2026年10月18日日曜日

「神のものは 神に返す」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第21主日礼拝(2026年10月18日)(緑)

イザヤ書 45:1-7(旧1135)

Ⅰテサロニケの信徒への手紙1:1-10(新374) 

マタイによる福音書 22:15-22(新43)


 みなさんは「政教分離」とか「信教の自由」と言う言葉をお聞きになったことがあるでしょう。正確には「政教分離の原則」と言います。国が特定の宗教だけひいきしたり、特定の信仰を強制するのを防ぎ、信仰を持つ人も持たない人も尊重する、という考え方です。


 しかし、日本においては結局それは建前で、キリスト教は冷遇されてるなあ、と感じることは多いのではないでしょうか。


 テレビなどでたまに、「うちの会社はイスラム教の人たちのお祈り時間に配慮しています」といった報道を見ることがありますが、「うちの自治体はキリスト教徒の礼拝時間に配慮しています」というニュースは聞いたことがありません。


 信教の自由が憲法で保障されているとはいえ、あくまで日本の風習や慣例を損なわないようにやるのが前提で、町や地区の行事も当然のように日曜に設定され、キリスト者が礼拝に出席できないと嘆いても、「たまに休むくらいいいじゃないですか」という風潮です。その一方で「ルーテル幼稚園や教会は本物のクリスマスをこの地域社会に知らせて欲しい」と言われる事もあって、「どっちやねん」と悩ましい限りです。


 結局のところ、日本のキリスト教は信仰者一人一人がしっかりと考えて神様に繋がり、矜持を持って自分の行動を決めていかなければ、潰されてしまいます。世間に合わせて流されていたら教会そのものが消えていくのです。


 このような宗教と国家の問題は、もちろん日本の問題だけではなく、世界中の歴史の中で、繰り返し繰り返し問題となってきました。本日の福音書にも、そういった側面が出てきます。


 イエス様の時代はイスラエルはローマとの戦いに敗れ、属国として支配されていました。イエス様がお生まれになったのは、アウグストゥスがローマの皇帝となった時代です。ルカ福音書のクリスマスストーリーに「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出た」と書かれている通りです。


 アウグストゥスは通貨制度を整備し、確立させた人物で、金貨や銀貨の表面に自分の横顔の肖像を刻み、裏面には政治的・宗教的な図案を刻印して、ローマが支配しているさまざまな国に流通させました。


 しかし、イスラエルでは皇帝の肖像は偶像と見なされ、これが刻まれたコインは不浄だと、神殿で神様への献金に用いることは絶対にしませんでした。ではどうしたかというと、両替商というビジネスを立ち上げ、神殿の境内で手持ちの通貨を両替したのです。ここからまた汚職が発生するのですが、説明が長くなりますので、本日は本日の聖書箇所に集中して参りましょう。


 本日の福音書には「ヘロデ党」が登場します。彼らはヘロデの一族が王としてユダヤを統治する事ができるなら、皇帝の腰ぎんちゃくになる事も厭わない人々でした。今、平和なのはローマ皇帝に上手に取り入ってきた来たヘロデ一族のおかげだ、ありがたく思えという、なかなか世俗的な考えを持っていたのです。


 一方、ファリサイ派はそんな世俗的な汚れや異教的文化から距離を置くユダヤ教の有力な宗派です。イスラエルの王は主なる神のみであって、ローマ帝国の支配などは排除したい、と考えていました。ですから対立を避けるためとはいえ、できる事なら皇帝への税金など納めたくない、と思っていました。


 ファリサイ派とヘロデ党はいつもは対立する組織でした。それが、イエス様が民衆から人気を得ているのが目障りになったので、手を結び、言いがかりをつけてイエス様の抹殺を計画したのです。


 まず、イエス様に対し、歯の浮くようなお世辞を並べ、理論武装した上で罠にかけようとしました。それが「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問でした。


 もしイエス様が「神の民であるユダヤ人は皇帝などに税金を納めるべきではない」と答えるなら、ヘロデ党の者たちが、ローマへの反逆だ、と騒ぎ、ローマ総督に訴えることができます。逆にイエス様が「ローマへ税金を納めなさい」と答えるなら、今度はファリサイ派が「イエスが、実はローマの支配を受け入れて、それに従えと言っている」とイエス様をおとしめる事ができるのです。


 この質問は、イエス様を陥れるための醜さに満ちていましたが、イエス様はそれを格調高いものへと変えてくださいました。イエス様はまず、このコインに刻まれている肖像は誰か、と質問されます。あさはかなファリサイ派とヘロデ党が「皇帝のものです」と答えるとイエス様はおっしゃいました。


 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」


 聖書には、「これを聞いたファリサイ派とヘロデ党は驚き、イエス様をその場に残して立ち去った」と書かれています。彼らをこれほどまでに驚かせ、退かせたイエス様のお言葉には、どのような意味があったのでしょうか。


 ここで私たちが先ず第一に考えなければならないのは、「神のもの」とは何か、という事でしょう。


 創世記27節に「神は人を自分のかたちに創造された」と記されています。これはユダヤ教徒なら誰でも知っている御言葉でした。当然ファリサイ派とヘロデ党も子どもの頃から叩き込まれてきた考え方です。また、彼らはイエス様の揚げ足をとるために遣わされたのですから、その辺のならず者ではなく、イエス様が言わんとしていることにハッと気づくだけの教養があったのでしょう。


 このイエス様の言葉をあえて言い換えるなら、「人間とは神様の形が彫り込まれたコインのような存在である」人間の心には、目には見えなくても神様のお姿が刻み込まれている、私たち一人ひとりは神様のものだ、という事なのです。


 イエス様は「皇帝が払えというのがユダヤの秩序を保つために必要なら払ってやりなさい」と言われた上で、「しかし、私たちは神様のものなのだから、その良心や信仰まで渡してはいけません」とおっしゃったのです。


 質問者たちは、自分達がどうでも良いような質問でイエス様をおとしめることは、神様の御心ではないことに気付き、自分の底の浅さが恥ずかしくなって逃げ出したのでしょう。これはいかにもイスラエルらしい問答と言えます。


 残念ながら、イエス様は胸を打つ回答をしたにも関わらず、やはり、神殿やローマ帝国に叛逆を企て、世の中を騒がせたという罪を被せられ、十字架につけられ死刑になってしました。正しいものが正しく評価される事が少ないのは、政治や経済利益が優先される社会では、昔も今も変わらないことかも知れません。


 しかしイエス様はこの世の権力に屈したように見えて、復活と天国を堂々とお示しになり、私たちは永遠に神のもの、天国のものであると教えてくださったのです。

 私たちは、すでにイエス様を信じて、神のもの、永遠のもの、神の国のものになっています。改めて、神のものは神にかえす、その御心通り、誰かからの、どっちつかずの質問にもめげず、神にものとしての人生を歩むことを喜びといたしましょう。


秋から冬にかけて、教会は行事が目白押しです

来週10月25日は宗教改革記念礼拝

リーベクワイヤさんのハンドベル特別賛美があります


昨年のリーベクワイヤの演奏


11月15日は子ども祝福式
ルーテルキッズバンドのメンバーは田中としやさんの
指導のもと「私と小鳥と鈴と」を練習中
他にはこども讃美歌「コスレボナヨ」や
「海と空 つくられた主は」「花も」を練習中です
少しでも多くの方が礼拝に出席して
賛美の時間を共にしてくれますように

2026年10月11日日曜日

朝比奈牧師、夏休みにつき…

牧師の夏休みは微妙なものです

自分の代わりに礼拝を行い、お話(説教)をしてくれる
仲間の牧師を確保するところから始めなければなりません
飯田は交通の不便な土地で、別名「陸の孤島」ですから
来てくれる牧師も限られます
さらに、飯田教会は幼稚園と二人三脚なので
幼稚園の先生が次々夏休みをとる時期は
仕事の穴埋めも発生しますから
8月中にとるのはなかなか難しいのです

そんなこんなでこの日曜日にようやく
飯田まで来てくれる先生を確保
晴れて説教一回休み、となりました(笑)

一般的には休みをとった当事者は
責任から解放されて、どこか旅さきで礼拝出席するものですが
この日は教会に残り
引退教職の杉本先生が
ご夫妻で愛車のダイハツのオープンカーで
横浜から来てくれ流のをお出迎え

飯田とフィンランドの関わりを交えての興味深いお話でした

残念ながら、この日曜は飯田全市で
地区ごとの運動会が開かれていて
ルーテルキッズバンドは、ほぼ全員運動会に…
礼拝もそちらに駆り出されたか、出席者は少なく
先生には申し訳ないことをしました

来年はもう少しタイミングを考えて休みが取れますように(^^;)

説教中の杉本牧師

恒例の土曜学校も
秋晴れの3連休には勝てず(涙)
参加人数は少なかったのですが
集まってくれたお友達とかぼちゃのパーパークラフトや
落ち葉の工作をじっくり作ることができました

2026年10月4日日曜日

「ぶどう園のたとえ」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第19主日礼拝(2026年10月4日)(緑)

イザヤ書 5:1-7(旧1067)  フィリピ3:4b-14(新364) 

マタイ 21:33-46(新42)


 本日の福音書の箇所は、ぶどう園のたとえですが、かなり物騒で、イエス様のメッセージを、どう受け取れば良いのか、迷われるのではないでしょうか。


 このお話を理解する鍵は、イエス様がどういう状況におかれていたか、ということです。この時すでにイエス様は3回も、ご自分の死と復活について弟子たちに語っておられました。祭司長や律法学者の手によって捉えられ、十字架にかけられる時が迫っていたのです。


 イエス様と対立した祭司長や律法学者はエリートで、政治家も兼ねていました。中には真面目で誠実な人もいましたが、大抵は保身に走り、そのくせ民衆から一目置かれることが大好きでした。その上、彼らはローマ帝国の顔色を見ることを優先し、社会を改革しようと行動に出る人々を断罪、処罰しました。


 イスラエル国内に混乱が起きないように波風立てず抑え込み、自分の地位も守る。そうすれば神様の国・イスラエルが保たれる、と思い込んでいたのでしょう。しかしそれは正しい信仰ではなく、神様を嘆かせる行動でしかありませんでした。イエス様は彼らの間違いをはっきりさせるために、この譬え話をなさったのです。


 聖書ではぶどう畑やぶどう園は、イスラエルやその民衆を指します。本日のイエス様の例え話では、主人、つまり神様が設備も立派なぶどう園を作り、農夫たちに貸して旅に出るところから始まります。農夫たちは立派なぶどう園に雇われたことに感謝しながら働くならば何の問題もありませんでした。立派な農園ですから、真面目に働けばそれなりの収穫が得られたことでしょう。


 収穫の時期が近づくと、主人の元から僕がやって来て、当然の権利として収穫を受け取ろうとしました。しかし農夫たちはここでとんでもない勘違いをしたのです。「汗水流して働いたのは自分達だ」「いきなりやってきて収穫を持っていくなど許せない」という考えが湧いてきたのかもしれません。


 あるいは、少しサボってもぶどうが採れるのをいいことに、誠実に働こうとせず、中途半端なぶどうしか採れなかったことがバレるのが嫌だったのでしょうか。


 いずれにしても農夫たちは主人の元から送られてきた僕たちを捕らえ、怪我をさせたり殺したり、とにかくひどい目に合わせ、ぶどう一粒も主人に渡そうとはしませんでした。そんなことが何度か繰り返され、ついに主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と息子を送ります。しかし農夫たちは「跡取りのこの息子さえ殺してしまえばぶどう園は自分達のものになる」と思い込み、殺してしまうのです。


 もうお分かりかと思いますが、先ほど「ぶどう園はイスラエルの国や民衆を意味する」とお話ししました。そしてこのひどい農夫たちは神様からイスラエルをより良く治めるよう託された祭司長や律法学者のことです。


 また、農夫たちのもとに遣わされた僕たちとは、旧約聖書に登場する多くの預言者たちです。預言者たちはイスラエルが神様の御心に立ち返るよう、懸命にメッセージを伝えますが、どの預言者も民衆からひどい目に遭わされます。そしてぶどう園、つまりイスラエルはますますメチャクチャになっていきます。


 ここまでお話しすれば、最後に登場する息子というのが、間も無く十字架にかかろうとしているイエス様のことであるのはお分かりでしょう。イエス様は、何度も何度も、神様は注意や指導する人を遣わしてくるよ、その時にあなたは心を頑なにしてはいけない、そうでないと、神様はこの農夫たちのように、あなた方から何もかも取り上げられてしまう。と言われたのです。


 しかし残念ながら、祭司長や律法学者たちは、そうした神様の忍耐強い御心を理解できず、イエス様のお話も理解しようとはしませんでした。いえ、もしかしたら、イエス様の厳しいお言葉のうちに悔い改めたいと思った人もいたかもしれませんが、組織が大きくなるとなかなか小回りが効かず、躊躇しているうちに流されてしまったのかもしれません。


 イエス様は、こうしてイスラエルがダメになっていくことに強い悲しみを感じながらも、祭司長や律法学者が否定し、捨て去った人々の中から新しいリーダーが生まれ、新しい群れが出来、神様の言葉が引き継がれていくことを見通しておられました。それが「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」という御言葉に表されています。


 最後になりますが、先週「るうてる法人会連合の研修会と総会に参加した」と申し上げました。全国からルーテルの幼稚園や保育園、学校や施設などで働くクリスチャンたちが大阪教会に集いました。


 今回話し合われた問題点は、クリスチャンでない人が園長や学校長等の重責に就いたことで発生する問題に関してでした。


 クリスチャンでも自己中心的な人はいて、クリスチャンなら誰でもいいというわけではありません。しかし、神様の御言葉を伝えるために誕生した教育機関の上に立つのに、信仰ない人を選ぶと、この世的な経営ばかりに目を止めてしまうのではないか、とか、しかし人手不足はどうにもならない、とか議論が堂々巡りです。


 どうすればいいんだ、と頭を抱え「わからない、しらない、難しい」という言葉ばかりを頻発しても、誰も代わりに考えてはくれません。時間ばかりが経過して、すっぱいぶどうしか実らなくなってしまいます。


 ぶどう園のたとえを今の私たちに当てはめるなら、世の中がどうあれ、自分達が、まず主の前に謙虚であること、成長するものであり、神様から貸与えらえた教会や施設に感謝するものであり、神様の思いを次につなげるために心を砕くよう望まれていることを知ることです。


 聖書にあらわれた神の言葉は、大小に関わらず、必ず達成されます。この世において、私たち一人ひとりは誠実な雇われびととして神様の業を成していく使命があります。与えられた命や地位や名誉を、自分のものとして生きていくのは自由ですが、聖書から学び、神様からの言葉や知恵を頂き、傲慢にならず、傷みを覚えつつも、変えていくものには、神様からの祝福は約束されているのです。


10月10日は土曜学校です

聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」

(ローマの信徒への手紙12:15)

世の中不幸なことや悲惨なことが多すぎて

自分の心を守るためか

無関心を決め込んだり

ちょっと麻痺しているところがあるかもしれません

心を動かされる出来事があったら

少しだけ足を止めて神様に祈ってみませんか?


工作は鮮やかなカボチャの紙工作です

私たちの教会ではハロウィン的な行事はしませんが

収穫感謝のシンボルとしてカボチャを飾ったりします

毎年運動会と重なることが多く

いつにも増して人数が読めないのが泣所ですが

参加をお待ちしてます




2026年9月27日日曜日

「真心兄弟」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(2026年9月26日)(緑)

エゼキエル書 18:1-4&25-32 (旧1321) フィリピ 2:1~13 (新362) 

マタイによる福音書21:23-32(新41)


 教会では兄弟姉妹は共に仲良く過ごす姿が理想とされますから、教会員同士で争うのはおかしいと言われがちです。しかし人類最初の殺人事件は、兄が弟を殺します。創世記で、アダムとエバの息子であるカインは、弟のアベルが神様にエコひいきされていると思い込み、怒りのあまりアベルを殺してしまうのです。


 いくらなんでもこんなことはあり得ない、と思うかもしれませんが、兄弟姉妹のいる方は、自分達の子ども時代を思い出してみると、むしろ近い関係だからこそ、喧嘩は日常茶飯事だったでしょう。もしかすると何かのきっかけで感情が暴走してしまえば、誰でもカインになってしまう可能性はあるのです。


 さて、本日の福音書のイエス様のたとえ話にも兄弟が登場します。この出来事の少し前にイエス様は「神殿から商人を追い出す」という大胆な行動をとっておられます。当時の神殿では、商売人と祭司たちが裏で手を組んで、巡礼者から不当に利益を得ていました。それをイエス様は厳しく非難されたのです。しかしその行動の一方で、その場にいた障害者たちに惜しみなく癒しの業をなさったので、子どもたちまでイエス様を褒め称えました。


 祭司長や長老達はそれが面白くなかったのでしょう。イエス様が神殿で人々に神様のお話をしておられるのを見かけて「あなたはなんの権威があって好き勝手なことばかりするのか」とばかり問い詰めたのです。


 それに答えて、イエス様は初めに洗礼者ヨハネの話をされます。そして次にお話になったのが、本日ご一緒に考えてまいります「二人の息子のたとえ」なのです。


 ある人にふたりの息子がいた。父は兄のところに行って「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と指示した。すると、兄は「いやです」と答えたが、あとで考えなおして、ぶどう園に出かけた。一方弟は「承知しました」といったものの、出かけなかった。イエス様が祭司長や長老たちに「ふたりのうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と尋ねると、彼らはあっさりと「兄の方です」と答えたのでした。


 ちょっと余談ですが、聖書に親しんでいる方は、兄と弟の役割について「あれ?」と思われるかもしれません。有名な放蕩息子の話のように、兄は真面目で融通がきかず、弟は怠け者だったが悔い改めた、というイメージが定着しているからです。実際、以前の口語訳聖書では兄と弟の発言が入れ替わっていて、「調子の良い返事をしながら畑に行かなかった兄」と「後で思い直して畑に行った弟」という翻訳になっています。


 これは元のギリシャ語の聖書に2種類の本文があることが原因ですが、イエス様が例え話によって主張なさっている意味に変わりはないので、あまりこだわらずに読み進めたいと思います。

 

 ある注解書は、兄弟の行動について、次ように解釈していました。


 父親はいつものように、まず最初に兄のところに行って、手伝いの相談をした。その仕事内容は、記されておらず、収穫の手伝いか、収穫後のブドウ畑の整理という地味な仕事か、兄が最初に「いやです」という手伝いだから、兄にとっては楽しい仕事ではないのだろう。


 弟は兄のことを、「やらないといったら絶対やらないタイプ」と理解していた。だから父親が自分に頼みに来たのは、兄が断ったからだとピンとくる。ここで自分まで断ったら、父親はごり押しをしてくるに違いない。だから、自分も本当は行く気などさらさらないのだが、ひとまず「承知しました」と答えておいた。


 兄は父親の様子を見ていて、すぐ弟のところから帰ってきたので、「ははあ、弟は調子のいい返事だけして行かない気だな」と予測した。


 弟が行かなければ父が困るだろう、悪いことをしたな、そう思った兄は、思い直してぶどう園に手伝いに行った、という解釈です。


 ですから、「お父さんが困るから行こう」と行動したのはどっちか、というのが大切で、兄でも弟でも構わないのです。父親はイエス様のたとえ話の定番通り「神様」を意味していますから、神様に悪いことをした、と罪を自覚して考え方や行動を変えたのはどちらの人物だったか、というところにポイントがあります。


 つまりイエス様は祭司長や長老達に向かって「どちらが神様の御心をなしたのか」と問いかけられたのです。彼らは「出だしはどうあれ、結果的に畑に行って働いていた兄の方が、父親の望み通り下に決まっている」と判断をしたわけです。しかしそれがそのまま自分達への批判につながるとは思いもしなかったのです。


 イエス様は厳しい言葉で彼らに言います「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら洗礼者ヨハネが来て神様の前にどう生きるのが正しいかを示したのに、あなたたちは信じようとしなかったからだ」


 真の神に接した徴税人や娼婦たちは自分の罪を自覚し、ヨルダン川で洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼を受け、考え方や生き方を改めました。それに対し、祭司長や長老たちは頑固なままで、ヨハネの洗礼を軽んじて、自分たちこそが神様から権威を授かっているのだと傲慢になり、考えを改めようとしませんでした。そのことをイエス様は批判しているのです。


 ただ、思い出していただきたいのは、「後にいるものが先になり、先にいるものが後になる」という御言葉です。真の神に出会って悔い改めた元徴税人が「自分は今、神様の御心を行えている」と慢心したり、「自分と違ってあの祭司どもは神様のことがわかっていない」と批判的な思いを抱いたり。その逆に祭司や長老たちが、「イエス様の言葉は自分の悪いところをついていた」と思ったりするなら、後の者と先の者がもう一度逆転してしまう可能性もあるのです。


 私たちがそれぞれの属する教会を愛し、イエス様に導かれながらもう一度発展させ、神様に喜ばれる場所を作りたいとと、ほんの少しでも思うならば、イエス様のたとえ話の一つ一つを自分のこととして捉えていく必要があります。


 宗教改革者マルティン・ルターは、人間が心から信頼し、頼りにしている対象、それがお金であれ、名誉であれ、信仰であれ、それこそが、その人にとっての「神」になると説きました。つまり、「信仰を置いている場所に、その人の心が現れる」のです。 そうであるならば、私たち自身も、心を自分だけに向けず、主の御心、真の心を聞くものとして歩む必要があります。


 私たちはキリストの心を聞き、一つところに集められた人々と共に平和に共にこの地に過ごすことに心を砕き、真の心、共に信仰に生きる真心を持つ兄弟姉妹として、歩むことを、この上ない喜びとして参りましょう。


毎日曜日、朝9時半から45分間

ルーテルキッズバンドの練習を行なっています

次の本番は11月15日の「こども祝福式礼拝」


今回、飯田教会一番の歌上手おじさん、としやさんと

1曲一緒に歌うことになりました

金子みすずの「みんな違ってみんないい」

何種類か曲がありますが、杉本竜一作曲の曲が

としやさんのオハコということで

これを合唱することに決め、

今日が合同練習第一回目でした

としやさんの素晴らしい声量と正確なピッチに

圧倒されていたキッズですが

教え方がとっても上手なので

思いっきり乗せられて、楽しく歌うことができました

今から本番が楽しみです


キッズバンドととしやさんご夫妻

としやさんの指導に熱心に耳を傾けています


トピックス9月号ができました
よろしければ拡大してお読みください(^▽^)