2026年7月26日日曜日

「神の国について」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2026年7月26日)(緑)

王上 3:5~12 (旧531)   ローマ 8:26~39 (新285) 

マタイによる福音書13:31~33&44~52(新25)


 はるか昔のイエス様の時代、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。イスラエルの政治家たちは宗教指導者を兼任していましたが、ローマに媚びることで最低限の自治権を得て、なんとか国の対面を保とうとしていました。神殿も堕落する一方です。


 一般の市民は厳しい状況になんとか順応して生き伸びようとしましたが、中には不条理な支配に対抗して独立を強く望み、過激な行動を繰り返す熱心党と呼ばれる集団もありました。その一方で、徴税人となってローマに媚を売り、私腹を肥やそうと立ち回る人々もいました。


 興味深いことに、イエス様の弟子の中には、過激な熱心党員出身者もいれば、元徴税人という人物もいました。しかもどちらもイエス様の身近で学ぶ12弟子のメンバーでした。


 彼らはイエス様に招かれて弟子になったという以外には共通点がなく、12人それぞれに国の在り方、神の国の在り方をイメージを持っていて、その発想はバラバラだったようです。


 中には、イエス様が王となってローマ帝国を追い出した後で、自分もそれなりの地位を得て大臣になることを強く望むものもいて、仲間同士、「何を勝手なことを言っているのか」と、言い争いすることもあったと福音書に記されています。


 そんな彼らでしたが、当時のイスラエルの不甲斐なさへの苛立ちを抱いているのは同じでした。そして、イエス様こそ現実を変えてくださる方と信じて、イエス様の教えに耳を傾け、イエス様の語る神の国の在り方を必死で掴もうとしたのです。


 そこでイエス様も、その思いに応えて数多くのたとえ話で教え、示されたのです。

 本日読んだマタイ福音書13章31節からは、イエス様の喩え話が記されています。たとえ話は理解しにくいところもありますが、イエス様への信頼と素直な心を持って聞くことが、理解を助けてくれます。


 最初は「からし種」の例えです。「蒔かれた小さな種が成長する話」とは、初めは小さく目立たないイエス様の教えが、最終的には世界中に広がり、計り知れないほど大きく力強いものになることを示しています。これほど成長する種、信仰というものを心に撒いていただいたのですから、私たちは、この小さな種を責任もって育てなければばらないのです。


 ここにいる私たちが互いの心に種が蒔かれている、与えられていると信じて育てるならば、時が来れば、神様の業お力によって、全ての生き物の憩いとなるのです。それが第一のたとえの持つ意味です。


 二つ目のたとえは、「神の国は、探し回り、見つけ出すもの」であるという教えです。そしてみつけたならば、あらゆるものを捨て去っても手に入れる時に手に入れるのが賢いのだ、と記されています。


 神の国は何ものにも変えられない価値があるのです。それほどに尊いものであり、唯一無二であり、招かれて喜ばしいものであることを、イエス様は示してくださいました。


 しかし人間はその恵みの価値が分からなくなり、せっかくの招きを無駄にし、感謝を忘れ、踏みにじってしまうことすらあります。それでもイエス様は、そんな私たちを決して見捨てず、その罪を帳消しにする為に、十字架に掛かられ、貴い命を捧げられたのです。


 だからこそ、わたしたちは、今一度この場所で、平和とキリストの愛の中に生きることを確認したいのです。神の国に招かれ、永遠の命に生きるものとして、信仰によって、神様が定めてくださったことを繰り返し思い出し、喜びと感謝を捧げるために礼拝に集う者でありたいのです。神様に愛されている私たちは、社会がすさんでいる今こそ正しく聖書を読み、正しく歴史を振り返る必要があります。


 来週は満蒙開拓を体験した前澤節子さんのお話を伺います。長野県に生まれ育ったみなさんは、親戚の中に開拓団として満州に渡った方がおられるかもしれません。苦しみと激しい後悔を経験した人々が、次の世代が繰り返さないよう必死で訴えても、経験していない人間は何かを勘違いしたかのように戦争を美化し、平和を訴える人々を「お花畑」と揶揄します。


 先日、テレビのニュース番組で、特攻隊で兄を無くした妹さんが中学生の子ども達に伝える場面を見ました。けれども、その話を聞いた中学生は、特攻隊の軍服を見て、「格好いい」と言い、「僕も国の為に戦うのなら、死んでも構わない」というようなコメントを語っていました。


 それは特攻隊で兄を無くした妹さんの意図とは真逆の感想でしょう。今現在、武器を持って平和を守る、という矛盾した考え方がじわりじわりと日本を覆っていて、戦争を肯定する空気が広がっているようです。


 また、ニュース映像で、アメリカの福音派と呼ばれている人々が基督教会に集まって、イランを叩き潰すことを肯定している様子を見ました。イランの人々を、対話も和解も不可能な悪魔のような存在だと信じ込んでいるようでした。


 人間は放っておけば他者をおとしめ、争い、奪い取ることを好む生き物なのでしょう。しかし神様は聖書を通して、人と人が争うことの残酷さや虚しさを伝え、さらにイエス様に倣うことで平和を作り出せると教えてくださいました。


 「平和を実現する人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」私たちはこの御言葉をイエス様からはっきり教えられました。争う理由は無数にあるのかもしれません。それに対して、争わない理由はイエス様への信仰のみです。それを私たちの唯一の拠り所として、平和を実現するものとして、共に学び、共に歩んで参りましょう.



ご覧の方でご都合の良い方は是非お越しください。



2026年7月19日日曜日

「刈り入れの時まで」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝(2026年7月19日)(緑)

イザヤ 44:6~8 (旧1133)   ローマ 8:12~25 (新284) 

マタイによる福音書13:24~30&36~43(新25)


 人は、今の状態がパッとしないのは、あるいは、今が不幸なのは、きっとあの時の悪い出来事が影響しているからに違いない、と思う心の動きがあります。それはごく個人的なことから、国を揺るがすような、歴史を変えるような、ものすごく大きなことまであります。


 「あの時の失敗や判断ミスが今の不幸を生んだのだ」と、後悔しても仕方のない堂々巡りを、歴史の中にも数限りなく見ることができます。


 教会の歴史も例外ではなく、間違いや後悔の歴史でもあります。しかし神の手の中にあるキリスト教会は、大きくつまづいても、必ず軌道修正して今日に至っています。


 西暦392年、キリスト教が正式にローマ帝国の国教になります。もちろん名もなき信徒たちの信仰がローマを変えていったのですが、そこには政治的思惑もあり、ローマ帝国を統一し、維持するために、唯一の絶対神による正統性の確立が必要だったようです。


 ですから教会の威厳を保ち続けるためにも、非のうちどころのない、聖なる信者だけが集まり、純粋な教会であるべきだと考えました。その時、かつてローマの厳しい迫害に耐えかねて、一度は信仰を捨てた人々をどう扱うか、と言う問題が持ち上がりました。


 ドナティウス派と呼ばれる人々は非常に厳格に考え、そういった人々が教会に帰ってくるのを許そうとしませんでした。特に迫害に屈服した教会指導者から洗礼を受けた人々は、その洗礼すら無効だと主張したのです。


 しかしこの意見に反論したのがアウグスティヌスです。アウグスティヌスは、皆さんもご存知のように、聖人とか教父と呼ばれ、キリスト教の正統信仰の確立に貢献した人物です。


 アウグスティヌスは、キリスト教の洗礼は、どんな聖職者から受けたかが重要なのではなく、洗礼を受けたことそのものにキリストの導きがあるのだから、誰も否定してはならない、と反論しました。


 そしてアウグスティヌス自身、かつて不道徳な生活から救われた信仰経験を持っていたので、地上の教会は「聖なる者」と「罪人」が混在する場であることはやむを得ない、と主張しました。


 アウグスティヌスは、イエス様の語られた「麦」のたとえを根拠に、教会は完全な聖人だけの集まりではなく、良い麦も毒麦も混在する共同体であると述べたのです。誰がどんな麦なのか、天に召されて神様の審判を受けるまではわからないのだから、両者は生きている間一つの教会で共存していかなければならないし、人間が性急に選別してはならないと説きました。


 この教えは何百年も正統的な考えとして引き継がれ、宗教改革の時代、さらに強固なものとなります。ルターは、この「麦」のたとえを用いて、みなさんもよく知っている「信仰義認」の教理を完成させたのです。ルターは、人間が自力で救いを勝ち取るのではなく、「神の恵みと信仰によってのみ義とされる」と示します。


 ルターは、人間を「義人であり、同時に罪人である」と考えました。1人のキリスト者の内側には「良い麦麦」にたとえられる素直な信仰と、「毒麦」にたとえられる「罪」や「弱さ」や「言い訳」などが混在しています。「罪」を強引に抜こうして果たせず、「自分はどうせこの程度」と絶望するのはではなく、こんな自分でも神が赦してくださると信じ、「毒麦」さえ救ってくださる「解毒剤としてのキリスト」により頼むべきだと教えました。


 ルターに続く宗教改革者カルヴァンも、イエス様が「畑は世界である」と解説している点を重く見て、世界全体には神に選ばれた者、つまり「小麦」と、最初から見捨てられた者「毒麦」が混在しているが、その最終的な選別は世の終わりの時、神の主権に完全に委ねられていると述べたています。


 さらに第二次世界大戦ののち、20世紀最大のプロテスタント神学者と呼ばれたカール・バルトもまた、このたとえを用いました。「人間は自分自身の力で「良い麦」つまり食用となる小麦となることはできず、すべての人間は元々神の前に「毒麦」罪人のような存在であり、それをキリストが贖ってくださったおかげで、私たちは「小麦」になった、そう信じるべきだと勧めました。


 バルトは神を信じることを、人間の弱さや思考の放棄ではなく、神の徹底的な恵みに対する「服従」であると捉えました。世界を巻き込む大きな戦争の残した傷跡は深く、敵対する相手を「毒麦」と呼んで排除しようとした当時の教会の在り方に警告を与えたのです。


 このように、キリスト教会は御言葉を堅く信じるリーダーたちのもとで何度も立ち直ってきました。しかしまた間違える時代はやってくるでしょう。どんな時代になっても、神様こそ私たちのお仕えする唯一の王である、と告白して自分はキリスト者になったのだ、その事実を忘れてしまうと、人間は現実に振り回されたり高慢になったりして、結局は宗教も人生も無茶苦茶になって破滅してしまいます。


 だからこそ私たちは聖書を読み続けるのです。本日のイザヤ書にあったように神様ご自身の「わたしをおいて神はない」と言う御言葉を繰り返し心に刻むのです。

 そして先ほど読みましたローマ書に記されているように、自分自身が「神の霊によって導かれる神の子ども」であると信じ、神の導きを何より大切にする生き方を新たにするのです。


 自分自身の心をもう一度見つめ、自分が良い麦であるキリスト者として召されていることを信じましょう。繰り返しになりますが、一人の人の中には「毒麦」にたとえられる「罪」や「弱さ」が存在しています。しかし絶望するのはやめましょう。神の赦しを信じ、キリストにより頼み、互いに「あの人は毒麦のようだ」と捌き合うこともやめ、神様に喜ばれる生産性豊かな場所に整えてまいりましょう。



青空の下、刈り入れを待つ麦畑
ウクライナの国旗そっくりです
あの地に一瞬でも早く平和が訪れますように

2026年7月12日日曜日

「豊かな実り」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(2026年7月12日)(緑)

イザヤ 55:10~13 (旧1153)   ローマ 8:1~11 (新283) 

マタイによる福音書13:1~9&18~23 (新24)


 毎週月曜日の午前9時30分、ここで幼稚園の合同礼拝を行っています。年長のゆり組と年中のひつじ組、合わせて24名、先生を入れると30名ほどの礼拝です。


 献金の時間はありませんが、私たちの行っている礼拝とほとんど同じです。一つ異なるとしたら、暗唱聖句をみんなで一生懸命覚えようとすることでしょう。


 先日は7月の「探しなさい、見つけられる」というマタイ福音書の5章7節からの暗唱聖句でお話をしました。「探しなさい」とは、神様、イエス様は何を探しなさいって言っているんだろう?と尋ねると、ゆり組の園児が「ひつじ」と答えました。今まで何度も迷子の羊の話をしてきので覚えているんだなあと感心していると、「お金っ」という声も聞こえてきました。子どもには滅多に話さないのですが、同じルカによる福音書の「銀貨を探す話」を覚えていたのでしょう。


 ただ、私がこの日用意した「探しなさい」の話は「ある金持ちが真珠を手に入れるために、家も財産もすべてを売って手に入れた」というマタイ福音書13章45、46節にあるたとえ話です。アーチブックという絵本を読み聞かせると、こどもたちは固唾をのんで聞いていました。


 素晴らしい真珠を見つけるために、主人公は長い旅をして、いろんな人と会い、いろんな場所に行きます。ジャングルにも砂漠にも行ったでしょう。やがて1人のこどもが言いました。「もう諦めたほうがいい、死んでしまったらどうするの」。このツッコミはいいタイミングです。


 絵本では諦めかけたこの金持ちに、ある老人が近寄ります。彼は金持ちが欲しかった真珠を持っていました。金持ちがその老人に尋ねます。「その真珠、おいくらですか」


 あるこどもが答えます。「安ければいいのに」しかし、老人の答えは「あなたの財産を皆売り払い、お金に換えるなら、これを譲ってあげよう」というものでした。こどもからは「ひどいなあ」という意見と、「それほど欲しいものならやるしかないね」と二つの意見が出てきます。


 で、この金持ちはどうしたかと言いますと、老人のいうとおりに、すべての財産を売り払って、喜んでこの真珠を手に入れたのです。


 ここまで話すとこどもが質問しました。「このたとえ話は何?」


 さすがです。隠された意味があることに気づいて知りたがってくれるのです。そこで私は答えました。「これはイエス様のたとえ話で、真珠というのは、みんな一人ひとりのことなんだよ」そしてこうも言いました。「みんなは神様に愛されているって聞くけど、どれだけ愛されているかと言えば、十字架にかかるほどなんだよ」


 一人ひとりが神様から愛されている存在なのに、あいつは嫌いとか、死んでしまえばいいとは言えない。ひとりひとりは大事な存在なんだ。もし、お父さんやお母さん、そして、友達からでも、間違って、「嫌いだ」って言われても、神様は全然そんなこと思っていなくて、仲良くして、赦し合い、愛し合える力をくださったんだよとお話し、お祈りしました。


 こういう話の後は、ありがたいことに、こどもたちは、仲良くしてくれます。普段意地悪な子も、どうぞ、どうぞと言ってくれます。礼拝後のおだやかなひと時です。

 仏教用語に「善友」という言葉があるそうで、「善」や「愛」を心得ている人が近くにいると、どんな悪人もいつの間にか影響されて、「悪いことはやめておこう」と思うのだそうです。

 さて、本日読んだ福音書にはたとえ話がたくさん収められていますが、その中に有名な「種を蒔く人」の話があります。最初の種は道端に、次は石地に、三つ目はいばらの中に、とタネが育つことができない環境に落ちてしまいます。


 もちろんたとえ話ですから、これらは全て、神様の御言葉を受け取ってもきちんと成長させようとしない人の、心の状態を表しています。意外に思うかもしれませんが、どんな人でも最初からふかふかに耕されたような心を持っているわけではないのです。タネを受け取った時、それを大切に育てようと思う心、将来的にちゃんと実らせようとする信仰がその人を変えていくのです。ですから、石がごろごろの荒れ放題のまま、ありのまま、放置していて良いと勘違いするのは、タネを受け取った側の怠慢とも言えるのです。


 近年のキリスト教は「イエス様はあなたのありのままを受け入れてくださる」いう教えが中心でした。間違いではありませんが、その教えが行き過ぎて、イエス様をお手本とせず、聖書から学ばず、自らを成長させようとしないクリスチャンが増え、やがて教会に集う人々は世の人の集まりと変わらない価値観を持つようになりました。


 信仰に基づいた行動はただの理想論と片付けられるようになり、「教会は時間があったら行くところ」になり、地方教会はまさに「限界集落」の様相を呈しています。しかし諦めるのはまだ早いのです。私たちには見方と行動を変えるチャンスはまだ与えられています。神様の平和への思いの詰まった種を撒き、種を自分に与えらた使命として、育てていくことは非常に困難です。しかし、取り組んでいけば何か方法は見つかるはずです。


 一人一人が御言葉によって心を耕して、その結果この場所が良い地になったなら、それはイエス様の言葉にあるように、何倍、何十倍、何百倍、何百倍になり、本当の平和を愛する人々が生み出されていくことでしょう。


 多くの人々が愛すること愛されることを見失った状態にあることを常に覚え、自分の心までそれに引き摺られないように祈りを捧げましょう。わたしたちは、キリストと共にある良き友になって、豊かな実りをもたらす者となれるのだと信じ、宣教の歩みを続けて参りましょう。


昨日は土曜学校でした。

12名のお友達がお話を聞き、工作を楽しみました。

工作はスイカのうちわ

蛇腹折を繰り返してハリセンのようなものを作り

組み合わせて丸い形にします

ジャバラ折はなんとかなりましたが

どう言うわけかスティック糊がきっちり接着できる人と

できない人がいて、ものすごく手こずりました

最終手段は強力両面テープ

用意しててよかったです


毎回作品を持って写真を撮り、ハガキにして

「きてくれてありがとう」のメッセージと共にご自宅に送っています

ただ、最近はSNSに写真を載せるのは戸惑います

顔を半分隠して写ってもらった

この写真ならいかがでしょう?


Kさん、Mさんモデルありがとう



子どもたちは最初のうち自分が何を作っているのか
理解してなかったようです(笑)
出来上がってから楽しそうに仰いでいました


2026年7月5日日曜日

「共に担う軛」 (日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第6主日礼拝(2026年7月5日)(緑)

ゼカリア 9: 9~12 (旧1489)   ローマ 7:15~25 (新283) 

マタイによる福音書11:16~19、25~30 (新20)


 私たちは、キリスト教伝道の働きに召されていますが、人や環境に振り回されることは多くあります。聖書はそんな私たちに導きを与えてくれます。


 大前提として、聖書には、誠実に神の言葉を人々に取り次ぐ人々は、民衆から理解されにくく、権力を持つ人々からは迫害されると書いてあります。旧約聖書の預言者たちは皆同じように酷い目に遭いました。


 また、洗礼者ヨハネは、禁欲的に生き、腐敗した社会や権力者に厳しい言葉で悔い改めを迫りますが、結局権力者によって命を奪われました。


 ではイエス様はどうかといいますと、世の中で地位や権力を持っている人々は、やはりイエス様に批判の目を向けました。


 イエス様は洗礼者ヨハネとは対照的に、罪人や心に重荷を抱える人々に厳しい言葉で迫るのではなく、おおらかに振る舞い、食事しながら楽しく交流することもありました。しかし、本日の聖書箇所の19節でイエス様ご自身が言われているように、イエス様の態度を見た人々から「あれは大食漢の大酒飲みだ」と批判されたのです。


 厳しくても明るくても、自分と考え方の違うものを排除しようとする人々はいつの時代にもいます。それでもなお、わたしたちが信仰に結びついて、礼拝に集い続けているのは、主イエス様に招かれているからであり、イエス様と共に重荷を負っている、つまり軛を荷っているからなのです。


 この「軛」とは、週報の写真にあるように、牛や馬に農具や荷車を引かせるための木製の枠組みです。一般的には「軛」は「束縛」を意味する言葉ですが、キリスト教においては、イエス様と共に歩むことです。そしてイエス様は「その軛は軽い」と言われるのです。


 ここで私たちが勘違いしてはいけないのは、重荷そのものは無くならない、ということです。イエス様と共に負うと言っても、重さは感じますし、なぜ自分が負わなければならないのか、という疑問もつきまといます。けれども、その重荷は世間にある重荷より軽い、とイエス様は言われるのです。


 イエス様のお言葉を理解するために、少し視点を変えて見ましょう。どんな人でも、生きていく上でなんらかの責任や重荷、苦しみを持っています。生きるためだけに重たい荷物を背負い、どこに続くのかわからない道をひとりぼっちで歩くとしたら、非常に辛い人生です。


 しかしイエス様は、ご自分と共に歩こうとする人には、行くべき道を示して共に行き、重荷も共に担おう、とおっしゃるのです。しかもその道は神の国に続いているのです。こう考えるとイエス様が「その軛は軽い」とおっしゃる意味がわかってくるのではないでしょうか。


 さて、私事ですが、以前から時々幼稚園の送迎バスの添乗をしており、最近はその回数も増えました。帰りのバスの添乗では、ありがたいことに、子どもたちは喜んでくれます。友だちとさよならしての帰り、寂しい気持ちを紛らわす、お楽しみタイムがおまけされたと感じているようです。またバスを迎える保護者の方には、「理事長自らが」と畏れかしこむ方もいらっしゃいます。


 けれども、園バスは園児を安全に保護者の元に送り届けることが大前提です。「楽しく」というのは、安全が守られた上で、それなりのルールを守って成り立つものです。うれしくて羽目を外す子どももいるので、そこをどう牽制していくかが、添乗者の腕の見せ所となります。


 安全面だけを考えると、色々なルールを決めて守らせるというのも方法の一つですが、私は大騒ぎを注意するのでなく、「大騒ぎをコントロールするにはどうするか」だけを考えています。6歳にも満たない子どもを規則で縛ってもうまくいかないのは経験から分かるからです。


 ただ、日本人は諸外国に比べて規律を重んじ、ルールを守る傾向が強い国です。これは日本人の長所とも言われています。今、園にはさまざまな国にルーツを持つ子どもが増えてきましたが、ここで育つ園の子どもたちは、自然と日本的なルールを身につけるようになるのでしょう。


 とはいえ、ここに日本の欠点もあります。ルールそのものが現実に合わなくなっても、なかなか変更しなかったり、決められたことを守らない人、自由な行動を好んで全体行動を重んじない人を、批判したり排除したりてしまうのです。


 極端にいうと、日本人の多くは真面目で誠実だけれど、保守的で石頭なのかもしれません。そして程度に差はあっても、クリスチャンである私たちもそんな性質を持っていると思います。


 だからこそ、同じ教会に集っていても、価値観はズレるもの、と、どんと構えている必要があります。そして、そこをふまえた上でイエス様に従って共に奉仕しながら生きる。そう覚悟を決めることがイエス様と同じ軛を負って進もうとする私たちに必要な考え方なのでしょう。


 イエス様の御言葉「わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽い」を心に刻みましょう。恐れたり悩んだりしているばかりでは、埒が開きません。共に軛を担ってゆくには、私たちが培ってきたことを、もう一度取り戻して、まず自分自身を基本に忠実な信徒に戻すことが大切です。


 自分にあった聖書の学びをし、祈りの時を持ち、教会員として、クリスチャンとしての歩みを、ここで表現していくのです。最初は小さな集まりしかできないかも知れませんが、地道な歩みは、いつかは花が開くのです。


 今これから自分達が出来ることを、見返しながら、時間を整えて、主の僕となり、それが、共に担う軛となり、その重さや時間をかけながら、新たな歩みを共に歩んで参りましょう。



次の土曜日は土曜学校の日です

お話の内容も工作も、毎回すんなりとは決まりません

子どもたちの年齢に幅があるので

どうすればわかりやすく、楽しくいろんなことができるか

ヘトヘトになるまで考えることもあれば

突然閃くこともあります

今回は工作はすぐに決まったのですが

読み聞かせするお話がまだ決まっていません


この聖句を生かした紙芝居か絵本はあるかしら

「探しなさい」と神様がおっしゃいますから

うまく探し出せる…はず😓




スイカうちわ、小さいお友達も
うまくジャバラ折ができるよう
指導を考えるのが今回のポイントかもしれません