四旬節第1主日礼拝(2026年2月22日(日)(紫))
創世記2章15-17、3:1-7 ロマ書5章12-19節
マタイによる福音書 4章1―11節(新)
旧約聖書の「ヨブ記」では、サタンと呼ばれる存在が、悪意に満ちた人格として登場します。サタンとは、旧約聖書の元となったヘブライ語で「敵対者」「告発者」「妨げる者」を意味し、聖書では悪魔とほぼ同じか、悪魔のかしらという意味で使われます。ヨブ記は、サタンが神様と駆け引きをしながらヨブを不幸のどん底に叩き込んでいきます。
神様はサタンに向かってヨブの信仰をお褒めになり、どんな不幸にあっても彼は信仰を失わない、と断言されます。するとサタンは「それならば試して見ましょう」とばかり、ヨブから財産も家族も健康も奪い取ってしまいます。
そんなやりとりなど全く知らないヨブは「なんできちんと信仰生活を送っていた自分にこんな不幸が起こるのか」と苦しむのです。その呟きを見舞いに来た友人達に逆に責められ「お前になんか問題があったから神様の怒りを買ったのだ」と強く咎められます。ヨブはさらに怒り、絶望し、信仰を失ってもおかしくないギリギリの状態まで追い詰められるのです。
ヨブ記は「何も悪い事をしていない人がなぜ苦しまねばならないのか」というテーマで書かれた物語です。創作ですから、苦しみ叫ぶヨブに神様が答えられ、全ての苦しみは贖われて終わります。
しかし、現実社会において財産も家族も健康も友人も失うような経験はそれほど珍しいことではありません。こうなった時、物語のように神様が現れるわけではなく、泣いても喚いても助けの手は差し伸べられず、ついには神様への信仰は失われ、心は闇に落ちていってしまう。それが普通の人の反応であるような気がします。
しかし本日の福音書ではイエス様はそうではない、とはっきり記しています。イエス様は洗礼を受けられてすぐに、聖霊によって荒野に導かれ、40日40夜、断食なさいます。神の子といえども、人間と同じ肉体を持っておられますから、激しい空腹を覚えられて、生きているのか死んでいるのか分からないほどの限界に追い詰められたでしょう。その時、悪魔が誘惑をしにやって来るのです。
マタイ福音書は、ユダヤ人であるマタイが記録していますから、旧約聖書がベースとなっています。そして当然ヨブ記をのエッセンスも含まれています。つまり、人間は極限まで追い詰められれば、神様を恨んで叫び、信仰を失う、という考え方です。
ここで重要なのは「40日40夜、荒野にいた」という表記です。これはユダヤ人であれば誰もが「出エジプト記」を思い出します。モーセがユダヤの民を導いてエジプトを脱出した後、ユダヤの民は、腹が減った、水がない、などなど、何か困難が起きるたびにモーセに不満をぶつけ、自分の信仰をぐらつかせるのです。
その結果として、40年間荒野を旅する間に不信仰な民はほぼ死に絶え、神様から与えられた掟に従って生きる新世代だけが、約束の地に辿り着くのです。これ以降、ユダヤ人は、聖書に登場する40という数字は、信仰を試される期間を象徴的に表していると受け止めるようになりました。
福音書の記述に戻りますが、イエス様が40日40夜、飲まず食わずで荒野におられ、なおかつ神様への信仰を全く失うことがなかった、というのは驚異的なことであり、イエス様が完璧な信仰を持つ神の子として、私たちの信仰のお手本として、私たちを導いていかれるのにふさわしい方である、という宣言そのものなのです。
私たちは、自分の望みを叶えてくれる神様が良い神様、という感覚に慣れ過ぎています。私たちは実際にはヨブ記の主人公ほどの敬虔さもないにも関わらず、「神様を信じているのになんで悪いことが起きるのか」と呟いき、神様への信頼を失い、信仰の成長が止まってしまうのです。表面的にはクリスチャンでも、神を第一にすることをやめ、自分の望みを叶えることが生活の中心となっているのです。それが今、世界全体におけるキリスト教の現状であり、ルーテル教会も、そういった状況に陥っているといえます。
伝道しない教会、宣教することを使命としない教会、自分達の居心地の良さだけを重視し、救いを求めている人を誘うことをしない教会。
私のような罪深い人間が伝道するなんておこがましいし、神様の思いの為に生き、働くなんて絶対無理、そのようなことは、医療関係や社会福祉や社会事業に任せれば良い、と考えてしまうのです。
しかし、ふと周りを見回しますと、医療も社会福祉もパンク状態で、地方の病院は雨漏りし、改修工事にお金を裂くこともできず、赤字ばかりが増えて、次々倒産しています。
働き手も足りず、人の救いの為に行きたいという理想はあっても、自分の生活が立ち行かず転職してしまいます。そうなると誰がこの世界、自分もその一員である地域社会を、どうやって救うのでしょうか。
イエス様は、かつてローマの圧政の中に生まれ、同胞から裏切られ見捨てられ十字架の上で死なれました。しかし今も絶望的な社会の只中で、神様の思いを伝えるために生きておられます。
伝道は言葉だけでなく、イエス様に倣う生き方をすることが重要です。苦しみの中で忍耐し、神様が共にいることを信じ続け、キリスト教会に残り続け、周囲の人々に声をかけ続けることは簡単ではありませんが、イエス様が全ての責任を取ってくださいます。私たちの内にも外にも、悪魔がいようとも、私たちが主の業を行っていくことに、なんの恐れもないのです。
この場所でキリスト教信仰に歩んでいく喜びを感じながら、やがては共に主を信じ、共に教会を支えるい民がここに形成されることを皆さんとともに信じ、諦めることなく「荒野にある」苦難と忍耐の時代を信仰をもって歩み続けましょう。
昨日は土曜学校でした
礼拝では「聖書は旧約と新訳に分かれている」と理解してもらうため
クリスマスでお馴染みの「神様のお約束」をみんなで歌いました
イエス様がお生まれになるよ、という約束が旧約聖書
イエス様が生まれて私たちと一緒に歩いてくださるというお約束が新訳
みんな覚えてくれたでしょうか
工作タイムは「ひょうたんこびと」のランプを作りました
知人から献品していただいた瓢箪の中から、薄いものを選んで
画鋲と千枚通しを使って穴を開けました
安全のため軍手をはめて作業してもらいましたが
幸い誰一人怪我もなく終わりました
いつものように写真でご紹介します
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| これこれ、小人は戦いごっこの武器ではありませんよ(^^;) |
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| こちらはお人形さんごっこかな? |
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| いつも来てくれるMさん 今日も素敵なデザインでした |









