2026年8月9日日曜日

「主がおられる平安」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第11主日礼拝(2026年8月9日)(緑)

王上 19:9~18 (旧)   ローマ 10:5~15 (新) 

マタイによる福音書14:22~33(新)


 本日読みました福音書は「湖の上を歩く」という見出しがつけられています。弟子たちを乗せた舟が逆風で進まなくなり、悩まされているところにイエス様が湖の上を歩いてやって来られた、という内容です。


 同じエピソードはマルコ福音書6章とヨハネ福音書6章に記されています。そして、3つの福音書とも、この出来事の前には「五千人に食べ物を与える」というエピソードが書かれていて、湖の出来事とセットであることがわかります。


 イエス様が公けに宣教を始められてから2年半ほどが経った頃には、イエス様を見つけると大勢の人々が追ってきてお話を聞こうとしました。この時も、成人男性だけでも5000人いたと記されています。この人達の多くは、おそらく無学ではなく、気ままに生きている人達でもなく、ユダヤ民族として、ユダヤの風習や文化に習い、シナゴークと呼ばれる場所で、週に一度は礼拝と宗教教育を受けていたと思われます。学問や宗教の質問があればいつでも教えを乞うことができました。けれども、彼らはそれでは満足できず、イエス様から学ぼうとしました。つまり、社会に不満を持ち、自分の生き方の拠り所を求める人が5000人以上いたのです。


 ユダヤ社会のトップにいたのは征服者であるローマの皇帝です。そして皇帝に媚びへつらいながら神殿に君臨する大祭司が民衆を牛耳っていました。律法学者や神殿の祭司達も機会があれば自分の地位をひけらかします。そのような人々が作り上げる社会は、決して神様の御心に沿うものではありませんでした。


 そのことに気づいたのは国民の中のわずか数パーセントだったかも知れませんが、町を離れ、イエス様の話を聞いた人が5000人以上いたことは確かなことでした。ですからイエス様は、その5000人の人々を憐れに思い、大切に扱おうとお考えになって、弟子達を使って、食事の世話をさせたのです。


 弟子達は、そこにほんのわずかの食べ物しかないことを確認しました。そして「無理だ」と思いイエス様にもそう言ったのです。しかし奇跡は起こります。イエス様がパンと魚を祝福すると、5000人以上の人々がそれを食べて満腹し、食べ残りは12籠いっぱいであったのです。


 弟子たちは当然衝撃を受けます。そしてイエス様という方は、ご自分を信じ、慕う人々を空腹で追い返す事は決してなさらず、安心して帰れるように愛を注いでくださる方だと知ったのです。


 イエス様はその後、弟子たちにそれ以上無理をさせようとも思わず、弟子は弟子で休めるよう、弟子達だけを舟に乗せ、ご自分は山に登って祈りの時間をもたれました。イエス様は、大きな奇跡を見せられて興奮しているであろう弟子たちが、本当にイエス様を信頼できるようになるために、いわば信仰教育として、この時を定められたのです。


 神様はこのように時折私たちを試されます。「クリスチャンになってよかった、神様ありがとう」と思っていたら、今度はひどい失望や絶望を味わい「神様を信じても何にもいいことがない」と嘆く、そんな私たちであってはならないのです。


 自分の計画や予定ばかりを優先させて、その計画が上手く行った時だけ、神様を崇めるような信仰は、意味がありません。もし、仮に1回目の出来事が上手くいったとして、続く2回、3回と続いてうまくいったとしても、いつかは神様ご自身が、私たちに信仰に気づかせるために、どうにもならない時に遭遇します。そうしたどうにもならない時に、ある人は信仰を捨ててしまいます。また、ある人は信仰をないがしろにします。信仰というのは、良くても悪くても続いていきます。自分に起こる結果だけで、全てを判断してはならないのです。


 聖書に話を戻しましょう。弟子たちはイエス様から「舟に乗り、向こう岸へ向かう」という目標を与えられましたが、湖の真ん中で自分達の思った通りに進まなくなります。逆風が吹き、水面は揺れ、にっちもさっちも行きません。彼らは思わず「神様助けて」と叫びの祈りをあげたでしょう。


 その上、湖の上を歩く人を見たのです。漁師の弟子たちは「湖で死んだ人間が亡霊になって人を取り殺そうとする」的な伝説を思い出したかもしれません。自分達はもうだめだ、幽霊に殺されると恐怖のあまり悲鳴をあげます。そのように恐れる弟子達に、イエス様は「恐れるな」と声をかけてくださるのです。


 イエス様は5000人の人々を憐れまれます。それと同時に弟子一人一人も憐れまれる方なのです。そこにいる人々にざっくりと恵みを与えるのではなく、一人ひとりの顔も人間性も把握した上で夫も良いタイミングで手を差し伸べられるのです。


 私たちは信仰があるから危険なことや嫌なことは何事も起こらないというのではなく、私たちはどんな時も神様の憐れみの中に生きていて神様の憐れみに救われる存在なのだ、ということを覚え、それを伝える者でありたいのです。


 この話の最後は、ペトロが、イエス様に「水の上を歩きたい」と願ったことです。超人願望でしょうか、イエス様への信仰を表したかったのでしょうか。その心意気は大切ですが、ペトロはイエス様だけを信じて見ていれば良かったものを、自分の周りの風や波に目を奪われ、イエス様を見失ってしまいます。自分の命が危ないと思えた時に「イエス様助けてください」と叫びにも似た祈りの言葉を上げたのです。そして、同じくイエス様はその声を聞き取ってくださったのです。


 私たちはイエス様を信じると口にしても、何度も失敗を重ねます。しかし神様はそんなわたしたちを決して見捨てません。不出来だから、祈りを忘れるからと言って、裁いたりはなさらず、私たちに祈りを取り戻させるために厳しい出来事を引き起こされることもあるのです。それはいわゆる「バチ」とは違います。祈りこそがイエス様と私をつなぐものであり、なりふり構わず祈ることが、逆にイエス様と私をつなぐものなのだ、と教えてくださっているのです。


 今の日本では、クリスチャンがクリスチャンらしく生きることが難しい環境にあります。それでも私たちは逆巻く波の上を歩くようであっても、神様の平安の内にあることを覚えながら、信じて歩んでいきましょう。どれほど周囲がわたしたちを脅かしても、イエス様の「恐れるな、信じなさい」という御言葉だけを心に覚えて、ずっと共にいてくださる神の子救い主イエス様を見失わない者となりましょう。



昨日は8月の土曜学校でした

夏休み中なので、「常連さんたち」は

お出かけしているかもしれないなあ

誰も来ないかもしれないなあ、などと考えておりましたが

6名と、人数はいつもの半分以下ながら

楽しく参加してくれました


8月の御言葉が「平和な人には未来がある(詩編37編37節)」なので

そのテーマに則って「ぼくたちは、あらそうために生きるのか?」

という絵本を朗読しました

(山極寿一  文/あべ弘士  絵  偕成社)


ちょっと長いので、ところどころ省略しましたが

最後まで聞いてくれました

何か一つでも心に残ってくれますように


https://www.kaiseisha.co.jp/books/9784033337807

作品を手に、KさんとMさん
夏の星空リースです
Mさん、なぜか紐を咥えています(^^;)

2026年8月2日日曜日

「満蒙開拓団と平和の歩み」(日曜日のお話の要約)

 ヨハネによる福音書15章9節〜12節

本日は平和聖日合同礼拝でした。
日本キリスト教団吾妻町教会と合同で、ルーテル飯田教会を会場として行われました。
飯田ルーテル幼稚園にゆかりのある前澤節子さんの、満蒙開拓団の体験をうかがい、平和について考え、共に祈りました。

 前澤さんは5歳の時ご家族と共に満州に渡り小学校高学年まで過ごされました。敗戦によって生活は一変し、着の身着のままで同じ開拓団の皆さんと小学校での避難生活が始まったそうです。
 さらにソ連(当時)の参戦により、状態はさらに悪化、乱暴な兵士によってわずかに身につけていた時計などは全て奪われ、若い女性は性的被害を受けましたが、どうすることもできず、時間が過ぎました。やがて日本に帰るため大連に行ったものの、不衛生な環境で感染症が発生、多くの方が命を落とし、お母様と小さな弟さんも亡くなりました。
 船で日本に引き上げ、長野県に戻る途中、列車の窓から見た原爆後の広島の「見渡す限り煉瓦色の風景」が忘れられないそうです。
 ロシアがウクライナに侵攻した時、ご自分の体験が蘇ったそうです。
 戦争は体も心も破壊するもの、二度としてはならない、と締めくくられました。

 飯田市に程近い、下伊那郡阿智村駒場に満蒙開拓平和記念館はあります。
 なぜこのような悲劇が起こったのか、歴史について詳しく知りたい方、さまざまな方の体験談を聞きたい方、この出来事を通して平和について考えたい方はぜひ訪れてみてください。


熊本地震で被災された皆様のために祈ります。
厳しい状況が一刻も早く改善され、心と体が癒され、回復の道筋が見えますようにお祈り致しております。


満蒙開拓平和記念館(ホームページより)
https://www.manmoukinenkan.com/


前澤節子さん


2026年7月26日日曜日

「神の国について」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2026年7月26日)(緑)

王上 3:5~12 (旧531)   ローマ 8:26~39 (新285) 

マタイによる福音書13:31~33&44~52(新25)


 はるか昔のイエス様の時代、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。イスラエルの政治家たちは宗教指導者を兼任していましたが、ローマに媚びることで最低限の自治権を得て、なんとか国の対面を保とうとしていました。神殿も堕落する一方です。


 一般の市民は厳しい状況になんとか順応して生き伸びようとしましたが、中には不条理な支配に対抗して独立を強く望み、過激な行動を繰り返す熱心党と呼ばれる集団もありました。その一方で、徴税人となってローマに媚を売り、私腹を肥やそうと立ち回る人々もいました。


 興味深いことに、イエス様の弟子の中には、過激な熱心党員出身者もいれば、元徴税人という人物もいました。しかもどちらもイエス様の身近で学ぶ12弟子のメンバーでした。


 彼らはイエス様に招かれて弟子になったという以外には共通点がなく、12人それぞれに国の在り方、神の国の在り方をイメージを持っていて、その発想はバラバラだったようです。


 中には、イエス様が王となってローマ帝国を追い出した後で、自分もそれなりの地位を得て大臣になることを強く望むものもいて、仲間同士、「何を勝手なことを言っているのか」と、言い争いすることもあったと福音書に記されています。


 そんな彼らでしたが、当時のイスラエルの不甲斐なさへの苛立ちを抱いているのは同じでした。そして、イエス様こそ現実を変えてくださる方と信じて、イエス様の教えに耳を傾け、イエス様の語る神の国の在り方を必死で掴もうとしたのです。


 そこでイエス様も、その思いに応えて数多くのたとえ話で教え、示されたのです。

 本日読んだマタイ福音書13章31節からは、イエス様の喩え話が記されています。たとえ話は理解しにくいところもありますが、イエス様への信頼と素直な心を持って聞くことが、理解を助けてくれます。


 最初は「からし種」の例えです。「蒔かれた小さな種が成長する話」とは、初めは小さく目立たないイエス様の教えが、最終的には世界中に広がり、計り知れないほど大きく力強いものになることを示しています。これほど成長する種、信仰というものを心に撒いていただいたのですから、私たちは、この小さな種を責任もって育てなければばらないのです。


 ここにいる私たちが互いの心に種が蒔かれている、与えられていると信じて育てるならば、時が来れば、神様の業お力によって、全ての生き物の憩いとなるのです。それが第一のたとえの持つ意味です。


 二つ目のたとえは、「神の国は、探し回り、見つけ出すもの」であるという教えです。そしてみつけたならば、あらゆるものを捨て去っても手に入れる時に手に入れるのが賢いのだ、と記されています。


 神の国は何ものにも変えられない価値があるのです。それほどに尊いものであり、唯一無二であり、招かれて喜ばしいものであることを、イエス様は示してくださいました。


 しかし人間はその恵みの価値が分からなくなり、せっかくの招きを無駄にし、感謝を忘れ、踏みにじってしまうことすらあります。それでもイエス様は、そんな私たちを決して見捨てず、その罪を帳消しにする為に、十字架に掛かられ、貴い命を捧げられたのです。


 だからこそ、わたしたちは、今一度この場所で、平和とキリストの愛の中に生きることを確認したいのです。神の国に招かれ、永遠の命に生きるものとして、信仰によって、神様が定めてくださったことを繰り返し思い出し、喜びと感謝を捧げるために礼拝に集う者でありたいのです。神様に愛されている私たちは、社会がすさんでいる今こそ正しく聖書を読み、正しく歴史を振り返る必要があります。


 来週は満蒙開拓を体験した前澤節子さんのお話を伺います。長野県に生まれ育ったみなさんは、親戚の中に開拓団として満州に渡った方がおられるかもしれません。苦しみと激しい後悔を経験した人々が、次の世代が繰り返さないよう必死で訴えても、経験していない人間は何かを勘違いしたかのように戦争を美化し、平和を訴える人々を「お花畑」と揶揄します。


 先日、テレビのニュース番組で、特攻隊で兄を無くした妹さんが中学生の子ども達に伝える場面を見ました。けれども、その話を聞いた中学生は、特攻隊の軍服を見て、「格好いい」と言い、「僕も国の為に戦うのなら、死んでも構わない」というようなコメントを語っていました。


 それは特攻隊で兄を無くした妹さんの意図とは真逆の感想でしょう。今現在、武器を持って平和を守る、という矛盾した考え方がじわりじわりと日本を覆っていて、戦争を肯定する空気が広がっているようです。


 また、ニュース映像で、アメリカの福音派と呼ばれている人々が基督教会に集まって、イランを叩き潰すことを肯定している様子を見ました。イランの人々を、対話も和解も不可能な悪魔のような存在だと信じ込んでいるようでした。


 人間は放っておけば他者をおとしめ、争い、奪い取ることを好む生き物なのでしょう。しかし神様は聖書を通して、人と人が争うことの残酷さや虚しさを伝え、さらにイエス様に倣うことで平和を作り出せると教えてくださいました。


 「平和を実現する人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」私たちはこの御言葉をイエス様からはっきり教えられました。争う理由は無数にあるのかもしれません。それに対して、争わない理由はイエス様への信仰のみです。それを私たちの唯一の拠り所として、平和を実現するものとして、共に学び、共に歩んで参りましょう.



ご覧の方でご都合の良い方は是非お越しください。



2026年7月19日日曜日

「刈り入れの時まで」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝(2026年7月19日)(緑)

イザヤ 44:6~8 (旧1133)   ローマ 8:12~25 (新284) 

マタイによる福音書13:24~30&36~43(新25)


 人は、今の状態がパッとしないのは、あるいは、今が不幸なのは、きっとあの時の悪い出来事が影響しているからに違いない、と思う心の動きがあります。それはごく個人的なことから、国を揺るがすような、歴史を変えるような、ものすごく大きなことまであります。


 「あの時の失敗や判断ミスが今の不幸を生んだのだ」と、後悔しても仕方のない堂々巡りを、歴史の中にも数限りなく見ることができます。


 教会の歴史も例外ではなく、間違いや後悔の歴史でもあります。しかし神の手の中にあるキリスト教会は、大きくつまづいても、必ず軌道修正して今日に至っています。


 西暦392年、キリスト教が正式にローマ帝国の国教になります。もちろん名もなき信徒たちの信仰がローマを変えていったのですが、そこには政治的思惑もあり、ローマ帝国を統一し、維持するために、唯一の絶対神による正統性の確立が必要だったようです。


 ですから教会の威厳を保ち続けるためにも、非のうちどころのない、聖なる信者だけが集まり、純粋な教会であるべきだと考えました。その時、かつてローマの厳しい迫害に耐えかねて、一度は信仰を捨てた人々をどう扱うか、と言う問題が持ち上がりました。


 ドナティウス派と呼ばれる人々は非常に厳格に考え、そういった人々が教会に帰ってくるのを許そうとしませんでした。特に迫害に屈服した教会指導者から洗礼を受けた人々は、その洗礼すら無効だと主張したのです。


 しかしこの意見に反論したのがアウグスティヌスです。アウグスティヌスは、皆さんもご存知のように、聖人とか教父と呼ばれ、キリスト教の正統信仰の確立に貢献した人物です。


 アウグスティヌスは、キリスト教の洗礼は、どんな聖職者から受けたかが重要なのではなく、洗礼を受けたことそのものにキリストの導きがあるのだから、誰も否定してはならない、と反論しました。


 そしてアウグスティヌス自身、かつて不道徳な生活から救われた信仰経験を持っていたので、地上の教会は「聖なる者」と「罪人」が混在する場であることはやむを得ない、と主張しました。


 アウグスティヌスは、イエス様の語られた「麦」のたとえを根拠に、教会は完全な聖人だけの集まりではなく、良い麦も毒麦も混在する共同体であると述べたのです。誰がどんな麦なのか、天に召されて神様の審判を受けるまではわからないのだから、両者は生きている間一つの教会で共存していかなければならないし、人間が性急に選別してはならないと説きました。


 この教えは何百年も正統的な考えとして引き継がれ、宗教改革の時代、さらに強固なものとなります。ルターは、この「麦」のたとえを用いて、みなさんもよく知っている「信仰義認」の教理を完成させたのです。ルターは、人間が自力で救いを勝ち取るのではなく、「神の恵みと信仰によってのみ義とされる」と示します。


 ルターは、人間を「義人であり、同時に罪人である」と考えました。1人のキリスト者の内側には「良い麦麦」にたとえられる素直な信仰と、「毒麦」にたとえられる「罪」や「弱さ」や「言い訳」などが混在しています。「罪」を強引に抜こうして果たせず、「自分はどうせこの程度」と絶望するのはではなく、こんな自分でも神が赦してくださると信じ、「毒麦」さえ救ってくださる「解毒剤としてのキリスト」により頼むべきだと教えました。


 ルターに続く宗教改革者カルヴァンも、イエス様が「畑は世界である」と解説している点を重く見て、世界全体には神に選ばれた者、つまり「小麦」と、最初から見捨てられた者「毒麦」が混在しているが、その最終的な選別は世の終わりの時、神の主権に完全に委ねられていると述べたています。


 さらに第二次世界大戦ののち、20世紀最大のプロテスタント神学者と呼ばれたカール・バルトもまた、このたとえを用いました。「人間は自分自身の力で「良い麦」つまり食用となる小麦となることはできず、すべての人間は元々神の前に「毒麦」罪人のような存在であり、それをキリストが贖ってくださったおかげで、私たちは「小麦」になった、そう信じるべきだと勧めました。


 バルトは神を信じることを、人間の弱さや思考の放棄ではなく、神の徹底的な恵みに対する「服従」であると捉えました。世界を巻き込む大きな戦争の残した傷跡は深く、敵対する相手を「毒麦」と呼んで排除しようとした当時の教会の在り方に警告を与えたのです。


 このように、キリスト教会は御言葉を堅く信じるリーダーたちのもとで何度も立ち直ってきました。しかしまた間違える時代はやってくるでしょう。どんな時代になっても、神様こそ私たちのお仕えする唯一の王である、と告白して自分はキリスト者になったのだ、その事実を忘れてしまうと、人間は現実に振り回されたり高慢になったりして、結局は宗教も人生も無茶苦茶になって破滅してしまいます。


 だからこそ私たちは聖書を読み続けるのです。本日のイザヤ書にあったように神様ご自身の「わたしをおいて神はない」と言う御言葉を繰り返し心に刻むのです。

 そして先ほど読みましたローマ書に記されているように、自分自身が「神の霊によって導かれる神の子ども」であると信じ、神の導きを何より大切にする生き方を新たにするのです。


 自分自身の心をもう一度見つめ、自分が良い麦であるキリスト者として召されていることを信じましょう。繰り返しになりますが、一人の人の中には「毒麦」にたとえられる「罪」や「弱さ」が存在しています。しかし絶望するのはやめましょう。神の赦しを信じ、キリストにより頼み、互いに「あの人は毒麦のようだ」と捌き合うこともやめ、神様に喜ばれる生産性豊かな場所に整えてまいりましょう。



青空の下、刈り入れを待つ麦畑
ウクライナの国旗そっくりです
あの地に一瞬でも早く平和が訪れますように

2026年7月12日日曜日

「豊かな実り」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(2026年7月12日)(緑)

イザヤ 55:10~13 (旧1153)   ローマ 8:1~11 (新283) 

マタイによる福音書13:1~9&18~23 (新24)


 毎週月曜日の午前9時30分、ここで幼稚園の合同礼拝を行っています。年長のゆり組と年中のひつじ組、合わせて24名、先生を入れると30名ほどの礼拝です。


 献金の時間はありませんが、私たちの行っている礼拝とほとんど同じです。一つ異なるとしたら、暗唱聖句をみんなで一生懸命覚えようとすることでしょう。


 先日は7月の「探しなさい、見つけられる」というマタイ福音書の5章7節からの暗唱聖句でお話をしました。「探しなさい」とは、神様、イエス様は何を探しなさいって言っているんだろう?と尋ねると、ゆり組の園児が「ひつじ」と答えました。今まで何度も迷子の羊の話をしてきので覚えているんだなあと感心していると、「お金っ」という声も聞こえてきました。子どもには滅多に話さないのですが、同じルカによる福音書の「銀貨を探す話」を覚えていたのでしょう。


 ただ、私がこの日用意した「探しなさい」の話は「ある金持ちが真珠を手に入れるために、家も財産もすべてを売って手に入れた」というマタイ福音書13章45、46節にあるたとえ話です。アーチブックという絵本を読み聞かせると、こどもたちは固唾をのんで聞いていました。


 素晴らしい真珠を見つけるために、主人公は長い旅をして、いろんな人と会い、いろんな場所に行きます。ジャングルにも砂漠にも行ったでしょう。やがて1人のこどもが言いました。「もう諦めたほうがいい、死んでしまったらどうするの」。このツッコミはいいタイミングです。


 絵本では諦めかけたこの金持ちに、ある老人が近寄ります。彼は金持ちが欲しかった真珠を持っていました。金持ちがその老人に尋ねます。「その真珠、おいくらですか」


 あるこどもが答えます。「安ければいいのに」しかし、老人の答えは「あなたの財産を皆売り払い、お金に換えるなら、これを譲ってあげよう」というものでした。こどもからは「ひどいなあ」という意見と、「それほど欲しいものならやるしかないね」と二つの意見が出てきます。


 で、この金持ちはどうしたかと言いますと、老人のいうとおりに、すべての財産を売り払って、喜んでこの真珠を手に入れたのです。


 ここまで話すとこどもが質問しました。「このたとえ話は何?」


 さすがです。隠された意味があることに気づいて知りたがってくれるのです。そこで私は答えました。「これはイエス様のたとえ話で、真珠というのは、みんな一人ひとりのことなんだよ」そしてこうも言いました。「みんなは神様に愛されているって聞くけど、どれだけ愛されているかと言えば、十字架にかかるほどなんだよ」


 一人ひとりが神様から愛されている存在なのに、あいつは嫌いとか、死んでしまえばいいとは言えない。ひとりひとりは大事な存在なんだ。もし、お父さんやお母さん、そして、友達からでも、間違って、「嫌いだ」って言われても、神様は全然そんなこと思っていなくて、仲良くして、赦し合い、愛し合える力をくださったんだよとお話し、お祈りしました。


 こういう話の後は、ありがたいことに、こどもたちは、仲良くしてくれます。普段意地悪な子も、どうぞ、どうぞと言ってくれます。礼拝後のおだやかなひと時です。

 仏教用語に「善友」という言葉があるそうで、「善」や「愛」を心得ている人が近くにいると、どんな悪人もいつの間にか影響されて、「悪いことはやめておこう」と思うのだそうです。

 さて、本日読んだ福音書にはたとえ話がたくさん収められていますが、その中に有名な「種を蒔く人」の話があります。最初の種は道端に、次は石地に、三つ目はいばらの中に、とタネが育つことができない環境に落ちてしまいます。


 もちろんたとえ話ですから、これらは全て、神様の御言葉を受け取ってもきちんと成長させようとしない人の、心の状態を表しています。意外に思うかもしれませんが、どんな人でも最初からふかふかに耕されたような心を持っているわけではないのです。タネを受け取った時、それを大切に育てようと思う心、将来的にちゃんと実らせようとする信仰がその人を変えていくのです。ですから、石がごろごろの荒れ放題のまま、ありのまま、放置していて良いと勘違いするのは、タネを受け取った側の怠慢とも言えるのです。


 近年のキリスト教は「イエス様はあなたのありのままを受け入れてくださる」いう教えが中心でした。間違いではありませんが、その教えが行き過ぎて、イエス様をお手本とせず、聖書から学ばず、自らを成長させようとしないクリスチャンが増え、やがて教会に集う人々は世の人の集まりと変わらない価値観を持つようになりました。


 信仰に基づいた行動はただの理想論と片付けられるようになり、「教会は時間があったら行くところ」になり、地方教会はまさに「限界集落」の様相を呈しています。しかし諦めるのはまだ早いのです。私たちには見方と行動を変えるチャンスはまだ与えられています。神様の平和への思いの詰まった種を撒き、種を自分に与えらた使命として、育てていくことは非常に困難です。しかし、取り組んでいけば何か方法は見つかるはずです。


 一人一人が御言葉によって心を耕して、その結果この場所が良い地になったなら、それはイエス様の言葉にあるように、何倍、何十倍、何百倍、何百倍になり、本当の平和を愛する人々が生み出されていくことでしょう。


 多くの人々が愛すること愛されることを見失った状態にあることを常に覚え、自分の心までそれに引き摺られないように祈りを捧げましょう。わたしたちは、キリストと共にある良き友になって、豊かな実りをもたらす者となれるのだと信じ、宣教の歩みを続けて参りましょう。


昨日は土曜学校でした。

12名のお友達がお話を聞き、工作を楽しみました。

工作はスイカのうちわ

蛇腹折を繰り返してハリセンのようなものを作り

組み合わせて丸い形にします

ジャバラ折はなんとかなりましたが

どう言うわけかスティック糊がきっちり接着できる人と

できない人がいて、ものすごく手こずりました

最終手段は強力両面テープ

用意しててよかったです


毎回作品を持って写真を撮り、ハガキにして

「きてくれてありがとう」のメッセージと共にご自宅に送っています

ただ、最近はSNSに写真を載せるのは戸惑います

顔を半分隠して写ってもらった

この写真ならいかがでしょう?


Kさん、Mさんモデルありがとう



子どもたちは最初のうち自分が何を作っているのか
理解してなかったようです(笑)
出来上がってから楽しそうに仰いでいました