2026年3月29日日曜日

「主のエルサレム入城」(日曜日の説教の要約)

四旬節第6主日礼拝(2026年3月29日)(紫)【枝の主日礼拝】

イザヤ書50章4-9a(旧1145)

フィリピの信徒への手紙2章5―11節(新363)

マタイによる福音書 21章1―11節(新39)


 さて、明日から教会のこよみでは受難週と呼ばれる一週間を過ごします。この1週間は主イエスが十字架に着くまで、どのように過ごされたかを追体験していきます。一番大きな事としては、木曜日の夜に教会に集まり、イエス様が弟子たちの足を洗ったようにお互いに支え合うことを確認し、最後の晩餐の出来事を振り返ります。翌日、金曜日には十字架に掛けられた午後3時に集まってイエス様の苦しみを覚え、自分の罪深さを振り返りつつ3日目の復活に備えるのです。


 教会にもよりますが、平日に集まることが難しい、という理由もあってこうした礼拝はやらなくなったところが多いようです。キリスト教の華やかな典礼、クリスマスやイースターは、楽しく和気あいあいと過ごそうと演出を考える教会員も、イエス様を苦しめた、人間の罪の恐ろしさ、ひいては自分の罪深さに関しては、とりあえずスルー、という方が増えてしまったようにも思います。


 まあそういった批判的なことはちょっとわきへおきまして、本日は受難週の幕開け、棕櫚の主日と呼ばれる日曜日です。イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城されたことが新約聖書の四つの福音書すべてに記されている、重要な場面です


 入城と言うのは、首都エルサレムの街が城壁に囲まれているからです。織田信長などが出てくる時代劇で京都に登ることを「上洛」と言いますが、イエス様が堅固な城壁に囲まれた街に入っていかれるお姿は、何かそれを思い起こさせる力強さです。


 民衆はそのようなイエス様を見て、喜び、興奮し、棕櫚の枝を振って「ホサナ、ホサナ」と迎えいれ、自分達の上着をカーペットのように道に敷き詰めました。


 彼らはイエス様にそれぞれに自分の願いを重ね合わせ、この方なら豊かな暮らしを取り戻してくれる、とか日頃の不満の解消を叶えてくれる、などと期待したのです

 ただ、人々は目の前でイエス様がロバに乗っておられることの意味をどれほど深くとらえていたのでしょうか。


 旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王が来る。彼は正しく、勝利を得る者、へりくだって、ろばに乗ってくる。雌ろばの子、ろばの子に乗ってくる。」という一節があります。ユダヤの人々なら、当然思い浮かぶ一節です。


 本来ならば、人々は威厳のある軍馬ではなく、小さくて不格好な「ろば」に乗って現れた、ちょっと道化のようなイエス様のお姿を冷静に、かつ尊敬を持って捉え、理解するべきでした。イエス様は武力による支配など、全く望んでおられませんでした。それどころか、神の愛を持って人々を治めようとなさるので、軍馬ではなくロバに乗られたのだ、ということをどれほどの人々が理解したでしょうか。


 イエス様ご自身は、この人々が勝手にご自分に期待し、勝手に期待を裏切られたと怒り出すであろうことをご存知でした。数日後には手のひらを返して「十字架にかけろ、十字架にかけろ」と叫ぶことを知っておられたのです。もちろん正確には同じ人々かどうかはわかりません。しかし、人の心があっという間に変わってしまう醜さと、それでも前へ前へと進み続けたイエス様の豊かな愛がここで対比されているのです。


 私たちはこの聖書箇所を読むたびに、ユダヤの人々の心変わりに呆れますが、実は自分自身の心もまた変わりやすいことを知っています。高く評価していたはずの人を一瞬で嫌いになったり、些細なことで尊敬から軽蔑に変わってしまったり。


 そしてコロコロと心や態度を変える自分の不誠実さよりも、こうなったのは向こうの責任だ、と開き直ってみたり、期待と裏切りの中で、もがいて生きているのです。


 そんな私たちの移ろいやすい心や見栄や欲望、そして自分勝手な期待や我儘という、神さまから目をそらさせるその罪の報いを、ご自分が十字架で引き受けるために、イエス様はあえてロバに乗られたのです。


 私たちは今日も「ホサナ、ホサナ私を救ってください」と叫びをあげます。「今、この瞬間救ってください」という叫び、「なんでもいいから助けてください」という悲鳴。それを突き詰めると本当は、「欲しいものをください」という駄々っ子に似た、欲望と見栄に縛られた自分自身に気づかされるかも知れません。


 イエス様の思いを理解できないまま、助けを求めて泣き喚く私たち。本当の助けの意味すら知らない私たち。それは神様の目から見れば、救うに値しない、手を差し伸べる価値のない、愚かな集団に見えたかもしれません。それでもイエス様は「この空虚で、すぐに飽きるものに心を奪われてしまう、情けない私を、どうか助けてください」という魂のSOSを拾い上げ、哀れみ、愛して、手を差し伸べてくださるのです。


 新しくリノベーションのなった会堂は、幼稚園の遊戯室としての役割から解放されましたので、受難週の礼拝、聖月曜日から聖金曜日まで礼拝を守る喜びが与えられています。けれどもそこまでイエス様に向かって心を注ぎ出すが礼拝がなかなかできないのは、何をイエス様に償って頂くものか、何から救っていただきたいと思っているのか、何を差し出すかが分からないまま、ここまで来たからかも知れません。


 それでもイエス様は、2000年前のユダヤの人々に注いだのと同じ愛を持って、私のかっこ悪い部分も、あなたの過去へのこだわりも、心の中に仕舞い込んでおきたい全ての罪を背負って十字架へと向かってくださったのです。あなたを愛するが故に。その大きな愛の前に、今日、畏れとかしこみをもって、自分自身を差し出そうではありませんか。



教会の広報誌「みんなのトピックス」
よかったら拡大して読んでください
今週、来週とお葬儀が続きます
神様の元で再会できることはわかっていても
今ここにいない、声も聞けない
ということは寂しいものですね
ご家族に神様の慰めを祈ります

2026年3月22日日曜日

「キリストは復活と命」(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(2026年3月22日)(紫)

エゼキエル書37章1-14(旧1357)

ローマの信徒への手紙8章6―11節(新284)

ヨハネによる福音書 11章1―45節(新188)


 本日の福音書は、ラザロの復活というお話で、死者の蘇りという衝撃的な出来事が記されています。受難週の前に、「もう手遅れだという諦めや絶望からの回復について」一歩踏み込んだ話として記されています。


 17節には「死んでからすでに4日もたっていた」と書かれていて、蘇生するには完全に手遅れであることを表しています。大切な人を失って「絶対無理だ」と絶望感を覚える時、イエス様は私たちに何を示してくださるのでしょうか。


 その前に、先ほど旧約聖書のエゼキエル書37章を読んでいただ来ました。これは受難節によく読まれる、「枯骨の谷」という有名な箇所です。死んで四日後どころではなく、いつ命を失ったのかわからないほどにカラカラに乾き切った骨に向かって、預言者エゼキエルが「神様の霊が入り、生き返る」と預言すると、骨がカタカタと組み合わさり、肉と皮に覆われて蘇るのです。


 この聖書箇所は、戦争に敗れ、信仰を失って霊的に死んでいたユダヤの民を、神様は新しい命へと再生させることができる、というテーマで表されています。それと同時に、神様はどれほど不可能と思われる状態からも、どんな命でも再生させることがおできになる、という「復活の希望」がシュールなタッチで描かれているのです。


 イエス様を出迎迎えたラザロの姉妹であるマルタは、ユダヤ人として幼い頃から旧約聖書に親しんできましたから、この聖書箇所を知らないわけはありません。ですから、イエス様が「あなたの兄弟は復活する」とおっしゃった時、否定などせず、丁寧に「終わりの日に復活することは存じています」と答えたのでしょう。


 彼女は神様への信仰を失ってはいませんでしたが、兄弟の死という悲劇の目に、現実を自分なりに受け止めようと必死だったのです。


 気休めのような慰めはいらない、そんな思いに囚われている時、神様への信仰を持ってはいても、今目の前の出来事に神様のお力は適応されないだろう、と思ってしまう。言い換えれば、私なんかのために奇跡を起こしてくださるはずがない、私は見捨てられたのだ、という諦め。厳しい言い方ですが、この時彼女は信じているふりをしていることで済まそうとしたと考えられます。なぜなら本音は他のところに現れているからです。


 イエス様に向かって、マルタとマリアはそれぞれに同じ言葉を発します。マルタはイエス様を出迎えるとすぐ、「主がここにおられたら、私の兄弟は死ななかったのに」と言います。これは「過去への後悔」と「今の絶望」の中にいることをよくあらわした言葉です。


 マリアはマルタのようにサッとイエス様を迎えに行くことはできずにいました。マルタに呼ばれてイエスを迎えに村の入り口まで行くと、感情を抑えられず、「主がここにおられたら、私の兄弟は死ななかったのに」と泣き崩れるのです。


 他の人々も泣いているのをご覧になったイエス様もまた、涙を流されます。「イエスは涙を流された」この言葉は、聖書の中で一番短い言葉です。イエス様はラザロを生き返らせる力をお持ちであるにもかかわらず、死というものが人間をこれほど深い悲しみに陥れるのか、と改めて知り、周囲の悲しみに深く共感し、死の力に対する憤りと深い悲しみを涙で表されたのです。


 正論より寄り添い。悩んでいる時に「あなたが悪い」と分析されたり、「がんばれ」と励まされたりするより、ただ一緒に泣いてくれる人が必要なのではないでしょうか。神様は私たちの抱える絶望を「不信仰だ」と突き放すのではなく、誰よりも先に「一緒に泣いてくださる方」なのです。


 しかしこのお話は共感して泣いてくださっただけでは終わりません。イエス様は墓の入り口に立ち「石を取り除けなさい」と言われます。石を取り除ければ、腐って悪臭を放つ遺体と直面することになります。絶望と共に葬った遺体とをもう一度眺めれば、さらなる絶望しかありません。しかし、イエス様は人々に強いて石を取り除けさせると、暗闇に向かって、「ラザロ、出てきなさい」と叫びました。


 神様の声、イエス様の声は、私たちが「ここはもう見せられない、届くはずがない」と諦めている汚い場所にこそ、真っ先に届くのです。


 こうしてラザロは再び命を得ました。キリストから命を得、復活に預かったのです。ラザロは顔を覆いで包まれ、手と足を布で巻かれたままで、まるでゾンビのようです。それをご覧になったイエス様は穏やかな声で人々にこう言われました。「ほどいてやりなさい」。


 復活し、まだ十分に動けないでいるラザロに、イエス様はご自分で手を出すのではなく、ほどくのは周りの人達に任せられました。ここからはあなた達でできるだろう、と言われているようです。


 私たちを縛っている「過去や失敗」や「どうせ無理だろうという諦め」、生と死を隔てている包帯。そのようなものが見えていたとしても、イエス様は今日、泣きながら、叫びつつ、そして、ほどいてやりなさいとおっしゃいます。キリストが命であり、復活であるからです。


 もちろんこの後、蘇ったラザロにも、マルタにもマリアにもこの世の命が終わる時が訪れます。しかし復活の命を知った彼らは、喜びを持って御国で新たな命に蘇ったことでしょう。復活とは、誰も死なないでゾンビのように生き続ける教えではなく、人は一度死んでも新しい命を得ることができる、それを信じなさい、というイエス様の涙をもった教えなのです

 寒かった冬も終わり、あっという間に花々が咲き始めました。十字架に向かうイエス様は、命の在り方を変えるために、私たちの身代わりになって死ぬことで、私たちに「何度でもやり直せる命」をくださいました。


 「もう遅い」なんてことはありません。むしろ、これからです。今日、みなさんにある包帯をほどき、ほどかされ、あらたに命を得たものとなり、そして、軽やかな気持ちと足取りになり、キリストにある我が道を歩んでまいりましょう。




幼稚園正門入り口のすぐそばに
小さな植え込みとプランターの置かれたミニ花壇があります
そこの住人(?)ブリキのカエルさん
厳しい冬でボロボロになったこのヒトが
春の日差しの中で見つめる先には何が?

もうちょっと寄ってみましょうか

はい、青空のもと
卒園式が行われたのです
昨今いろいろ差し障りがありますので
式典の模様や園児さんの写真は載せられませんが
おめでとうございます
(式典そのものは礼拝堂で行われました)


いくつかの植物を実験的に植えてみましたが
早朝はマイナス10度近くにもなる厳しい飯田の冬
吹きっさらしで生き残ってくれた草花は
パンジー、ビオラ、シロタエギク、葉牡丹くらいでした
でも、一冬の寒さを耐えた花々は
喜ぶようにもりもりと咲いています
子どもたちもかくあれ〜〜〜(^▽^)

2026年3月16日月曜日

「目を開くキリスト」(日曜日のお話の要約)

四旬節第4主日礼拝(2026年3月15日)(緑)

詩編23(旧854)

エフェソの信徒への手紙5章8―14節(新357)

ヨハネによる福音書 9章1―41節(新184)


 私は小学校高学年から中学校へと成長期したのはもう半世紀も前のことです。母親はクリスチャンで一緒に教会に通いましたが、その一方で競争社会に生き抜く為という名目でたくさんの習い事も与えられ、日曜は教会、平日は学校と習い事、という忙しい生活を送りました。


 そんな生活を続けていれば自然と生活も荒れるものです。校内暴力という荒んだ言葉も生まれていた頃で、親しい友達達は、けんかや盗みに手を出しました。喧嘩に勝つためにとか、ばれずに万引をするためになどとと、作戦や計画を立てさせられることもしょっちゅうでした。塾や習い事は適当にサボり、たまり場に集まっては粋がっていました。


 が、やがて1人が盗みで捕まると芋づる式にずるずると捕まってしまい、私もその仲間ということで補導されてしまいました。「闇」から「闇」の世界です。


 もし、みなさんが50年前にタイムスリップをしてその頃の私を見たなら、両親の教育方針やその子の資質など、評論家のようにあれやこれやいうかもしれません。小さい頃から教会で過ごしていたのに、あれは教会の恥だなと思うかも知れません。実際、当時通っていた大阪教会でもそれなりに白い目で見る人もいました。


 しかし感謝なことに、その時の牧師夫妻をはじめとして、私の更生に手を貸してくれる方も何人もいて、私の中でイエス様を思う信仰も成長し、変わっていくことができました。


 私たちはいつも無意識に自分や他人に「レッテル」を貼っています。イエス様に忠実に生きるために犠牲を払うよりも、「あの人みたいな能力はないから」「私が努力しても無駄だから」などなど自分に言い訳をし、いつの間にか「どうせ私は大して能力のないクリスチャンだから」とレッテルを貼ってしまいます。厄介なことに一度レッテルを貼ってしまうとそこからなかなか自由になることができません。そうやって自分の心の目を曇らせ、出口のない暗闇を作ってしまいます。



 本日の聖書の福音書の場面を見てみましょう。生まれつき目の見えない人を前に、イエス様の弟子たちは「この人が盲人なのは誰の責任ですか?本人か両親が罪を犯したからですか?」と犯人探しを始めます。これは現代に例えば、補導された子を見て「親の育て方が悪いから」とか「あの子の根性が曲がっているから」と決めつける世の中の視線と同じです。


 イエス様は、弟子たちの無責任で思いやりのない意見を取り合うことはありませんでした。ただ、弟子たちに向かってきっぱりと「誰の罪でもない。神の業が現れるためだ」と断言されたのです。


 過去の「原因」を探ってあれこれ責めたてるのではなく、この困難を通して「これから何が起こるか」という未来に光を当てたのです。


 弟子たちはただ好奇心で問いかけるだけで、その人と関わりを持つ気などありませんでした。しかしイエス様は全く違いました。目の見えないその人に癒しの手を差し伸べ、私はあなたの人生に責任を持つ、と神様の業を行われたのです。


 ただ、そもそも彼はイエス様に助けを求めていませんでした。どこかのラビが面白半分に自分に関わろうとしているのか、うんざりだなあ、くらいにしか思っていなかったかもしれません。律法によれば生まれつき重度の障害を持つ彼は、神様から捨てられた存在なのです。からかわれたり差別されたりすることに慣れてしまっていたのでしょう。


 そんな彼に対し、イエス様は地面に唾をし、唾で土を捏ねて泥を作ると、その人の見えない目に塗ったのです。唾でこねた泥を塗られて喜ぶ人はまずいないでしょう。もし彼の目が見えていたら、恥ずかしく、不快に感じたかも知れません。しかもそこは彼の人生を絶望に陥れた、最も悲しい部分だったことでしょう。


 しかし、これはイエス様が彼の痛みに直接触れた瞬間でした。イエス様は、私たちが「一番隠したいドロドロした部分、闇に囚われてしまった過去や人間としての弱さ」を汚いとは言わず、そこに手を触れて、変えてくださる方なのです。


 イエス様は泥を塗った後「シロアムの池で洗いなさい」と命令されます。見えない目に泥を塗られた彼の姿は傍目には惨めで滑稽な有様だったでしょう。イエス様が何をしようとしているのか十分に理解できていないため、彼の心はまだまだ闇の中です。しかしイエス様のご命令は一筋の光となって彼の心に差し込んでいました。その光が彼を突き動かしたのです。


 イエス様が行くように、と命じられた「シロアムの池」のシロアムとは、「遣わされた者」という意味です。彼は盲人ではありましたが、シロアムの池の場所くらいは知っていました。しかし、地下水路の端にあるその池に行くには階段を降りなければならず、手探りで歩くのは大変だったでしょう。しかし、自分に関わってくださった方の言葉には威厳と思いやりが溢れていた、きっと何かが変わるはずだ。彼がイエス様を信じて一歩踏み出したとき、奇跡が起こりました。池で泥を洗い流した時、彼の目は見えるようになったのです。


 彼の取った行動は、私たちが教会に集うことと似ています。心に満たされないものを抱え、大した期待もせず、ただ習慣として教会に足を運ぶとしたら、そこになんの意味があるのでしょうか。何も起こらないと嘆くだけの人でしょうか。しかし、ここでイエス様を信じて、本当に歩みだすとき、今の状況がどうであれ、その重い腰を上げた先に、新しい視界が待っているのです。


 この時、目が見えるようになった彼は、その後、イエス様に反発するファリサイ人達から批判され問い詰められますが「あの人が私を治してくれた」という事実だけを握りしめて堂々と生きていきました。


 もしかしたら、礼拝に来られる方の中にも心の中で神様に失望している方がおられるかもしれません。祈ったけれど何も良いことが起きなかった、そんな思いを抱えたままで、クリスチャンになってからも、その過去や失敗に痛みや辛さを覚えているかも知れません。


 私たちは隠したい過去や触れられたくない傷を、神様に差し出すのは勇気がいります。けれども、私たちが信じる神、イエス様、そしてイエス様が示してくださった神様は、あなたが抱えている闇に光を与え、自分自身や世間から貼られたレッテルなど剥がしてくださいます。


 あなたの過去は、これからの迷える人々の闇を抱えている人々の希望になる。

 そう語りかけるイエス・キリストの光の中で、与えられた使命を跳ね返すのではなく、受け入れて、遣わされたものと自覚し、ともに、新しい景色を見ていこうではありませんか。



3月14日は土曜学校でした

長野市に引っ越したお友達が久しぶりに参加するというので

親しかった子ども達が誘い合い

いつもより少し男子が多く

トータル17名が賑やかに集まってくれました

…が、一方こちらはスタッフ不足

うれしい悲鳴を通り越して

礼拝から工作終了まで

かなりハードな2時間でした


ありがたかったのはお子さんと一緒に

参加してくださった保護者の方が

積極的にお手伝いくださったこと

そうでなければ乗り切れなかったかもしれません

本当に感謝です


恒例の「作品と一緒に」の写真

何名か載せておきます

見てやってください


Kくん、Mくん遠くから来てくれてありがとう
また来てね


黙々と細部まで丁寧に作ってくれたNちゃん
選んだ色も爽やかで綺麗
今回の作品大賞はあなたです!

2026年3月8日日曜日

「サマリアの女」(日曜日のお話の要約)

四旬節第3主日礼拝(2026年3月8日(日)(紫))
出エジプト17章1-7(旧) ローマ5章1-11節(新)
ヨハネによる福音書4章5―42節(新)

 本日は「サマリアの女」のお話しです。サマリア人というと、ユダヤ人と対立する人々であることは皆さんご存知だと思いますが、サマリア人とユダヤ人は元を辿れば同じ民族で、過去には共にモーセの十戒や律法を信じていました。
 
 サマリア一帯はかつて北イスラエル王国と呼ばれており、南側は南ユダ王国と呼ばれエルサレム神殿を中心としていました。しかし北イスラエル王国は紀元前8世紀にアッシリアとの戦争に敗れ滅びてしまいます。その後、サマリア地域に他の民族が移り住んで混血が進むと、宗教も変化し、十戒の最後に「ゲリジム山に祭壇を築くべし」という独自の項目が追加されたという記録もあるそうです。

  南ユダ王国の方も6世紀にバビロニアとの戦争に敗れますが、サマリアの人々とは異なり、血統的純潔と聖書の教えの継承に強くこだわりました。やがて復興を果たすと、先祖から受け継いだ律法とエルサレム神殿を信仰の中心とした宗教国家を作り上げます。こうして二つの国は似て非なるものとなり、礼拝する場所や聖書の解釈で激しく対立するようになってしまったのです。
 
 そのサマリアで、一人の女性が、まっ昼間に、一人で水汲みをしています。通常、水汲みは涼しい朝夕に共同で行う社交の場です。この描写だけで、彼女の生き方が後ろ指を指されるようなものであり、人目を避けていたとわかります。 

 ここで著者のヨハネは、彼女の「孤独な水汲み」を、人間の心の奥にある「満たされない思い」の象徴として描いています。 

 一方イエス様はなぜこの時サマリアに来られた理由について聖書にこう書いてあります。「イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を作り、洗礼を授けておられるということがファリサイ派の人々の耳に入った」揉め事を避けようとしたイエス様は、ユダヤ地方を去りガリラヤに向かいます。その通り道がサマリア地方でした。

  ここで不思議なことが起きます。イエス様が真昼間に水を汲む、一癖ありそうな女性に話かけるのです。ユダヤ教のラビと不道徳なサマリアの女、この世的には全く相いれない者同士です。しかしこの女性の抱えている孤独や闇を感じ取ったイエス様はあえて話しかけるのです。会話は初めのうち全くかみ合わないように思えましたが、イエス様は彼女の心の闇に遠慮なく切り込んでいかれます。

  イエス様は、洗礼をめぐって揉め事が起きたことに痛みを感じておられました。水によって洗礼を受けても、多くの人がそこ止まりで、形だけの悔い改め、形だけの信仰になってしまったことを知っておられました。だから不毛な水汲みを続ける女性に向かって、「この水を飲むものは、誰でもまた渇く」と言われたのです。そしてその後すぐに、「わたしが与える水、イエス様が与える水を本気で飲む者は決して渇かない」と約束されたのです。 

 この「渇くことのない水」とは何でしょう。日本でも神社や仏閣を訪ねてみますと、湧き水があって、その水を使って手等を洗い清めて下さいと注意書きがあります。水が湧いているということは、戦さや災害が起きても飲料水が得られ、生活が出来るということでもあります。
 
 イスラエル神殿も同じことが言えて、旧約聖書のエゼキエル書47章には「命の水」と題した預言があり、この神殿から湧いている水によって、生き物がいきいきと生息し、植物は生い茂る、まさに命の水である、と記されています。 

 しかしイエス様は、神殿という固定された場所ではなく、ご自分こそが命の水だ、とサマリアの女性に示されたのです。 

 彼女は今まで心の渇きや孤独を癒そうとして次々と5人の夫を得ました。この人なら私を尊重し、守り、大切にしてくれる。しかしその思いは次々と裏切られ、今は夫ではない男性と共に過ごしていることをイエス様に指摘されます。しかし不思議なことに責められているというより、「心の重荷を打ち明けて神様に委ねるように」と促されているようでした。彼女は自分が心の底では何を求めているかに気づきます。それをイエス様に委ねたとき、彼女は孤独から解放されたのです。

  私たちは神様の前では清く正しく振る舞う必要があると思いがちです。しかし上辺だけの正しさなど神の子イエス様の前では通用しません。イエス様がサマリアの女性のところに来られ、話しかけられたように、神様の方が先に救いを必要としている人に近づき、愛して、その孤独を癒そうとしてくださるのです。

  その後、このイエス様と出会ったサマリアの女に大きな変化が起こります。彼女は水がめをおいて新しい人生へと歩み出したのです。水がめを置くということは、飢え渇きの象徴であった「水がめ」を手放したということです。汲んでも汲んでも空になる水瓶にしがみつくのではなく、イエス様こそ自分の魂が求めていた、乾きを癒してくださる主である、と確信したのです。 

 彼女はイエス様を伝えるものになりました。避けていた街の人々のところへ出向き、自分の過去をあえて晒し、イエス様の偉大さを証したのです。この私でもイエス様によって救われたのだとその喜びを示す時、人々の心に風が吹くのです。

  劣等感や孤独から逃れようと誰かをおとしめたり虚勢を張ったりしても一時的な満足に過ぎず、心の闇は深くなるばかりです。そんな虚しいことはやめて、弱さを分かち合ってくださるイエス様の前に素直になり、自分を変えてくださったイエス様の存在を伝えることで、サマリアという町でさえ命の水を取り戻したように、誰であっても心の闇は清められるのです。
 
 私たちが置かれている社会は、数の論理やお金持ちの論理で動いています。お金持ちになれば、やりたいことができて、満足する生き方ができるという考えが当たり前になっています。しかし、本当はそれだけで人は決して満たされることはありません。

 イエス様が、あなたに与えてくださる「生ける水」を受け入れるとき、あなたの人生が劇的に変わり、あなたがこだわっていた一時しのぎの満足感から解放され、イエス様に繋がっていることに喜びを覚え、人生が回復するのです。そうすることで神様に感謝する日々が、いつまでも続くのです。


3月の土曜学校は14日に行います
100円ショップを覗きますと
2月中から可愛らしいイースターグッズが並んでいます
思わず手に取りそうになりますが、でもちょっと待って
イースターは単なる春のお祭りではなく
イエス様が十字架にかかって復活された日です
そして今はなぜイエス様が十字架にかかる必要があったのか
それは私たちの罪の身代わりだよね、と
思い巡らす「受難節」です

ということで土曜学校でもそういったお話をする予定です
工作は毎年イースターリース
心を込めて復活祭の準備をしましょう、という趣旨なのです

ふわふわの毛糸を使って作ると
優しい質感になります
サンプルを作ってみて
ちょっと可愛らし過ぎたかなあと反省中
ハードなものやワイルドなものが好きなお子さんも
たくさんいますから…(^^;)
でも、やってみれば楽しいと思うので
ぜひ作りにきてください!