2026年9月27日日曜日

「真心兄弟」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(2026年9月26日)(緑)

エゼキエル書 18:1-4&25-32 (旧1321) フィリピ 2:1~13 (新362) 

マタイによる福音書21:23-32(新41)


 教会では兄弟姉妹は共に仲良く過ごす姿が理想とされますから、教会員同士で争うのはおかしいと言われがちです。しかし人類最初の殺人事件は、兄が弟を殺します。創世記で、アダムとエバの息子であるカインは、弟のアベルが神様にエコひいきされていると思い込み、怒りのあまりアベルを殺してしまうのです。


 いくらなんでもこんなことはあり得ない、と思うかもしれませんが、兄弟姉妹のいる方は、自分達の子ども時代を思い出してみると、むしろ近い関係だからこそ、喧嘩は日常茶飯事だったでしょう。もしかすると何かのきっかけで感情が暴走してしまえば、誰でもカインになってしまう可能性はあるのです。


 さて、本日の福音書のイエス様のたとえ話にも兄弟が登場します。この出来事の少し前にイエス様は「神殿から商人を追い出す」という大胆な行動をとっておられます。当時の神殿では、商売人と祭司たちが裏で手を組んで、巡礼者から不当に利益を得ていました。それをイエス様は厳しく非難されたのです。しかしその行動の一方で、その場にいた障害者たちに惜しみなく癒しの業をなさったので、子どもたちまでイエス様を褒め称えました。


 祭司長や長老達はそれが面白くなかったのでしょう。イエス様が神殿で人々に神様のお話をしておられるのを見かけて「あなたはなんの権威があって好き勝手なことばかりするのか」とばかり問い詰めたのです。


 それに答えて、イエス様は初めに洗礼者ヨハネの話をされます。そして次にお話になったのが、本日ご一緒に考えてまいります「二人の息子のたとえ」なのです。


 ある人にふたりの息子がいた。父は兄のところに行って「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と指示した。すると、兄は「いやです」と答えたが、あとで考えなおして、ぶどう園に出かけた。一方弟は「承知しました」といったものの、出かけなかった。イエス様が祭司長や長老たちに「ふたりのうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と尋ねると、彼らはあっさりと「兄の方です」と答えたのでした。


 ちょっと余談ですが、聖書に親しんでいる方は、兄と弟の役割について「あれ?」と思われるかもしれません。有名な放蕩息子の話のように、兄は真面目で融通がきかず、弟は怠け者だったが悔い改めた、というイメージが定着しているからです。実際、以前の口語訳聖書では兄と弟の発言が入れ替わっていて、「調子の良い返事をしながら畑に行かなかった兄」と「後で思い直して畑に行った弟」という翻訳になっています。


 これは元のギリシャ語の聖書に2種類の本文があることが原因ですが、イエス様が例え話によって主張なさっている意味に変わりはないので、あまりこだわらずに読み進めたいと思います。

 

 ある注解書は、兄弟の行動について、次ように解釈していました。


 父親はいつものように、まず最初に兄のところに行って、手伝いの相談をした。その仕事内容は、記されておらず、収穫の手伝いか、収穫後のブドウ畑の整理という地味な仕事か、兄が最初に「いやです」という手伝いだから、兄にとっては楽しい仕事ではないのだろう。


 弟は兄のことを、「やらないといったら絶対やらないタイプ」と理解していた。だから父親が自分に頼みに来たのは、兄が断ったからだとピンとくる。ここで自分まで断ったら、父親はごり押しをしてくるに違いない。だから、自分も本当は行く気などさらさらないのだが、ひとまず「承知しました」と答えておいた。


 兄は父親の様子を見ていて、すぐ弟のところから帰ってきたので、「ははあ、弟は調子のいい返事だけして行かない気だな」と予測した。


 弟が行かなければ父が困るだろう、悪いことをしたな、そう思った兄は、思い直してぶどう園に手伝いに行った、という解釈です。


 ですから、「お父さんが困るから行こう」と行動したのはどっちか、というのが大切で、兄でも弟でも構わないのです。父親はイエス様のたとえ話の定番通り「神様」を意味していますから、神様に悪いことをした、と罪を自覚して考え方や行動を変えたのはどちらの人物だったか、というところにポイントがあります。


 つまりイエス様は祭司長や長老達に向かって「どちらが神様の御心をなしたのか」と問いかけられたのです。彼らは「出だしはどうあれ、結果的に畑に行って働いていた兄の方が、父親の望み通り下に決まっている」と判断をしたわけです。しかしそれがそのまま自分達への批判につながるとは思いもしなかったのです。


 イエス様は厳しい言葉で彼らに言います「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら洗礼者ヨハネが来て神様の前にどう生きるのが正しいかを示したのに、あなたたちは信じようとしなかったからだ」


 真の神に接した徴税人や娼婦たちは自分の罪を自覚し、ヨルダン川で洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼を受け、考え方や生き方を改めました。それに対し、祭司長や長老たちは頑固なままで、ヨハネの洗礼を軽んじて、自分たちこそが神様から権威を授かっているのだと傲慢になり、考えを改めようとしませんでした。そのことをイエス様は批判しているのです。


 ただ、思い出していただきたいのは、「後にいるものが先になり、先にいるものが後になる」という御言葉です。真の神に出会って悔い改めた元徴税人が「自分は今、神様の御心を行えている」と慢心したり、「自分と違ってあの祭司どもは神様のことがわかっていない」と批判的な思いを抱いたり。その逆に祭司や長老たちが、「イエス様の言葉は自分の悪いところをついていた」と思ったりするなら、後の者と先の者がもう一度逆転してしまう可能性もあるのです。


 私たちがそれぞれの属する教会を愛し、イエス様に導かれながらもう一度発展させ、神様に喜ばれる場所を作りたいとと、ほんの少しでも思うならば、イエス様のたとえ話の一つ一つを自分のこととして捉えていく必要があります。


 宗教改革者マルティン・ルターは、人間が心から信頼し、頼りにしている対象、それがお金であれ、名誉であれ、信仰であれ、それこそが、その人にとっての「神」になると説きました。つまり、「信仰を置いている場所に、その人の心が現れる」のです。 そうであるならば、私たち自身も、心を自分だけに向けず、主の御心、真の心を聞くものとして歩む必要があります。


 私たちはキリストの心を聞き、一つところに集められた人々と共に平和に共にこの地に過ごすことに心を砕き、真の心、共に信仰に生きる真心を持つ兄弟姉妹として、歩むことを、この上ない喜びとして参りましょう。


毎日曜日、朝9時半から45分間

ルーテルキッズバンドの練習を行なっています

次の本番は11月15日の「こども祝福式礼拝」


今回、飯田教会一番の歌上手おじさん、としやさんと

1曲一緒に歌うことになりました

金子みすずの「みんな違ってみんないい」

何種類か曲がありますが、杉本竜一作曲の曲が

としやさんのオハコということで

これを合唱することに決め、

今日が合同練習第一回目でした

としやさんの素晴らしい声量と正確なピッチに

圧倒されていたキッズですが

教え方がとっても上手なので

思いっきり乗せられて、楽しく歌うことができました

今から本番が楽しみです


キッズバンドととしやさんご夫妻

としやさんの指導に熱心に耳を傾けています


トピックス9月号ができました
よろしければ拡大してお読みください(^▽^)



2026年9月20日日曜日

「様々な苦労」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第17主日礼拝(2026年9月20日)(緑)

ヨナ書 3:10~4:11 (旧1447)   フィリピ 1:21~30 (新362) 

マタイによる福音書20:1~16(新38)


 今日の福音書の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、真面目で誠実なクリスチャンであればあるだけ共感しにくいお話だと言われています。実際、私の知人のクリスチャンが「この話はわからない」とぼやくのを聞いたことがあります。


 「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」とイエス様のお話が始まります。主人が出かけたのは日雇い労働者が職を求めて集まる「寄せ場」のようなところだったのでしょう。


 主人は1日につき1デナリオン支払う約束をして労働者達を自分のぶどう園に送ります。1デナリオンは当時の労働者の1日分として標準の給料ですから、彼らは納得して出かけて行きました。


 主人はその後、何度も寄せ場に出かけては、人を雇い入れます。朝の9時、昼の12時、夕方の3時、そしてほとんどの仕事が終わろうかという夕方5時にもまた出かけて、誰からも雇われず、一日中立ち尽くしていた人々に声をかけてぶどう園に行かせたのです。


 やがて労働時間が終わり、主人は監督に、最後に来たものから順に支払うように命じます。監督は主人に言われた通り、まず夕方5時ごろに来た人々に1デナリオンずつ支払います。順番に支払いを終え、最初に雇われた人の番がきます。しかし彼らが受け取ったのも同じ1デナリオンでした。


 早朝から働いた人々は、「遅く来た彼らが1デナリオンもらえるなら、自分はもっともらって良いはずだ」と、主人に不満をぶつけます。 しかし主人は彼らに向かって、「1日1デナリオンで雇われたのだから、自分の分を受け取って帰りなさい。」と言います。そして「最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分がしたいようにするのは当たり前だ」とも言ったのです。


 約束通りとはいえ、あまりにも不公平だと揉める人々の気持ちもわかります。まして夕方5時ごろまで仕事もせず、ぶらぶらしている人をたった1時間だけ雇い、1日分の給料を払うとは、とんでもない話です。


 さらには「私は自分のものを自分がしたいようにする」とか「彼にいくら払おうが、あなたには関係がない」と言うのですから、これは大問題です。この噂が広まれば、この主人のぶどう園で朝早くから汗を流して働く人はいなくなるでしょう。


 しかし、このお話を読むとき大切なのは、これは「この世の話」ではなく、「神様がお決めになった、天の国のルール」である、と言うことです。天の国のルールだからこそ、神様は日が暮れる直前まで誰からも見向きもされなかった人を、あえてぶどう園に招かれるのです。


 すでにお気づき方も多いと思いますが、夕方5時ごろに雇われた人、とは人生の遅い時期に神様を信じ、何一つ奉仕ができなかったような人のことで、夜明けから働いた人とは長い間奉仕を続けてきた人です。


 神様は、たとえ人生の最後の残りわずかな時間であっても、ご自分の愛を知り、受け取ってくれる人が愛おしいのです。そして、長い間共に働いたあなた方は、悔い改めた人を「滑り込みだ」「ずるい」などと裁いたりせず、一緒に喜んでほしい、と思っておられるのです。


 この神様のルールは、もう一つの聖書箇所、旧約聖書のヨナ書にも、はっきりと見ることができます。主人公のヨナは、ぶどう園で朝から働いて1デナリオンもらった人々よりも、もっともっと不条理な思いをした人物でしょう。


 ヨナは、神様からニネベという大きな町に行って「あなた方は滅びる」と告げるよう命じられます。ニネベというのは当時の大国アッシリアの首都で、イスラエルの敵国ともいうべき国です。ヨナはそんな町に行くのは嫌だとばかり、役目を拒んで逃亡しようとしますが、海に放り込まれたり魚に呑み込まれたり、と散々な目に遭います。苦労の末に悔い改めたヨナはニネベに辿り着くと、神様から命じられた通り「あと40日でニネベは滅びる」と人々に告げました。


 それを聞いたニネベの王様は豪華な服を脱ぎ捨て、ボロボロの衣に着替えて国民に呼びかけます。「人も家畜も断食して神様の前に祈り、いっさいの悪いことをやめなさい。そうすれば神様が思い直してくださるかもしれない。」国民は皆、このおふれに従います。


 神様は彼らが悔い改め、悪の道を離れたことをご覧になって、なんとニネベを滅ぼす予定を取りやめられます。ニネベの人々はどんなに喜んだことでしょう。


 しかし収まらないのはヨナの方です。こんなに大変な思いをして神様の御心を告げに来たのに、神様の方が予定変更するなんてあんまりだと嘆き、こんなことなら死んだ方がマシだ、とまで言い始めます。


 そんなヨナに神様は、ニネベの人々が悔い改め、悪から離れたことがどれほど嬉しかったかしれない、と告げるのです。


 お話は神様の言葉で終わっているので、ヨナがどんな顔をして聞いていたかはわかりません。しかし自分もまた神様を裏切り、苦しみの中で悔い改め、救われ、赦された存在だった、と苦難の一つ一つを思い返すことができたなら、きっと清々しい顔で納得できたことでしょう。


 そしてここにもまた「ご自分の愛を知り、受け取ってくれる人の存在がどんなにか愛おしい」という神様の思いが込められています。そこにはヨナ自身も含まれていて、「ヨナも一緒に喜んでほしい」と言う神様のメッセージもまた、ここにあるのです。


 今日共に読みました「ぶどう園の労働者」と「ヨナ書」のエピソードは、一生懸命働く奉仕者の視点から見ると、ただただ不公平であんまりなお話かもしれません。しかし神様はそんな私たちにも目を注いでくださっています。


 私たち一人ひとり、信仰生活の長い人がいればも短い人もいる、教会から離れた経験のある人もいれば、ずっと通い続ける人もいる。そんな私たちが神様によって一つ所に集められたのには、神様にしかわからない理由があります。その理由は御国に招かれて神様の御前に立つ時、はっきりとわかることでしょう。その時まで、私たちはイエス様と共に労苦を重ねながら、神様に与えられた人生を歩んでまいりましょう。



本日は甲信地区にある5つのルーテル教会「長野教会」「松本教会」「諏訪教会」「飯田教会」「甲府教会」をzoomで結んでの礼拝でした

朝比奈牧師が前日から甲府教会に宿泊してセッティング

牧師夫人が飯田教会に残って受診する、という方法を取りました

他の教会の皆さんもそれぞれ工夫して参加できたようです


教会を預かるものとしては

直接顔と顔を合わせて祈り

一堂に介して礼拝するのが一番いいと思えますが

止むを得ない事情があるときに諦めて礼拝を休むのではなく

自宅からでも交流できるのは感謝なことです

実際、飯田教会の病気療養中の教会員も日頃から

zoomを活用して礼拝参加してくれているので
今日も慣れた様子で加わってくれました



土曜の午後、飯田教会でセッティングを終えて
一路、甲府教会へ


3時間後、甲府教会に到着して設定開始
このモニターに写っているのは甲府教会の礼拝堂です
zoom調整中のため、普段着で失礼します
礼拝ではもちろん牧師シャツに着替えました(^-^;)


飯田教会の献花(礼拝堂に捧げられた花)が
秋らしくてとても美しかったので
思わず撮影


2026年9月13日日曜日

「寄り添う御心」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第16主日礼拝(2026年9月13日)(緑)

創世記 50:15~21 (旧92)   ローマ 14:1~12 (新293) 

マタイによる福音書18:21~35(新35)


 大抵の人間は怒りや恨みの感情をうまくコントロールすることができません。そんな私たちに向けてイエス様は、とても変わった赦しのたとえ話を語っておられます。ただし、この話を一度聞いただけで理解できるするは難しいかもしれません。


 イエス様の話される譬え話は、少し聞いただけでは極端な話にも思えますから、イエス様の語り口に慣れているはずの弟子達でさえ、「よくわからないので、話の意味を教えてください」と願うほどです。


 今回のたとえ話も、解説されてなるほどとすんなり納得できるのは、イエス様を信じて救われたものだけ、本気で神様に感謝しているものだけ、というお話です。

 と言いますのも、イエス様を信じていると自負していても、なかなか神様の恵みに気づかないで、「神様を信じて本当に良いことあったかなあ」とぼやきつつ地上での生活を終える人も多いからです。


 そんな私たちではありますが、神様はなんとかして私たちを愛しておられることを伝えようと思われます。神様はご自分の御心はこの喩えのなかに表されるから受け止めてほしい、と願っておられるのです。


 福音書をもう一度見て参りましょう。ここには「仲間を許さない家来のたとえ」という見出しがついています。はじめにペトロが「私に罪を犯したものを7回くらいは赦すべきでしょうか」とイエス様に問いかけます。普段なら赦す気になれないような相手に対して、自分は寛大だから7回くらいは赦すことができますよ、というアピールだったのかもしれません。しかしイエス様は「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と答えられます。これは「何度でも何度でも赦しなさい」という意味です。驚くペトロと弟子達に対し、無限に赦すことは神様の御心だから、と例えを持って語られたのです。


 この例えには裕福な王様と、王様からお金を借りながら返済できない家来が登場します。彼は仕事を失敗したのでしょうか、王様から借りた金は1万タラントン、日本円に換算して約6000億円にまで膨れ上がっており、もはやにっちも、さっちもいかなくなってしまいました。


 王様は彼に向かって「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」と命じます。要するに家族全員奴隷になって、家も家財道具も全部売って返済に当てなさい、と言われたのです。これは身の破滅です。家来はひれ伏し「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と、とことん詫び続けました。


 一家全員奴隷に身を落としても、全財産を売り払っても、彼が作ってしまった借金には到底及びません。王様もそれは分かっておられました。しかし王様は侘び続ける彼を見て非常に憐れに思い、その借金を帳消しにして、全てなかったことにしてやろうと決めたのです。


 王様からそう告げられた家来の喜びは言葉では言い表せないほどだったのでしょう。返済不可能なほど膨らんでしまった借金をどうやって返すか、という重圧から解放された家来は、新たな生き方をしようと心に決めたはずです。


 もし彼が、『主人を見習って、主人のように人を赦すような、寛大な心で生きる人になりました』となればめでたしめでたしだったのですが、残念ながらそうはなりませんでした。


 この家来は外に出た時、自分に100デナリオンの借金をしている友人と出逢います。100デナリオンは日本円にすると100万円ほどです。もしこの家来が王様の慈悲深さに心から感謝していたなら、きっとこう言ったでしょう。「私はたった今、王様から6000億円の借金を帳消しにしてもらったんだ。それに比べれば君が私から借りている100万円なんてちっぽけなものだ。返済なんていつでもいいからね」


 しかし家来はそうは言わず、相手を捕まえて首を絞め、友人がひれ伏して「どうか待ってくれ」と願う言葉に耳も貸しませんでした。そしてついには牢屋に引っ張っていき、借金を返すまで牢屋に放り込んでしまったのです。


 王様は、自分が許した家来が、寛大に、憐れみを持って弱い立場の人に接することができれば良い、と思っておられたのでしょう。だからこそ、家来が自分の友人にやったことを知った王様は怒りと失望を持って、家来をもう一度呼び出します。そして借金をすっかり返済するまでと、牢役人に引き渡すのです。家来はもう二度と日の目を見ることはないでしょう。


 このたとえ話は、最後のイエス様のお言葉からわかるように、王様が天の父である神様を表しており、哀れみによって一度は赦された家来というのは私たち一人ひとりのことです。


 人間の中には、わずかですが、なんらかの苦難に遭遇し「神様助けて」と祈って救われて、神様の存在に気づく人がいます。ただ、その人が神様に救われたことを心から喜び、神様が望まれる愛や寛容の心を持った生き方をしようとして努力が続けられるかというと、また別の問題のようです。それは、神様は人間には、自由意志というものを与えおられ、自ら進んで、御心を果たす方を喜ばれるからです。


 神様の愛がわかって、御心に忠実に生きようとする人は、人としても磨かれ、さらなる恵みが増し加わりますが、救われたにも関らず、それを忘れてしまうなら、牢につながれるような人生を選択してしまうこともあるのです。

 

 ただ、知っておいていただきたいのは、神様は一度堕ちた人間でも、なんとかして救いたいという願いを持っておられることです。今日読んでいただいた旧約聖書「エジプトのヨセフ」はそれが非常によくわかる記録です。


 主人公のヨセフは父のヤコブに甘やかされて育ったため、兄たちに嫉妬され、嫌われてエジプトに売り飛ばされます。頑張って上司に気に入られ上手くいったかと思えば罠に嵌められて牢屋に繋がれ、それでも誠実に働くうちに才能を認められてエジプトの大臣にまで上り詰め、エジプトを食糧危機から救います。

 

 一方ヨセフを売り飛ばした兄達は飢饉に見舞われ、エジプトの大臣になったヨセフに気づかないまま、その前に平伏して、食料を売ってもらうように頼みます。苦労を重ねて神様の愛と導きに気づいたヨセフは、かつての恨みを晴らそうとは思わず、彼らを受け入れます。時が流れ、兄弟が再びその赦しを疑ったとき、ヨセフは本心から赦していることを告げるのです。その思いがこの創世記50章19節、20節にはっきりと記されています。後ほどもう一度読んでみてくださればと思います。


 人間一度、悪に染まったら、悪事を積み重ねる人生になるかもしれない、しかし、神様はそれを良しとせず、救いの出来事を成し遂げてくださる。私たち一人一人は何からどんなふうに救われたかに関わらず、神の愛の御手に救われ、赦された存在なのです。


 赦されたことに気づいたなら、次の行動は、悪にさえ寄り添う御心を知るものとなることです。人に与える赦しや寛大さをけちけちとはせず、神様が出会わせてくださった、この世に悩みがあるものや、負債や罪あるものに寄り添い、御心を表していくこと、示すこと、実現することを、キリスト者として、喜びとしてまいりましょう。


昨日は土曜学校でした
一人一人こだわりの模様の甲羅を描き
可愛い顔の亀さんを作って
マグネットでぶら下げて楽しく遊びました
いろいろ事情がありまして
子ども達の顔をUPできないのが残念ですが
みんな笑顔で帰っていきました(^▽^)