2026年6月28日日曜日

「私たちの救いの業」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第5主日礼拝(2026年6月28日)(緑)

エレミヤ 28: 5~9 (旧1229)   ローマ 6:12~23 (新281) 

マタイによる福音書10:40~42 (新19)


 先週は女性会で、旧約聖書を通して聖書の国・イスラエルの歴史についておさらいをしました。現代の、紛争の絶えない現代イスラエルと、聖書に記されている古代イスラエルは、どう違うのか分かち合う時間となりました。歴史が苦手、とおっしゃる方には酷かもしれませんが、聖書を読む上でイスラエルの成り立ちを把握することは欠かせません。


 古代イスラエルは紀元前1000年頃、ダビデ王によってエルサレムを首都とするイスラエル王国となりました。ダビデの息子であるソロモンは知恵のある人物として有名で、イスラエルを急速に成長させ、神様の為に立派な神殿を建築します。

 しかしソロモン王が死ぬと、北部の10部族が反乱を起こし「北イスラエル王国」として独立します。南側は「南ユダ王国」としてダビデの血筋を保ち神殿を守り続けました。


 この二つの国は兄弟国家でありながら、何度も凄惨な戦争を繰り返した挙句、北イスラエル王国はおおよそ建国200年ほどでアッシリアに滅ぼされます。


 南ユダ王国の方も350年ほどでバビロニア帝国に滅ぼされ、ソロモンが建設した神殿も壊され、民衆はバビロニアに連行されます。これを「バビロン捕囚」と言います。しかしやがてペルシャ帝国が台頭してきてバビロニアを滅ぼし、囚われていた南出身のユダヤの民は祖国への帰還と神殿の再建築を許可されます。


 しかし、その時には北の国があった土地には他民族が移住し、ユダヤ人と他民族が結婚してサマリア人と呼ばれるようになっていました。このサマリア人と南のユダヤ人は考え方が全く違うので、また反発し合うこととなりました。


 なんて面倒な歴史だろうと思われたことでしょう。現代のイスラエルはさらに複雑な歴史を持っていますが、そこの話は改めてするとして、イエス様がお生まれになるまでのイスラエルについて頭に入れておくことが、聖書を理解する上で欠かせないのです。イエス様の時代だけなんとなくわかっていればそれでいい、と思いがちですが、イエス様の時代においても、なぜ当時のイスラエルがローマ帝国に支配されていたのか、また、どうしてイエス様はわざわざベツレヘムで生まれたのか、などなど、歴史の知識なくては理解できないことがたくさんあります。


 こういった出来事を把握するには礼拝で説教を聞くだけでは足りません。それで教会には、礼拝以外にも聖書研究会を開いて学びの機会を得る伝統があるのです。


 では当のイスラエルの人々はどうかというと、やはり自分の国であってもの紀元前1000年まで遡る長い歴史を把握するのは簡単ではありませんから、子どもの頃から教育を受けます。彼らは、逆境の中で聖書の言葉を神様のメッセージとして真剣に心に刻みつけ、生きる指針としました。紀元前、戦争で囚われの身となっていた時はシナゴークと呼ばれる集会所を作り、聖書を暗記するほど熱心に学び、神様への信仰を熱くしてきました。そして聖書の大切なメッセージ、「必ず救い主が現れる」という教えを親から子へ伝え、信じて待ち望んだのです。


 しかしこの「救い主」のイメージは、イスラエルの戦争だらけの長い歴史の中で変化し、神様が「救い主とは平和の主である」と宣言しておられるにもかかわらず、武力でイスラエルを虐げる国をコテンパンにして解放してくれる方が救い主である、という解釈を持つ人が増えて行きました。ですからイエス様が登場した時、救い主とは思えない人々も多くいました。


 それでも、イエス様のお考えや行動を知るにつれ、この方こそ神の子だと信じる人は確実に増え、弟子となって多くを学ぼうとする人々もまた増えていきました。


 本日の福音書は、イエス様が大勢の弟子の中から12人を選んだ時の出来事です。この12人はイエス様から派遣され伝道の旅に出ることになりました。


 イエス様は伝道旅行につきものの試練について厳しいお言葉を語った後、励ますように「わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」と言われます。


 この「小さい者」という言葉は、この文脈ではイエス様の弟子と解釈できます。イエス様の御言葉を伝えるためにヘトヘトになっても、誰かがあなたに手を差し伸べてくれるし、神様があなたに代わってその人に報いを与えてくれる。だから勇気を持ちなさい、そう読み取ることができます。


 現代ではここに少し解釈と視点の転換がされて、虐げられている人、ホームレスの人や、今日一日の食事にもままならない人、人生を上手く生きられない人、トラブルメーカーといった人たちにイエス様のお姿を重ね合わせ、弟子として手を差し伸べなさい、と読み取る方もいます。


 とはいえ、そういった人々に本気で手を差し伸べるのは、捨て身にならないと難しいでしょう。しかしイエス様はハードルを上げすぎることはありません。関わった以上、喉が渇いている相手に冷たい水一杯程度なら飲ませてあげよう、という心の余裕を持って、ちょっとお節介な奴だなと思われながら生きることが案外隣人の助けになるなるものだよ、と教えておられるように思えるのです。


 イエス様は、大きなことをしようと気負うなと言われます。自分の出来ること、自分の信じるところを大切にし、実践して行きなさい、と教えておられます。


 繰り返しになりますが、旧約聖書は戦争や殺人の歴史が山ほど記されています。この戦争や殺人こそが人間が神様に逆らって犯した罪の結果です。人間というものは紀元前から分断の道を選び、本当に変わらないなあ、と思えてきます。謙虚に捉えるなら、何度も同じ過ちを繰り返す愚かさや無力さが自分の中にもあることも見えてきます。この愚かで暗い世界を神様はお見捨てにならず、神の子イエス様が来てくださったのだ、と希望が持てて、喜びと感謝が湧き上がるのです。


 私たちは複雑で色々な問題を抱えたこの時代にあっても、神様を信じ、聖書に学びつつ、イエス様に贖われた小さき者として、小さき者に関わる主の業に励んで参りましょう。



古代のイスラエルが南北に別れた後

それぞれの国に預言者と呼ばれる人々が登場し

神様からのメッセージを王族や民衆に取り次ぎ

「このように神様への信仰を蔑ろにしていると国は滅びてしまう」

と語ります

しかし預言者たちの声はなかなか届かず

逆に「国賊」とまで呼ばれました

中でも南王国ユダの滅亡を予言したエレミヤは

「涙の預言者」と呼ばれ

ヨーロッパの画家たちの想像力を刺激したのでしょう、

彼をテーマに扱った名画が数多くあります

レンブラントの描いた

「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」(1630年)は非常に有名です





大国が「力こそ正義」と主張し

多くの国々を虐げている今の時代

私たちは聖書の歴史に込められた神様のメッセージに謙虚に耳を傾け

少しでも世界が正しい方向に向かうよう祈り、行動したいものです

2026年6月21日日曜日

「厳しさの中に」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第4主日礼拝(2026年6月21日)(緑)

エレミヤ 20: 7~13 (旧1214)   ローマ 6:1b~11 (新280) 

マタイによる福音書10:24~39 (新18)


 本日の福音書には、イエス様から12弟子たちを宣教に派遣するにあたっての、厳しい言葉が記されています。26節には「人々を恐れるな」、38節には「自分の十字架を負え」、39節には「自分の命に執着するな」といったことが書かれています。


 こうした言葉は、受け取る人の人生経験や年齢によって、響き方が違うかと思います。恵まれた環境に育った若い人は「恐れるな」と聞いても「私は何も恐れていない」と答えると思います。しかし失敗して何度か厳しい批判の目に晒されると、「誰も恐れない」、「自分は自分だ」とはなかなか言えなくなります。


 しかし年齢を重ねると、家族を守る厳しさ、仕事を続ける厳しさ、病気や老いと向き合う厳しさ、大切な人を見送る厳しさ等を経験します。重い病気を経験したりすればなおさら、命は自分の力ではどうにもならないことに気づいて、失うことの恐ろしさに怯えるようになります。そんな自分の無力さに気づく時ようやく「命は、自分で守るものではなく、神に委ねて生きるものなのだ」と理解するのです。


 イエス様は39節で「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得る」と言っておられます。「命を失う」とは、自分の命を粗末に扱えという意味ではありません。そうではなく、自分中心の狭い価値観の中で生活し、その立場を死守しようとすれば、かえって命を縮め、神様からも遠くなってしまう、と解釈することができます。


 「私のために命を失う者」、つまりイエス様のために自分の命を投げ出そうとするものは、神様の持つ広い見識や価値観を自分のものにすることができて人生が豊かになる、と言う意味も込められています。


 また、ここで言う「十字架を負う」とは、死刑になるような犯罪を犯せ、と言う意味ではありません。また世間でよく使われる「避けられない宿命」を意味するわけでもありません。イエス様の言われる十字架とは、自分の欲望や都合を優先させないこと、そしてイエス様の教えに誠実に従う時、世間から批判されても、折れてしまうことなく、生き続けなさい、と言う意味です。


 若い頃は、「強くなければならない」「迷惑をかけてはいけない」と生きてきました。しかし、若いものには負けまいといくら頑張っても、若い頃のようには働けず、思うように体が動かないこと、人に頼らなければならないことが増えていきます。


 そんな弱さを認めるとき、人は初めて神がそばにいてくださり、支えようとしてくださることに気づきます。素直に寄りかかるならそこにあるのは、神の確かな腕です。厳しさの中にある「優しさ」と「命」。イエス様の言葉は厳しく聞こえます。しかし、その厳しさの奥には、深い人間理解と優しさがあります。


 キリスト教のある教派は、信仰を持てば強くなれて、人生の成功を掴むことができて、沢山の人を従えて、偉くなれる、と教ています。聖書の解釈にはそう言う側面もありますが、今のアメリカの福音派と呼ばれる人々の中には「人生の成功は信仰によって掴み取れ」と言う幻想に酔っているように見える人がいます。「神に捨てられたから負け犬になるのだ」と決めつけているように見えます。しかし、いつまでも若く成功し続ける人などいません。そしてイエス様はそこに人間の幸せはない、と言われるのです。


 カトリックやルター派には、「弱くされたもの、ちいさくされたものの福音」という信仰理解があります。神様は常に社会の「小さくされた者たち」の側に立たれる、と言う考え方で、力を持たない者たちに積極的に寄り添いなさい、というイエス様の教えです。


 私たちがこの姿勢を貫こうとすると、お人よしとか偽善者とか呼ばれ、批判に晒されることもあります。しかし、社会的地位や名声、経済的成功を手に入れるために人を傷つけ、蹴落として生きようとすることを神様は望まれません。


 キリスト教伝道は愛の奉仕で始まり、愛の奉仕で終わるものだと私は思っています。しかし、世間の人はなかなかその愛に気づきません。しかし、まれにそこに愛に気づく人が現れて、共に生きることを喜びにした時、その共同体は神の御心、愛の共同体としてひと回り大きくなることができます。


 日本のキリスト教は、伝来当初から苦難の連続で、第二次世界大戦前も後も、沢山の困難がありました。戦争責任の問題や、地域社会との土着化、信仰継承等、もう十分に戦い、十分に守り、十分に生きてこられました。日本全体の人口ピラミッドが崩れ、教会に人が減り、「どうやって維持するか」ばかりが話題に上る昨今です。しかしこれからは、委ねる人生へと招かれています。神様に委ねる、人に委ねる、弱さを委ねる、未来を委ねる。


 誰かに任せられるものではない、それでは無責任だ、と思いがちですが、振り返れば、私もあなたもそれぞれの時代に委ねられたものとして今ここに立っています。


 イエス様が伝道を弟子たちに委ねたように、未来の教会をを引き受ける者たちの数が少なく、その信仰が不完全に見えても、委ねることを信仰としてまいりましょう。

 これから数十年もすれば、ここにいる大人たちは皆、地上にはいません。しかし神の手の中で、永遠の命を与えられ、安心して満たされていくのです。


 本日の説教のタイトル、もしかしたら、牧師から厳しい言葉を浴びせられ、文字通り「お説教」をされるかもと思って身構えた方もおられるかも知れません。しかし厳しい言葉は、すでに聖書の中に、イエス様の御言葉の中にあります。そしてあなたが積み重ねてきた信仰生活によって、すでに心に中にあるのです。


 あなたを育んだ厳しい言葉を心から受け入れ、あなたを抱きしめる神の優しさを見いだせる人は幸いです。その優しさの中で、あなたの命は、今日も、永遠へと続いていきます。


ブログを書いている今、外は雨

梅雨だなあ、というお天気です

ところが、雨が上がって日がさすと

とんでもない強い光に目が眩みます


この写真の花はモナルダとかベルガモットとも呼ばれる園芸品種です

松明花(タイマツバナ)と言う別名もある通り

強光線に負けずまさに「松明」といった力強さです



このタイマツバナは

現在園舎が建っている場所が空き地だった時

雑草だらけなのを見ていられず

「植えっぱなしで大丈夫で華やかな植物」を選んで

何色か育てたものです




写真に写っているのは紫花ですが、これも綺麗です


整地するとき、全ては鉢上げできないので

せめて赤花だけでも、と株分けして

牧師館で管理していました

やっと教会周りが落ち着いて来たので

ひと月ほど前、地面に下ろしました

鉢に収まっている間は今にも消えてしまいそうだったのですが

地植えにするとあっという間に繁り始めました


伸び伸び育つ植物を眺めるのは良いものです

人もこんなふうに伸び伸びできるよう

そんな場所の一つとして教会が用いられますように

2026年6月14日日曜日

「小さな宣教師」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第3主日礼拝(2026年6月14日)(緑)

マタイによる福音書 9:35~10:8 


 今日はこの礼拝堂がきれいになってから1年たったことをお祝いする礼拝です。


 専用の玄関ができ、広い台所も、新しいトイレもできました。エアコンが付いて暑い夏でも礼拝ができるようになり、壁紙もきれいに張り替えられました。また耐震補強をして地震にとても強い建物になったのです。大切に使えばこれから20年も30年もここで礼拝することができるでしょう。


 飯田教会には、今ほとんど高齢者しかいないので、そんな先まで考える必要があるのかな、と思う人もいるかもしれません。でもここに集まる人たちは、自分が天国に行った後、未来のこの教会で、イエス様を信じる人たちが聖書を読み、神様のお話を聞き、讃美歌を歌う、と信じてきちんと整えたのです。


 この教会は120年前、遠い北の国・フィンランドやノルウェーから宣教師と呼ばれる人たちがやって来たのが始まりです。宣教師たちは幼稚園と教会を作り、飯田の人たちにイエス様の平和の教えを伝えました。


 飯田で大火事があった時には教会の建物が完全に焼けてしまいましたが、次の人たちのためにちゃんとした建物を作りたいと心から願う人たちがいたので、長い間に何回か建て替えながら120年の間、続いて来たのです。


 さて、建物の話はこれくらいにして、今日ご一緒に読んだ聖書の箇所をもう一度見てみましょう。


 ここに出てくる人たちはイエス様の弟子です。弟子というのは、簡単にいうと、イエス様のことをものすごく尊敬して、「一生あなたについて行きます」と誓って、少しでも多くのことをイエス様から教えてもらおうとする人のことです。


 イエス様の弟子たちは、簡単なことから難しいことまで、次から次へイエス様から教えてもらうことが出てくるので、イエス様から離れたくありません。


 たくさんの人と仲良くに暮らせて、世界が平和になる方法、体や心に障害がある人たちと一緒に暮らす方法、辛い目にあっても負けない方法、貧乏でも楽しく暮らす方法、他にも沢山あります。どれだけ習ってもイエス様みたいにすごい人にはなれないけれど、一生かけてイエス様に似た人になりたいと思って、たくさんの人が弟子となったのです。


 イエス様はその中から特別に12人を選び、他の弟子よりもっと難しいことを教えました。この12人はすごく頭が良かったわけでもないし、びっくりするような才能もありませんでしたが、イエス様だけが知っている理由で、「この人に教えよう」と思って、近くに呼んでくださったのです。


 12人の中には一人だけ、イエス様についていけなくて裏切った人がいました。他の11人も、イエス様が十字架にかけられたとき逃げ出しました。「イエスと自分は関係ない」と言った人もいました。隠れ家に閉じこもった11人はイエス様のことが大好きでした。ただイエス様のように殺されるかもしれないと思うと、卑怯者の弱虫になってしまったのです。


 イエス様はそんな弟子たちの気持ちを知っていましたから、三日目に蘇るとその日の夕方には弟子たちのところに行きました。弟子たちはイエス様が神様のすごい力で蘇ってくださって、自分たちが卑怯でも弱虫でも赦してくださって、あなたたちは今も私の弟子だ、と認めてくださったので、嬉しくて嬉しくて、これから先、何があっても二度と弟子を辞めようとは思わなくなりました。


 それから40日経って、今度こそイエス様が神様の国に帰る日がやって来ました。イエス様は弟子たちに「あなた方は行って、すべての民を私の弟子としなさい。そして私が教えたことを教えてあげなさい」とおっしゃいました。そして「聖霊という神様があなたたちのところに来るから勇気を出しなさい」とも言われました。


 弟子たちはペンテコステの日に聖霊様の力をいただくと、まず自分の周りの人たちに一生懸命イエス様のことを伝えました。力一杯教えたので、どんどん仲間が増えました。そこで今度は生まれた国から飛び出して、イエス様のことを全然知らない人たちにお話しする旅に出ました。故郷に残った人たちは旅がうまく行くよう旅行のお金を献金したり神様に祈ったりしながら支えました。


 やがて、こんなふうに教会の人に祈ってもらって、外国に出発した弟子たちを「宣教師」と呼ぶようになりました。


 宣教師たちが旅した国の中には「障害を持っている人や病気が治らない人は悪魔に呪われている」という人もいました。でも宣教師たちは苦しんでいる人を助けるのは当たり前だと思っていましたから、間違った考え方をやめるよう教えました。


 宣教師たちは自分が怪我をしたり牢屋に入れられたり、殺されそうになったりしても、「イエス様は十字架にかかった時もっと辛かったんだ、自分も負けないぞ」と思いながら弱い人やいじめられている人たちを助け続けました。それで、外国の人の中にも「あなたが信じている神様はすごい」「イエス様のことをもっと知りたい」と思う人が増えて行ったのです。


 今日のお話の題は「小さな宣教師」です。さっき私は「教会の人に祈ってもらって、外国に出発した弟子たちを「宣教師」と呼ぶようになった」と言いました。でも、今は外国に行くだけが宣教師ではないなあ、と思っています。


 私たちの周り、日本に住むほとんどの人はイエス様を知りません。だから、辛い時、誰にも頼れないと思って自殺したり、お金があればなんとかなると思って闇バイトに応募したり、誰かとつながっていたいと思いすぎてスマホが手放せなくて病気みたいになってしまったり。


 私たちはそんな人たちに直接「イエス様はあなたを助けてくれるよ」とお話しすることはできないかもしれません。でもできることがあります。それは、その人たちのことを思いながら、讃美歌を力一杯歌うことです。


 教会には「歌う者は二度祈る」という言葉があります。上手な歌でなくても、意味を考えて祈りを込めて歌うとき、歌には神様の力が込められます。その時神様はあなたを「小さな宣教師」と褒めてくださるはずです。



本日の礼拝ではルーテルキッズバンドに賛美してもらいました

元気いっぱいの歌声でした

礼拝の後はカレーパーティ

アレルギー対策のため、一人ひとりが

好みのレトルトカレーを持参し

大鍋で温めました

献品していただいたお米10合を一気に炊き上げて完食!

ご褒美のデザートはアイスクリームです


高齢や病気、お仕事の関係などで

教会員の出席はかなり寂しい状態が続いています

それでも今日の愛餐には二人の教会員が残って

子どもたちと交流してくれました


どうかキッズバンドが真にイエス様を信じる民となり

今は異なる群れのようでも二つのグループが

互いに支え合って

この教会を続けていけますように