2026年2月1日日曜日

「実りある教会」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・教会総会礼拝(2026年2月1日(日)(赤))

ヨハネによる福音書 15章5―23節(新198)


 2026年の年間主題は「キリストとの生き生きとしたつながり」を伝える御言葉、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」ヨハネによる福音書15章5節を用いることにいたしました。


 この御言葉は、幼稚園でこの1月に暗唱聖句として選ばれました。園の始業礼拝の奉仕の時、園児達が「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と大きな声で読み上げているのを聞いて心が震えました。それはこの言葉を聞くことで、ここでの幼児教育を引き継いでゆくという、強い気持ちと畏れが神様から与えられたからです。


 ぶどうは飯田に住む皆さんにとって身近な植物ですからあれこれ説明は必要ないでしょう。


 今更ですが、人間は6000年以上前から野生のぶどうを利用してきました。紀元前4000年ごろの古代エジプトやメソポタミアでは、すでに野生のぶどうを品種改良し、栽培していたようです。


 当時のぶどうの実はまずく、生食はせずワインに加工していました。長い長い年月をかけて品種改良が進み、食べるにしても、飲み物にしても、これはというぶどうが生み出されます。


 しかし、19世紀にフランスでフィロキセラという害虫が大発生し、ヨーロッパのぶどう園が壊滅的被害を受けます。その時、アメリカ原産の、この害虫への耐性のある台木へ接ぎ木することによって、解決策が確立されたのだとか。このように、接木はぶどう栽培を栽培していく上でなくなはならない、非常に重要な技術です。


 ぶどうを実らせる枝には、植物生体液、つまり樹液、植物の体液が流れています。樹液には、養分の運搬だけなく、傷の保護や修復の力があるそうです。


 接ぎ木を行うときには、今まで育った枝を切り、新しく接ぎ木した枝の先まで樹液が流れるように接合部をテープで完全に覆うなど、細やかな作業が必要です、と、こんなことは素人の私が言わなくても、農業や園芸に携わる方ならみなさんご存じでしょう。


 ただ、問題は、必要があるからとはいえ、せっかく育った枝を選んで切り落とすのは全く抵抗がなくできるものなのか、ということです。


 本日の聖書箇所の少し前のところでイエス様は「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と宣言しておられます。ここでは父なる神様を、ぶどうの手入れをする優秀な農夫にたとえ、良い農夫は正確に枝を見極め、バッサリ切り落とすものなのだ、と言っておられます。良い実を結ぶためにはどうしても剪定が必要である、と念を押すということは、神様といえども枝を切って処分するのは、決心が必要なのだと伝えておられるようです。


 この教えを通して、イエス様は「私に繋がるものは、実を結ばないわけがない」と言っておられるのです。そして「実を結ばないとすれば、形だけ引っ付いているだけで、実際には本体から流れ込むはずの樹液を拒否しているのだ」と言っておられるのです。


 イエス様のお話を聞いた人々は、自分が今まで繋がっていた社会から神様の手によって切り離され、キリストを人生の中心とする生き方へと接木されたのだと知りました。これから自分はイエス様の愛と教えという樹液をいただきながら成長するのだということに、希望を見いだしていったのです。


 ただし、それには、切り落とされることに共なう痛みはどうしてもあるのです。以前の生活から切り離される、つまり、以前の生活を全く変えることなく、イエス様につながることはできません。


 イエス様が十字架の痛みに耐えたのは、私たちに繋がるためです。私たちがイエス様の傷口から流れ込んで来る神様への強い愛と信仰を自分の体と心に巡らせるなら、まことのぶどうの実を実らせることができます。信仰によって、人にも自分にもより良い結果を得るためにつなげられたのです。


 私たちは流れ込んでくる御言葉を通して、「愛」とは何か、「平和」とは何かを改めて学んでいくのです。それは今まで生きてきた社会でいうところの「ヒューマニズム」とは別のものです。理屈ではなく、キリストとつながることによって、見えてくる愛の業、平和の業が、お前ならできると示されるのです。それがクリスチャンとしての希望であり、喜びなのです。


 キリストから流れるいのちの水は、傷を保護し、癒し、修復する力があることを私たちは聖書を通して知っています。私たちが困っている人、助けを必要としている人に、枝のように手を差し出し繋がろうとするのは、その人を救いたい神の思いがこの身体に流れているからです。


 私たちは今、さまざまなことに翻弄される社会の中で生きていて、ともすればキリスト・イエスとのつながりを忘れそうになります。目の前の自分の生活で手一杯で、もっと大きな危機があることに気づかず、社会が滅びに向かっていても気づかない、そんな世にあって、毅然としてキリストに繋がることは難しく、枝である私たちに痛みが伴います。しかしそれは主によって癒される痛みだと信じて歩むしかありません。


 痛みがあろうとも、私たちはこの地域で、そして幼稚園を通して、さまざまな人々を招き、つながり、イエス様へと導いていくのです。その結果として、豊かな実が実る、必ず実ると信じていくのです。


 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」この聖句を心に刻み、この1年を「実りある教会」への歩みと致しましょう。



まだまだ寒い日が続いています

飯田は例年あまり雪が降りませんし

積もってもすぐ解けるのですが

今年はうっすら積もってなかなか解けないという

日が多くなりました

私が飯田に来て7年目

今年が一番寒い冬かもしれません


今回もまた雪の写真で申し訳ないのですが

記録のために載せておきます


牧師館の庭のカエルの置物
雪をかぶって寒そうです

早朝の園庭が真っ白になる日も増えました

2026年1月25日日曜日

「宣教の業」(日曜日のお話の要約)

顕現後第3主日礼拝(2026年1月25日(日)(緑))
イザヤ書8章23―9章3節(旧1073)
Ⅰコリントの信徒への手紙 1章10-18節(新299)
マタイによる福音書 4章12―23節(新5)

 本日はマタイ福音書から聞いて参ります。マタイはイエス様の12弟子の一人で、生粋のユダヤ人ですが、彼は祖国ユダヤを裏切り、ローマのために税金を徴収する仕事をしていました。そんな彼がイエス様に救われてからは「どんな過去を持っていようとも、イエス様を信じるならば再生できる」と信じ、その希望を福音書に綴りました。


 マタイ福音書は冒頭に長々と系図が書かれているので敬遠されがちです。しかしその意図は、系図に象徴される、神につながる長い歴史を持つユダヤの国が、これから先、未来へと存続するには、しっかりした信仰の土台を持つ人々がどうしても必要だ、という確信です。そして、ヨハネの洗礼の出来事はその始まりなのだ、と考えました。


 洗礼者ヨハネはヘロデ王に捕らえられたため、ヨルダン川で民衆に洗礼を授ける人はいなくなってしまいます。しかしマタイは、ヨハネと入れ替わりで登場したイエス様こそ、旧約聖書に預言された約束の救い主なのだ、と熱く記しています。


 マタイ福音書によれば、イエス様はヨハネが捉えられた後、首都エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方に拠点を移します。そこで人々を集め、家庭的な集まりを作り、共に旅をし、体験を通して弟子の育成を始められたのです。


 そしてイエス様は弟子たちを連れてガリラヤ中を回ってお話し、奇跡を行い、大勢の群衆に慕われるようになります。マタイ福音書では、イエス様の語られたお話を「山上の教え」、以前は「山上の垂訓」と呼ばれていましたが、イエス様の大切な教えをまとめて記しています。


 みなさんもご存じのように、マタイによる福音書の山上の教えは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と始まっています。この「貧しさ」とは、「自分には満たすことのできない足りなさがある」と自覚し、だからこそ「他者に助けをもとめられる人」のことであり、「満たされることに満足するのではなく、助けられることに喜びと感謝を表す人」です。


 ですから、心の貧しい人物とは、「私は助けなしには生きていけない存在である」と分かっていて、素直に「助けてください」口にし、神様に後押しされながら自分の思いを伝えられる人のことを言うのです。


 自分の足りなさや弱さを素直に認め、必要な時、人に助けを求めることができる資質は人間関係で大切なことで、友人関係や一つの組織、ひいては国を作っていく上で重要です。


 自分が正しい、自分はなんでもできる、と思い込んでなんでもワンマンにやっていこうとするのは危険なことなのです。自分の欲望を正当化して、虚勢を張って強さを演出し、他者に圧力をかけて奪い取ろうとするのは、強いのではなく、弱さを誤魔化す浅ましさにすぎません。


 人間の心を知りぬいているイエス様は、「あなた方は苦しみや罪を抱えながらでも、なによりも神様を信じて、正義と愛、清らかさと平和を求めて生きるように」と人々を励ましました。そのような生き方ができる人こそ幸せなのだと宣教したのでした。


 イエス様の教えは、競争社会や格差社会、弱肉強食のような社会の中では非現実的で弱々しく聞こえたかも知れません。けれどもイエス様のもとに集まってきた人々はイエス様の言葉に希望を見出しました。


 一人一人は弱く、税金の高さやローマの横暴による生きにくさ、病いや障害による差別に苦しんでいました。自分の力ではどうすることもできない、苦しみや悲しみを抱えた人々の心に、イエス様の教えは勇気と信仰を与え、手に手をとって世界を変えていく希望を与えたのです。


 やがて、イスラエルはローマには歯向かったことで潰され、滅びていきます。信仰の中心であったはずの神殿も跡形もなく破壊されました。しかしイエス様の教えの言葉は決して滅びませんでした。


 イスラエルを叩き潰したはずのローマ帝国の中で、受け継がれた御言葉の種は人々の心に根を張り、生き続けました。やがてローマ帝国そのものが危機に陥った時、皇帝自らイエス様の教えを国作りの中心に据え、キリスト教国家となっていくという大逆転が起きるのです。


 パレスチナの片隅でユダヤ教に迫害されながらも確実に育まれて行ったキリスト教が、名実ともにローマの国教となったのは西暦392年、テオドシウス帝の時代です。この出来事はヨーロッパ全土に、そして世界全体を大きく変えていくのです。


 これはマタイから見れば、遥か未来の出来事でした。もちろんマタイは後に何が起こるか具体的に知っていたわけではありません。しかし、神様への信仰を持った人々によって、苦難の時にも揺るがない国が出来上がる、という確信は確かに現実のものとなったのです。


 マタイはイエス様に見出され、「わたしについてきなさい」と言われた時、立ち上がって従ったと記しています。ここで彼は「罪に死んだ私は復活してイエス様に従った」と表明しているのです。


 21世紀になって、科学は急速に進歩し、人々はさまざまな社会問題を解決し、分断をなくし、輝かしい未来がやってくると信じていました。しかし、現実には経済力を持った大国の横暴はますますひどくなり、小さな国々は自衛のためと称して武装する道を選び始め、世界に恐れが広がっています。キリスト教国と言われている国でさえ、イエス様の教えは絵に描いた餅になっているような有様です。


 このような混乱の時代、争いの只中にあっても、決して諦めず「宣教の業」を次の世代へ、未来へとつなげるために、今を大切にして、神と共に、主イエスと共に、ひたむきに歩みを進めて参りましょう。



JPCZ、何の略か、なかなか覚えられません

「日本海寒帯気団収束帯」と言われても

「日本海」以外ほぼ馴染みがない言葉(^^;)

冬の日本海側で大雪をもたらす

帯状に連なる活発な雪雲のことだそうです


他県に住む人からの年賀状には

「飯田は今頃雪景色でしょうか」と書かれていますが

南信州は実はあまり雪は降りません

ただひたすら気温が下がり、凍ります

でも今回は流石の南信もJPCZの影響で

かなり雪が降っています


お読みくださっている皆様の地域はいかがですか?

豪雪地帯の方は雪下ろしなどくれぐれもお気をつけください

雪に慣れていない方は、なんと言っても

転倒に注意してくださいね


教会の花壇に飾ってある陶器のカエル
見た目あまりに寒そうなので
マフラーを巻いたのですが
雪と共に凍ってしまい、ますます寒そうです



早朝の園庭はうっすら雪化粧です

2026年1月18日日曜日

「聖霊に招かれて」(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝(2026年1月18日(日)(緑))

イザヤ書49章1―7節(旧)  

Ⅰコリントの信徒への手紙 1章1-9節

ヨハネによる福音書 1章29―42節(新)


 以前、他の教会の信徒さんから伺った話なのですが、自分がこの教会に来たのは、たまたま青年時代に仲間達と教会に集まることが流行って、仲間の多くは教会から離れてしまったが、自分だけはたまたま進学先にも、就職先にも教会があったので礼拝や教会の集会に出て、たまたま昔からのクリスチャンの家系の方と結婚をして、子ども達はそれぞれ独立し、今、自分は教会のお役に立てることが出来ればと思うようになっていると。


 こんなふうに「私が教会に来るようになったのは、たまたま」と言われる方が多いのです。「たまたま来ました」と連呼され、まるでそんなふうに言うことが謙虚さであると考えているようで悲しくなるのです。


 皆さんお一人お一人が教会に来るようになったのは、決してたまたまではありません。神様があなたを招かれたからであり、つまりは聖霊の招きがあったからなのです。自分で教会に来て、自分で教会につながり続けているのだ、と思い込んでいるなら、それはあなたを愛し、尊い犠牲を払ってまでもここに招いた神様を悲しませ、あなたに働きかけ続けている聖霊の働きを無視していることになるのです。


 クリスチャンや教会員が、自分のことを会社や何かの組織の構成員と同じだと考え、神様に招かれて結び合わされている、と言う自覚を持てない時、自分の都合や損得感情で礼拝に来るのをやめ、好きなように行動するでしょう。「たまたま来た」と言う言葉は、「自分優先でやめて構わない」と言う恐ろしいニュアンスを含んだ言葉だと皆さんには知っておいていただきたいのです。


 さて本日の福音書は、洗礼者ヨハネがイエス様にヨルダン川で洗礼を授けた時の様子を語っています。


 この福音書を書いたのは、イエス様の弟子のヨハネです。ヨハネは自分を取り巻く世界に納得がいきませんでした。ローマ帝国に押さえつけられ、宗教指導者たちは建前ばかりで保身や権力闘争に明け暮れている。信仰も宗教も国家も指導者も信用できないのです。洗礼者ヨハネなら、この世界をよくしてくれるに違いない、と言う思いで弟子となったのでしょう。


 ところで、イスラエルには神様がいつか救い主を遣わして国を建て直してくださる、という信仰がありました。イスラエルは神に愛される国だから、滅んでも滅びない。ただし、そのためには深く悔い改め、律法に定められた生贄を捧げることなど、いくつかの条件が旧約聖書に記されていたのです。


 ヨハネ福音書では、他の福音書の描写とは異なり、洗礼者ヨハネがイエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と紹介しています。そして彼こそ「神の子」である、と断言したのです。


 しかし、この神の小羊というのは元々神様に捧げる生贄を意味する言葉です。イエス様がお生まれになる1000年以上も前、イスラエル民族がエジプトから脱出する時、聖なる子羊の血を門に塗ることで神様への信仰を表し、無事にエジプトを脱出できたという史実があります。


 この世の罪を帳消しにするためには、聖なる小羊を捧げる必要があります。洗礼者ヨハネはイエス様を見た時、この方こそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」と信じた言葉を口にしたのです。しかしそれを聞いた人々はすぐには理解することはできませんでした。「イエス様こそ、我々の罪を神さまから許していただくために犠牲者になるのだ」という意味だと知るのはまだしばらく後のことだったのです。


 35節に「洗礼者ヨハネが二人の弟子と一緒にいた」とあります。読み進めますと、この二人の弟子のうちの一人が福音記者ヨハネであり、もう一人がのちに12弟子の一人となったアンデレ、つまりペトロの弟であることがわかります。


 洗礼者ヨハネは歩いておられるイエス様を見つめて、アンデレとヨハネに向かって「見よ、神の子羊だ」と言います。するとそれまで洗礼者ヨハネの弟子であった二人は、吸い寄せられるようにイエス様の後をついていきます。


 やがてイエス様が振り向いて二人に「何を求めているのか」と問いかけられたので、彼らは「どこに泊まっておられるのですか」と問い返します。これは元の言語から考えると「あなたが招いてくださるなら、あなたに繋がりたい」と言う意味になるようです。それに対してイエス様は「来なさい」と答えて二人を招きます。これがヨハネとアンデレがイエス様の弟子となった瞬間でした。


 ヨハネがここで伝えたかったのは、一見自分達から積極的に弟子入りを願ったように見えるけれど、実はイエス様の方が、自分たちを見ておられ、この世のあらゆる疑問、不条理に苦しむ自分達の思いを見抜き、ご自分に繋がるようにと招いてくださったのだ、と言うことなのです。


 聖霊の力をいただき、イエス様に繋がって、改めて世の中を見るとき、世の中の醜さが鮮明に見えてくることがあります。自分の目や心を偽れなくなるからです。それは辛い事ではありますが、そうしたものは全て神様ご自身が私たちに与えたものであり、神様から私たち、そしてその先へと繋がるものを根こそぎ救うために、私たちを用いるために与えられた力なのです。


 私たちの歩むこれからの道は、やはり苦難はあり続けることでしょう。けれどもわたしたちには、神様の招きがあり、私たちを見つめておらえるイエス様が、私たちに「繋がりなさい」と声をかけてくださり、手を握って勇気を与え、なすべきことを示してくださいます。


 神様が与えてくださる招きに応えながら、歩んでいきましょう。なんで私だけ、と苦しみを覚え犠牲になっている、と感じる時には、主イエスもかつて同じ道を歩まれ、今も私たちの前を歩いてくださっていることを、私たちの誇りといたしましょう。



昨日は今年最初の土曜学校

13人のお友達が集まってくれました

礼拝では31年前に起きた阪神淡路大震災の事も

少し聞いてもらいました


工作の時間は毛糸のポンポンを使った

ふわふわうさぎ

みんなかなり苦心しましたが

可愛いうさぎが完成しました

代表して4人のお友達の作品をご紹介




次は2月21日です
予定しておいてくださいね

2026年1月11日日曜日

「洗礼の恵み」(日曜日のお話の要約)

降誕後第3主日礼拝(2026年1月4日(日)(白))

イザヤ書42章1―9節(旧)  使徒言行録 10章34-43節

マタイによる福音書 3章13―17節(新)


 本日の福音書では、イエス様が洗礼者ヨハネの元を訪れ、洗礼を「正しいこと」と言い、ご自身も受けられる姿がはっきりと記されてます。又、先ほどの使徒言行録には、ユダヤ人以外の異邦人が真剣にキリスト教を学ぶ姿勢に心打たれたペトロが、彼らに洗礼を授けています。


 私たちはキリスト教は誰でもその気になれば洗礼が受けられる、と考えていますが、信仰を持ち、洗礼を受けるということは神様から厳しく問いかけられていることなのだと、もう一度聖書から学ぶ必要があります。


 世界にはさまざまな宗教があって、長い学びや修行の期間を必要とするものもありますし、入信の資格を得るために、試験がある場合も少なくありません。それに比べればキリスト教の洗礼というのは、宗教の入信儀式としては簡素な方です。


 とはいえ、教会、教派によっては洗礼に至るまでに準備講座が何週間にもわたって行われ、礼拝出席や献金についても指導を受け、最後に教会の主だった人々の前で証を求められることもあります。「厳しいなあ」と感じる人もいるでしょうが、それでもなお、洗礼を受けたいという思いが消えないのは、その人が神様に招かれ、聖霊に導かれていると堅く信じているからであり、「今までの自分を悔い改め、新しい生き方を始める」ことを渇望するからです。


 ルーテル教会では事前準備は比較的あっさりしていますが、洗礼を受けようとする想いについては確認させていただきます。一般的には人生の目標は名声や富を得ることです。キリスト者はそれを否定こそしませんが「それらは決してキリストには代えられない」と明言します。この考え方が多くの人々には異質なのです。


 日本のように古来からの宗教が強い土地では、キリスト教の教えは理解されにくいもので、辛い思いをすることもあります。ただ日曜礼拝を優先しようとするだけで異質なものを見る目で見られることも多いのです。


 周囲の目に負けて隠れキリシタンになるのではなく、堂々と証しをしつつ切り抜けていくには、過去のクリスチャンたちが、さまざまな宗教を信じる人々と相対しながらどうやって伝道を行ったか、聖書から学び続け知恵をいただこうとする強い意志が必要です。


 使徒言行録5章には、イエス様の一番弟子であるペトロたちの伝道が大きく前進した様子が記されています。ガマリエルという有名な律法教師に「キリスト者は只者ではない」と思わせたのです。


 ガマリエルはファリサイ人としてユダヤの民衆から尊敬されており、人格的にも優れた人物でした。ガマリエルはペトロや他の弟子たちがイエス様の教えを大胆に伝えたことを咎められて取り調べられた時、裁判の場でペトロたちを庇ってこう言いました。「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」


 ガマリエルは冷静にペトロたちの言動を観察していたのでしょう。もしかしたら心の中ではすでに、キリスト教信仰を肯定していたのかもしれません。


 しかしガマリエルの弟子であるパウロは、キリスト教は神様を冒涜する教えだと頑なに信じ、ガマリエルの判断を無視してキリスト教の大迫害を実行に移します。男女を問わず縛り上げ、牢に放り込むという許可を大祭司から得たのです。


 ところがキリスト者迫害の旅のさなか、イエス様から直接お叱りを受けて、悔い改めに導かれます。その後パウロは自分の特性を生かして、ペトロたちとは違う方法で異邦人に伝道していくこととなりました。ペトロとパウロは時にぶつかり合い、意見を戦わせながらも、イエス様を神の子と信じる人々を導いていきます。


 キリスト教を信じるということは、人によってそのスタイルが違い、お互いに切磋琢磨してちょこちょこと軌道修正をしていくことが必要で、本質をしっかり押さえているならば、互いの違いを受け入れる心が大切であることを使徒言行録の出来事は教えてくれます。


 さて、もう一度本日の福音書に戻りましょう。イエス様が洗礼を授けているヨハネの元に来た時、ヨハネは「私の方こそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と大いにためらい、思いとどまらせようとします。しかしイエス様はヨハネに向かって「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と語りかけます。


 正しいことを成し遂げるのは私たちしかいない、という意味に取れるのです。これから先、世の人々からあざけられ、馬鹿にされようとも、神様から与えられた正しさは世の中を救い、世の中を変えていく基となる。そのためには罪人と呼ばれる人との関わりや、そう言った人々に愛を注ぐ働きも待っているが、それこそが神様のご計画であり、その決意を示すことが公の洗礼なのだとイエス様は言われます。


 洗礼の恵みを思う時、大前提として、私は私たちは罪人だったということを思い出す必要があるのです。私たちは愛することも愛されることも不器用な人に、神様から頂いた愛を分かち合い、注いでいく必要について、またその具体的な方法について、常に心備えしておく必要があります。苦手なところはお互いに補い合いながら、本当に良い社会、神の国を作っていくために、本当に良くしたいことを、ちゃんと言葉にし、意見を交わし、ちゃんと参加することが大切なのです。


 「せっかく洗礼を受けたのに何もいいことがない」と口にする人がいます。しかし洗礼の恵みはぼんやり待っているのではなく、一歩進んで手を伸ばす時、与えられたと実感することができるのです。一人一人が積極的に恵みに預かり、その恵みが恵みとして分かるまで、私たちは与えられた使命や生涯を、先人に見習って、歩んで参りましょう。


 恵みをいただき恵みを注ぐ、そのために私たちは神様に招かれ、キリストの名の元に洗礼を受けたのです。



みんなの聖書・絵本シリーズ「少年イエスと洗礼者ヨハネ」より
洗礼者ヨハネから受洗の順番を待つ人々の列の後ろに
イエス様が立っておられます