2026年2月15日日曜日

「ここにいるのは すばらしい」(日曜日のお話の要約)

主の変容主日礼拝(2026年2月15日(日)(白))

出エジプト記 24章12-18  Ⅱペトロ 1章16-21節

マタイによる福音書 17章1―9節(新)


 先週の水曜日は休日ということもあって、週報で予告しておいた通り礼拝堂でささやかな映画会を行いました。作品は有名な「十戒」です。今から70年前の作品ですが、みなさんも映画館やテレビで見たことがあるでしょう。


 もちろん娯楽映画ですから、聖書に書かれていないシーンはかなり脚色されています。しかし脚本や演出に携わったスタッフはきちんと聖書理解をした上で制作していて、肝心なところはきちんと押さえています。ですから、なるほどモーセがエジプトを去った背景にはこんな出来事があったかもしれないな、などとと興味深く見ることも出来ました。


 ところで、本日の聖書箇所にはこのモーセと、もう一人旧約聖書の英雄であるエリヤが現れ、十字架の苦難を前にしたイエス様に語りかけます。今日のお話を理解する上で、モーセについて、海の水を割った人とか、十の戒めが書かれた石版を山から運んできた人、といった知識だけではキリスト者としてちょっと寂しいです。映画を副教材としても良いですから、モーセがイスラエルのリーダーとしてどれほど苦悩したかを知っていると、この時モーセがイエス様に何を語りかけたのか、想像がつくと思うのです。


 モーセの話を続けますが、彼は60万人を超えるイスラエル人をエジプトから脱出させ、40年かけて約束の地へと導きます。しかし、出エジプト記に克明に書かれている通り、この群衆は簡単にはリーダーに従わず、都合が悪くなれば神様のせいだ、モーセのせいだと文句を言い続けます。こんな人々のためになぜモーセが人生をかけたかといえば、ただ神様からそうするよう使命を与えられたから、という一点だけです。


 ここを抜きにして本日の福音書を読み、「モーセが出て来て、イエス様は白くなった。本当に神様なんだねえ」と思うだけで読み飛ばしてしまうなら、十字架にかかろうとするイエス様の覚悟が見えてきませんし、イエス様がどれほどの苦しみを覚えながら人間の罪を背負われたか感じることができないでしょう。


 では改めて主の変容主日の聖書箇所を見て参りましょう。イエス様が、3人の弟子たちだけを連れて山に上り、神様としての本当のお姿、白く輝く栄光の姿を示され、そこにモーセとエリヤがあらわれたため、弟子たちは大慌てです。


 ペトロたちユダヤの民にとって、モーセもエリヤも言葉にできないほど偉大な人物です。彼らがここにいるのなら、ここはまさに神様のお膝元、ここにいれば何一つ困ることはない、と思ったかもしれません。


 弟子たちは今までイエス様と3年半旅を続けてきた苦労が報われると感じたのでしょうか、これ以上、世の中と戦わなくても良いし、冒険の旅もしなくても良い、飢えも乾きも無関係。そんな思いもよぎったかもしれません。


 ペトロが非常に興奮して口走った「ここにいるのは、すばらしいことです」という言葉。これは、おそらく神様の元で全ての苦労から解き放たれるという、解放された喜びを表しているのでしょう。確かにこれは信仰に生きてきたものにとって、最高のご褒美です。


 しかしペトロが神様から「忠実な僕よ、よくやった」「お前はここで休む資格がある」とお褒めいただくのはずいぶん後のことでした。


 神様はいよいよこれからイエス様に大きな使命を果たしてもらうおつもりでしたし、イエス様ご自身もついに使命を果たす時が来た、俗な言葉で言えばこれからが正念場だ、と知っておられたのです。


 イエス様はこれから民に裏切られ罵られ、十字架で苦しみや痛みを経験し、ついには命を落とされるのです。この残酷な経験を経て三日目に蘇り、「死は全ての終わりではない」と示されるのです。これは口で言うほど簡単なことではありません。神様に完全に信頼していなければ成し遂げられることではないのです。


 モーセもエリヤも、形は違いますが、神様から民衆を救うよう命じられながら、その民に裏切られ罵られるという苦悩を通った人でした。だからこそ、イエス様のところに遣わされ、苦悩と栄光について話し合われたのでしょう。


 リーダーが神のために生き、神のために命を投げ出す姿勢を示すことで、一人でも多く信仰を目覚めさせ、御心に生きることを喜びとする人々をこの地上に増やしたい。


 そうしないと、この世界を創った神様の思いを無視する人ばかり増えていき、神様がこの世界を愛していることも知らず、自分の利益のために世界を好きなように扱おうとするのです。つぶしたり、壊したり、人を殺したりすることも正当化し、世界は一部の権力者が好き勝手をする恐れが支配する世界になってしまうのです。


 キリスト者は、そのような世界の只中でも、だからこそ、わたしたちがここに与えられたのだ、と自覚し、置かれた場所で何ができるか必死で考え、キリストの手足となって行動し、生きることを喜びとし、この世界を守るために、生涯に渡って神様の為にと生きて働くのです。


 私たちが知っておきたいことは、イエス様がどれほど、私を愛し、導き、神様のご計画を実行する者として成長させてくださるか、と言うことです。イエス様は、何度も失敗し、挫折を味わったとしても、御心に叶った努力は無駄にならないと励まし、何度でもチャレンジすることを促してくださいます。


 キリスト教会は神様の御心を徹底的に行ったイエス様との出会いによってつくられました。そして教会はイエス様によって御心を行うために集められた人々の場所です。だからこそ私たちは「ここにいるのは素晴らしい」と教会生活を送ることができるのです。



本文にある通り、礼拝堂で「十戒」を見ました。

こんなふうに画面を撮影して載せることが

著作権とか法に触れるかどうかわからないのですが

とりあえずレポートとして載せておきます(^^;)

これはダメだよ、とおっしゃる方がおられれば

削除しますので教えてください



燃えても燃え尽きない柴の前で
神様から使命を授かるモーセ

「十戒」の中で最も有名な
「紅海の水が主によって分けられる」シーン

2026年2月8日日曜日

「地の塩 世の光」(日曜日のお話の要約)

顕現後第5主日礼拝(2026年2月8日(日)(緑))

イザヤ書 58章1-9a  Ⅰコリント 2章1-12節

マタイによる福音書 5章13―20節(新)


 本日与えられたマタイ福音書のイエス様の御言葉は「あなたがたは地の塩、世の光である」という箇所です。「塩」は、食物の腐敗を遅らせたり、加工するにも使われ、世界中で用いられてきました。生活の中でなくてはならないものです。


 しかし使い方を間違えると健康を害することもあり、「健康のために塩分をとりすぎないように」とよく耳にします。塩自体は何も悪くないのに、用いる側の都合で、悪者にされてしまうこともある、塩とはそんな存在なのかもしれません。


 福音書の著者であるマタイは、律法が全ての基準であるユダヤ社会で生まれ育ちました。律法はユダヤ人にとってなくてはならない、言うなれば塩のような存在です。しかし、なんらかの理由で律法を守れない人にとっては残酷な決まりで、律法に基づいて厳しく裁かれる人は、こんな決まりなどいっそ無ければ良いのに、と思ったことでしょう。


 神様がユダヤの民を思って定めた律法が、社会のトップに立つ権力者たちによって都合よく歪められ、当時の人々を苦しめていたのです。マタイはそんな教えならこっちから捨ててやる、と思ったのか、自ら律法を捨てて徴税人となり、ローマ帝国の手先として税金を集め、自らも金儲けをする道を選びます。


 しかし、イエス様に招かれ弟子となった彼は、全く新たな信仰の形が与えられます。生きるためになくてはならない「新しい律法」、つまり「新しい塩」を彼はイエス様から与えられたのです。


 マタイが熱い思いで記した山上の説教は「心の貧しいものは幸いである」との書き出しでイエス様の教えを記しています。ここには一般のユダヤ人の常識を覆すようなさまざまな幸いの形が記されています。順番に、「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」、そして最後に「イエス様のために罵られ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられる人々こそ幸いである」なぜなら、「天に大きな報いがあるから」と教えるのです。マタイはこの教えに人生をひっくり返され、イエス様に命を預けて歩むことに決めたのです。


 そして、まさにイエス様ご自身も、裏切られ、世間から邪魔者扱いされ、馬鹿にされ、兵士から殴られ、唾を吐きかけられ、十字架の上で息絶えます。しかしそれで終わりではありませんでした。神様はたった3日間で、イエス様を復活させ、それを通して死は全ての終わりではないことを示されたのです。


 この出来事を真実として受け止め、の心に刻んだ人々は、この世の中において塩となる。マタイはそう伝えました。そして現実にマタイが世を去った後、どれほど迫害されても受け継がれた聖書の御言葉は、300年後にローマ帝国をひっくり返して世界に大きく広がって行きます。


 世の中が平和な時、塩の教えは「良い教えだね」と共感してもらえます。しかし世の中が不穏な状況になれば「何を非現実的なことも言っているのか」とか「平和ボケしいている」とか「単なる理想主義」などと罵られることもあります。しかし塩が塩として変わらぬスタンスを貫いている限り、世の中は確かに変わる。それは光も同じだと、それは歴史が証明しています。


 私たちの生きる社会はこれから明るい方向に進むかどうか分かりません。80年前に世界を巻き込む大きな戦争が終わった後、国際連合が結成され、その壁には聖書の言葉が刻まれました。イザヤ書2章4節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」がそれです。


 しかし現在それを踏み躙るような出来事が次々とが起きています。イザヤ書の言葉を理想論で終わらせないためには、一握りの権力者や富や成功を神のように崇めるのではなく、真の神の前に無数の地の塩たちが跪いて「アーメン」と唱えてはじめて本当の一歩を踏み出すことができるのです。


 時が悪くて邪魔者扱いされても、神様が与えてくださる恵みの中に生きて、人々に示してゆき、与えて、照らすものとなる。それがこの社会の中で、私たちに与えられた使命であり、私たちの望みであり、私たちのできることなのです。


 2026年に入って、飯田ルーテル幼稚園も教会も工事を終え、ようやくなんとか形になってきて、他教会の方もお招きする集会ができそうだ、となったところで、実はルーテルという組織やプロテスタント教会そのものが存続の危機に瀕していることがわかってきました。


 ルーテル学院大学の閉校もその一例でしょう。また、東京都内のルーテル幼稚園や教会が、施設の古さから集まる人数が激減していると聞きました。さらには下伊那地域の日本基督教団や聖公会なども運営が厳しく、人材的にもひっ迫していることを耳にします。


 そのような中で、私たちはギリギリのところをすり抜けるかのように存続を許されました。私たちは経済的にも人材的にも決して豊かではありませんから初めの内は「なんかしょぼい」集まりになるかもしれません。それでも、主イエスに示された「地の塩、世の光」としての役割を果たすことがまだまだ許されているのです。


 マタイが記したように、私たちはイエス様との繋がりがあるがゆえに、時に貧しくなり、苦しみます。何度も言いますが、私たちが地の塩、世の光である以上、義や平和を求めて世間から「平和ボケ」と罵られることもあります。しかし、人々から馬鹿にされても、それはイエス様の為であり、イエス様が手本となってくださった生き方です。イエス様は私たちと繋がるために命を捨ててくださった。これほどの大きな愛は、この世に他に存在しないのです。その愛に励まされて、キリスト者として生きて参りましょう。


2月の土曜学校の工作はひょうたん小人のランプです

地元で瓢箪を育てている方から献品していただきました

数年前も一度作ったことがありますが

現在、集まってくれるお友達の中には

失敗に過剰反応したり

説明をうまく理解できなかったり

…そんな傾向がある子もいるので

なるべく簡単に、怪我なく作れる方法を考えました

最後まで楽しんでくれるといいのですが


小さめで薄い瓢箪に画鋲で穴を開け
先の鋭くない目打ちで穴を広げます


LEDライトを入れて光らせます

毎回ポスターやハガキで告知しています


2026年2月1日日曜日

「実りある教会」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・教会総会礼拝(2026年2月1日(日)(赤))

ヨハネによる福音書 15章5―23節(新198)


 2026年の年間主題は「キリストとの生き生きとしたつながり」を伝える御言葉、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」ヨハネによる福音書15章5節を用いることにいたしました。


 この御言葉は、幼稚園でこの1月に暗唱聖句として選ばれました。園の始業礼拝の奉仕の時、園児達が「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と大きな声で読み上げているのを聞いて心が震えました。それはこの言葉を聞くことで、ここでの幼児教育を引き継いでゆくという、強い気持ちと畏れが神様から与えられたからです。


 ぶどうは飯田に住む皆さんにとって身近な植物ですからあれこれ説明は必要ないでしょう。


 今更ですが、人間は6000年以上前から野生のぶどうを利用してきました。紀元前4000年ごろの古代エジプトやメソポタミアでは、すでに野生のぶどうを品種改良し、栽培していたようです。


 当時のぶどうの実はまずく、生食はせずワインに加工していました。長い長い年月をかけて品種改良が進み、食べるにしても、飲み物にしても、これはというぶどうが生み出されます。


 しかし、19世紀にフランスでフィロキセラという害虫が大発生し、ヨーロッパのぶどう園が壊滅的被害を受けます。その時、アメリカ原産の、この害虫への耐性のある台木へ接ぎ木することによって、解決策が確立されたのだとか。このように、接木はぶどう栽培を栽培していく上でなくなはならない、非常に重要な技術です。


 ぶどうを実らせる枝には、植物生体液、つまり樹液、植物の体液が流れています。樹液には、養分の運搬だけなく、傷の保護や修復の力があるそうです。


 接ぎ木を行うときには、今まで育った枝を切り、新しく接ぎ木した枝の先まで樹液が流れるように接合部をテープで完全に覆うなど、細やかな作業が必要です、と、こんなことは素人の私が言わなくても、農業や園芸に携わる方ならみなさんご存じでしょう。


 ただ、問題は、必要があるからとはいえ、せっかく育った枝を選んで切り落とすのは全く抵抗がなくできるものなのか、ということです。


 本日の聖書箇所の少し前のところでイエス様は「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と宣言しておられます。ここでは父なる神様を、ぶどうの手入れをする優秀な農夫にたとえ、良い農夫は正確に枝を見極め、バッサリ切り落とすものなのだ、と言っておられます。良い実を結ぶためにはどうしても剪定が必要である、と念を押すということは、神様といえども枝を切って処分するのは、決心が必要なのだと伝えておられるようです。


 この教えを通して、イエス様は「私に繋がるものは、実を結ばないわけがない」と言っておられるのです。そして「実を結ばないとすれば、形だけ引っ付いているだけで、実際には本体から流れ込むはずの樹液を拒否しているのだ」と言っておられるのです。


 イエス様のお話を聞いた人々は、自分が今まで繋がっていた社会から神様の手によって切り離され、キリストを人生の中心とする生き方へと接木されたのだと知りました。これから自分はイエス様の愛と教えという樹液をいただきながら成長するのだということに、希望を見いだしていったのです。


 ただし、それには、切り落とされることに共なう痛みはどうしてもあるのです。以前の生活から切り離される、つまり、以前の生活を全く変えることなく、イエス様につながることはできません。


 イエス様が十字架の痛みに耐えたのは、私たちに繋がるためです。私たちがイエス様の傷口から流れ込んで来る神様への強い愛と信仰を自分の体と心に巡らせるなら、まことのぶどうの実を実らせることができます。信仰によって、人にも自分にもより良い結果を得るためにつなげられたのです。


 私たちは流れ込んでくる御言葉を通して、「愛」とは何か、「平和」とは何かを改めて学んでいくのです。それは今まで生きてきた社会でいうところの「ヒューマニズム」とは別のものです。理屈ではなく、キリストとつながることによって、見えてくる愛の業、平和の業が、お前ならできると示されるのです。それがクリスチャンとしての希望であり、喜びなのです。


 キリストから流れるいのちの水は、傷を保護し、癒し、修復する力があることを私たちは聖書を通して知っています。私たちが困っている人、助けを必要としている人に、枝のように手を差し出し繋がろうとするのは、その人を救いたい神の思いがこの身体に流れているからです。


 私たちは今、さまざまなことに翻弄される社会の中で生きていて、ともすればキリスト・イエスとのつながりを忘れそうになります。目の前の自分の生活で手一杯で、もっと大きな危機があることに気づかず、社会が滅びに向かっていても気づかない、そんな世にあって、毅然としてキリストに繋がることは難しく、枝である私たちに痛みが伴います。しかしそれは主によって癒される痛みだと信じて歩むしかありません。


 痛みがあろうとも、私たちはこの地域で、そして幼稚園を通して、さまざまな人々を招き、つながり、イエス様へと導いていくのです。その結果として、豊かな実が実る、必ず実ると信じていくのです。


 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」この聖句を心に刻み、この1年を「実りある教会」への歩みと致しましょう。



まだまだ寒い日が続いています

飯田は例年あまり雪が降りませんし

積もってもすぐ解けるのですが

今年はうっすら積もってなかなか解けないという

日が多くなりました

私が飯田に来て7年目

今年が一番寒い冬かもしれません


今回もまた雪の写真で申し訳ないのですが

記録のために載せておきます


牧師館の庭のカエルの置物
雪をかぶって寒そうです

早朝の園庭が真っ白になる日も増えました

2026年1月25日日曜日

「宣教の業」(日曜日のお話の要約)

顕現後第3主日礼拝(2026年1月25日(日)(緑))
イザヤ書8章23―9章3節(旧1073)
Ⅰコリントの信徒への手紙 1章10-18節(新299)
マタイによる福音書 4章12―23節(新5)

 本日はマタイ福音書から聞いて参ります。マタイはイエス様の12弟子の一人で、生粋のユダヤ人ですが、彼は祖国ユダヤを裏切り、ローマのために税金を徴収する仕事をしていました。そんな彼がイエス様に救われてからは「どんな過去を持っていようとも、イエス様を信じるならば再生できる」と信じ、その希望を福音書に綴りました。


 マタイ福音書は冒頭に長々と系図が書かれているので敬遠されがちです。しかしその意図は、系図に象徴される、神につながる長い歴史を持つユダヤの国が、これから先、未来へと存続するには、しっかりした信仰の土台を持つ人々がどうしても必要だ、という確信です。そして、ヨハネの洗礼の出来事はその始まりなのだ、と考えました。


 洗礼者ヨハネはヘロデ王に捕らえられたため、ヨルダン川で民衆に洗礼を授ける人はいなくなってしまいます。しかしマタイは、ヨハネと入れ替わりで登場したイエス様こそ、旧約聖書に預言された約束の救い主なのだ、と熱く記しています。


 マタイ福音書によれば、イエス様はヨハネが捉えられた後、首都エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方に拠点を移します。そこで人々を集め、家庭的な集まりを作り、共に旅をし、体験を通して弟子の育成を始められたのです。


 そしてイエス様は弟子たちを連れてガリラヤ中を回ってお話し、奇跡を行い、大勢の群衆に慕われるようになります。マタイ福音書では、イエス様の語られたお話を「山上の教え」、以前は「山上の垂訓」と呼ばれていましたが、イエス様の大切な教えをまとめて記しています。


 みなさんもご存じのように、マタイによる福音書の山上の教えは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と始まっています。この「貧しさ」とは、「自分には満たすことのできない足りなさがある」と自覚し、だからこそ「他者に助けをもとめられる人」のことであり、「満たされることに満足するのではなく、助けられることに喜びと感謝を表す人」です。


 ですから、心の貧しい人物とは、「私は助けなしには生きていけない存在である」と分かっていて、素直に「助けてください」口にし、神様に後押しされながら自分の思いを伝えられる人のことを言うのです。


 自分の足りなさや弱さを素直に認め、必要な時、人に助けを求めることができる資質は人間関係で大切なことで、友人関係や一つの組織、ひいては国を作っていく上で重要です。


 自分が正しい、自分はなんでもできる、と思い込んでなんでもワンマンにやっていこうとするのは危険なことなのです。自分の欲望を正当化して、虚勢を張って強さを演出し、他者に圧力をかけて奪い取ろうとするのは、強いのではなく、弱さを誤魔化す浅ましさにすぎません。


 人間の心を知りぬいているイエス様は、「あなた方は苦しみや罪を抱えながらでも、なによりも神様を信じて、正義と愛、清らかさと平和を求めて生きるように」と人々を励ましました。そのような生き方ができる人こそ幸せなのだと宣教したのでした。


 イエス様の教えは、競争社会や格差社会、弱肉強食のような社会の中では非現実的で弱々しく聞こえたかも知れません。けれどもイエス様のもとに集まってきた人々はイエス様の言葉に希望を見出しました。


 一人一人は弱く、税金の高さやローマの横暴による生きにくさ、病いや障害による差別に苦しんでいました。自分の力ではどうすることもできない、苦しみや悲しみを抱えた人々の心に、イエス様の教えは勇気と信仰を与え、手に手をとって世界を変えていく希望を与えたのです。


 やがて、イスラエルはローマには歯向かったことで潰され、滅びていきます。信仰の中心であったはずの神殿も跡形もなく破壊されました。しかしイエス様の教えの言葉は決して滅びませんでした。


 イスラエルを叩き潰したはずのローマ帝国の中で、受け継がれた御言葉の種は人々の心に根を張り、生き続けました。やがてローマ帝国そのものが危機に陥った時、皇帝自らイエス様の教えを国作りの中心に据え、キリスト教国家となっていくという大逆転が起きるのです。


 パレスチナの片隅でユダヤ教に迫害されながらも確実に育まれて行ったキリスト教が、名実ともにローマの国教となったのは西暦392年、テオドシウス帝の時代です。この出来事はヨーロッパ全土に、そして世界全体を大きく変えていくのです。


 これはマタイから見れば、遥か未来の出来事でした。もちろんマタイは後に何が起こるか具体的に知っていたわけではありません。しかし、神様への信仰を持った人々によって、苦難の時にも揺るがない国が出来上がる、という確信は確かに現実のものとなったのです。


 マタイはイエス様に見出され、「わたしについてきなさい」と言われた時、立ち上がって従ったと記しています。ここで彼は「罪に死んだ私は復活してイエス様に従った」と表明しているのです。


 21世紀になって、科学は急速に進歩し、人々はさまざまな社会問題を解決し、分断をなくし、輝かしい未来がやってくると信じていました。しかし、現実には経済力を持った大国の横暴はますますひどくなり、小さな国々は自衛のためと称して武装する道を選び始め、世界に恐れが広がっています。キリスト教国と言われている国でさえ、イエス様の教えは絵に描いた餅になっているような有様です。


 このような混乱の時代、争いの只中にあっても、決して諦めず「宣教の業」を次の世代へ、未来へとつなげるために、今を大切にして、神と共に、主イエスと共に、ひたむきに歩みを進めて参りましょう。



JPCZ、何の略か、なかなか覚えられません

「日本海寒帯気団収束帯」と言われても

「日本海」以外ほぼ馴染みがない言葉(^^;)

冬の日本海側で大雪をもたらす

帯状に連なる活発な雪雲のことだそうです


他県に住む人からの年賀状には

「飯田は今頃雪景色でしょうか」と書かれていますが

南信州は実はあまり雪は降りません

ただひたすら気温が下がり、凍ります

でも今回は流石の南信もJPCZの影響で

かなり雪が降っています


お読みくださっている皆様の地域はいかがですか?

豪雪地帯の方は雪下ろしなどくれぐれもお気をつけください

雪に慣れていない方は、なんと言っても

転倒に注意してくださいね


教会の花壇に飾ってある陶器のカエル
見た目あまりに寒そうなので
マフラーを巻いたのですが
雪と共に凍ってしまい、ますます寒そうです



早朝の園庭はうっすら雪化粧です