聖霊降臨後第11主日礼拝(2026年8月9日)(緑)
王上 19:9~18 (旧) ローマ 10:5~15 (新)
マタイによる福音書14:22~33(新)
本日読みました福音書は「湖の上を歩く」という見出しがつけられています。弟子たちを乗せた舟が逆風で進まなくなり、悩まされているところにイエス様が湖の上を歩いてやって来られた、という内容です。
同じエピソードはマルコ福音書6章とヨハネ福音書6章に記されています。そして、3つの福音書とも、この出来事の前には「五千人に食べ物を与える」というエピソードが書かれていて、湖の出来事とセットであることがわかります。
イエス様が公けに宣教を始められてから2年半ほどが経った頃には、イエス様を見つけると大勢の人々が追ってきてお話を聞こうとしました。この時も、成人男性だけでも5000人いたと記されています。この人達の多くは、おそらく無学ではなく、気ままに生きている人達でもなく、ユダヤ民族として、ユダヤの風習や文化に習い、シナゴークと呼ばれる場所で、週に一度は礼拝と宗教教育を受けていたと思われます。学問や宗教の質問があればいつでも教えを乞うことができました。けれども、彼らはそれでは満足できず、イエス様から学ぼうとしました。つまり、社会に不満を持ち、自分の生き方の拠り所を求める人が5000人以上いたのです。
ユダヤ社会のトップにいたのは征服者であるローマの皇帝です。そして皇帝に媚びへつらいながら神殿に君臨する大祭司が民衆を牛耳っていました。律法学者や神殿の祭司達も機会があれば自分の地位をひけらかします。そのような人々が作り上げる社会は、決して神様の御心に沿うものではありませんでした。
そのことに気づいたのは国民の中のわずか数パーセントだったかも知れませんが、町を離れ、イエス様の話を聞いた人が5000人以上いたことは確かなことでした。ですからイエス様は、その5000人の人々を憐れに思い、大切に扱おうとお考えになって、弟子達を使って、食事の世話をさせたのです。
弟子達は、そこにほんのわずかの食べ物しかないことを確認しました。そして「無理だ」と思いイエス様にもそう言ったのです。しかし奇跡は起こります。イエス様がパンと魚を祝福すると、5000人以上の人々がそれを食べて満腹し、食べ残りは12籠いっぱいであったのです。
弟子たちは当然衝撃を受けます。そしてイエス様という方は、ご自分を信じ、慕う人々を空腹で追い返す事は決してなさらず、安心して帰れるように愛を注いでくださる方だと知ったのです。
イエス様はその後、弟子たちにそれ以上無理をさせようとも思わず、弟子は弟子で休めるよう、弟子達だけを舟に乗せ、ご自分は山に登って祈りの時間をもたれました。イエス様は、大きな奇跡を見せられて興奮しているであろう弟子たちが、本当にイエス様を信頼できるようになるために、いわば信仰教育として、この時を定められたのです。
神様はこのように時折私たちを試されます。「クリスチャンになってよかった、神様ありがとう」と思っていたら、今度はひどい失望や絶望を味わい「神様を信じても何にもいいことがない」と嘆く、そんな私たちであってはならないのです。
自分の計画や予定ばかりを優先させて、その計画が上手く行った時だけ、神様を崇めるような信仰は、意味がありません。もし、仮に1回目の出来事が上手くいったとして、続く2回、3回と続いてうまくいったとしても、いつかは神様ご自身が、私たちに信仰に気づかせるために、どうにもならない時に遭遇します。そうしたどうにもならない時に、ある人は信仰を捨ててしまいます。また、ある人は信仰をないがしろにします。信仰というのは、良くても悪くても続いていきます。自分に起こる結果だけで、全てを判断してはならないのです。
聖書に話を戻しましょう。弟子たちはイエス様から「舟に乗り、向こう岸へ向かう」という目標を与えられましたが、湖の真ん中で自分達の思った通りに進まなくなります。逆風が吹き、水面は揺れ、にっちもさっちも行きません。彼らは思わず「神様助けて」と叫びの祈りをあげたでしょう。
その上、湖の上を歩く人を見たのです。漁師の弟子たちは「湖で死んだ人間が亡霊になって人を取り殺そうとする」的な伝説を思い出したかもしれません。自分達はもうだめだ、幽霊に殺されると恐怖のあまり悲鳴をあげます。そのように恐れる弟子達に、イエス様は「恐れるな」と声をかけてくださるのです。
イエス様は5000人の人々を憐れまれます。それと同時に弟子一人一人も憐れまれる方なのです。そこにいる人々にざっくりと恵みを与えるのではなく、一人ひとりの顔も人間性も把握した上で夫も良いタイミングで手を差し伸べられるのです。
私たちは信仰があるから危険なことや嫌なことは何事も起こらないというのではなく、私たちはどんな時も神様の憐れみの中に生きていて神様の憐れみに救われる存在なのだ、ということを覚え、それを伝える者でありたいのです。
この話の最後は、ペトロが、イエス様に「水の上を歩きたい」と願ったことです。超人願望でしょうか、イエス様への信仰を表したかったのでしょうか。その心意気は大切ですが、ペトロはイエス様だけを信じて見ていれば良かったものを、自分の周りの風や波に目を奪われ、イエス様を見失ってしまいます。自分の命が危ないと思えた時に「イエス様助けてください」と叫びにも似た祈りの言葉を上げたのです。そして、同じくイエス様はその声を聞き取ってくださったのです。
私たちはイエス様を信じると口にしても、何度も失敗を重ねます。しかし神様はそんなわたしたちを決して見捨てません。不出来だから、祈りを忘れるからと言って、裁いたりはなさらず、私たちに祈りを取り戻させるために厳しい出来事を引き起こされることもあるのです。それはいわゆる「バチ」とは違います。祈りこそがイエス様と私をつなぐものであり、なりふり構わず祈ることが、逆にイエス様と私をつなぐものなのだ、と教えてくださっているのです。
今の日本では、クリスチャンがクリスチャンらしく生きることが難しい環境にあります。それでも私たちは逆巻く波の上を歩くようであっても、神様の平安の内にあることを覚えながら、信じて歩んでいきましょう。どれほど周囲がわたしたちを脅かしても、イエス様の「恐れるな、信じなさい」という御言葉だけを心に覚えて、ずっと共にいてくださる神の子救い主イエス様を見失わない者となりましょう。
昨日は8月の土曜学校でした
夏休み中なので、「常連さんたち」は
お出かけしているかもしれないなあ
誰も来ないかもしれないなあ、などと考えておりましたが
6名と、人数はいつもの半分以下ながら
楽しく参加してくれました
8月の御言葉が「平和な人には未来がある(詩編37編37節)」なので
そのテーマに則って「ぼくたちは、あらそうために生きるのか?」
という絵本を朗読しました
(山極寿一 文/あべ弘士 絵 偕成社)
ちょっと長いので、ところどころ省略しましたが
最後まで聞いてくれました
何か一つでも心に残ってくれますように
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| https://www.kaiseisha.co.jp/books/9784033337807 |
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| 作品を手に、KさんとMさん 夏の星空リースです Mさん、なぜか紐を咥えています(^^;) |







