2026年4月5日日曜日

「あの方は復活された」(日曜日のお話の要約)

主の復活礼拝(2026年4月5日)(白)

マタイによる福音書28章1-9節


 みなさん、イースターおめでとうございます。


 突然ですが、みなさんは怖いものってありますか?小さいお友達は、虫とか、注射とか、夜中にトイレに行くのが怖いとかかな?大人の人も「私は怖いものなんかない」と威張っていても、本当はいろんなことが怖いものです。


 神様やイエス様、天使たちはそれを知っているので、人間たちを「恐れるな」、と励ましてくれました。だから聖書には「恐れるな」という言葉がたくさんあります。ある学者さんが聖書を全部調べて数えたら、なんと300以上あったそうです。


 今日の聖書箇所にもありますよ。天使が言った言葉が「恐れることはない」ですね。この他に「恐れることはない」と書かれているところを知っていますか?例えば、クリスマス劇で天使が羊飼いに言った言葉を思い出してください。


 天使が羊飼いに「イエス様がお生まれになった」と、嬉しいお知らせをしようとしました。ところが、羊飼いは自分のところに立派な天使が来るなんて考えたこともなかったので、何か悪いことをして天使がバチを当てにきたんだ、自分は死んでしまうかもしれない、と怖くなりました。天使はそれに気がついて「羊飼いさん、怖がらなくていいですよ」と言ったのです。


 他に有名なところでは、お弟子さんたちが夜の湖で、うまく舟が漕げなくて困っている時、イエス様が湖の上を歩いて助けに来た時のことです。


 お弟子さんたちは、まさかイエス様が水の上を歩けると思いません。夜中に水の上を歩いて近づいて来るイエス様を幽霊と見間違え、呪い殺されると勘違いしてとっても怖がりました。それでイエス様は「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」と言ってくださったのです。


 人間はいろんなものが怖いけれど、「死ぬこと」が一番怖い、と天使もイエス様も知っていました。大人になると「あとどれくらい生きられるのかなあ」とか、「死んだらどうなるんだろう」とか、「苦しんで死ぬのは嫌だなあ」とか「死ぬこと」を考えることが多くなって、怖くなってきます。


 神様は天国からそれをご覧になって、人間がかわいそうになりました。そこで「きれいな心を持っていれば、死んでも神様の国に来られるから、怖がらなくても大丈夫です」と教えました。


 ところがです。大抵の人間は、自分が綺麗な心を持っている、と思えないのです。小さい子でも、お友達の嫌がるいたずらや意地悪を、わざとすることがあります。大人になれば、仲良くできない人に意地悪をすることはもっと増えます。綺麗な心の正しい人になるのはとても難しいのです。そして「私のやった意地悪や嘘は神様には全部バレているだろうなあ」と思って、自分みたいな人間は天国に行けない、地獄かもしれない、死ぬのが怖い怖いと言い続けるのです。


 困ってしまった神様は、人間を助けるために、すごい計画を立てました。それはこんな計画です。ある人が、もうめちゃめちゃに悪いことをしたとします。警察に捕まって、死刑になることが決まりました。普通ならそんな人は地獄行きまっしぐらです。でもその人が心の底から悔い改めて、つまり反省して、イエス様にお祈りするなら、死刑になっても、地獄ではなく天国に行けるようにイエス様が助けてくれる、というのです。


 どうやって助けると思いますか?それはイエス様が、悪いことをした人の身代わりになって、最高に痛くて苦しい死に方で本当に死ぬ、という計画だったのです。


 イエス様は「死ぬのが怖いよう」と泣いている人間が、もう怖がらなくて良いように、苦しい十字架の死刑になりました。悪いことをした人でも、「イエス様、私の代わりに十字架にかかって、苦しい思いをさせて本当にごめんなさい。ありがとう」と心からお祈りできれば、もう大丈夫。天国に行くことができるのです。


 さて、今日の聖書の箇所をもう一度見てみましょう。イエス様が死んで三日目の朝早く、お弟子さんの中で、勇気のある女の人が二人、お墓に行ったと書いてあります。死んでしまったイエス様のお体を綺麗にしてあげようと思ったのです。


 女の人たちはすごく悲しくて、「イエス様を助けてあげられませんでした、ごめんなさい、赦してください」。そんなふうに考えているうちにお墓につきました。するとそこに天使がいたのです。女の人たちは、イエス様を助けられなかったバチを当てにきたのかな、私たちは死ぬのかな、とガタガタ震えました。


 でも天使は言いました「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」


 女の人たちはびっくりです。嬉しくなって、他のお弟子さんたちにも教えてあげようと、お墓を飛び出して走り始めました。するとなんと目の前にイエス様が立っていて、明るく「おはよう」と言ってくださったのです。天使の言ったとおり、イエス様は一度死んで、三日目に復活なさったのです。これが神様のご計画でした。


 「あの方は復活なさったのだ。」天使の言葉はとても大切です。イエス様は冷たいお墓にいるのではなく、天国からただ見下ろしているのでもなく、どんな時も私たちを見守ってくださいます。


 私たちの人生は幸せなことがいっぱいあるでしょう。そしてそれと同じくらい泣きたくなって、怖くなって、もうだめだ、と思うこともあるでしょう。でも、どんな時も、イエス様も天使も神様も「恐れるな」と言ってくださいます。


 そのお言葉を信じて、私たちが天国に行く時まで、イエス様と共に歩き続けましょう。「イエス様は復活なさった。恐れるな」これを私たちの大切な言葉としてまいりましょう。



本日は復活祭

皆様はどんなふうに過ごされたでしょうか?

飯田教会では、リーベクワイヤ(ハンドベル)と

ルーテルキッズバンドが賛美を担当

キッズバンドのメンバーは朝のリハーサルが終わると

たまご探しを楽しんでから

礼拝に参加しました


リーベクワイヤさんのハンドベル演奏を
ちゃんと座って聞いている子どもたち


教会員の方から写真をいただきました(^▽^)


アレルギーのお友達がいるので
たまご探しはゆで卵ではなく
「たまご型カプセル」に
キャンディと小さな十字架の
ペンダントを詰めてみました
どんな反応かなあと思いましたら
「これをつけて歌っていい?」と大はしゃぎ
予想を上回る反応にこちらも嬉しくなりました

2026年3月29日日曜日

「主のエルサレム入城」(日曜日の説教の要約)

四旬節第6主日礼拝(2026年3月29日)(紫)【枝の主日礼拝】

イザヤ書50章4-9a(旧1145)

フィリピの信徒への手紙2章5―11節(新363)

マタイによる福音書 21章1―11節(新39)


 さて、明日から教会のこよみでは受難週と呼ばれる一週間を過ごします。この1週間は主イエスが十字架に着くまで、どのように過ごされたかを追体験していきます。一番大きな事としては、木曜日の夜に教会に集まり、イエス様が弟子たちの足を洗ったようにお互いに支え合うことを確認し、最後の晩餐の出来事を振り返ります。翌日、金曜日には十字架に掛けられた午後3時に集まってイエス様の苦しみを覚え、自分の罪深さを振り返りつつ3日目の復活に備えるのです。


 教会にもよりますが、平日に集まることが難しい、という理由もあってこうした礼拝はやらなくなったところが多いようです。キリスト教の華やかな典礼、クリスマスやイースターは、楽しく和気あいあいと過ごそうと演出を考える教会員も、イエス様を苦しめた、人間の罪の恐ろしさ、ひいては自分の罪深さに関しては、とりあえずスルー、という方が増えてしまったようにも思います。


 まあそういった批判的なことはちょっとわきへおきまして、本日は受難週の幕開け、棕櫚の主日と呼ばれる日曜日です。イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城されたことが新約聖書の四つの福音書すべてに記されている、重要な場面です


 入城と言うのは、首都エルサレムの街が城壁に囲まれているからです。織田信長などが出てくる時代劇で京都に登ることを「上洛」と言いますが、イエス様が堅固な城壁に囲まれた街に入っていかれるお姿は、何かそれを思い起こさせる力強さです。


 民衆はそのようなイエス様を見て、喜び、興奮し、棕櫚の枝を振って「ホサナ、ホサナ」と迎えいれ、自分達の上着をカーペットのように道に敷き詰めました。


 彼らはイエス様にそれぞれに自分の願いを重ね合わせ、この方なら豊かな暮らしを取り戻してくれる、とか日頃の不満の解消を叶えてくれる、などと期待したのです

 ただ、人々は目の前でイエス様がロバに乗っておられることの意味をどれほど深くとらえていたのでしょうか。


 旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王が来る。彼は正しく、勝利を得る者、へりくだって、ろばに乗ってくる。雌ろばの子、ろばの子に乗ってくる。」という一節があります。ユダヤの人々なら、当然思い浮かぶ一節です。


 本来ならば、人々は威厳のある軍馬ではなく、小さくて不格好な「ろば」に乗って現れた、ちょっと道化のようなイエス様のお姿を冷静に、かつ尊敬を持って捉え、理解するべきでした。イエス様は武力による支配など、全く望んでおられませんでした。それどころか、神の愛を持って人々を治めようとなさるので、軍馬ではなくロバに乗られたのだ、ということをどれほどの人々が理解したでしょうか。


 イエス様ご自身は、この人々が勝手にご自分に期待し、勝手に期待を裏切られたと怒り出すであろうことをご存知でした。数日後には手のひらを返して「十字架にかけろ、十字架にかけろ」と叫ぶことを知っておられたのです。もちろん正確には同じ人々かどうかはわかりません。しかし、人の心があっという間に変わってしまう醜さと、それでも前へ前へと進み続けたイエス様の豊かな愛がここで対比されているのです。


 私たちはこの聖書箇所を読むたびに、ユダヤの人々の心変わりに呆れますが、実は自分自身の心もまた変わりやすいことを知っています。高く評価していたはずの人を一瞬で嫌いになったり、些細なことで尊敬から軽蔑に変わってしまったり。


 そしてコロコロと心や態度を変える自分の不誠実さよりも、こうなったのは向こうの責任だ、と開き直ってみたり、期待と裏切りの中で、もがいて生きているのです。


 そんな私たちの移ろいやすい心や見栄や欲望、そして自分勝手な期待や我儘という、神さまから目をそらさせるその罪の報いを、ご自分が十字架で引き受けるために、イエス様はあえてロバに乗られたのです。


 私たちは今日も「ホサナ、ホサナ私を救ってください」と叫びをあげます。「今、この瞬間救ってください」という叫び、「なんでもいいから助けてください」という悲鳴。それを突き詰めると本当は、「欲しいものをください」という駄々っ子に似た、欲望と見栄に縛られた自分自身に気づかされるかも知れません。


 イエス様の思いを理解できないまま、助けを求めて泣き喚く私たち。本当の助けの意味すら知らない私たち。それは神様の目から見れば、救うに値しない、手を差し伸べる価値のない、愚かな集団に見えたかもしれません。それでもイエス様は「この空虚で、すぐに飽きるものに心を奪われてしまう、情けない私を、どうか助けてください」という魂のSOSを拾い上げ、哀れみ、愛して、手を差し伸べてくださるのです。


 新しくリノベーションのなった会堂は、幼稚園の遊戯室としての役割から解放されましたので、受難週の礼拝、聖月曜日から聖金曜日まで礼拝を守る喜びが与えられています。けれどもそこまでイエス様に向かって心を注ぎ出すが礼拝がなかなかできないのは、何をイエス様に償って頂くものか、何から救っていただきたいと思っているのか、何を差し出すかが分からないまま、ここまで来たからかも知れません。


 それでもイエス様は、2000年前のユダヤの人々に注いだのと同じ愛を持って、私のかっこ悪い部分も、あなたの過去へのこだわりも、心の中に仕舞い込んでおきたい全ての罪を背負って十字架へと向かってくださったのです。あなたを愛するが故に。その大きな愛の前に、今日、畏れとかしこみをもって、自分自身を差し出そうではありませんか。



教会の広報誌「みんなのトピックス」
よかったら拡大して読んでください
今週、来週とお葬儀が続きます
神様の元で再会できることはわかっていても
今ここにいない、声も聞けない
ということは寂しいものですね
ご家族に神様の慰めを祈ります

2026年3月22日日曜日

「キリストは復活と命」(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(2026年3月22日)(紫)

エゼキエル書37章1-14(旧1357)

ローマの信徒への手紙8章6―11節(新284)

ヨハネによる福音書 11章1―45節(新188)


 本日の福音書は、ラザロの復活というお話で、死者の蘇りという衝撃的な出来事が記されています。受難週の前に、「もう手遅れだという諦めや絶望からの回復について」一歩踏み込んだ話として記されています。


 17節には「死んでからすでに4日もたっていた」と書かれていて、蘇生するには完全に手遅れであることを表しています。大切な人を失って「絶対無理だ」と絶望感を覚える時、イエス様は私たちに何を示してくださるのでしょうか。


 その前に、先ほど旧約聖書のエゼキエル書37章を読んでいただ来ました。これは受難節によく読まれる、「枯骨の谷」という有名な箇所です。死んで四日後どころではなく、いつ命を失ったのかわからないほどにカラカラに乾き切った骨に向かって、預言者エゼキエルが「神様の霊が入り、生き返る」と預言すると、骨がカタカタと組み合わさり、肉と皮に覆われて蘇るのです。


 この聖書箇所は、戦争に敗れ、信仰を失って霊的に死んでいたユダヤの民を、神様は新しい命へと再生させることができる、というテーマで表されています。それと同時に、神様はどれほど不可能と思われる状態からも、どんな命でも再生させることがおできになる、という「復活の希望」がシュールなタッチで描かれているのです。


 イエス様を出迎迎えたラザロの姉妹であるマルタは、ユダヤ人として幼い頃から旧約聖書に親しんできましたから、この聖書箇所を知らないわけはありません。ですから、イエス様が「あなたの兄弟は復活する」とおっしゃった時、否定などせず、丁寧に「終わりの日に復活することは存じています」と答えたのでしょう。


 彼女は神様への信仰を失ってはいませんでしたが、兄弟の死という悲劇の目に、現実を自分なりに受け止めようと必死だったのです。


 気休めのような慰めはいらない、そんな思いに囚われている時、神様への信仰を持ってはいても、今目の前の出来事に神様のお力は適応されないだろう、と思ってしまう。言い換えれば、私なんかのために奇跡を起こしてくださるはずがない、私は見捨てられたのだ、という諦め。厳しい言い方ですが、この時彼女は信じているふりをしていることで済まそうとしたと考えられます。なぜなら本音は他のところに現れているからです。


 イエス様に向かって、マルタとマリアはそれぞれに同じ言葉を発します。マルタはイエス様を出迎えるとすぐ、「主がここにおられたら、私の兄弟は死ななかったのに」と言います。これは「過去への後悔」と「今の絶望」の中にいることをよくあらわした言葉です。


 マリアはマルタのようにサッとイエス様を迎えに行くことはできずにいました。マルタに呼ばれてイエスを迎えに村の入り口まで行くと、感情を抑えられず、「主がここにおられたら、私の兄弟は死ななかったのに」と泣き崩れるのです。


 他の人々も泣いているのをご覧になったイエス様もまた、涙を流されます。「イエスは涙を流された」この言葉は、聖書の中で一番短い言葉です。イエス様はラザロを生き返らせる力をお持ちであるにもかかわらず、死というものが人間をこれほど深い悲しみに陥れるのか、と改めて知り、周囲の悲しみに深く共感し、死の力に対する憤りと深い悲しみを涙で表されたのです。


 正論より寄り添い。悩んでいる時に「あなたが悪い」と分析されたり、「がんばれ」と励まされたりするより、ただ一緒に泣いてくれる人が必要なのではないでしょうか。神様は私たちの抱える絶望を「不信仰だ」と突き放すのではなく、誰よりも先に「一緒に泣いてくださる方」なのです。


 しかしこのお話は共感して泣いてくださっただけでは終わりません。イエス様は墓の入り口に立ち「石を取り除けなさい」と言われます。石を取り除ければ、腐って悪臭を放つ遺体と直面することになります。絶望と共に葬った遺体とをもう一度眺めれば、さらなる絶望しかありません。しかし、イエス様は人々に強いて石を取り除けさせると、暗闇に向かって、「ラザロ、出てきなさい」と叫びました。


 神様の声、イエス様の声は、私たちが「ここはもう見せられない、届くはずがない」と諦めている汚い場所にこそ、真っ先に届くのです。


 こうしてラザロは再び命を得ました。キリストから命を得、復活に預かったのです。ラザロは顔を覆いで包まれ、手と足を布で巻かれたままで、まるでゾンビのようです。それをご覧になったイエス様は穏やかな声で人々にこう言われました。「ほどいてやりなさい」。


 復活し、まだ十分に動けないでいるラザロに、イエス様はご自分で手を出すのではなく、ほどくのは周りの人達に任せられました。ここからはあなた達でできるだろう、と言われているようです。


 私たちを縛っている「過去や失敗」や「どうせ無理だろうという諦め」、生と死を隔てている包帯。そのようなものが見えていたとしても、イエス様は今日、泣きながら、叫びつつ、そして、ほどいてやりなさいとおっしゃいます。キリストが命であり、復活であるからです。


 もちろんこの後、蘇ったラザロにも、マルタにもマリアにもこの世の命が終わる時が訪れます。しかし復活の命を知った彼らは、喜びを持って御国で新たな命に蘇ったことでしょう。復活とは、誰も死なないでゾンビのように生き続ける教えではなく、人は一度死んでも新しい命を得ることができる、それを信じなさい、というイエス様の涙をもった教えなのです

 寒かった冬も終わり、あっという間に花々が咲き始めました。十字架に向かうイエス様は、命の在り方を変えるために、私たちの身代わりになって死ぬことで、私たちに「何度でもやり直せる命」をくださいました。


 「もう遅い」なんてことはありません。むしろ、これからです。今日、みなさんにある包帯をほどき、ほどかされ、あらたに命を得たものとなり、そして、軽やかな気持ちと足取りになり、キリストにある我が道を歩んでまいりましょう。




幼稚園正門入り口のすぐそばに
小さな植え込みとプランターの置かれたミニ花壇があります
そこの住人(?)ブリキのカエルさん
厳しい冬でボロボロになったこのヒトが
春の日差しの中で見つめる先には何が?

もうちょっと寄ってみましょうか

はい、青空のもと
卒園式が行われたのです
昨今いろいろ差し障りがありますので
式典の模様や園児さんの写真は載せられませんが
おめでとうございます
(式典そのものは礼拝堂で行われました)


いくつかの植物を実験的に植えてみましたが
早朝はマイナス10度近くにもなる厳しい飯田の冬
吹きっさらしで生き残ってくれた草花は
パンジー、ビオラ、シロタエギク、葉牡丹くらいでした
でも、一冬の寒さを耐えた花々は
喜ぶようにもりもりと咲いています
子どもたちもかくあれ〜〜〜(^▽^)

2026年3月16日月曜日

「目を開くキリスト」(日曜日のお話の要約)

四旬節第4主日礼拝(2026年3月15日)(緑)

詩編23(旧854)

エフェソの信徒への手紙5章8―14節(新357)

ヨハネによる福音書 9章1―41節(新184)


 私は小学校高学年から中学校へと成長期したのはもう半世紀も前のことです。母親はクリスチャンで一緒に教会に通いましたが、その一方で競争社会に生き抜く為という名目でたくさんの習い事も与えられ、日曜は教会、平日は学校と習い事、という忙しい生活を送りました。


 そんな生活を続けていれば自然と生活も荒れるものです。校内暴力という荒んだ言葉も生まれていた頃で、親しい友達達は、けんかや盗みに手を出しました。喧嘩に勝つためにとか、ばれずに万引をするためになどとと、作戦や計画を立てさせられることもしょっちゅうでした。塾や習い事は適当にサボり、たまり場に集まっては粋がっていました。


 が、やがて1人が盗みで捕まると芋づる式にずるずると捕まってしまい、私もその仲間ということで補導されてしまいました。「闇」から「闇」の世界です。


 もし、みなさんが50年前にタイムスリップをしてその頃の私を見たなら、両親の教育方針やその子の資質など、評論家のようにあれやこれやいうかもしれません。小さい頃から教会で過ごしていたのに、あれは教会の恥だなと思うかも知れません。実際、当時通っていた大阪教会でもそれなりに白い目で見る人もいました。


 しかし感謝なことに、その時の牧師夫妻をはじめとして、私の更生に手を貸してくれる方も何人もいて、私の中でイエス様を思う信仰も成長し、変わっていくことができました。


 私たちはいつも無意識に自分や他人に「レッテル」を貼っています。イエス様に忠実に生きるために犠牲を払うよりも、「あの人みたいな能力はないから」「私が努力しても無駄だから」などなど自分に言い訳をし、いつの間にか「どうせ私は大して能力のないクリスチャンだから」とレッテルを貼ってしまいます。厄介なことに一度レッテルを貼ってしまうとそこからなかなか自由になることができません。そうやって自分の心の目を曇らせ、出口のない暗闇を作ってしまいます。



 本日の聖書の福音書の場面を見てみましょう。生まれつき目の見えない人を前に、イエス様の弟子たちは「この人が盲人なのは誰の責任ですか?本人か両親が罪を犯したからですか?」と犯人探しを始めます。これは現代に例えば、補導された子を見て「親の育て方が悪いから」とか「あの子の根性が曲がっているから」と決めつける世の中の視線と同じです。


 イエス様は、弟子たちの無責任で思いやりのない意見を取り合うことはありませんでした。ただ、弟子たちに向かってきっぱりと「誰の罪でもない。神の業が現れるためだ」と断言されたのです。


 過去の「原因」を探ってあれこれ責めたてるのではなく、この困難を通して「これから何が起こるか」という未来に光を当てたのです。


 弟子たちはただ好奇心で問いかけるだけで、その人と関わりを持つ気などありませんでした。しかしイエス様は全く違いました。目の見えないその人に癒しの手を差し伸べ、私はあなたの人生に責任を持つ、と神様の業を行われたのです。


 ただ、そもそも彼はイエス様に助けを求めていませんでした。どこかのラビが面白半分に自分に関わろうとしているのか、うんざりだなあ、くらいにしか思っていなかったかもしれません。律法によれば生まれつき重度の障害を持つ彼は、神様から捨てられた存在なのです。からかわれたり差別されたりすることに慣れてしまっていたのでしょう。


 そんな彼に対し、イエス様は地面に唾をし、唾で土を捏ねて泥を作ると、その人の見えない目に塗ったのです。唾でこねた泥を塗られて喜ぶ人はまずいないでしょう。もし彼の目が見えていたら、恥ずかしく、不快に感じたかも知れません。しかもそこは彼の人生を絶望に陥れた、最も悲しい部分だったことでしょう。


 しかし、これはイエス様が彼の痛みに直接触れた瞬間でした。イエス様は、私たちが「一番隠したいドロドロした部分、闇に囚われてしまった過去や人間としての弱さ」を汚いとは言わず、そこに手を触れて、変えてくださる方なのです。


 イエス様は泥を塗った後「シロアムの池で洗いなさい」と命令されます。見えない目に泥を塗られた彼の姿は傍目には惨めで滑稽な有様だったでしょう。イエス様が何をしようとしているのか十分に理解できていないため、彼の心はまだまだ闇の中です。しかしイエス様のご命令は一筋の光となって彼の心に差し込んでいました。その光が彼を突き動かしたのです。


 イエス様が行くように、と命じられた「シロアムの池」のシロアムとは、「遣わされた者」という意味です。彼は盲人ではありましたが、シロアムの池の場所くらいは知っていました。しかし、地下水路の端にあるその池に行くには階段を降りなければならず、手探りで歩くのは大変だったでしょう。しかし、自分に関わってくださった方の言葉には威厳と思いやりが溢れていた、きっと何かが変わるはずだ。彼がイエス様を信じて一歩踏み出したとき、奇跡が起こりました。池で泥を洗い流した時、彼の目は見えるようになったのです。


 彼の取った行動は、私たちが教会に集うことと似ています。心に満たされないものを抱え、大した期待もせず、ただ習慣として教会に足を運ぶとしたら、そこになんの意味があるのでしょうか。何も起こらないと嘆くだけの人でしょうか。しかし、ここでイエス様を信じて、本当に歩みだすとき、今の状況がどうであれ、その重い腰を上げた先に、新しい視界が待っているのです。


 この時、目が見えるようになった彼は、その後、イエス様に反発するファリサイ人達から批判され問い詰められますが「あの人が私を治してくれた」という事実だけを握りしめて堂々と生きていきました。


 もしかしたら、礼拝に来られる方の中にも心の中で神様に失望している方がおられるかもしれません。祈ったけれど何も良いことが起きなかった、そんな思いを抱えたままで、クリスチャンになってからも、その過去や失敗に痛みや辛さを覚えているかも知れません。


 私たちは隠したい過去や触れられたくない傷を、神様に差し出すのは勇気がいります。けれども、私たちが信じる神、イエス様、そしてイエス様が示してくださった神様は、あなたが抱えている闇に光を与え、自分自身や世間から貼られたレッテルなど剥がしてくださいます。


 あなたの過去は、これからの迷える人々の闇を抱えている人々の希望になる。

 そう語りかけるイエス・キリストの光の中で、与えられた使命を跳ね返すのではなく、受け入れて、遣わされたものと自覚し、ともに、新しい景色を見ていこうではありませんか。



3月14日は土曜学校でした

長野市に引っ越したお友達が久しぶりに参加するというので

親しかった子ども達が誘い合い

いつもより少し男子が多く

トータル17名が賑やかに集まってくれました

…が、一方こちらはスタッフ不足

うれしい悲鳴を通り越して

礼拝から工作終了まで

かなりハードな2時間でした


ありがたかったのはお子さんと一緒に

参加してくださった保護者の方が

積極的にお手伝いくださったこと

そうでなければ乗り切れなかったかもしれません

本当に感謝です


恒例の「作品と一緒に」の写真

何名か載せておきます

見てやってください


Kくん、Mくん遠くから来てくれてありがとう
また来てね


黙々と細部まで丁寧に作ってくれたNちゃん
選んだ色も爽やかで綺麗
今回の作品大賞はあなたです!