2024年7月22日月曜日

「愛をもって癒される方」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝(2024年7月21日)(緑)

エレミヤ書 23章1-6節(1218) 

エフェソの信徒への手紙 2章11-22節(354)

マルコによる福音書 6章30-34、53-56節(72)


 本日読みました福音書箇所は、真ん中を飛び越して2箇所です。前半は伝道旅行から帰ってきた弟子たちがイエス様に喜びの報告をし、それを聞いたイエス様が舟に乗って湖を渡り、人里離れたところに休みに行こう、と勧められたことが書かれています。ところが大勢の群衆がついてきて休むに休めませんでした。


 後半にはやっとのことで湖を渡った一行が再び群衆に取り囲まれ、そのような状況の中でイエス様が癒しを行なわれる、という内容です。


 弟子たちが二人一組になり、町々に宣教に出かけ、イエス様に元に帰ってきました。イエス様は弟子達が疲れているのを感じとって、共に人里離れて休もうと誘われます。弟子達自身はイエス様が言われるほどには疲労を意識していなかったかもしれません。「うまくいった、うまくいった」と喜んで報告をしたことでしょう。しかし弟子たちは人々が神様の前に悔い改め、信仰を燃え立たせるという、イエス様の本当の目的を理解していたとは言い難いのです。


 つまり弟子たちの伝道旅行は、多くの悪霊を追い出し、一見大成功でしたが、大抵の人々は救いを求めて集まるものの、祈りによって癒されても神様への感謝もあまり感じていないようで、信仰の成長がパッとしない。そんな感じでした。


 実は、そういった状況で延々働き続けるのは、長い間にじわじわと疲れが溜まることをイエス様は知っておられました。ですからここには弟子のためにも一度切り替えるべきだとのお考えになったのでしょう。


 しかしこの時、一向を乗せた舟は逆風のためベトサイダに到着することができず、ゲネサレトにやって来たことが書かれています。ゲネサレトはガリラヤ湖の北西岸にひろがる肥沃な平原で、イエスが宣教を開始したカファルナウムがありました。


 ただ、せっかくやってきたにも関わらず、ここでも弟子達を休ませることが出来ませんでした。ゲネサレトでも大勢の人が癒しを求めて集まってきたのです。イエス様はそこでまた宣教と癒しの業を行いました。


 イエス様はこのようにユダヤの人々を癒し、また弟子を育てられました。しかしこれほど身を粉にして働かれても、「癒し」ばかりが求められ、その御心を知り、イエス様の思いに応えて生きる人はなかなか現れませんでした。


 そんな風でしたから、イエス様が十字架に掛かった時、民衆はイエス様を救おうとせず、また、弟子達も逃げ去ってしまったのです。そのようなことがわかりながらも信仰のあるところに癒しの業を行われたのです。


 イエス様は多くの人々がご自身を裏切ることをご承知の上で、癒しの業を行われました。飼い主のいない羊のように、自分を導く神様を見失って彷徨う人々を捨て置くことができず、癒しの業を求める者のには惜しみなく与えられたのです。愛がイエス様を突き動かし、癒しの業を止められなかったのです。


 こういった出来事を聖書から学ぶとき、私たちが心に刻んでおかなければならないことがあります。私たちは自分の体や心が、また自分の置かれた困難な状況が、イエス様に癒され改善されて、そのときはイエス様こそ我が主、わが神、と告白することが出来ても、時間が過ぎて感動が薄れればその思いは忘れるかも知れないということです。


 それどころか、あの時癒されたのは自分の体力とか、気力とか、たまたま薬が効いたとか、偶然が重なったとか、この世の中に奇跡なんて都合の良いものはやっぱりないとか、とにかくさまざまな余計な情報が頭に入ってきて、癒してくださった方を忘れたり、信じる対象から外してしまったりするのです。


 そのような恩知らずな手の掌返しを平気で行う、それが私達なのです。しかし、神は違うのです。どれほど裏切られても、どれほどご自身のを忘れられた存在として、無下に扱われても、一度愛した者のこと、一度癒した者ことは決してお忘れにならないのです。だからこそ、わたしたちに神の子として、そのような存在になれと、この地上でイエス様に倣う生き方をするように示されたのです。


 イエス様は救いのためには、力ではなく、愛をもって行っていかなければならないことをご自分の生き方で持って示されました。裏切り者に向かってなお、「あなたが裏切ったのは信仰が弱いせいで、でもその信仰はきっと強くなるから、もう一度私を信じなさい」と呼びかけ続けてくださる、それがわたしたちの救い主イエス様なのです。


 皆さんもよく知っておられる杉原千畝さん。第二次世界大戦の折のナチスによるユダヤ人大虐殺から人々を救うため、彼は外交官としての将来を棒に振って、力の限りビザを発給しました。彼もクリスチャンでした。


 しかし、彼の努力によって生き残った人々の子孫が、現在のイスラエルでパレスチナの人々の命をまるで価値のないもののように扱っている様子を見たなら、自分は何のために彼らを救ったのか、と天国で涙を流しているかもしれません。


 人間の罪の連鎖と争いが止まらない姿。人々に感動を与え、世の中を変えるほどの大きな働きをしても、数十年後には忘れられ、むしろ仇となってしまうことさえある。私たちはそのような社会に生きています。それでも私たちはイエス様から自分に与えられた使命を信じ、行動に移していくしかありません。


 私たちは、日々の癒しの中で神を感じ、神に愛されていることを覚え、イエス様に倣って歩んで参りましょう。それが私たちの役割なのです。そのことを覚え、大きく環境が変わったとしても、この場所での信仰に歩んで参りましょう。


8月3日は土曜学校の日です

飯田では「りんごん」というお祭りがあって

夕方からたくさんの蓮が街を練り歩きます

一日盛り上がる日です

午前中はぜひ土曜学校へ(^^)


数年ぶりに紙皿を台紙にして

「ローズウインドウ」を作ります

夏は「光の透ける工作」いかがですか?



トランスパレントペーパーという
色付きのトレーシングペーパーみたいな紙を使っていますので
窓辺に飾るとこんな感じで光が透けます


2020年9月の写真
NちゃんとKちゃんが姉弟で参加してくれました





2024年7月15日月曜日

「正義の主」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝(2024年7月14日)(緑)

アモス書 7章7-15節(1438) 

エフェソの信徒への手紙 1章3-14節(352)

マルコによる福音書 6章14-29節(71)


 本日の福音書には「洗礼者ヨハネ殺される」という物騒な小見出しが付けられています。この直前の出来事は、イエス様が12の
弟子を各地に派遣し、まず伝道の成功を収めたという記録です。


 その次にいきなりヘロデ王が登場するのです。このヘロデ王は、イエス様が赤ちゃんの時暗殺しようとしたヘロデ大王ではなく、その息子です。父親に比べて政治手腕も威厳もだいぶ劣りますが、残忍な性格だけはしっかり受け継いだようです。


 14節に「イエスの名が知れ渡ったので」とあるのは、弟子の派遣がうまくいって話題になった結果「ヘロデ王の耳にも入った」ということなのでしょう。のどかな町々を嬉しげに歩く弟子達にオーバーラップするかのように、ヘロデ王の暗い眼差しが、そこに大写しにされる、身の毛もよだつ映像が頭に浮かびます。


 マルコによる福音書のこの急展開は、当時の文学的水準としてかなり高い表現だと評価されています。この力の入れようから、著者であるマルコがキリスト者に読み取って欲しいことがあったのだとはっきり分かります。王様を中心とした国の中枢、国民の憧れと尊敬の的となるべき場所が堕落し、正義は失われ、その上、清く正しく生きようとする人々に容赦なく牙を向くことを、この福音書は記しているのです。


 この箇所を詳しく見てみると、ヘロデ王が自分の兄弟のヘロデ・フィリポから妻ヘロデヤを奪った、つまり、略奪結婚したことがわかります。これは明らかな律法違反でした。王様自ら、イスラエルの要である律法を犯したのです。しかし律法学者も神殿の司祭も面と向かって側近であるに関わらず指摘することはありませんでした。


 そこに登場したのが洗礼者ヨハネです。言うまでもなく、彼はイエス様に洗礼を授けた預言者であり、イスラエルの人々が神様の前に清く正しく生きられるよう厳しく教え、悔い改めを進めた人物です。ヘロデとへロディアの関係は、「律法に許されていない」と恐れることなく糾弾したのです。


 ヘロデは俗な言い方をすれば「ヨハネのファン」だった、と言えるでしょう。ヨハネが正しい聖なる人であることを知っていて、厳しい指摘をされてもその教えに喜んで耳を傾ける、という矛盾した態度をとっていたのです。


 一方妻となったへロディアは、権力欲しさに王としてのヘロデの妻となり、せっかく手に入れた自分の地位を台無しにしようとするヨハネを憎んだのです。ヘロデ王はヘロディアがヨハネを憎み、殺そうとしているのを知っていたので、自分の権力や立場を使って、洗礼者ヨハネを保護しました。もしへロディアがヨハネに何かすれば、ヨハネを預言者として尊敬しているイスラエル国民から反発されるのは免れない、とも思っていたのでしょう。


 しかし、ヨハネを亡き者にしようと狙い続けてきたヘロディアに絶好のチャンスが訪れます。ヘロデのための誕生日会が行われ、イスラエルを牛耳る高官や将校、そしてガリラヤの権力者が集められました。これは国の政治のガス抜きのように、時には犯罪者に恩赦を与えて、政治家として度量の広いところをアピールする機会でもありました。


 へロディアはこの機会を利用したのです。そのためにまだ少女であった自分の娘を利用し、洗礼者ヨハネを死刑にする計画を実行に移すのです。自分の娘に誕生の祝福のいかがわしい踊りを踊らせ、ヘロデ王から「何か欲しいものがあれば遠慮なく言いなさい」という言葉を引き出します。何も知らないまま母親に「何をおねだりしましょうか」と尋ねてきた娘に、「ヨハネの首をください」と願わせたのです。


 このあたりは19世紀末のアイルランドの作家オスカー・ワイルドが「サロメ」という戯曲に大幅に脚色して描いています。聖書では少女の名前は出てきませんが、ワイルドは彼女に「サロメ」と名付けます。「サロメ」は人気のある戯曲で、世界中で繰り返し上演されているので、知っている方もおられるでしょう。ワイルドの戯曲は大胆に脚色されているとはいえ、人間関係や権力争い、愛憎劇などが盛り込まれた内容であることは聖書のこの箇所と同じです。


 ただ、ここで私たちが本来目を向けなければならないのは、政治家達や少女の動向ではなく、無残にも「犬死」してしまったように見える洗礼者ヨハネのことです。国の中枢に巣食う悪党達によって、神様から遣わされた洗礼者ヨハネは殺されてしまったのです。


 洗礼者ヨハネは、イエス・キリストの先駆けと言われています。それは、その死においても、「いずれイエス様も同じように権力者の身勝手によって殺される」と暗示していると言っていいでしょう。


 ヨハネの人生は、その誕生、宣教、そして死を迎えるまでまで、イエス様の少しだけ先を歩みながら、「次の展開はこうだよ」と教えるガイド役でもあったのです。

 さて、このエピソードを挟んで、再びイエス様の弟子たちが登場します。弟子達は、自分達の成功体験をイエス様の元に集って分かち合うのです。


 ヨハネがヘロデ王に殺されたことを、この時の弟子たちがどの程度知っていたかは定かではありません。しかし弟子たちも、ただ呑気に宣教活動をしていたわけではなく、イエス様の教えや業が、権力者から目の敵にされる場合があることに気づいていましたし、ふざけた人々によって、時には命を失うこともある、とわかり始めていたでしょう。


 イエス様の教えを守り、「神様は今のイスラエルの堕落を悲しんでおられる」と宣言するなら、確かに洗礼者ヨハネと同じように命を落としかねません。そしてイエス様もまた、一度はそのようにして十字架につかれます。弟子たちは一度は怯え、気力を失い、宣教を放棄します。しかし、イエス様が三日後に復活された事実が、再び弟子たちを厳しい宣教の現場に押し出していったのです。


 その結果、弟子たちの多くが殉教して行きましたが、社会は緩やかに変わっていきました。そうした歴史を私たちは知っています。神様は聖書を通して、人間の醜さも美しさも読めるようにしてくださいました。ですから、聖書は綺麗事だけが書き並べられている書物ではありません。


 人間に弱さや醜さがあるからこそ、イエス様の愛と正義をこの私が示して学び続けることが必要なのです。イエス様はご自分が殉教してまでも、世界が変化し、救われることを望んでおられるのです。私たちの正義の主であるイエス様は、愛によって救われ、愛によって救うものになって欲しい、それが正義の主の思いなのです。



赤い屋根の園舎の後ろに
ネットに覆われた新園舎が立ち上がっています
今週には関係者が中に入ることが許されます
牧師もヘルメットをかぶって行ってきます




2024年7月7日日曜日

「不信仰と信仰の壁」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(2024年7月7日)(緑)

エゼキエル書 2章1-5節(1297) 

コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章2-10節(339)

マルコによる福音書 6章1-13節(71)


 本日の福音書では、イエス様がナザレに帰られたにもかかわらず、そこの人々はイエス様を受け入なかったこと、その後弟子達を二人一組にして、方々の町に派遣なさったことを共に読みました。


 本日の福音書前半には「驚き」という言葉が2回出てきます。ナザレの人々がイエス様の意外な成長ぶりに「驚き」、イエス様は彼らの不信仰に「驚く」という使い方です。日本語では同じ「驚く」という言葉を使っていますが、元の言葉は全く違う単語です。ナザレの人々の「驚き」は、こどものいたずらなどで、突然背中をぽんと押され、びっくりする時の「驚き」です。一方、イエス様の「驚き」は、「あきれる」という意味があります。


 ナザレの人々はこの日、安息日の礼拝に集まり、イエス様のお話を聞きました。そのお話は今までにない切り口でわかりやすく、初めは素直に感動して喜ぶのですが、少し我に帰ると、イエス様の子ども時代のことが頭をよぎります。


自分達より特別偉くなかったはずの人間が、家族を捨てて故郷を離れたと思ったら、立派なお話や奇跡が行えるようになって帰ってきた。なぜなのだろう。人々の想いはそこにとらわれ、嫉妬心さえ顔を出します。こうなるともう、イエス様のお話の一番大切なところが全く耳に入らなくなってしまうのです。


 人々のそんな気持ちはお話を聞く態度にも露骨に現れます。彼らはイエス様が神様の力を発揮できるとは信じられず、それゆえ、癒しの奇跡も受け付けようとしませんでした。イエス様がいくら素晴らしい力を持っておられても、思わぬけちをつけられ、裏切られ、拒絶されてしまうのです。イエス様は驚きと共に非常に残念に思われたことでしょう。


 しかしイエス様はこのことを教訓として弟子たちにお教えになりました。伝道して行く時、こういった思いもかけない不信仰からの拒絶されることは必ずある、それに驚くことがあっても怒ることなく、あなたたち自身は気持ちを不信仰に陥らないように、と教えられたのです。


 不信仰と信仰の間には大きな壁があります。みなさんもお気づきのように、神様を信頼する、イエス様を完全に信頼し、どんな時も委ね切るということは、口で言うほど簡単ではありません。


 信仰を持って取り組んだはずのことが思い通りにいかなくて失敗した時、自分の不信仰のせいなのか、それとも神様は自分には特別厳しいのか、はたまた他に原因があるのか、と悶々とし、悩むことがあります。


 しかし、それでもぎりぎり信仰を手放すことなく、うまくいかない中でもがき続ける時、いつの間にかこの苦しみは神様の時だったのだと信じられる時が来ます。何か劇的なことが起こったということでもなく、ふっとそう信じられるのです。すると分厚い壁だと思っていたものが壁でなくなります。信仰とは神様が育ててくれるものだ、目の前の現実にいちいち文句を言ったところで仕方がない、と受け止められて、信仰はさらに成長するのです。


 イエス様は、弟子達に、自分の故郷のナザレという場所で、人々のやっかみから来る不信仰をしっかりと見せた後、彼らを宣教の旅に送り出します。神の前に自由に生きること、ブランドや名誉に縛られず、与えられたものに感謝しつつ、有効に活用することを教えられたのです。


 すべては神様の計画の中にあり、人は人として与えられた状況の中で誠実に生きていくことが、何よりも大切なのです。ギャンブルみたいな生き方が、信仰的だと言う人がいますし、一か八かの大成功、みたいなな証や奇跡を喜んで聞きたがる人もいます。もちろんそのような体験を持つ方を否定はしませんが、誰かの成功例を必要以上に羨ましがることもないのです。

 来年の春には新しくなった幼稚園施設と、耐震されリノベーションされた会堂が与えられます。そこで宣教の歩みをしていくよう、神様から語りかけられているのです。上手くいっても、失敗しても、周りからは何かを言われるのものです。しかし、それも覚悟の上で、ここに集う私たちで、神様に感謝していく歩みをしていきましょう。そして、新たにここに集まる人は、信仰のゆえに、心の内で気づくかも知れません。「神様の祝福が本当にここにある」。 


6日は恒例の土曜学校でした
冷房のない礼拝堂では
子どもたちの集中が続かない上
熱中症の危険がありますから
ゆり組の教室を借りて
礼拝から工作まで行いました
初めて参加者してくれたお友達もいて
どうなるかなあと思いましたが
楽しんでくれたようで一安心
いやはや、なかなか賑やかな会でした

暗誦聖句にも真面目に取り組んでくれました

工作は全集中(古)…と言いたいところですが
手と同じくらい口も動いておりました

一組だけ笑顔の写真をご紹介

2024年6月30日日曜日

聖霊降臨後第6主日礼拝(2024年6月30日)(緑)

詩編 30編2-13節(860) 

コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章7-15節(334)

マルコによる福音書 5章21-43節(70)

説教「いのちの主キリスト」         朝比奈晴朗


 本日の福音書には、多くの人々が登場し、複雑なドラマが展開されます。まずヤイロとヤイロの娘、長血を患った女性、そして彼や彼女たちを取り巻く群集です。ちなみに「ヤイロ」という名前は、「神が光を与えて下さる」という意味で、希望に満ちたイメージを持った名前です。


 ヤイロの仕事は会堂長でした。会堂長というのはユダヤ教の集会所で礼拝を取り仕切ったり、建物や施設の管理をする人物のことです。シナゴーグと呼ばれるこの集会所はユダヤ教を信じる人々が住むところには必ずあり、その数だけ会堂長がいました。周りの人々がヤイロを気遣っている様子から、彼は町の人々にも慕われる、真面目で信仰的な人物であったようです。


 しかし、ヤイロがこれまでどんなに誠実で真面目であったとしても、悲しみは突然やってきます。なぜ自分がこんな目に遭うのか、と苦しみ悲しむのです。ただ、この時彼は嘆くだけでなく、恥も外聞も捨てて、イエス様に頼ることにしました。イエス様はヤイロの苦しみに寄り添い、一刻も早く癒してあげようと一緒に出かけられたました。ところがその途中で思わぬ事態に遭遇するのです。


 それは12年間もの間、病に苦しむ女性が「イエス様なら癒してくださる」と信じてこっそりイエス様の衣に触れる、という出来事でした。二つの出来事が交錯したこの奇跡物語は非常に印象深く、他の福音書マタイとルカにも記録されています。


 この出来事は後で触れますが、このアクシデントによってイエス様は一旦足止めされます。急かすわけにもいかず、ヤイロはジリジリしながら待っていたことでしょう。そこへ無慈悲な知らせが届きます。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」ヤイロの娘は死んだから、イエス様に来てもらうには及ばない、という知らせだったのです。


 しかしこれを聞いたイエス様はヤイロに向かって「恐れることはない。ただ信じなさい」と話しかけられます。ヤイロは呆然としたまま、イエス様に促されるままに家へと向かいます。到着しますと、そこに集まっていたのは娘のために嘆き悲しむ人々でした。葬儀の場で泣き崩れ、取り乱すことで葬儀を充実させるため、職業としての泣き女まで参列させるのがこの地の文化でした。


 ここでイエス様が「泣くな」と静止されて「死んだのではない、眠っているのだ」と言われた時、その場にいた人々は嘲笑います。彼らは娘がもはや息をしておらず、体から体温が奪われていく状態を見ていました。人々に、ほんの少しでもイエス様への信仰があったなら、「もしかして」と、そのお言葉に期待して沈黙したかもしれません。残念ながらここにいる人々にはそのような信仰はなく、蘇るなんてあり得ない、と完全に諦め、イエス様をホラ吹きのように思い、笑ったのです。


 集まった人々は、「人間は死んだらそれでおしまいなのだから、風習通りに葬儀をきちんと行うことがこの家族のためだ」と思い込んでいました。その様子をご覧になったイエス様は、彼らが神の国を見失っていることを嘆かれたことでしょう。人々のそんな不信仰を覆し、彼らの視線を神様に向けさせるために、イエス様は奇跡を行われたのです。


 イエス様が少女に呼びかけ「娘よ、起きなさい」と命じられると、たちまちお言葉通りに彼女の霊が戻ってきて、娘は起き上がります。イエス様は「食べ物を与えるように」おっしゃいますが、それは「ぐっすり眠った後で、お腹が空いているだろうから」とまるで日常の一場面のようにおっしゃるのです。


 イエス様にとって死と蘇りは全てが神のみ手の中にあって、御心に叶うなら命は死から解放されることをご存知でした。この少女の身に起こった出来事を通して、神様にできないことはなく、命の終わりになすすべもなく怖がる私たちに向かって、そのしがらみから自由になる方法はあるのだ、と教えてくださったのです。


 さて、後回しになってしまいましたが、ヤイロの家に向かう途中に起こった12年間長血を患う女の人の話にも触れておきましょう。こちらの奇跡の中で印象的なのは、長年苦しんできた女性に対するイエス様の「あなたの信仰があなたを救った」というお言葉でしょう。


 わたしたちにとって「救い」という言葉のイメージは、「何の労苦なく生きていきたい」「重い怪我も病気もなく、長生きしたい」「愛しい親族や家族と共に穏やかに暮らしたい」といった願いに直結するかもしれません。しかし、そんな人生が送れる人は、おそらくこの世の中に誰一人いないでしょう。わたしたちを取り巻く世界はそれほど暗く罪深く、悪意に満ちたところがあるのです。


 しかしそのような世界にあっても、私たちは決して一人ではないのです。わたしたちの命の主、イエス・キリストが傍にいてくださることに気付きさえすれば、わたしたちの人生観は大きく変わるのです。


 長血の女のいやしが行われた後、イエス様はこの女の人に向かって「娘よ」と呼びかけられました。今まで不幸の中にあった女性に向かって、あなたが私を信頼してくれたから、私もあなたを愛するわが娘として見守っていこう、というお言葉でもあるのです。そしてまた、この出会いは決して偶然ではなく、神様の御心に中にあった、ということも示しておられるのです。


 苦難や死を前にして、毅然としてイエス様を信じて従っていくことは簡単ではありません。しかし躓いても転んでも、泣きながらでもイエス様について行こうとする姿をイエス様は美しいと言ってくださり、立派だと褒めてくださるのです。私たちがイエス様をいのちの主とを受け入れるなら、その関係は強く結ばれるのです。



7月6日の土曜学校は「サンドアート」ならぬ「ソルトアート」です

塩にパステルで色をつけ、ガラス瓶に入れていきます

楽しいですよ

礼拝堂はとんでもない暑さになるかもしれないので

礼拝が終わったらゆり組の教室をお借りして

「ソルトアート」を楽しむ予定です