイエス」(日曜日のお話の要約)

四旬節第2主日礼拝(2026年3月1日(日)(紫))

創世記 12章1-4a(旧15) ローマ4章1-5a 3-17節(新278)

ヨハネによる福音書 3章1―17節(新167)


 本日の福音書には、ニコデモというファリサイ人がイエス様を訪れた時の対話が記されています。ここでイエス様が語られた御言葉「神はその独り子を賜ったほどに世を愛された。それは一人子を信じるものが永遠の命を得る為である。」は「小聖書」と呼ばれ、聖書全体に記された神様の愛を端的に表しています。


 ヨハネ福音書が書かれたのは1世紀の終わり頃で、キリスト教はすでにユダヤ教から独立して一つの宗教へと発展し、地中海沿岸を中心に、ローマ帝国の主要都市へと広がっていました。そこに住む人々の中にはギリシャ哲学を学ぶ知識層も多かったようです。しかしその知識が仇となって、せっかくキリスト教と出会っても素直に受け入れられない人もいました。ヨハネはそういった人々と哲学的な論争を戦わせながら宣教していく必要がありました。ですから福音書も哲学的表現が多くなったと思われます。


 ギリシャ哲学にはプラトンの説いた「霊魂不滅」という思想があり、魂は肉体の死後、肉体を離れて永遠に生き続けると考えました。もしそうなら、神様の愛や招きがなくても、人間の魂は不滅ということになります。ですから、この思想に影響を受けると、イエス様が十字架にかかられたことへの感謝や、神様が罪人さえ天国に招いて下さることの尊さなどが全く見えなくなってしまうのです。ヨハネが福音書を書いた時代、この思想がキリスト教の周りにあったことを前提に考えると、ヨハネとニコデモの会話から少し違う光景が見えてきます。


 ユダヤ教に縛られてイエス様の教えを素直に理解することができないニコデモと、ギリシア哲学に囚われてイエス様の教えを受け止めようとしない人々とを重ね、哲学的な言い回しを用いてこの場面を描いた、とも考えられるのです。


 ニコデモは長年、イスラエルの教師として、また議員として、人々を教え、導いてきました。熱心に律法を学び、律法に忠実に生活をしてきたと自負していました。しかし自分は人々を正しく神様の元に導くことができたのだろうか、そう思うと不安と焦りが生じ、いてもたってもいられなくなるのです。


 そんな時ニコデモは、イエス様が神殿から商人を追い出し「私の父の家を商売の家としてはならない」と宣言された姿を見ました。また、貧しきものや病の者に癒しをあたえるしるしを目の当りにしました。そして「神様に従うとはこういうことなのだ」と確信し、残り少ない自分の人生を、神様の御用の為に正しく用いたい、今の自分でも何かできるだろうか、とイエス様から教えを乞う為に、夜の闇に紛れてイエス様を訪ねたのです。ただ、ニコデモは、イエス様から難しいことを要求されたなら、自分のこれまでの経験や知識が役に立つ、と考えていたようです。


 しかしイエス様は、ニコデモの心を見抜いておられました。この世におけるさまざまな知識や経験が、神の国や天の国を本当に知るために邪魔になることをイエス様は知っておられたのです。だからこそ、今まで積み重ねたものを捨て、幼子のようなまっさらな心になってもう一度やり直しなさい、とおっしゃったのです。


 ところがニコデモは「新たに生まれなければならない」というイエス様の言葉に反発します。今までの自分を否定されたと思ったのでしょう。「もう一度母の胎内に入って生まれるなんてできるわけないじゃないですか」と反論したのです。


 イエス様がニコデモに伝えたかったことは、聖霊なる神であれば、あなたを生きながら作り替えて下さる、あなたが老人であろうと若者であろうと関係ない。私の言葉と神の力を信じなさい。そう仰りたかったのです。


 では、神様を信じる上で、生まれなおさなければならない、言い換えれば、捨て去るべきニコデモの欠点とは、なんだったのでしょう。


 ニコデモは、イスラエルの優れた教師でしたから、優秀な人を伸ばすことに喜びを感じていたことでしょう。しかしキリスト教の宣教は、将来性のありそうな人ばかりを教会に歓迎するようなことはしません。イエス様の12弟子たちもインテリばかりではなく、漁師や徴税人と言った人々もいました。学があるなしではなく、育ちがいいか悪いかでもなく、ただ、風が気ままに吹くように、神様はイエス様のもとに人々を吹き集められたのです。


 「風は思いのままに吹く」という御言葉には、人間の側で勝手に「この人は神様を信じるだろう」「この人は神様のお眼鏡に敵わないだろう」「この人は立派な信仰者になるに違いない」などと決められない。それは、神様だけが知っておられる、とはっきり言われたのです。


 時は流れて、イエス様が十字架に掛かった後、アリマタヤのヨセフという人物がローマ側に願い出て、イエス様の遺体を引き取り、墓に葬ったことが4つの福音書全てに記されています。ただヨハネ福音書だけは、ニコデモもアリマタヤのヨセフと共にイエス様を葬った、と記録されています。12弟子さえ逃げ去ってしまった後のことです。二人ともイエス様が復活するとは信じていなかったでしょう。ただイエス様に敬意を払うために葬りの儀式を行ったのです。


 3日後にその墓でイエス様が復活したことを知った時、ニコデモの思いは大きく変化したはずです。伝説ですが、ニコデモはその後、教会形成の為に尽力し、いくつものキリスト教会を作ったと言われています。キリスト教会の古い記録の中にはニコデモという名前が何度も出てくるそうです。それはニコデモがイエス様を信じ「新しく生まれた」記録のような気がしてなりません。


 今の時代、私たちを取り巻くのはギリシア哲学ではなく、自分に都合の良い生き方を提唱する人々です。この思想を持つ人々はキリスト教の考えに関心を持とうとしません。今の時代においては、イエス様を信じ、人に優劣をつけず、愛を持って信仰の成長を共に喜ぶことは困難だと言えます。しかしイエス様を信じる私たち、イエス様に集められた私たちは、過去に縛られず、キリストと同じように苦難を覚え、小さなことから成し遂げてゆく。そこに救いの道が今でも変わらずあるのです。


ミケランジェロの未完成の彫刻『フィレンツェのピエタ』
 十字架から降ろされたイエス・キリストのお体を
母マリア、マグダラのマリア、ニコデモが支えています
ニコデモの顔はミケランジェロ自身の
自画像と言われていますが
1555年頃に制作を放棄したそうです

2026年2月22日日曜日

「荒野の誘惑」(日曜日のお話の要約)

四旬節第1主日礼拝(2026年2月22日(日)(紫))

創世記2章15-17、3:1-7 ロマ書5章12-19節

マタイによる福音書 4章1―11節(新)


 旧約聖書の「ヨブ記」では、サタンと呼ばれる存在が、悪意に満ちた人格として登場します。サタンとは、旧約聖書の元となったヘブライ語で「敵対者」「告発者」「妨げる者」を意味し、聖書では悪魔とほぼ同じか、悪魔のかしらという意味で使われます。ヨブ記は、サタンが神様と駆け引きをしながらヨブを不幸のどん底に叩き込んでいきます。


 神様はサタンに向かってヨブの信仰をお褒めになり、どんな不幸にあっても彼は信仰を失わない、と断言されます。するとサタンは「それならば試して見ましょう」とばかり、ヨブから財産も家族も健康も奪い取ってしまいます。


 そんなやりとりなど全く知らないヨブは「なんできちんと信仰生活を送っていた自分にこんな不幸が起こるのか」と苦しむのです。その呟きを見舞いに来た友人達に逆に責められ「お前になんか問題があったから神様の怒りを買ったのだ」と強く咎められます。ヨブはさらに怒り、絶望し、信仰を失ってもおかしくないギリギリの状態まで追い詰められるのです。


 ヨブ記は「何も悪い事をしていない人がなぜ苦しまねばならないのか」というテーマで書かれた物語です。創作ですから、苦しみ叫ぶヨブに神様が答えられ、全ての苦しみは贖われて終わります。


 しかし、現実社会において財産も家族も健康も友人も失うような経験はそれほど珍しいことではありません。こうなった時、物語のように神様が現れるわけではなく、泣いても喚いても助けの手は差し伸べられず、ついには神様への信仰は失われ、心は闇に落ちていってしまう。それが普通の人の反応であるような気がします。


 しかし本日の福音書ではイエス様はそうではない、とはっきり記しています。イエス様は洗礼を受けられてすぐに、聖霊によって荒野に導かれ、40日40夜、断食なさいます。神の子といえども、人間と同じ肉体を持っておられますから、激しい空腹を覚えられて、生きているのか死んでいるのか分からないほどの限界に追い詰められたでしょう。その時、悪魔が誘惑をしにやって来るのです。


 マタイ福音書は、ユダヤ人であるマタイが記録していますから、旧約聖書がベースとなっています。そして当然ヨブ記をのエッセンスも含まれています。つまり、人間は極限まで追い詰められれば、神様を恨んで叫び、信仰を失う、という考え方です。


 ここで重要なのは「40日40夜、荒野にいた」という表記です。これはユダヤ人であれば誰もが「出エジプト記」を思い出します。モーセがユダヤの民を導いてエジプトを脱出した後、ユダヤの民は、腹が減った、水がない、などなど、何か困難が起きるたびにモーセに不満をぶつけ、自分の信仰をぐらつかせるのです。


 その結果として、40年間荒野を旅する間に不信仰な民はほぼ死に絶え、神様から与えられた掟に従って生きる新世代だけが、約束の地に辿り着くのです。これ以降、ユダヤ人は、聖書に登場する40という数字は、信仰を試される期間を象徴的に表していると受け止めるようになりました。


 福音書の記述に戻りますが、イエス様が40日40夜、飲まず食わずで荒野におられ、なおかつ神様への信仰を全く失うことがなかった、というのは驚異的なことであり、イエス様が完璧な信仰を持つ神の子として、私たちの信仰のお手本として、私たちを導いていかれるのにふさわしい方である、という宣言そのものなのです。


 私たちは、自分の望みを叶えてくれる神様が良い神様、という感覚に慣れ過ぎています。私たちは実際にはヨブ記の主人公ほどの敬虔さもないにも関わらず、「神様を信じているのになんで悪いことが起きるのか」と呟いき、神様への信頼を失い、信仰の成長が止まってしまうのです。表面的にはクリスチャンでも、神を第一にすることをやめ、自分の望みを叶えることが生活の中心となっているのです。それが今、世界全体におけるキリスト教の現状であり、ルーテル教会も、そういった状況に陥っているといえます。


 伝道しない教会、宣教することを使命としない教会、自分達の居心地の良さだけを重視し、救いを求めている人を誘うことをしない教会。


 私のような罪深い人間が伝道するなんておこがましいし、神様の思いの為に生き、働くなんて絶対無理、そのようなことは、医療関係や社会福祉や社会事業に任せれば良い、と考えてしまうのです。


 しかし、ふと周りを見回しますと、医療も社会福祉もパンク状態で、地方の病院は雨漏りし、改修工事にお金を裂くこともできず、赤字ばかりが増えて、次々倒産しています。


 働き手も足りず、人の救いの為に行きたいという理想はあっても、自分の生活が立ち行かず転職してしまいます。そうなると誰がこの世界、自分もその一員である地域社会を、どうやって救うのでしょうか。


 イエス様は、かつてローマの圧政の中に生まれ、同胞から裏切られ見捨てられ十字架の上で死なれました。しかし今も絶望的な社会の只中で、神様の思いを伝えるために生きておられます。


 伝道は言葉だけでなく、イエス様に倣う生き方をすることが重要です。苦しみの中で忍耐し、神様が共にいることを信じ続け、キリスト教会に残り続け、周囲の人々に声をかけ続けることは簡単ではありませんが、イエス様が全ての責任を取ってくださいます。私たちの内にも外にも、悪魔がいようとも、私たちが主の業を行っていくことに、なんの恐れもないのです。


 この場所でキリスト教信仰に歩んでいく喜びを感じながら、やがては共に主を信じ、共に教会を支えるい民がここに形成されることを皆さんとともに信じ、諦めることなく「荒野にある」苦難と忍耐の時代を信仰をもって歩み続けましょう。



昨日は土曜学校でした

礼拝では「聖書は旧約と新訳に分かれている」と理解してもらうため

クリスマスでお馴染みの「神様のお約束」をみんなで歌いました

イエス様がお生まれになるよ、という約束が旧約聖書

イエス様が生まれて私たちと一緒に歩いてくださるというお約束が新訳

みんな覚えてくれたでしょうか

工作タイムは「ひょうたんこびと」のランプを作りました

知人から献品していただいた瓢箪の中から、薄いものを選んで

画鋲と千枚通しを使って穴を開けました

安全のため軍手をはめて作業してもらいましたが

幸い誰一人怪我もなく終わりました

いつものように写真でご紹介します


これこれ、小人は戦いごっこの武器ではありませんよ(^^;)

こちらはお人形さんごっこかな?


いつも来てくれるMさん
今日も素敵なデザインでした

2026年2月15日日曜日

「ここにいるのは すばらしい」(日曜日のお話の要約)

主の変容主日礼拝(2026年2月15日(日)(白))

出エジプト記 24章12-18  Ⅱペトロ 1章16-21節

マタイによる福音書 17章1―9節(新)


 先週の水曜日は休日ということもあって、週報で予告しておいた通り礼拝堂でささやかな映画会を行いました。作品は有名な「十戒」です。今から70年前の作品ですが、みなさんも映画館やテレビで見たことがあるでしょう。


 もちろん娯楽映画ですから、聖書に書かれていないシーンはかなり脚色されています。しかし脚本や演出に携わったスタッフはきちんと聖書理解をした上で制作していて、肝心なところはきちんと押さえています。ですから、なるほどモーセがエジプトを去った背景にはこんな出来事があったかもしれないな、などとと興味深く見ることも出来ました。


 ところで、本日の聖書箇所にはこのモーセと、もう一人旧約聖書の英雄であるエリヤが現れ、十字架の苦難を前にしたイエス様に語りかけます。今日のお話を理解する上で、モーセについて、海の水を割った人とか、十の戒めが書かれた石版を山から運んできた人、といった知識だけではキリスト者としてちょっと寂しいです。映画を副教材としても良いですから、モーセがイスラエルのリーダーとしてどれほど苦悩したかを知っていると、この時モーセがイエス様に何を語りかけたのか、想像がつくと思うのです。


 モーセの話を続けますが、彼は60万人を超えるイスラエル人をエジプトから脱出させ、40年かけて約束の地へと導きます。しかし、出エジプト記に克明に書かれている通り、この群衆は簡単にはリーダーに従わず、都合が悪くなれば神様のせいだ、モーセのせいだと文句を言い続けます。こんな人々のためになぜモーセが人生をかけたかといえば、ただ神様からそうするよう使命を与えられたから、という一点だけです。


 ここを抜きにして本日の福音書を読み、「モーセが出て来て、イエス様は白くなった。本当に神様なんだねえ」と思うだけで読み飛ばしてしまうなら、十字架にかかろうとするイエス様の覚悟が見えてきませんし、イエス様がどれほどの苦しみを覚えながら人間の罪を背負われたか感じることができないでしょう。


 では改めて主の変容主日の聖書箇所を見て参りましょう。イエス様が、3人の弟子たちだけを連れて山に上り、神様としての本当のお姿、白く輝く栄光の姿を示され、そこにモーセとエリヤがあらわれたため、弟子たちは大慌てです。


 ペトロたちユダヤの民にとって、モーセもエリヤも言葉にできないほど偉大な人物です。彼らがここにいるのなら、ここはまさに神様のお膝元、ここにいれば何一つ困ることはない、と思ったかもしれません。


 弟子たちは今までイエス様と3年半旅を続けてきた苦労が報われると感じたのでしょうか、これ以上、世の中と戦わなくても良いし、冒険の旅もしなくても良い、飢えも乾きも無関係。そんな思いもよぎったかもしれません。


 ペトロが非常に興奮して口走った「ここにいるのは、すばらしいことです」という言葉。これは、おそらく神様の元で全ての苦労から解き放たれるという、解放された喜びを表しているのでしょう。確かにこれは信仰に生きてきたものにとって、最高のご褒美です。


 しかしペトロが神様から「忠実な僕よ、よくやった」「お前はここで休む資格がある」とお褒めいただくのはずいぶん後のことでした。


 神様はいよいよこれからイエス様に大きな使命を果たしてもらうおつもりでしたし、イエス様ご自身もついに使命を果たす時が来た、俗な言葉で言えばこれからが正念場だ、と知っておられたのです。


 イエス様はこれから民に裏切られ罵られ、十字架で苦しみや痛みを経験し、ついには命を落とされるのです。この残酷な経験を経て三日目に蘇り、「死は全ての終わりではない」と示されるのです。これは口で言うほど簡単なことではありません。神様に完全に信頼していなければ成し遂げられることではないのです。


 モーセもエリヤも、形は違いますが、神様から民衆を救うよう命じられながら、その民に裏切られ罵られるという苦悩を通った人でした。だからこそ、イエス様のところに遣わされ、苦悩と栄光について話し合われたのでしょう。


 リーダーが神のために生き、神のために命を投げ出す姿勢を示すことで、一人でも多く信仰を目覚めさせ、御心に生きることを喜びとする人々をこの地上に増やしたい。


 そうしないと、この世界を創った神様の思いを無視する人ばかり増えていき、神様がこの世界を愛していることも知らず、自分の利益のために世界を好きなように扱おうとするのです。つぶしたり、壊したり、人を殺したりすることも正当化し、世界は一部の権力者が好き勝手をする恐れが支配する世界になってしまうのです。


 キリスト者は、そのような世界の只中でも、だからこそ、わたしたちがここに与えられたのだ、と自覚し、置かれた場所で何ができるか必死で考え、キリストの手足となって行動し、生きることを喜びとし、この世界を守るために、生涯に渡って神様の為にと生きて働くのです。


 私たちが知っておきたいことは、イエス様がどれほど、私を愛し、導き、神様のご計画を実行する者として成長させてくださるか、と言うことです。イエス様は、何度も失敗し、挫折を味わったとしても、御心に叶った努力は無駄にならないと励まし、何度でもチャレンジすることを促してくださいます。


 キリスト教会は神様の御心を徹底的に行ったイエス様との出会いによってつくられました。そして教会はイエス様によって御心を行うために集められた人々の場所です。だからこそ私たちは「ここにいるのは素晴らしい」と教会生活を送ることができるのです。



本文にある通り、礼拝堂で「十戒」を見ました。

こんなふうに画面を撮影して載せることが

著作権とか法に触れるかどうかわからないのですが

とりあえずレポートとして載せておきます(^^;)

これはダメだよ、とおっしゃる方がおられれば

削除しますので教えてください



燃えても燃え尽きない柴の前で
神様から使命を授かるモーセ

「十戒」の中で最も有名な
「紅海の水が主によって分けられる」シーン

2026年2月8日日曜日

「地の塩 世の光」(日曜日のお話の要約)

顕現後第5主日礼拝(2026年2月8日(日)(緑))

イザヤ書 58章1-9a  Ⅰコリント 2章1-12節

マタイによる福音書 5章13―20節(新)


 本日与えられたマタイ福音書のイエス様の御言葉は「あなたがたは地の塩、世の光である」という箇所です。「塩」は、食物の腐敗を遅らせたり、加工するにも使われ、世界中で用いられてきました。生活の中でなくてはならないものです。


 しかし使い方を間違えると健康を害することもあり、「健康のために塩分をとりすぎないように」とよく耳にします。塩自体は何も悪くないのに、用いる側の都合で、悪者にされてしまうこともある、塩とはそんな存在なのかもしれません。


 福音書の著者であるマタイは、律法が全ての基準であるユダヤ社会で生まれ育ちました。律法はユダヤ人にとってなくてはならない、言うなれば塩のような存在です。しかし、なんらかの理由で律法を守れない人にとっては残酷な決まりで、律法に基づいて厳しく裁かれる人は、こんな決まりなどいっそ無ければ良いのに、と思ったことでしょう。


 神様がユダヤの民を思って定めた律法が、社会のトップに立つ権力者たちによって都合よく歪められ、当時の人々を苦しめていたのです。マタイはそんな教えならこっちから捨ててやる、と思ったのか、自ら律法を捨てて徴税人となり、ローマ帝国の手先として税金を集め、自らも金儲けをする道を選びます。


 しかし、イエス様に招かれ弟子となった彼は、全く新たな信仰の形が与えられます。生きるためになくてはならない「新しい律法」、つまり「新しい塩」を彼はイエス様から与えられたのです。


 マタイが熱い思いで記した山上の説教は「心の貧しいものは幸いである」との書き出しでイエス様の教えを記しています。ここには一般のユダヤ人の常識を覆すようなさまざまな幸いの形が記されています。順番に、「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」、そして最後に「イエス様のために罵られ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられる人々こそ幸いである」なぜなら、「天に大きな報いがあるから」と教えるのです。マタイはこの教えに人生をひっくり返され、イエス様に命を預けて歩むことに決めたのです。


 そして、まさにイエス様ご自身も、裏切られ、世間から邪魔者扱いされ、馬鹿にされ、兵士から殴られ、唾を吐きかけられ、十字架の上で息絶えます。しかしそれで終わりではありませんでした。神様はたった3日間で、イエス様を復活させ、それを通して死は全ての終わりではないことを示されたのです。


 この出来事を真実として受け止め、の心に刻んだ人々は、この世の中において塩となる。マタイはそう伝えました。そして現実にマタイが世を去った後、どれほど迫害されても受け継がれた聖書の御言葉は、300年後にローマ帝国をひっくり返して世界に大きく広がって行きます。


 世の中が平和な時、塩の教えは「良い教えだね」と共感してもらえます。しかし世の中が不穏な状況になれば「何を非現実的なことも言っているのか」とか「平和ボケしいている」とか「単なる理想主義」などと罵られることもあります。しかし塩が塩として変わらぬスタンスを貫いている限り、世の中は確かに変わる。それは光も同じだと、それは歴史が証明しています。


 私たちの生きる社会はこれから明るい方向に進むかどうか分かりません。80年前に世界を巻き込む大きな戦争が終わった後、国際連合が結成され、その壁には聖書の言葉が刻まれました。イザヤ書2章4節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」がそれです。


 しかし現在それを踏み躙るような出来事が次々とが起きています。イザヤ書の言葉を理想論で終わらせないためには、一握りの権力者や富や成功を神のように崇めるのではなく、真の神の前に無数の地の塩たちが跪いて「アーメン」と唱えてはじめて本当の一歩を踏み出すことができるのです。


 時が悪くて邪魔者扱いされても、神様が与えてくださる恵みの中に生きて、人々に示してゆき、与えて、照らすものとなる。それがこの社会の中で、私たちに与えられた使命であり、私たちの望みであり、私たちのできることなのです。


 2026年に入って、飯田ルーテル幼稚園も教会も工事を終え、ようやくなんとか形になってきて、他教会の方もお招きする集会ができそうだ、となったところで、実はルーテルという組織やプロテスタント教会そのものが存続の危機に瀕していることがわかってきました。


 ルーテル学院大学の閉校もその一例でしょう。また、東京都内のルーテル幼稚園や教会が、施設の古さから集まる人数が激減していると聞きました。さらには下伊那地域の日本基督教団や聖公会なども運営が厳しく、人材的にもひっ迫していることを耳にします。


 そのような中で、私たちはギリギリのところをすり抜けるかのように存続を許されました。私たちは経済的にも人材的にも決して豊かではありませんから初めの内は「なんかしょぼい」集まりになるかもしれません。それでも、主イエスに示された「地の塩、世の光」としての役割を果たすことがまだまだ許されているのです。


 マタイが記したように、私たちはイエス様との繋がりがあるがゆえに、時に貧しくなり、苦しみます。何度も言いますが、私たちが地の塩、世の光である以上、義や平和を求めて世間から「平和ボケ」と罵られることもあります。しかし、人々から馬鹿にされても、それはイエス様の為であり、イエス様が手本となってくださった生き方です。イエス様は私たちと繋がるために命を捨ててくださった。これほどの大きな愛は、この世に他に存在しないのです。その愛に励まされて、キリスト者として生きて参りましょう。


2月の土曜学校の工作はひょうたん小人のランプです

地元で瓢箪を育てている方から献品していただきました

数年前も一度作ったことがありますが

現在、集まってくれるお友達の中には

失敗に過剰反応したり

説明をうまく理解できなかったり

…そんな傾向がある子もいるので

なるべく簡単に、怪我なく作れる方法を考えました

最後まで楽しんでくれるといいのですが


小さめで薄い瓢箪に画鋲で穴を開け
先の鋭くない目打ちで穴を広げます


LEDライトを入れて光らせます

毎回ポスターやハガキで告知しています