2026年10月25日日曜日

「愛と奉仕で我ここに生きる」

聖霊降臨後第22主日礼拝(2026年10月24日)(緑)

レビ記 19:1-2&15-18(旧)

Ⅰテサロニケの信徒への手紙2:1-8(新) 

マタイによる福音書 22:34-46(新43)


 本日の礼拝は宗教改革記念日も近いので、500年と少し前、マルティン・ルター、つまり私たちルーテルの教会の元を築いたルターが大きく関り、世界のキリスト教事情が大変革した出来事に触れてまいります。


 500年前のキリスト教は、今のカトリック教会の古い姿ですが、政教分離どころか、ヨーロッパ社会のほとんど全てを支配していて、教皇は諸国の王の上に君臨していました。ですから教会を変革を試みることは、社会秩序を乱す大きな罪と見なされました。


 当時、カトリック教会は、主にサン・ピエトロ大聖堂の改築費用を集めるため「贖宥状」、いわゆる免罪符を販売していました。これを買えば罪が赦され、地獄に行かなくて済む、と宣伝したのです。


 ルターは修道士の傍ら、大学で教授として聖書を深く研究し、学生にも教えていましたから「お金で救いや喜びが買えるかように教えるのは、イエス様を侮辱することであり、神様が最もお嫌いになる愚かな考え」だとわかっていました。こんな考えが広まればキリスト教は堕落しきって、いずれ崩壊してしまう、と強い危機感を覚えます。そこで1517年10月31日にヴィッテンベルクの城教会の扉に教会の間違いを指摘した『95箇条の提題』を掲げたのです。


 興味深いことに、同じ時期に印刷機が発明され、書籍が出版できるようになったので、これを活用し、自分と考え方の似ている学者同士で議論するため、『95箇条の提題』を発表し、その後もいくつかの本を出版しました。


 しかしカトリック教会がルターをそのままにしておくはずもなく、1521年に、神聖ローマ帝国、現在のドイツですが、そこのボルムスという町で宗教裁判を受けさせるために呼び出します。その裁判で、ルターに出版したすべての本を否定し、撤回するよう迫ったのです。


 宗教的リーダーや国の支配者は、被告人ルターが「私がわるうございました、間違っていました、もう大学の教授や教師は辞め、宗教改革運動から手を引きます」と言わせようとしたのです。


 そしてもしルターがこれを受け入れない場合は、誰がルターを殺害しても罪に問われない、と決められてしまいます。ルターが裁判所から一歩出れば命の保障はない、誰に殺されても文句は言えないのです。そして権力者の側は被告人ルターのことを殺す気、満々でした。


 ここにきて、ルターは神様のために正しいと思うことをし続けるか、信念を曲げて自分の命を守るか、という究極の二択を迫られたのです。ルターは一晩悩みに悩み、翌日、裁判の場で語ったのが「我ここに立つ」という有名な言葉でした。この言葉はその前後も重要な言葉なので、それを含めてご紹介します。


 「私の良心は神のことばの虜です。良心に反して進むことは安全でも正しくもないため、私は何も撤回できないし、するつもりもありません。ここに私は立ちます。これ以上どうすることもできません。神よ、私を助け給え。アーメン」


 ルターは、自分が宗教改革へと召されたのは、自己顕示欲などではなく神様の導きだから、神様が自分に「やめろ」とおっしゃらない限り、神様に与えられたこの使命を貫き通すと覚悟を決めたのです。


 命懸けの宣言であるこの言葉は、心の中にイエス様が住んでおられるクリスチャンなら、みな胸が熱くなるはずです。元々宗教改革に理解を示していたザクセンの領主フリードリヒもその一人で、彼はルターを守るためにあえて誘拐するような形で連れ去り、自分の城に匿います。ルターはここで、ラテン語でしか読めなかった聖書を、民衆でも読めるようドイツ語に翻訳していきます。こうして宗教改革はさまざまな理解者を得て前進していったのです。


 さて、本日の福音書では、ユダヤ教の律法の専門家が、イエス様に質問します。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょう」


 当時の律法には613もの掟がありました。律法学者たちはこれらの掟をどのように整理し、どれを最優先すべきか神様そっちのけで日々議論を交わしていたそうで、本気でイエス様の意見を聞きたかったわけではなく、イエス様を陥れようとしただけでした。彼らの頭の中は地位や名誉への執着でいっぱいだったのです。


 イエス様は、そんな彼らに向かって、神を第一に、大切にしなさいというだけでなく「神様を愛しなさい」と強調されました。それは神様を盲目的に崇拝したり、熱狂的に畏れ敬うのでなく、情熱を持って、命をかけて、ただし知性や思考、判断力を持った上で、自分の生活の中で神様を最優先にする、という考え方です。


 そして、もう一つ大切だと宣言されたのが「隣人を愛しなさい」という御言葉です。椅子取りゲームではありませんが、自分の隣に座る人が、尊敬に値するとか、仲良くできるタイプとは限りません。そんな時も、まず神様が自分を無条件に愛してくださっていることを思い出し、神様への感謝の印として隣人を大切にする、ということなのです。


 「ヨハネの手紙一」4章20節には、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」という、ぐさっと刺さるような御言葉が記されています。それは単に「みんなと仲良くする」とか「誰に対しても好意を持つ」ということではありません。それは感情に左右される人間には鼻っから無理なのです。そうではなく、仮に日頃の価値観が違ったり、相容れない相手であっても尊重し、その痛みに共感し、相手の幸せのために具体的な行動を起こすことです。


 イエス様は別の聖書箇所で、「良きサマリア人」の話を通して「今、目の前で困っている人、助けを必要としている人」のすべてがあなたの隣人であると教え、奉仕の大切さを説いててくださいました。


 今お話しした一つ一つの御言葉は、聖書に記されて受け継がれ、ルターたちの宗教改革を経て、誰でも読めるようになりました。聖書は知恵に満ちています。そしてイエス様の示してくださった生き方は難しいようでいて、互いを尊重し合うことでこの世を住みやすくできることを教えてくれています。


 今、まさに難しい時代がやってきました。世界では一握りの権力者たちが武力や経済力に物を言わせて弱い物を踏み躙り、ヨーロッパでは暴動が広まり、AIの世界は一般人には理解できないレベルの不正なアクセスが生活を侵害しています。


 あれ、私たちが想像した近未来は誰もが愛と平和を享受する世界ではなかったのか、溢れる情報が互いに人を弱らせ、傷つけている。

 

 ニュースを見るたびに気持ちが暗くなり、社会に背を向けて楽園はどこかにないものか、と探しに行きたくなります。しかし心が折れてしまいそうなことばかり起きる今だからこそ、私たちも神様に示されたここに立ち、社会の只中にあって、愛と奉仕の思いを大切にし、与えられた信仰に生きるものであり続けましょう。



本日の礼拝で予定通りリーベクワイヤの皆さんに賛美演奏していただきました
ありがとうございます
小さい礼拝堂なのでベルを置くための長机を3本置くと
礼拝堂の幅いっぱいになってしまいます
縦に並べたり横に並べたり、少し斜めに並べたり
毎回あれこれやっていますが
今回の横幅いっぱい、やや斜め
出入りはサイドのピアノ教室から
というパターンが一番いいかもしれません
リーベさんにはクリスマス礼拝も演奏していただく予定です
みなさま、どうぞ聴きにいらしてください


「横幅いっぱい、やや斜め」のパターンで机を並べました


飯田教会「みんなのトピックス」最新号です
お読みいただけたら幸いです

2026年10月18日日曜日

「神のものは 神に返す」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第21主日礼拝(2026年10月18日)(緑)

イザヤ書 45:1-7(旧1135)

Ⅰテサロニケの信徒への手紙1:1-10(新374) 

マタイによる福音書 22:15-22(新43)


 みなさんは「政教分離」とか「信教の自由」と言う言葉をお聞きになったことがあるでしょう。正確には「政教分離の原則」と言います。国が特定の宗教だけひいきしたり、特定の信仰を強制するのを防ぎ、信仰を持つ人も持たない人も尊重する、という考え方です。


 しかし、日本においては結局それは建前で、キリスト教は冷遇されてるなあ、と感じることは多いのではないでしょうか。


 テレビなどでたまに、「うちの会社はイスラム教の人たちのお祈り時間に配慮しています」といった報道を見ることがありますが、「うちの自治体はキリスト教徒の礼拝時間に配慮しています」というニュースは聞いたことがありません。


 信教の自由が憲法で保障されているとはいえ、あくまで日本の風習や慣例を損なわないようにやるのが前提で、町や地区の行事も当然のように日曜に設定され、キリスト者が礼拝に出席できないと嘆いても、「たまに休むくらいいいじゃないですか」という風潮です。その一方で「ルーテル幼稚園や教会は本物のクリスマスをこの地域社会に知らせて欲しい」と言われる事もあって、「どっちやねん」と悩ましい限りです。


 結局のところ、日本のキリスト教は信仰者一人一人がしっかりと考えて神様に繋がり、矜持を持って自分の行動を決めていかなければ、潰されてしまいます。世間に合わせて流されていたら教会そのものが消えていくのです。


 このような宗教と国家の問題は、もちろん日本の問題だけではなく、世界中の歴史の中で、繰り返し繰り返し問題となってきました。本日の福音書にも、そういった側面が出てきます。


 イエス様の時代はイスラエルはローマとの戦いに敗れ、属国として支配されていました。イエス様がお生まれになったのは、アウグストゥスがローマの皇帝となった時代です。ルカ福音書のクリスマスストーリーに「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出た」と書かれている通りです。


 アウグストゥスは通貨制度を整備し、確立させた人物で、金貨や銀貨の表面に自分の横顔の肖像を刻み、裏面には政治的・宗教的な図案を刻印して、ローマが支配しているさまざまな国に流通させました。


 しかし、イスラエルでは皇帝の肖像は偶像と見なされ、これが刻まれたコインは不浄だと、神殿で神様への献金に用いることは絶対にしませんでした。ではどうしたかというと、両替商というビジネスを立ち上げ、神殿の境内で手持ちの通貨を両替したのです。ここからまた汚職が発生するのですが、説明が長くなりますので、本日は本日の聖書箇所に集中して参りましょう。


 本日の福音書には「ヘロデ党」が登場します。彼らはヘロデの一族が王としてユダヤを統治する事ができるなら、皇帝の腰ぎんちゃくになる事も厭わない人々でした。今、平和なのはローマ皇帝に上手に取り入ってきた来たヘロデ一族のおかげだ、ありがたく思えという、なかなか世俗的な考えを持っていたのです。


 一方、ファリサイ派はそんな世俗的な汚れや異教的文化から距離を置くユダヤ教の有力な宗派です。イスラエルの王は主なる神のみであって、ローマ帝国の支配などは排除したい、と考えていました。ですから対立を避けるためとはいえ、できる事なら皇帝への税金など納めたくない、と思っていました。


 ファリサイ派とヘロデ党はいつもは対立する組織でした。それが、イエス様が民衆から人気を得ているのが目障りになったので、手を結び、言いがかりをつけてイエス様の抹殺を計画したのです。


 まず、イエス様に対し、歯の浮くようなお世辞を並べ、理論武装した上で罠にかけようとしました。それが「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問でした。


 もしイエス様が「神の民であるユダヤ人は皇帝などに税金を納めるべきではない」と答えるなら、ヘロデ党の者たちが、ローマへの反逆だ、と騒ぎ、ローマ総督に訴えることができます。逆にイエス様が「ローマへ税金を納めなさい」と答えるなら、今度はファリサイ派が「イエスが、実はローマの支配を受け入れて、それに従えと言っている」とイエス様をおとしめる事ができるのです。


 この質問は、イエス様を陥れるための醜さに満ちていましたが、イエス様はそれを格調高いものへと変えてくださいました。イエス様はまず、このコインに刻まれている肖像は誰か、と質問されます。あさはかなファリサイ派とヘロデ党が「皇帝のものです」と答えるとイエス様はおっしゃいました。


 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」


 聖書には、「これを聞いたファリサイ派とヘロデ党は驚き、イエス様をその場に残して立ち去った」と書かれています。彼らをこれほどまでに驚かせ、退かせたイエス様のお言葉には、どのような意味があったのでしょうか。


 ここで私たちが先ず第一に考えなければならないのは、「神のもの」とは何か、という事でしょう。


 創世記27節に「神は人を自分のかたちに創造された」と記されています。これはユダヤ教徒なら誰でも知っている御言葉でした。当然ファリサイ派とヘロデ党も子どもの頃から叩き込まれてきた考え方です。また、彼らはイエス様の揚げ足をとるために遣わされたのですから、その辺のならず者ではなく、イエス様が言わんとしていることにハッと気づくだけの教養があったのでしょう。


 このイエス様の言葉をあえて言い換えるなら、「人間とは神様の形が彫り込まれたコインのような存在である」人間の心には、目には見えなくても神様のお姿が刻み込まれている、私たち一人ひとりは神様のものだ、という事なのです。


 イエス様は「皇帝が払えというのがユダヤの秩序を保つために必要なら払ってやりなさい」と言われた上で、「しかし、私たちは神様のものなのだから、その良心や信仰まで渡してはいけません」とおっしゃったのです。


 質問者たちは、自分達がどうでも良いような質問でイエス様をおとしめることは、神様の御心ではないことに気付き、自分の底の浅さが恥ずかしくなって逃げ出したのでしょう。これはいかにもイスラエルらしい問答と言えます。


 残念ながら、イエス様は胸を打つ回答をしたにも関わらず、やはり、神殿やローマ帝国に叛逆を企て、世の中を騒がせたという罪を被せられ、十字架につけられ死刑になってしました。正しいものが正しく評価される事が少ないのは、政治や経済利益が優先される社会では、昔も今も変わらないことかも知れません。


 しかしイエス様はこの世の権力に屈したように見えて、復活と天国を堂々とお示しになり、私たちは永遠に神のもの、天国のものであると教えてくださったのです。

 私たちは、すでにイエス様を信じて、神のもの、永遠のもの、神の国のものになっています。改めて、神のものは神にかえす、その御心通り、誰かからの、どっちつかずの質問にもめげず、神にものとしての人生を歩むことを喜びといたしましょう。


秋から冬にかけて、教会は行事が目白押しです

来週10月25日は宗教改革記念礼拝

リーベクワイヤさんのハンドベル特別賛美があります


昨年のリーベクワイヤの演奏


11月15日は子ども祝福式
ルーテルキッズバンドのメンバーは田中としやさんの
指導のもと「私と小鳥と鈴と」を練習中
他にはこども讃美歌「コスレボナヨ」や
「海と空 つくられた主は」「花も」を練習中です
少しでも多くの方が礼拝に出席して
賛美の時間を共にしてくれますように

2026年10月11日日曜日

朝比奈牧師、夏休みにつき…

牧師の夏休みは微妙なものです

自分の代わりに礼拝を行い、お話(説教)をしてくれる
仲間の牧師を確保するところから始めなければなりません
飯田は交通の不便な土地で、別名「陸の孤島」ですから
来てくれる牧師も限られます
さらに、飯田教会は幼稚園と二人三脚なので
幼稚園の先生が次々夏休みをとる時期は
仕事の穴埋めも発生しますから
8月中にとるのはなかなか難しいのです

そんなこんなでこの日曜日にようやく
飯田まで来てくれる先生を確保
晴れて説教一回休み、となりました(笑)

一般的には休みをとった当事者は
責任から解放されて、どこか旅さきで礼拝出席するものですが
この日は教会に残り
引退教職の杉本先生が
ご夫妻で愛車のダイハツのオープンカーで
横浜から来てくれ流のをお出迎え

飯田とフィンランドの関わりを交えての興味深いお話でした

残念ながら、この日曜は飯田全市で
地区ごとの運動会が開かれていて
ルーテルキッズバンドは、ほぼ全員運動会に…
礼拝もそちらに駆り出されたか、出席者は少なく
先生には申し訳ないことをしました

来年はもう少しタイミングを考えて休みが取れますように(^^;)

説教中の杉本牧師

恒例の土曜学校も
秋晴れの3連休には勝てず(涙)
参加人数は少なかったのですが
集まってくれたお友達とかぼちゃのパーパークラフトや
落ち葉の工作をじっくり作ることができました

2026年10月4日日曜日

「ぶどう園のたとえ」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第19主日礼拝(2026年10月4日)(緑)

イザヤ書 5:1-7(旧1067)  フィリピ3:4b-14(新364) 

マタイ 21:33-46(新42)


 本日の福音書の箇所は、ぶどう園のたとえですが、かなり物騒で、イエス様のメッセージを、どう受け取れば良いのか、迷われるのではないでしょうか。


 このお話を理解する鍵は、イエス様がどういう状況におかれていたか、ということです。この時すでにイエス様は3回も、ご自分の死と復活について弟子たちに語っておられました。祭司長や律法学者の手によって捉えられ、十字架にかけられる時が迫っていたのです。


 イエス様と対立した祭司長や律法学者はエリートで、政治家も兼ねていました。中には真面目で誠実な人もいましたが、大抵は保身に走り、そのくせ民衆から一目置かれることが大好きでした。その上、彼らはローマ帝国の顔色を見ることを優先し、社会を改革しようと行動に出る人々を断罪、処罰しました。


 イスラエル国内に混乱が起きないように波風立てず抑え込み、自分の地位も守る。そうすれば神様の国・イスラエルが保たれる、と思い込んでいたのでしょう。しかしそれは正しい信仰ではなく、神様を嘆かせる行動でしかありませんでした。イエス様は彼らの間違いをはっきりさせるために、この譬え話をなさったのです。


 聖書ではぶどう畑やぶどう園は、イスラエルやその民衆を指します。本日のイエス様の例え話では、主人、つまり神様が設備も立派なぶどう園を作り、農夫たちに貸して旅に出るところから始まります。農夫たちは立派なぶどう園に雇われたことに感謝しながら働くならば何の問題もありませんでした。立派な農園ですから、真面目に働けばそれなりの収穫が得られたことでしょう。


 収穫の時期が近づくと、主人の元から僕がやって来て、当然の権利として収穫を受け取ろうとしました。しかし農夫たちはここでとんでもない勘違いをしたのです。「汗水流して働いたのは自分達だ」「いきなりやってきて収穫を持っていくなど許せない」という考えが湧いてきたのかもしれません。


 あるいは、少しサボってもぶどうが採れるのをいいことに、誠実に働こうとせず、中途半端なぶどうしか採れなかったことがバレるのが嫌だったのでしょうか。


 いずれにしても農夫たちは主人の元から送られてきた僕たちを捕らえ、怪我をさせたり殺したり、とにかくひどい目に合わせ、ぶどう一粒も主人に渡そうとはしませんでした。そんなことが何度か繰り返され、ついに主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と息子を送ります。しかし農夫たちは「跡取りのこの息子さえ殺してしまえばぶどう園は自分達のものになる」と思い込み、殺してしまうのです。


 もうお分かりかと思いますが、先ほど「ぶどう園はイスラエルの国や民衆を意味する」とお話ししました。そしてこのひどい農夫たちは神様からイスラエルをより良く治めるよう託された祭司長や律法学者のことです。


 また、農夫たちのもとに遣わされた僕たちとは、旧約聖書に登場する多くの預言者たちです。預言者たちはイスラエルが神様の御心に立ち返るよう、懸命にメッセージを伝えますが、どの預言者も民衆からひどい目に遭わされます。そしてぶどう園、つまりイスラエルはますますメチャクチャになっていきます。


 ここまでお話しすれば、最後に登場する息子というのが、間も無く十字架にかかろうとしているイエス様のことであるのはお分かりでしょう。イエス様は、何度も何度も、神様は注意や指導する人を遣わしてくるよ、その時にあなたは心を頑なにしてはいけない、そうでないと、神様はこの農夫たちのように、あなた方から何もかも取り上げられてしまう。と言われたのです。


 しかし残念ながら、祭司長や律法学者たちは、そうした神様の忍耐強い御心を理解できず、イエス様のお話も理解しようとはしませんでした。いえ、もしかしたら、イエス様の厳しいお言葉のうちに悔い改めたいと思った人もいたかもしれませんが、組織が大きくなるとなかなか小回りが効かず、躊躇しているうちに流されてしまったのかもしれません。


 イエス様は、こうしてイスラエルがダメになっていくことに強い悲しみを感じながらも、祭司長や律法学者が否定し、捨て去った人々の中から新しいリーダーが生まれ、新しい群れが出来、神様の言葉が引き継がれていくことを見通しておられました。それが「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」という御言葉に表されています。


 最後になりますが、先週「るうてる法人会連合の研修会と総会に参加した」と申し上げました。全国からルーテルの幼稚園や保育園、学校や施設などで働くクリスチャンたちが大阪教会に集いました。


 今回話し合われた問題点は、クリスチャンでない人が園長や学校長等の重責に就いたことで発生する問題に関してでした。


 クリスチャンでも自己中心的な人はいて、クリスチャンなら誰でもいいというわけではありません。しかし、神様の御言葉を伝えるために誕生した教育機関の上に立つのに、信仰ない人を選ぶと、この世的な経営ばかりに目を止めてしまうのではないか、とか、しかし人手不足はどうにもならない、とか議論が堂々巡りです。


 どうすればいいんだ、と頭を抱え「わからない、しらない、難しい」という言葉ばかりを頻発しても、誰も代わりに考えてはくれません。時間ばかりが経過して、すっぱいぶどうしか実らなくなってしまいます。


 ぶどう園のたとえを今の私たちに当てはめるなら、世の中がどうあれ、自分達が、まず主の前に謙虚であること、成長するものであり、神様から貸与えらえた教会や施設に感謝するものであり、神様の思いを次につなげるために心を砕くよう望まれていることを知ることです。


 聖書にあらわれた神の言葉は、大小に関わらず、必ず達成されます。この世において、私たち一人ひとりは誠実な雇われびととして神様の業を成していく使命があります。与えられた命や地位や名誉を、自分のものとして生きていくのは自由ですが、聖書から学び、神様からの言葉や知恵を頂き、傲慢にならず、傷みを覚えつつも、変えていくものには、神様からの祝福は約束されているのです。


10月10日は土曜学校です

聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」

(ローマの信徒への手紙12:15)

世の中不幸なことや悲惨なことが多すぎて

自分の心を守るためか

無関心を決め込んだり

ちょっと麻痺しているところがあるかもしれません

心を動かされる出来事があったら

少しだけ足を止めて神様に祈ってみませんか?


工作は鮮やかなカボチャの紙工作です

私たちの教会ではハロウィン的な行事はしませんが

収穫感謝のシンボルとしてカボチャを飾ったりします

毎年運動会と重なることが多く

いつにも増して人数が読めないのが泣所ですが

参加をお待ちしてます