2022年1月21日金曜日

新型コロナウイルス感染症の感染者の発生について

ルーテル飯田教会と敷地、建物を共にする飯田ルーテル幼稚園において
新型コロナ陽性者が確認されました。
保健所の指導により、本日より24日(月)いっぱい
建物に立ち入ることが許されていません。
し訳ありませんが23日の礼拝は
教会にはお越しにならないでください。
礼拝はZOOM配信で行いますので
ご希望の方は牧師の携帯までご連絡ください。
090−1243−7727(朝比奈)
以下は幼稚園のホームページに掲載された内容です。


本日1月21日(金)に、本園の園児が新たに新型コロナウイルス感染症に感染したことが確認されました。
園児ならびに、そのご家族の皆さまには心よりお見舞い申しあげますと共に、一日も早い回復をお祈りいたします。
 保健所と相談した所、20日(木)に登園した子どもたちが共に過ごしていた状況を考え、
登園した全ての園児・職員が濃厚接触者として該当するだという判断を頂きました。
そのため、感染拡大を防ぐためにも休園という措置を取らせて頂くことになりました。

★休園期間は1月22日(土)~1月31日(月)まで
★2月1日(火)より、通常保育を行います。(園バス運行あり、給食あり、延長保育あり)

少しでも体調が悪かったり、食欲がなかったり、微熱があったりする場合など、
気になる様子がありましたら、医療機関への受診をお勧めします。

今回、子ども達から発症したり、経路不明であったり、誰がいつどこで発症するかわからない状況です。

飯田保健所でも、ほぼオミクロン株でても感染力の強いウイルスです。
厚労省の8つのポイントをを検索して頂くと、ご家族に新型コロナウイルス感染症が疑われる場合、
家庭内でご注意いただきたいことの具体的な対応が示されていますので参考にして頂けらと思います。

急なお知らせとなり、保護者の皆様には困惑されている事と思いますが、
ご理解のもと、ご協力をお願い致します。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

                   園長 黒河内 智子





2022年1月17日月曜日

最初の奇跡(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝(2022年1月16日)

コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章4-11節 ヨハネ福音書 2章1-11節


 本日の福音書の出来事は、ガリラヤの西の「カナ」という場所で起きました。イエス様と弟子達、そして、母マリアが婚礼の宴会に招かれていました。ユダヤの風習では結婚の宴会は時には一週間続きました。酒やご馳走が途中で足りなくなれば結婚そのものにケチが付きますから、相当な量を用意する必要があったのです。

 この出来事が宴会の何日目だったのかはわかりませんが、母マリアは、葡萄酒が足りなくなったことに気づきました。このままでは花嫁も花婿も困ってしまう、何とかしてあげたい、そう考えてイエス様に相談したのでしょう。
 しかし、マリアからこのことを聞かされたイエス様は、そっけない態度をとります。母親に向かって「婦人よ」と呼びかけ、「わたしとどんなかかわりがあるのですか」と言われます。さらには「わたしの時はまだ来ていません」と言い切っています。母マリアの願いを他人のように突き放されたのです。

 このやりとりは、さまざまな学者が研究しており、「婦人よ」と言う呼びかけの言葉は、イエス様の最大限の丁寧な断り方とまで言われます。しかし断ったことには変わりません。
 イエス様がここで言われた「私の時はまだ来ていません」という「私の時」とは、「救い主として人々を救う時」という意味です。イエス様は飢えた人々、貧しさに苦しむ人、自分の弱さに絶望している人、罪に苦しむ人々を救うために、神様の手によって地上に送り出されたのです。イエス様は、どんな時もまず神様のご計画に従順に従う、という決意を固めておられました。「今、奇跡を行うのは神様の御心ではない」とお伝えになりたくて「時ではない」と言われたのです。
 それを聞いたマリアは、母親だからと言ってイエス様を自由に操れるわけではない、と気がつきます。とはいえ、彼女はイエス様が奇跡を行う方だと信じていましたし、新郎新婦が悲しむのを放っておかないと確信していました。そこでその場にいた召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と頼んだのです。

 するとイエス様は召使いたちに向かって「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。その場には、ユダヤの風習に従って清めに使う水を溜めておく水瓶が6つありました。1つ80リットル以上入る大きな瓶です。水道などない時代ですあら、かなりの労力でしたが、召使い達はその命令に従いました。そしてその水は世話役を唸らせるような、この世で一番おいしいぶどう酒へと変わったのです。
 ここで「イエス様はなぜお考えを変えて奇跡を行われたのか」と詮索することはあまり意味がありません。ただ、イエス様は「壮大な神様のご計画の前では、こんな披露宴など取るに足らない」と上から目線で判断する方ではありませんでした。今ここに新郎新婦の幸せを必死になって神に祈る人がいること、そして、神のご命令に従って素直に奉仕する人がいたことが大切だったのです。

 このお話から私たちが覚えておかなければならないのは、イエス様は私たちがどれほど必死に祈っても、こちらに都合よく救いの手を差し伸べらることはなさらない、ということです。時には私たちが「なぜ今それを?」と思うような命令をなさり、「疑わないで私に従いなさい」とおっしゃるのです。
 ここでは、清めの水瓶6つに水を汲むようにと召使いたちに伝え、彼らはただただ言われた通りに水を汲みました。この素直な行為が、結婚の宴を支え、新郎新婦の幸せを守ったのです。

 この出来事は最初の奇跡として教会の歴史に刻まれました。母マリアとイエス様のやりとりに目が行きがちな箇所ではありますが、私はこの無名の召使いたちに時々自分を重ねます。ただ水を汲むことしかできなかったけれど、イエス様に素直に従った彼らは、礼拝に集う私たちのことだと思うのです。大きなことはできないかもしれない。それでもイエス様のご命令に疑うことなく従えば、誰かの幸せを守ることができる。そんな素朴な信徒でありたいと願うのです。


教会関係の方からクリスマス前に
立派なシンビジウムの鉢をいただきました
一度咲けば長持ちする花だとは知っていましたが
いまだに華やかに咲いています
温かすぎると花もちが悪いらしいので
室内でなく、玄関に置いてます
ただ、この場所は夜間がマイナス近くになるので
君子蘭も一緒に置いて、タイマーでヒーターを入れます
NHKテキスト「よくわかる栽培12か月・シンビジウム」も買いました
さて、うまく育てられるでしょうか

2022年1月11日火曜日

主イエスの洗礼(日曜日のお話の要約)

主の洗礼(顕現後第1)主日礼拝(2022年1月9日)

イザヤ書43章1-4節 ルカによる福音書3章21-22節


 本日は「主イエスが洗礼を生けられる」お話です。神の御子であるイエス様が、人間の私たちと同じように洗礼を受けられたということの意味を聖書から聞いて参りましょう。


 イエス様が洗礼を受けられた出来事は4つの福音書全てに記されていますが、ルカの「民衆が皆洗礼を受け」という言葉には少し驚かされます。民衆が皆、洗礼者ヨハネから洗礼を受けていたという描写です。この時、洗礼者ヨハネがユダヤの人々に伝えたメッセージは、「もうすぐこの世が終わる」という意味に近いものでした。当時のイスラエルは巨大なローマ帝国との戦争に敗れ、属国とされていました。ローマ帝国は広大な国土で内乱が起きないよう、領民たちを上手に従える方法を持ってたようです。ローマは自分たちの領土の土着の宗教にはある程度寛容でしたが、イスラエルは宗教的に高いプライドを持っていたので、屈辱的な出来事も多かったのです。


 イスラエルの中心ともいうべき神殿の祭司たちは、聖職者であると同時に政治家でもありましたから、ローマとの交渉ごとに当たる役目も負っていました。彼らは国を守るため、また自分自身を守るため、妥協をしたり表面だけ取り繕ったりといったことも行いました。国民を代表して神様に仕える立場でありながら、その内実はかなり堕落していたと思われます。

 この祭司たちと同じようにユダヤ社会で権力を握っていたのがファリサイ派の人たちです。神様からいただいた律法を厳しく守り、人々に教える役割を担っていました。彼らは非常に高いレベルの教えを説き、一般民衆を見下すところがありました。


 その他に、聖書の記述には登場しませんが、ファリサイ派と並んで大きな力を持っていたユダヤ教グループにエッセネ派と呼ばれる人々もいました。彼らは俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより、宗教的な清さを徹底して追及しました。その生活は厳格で、日常の中で自分の欲望をコントロールすることを訓練と捉えていました。また「神殿に行かなくても神様に仕えることができる」という考えは非常に特徴的でした。洗礼者ヨハネは、考え方や身につけているもの、食事などの記述などから見て、このグループに属していたのではないかと考えられます。


 ユダヤの民衆は、忠実に神殿の儀式を守り、子どもに宗教教育を施し、祭りなども積極的に行なってはいましたが、祭司やファリサイ人の醜い面も知っていましたから、心から尊敬できず、かといってそんな自分は不信仰だと思っていました。そんな時、洗礼者ヨハネが叫んだ「悔い改めよ」という言葉は強烈な一言に引き寄せられ、ヨルダン川の荒れ野に集まりました。

 そこで語られるのは「良い身を結ばない木は切り倒される」という厳しい教えでした。しかし、新しく神の民として生きなおそうと徴税人も兵士も集まり、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのです。ただ、せっかく洗礼を受けても、綺麗さっぱり自分の地位や名誉を捨てされるものではなかったでしょう。

 多くの人々が洗礼を受けてグループの人数が増えれば増えるだけ、早めに洗礼を受けた人が後から受けた人に先輩風を吹かせるようなこともあったのではないでしょうか。それによってせっかくの悔い改めが台無しになってしまうような仲違いもあったかもしれません。


 そこでルカはさりげなく、イエス様が最後の最後になって洗礼を受けた、と読み取れる書き方をしました。「民衆が皆洗礼を受けたその後でイエス様が洗礼を受けた」。それは洗礼を受けることの早い遅いが重要なのではなく、洗礼を受けるタイミングにも神様のご計画があると示すのです。これはルカ福音書にしかない記述です。

 ここには他の福音書にないもう一つの言葉がありますそれは「イエス様が洗礼を受けて祈っておられた」と記していることです。イエス様は、救いの御業を始まれられるまさにその時、洗礼を受けた次の瞬間から、私たち洗礼を受けた人々への道しるべになるべく、父なる神様に祈りを捧げられました。


 イエス様の祈りを大切にされるお姿は全てを終えて天に戻られるまで決して変わることはありませんでした。弟子を決められる時、エルサレムに上るその時、十字架の死を目前に苦しまれた時、そして十字架の上でさえも、父なる神様との会話を続けられ、その信頼は揺らぐことはありませんでした。そしてイエス様の最後の祈りは「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」だったのです。

 ただ、いくら祈ってもイエス様は十字架の死を免れることはありませんでした。何も知らない人から見るなら、これほど無力なお祈りもないかもしれません。神様は全てを見て、聞いて、知っていながら何もなさらないなら、なんのために祈るのか。馬鹿馬鹿しいではないか。そう思う人がいても不思議はありません。しかしイエス様はどれほど希望を見いだせない困難な状況の中においても、神様の御手に守られているのだということを、お側にいるの弟子達に、そして、遠い未来にイエス様に繋がる私たちに示されたのです。


 私たちは手紙や挨拶の中で「祈っています」という言葉を頻繁に使います。その祈りの一つ一つが、全知全能の神様に聞かれていると信じ、自覚を持つ必要があります。祈りの言葉は、父なる神様との人格的な交わりの会話であり、私たちのわがまま勝手を叶えてくれるおまじないなどではありません。この人格的な交わりこそ祈りの最も大切な意味であり、私たちが信仰的に成長した生き方をする為には、どなたに向かって語りかけているのか、常に意識する必要があるのです。


 いつ、いかなるところにあっても、神様との対話は、信仰者に与えられている恵みです。もちろん頭の中にいきなり神様のお声が響いてくるようなことはありません。しかし正しい道を選ぶ時、神様は私たちの心に豊かな平安を与えてくださいます。そして聖書の御言葉を通してさらに確信を与えてくださるのです。

 私たち一人一人は、立派な人格を手に入れようとあがく必要はないのです。自分の不完全さが情けななくなる時も、神様に祈り、主イエスをお手本として何度でも再スタートを切ることができるのです。



先日の土曜学校で作る予定だった
ソックス・スノーマンです
実は昨年の1月に作る予定だったのですが
コロナでお流れ
今年もやはりコロナ感染拡大のため
土曜学校自体できませんでした
2月は開催できますように!
子ども達のためにも祈りを重ねます


2022年1月7日金曜日

1月8日の土曜学校はお休みとします


飯田市内における新型コロナウイルス感染症陽性者が増加し
県全体の警戒レベルが引き上げられましたので
1月8日の土曜学校はお休みといたします

楽しみにしてくださったおともだち、ごめんなさい
みんなも どうぞ気をつけてくださいね





2022年1月5日水曜日

救い主の言葉(日曜日のお話の要約)

聖餐式・降誕節第2主日礼拝(2022年1月2日)
エフェソの信徒への手紙1章4-7節 
ヨハネによる福音書1章14-18節

 本日はヨハネによる福音書1章4節からです。イエス・キリストの降誕について、実に短く「言葉は肉となって私たちの間に宿られた」と記されています。ここには羊飼いも東の国の博士も登場しませんし、イエス様の母マリアすら出てきません。それでもこれは紛れもなくイエス様の御降誕を表す御言葉なのです。


 一般の方は、神様は清められた場所や醜いところにはおられない、と考えるでしょう。ユダヤ教においても、人間はあまりに汚れているので神を見ることに耐えられないと思われ、神様を見たものは死んでしまうと信じられていました。しかしイエス・キリストはご自身の方から進んで汚れた世界の真っ只中に降誕してくださり、直接人間に手を差し伸べてくださったのだ。神ご自身が人の世に人となって宿ってくださったのだ、とヨハネは伝えるのです。


 ヨハネ福音書を記録したのはイエス様の12弟子の一人、ゼベタイの子ヨハネと言われています。彼はイエス様が天に帰られた後も、かなり長生きして宣教活動を行なったと言われています。ヨハネはイエス様の十字架の死と復活の目撃者でしたから、その生き生きした証を聞いた多くの人々もまたイエス様を信じたことでしょう。ヨハネは地中海沿岸に次々と立ち上がったキリスト教会の指導者的な役割を晩年まで果たしたと思われます。


 ヨハネたち指導者によって教会は大きく成長してきましたが、彼らには、一つ心配事がありました。イエス様は復活した後に天に帰られる時、必ずまた戻ってくると約束されました。しかし、時が流れるにつれ、人々は次第に「いくら待っても戻ってこられない」と嘆き始めたのです。イエス様から直接教えを受けた人々は、厳しい迫害によって殉教したり寿命を迎えたりしてどんどん少なくなっていきました。こうしたことが教会に集う人々によくない影響を与え始めたのです。

 多くの信徒たちは明日にでもイエス様が天からお帰りになって、悪い人たちをさばき、社会に秩序をもたらしてくれると信じていました。それまでの間は大変だけど頑張ろう、と思っていたのです。しかし、様々な迫害があって、命を落とす人々が出ても、イエス様がお戻りになる気配がないため、教会の中で信仰がぐらつく人が出始めたのです。中にはイエス様は立派な人物だったけれどただの人間だったに違いない、と考える人まで出てきました。


 そこでヨハネは、イエス・キリストという方は私たちの想像を超えた永遠の昔から存在されていながら、今、私たちと共におられるのだ、ということを壮大なスケールで語り始めました。1章1節に「初めに言があった」という書き出しを用いて、読む人たちに創世記の天地創造を思い起こさせようとしたのです。

 あなたがたはこの世が造られる先から存在していた神の一人子、光の光であるイエス様を信じることによって、神様に愛され新しく生まれ直したのだと伝えます。そしてこれから先、イエス様を理解しない人が権力を握ると、酷い迫害に合うかもしれない、それでも、あなたたちは、イエス様に対して従順であり続けなさい。と教えたのです。


 この、「イエス様がもどってこない問題」について、同じ12弟子の一人、ペトロが書いたとされるペトロの手紙第二の3章にも、「一日は千日のようで、千日は一日のようです」という御言葉が記されています。この御言葉は神と人とでは時間の感覚が違うことを教えています。神の前では、私たちの「長い」は一瞬であり、油断せず心を引き締め、神に愛されている人として相応しい振る舞いをし、信仰を失って心が折れたり闇に囚われたりするものが出ないように諭したのでした。

 

 また、伝道者パウロは、宣教の苦難の中にあった時、フィリピの手紙1章の「この世を去って、キリストと共にいたい」と記しました。パウロは自分が死ぬことでキリストが宣べ伝えられるならそれでよし、もし生きて働く方がよりキリストの役に立つならそれでよし、という重要な使命感の中に生きていたのです。

 パウロは「クリスチャンにはこの世で大きな役割が与えらえている」と宣べ伝えました。その使命とは神様であるイエス様を愛の方だと証することと、その愛の教えを自ら実践し、自分の言葉で伝えることだと教えました。


 新約聖書の書き手たちがこぞって記すのは、私たちの思いと神様の計画とは異なる、ということです。しかしどれほど時間の感覚にズレがあっても、神様は失望する私たちをただ黙って放っておくのではなく、そこには神様のお考えがあるということ、そして私たちにそれを信じて欲しい、とおっしゃる方なのです。それを信じる「神と私の信頼関係」こそが信仰である、ということなのです。

 詩篇84編には「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです」と書かれています。これは神と共にある時間の幸せや充実感を表しています。この世にあっても、天の国にあっても、神様と過ごす時間はなんと幸せなのだろう。虚しく長く生きるよりも神様の元にいられる1日の方がはるかに素晴らしい、と熱烈なラブソングのように神様を慕っています。この思いを私たちも新しい年にもう一度抱きたいと思います。


 思いがけないことがあっても、私たちには救い主の言葉に立ち返ることのできる幸いを、この1年も覚えて参りましょう。



ラッパを口に当てているシルエットは
人形劇の盛んな飯田の
シンボル的なキャラクターです
毎日冷え込みますが
お天気はまずまずの日が続いています

2021年12月31日金曜日

少年イエス(日曜日のお話の要約)

降誕節第1主日礼拝(2021年12月26日)

コロサイの信徒への手紙3章12-17節 ルカによる福音書2章41-52節


 ユダヤ教の世界では、今でも、女性は12歳、男性は13歳で成人式を迎えるそうです。お酒が飲めるとか結婚できるとかいうことではなく、13歳になると少年は宗教的に大人の仲間入りが認められ、聖書を自分で直接読むことを許されます。そのため、少年たちは12歳になるとその準備を始めます。


 エルサレムに神殿があった時代、年に3回開かれる大きなお祭りに合わせて巡礼に行くことも行くことも大切な準備でした。

 12歳になったイエスが両親と一緒にエルサレムに巡礼したのもそのためでした。旅は滞りなく終わり、後はナザレに帰るだけ、という時に事件は起こりました。ヨセフとマリアは気のゆるみからか、イエス様を見失ってしまったのです。

 この頃の巡礼の旅は、同じ地域から旅をする親戚や友人たちが団体となって移動しました。強盗に襲われないための知恵だったのです。ですからマリアとヨセフは自分達の近くにイエス様がいなくても、誰か近所の人か幼馴染と一緒に歩いていると思ったのでしょう。12歳といえば思春期の始まり、独立心旺盛な年頃ですから、親と一緒にいなくても平気で過ごしているのだろうと思ったかもしれません。並外れて頭の良い息子が、まさか迷子になっているとも思わなかったでしょう。

 マリアとヨセフは一体何が起こったのかわからないまま、慌ててエルサレムへ引き返したのです。利口な子と言ってもまだ12歳、どうして目を離してしまったのかと、二人は自分たちを責めたでしょう。事故に遭っていないだろうか、人攫いに攫われていないだろうか、危険なところに入り込んでいないだろうか、まる一日かかった道を、後戻りしながらイエス様を探す旅は3日に及びました。親としては生きた心地がしなかったと思います。


 ヨセフとマリアがようやくイエス様を探し当てたのは神殿の境内でした。あろうことかイエス様は何食わぬ顔で学者たちに囲まれて座り、話を聞いたり質問したりしていたのです。しかも学者たちは「こんな賢い子どもは見たことがない」と驚いていました。その光景を見たヨセフとマリアは、息子が見つかったという安堵感以上に、強いショックを受けことでしょう。

 その時の状況を想像すると、両親は「うちの息子がご迷惑をおかけしました」と何度も何度も頭を下げ、イエス様が何かを言おうとしてもそれを妨げ、あっけに取られる学者たちの前から退き、イエス様を引っ張って神殿の外に出たのではなかったでしょうか。

 一息ついたマリアは、親の勤めとして、ここは一つ叱っておかなければ、と思ったことでしょう。実際にかなり怒りが込み上げていたのかもしれません。「なぜこんな勝手な振る舞いをしたのですか。お父さんもお母さんもどれほど心配したと思っているのですか。まだまだ子どものあなたが、神殿にいる偉い先生方に生意気な口の聞き方をして、どういうことなのですか。」

 しかしイエス様はすでに神の御子としての思いが芽生えていました。神の子として今、自分が何を知っておくべきか、今の時代、律法はどのように解釈され、どのように守られているのか、地方の町ナザレにいては吸収できないことを知っておかなければならない。そのように思われたのではないでしょうか。それは両親のご機嫌を伺うよりもイエス様にとって大切なことだったのです。

 ですからイエス様は「どうして私を探したのですか」と言い返してキョトンとしています。その上、心配して三日の間、食べ物も喉を通らないくらいだった両親に向かって「私が父の家、神殿にいるのは当たり前だと知らなかったのですか?」と言い放ったのです。

 この時のことを聖書は「両親にはイエスの言葉の意味がわからなかった」と記しています。しかしマリアとヨセフの心に、イエス様は神様からの預かり物なのだという分別が蘇ってきたのかもしれません。「この子は私たちの子として育っているけれど、普通の子ではなかったのだ」そんな思いが与えられ、怒りは引いていきました。特にマリアは、「もうあれこれ言うまい、イエスがこの先何をしようとも、心の中に納めておこう」と決めました。

 両親の心の動きをイエス様も見てとられたのでしょう。それ以上何も言わず、促されるままに素直にナザレに戻り、時が来るまで親孝行な息子として過ごされたのでした。

 

 イエス様が起こした行動は、親の立場で言えば、とんでもないことですが、これも神様の計画だったのだと考えて視点を変えてみますと、神様の思いが、非常に感じられる記述でもあります。

 私たちは平穏な信仰生活を送っている時には、自分は神様に探されて見出されたものである、という意識を持ち続けることができます。しかし、ひとたび日常がピンチに襲われるとオロオロ、ウロウロ、平安が失われてしまいます。しかし私たちがイエス様を見失う時、神様などいないと心が叫ぶ時、私たちが迷うことのないように、神様は教会を与えてくださり、「ここに帰って来ればイエス様に会えるんだよ」と礼拝堂を備えてくださいました。

 今まで120年間、飯田教会の礼拝堂は幼稚園の園舎の一部として、幼児教育の場としても用いられてきました。しかし今から数年後には、自分達の礼拝堂として、いついかなる時でも心置きなくイエス様と出会い、神様と語らうことができる場所として備えられようとしています。そしてそれが実現するために、今まで以上に私たちの信仰が試される時が来ているのです。



2021年もあと数時間となりました

今年もコロナに翻弄される1年でした

明るい兆しが見えてきたかと思えば第6波の到来!?

厳しい状態に置かれている方も少なくないと思います

長い戦いが続きますが

可能な限り感染対策をしながら

この試練の先に、新しい喜びが待っていると信じて

前に進んで参りましょう

みなさま良いお年をお迎えください


1月1日は新年礼拝はありません

1月2日お会いしましょう




年明けの土曜学校
元気なみんなと会えますように


2021年12月27日月曜日

「よろこびの知らせ」 クリスマスイブ燭火礼拝(2021年12月24日)午後7時 お話の要約

ルカによる福音書 2章1-16節

 皆さんは「ブルータス、お前もか」という言葉を聞いたことがあるともいます。信頼していた者の裏切りを表す言葉として有名です。この言葉は、ローマの政治家ユリウス・カエサルが暗殺された時、暗殺者の中に友人のブルータスがいるのを知ってショックを受け、漏らした言葉です。

 このユリウス・カエサルの死後、彼の養子だったオクタヴィアヌスが初代皇帝に就任します。皇帝になった彼は「ローマの平和」と呼ばれる、約200年にも及ぶ帝国の全盛期を実現した人物として人々から称えられ、アウグストゥスという名を与えられます。

 いきなりなんでローマの歴史?と思われるかもしれませんが、先程読みましたルカによる福音書の2章1節に登場する「皇帝アウグストゥス」という人物がこの人なのです。神と称えられるほどに華やかな功績を持った人物でしたが、その影には虐げられた人々が存在しました。

 イエス・キリストはこの皇帝アウグストゥスの支配するイスラエルの国のベツレヘムという町でひっそりとお生まれになります。その誕生は傍目に見れば、決して恵まれたものではありませんでした。


 身重であったマリアが夫のヨセフと共にナザレからベツレヘムへの旅しなければならず、生まれたばかりの赤ん坊を飼葉桶に寝かさなければならなかったのは、皇帝アウグストゥスが自分の支配する領土に住む住民から漏れなく税金を徴収するため、先祖の街に戻って住民登録をするよう強制したからだったのです。こうしてイエス様はローマ帝国に苦しめられるところからその誕生の物語が始まります。

 皆様もご存知の通り、ローマといえば今ではイタリアの首都として有名で、その中心にはカトリック教会の中心バチカンとサン・ピエトロ寺院があります。かつてローマ帝国の横暴ゆえに馬小屋で誕生したイエス様が、今は壮麗なキリスト教会で崇められている。驚くべき逆転劇は、不幸に見えたことの裏側に幸いがあり、人の思いを遥かに超えた神様の御計画があることを私たちに伝えているのです。


 仮に皇帝の命令がなければ、マリアとヨセフはベツレヘムに行くこともなく、イエス様はナザレの一般家庭で誕生し、親族一同のお祝いを受けていたでしょう。そうなると、クリスマス物語はずいぶん変わったものになったに違いありません。しかし、旅先での過酷な出産は、思いも掛けない人々をイエス様の元に招き寄せました。イエス様誕生の知らせを聞いて真っ先に駆けつけたのが、ベツレヘム近郊で野宿する羊飼い達だったのです。


 当時の羊飼いは24時間羊の世話をし、泥棒や獣から羊を守る厳しい労働でした。労働の割に賃金は安く、教育を受ける機会もほとんどありませんでした。働いても働いても貧しさから抜け出せる見込みもありませんでした。彼らは貧しさゆえにユダヤ教の戒律を守ることのできない下層階級の人々でした。

 イスラエルは祭司が政治も司る宗教国家でしたから、戒律を守れない羊飼いたちは神様に見捨てられた存在とみなされていました。町で暮らす一般の人々から見ても、羊飼いたちは礼拝にも行かず、神様から与えられたさまざまなルールも守れない、無知で無学で不信仰で不潔な人々に思えました。はっきりいえば、羊飼いたちは一般市民から差別されていたのです。


 しかし羊飼いたちは、むしろ素朴な信仰を持った人々であったようです。劣等感にまみれ、未来への希望も持ってはいなかったけれど、預かった羊を命懸けで見守ることには誇りを持っていました。ですから神様は同じように私たちを見守ってくださっている。そのような思いだけは失わなかったのです。その信仰は闇の中で自分を照らしている満天の星のように、彼らの心の一筋の光でした。


 この夜、羊飼い達の元に天使たちが現れたのは偶然ではなかったのです。神様の御使である天使たちは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げ、「この方こそ主メシアである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と、高らかに歌ったのです。

 神の御子がどういうわけか自分たちが会いに行けるすぐそこにおられる。いやむしろ自分たちに会うために、王宮でも普通の家でもなく、貧しい馬小屋の飼葉桶の中に寝かされているのだ。何故なら天使は言ったではないか「あなた方のために」と。これを信じないで何を信じるのだ。


 「よろこびの知らせ」というものは、どんな素晴らしい内容であっても、自分に向けられていると受け止めなければ、何の益にもなりません。羊飼いたちは神様からの知らせを自分に向けられたメッセージであると確信し、急いで行動に移しました。こうして彼らはどんな高貴な身分の人よりも先に、イエス・キリストの元に招かれ、そのお誕生を祝うことができたのです。


 この物語は、羊飼いたちががこののち革命家になって世の中を変えたとか、そういうことではありません。ただ、彼らが天使の言葉を信じて希望を抱いた、その心の素直さが福音書に記され、伝えられ、今日も闇の中で苦しむ人の心に光を投げかけ続けるのです。そして羊飼いたちと同じようにそのメッセージを受け入れた人の心にあかりが灯るのです。これこそが、神様の望まれた、民全体の、全ての人への、大きな喜びだったのです。

 私たちはこの1年、様々な出来事がありました。良いこともあれば嫌なこと、例えば病気や怪我、思わぬことに苦戦したり、闇や孤独を感じたりするようなこともあったでしょう。

 しかし、そうした中にも、神様が共にいらっしゃることを信じて今夜こうして集まりました。今、皆さんが持っておられる一つ一つの灯火は小さなものですが、かつての羊飼いを照らした星あかりと同じように、闇を照らし、生きにくい人生を歩んでいる一人一人を導くあかりとなるのです。




イブ礼拝の様子をお届けします

今回もリーベクワイヤの皆さんの

美しい音色が小さな会堂に響き渡りました


夜なのでこども聖歌隊はお休み

代わりに「おとな聖歌隊」(仮)が賛美しました










少しわかりにくいですが
今年も竹燈籠が園庭に登場しました
小さくなってしまった聖壇の蝋燭を
入れてあります


瓢箪ランプは蝋燭を入れると燃えてしまうので
LEDライトでお客様をお出迎え