2026年7月12日日曜日

「豊かな実り」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(2026年7月12日)(緑)

イザヤ 55:10~13 (旧1153)   ローマ 8:1~11 (新283) 

マタイによる福音書13:1~9&18~23 (新24)


 毎週月曜日の午前9時30分、ここで幼稚園の合同礼拝を行っています。年長のゆり組と年中のひつじ組、合わせて24名、先生を入れると30名ほどの礼拝です。


 献金の時間はありませんが、私たちの行っている礼拝とほとんど同じです。一つ異なるとしたら、暗唱聖句をみんなで一生懸命覚えようとすることでしょう。


 先日は7月の「探しなさい、見つけられる」というマタイ福音書の5章7節からの暗唱聖句でお話をしました。「探しなさい」とは、神様、イエス様は何を探しなさいって言っているんだろう?と尋ねると、ゆり組の園児が「ひつじ」と答えました。今まで何度も迷子の羊の話をしてきので覚えているんだなあと感心していると、「お金っ」という声も聞こえてきました。子どもには滅多に話さないのですが、同じルカによる福音書の「銀貨を探す話」を覚えていたのでしょう。


 ただ、私がこの日用意した「探しなさい」の話は「ある金持ちが真珠を手に入れるために、家も財産もすべてを売って手に入れた」というマタイ福音書13章45、46節にあるたとえ話です。アーチブックという絵本を読み聞かせると、こどもたちは固唾をのんで聞いていました。


 素晴らしい真珠を見つけるために、主人公は長い旅をして、いろんな人と会い、いろんな場所に行きます。ジャングルにも砂漠にも行ったでしょう。やがて1人のこどもが言いました。「もう諦めたほうがいい、死んでしまったらどうするの」。このツッコミはいいタイミングです。


 絵本では諦めかけたこの金持ちに、ある老人が近寄ります。彼は金持ちが欲しかった真珠を持っていました。金持ちがその老人に尋ねます。「その真珠、おいくらですか」


 あるこどもが答えます。「安ければいいのに」しかし、老人の答えは「あなたの財産を皆売り払い、お金に換えるなら、これを譲ってあげよう」というものでした。こどもからは「ひどいなあ」という意見と、「それほど欲しいものならやるしかないね」と二つの意見が出てきます。


 で、この金持ちはどうしたかと言いますと、老人のいうとおりに、すべての財産を売り払って、喜んでこの真珠を手に入れたのです。


 ここまで話すとこどもが質問しました。「このたとえ話は何?」


 さすがです。隠された意味があることに気づいて知りたがってくれるのです。そこで私は答えました。「これはイエス様のたとえ話で、真珠というのは、みんな一人ひとりのことなんだよ」そしてこうも言いました。「みんなは神様に愛されているって聞くけど、どれだけ愛されているかと言えば、十字架にかかるほどなんだよ」


 一人ひとりが神様から愛されている存在なのに、あいつは嫌いとか、死んでしまえばいいとは言えない。ひとりひとりは大事な存在なんだ。もし、お父さんやお母さん、そして、友達からでも、間違って、「嫌いだ」って言われても、神様は全然そんなこと思っていなくて、仲良くして、赦し合い、愛し合える力をくださったんだよとお話し、お祈りしました。


 こういう話の後は、ありがたいことに、こどもたちは、仲良くしてくれます。普段意地悪な子も、どうぞ、どうぞと言ってくれます。礼拝後のおだやかなひと時です。

 仏教用語に「善友」という言葉があるそうで、「善」や「愛」を心得ている人が近くにいると、どんな悪人もいつの間にか影響されて、「悪いことはやめておこう」と思うのだそうです。

 さて、本日読んだ福音書にはたとえ話がたくさん収められていますが、その中に有名な「種を蒔く人」の話があります。最初の種は道端に、次は石地に、三つ目はいばらの中に、とタネが育つことができない環境に落ちてしまいます。


 もちろんたとえ話ですから、これらは全て、神様の御言葉を受け取ってもきちんと成長させようとしない人の、心の状態を表しています。意外に思うかもしれませんが、どんな人でも最初からふかふかに耕されたような心を持っているわけではないのです。タネを受け取った時、それを大切に育てようと思う心、将来的にちゃんと実らせようとする信仰がその人を変えていくのです。ですから、石がごろごろの荒れ放題のまま、ありのまま、放置していて良いと勘違いするのは、タネを受け取った側の怠慢とも言えるのです。


 近年のキリスト教は「イエス様はあなたのありのままを受け入れてくださる」いう教えが中心でした。間違いではありませんが、その教えが行き過ぎて、イエス様をお手本とせず、聖書から学ばず、自らを成長させようとしないクリスチャンが増え、やがて教会に集う人々は世の人の集まりと変わらない価値観を持つようになりました。


 信仰に基づいた行動はただの理想論と片付けられるようになり、「教会は時間があったら行くところ」になり、地方教会はまさに「限界集落」の様相を呈しています。しかし諦めるのはまだ早いのです。私たちには見方と行動を変えるチャンスはまだ与えられています。神様の平和への思いの詰まった種を撒き、種を自分に与えらた使命として、育てていくことは非常に困難です。しかし、取り組んでいけば何か方法は見つかるはずです。


 一人一人が御言葉によって心を耕して、その結果この場所が良い地になったなら、それはイエス様の言葉にあるように、何倍、何十倍、何百倍、何百倍になり、本当の平和を愛する人々が生み出されていくことでしょう。


 多くの人々が愛すること愛されることを見失った状態にあることを常に覚え、自分の心までそれに引き摺られないように祈りを捧げましょう。わたしたちは、キリストと共にある良き友になって、豊かな実りをもたらす者となれるのだと信じ、宣教の歩みを続けて参りましょう。


昨日は土曜学校でした。

12名のお友達がお話を聞き、工作を楽しみました。

工作はスイカのうちわ

蛇腹折を繰り返してハリセンのようなものを作り

組み合わせて丸い形にします

ジャバラ折はなんとかなりましたが

どう言うわけかスティック糊がきっちり接着できる人と

できない人がいて、ものすごく手こずりました

最終手段は強力両面テープ

用意しててよかったです


毎回作品を持って写真を撮り、ハガキにして

「きてくれてありがとう」のメッセージと共にご自宅に送っています

ただ、最近はSNSに写真を載せるのは戸惑います

顔を半分隠して写ってもらった

この写真ならいかがでしょう?


Kさん、Mさんモデルありがとう



子どもたちは最初のうち自分が何を作っているのか
理解してなかったようです(笑)
出来上がってから楽しそうに仰いでいました


2026年7月5日日曜日

「共に担う軛」 (日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第6主日礼拝(2026年7月5日)(緑)

ゼカリア 9: 9~12 (旧1489)   ローマ 7:15~25 (新283) 

マタイによる福音書11:16~19、25~30 (新20)


 私たちは、キリスト教伝道の働きに召されていますが、人や環境に振り回されることは多くあります。聖書はそんな私たちに導きを与えてくれます。


 大前提として、聖書には、誠実に神の言葉を人々に取り次ぐ人々は、民衆から理解されにくく、権力を持つ人々からは迫害されると書いてあります。旧約聖書の預言者たちは皆同じように酷い目に遭いました。


 また、洗礼者ヨハネは、禁欲的に生き、腐敗した社会や権力者に厳しい言葉で悔い改めを迫りますが、結局権力者によって命を奪われました。


 ではイエス様はどうかといいますと、世の中で地位や権力を持っている人々は、やはりイエス様に批判の目を向けました。


 イエス様は洗礼者ヨハネとは対照的に、罪人や心に重荷を抱える人々に厳しい言葉で迫るのではなく、おおらかに振る舞い、食事しながら楽しく交流することもありました。しかし、本日の聖書箇所の19節でイエス様ご自身が言われているように、イエス様の態度を見た人々から「あれは大食漢の大酒飲みだ」と批判されたのです。


 厳しくても明るくても、自分と考え方の違うものを排除しようとする人々はいつの時代にもいます。それでもなお、わたしたちが信仰に結びついて、礼拝に集い続けているのは、主イエス様に招かれているからであり、イエス様と共に重荷を負っている、つまり軛を荷っているからなのです。


 この「軛」とは、週報の写真にあるように、牛や馬に農具や荷車を引かせるための木製の枠組みです。一般的には「軛」は「束縛」を意味する言葉ですが、キリスト教においては、イエス様と共に歩むことです。そしてイエス様は「その軛は軽い」と言われるのです。


 ここで私たちが勘違いしてはいけないのは、重荷そのものは無くならない、ということです。イエス様と共に負うと言っても、重さは感じますし、なぜ自分が負わなければならないのか、という疑問もつきまといます。けれども、その重荷は世間にある重荷より軽い、とイエス様は言われるのです。


 イエス様のお言葉を理解するために、少し視点を変えて見ましょう。どんな人でも、生きていく上でなんらかの責任や重荷、苦しみを持っています。生きるためだけに重たい荷物を背負い、どこに続くのかわからない道をひとりぼっちで歩くとしたら、非常に辛い人生です。


 しかしイエス様は、ご自分と共に歩こうとする人には、行くべき道を示して共に行き、重荷も共に担おう、とおっしゃるのです。しかもその道は神の国に続いているのです。こう考えるとイエス様が「その軛は軽い」とおっしゃる意味がわかってくるのではないでしょうか。


 さて、私事ですが、以前から時々幼稚園の送迎バスの添乗をしており、最近はその回数も増えました。帰りのバスの添乗では、ありがたいことに、子どもたちは喜んでくれます。友だちとさよならしての帰り、寂しい気持ちを紛らわす、お楽しみタイムがおまけされたと感じているようです。またバスを迎える保護者の方には、「理事長自らが」と畏れかしこむ方もいらっしゃいます。


 けれども、園バスは園児を安全に保護者の元に送り届けることが大前提です。「楽しく」というのは、安全が守られた上で、それなりのルールを守って成り立つものです。うれしくて羽目を外す子どももいるので、そこをどう牽制していくかが、添乗者の腕の見せ所となります。


 安全面だけを考えると、色々なルールを決めて守らせるというのも方法の一つですが、私は大騒ぎを注意するのでなく、「大騒ぎをコントロールするにはどうするか」だけを考えています。6歳にも満たない子どもを規則で縛ってもうまくいかないのは経験から分かるからです。


 ただ、日本人は諸外国に比べて規律を重んじ、ルールを守る傾向が強い国です。これは日本人の長所とも言われています。今、園にはさまざまな国にルーツを持つ子どもが増えてきましたが、ここで育つ園の子どもたちは、自然と日本的なルールを身につけるようになるのでしょう。


 とはいえ、ここに日本の欠点もあります。ルールそのものが現実に合わなくなっても、なかなか変更しなかったり、決められたことを守らない人、自由な行動を好んで全体行動を重んじない人を、批判したり排除したりてしまうのです。


 極端にいうと、日本人の多くは真面目で誠実だけれど、保守的で石頭なのかもしれません。そして程度に差はあっても、クリスチャンである私たちもそんな性質を持っていると思います。


 だからこそ、同じ教会に集っていても、価値観はズレるもの、と、どんと構えている必要があります。そして、そこをふまえた上でイエス様に従って共に奉仕しながら生きる。そう覚悟を決めることがイエス様と同じ軛を負って進もうとする私たちに必要な考え方なのでしょう。


 イエス様の御言葉「わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽い」を心に刻みましょう。恐れたり悩んだりしているばかりでは、埒が開きません。共に軛を担ってゆくには、私たちが培ってきたことを、もう一度取り戻して、まず自分自身を基本に忠実な信徒に戻すことが大切です。


 自分にあった聖書の学びをし、祈りの時を持ち、教会員として、クリスチャンとしての歩みを、ここで表現していくのです。最初は小さな集まりしかできないかも知れませんが、地道な歩みは、いつかは花が開くのです。


 今これから自分達が出来ることを、見返しながら、時間を整えて、主の僕となり、それが、共に担う軛となり、その重さや時間をかけながら、新たな歩みを共に歩んで参りましょう。



次の土曜日は土曜学校の日です

お話の内容も工作も、毎回すんなりとは決まりません

子どもたちの年齢に幅があるので

どうすればわかりやすく、楽しくいろんなことができるか

ヘトヘトになるまで考えることもあれば

突然閃くこともあります

今回は工作はすぐに決まったのですが

読み聞かせするお話がまだ決まっていません


この聖句を生かした紙芝居か絵本はあるかしら

「探しなさい」と神様がおっしゃいますから

うまく探し出せる…はず😓




スイカうちわ、小さいお友達も
うまくジャバラ折ができるよう
指導を考えるのが今回のポイントかもしれません

2026年6月28日日曜日

「私たちの救いの業」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第5主日礼拝(2026年6月28日)(緑)

エレミヤ 28: 5~9 (旧1229)   ローマ 6:12~23 (新281) 

マタイによる福音書10:40~42 (新19)


 先週は女性会で、旧約聖書を通して聖書の国・イスラエルの歴史についておさらいをしました。現代の、紛争の絶えない現代イスラエルと、聖書に記されている古代イスラエルは、どう違うのか分かち合う時間となりました。歴史が苦手、とおっしゃる方には酷かもしれませんが、聖書を読む上でイスラエルの成り立ちを把握することは欠かせません。


 古代イスラエルは紀元前1000年頃、ダビデ王によってエルサレムを首都とするイスラエル王国となりました。ダビデの息子であるソロモンは知恵のある人物として有名で、イスラエルを急速に成長させ、神様の為に立派な神殿を建築します。

 しかしソロモン王が死ぬと、北部の10部族が反乱を起こし「北イスラエル王国」として独立します。南側は「南ユダ王国」としてダビデの血筋を保ち神殿を守り続けました。


 この二つの国は兄弟国家でありながら、何度も凄惨な戦争を繰り返した挙句、北イスラエル王国はおおよそ建国200年ほどでアッシリアに滅ぼされます。


 南ユダ王国の方も350年ほどでバビロニア帝国に滅ぼされ、ソロモンが建設した神殿も壊され、民衆はバビロニアに連行されます。これを「バビロン捕囚」と言います。しかしやがてペルシャ帝国が台頭してきてバビロニアを滅ぼし、囚われていた南出身のユダヤの民は祖国への帰還と神殿の再建築を許可されます。


 しかし、その時には北の国があった土地には他民族が移住し、ユダヤ人と他民族が結婚してサマリア人と呼ばれるようになっていました。このサマリア人と南のユダヤ人は考え方が全く違うので、また反発し合うこととなりました。


 なんて面倒な歴史だろうと思われたことでしょう。現代のイスラエルはさらに複雑な歴史を持っていますが、そこの話は改めてするとして、イエス様がお生まれになるまでのイスラエルについて頭に入れておくことが、聖書を理解する上で欠かせないのです。イエス様の時代だけなんとなくわかっていればそれでいい、と思いがちですが、イエス様の時代においても、なぜ当時のイスラエルがローマ帝国に支配されていたのか、また、どうしてイエス様はわざわざベツレヘムで生まれたのか、などなど、歴史の知識なくては理解できないことがたくさんあります。


 こういった出来事を把握するには礼拝で説教を聞くだけでは足りません。それで教会には、礼拝以外にも聖書研究会を開いて学びの機会を得る伝統があるのです。


 では当のイスラエルの人々はどうかというと、やはり自分の国であってもの紀元前1000年まで遡る長い歴史を把握するのは簡単ではありませんから、子どもの頃から教育を受けます。彼らは、逆境の中で聖書の言葉を神様のメッセージとして真剣に心に刻みつけ、生きる指針としました。紀元前、戦争で囚われの身となっていた時はシナゴークと呼ばれる集会所を作り、聖書を暗記するほど熱心に学び、神様への信仰を熱くしてきました。そして聖書の大切なメッセージ、「必ず救い主が現れる」という教えを親から子へ伝え、信じて待ち望んだのです。


 しかしこの「救い主」のイメージは、イスラエルの戦争だらけの長い歴史の中で変化し、神様が「救い主とは平和の主である」と宣言しておられるにもかかわらず、武力でイスラエルを虐げる国をコテンパンにして解放してくれる方が救い主である、という解釈を持つ人が増えて行きました。ですからイエス様が登場した時、救い主とは思えない人々も多くいました。


 それでも、イエス様のお考えや行動を知るにつれ、この方こそ神の子だと信じる人は確実に増え、弟子となって多くを学ぼうとする人々もまた増えていきました。


 本日の福音書は、イエス様が大勢の弟子の中から12人を選んだ時の出来事です。この12人はイエス様から派遣され伝道の旅に出ることになりました。


 イエス様は伝道旅行につきものの試練について厳しいお言葉を語った後、励ますように「わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」と言われます。


 この「小さい者」という言葉は、この文脈ではイエス様の弟子と解釈できます。イエス様の御言葉を伝えるためにヘトヘトになっても、誰かがあなたに手を差し伸べてくれるし、神様があなたに代わってその人に報いを与えてくれる。だから勇気を持ちなさい、そう読み取ることができます。


 現代ではここに少し解釈と視点の転換がされて、虐げられている人、ホームレスの人や、今日一日の食事にもままならない人、人生を上手く生きられない人、トラブルメーカーといった人たちにイエス様のお姿を重ね合わせ、弟子として手を差し伸べなさい、と読み取る方もいます。


 とはいえ、そういった人々に本気で手を差し伸べるのは、捨て身にならないと難しいでしょう。しかしイエス様はハードルを上げすぎることはありません。関わった以上、喉が渇いている相手に冷たい水一杯程度なら飲ませてあげよう、という心の余裕を持って、ちょっとお節介な奴だなと思われながら生きることが案外隣人の助けになるなるものだよ、と教えておられるように思えるのです。


 イエス様は、大きなことをしようと気負うなと言われます。自分の出来ること、自分の信じるところを大切にし、実践して行きなさい、と教えておられます。


 繰り返しになりますが、旧約聖書は戦争や殺人の歴史が山ほど記されています。この戦争や殺人こそが人間が神様に逆らって犯した罪の結果です。人間というものは紀元前から分断の道を選び、本当に変わらないなあ、と思えてきます。謙虚に捉えるなら、何度も同じ過ちを繰り返す愚かさや無力さが自分の中にもあることも見えてきます。この愚かで暗い世界を神様はお見捨てにならず、神の子イエス様が来てくださったのだ、と希望が持てて、喜びと感謝が湧き上がるのです。


 私たちは複雑で色々な問題を抱えたこの時代にあっても、神様を信じ、聖書に学びつつ、イエス様に贖われた小さき者として、小さき者に関わる主の業に励んで参りましょう。



古代のイスラエルが南北に別れた後

それぞれの国に預言者と呼ばれる人々が登場し

神様からのメッセージを王族や民衆に取り次ぎ

「このように神様への信仰を蔑ろにしていると国は滅びてしまう」

と語ります

しかし預言者たちの声はなかなか届かず

逆に「国賊」とまで呼ばれました

中でも南王国ユダの滅亡を予言したエレミヤは

「涙の預言者」と呼ばれ

ヨーロッパの画家たちの想像力を刺激したのでしょう、

彼をテーマに扱った名画が数多くあります

レンブラントの描いた

「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」(1630年)は非常に有名です





大国が「力こそ正義」と主張し

多くの国々を虐げている今の時代

私たちは聖書の歴史に込められた神様のメッセージに謙虚に耳を傾け

少しでも世界が正しい方向に向かうよう祈り、行動したいものです