2026年10月4日日曜日

「ぶどう園のたとえ」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第19主日礼拝(2026年10月4日)(緑)

イザヤ書 5:1-7(旧1067)  フィリピ3:4b-14(新364) 

マタイ 21:33-46(新42)


 本日の福音書の箇所は、ぶどう園のたとえですが、かなり物騒で、イエス様のメッセージを、どう受け取れば良いのか、迷われるのではないでしょうか。


 このお話を理解する鍵は、イエス様がどういう状況におかれていたか、ということです。この時すでにイエス様は3回も、ご自分の死と復活について弟子たちに語っておられました。祭司長や律法学者の手によって捉えられ、十字架にかけられる時が迫っていたのです。


 イエス様と対立した祭司長や律法学者はエリートで、政治家も兼ねていました。中には真面目で誠実な人もいましたが、大抵は保身に走り、そのくせ民衆から一目置かれることが大好きでした。その上、彼らはローマ帝国の顔色を見ることを優先し、社会を改革しようと行動に出る人々を断罪、処罰しました。


 イスラエル国内に混乱が起きないように波風立てず抑え込み、自分の地位も守る。そうすれば神様の国・イスラエルが保たれる、と思い込んでいたのでしょう。しかしそれは正しい信仰ではなく、神様を嘆かせる行動でしかありませんでした。イエス様は彼らの間違いをはっきりさせるために、この譬え話をなさったのです。


 聖書ではぶどう畑やぶどう園は、イスラエルやその民衆を指します。本日のイエス様の例え話では、主人、つまり神様が設備も立派なぶどう園を作り、農夫たちに貸して旅に出るところから始まります。農夫たちは立派なぶどう園に雇われたことに感謝しながら働くならば何の問題もありませんでした。立派な農園ですから、真面目に働けばそれなりの収穫が得られたことでしょう。


 収穫の時期が近づくと、主人の元から僕がやって来て、当然の権利として収穫を受け取ろうとしました。しかし農夫たちはここでとんでもない勘違いをしたのです。「汗水流して働いたのは自分達だ」「いきなりやってきて収穫を持っていくなど許せない」という考えが湧いてきたのかもしれません。


 あるいは、少しサボってもぶどうが採れるのをいいことに、誠実に働こうとせず、中途半端なぶどうしか採れなかったことがバレるのが嫌だったのでしょうか。


 いずれにしても農夫たちは主人の元から送られてきた僕たちを捕らえ、怪我をさせたり殺したり、とにかくひどい目に合わせ、ぶどう一粒も主人に渡そうとはしませんでした。そんなことが何度か繰り返され、ついに主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と息子を送ります。しかし農夫たちは「跡取りのこの息子さえ殺してしまえばぶどう園は自分達のものになる」と思い込み、殺してしまうのです。


 もうお分かりかと思いますが、先ほど「ぶどう園はイスラエルの国や民衆を意味する」とお話ししました。そしてこのひどい農夫たちは神様からイスラエルをより良く治めるよう託された祭司長や律法学者のことです。


 また、農夫たちのもとに遣わされた僕たちとは、旧約聖書に登場する多くの預言者たちです。預言者たちはイスラエルが神様の御心に立ち返るよう、懸命にメッセージを伝えますが、どの預言者も民衆からひどい目に遭わされます。そしてぶどう園、つまりイスラエルはますますメチャクチャになっていきます。


 ここまでお話しすれば、最後に登場する息子というのが、間も無く十字架にかかろうとしているイエス様のことであるのはお分かりでしょう。イエス様は、何度も何度も、神様は注意や指導する人を遣わしてくるよ、その時にあなたは心を頑なにしてはいけない、そうでないと、神様はこの農夫たちのように、あなた方から何もかも取り上げられてしまう。と言われたのです。


 しかし残念ながら、祭司長や律法学者たちは、そうした神様の忍耐強い御心を理解できず、イエス様のお話も理解しようとはしませんでした。いえ、もしかしたら、イエス様の厳しいお言葉のうちに悔い改めたいと思った人もいたかもしれませんが、組織が大きくなるとなかなか小回りが効かず、躊躇しているうちに流されてしまったのかもしれません。


 イエス様は、こうしてイスラエルがダメになっていくことに強い悲しみを感じながらも、祭司長や律法学者が否定し、捨て去った人々の中から新しいリーダーが生まれ、新しい群れが出来、神様の言葉が引き継がれていくことを見通しておられました。それが「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」という御言葉に表されています。


 最後になりますが、先週「るうてる法人会連合の研修会と総会に参加した」と申し上げました。全国からルーテルの幼稚園や保育園、学校や施設などで働くクリスチャンたちが大阪教会に集いました。


 今回話し合われた問題点は、クリスチャンでない人が園長や学校長等の重責に就いたことで発生する問題に関してでした。


 クリスチャンでも自己中心的な人はいて、クリスチャンなら誰でもいいというわけではありません。しかし、神様の御言葉を伝えるために誕生した教育機関の上に立つのに、信仰ない人を選ぶと、この世的な経営ばかりに目を止めてしまうのではないか、とか、しかし人手不足はどうにもならない、とか議論が堂々巡りです。


 どうすればいいんだ、と頭を抱え「わからない、しらない、難しい」という言葉ばかりを頻発しても、誰も代わりに考えてはくれません。時間ばかりが経過して、すっぱいぶどうしか実らなくなってしまいます。


 ぶどう園のたとえを今の私たちに当てはめるなら、世の中がどうあれ、自分達が、まず主の前に謙虚であること、成長するものであり、神様から貸与えらえた教会や施設に感謝するものであり、神様の思いを次につなげるために心を砕くよう望まれていることを知ることです。


 聖書にあらわれた神の言葉は、大小に関わらず、必ず達成されます。この世において、私たち一人ひとりは誠実な雇われびととして神様の業を成していく使命があります。与えられた命や地位や名誉を、自分のものとして生きていくのは自由ですが、聖書から学び、神様からの言葉や知恵を頂き、傲慢にならず、傷みを覚えつつも、変えていくものには、神様からの祝福は約束されているのです。


10月10日は土曜学校です

聖句は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」

(ローマの信徒への手紙12:15)

世の中不幸なことや悲惨なことが多すぎて

自分の心を守るためか

無関心を決め込んだり

ちょっと麻痺しているところがあるかもしれません

心を動かされる出来事があったら

少しだけ足を止めて神様に祈ってみませんか?


工作は鮮やかなカボチャの紙工作です

私たちの教会ではハロウィン的な行事はしませんが

収穫感謝のシンボルとしてカボチャを飾ったりします

毎年運動会と重なることが多く

いつにも増して人数が読めないのが泣所ですが

参加をお待ちしてます




2026年9月27日日曜日

「真心兄弟」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(2026年9月26日)(緑)

エゼキエル書 18:1-4&25-32 (旧1321) フィリピ 2:1~13 (新362) 

マタイによる福音書21:23-32(新41)


 教会では兄弟姉妹は共に仲良く過ごす姿が理想とされますから、教会員同士で争うのはおかしいと言われがちです。しかし人類最初の殺人事件は、兄が弟を殺します。創世記で、アダムとエバの息子であるカインは、弟のアベルが神様にエコひいきされていると思い込み、怒りのあまりアベルを殺してしまうのです。


 いくらなんでもこんなことはあり得ない、と思うかもしれませんが、兄弟姉妹のいる方は、自分達の子ども時代を思い出してみると、むしろ近い関係だからこそ、喧嘩は日常茶飯事だったでしょう。もしかすると何かのきっかけで感情が暴走してしまえば、誰でもカインになってしまう可能性はあるのです。


 さて、本日の福音書のイエス様のたとえ話にも兄弟が登場します。この出来事の少し前にイエス様は「神殿から商人を追い出す」という大胆な行動をとっておられます。当時の神殿では、商売人と祭司たちが裏で手を組んで、巡礼者から不当に利益を得ていました。それをイエス様は厳しく非難されたのです。しかしその行動の一方で、その場にいた障害者たちに惜しみなく癒しの業をなさったので、子どもたちまでイエス様を褒め称えました。


 祭司長や長老達はそれが面白くなかったのでしょう。イエス様が神殿で人々に神様のお話をしておられるのを見かけて「あなたはなんの権威があって好き勝手なことばかりするのか」とばかり問い詰めたのです。


 それに答えて、イエス様は初めに洗礼者ヨハネの話をされます。そして次にお話になったのが、本日ご一緒に考えてまいります「二人の息子のたとえ」なのです。


 ある人にふたりの息子がいた。父は兄のところに行って「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と指示した。すると、兄は「いやです」と答えたが、あとで考えなおして、ぶどう園に出かけた。一方弟は「承知しました」といったものの、出かけなかった。イエス様が祭司長や長老たちに「ふたりのうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と尋ねると、彼らはあっさりと「兄の方です」と答えたのでした。


 ちょっと余談ですが、聖書に親しんでいる方は、兄と弟の役割について「あれ?」と思われるかもしれません。有名な放蕩息子の話のように、兄は真面目で融通がきかず、弟は怠け者だったが悔い改めた、というイメージが定着しているからです。実際、以前の口語訳聖書では兄と弟の発言が入れ替わっていて、「調子の良い返事をしながら畑に行かなかった兄」と「後で思い直して畑に行った弟」という翻訳になっています。


 これは元のギリシャ語の聖書に2種類の本文があることが原因ですが、イエス様が例え話によって主張なさっている意味に変わりはないので、あまりこだわらずに読み進めたいと思います。

 

 ある注解書は、兄弟の行動について、次ように解釈していました。


 父親はいつものように、まず最初に兄のところに行って、手伝いの相談をした。その仕事内容は、記されておらず、収穫の手伝いか、収穫後のブドウ畑の整理という地味な仕事か、兄が最初に「いやです」という手伝いだから、兄にとっては楽しい仕事ではないのだろう。


 弟は兄のことを、「やらないといったら絶対やらないタイプ」と理解していた。だから父親が自分に頼みに来たのは、兄が断ったからだとピンとくる。ここで自分まで断ったら、父親はごり押しをしてくるに違いない。だから、自分も本当は行く気などさらさらないのだが、ひとまず「承知しました」と答えておいた。


 兄は父親の様子を見ていて、すぐ弟のところから帰ってきたので、「ははあ、弟は調子のいい返事だけして行かない気だな」と予測した。


 弟が行かなければ父が困るだろう、悪いことをしたな、そう思った兄は、思い直してぶどう園に手伝いに行った、という解釈です。


 ですから、「お父さんが困るから行こう」と行動したのはどっちか、というのが大切で、兄でも弟でも構わないのです。父親はイエス様のたとえ話の定番通り「神様」を意味していますから、神様に悪いことをした、と罪を自覚して考え方や行動を変えたのはどちらの人物だったか、というところにポイントがあります。


 つまりイエス様は祭司長や長老達に向かって「どちらが神様の御心をなしたのか」と問いかけられたのです。彼らは「出だしはどうあれ、結果的に畑に行って働いていた兄の方が、父親の望み通り下に決まっている」と判断をしたわけです。しかしそれがそのまま自分達への批判につながるとは思いもしなかったのです。


 イエス様は厳しい言葉で彼らに言います「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら洗礼者ヨハネが来て神様の前にどう生きるのが正しいかを示したのに、あなたたちは信じようとしなかったからだ」


 真の神に接した徴税人や娼婦たちは自分の罪を自覚し、ヨルダン川で洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼を受け、考え方や生き方を改めました。それに対し、祭司長や長老たちは頑固なままで、ヨハネの洗礼を軽んじて、自分たちこそが神様から権威を授かっているのだと傲慢になり、考えを改めようとしませんでした。そのことをイエス様は批判しているのです。


 ただ、思い出していただきたいのは、「後にいるものが先になり、先にいるものが後になる」という御言葉です。真の神に出会って悔い改めた元徴税人が「自分は今、神様の御心を行えている」と慢心したり、「自分と違ってあの祭司どもは神様のことがわかっていない」と批判的な思いを抱いたり。その逆に祭司や長老たちが、「イエス様の言葉は自分の悪いところをついていた」と思ったりするなら、後の者と先の者がもう一度逆転してしまう可能性もあるのです。


 私たちがそれぞれの属する教会を愛し、イエス様に導かれながらもう一度発展させ、神様に喜ばれる場所を作りたいとと、ほんの少しでも思うならば、イエス様のたとえ話の一つ一つを自分のこととして捉えていく必要があります。


 宗教改革者マルティン・ルターは、人間が心から信頼し、頼りにしている対象、それがお金であれ、名誉であれ、信仰であれ、それこそが、その人にとっての「神」になると説きました。つまり、「信仰を置いている場所に、その人の心が現れる」のです。 そうであるならば、私たち自身も、心を自分だけに向けず、主の御心、真の心を聞くものとして歩む必要があります。


 私たちはキリストの心を聞き、一つところに集められた人々と共に平和に共にこの地に過ごすことに心を砕き、真の心、共に信仰に生きる真心を持つ兄弟姉妹として、歩むことを、この上ない喜びとして参りましょう。


毎日曜日、朝9時半から45分間

ルーテルキッズバンドの練習を行なっています

次の本番は11月15日の「こども祝福式礼拝」


今回、飯田教会一番の歌上手おじさん、としやさんと

1曲一緒に歌うことになりました

金子みすずの「みんな違ってみんないい」

何種類か曲がありますが、杉本竜一作曲の曲が

としやさんのオハコということで

これを合唱することに決め、

今日が合同練習第一回目でした

としやさんの素晴らしい声量と正確なピッチに

圧倒されていたキッズですが

教え方がとっても上手なので

思いっきり乗せられて、楽しく歌うことができました

今から本番が楽しみです


キッズバンドととしやさんご夫妻

としやさんの指導に熱心に耳を傾けています


トピックス9月号ができました
よろしければ拡大してお読みください(^▽^)



2026年9月20日日曜日

「様々な苦労」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第17主日礼拝(2026年9月20日)(緑)

ヨナ書 3:10~4:11 (旧1447)   フィリピ 1:21~30 (新362) 

マタイによる福音書20:1~16(新38)


 今日の福音書の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、真面目で誠実なクリスチャンであればあるだけ共感しにくいお話だと言われています。実際、私の知人のクリスチャンが「この話はわからない」とぼやくのを聞いたことがあります。


 「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」とイエス様のお話が始まります。主人が出かけたのは日雇い労働者が職を求めて集まる「寄せ場」のようなところだったのでしょう。


 主人は1日につき1デナリオン支払う約束をして労働者達を自分のぶどう園に送ります。1デナリオンは当時の労働者の1日分として標準の給料ですから、彼らは納得して出かけて行きました。


 主人はその後、何度も寄せ場に出かけては、人を雇い入れます。朝の9時、昼の12時、夕方の3時、そしてほとんどの仕事が終わろうかという夕方5時にもまた出かけて、誰からも雇われず、一日中立ち尽くしていた人々に声をかけてぶどう園に行かせたのです。


 やがて労働時間が終わり、主人は監督に、最後に来たものから順に支払うように命じます。監督は主人に言われた通り、まず夕方5時ごろに来た人々に1デナリオンずつ支払います。順番に支払いを終え、最初に雇われた人の番がきます。しかし彼らが受け取ったのも同じ1デナリオンでした。


 早朝から働いた人々は、「遅く来た彼らが1デナリオンもらえるなら、自分はもっともらって良いはずだ」と、主人に不満をぶつけます。 しかし主人は彼らに向かって、「1日1デナリオンで雇われたのだから、自分の分を受け取って帰りなさい。」と言います。そして「最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分がしたいようにするのは当たり前だ」とも言ったのです。


 約束通りとはいえ、あまりにも不公平だと揉める人々の気持ちもわかります。まして夕方5時ごろまで仕事もせず、ぶらぶらしている人をたった1時間だけ雇い、1日分の給料を払うとは、とんでもない話です。


 さらには「私は自分のものを自分がしたいようにする」とか「彼にいくら払おうが、あなたには関係がない」と言うのですから、これは大問題です。この噂が広まれば、この主人のぶどう園で朝早くから汗を流して働く人はいなくなるでしょう。


 しかし、このお話を読むとき大切なのは、これは「この世の話」ではなく、「神様がお決めになった、天の国のルール」である、と言うことです。天の国のルールだからこそ、神様は日が暮れる直前まで誰からも見向きもされなかった人を、あえてぶどう園に招かれるのです。


 すでにお気づき方も多いと思いますが、夕方5時ごろに雇われた人、とは人生の遅い時期に神様を信じ、何一つ奉仕ができなかったような人のことで、夜明けから働いた人とは長い間奉仕を続けてきた人です。


 神様は、たとえ人生の最後の残りわずかな時間であっても、ご自分の愛を知り、受け取ってくれる人が愛おしいのです。そして、長い間共に働いたあなた方は、悔い改めた人を「滑り込みだ」「ずるい」などと裁いたりせず、一緒に喜んでほしい、と思っておられるのです。


 この神様のルールは、もう一つの聖書箇所、旧約聖書のヨナ書にも、はっきりと見ることができます。主人公のヨナは、ぶどう園で朝から働いて1デナリオンもらった人々よりも、もっともっと不条理な思いをした人物でしょう。


 ヨナは、神様からニネベという大きな町に行って「あなた方は滅びる」と告げるよう命じられます。ニネベというのは当時の大国アッシリアの首都で、イスラエルの敵国ともいうべき国です。ヨナはそんな町に行くのは嫌だとばかり、役目を拒んで逃亡しようとしますが、海に放り込まれたり魚に呑み込まれたり、と散々な目に遭います。苦労の末に悔い改めたヨナはニネベに辿り着くと、神様から命じられた通り「あと40日でニネベは滅びる」と人々に告げました。


 それを聞いたニネベの王様は豪華な服を脱ぎ捨て、ボロボロの衣に着替えて国民に呼びかけます。「人も家畜も断食して神様の前に祈り、いっさいの悪いことをやめなさい。そうすれば神様が思い直してくださるかもしれない。」国民は皆、このおふれに従います。


 神様は彼らが悔い改め、悪の道を離れたことをご覧になって、なんとニネベを滅ぼす予定を取りやめられます。ニネベの人々はどんなに喜んだことでしょう。


 しかし収まらないのはヨナの方です。こんなに大変な思いをして神様の御心を告げに来たのに、神様の方が予定変更するなんてあんまりだと嘆き、こんなことなら死んだ方がマシだ、とまで言い始めます。


 そんなヨナに神様は、ニネベの人々が悔い改め、悪から離れたことがどれほど嬉しかったかしれない、と告げるのです。


 お話は神様の言葉で終わっているので、ヨナがどんな顔をして聞いていたかはわかりません。しかし自分もまた神様を裏切り、苦しみの中で悔い改め、救われ、赦された存在だった、と苦難の一つ一つを思い返すことができたなら、きっと清々しい顔で納得できたことでしょう。


 そしてここにもまた「ご自分の愛を知り、受け取ってくれる人の存在がどんなにか愛おしい」という神様の思いが込められています。そこにはヨナ自身も含まれていて、「ヨナも一緒に喜んでほしい」と言う神様のメッセージもまた、ここにあるのです。


 今日共に読みました「ぶどう園の労働者」と「ヨナ書」のエピソードは、一生懸命働く奉仕者の視点から見ると、ただただ不公平であんまりなお話かもしれません。しかし神様はそんな私たちにも目を注いでくださっています。


 私たち一人ひとり、信仰生活の長い人がいればも短い人もいる、教会から離れた経験のある人もいれば、ずっと通い続ける人もいる。そんな私たちが神様によって一つ所に集められたのには、神様にしかわからない理由があります。その理由は御国に招かれて神様の御前に立つ時、はっきりとわかることでしょう。その時まで、私たちはイエス様と共に労苦を重ねながら、神様に与えられた人生を歩んでまいりましょう。



本日は甲信地区にある5つのルーテル教会「長野教会」「松本教会」「諏訪教会」「飯田教会」「甲府教会」をzoomで結んでの礼拝でした

朝比奈牧師が前日から甲府教会に宿泊してセッティング

牧師夫人が飯田教会に残って受診する、という方法を取りました

他の教会の皆さんもそれぞれ工夫して参加できたようです


教会を預かるものとしては

直接顔と顔を合わせて祈り

一堂に介して礼拝するのが一番いいと思えますが

止むを得ない事情があるときに諦めて礼拝を休むのではなく

自宅からでも交流できるのは感謝なことです

実際、飯田教会の病気療養中の教会員も日頃から

zoomを活用して礼拝参加してくれているので
今日も慣れた様子で加わってくれました



土曜の午後、飯田教会でセッティングを終えて
一路、甲府教会へ


3時間後、甲府教会に到着して設定開始
このモニターに写っているのは甲府教会の礼拝堂です
zoom調整中のため、普段着で失礼します
礼拝ではもちろん牧師シャツに着替えました(^-^;)


飯田教会の献花(礼拝堂に捧げられた花)が
秋らしくてとても美しかったので
思わず撮影