2026年5月31日日曜日

「託された役割」(日曜日のお話の要約)

三位一体主日礼拝(2026年5月31日)(白)甲府は代読/飯田は説教

創世記 1: 1~2:4a   2コリント 13:11~13 

マタイによる福音書 28:16~20 


 月曜日の朝、園児たちと実習生が広い園庭でタイヤ遊びをしていました。幼稚園で園児の送迎に使っているバスのタイヤをオールシーズンタイプに交換し、保管していた8個ほどの夏用タイヤが不要になったので、別の用途に使うことになったのです。


 この日は1日だけ特別な遊び道具として使って良いことになり、転がしたり、またいだり、くぐったり、運んだりと、手が汚れるのも構わず、大盛り上がりの遊具として使われた後、タイヤは積み重ねられて土を入れられ、花壇となりました。


 タイヤはただの“輪っか”にすぎませんが、子どもたちの手にかかると、遊びはどんどん広がっていきます。その姿を見ながら、ふと心に浮かんだのは、聖霊を受けて動き出した弟子たちの姿でした。


 牧師になる勉強をしていた時に、神学生同士の会話の中で「信仰を持つことは、この世でタイヤを持つことと同じだ」という言葉を聞いたことを思い出しました。


 2000年前、ローマ帝国が領土を広げていくと、まず軍隊が通るための道と乗り物が整備され、やがて商人や一般人など多くの人々が利用するようになります。徒歩中心の生活から乗り物社会が構築されていき、キリスト教の伝道は飛躍的に発展した。そんな話を思い出しました。


 タイヤはそこにあるだけでは動きません。しかし、使いこなすと、工夫とアイデアで、行ける場所が広がり、世界が変わります。


 さて、今日の最初の聖書箇所、創世記1章には、神が混沌の中に秩序を与え、すべてのものに役割を与えていく姿が描かれています。


 光には「昼をつかさどる」役割を。天体には「時を示す」役割を。生き物には「地を満たす」役割を。そして人には「地を治め、いのちを育む」役割が与えられました。


 神様はただ世界を作ったのではなく、作られた世界に意味と使命を与え、そこに住むものたちに、これから後も末長く役割を継続していくことを望まれたのです。


 園児達がタイヤに興味を示し、手にした瞬間、遊びが始まるように、神様が私たちに命を与えた瞬間、私たちの「役割」も始まります。特にキリスト者として聖霊の力をいただき、新しく生まれ変わった者たちは、イエス様からそれぞれに大切な役割を与えられているのです。


 三位一体の神は、大いなる、ただ一つの愛を持って、三つの働きで私たちを包んでおられます。父なる神はいのちを与え、世界に役割を与える方。子なるイエス・キリストは信仰に生きる私たちに寄り添い、使命を示す方。そして聖霊なる神は使命を与えられた私たちに、それを果たそうとする力を与え、動き出す勇気を与える方です。


 園児のタイヤ遊びに重ねるなら、父なる神がタイヤそのものを与え、子なるキリストが遊び方を示して「あなたならできるからやってごらん」と励し、聖霊なる神は実際に動き出す力を与えてくださるのです。


 信仰とは、神から託された“タイヤ”を受け取り、キリストに励まされ、聖霊の力で動き出すことです。


 本日読みましたマタイ福音書には復活のイエス様が弟子たちに言われた御言葉が記されています。「行って、すべての民を弟子にしなさい」。これは「座って待つ信仰」ではなく、動き出す信仰への招きです。


 弟子たちは、神様から「タイヤ」を受け取ると、聖霊に促されるままに歩き、船に乗り、世界へと転がり出しました。転んでも、つまずいても、互いに励まし合いながら福音を運び、人々に伝えました。人類は全て神様の元に平等であること、助け合い、許し合い、話し合い、祈り合い、争いや喧嘩を可能な限り避けて、新しい世界を創っていくことが託されていると話して回ったのです。


 園児たちがタイヤを押したり転がしたりしている時、誰も泣くことはなく、争うことなく、ただただお互いにその扱いを学びながら、笑いながら、協力しながら、飽きることなく遊び続けました。そして最後にそのタイヤはブランコ脇に置かれて積み重ねられ、土を入れられ、花壇になりました。


 弟子たちもまた、たとえ命の危機にあっても、神に託された役割を果たすためにそ歩み続けたのです。


 宣教者パウロはコリントの教会にこう語ります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同とともにあるように」。牧師たちは祝福の時にこの言葉をよく用います。三位一体の神の働きをそのまま表した祝福の言葉です。キリストの恵みが私たちを招き、父なる神の愛が私たちを包み、 聖霊の交わりが、私たちをつなぎ、支える。


 こども達の遊びが一人では成りたたず、友だちや先生との“交わり”があって初めて遊びは豊かになります。信仰の歩みも同じです。私たちはひとりぼっちでは信仰を成立させるのは難しいのものです。三位一体の神を信じる私たちは、神様が自ら集められたその交わりの中で、自信を持って、前へ進むのです。


 繰り返しになりますが、今日の礼拝で読みました聖書箇所は、共通してこう私たちに示しています。神様は私たちに役割を与える方。キリストは私たちを動き出す使命へと送り出す方。聖霊は私たちを支え、つなぎ、導く方。これから先、信仰に悩む時、この三位一体の神が私たちを愛しておられることを、繰り返し思い出してください。


 私たちは、この時代、この場所において、神様から託された“信仰というタイヤ”を持っています。誰かを励ますために、小さな奉仕をするために、祈りを届けるために、平和をつくるために、あなたの方法で転がしていくのです。幼児であれ高齢者であれ、体の自由が効かない方であれ、命ある限り、あなたにしかできない役割は必ずあるのです。


牧師夫人が管理している教会の駐車場脇の植え込みで
今年もリクニス(スイセンノウ)が咲き始めました
この辺りは土質が合うのか
ピンクのリクニスが道端でも
あっちこっちで咲いていますが
白花は見たことがありませんでした
数年前、松本教会の植え込みに白花が咲いていたので
数株いただいてきました
リノベーション工事中は世話ができず
絶えてしまったかと思いましたが
思いがけず今年、綺麗に咲き始めました
なんだか楽しい気分になります

2026年5月24日日曜日

「聖なる人々」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨祭(2026年5月24日)(赤)

使徒言行録 2:1~21(新214)  1コリント 12:3b~13(新315)

ヨハネによる福音書 20:19~23(新210)


 今日は聖霊降臨祭、イエス様が復活されたイースターから50日目にあたります。イエス様が天にお帰りになる時、ご自分を信じる者たちのために聖霊なる神が来られると約束して下さり、その通りになったことをお祝いする日です。


 私たちがこの会堂で再び礼拝するようになっておおよそ1年が経過しました。仮住まいを終えて昨年の6月1日、新しく整えられた会堂に足を踏み入れたときの喜びを、心のうちに蘇らせてください。


 この1年、私たちはこの場所で祈り、賛美し、笑い、信仰の友を天に送って涙し、少しずつ“学び”を積み重ねてきました。建物が新しくなっただけでは、教会は新しくなりません。そこに集う人々が聖霊によって新しくされるとき、教会は本当に新しくなる。そのことを、今日のペンテコステの御言葉は私たちに語っています。


 改めて、聖書からペンテコステの日に何が起こったのか見ますと、聖霊が降ったとき、人々は「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉で神様の証を聞くのか」聞くだろうか」と驚いています。


 ペンテコステが起きた時、エルサレムは五旬祭で賑わっており、さまざまな国や地方から人々が集まっていました。イエス様の時代のイスラエルでは、大きく分けてアラム語、ヘブル語、ギリシャ語が話されていましたが、ユダヤにルーツを持つ人々は、三つの言語のどれかを話すことができたでしょう。


 しかしよその国で育った人々には母国語がありますから、アラム語もヘブル語もギリシャ語も「とりあえず話せる」とか「一応聞き取れる」と言ったレベルでしょう。これではなかなか深い交流は得られないものです。ですから、ペンテコステの日、聖霊なる神が、イエス様の弟子たちに真っ先に与えた力が、外国語を聞き、話せる能力だった、というのは、単なる“言語の奇跡”ではないのです。聖霊は人々がイエス様を理解できるよう導き、共同体をつくり上げるためにこの力をくださったのです。


 聖霊の働きはまだまだあります。先ほど読んでいただいたコリントの手紙一の12章には「聖霊によらなければ『イエスは主である』と言えない」と記されています。自分の母国語でイエス様の素晴らしさを聞いても、それだけでは信じるには至りません。信じさせてくださる神の霊がおられて初めて信じることができるのです。


 ですから「自分の意志や理解力で、イエス様を信じた」と思うことは勘違いで、聖霊が、私たちに“聞いて学ぶ心”を与えて下さったからこそ、イエス様を信じることができ、それをみんなの前で告白して、初めて新しく歩み始めるのです。


 人は歳を重ねたからといって自動的に良い人になれるわけではありません。さまざまな体験を通して性格が形作られ、最後に神の息を受けて本質的に変わるのです。それが良くわかるのが本日読みましたヨハネ福音書20章です。イエス様の弟子たちは、さまざまな生育歴を持った人々の集まりですが、イエス様の弟子に招かれた時、自分はひとかどの人物になったと思ったことでしょう。しかしイエス様が十字架にかけられるとすぐさま絶望して逃げ出し、隠れ家に閉じこもったのです。そして他の弟子から復活の知らせを聞かされても、すぐには信じられませんでした。


 彼らは「恐れのために家の戸を閉めて」隠れていたのです。弟子たちは勝手に成長したわけではありません。自分の力で信仰を深めたわけでもありません。むしろ、恐れ、迷い、立ち止まっていた人々でした。


 しかし復活したイエス様は怯えている弟子たちの隠れ家に来られて息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われました。その光景は神様が最初の人アダムを造られたときに命の息を吹き込まれた時のようです。弟子たちはイエス様から聖霊の力をいただくことで“新しく生きる者”に造り変えられたのです。


 少し脱線しますが、教会のことを英語では「チャーチ」と言いますね。チャーチは元々ギリシア語のkyriakon(クリアコン)という言葉で「主の家」という意味があります。詩編23編の「主の家に、私は帰り」という言葉は直訳すると「教会に私は帰り」という意味になります。


 日本語の「教会」は、中国語の「教会」をそのまま使った言葉です。元となった中国語でキリスト者の集まりを「教会」と呼ぶのは、キリスト教が中国に伝わった際、キリスト教徒の集まりを「教えを学ぶ組織」と考えたからで、建物としての教会を指す言葉は教堂(jiàotáng)だそうです。


 英語の「チャーチ」も中国語の「教会」も、建物ではなく、聖霊に導かれて学び続ける人々の集まりであると言えるのです。


 繰り返しになりますが、1年前、私たちはリノベーションを終えた礼拝堂に戻ってきました。しかし、建物が新しくなっただけでは、その集まりは新しくなりません。集まる一人一人の意識が変わらなければ、結局何も変わららず、不平不満が募るばかりです。自分はイエス様に愛され、聖霊に導かれ、学び続けることで変われるのだと知り、神様のみ手に自分を委ねる時、キリスト者は成長し、その教会は本当に新しくなるのです。


 今日の説教題は「聖なる人々」です。「聖なる」という言葉を聞くと、完璧な人、罪のない人、特別な人を思い浮かべるかもしれません。しかし、聖書が語る「聖なる人々」とは、聖霊によって聖書を学び、研究や探究を続ける心を与えられた人々のことです。


 恐れの中に閉じこもっていた弟子たちが聖霊によって立ち上がり、語り始めたように、互いに理解できなかった人々が、聖霊によって一つの体として結ばれたように、聖霊は、私たちを“学び続ける者”へと造り変えます。そして、学び続け、祈り続ける者たちの集まりこそが「教会」、つまり主に呼び集められた人々なのです。


 ペンテコステは教会の誕生日であると同時に、学びの始まりの日でもあります。繰り返すようですが、聖霊に委ねていれば私たちは自動的に成長できる、などということは決してありません。聖霊なる神は私たちを謙虚に「学ぶ者」へと導き、互いに聴き合い、理解し合い、一つの体として歩むように整えてくださる霊です。「この世界をつくられ、私たちを愛し導いてくださる神様」について教わるが必要です。教会こそそれが可能な場所なのです。




ペンテコステ
エル グレコ(
1597年)プラド美術館
聖霊の炎に照らされて驚く
イエスの母マリアと弟子たちが描かれています
ペンテコステを描いた有名な絵画は
イエスの母マリアが中心に描かれているものが多いようです
使徒言行録に使徒たちと共に「イエスの母マリア」が
心を一つにして祈り続けていたと記されています
マリアを教会の母のような存在として
イメージしたのでしょうね

2026年5月17日日曜日

「キリストの願い」(日曜日のお話の要約)

復活節第7主日礼拝(2026年5月1617日)(白)

使徒言行録 1:6~14(新213)  1ペトロ 4:12~14&5:6-11(新433)

ヨハネによる福音書 17:1~11(新202)


 先日のこと、10年前から園の会計を担ってくださった税理士の方が48歳の若さで突然亡くなられました。何かにつけて厳しいアドバイスもありましたが、さまざまな会議にも同席して困難な状況を切り開いてくれました。


 教会運営と幼稚園運営のありかたについて話が及んだ時、「信者数の増加が教会の運営を安定させるならば、私も信者になりましょうか」と、冗談とも真剣ともつかない口調で言われました。こんなに早く亡くなるのなら、もっと強くお誘いしていれば、と思ってしまいます。


 葬儀の最後に、会計事務所が作成した故人の映像を流す予定でしたが、なぜか会場の機械がうまく作動せず、見ることができませんでした。散会する時に、ご家族とそれを作った方に「近々に教会と幼稚園で運営に関する会議が行われるので、その場で上映したい」とお話してみますと「喜んで」と言われました。


 喪主を務められた奥様が「主人から『幼稚園の牧師先生は、映像や音響の機材に詳しい』と聞いていましたから、教会でなら再生できるかも知れませんね」と言われました。彼への恩返しのためにも機材を駆使して上映したいものです。


 さて、本日読みましたヨハネによる福音書17章は、イエス様が十字架に向かう直前に祈られた言葉です。「父よ、時が来ました」。イエス様の言われる「時」とは、身勝手な威勢の良さではなく、父なる神様から与えられる苦しみを全て受け入れた御言葉です。しかしそれは「敗北の時」ではなく父と子の栄光が現れる時として受け止められたのです。


 そして、イエス様は残される弟子たちのために、さらに神様に祈ります。「彼らをあなたの名によって守ってください」。「彼らが一つとなるように」。


 イエス様は、苦しみのさなかでも、弟子達の先行きを気にかけておられたのです。ご自分が天に帰られた後、弟子達はこの世の苦しみや誘惑、争いの真っ只中に放り出されます。ですからイエス様は、ご自分を頼る人々が守られ、力を合わせて一つになれるよう祈り続けて下さったのです。


 イエス様の言われる「一つになる」こととは「仲良くしましょう」「争わないようにしましょう」という表面的な一致ではありません。イエス様が求めた一致とは「父と子が一つであるように」という、神の愛に生きる者たちのの一致です。


 私たちは日常の中でしばしば「分裂」や「対立」を経験します。家庭でも職場でも、教会の中でさえ、分裂を経験する事は珍しくありません。しかしイエス様は人と人には違いがあることを大前提とされ、人間の力だけで一致することはできないと知っておられました。「違いがあるからこそ、神の名によって守られ、神の愛によって一つにされるように」と祈られたのです。


 教会で最も意見が食い違うのは役員会や総会の時ですが、会議を行う目的は、自分の努力のアピールする場ではなく、また誰かの努力不足を糾弾するのでもなく、神の働きによって与えらえる恵みの確認です。報告者が、語る者がそれを深く認識しわきまえていなければ、会議に出席した人々は傷つけ合い、教会らしい一致を失ってしまいます。イエス様はそんな私たちの性質を知っているので、「彼らを守ってください。」と父なる神様に祈ってくださるのです。


 先ほど読みましたペトロ第一の手紙にあるように、信仰ゆえの試練や苦しみは避けられません。しかしペトロは「神はあなたを心にかけてくださる。」と断言します。これは、信仰者にとって最も深い慰めです。


私たちも、病、孤独、家族の問題、仕事の重圧、さまざまな「火で試されるような」苦しみを経験します。しかしイエス様は、私たちが信仰を失わないように、倒れても立ち上がれるように。苦しみの中でも希望を見失わないように祈ってくださるのです。信仰生活は、自分の努力だけで成り立つのではありません。イエス様の願いが、祈りが、いつも私たちを支えている。これほど心強いことはありません。


 イエス様の生涯を振り返りますと、イエス様は公生涯の初めに「出会い」を通して人を変えました。サマリアの女に出会い尊厳を回復しました。ザアカイに出会い人生の方向を変えました。病の人、罪の人、孤独な人に出会い、光を与えました。まだまだあります。皆さんも福音書からいくつも見つけることができるでしょう。


 イエス様は、神様が「その人を救いたい」と願っておられることを察すると、すぐその人に寄り添いました。そして弟子達がそれを学ぶことを願われました。今もイエス様は私たちに向かって「あなたが出会う人を、わたしのように愛してほしい」と願っておられるはずです。これがキリスト教伝道の基本です。


先ほども言いましたように、ペトロは、迫害の中にある教会に向けて「神はあなたを心にかけてくださる」と語りかけています。苦しみの中で人は孤独になり、心を閉ざしがちです。しかしイエス様に学び続けたペトロは、苦しみの中でこそ、キリストのように人と接することの大切さを知っていたのです。


 教会が教会らしくあるのは、苦しみの中での出会いこそ、キリストの愛が最も深く現れる場所であるとしり、受け入れているからです。私たちは完璧になることはできません。だからこそ、自分の弱さを知り、それを抱えたまま、迷いながらも、出会う人をキリストのように受け止めていくことが必要です。そしてそれが、イエス様が願い、祈り続けている「一致」なのです。


 クリスチャンでない方とも何年か関わっていると、だんだん親しくなって、「キリスト教って、そういう風に考えるのですね」と言われるようになります。「礼拝に出てみようかな」と言う方もちらほらおられます。そんな時「興味本位でもいいから、まず一度来てほしい」と思うのです。


 皆さんにもそれぞれにキリストに導きたい方がおられることでしょう。私たちは互いにそれを忘れないでいたいのです。一人一人がキリストの願いを託されたものとして、一致と愛と平和を大切にし、自分に足りない部分を神様に向かって求め、悔い改め、聖書に学び、みことばに励まされながら、日々、歩んで参りましょう。


牧師館として借りている古民家に

茶室があることは以前もお話ししたかと思います


5月10日(日)に、教会員のTさんのご指導のもと

2回目のミニ茶会を行いました

今回は教会員に出席してほしかったので

特に会議のない第二日曜の礼拝の後に設定しました

教会から徒歩で5分もかからないところですが

路地に入り込んでいて、お隣はお寺

とても静かな茶室です

年齢を重ねて正座が辛いメンバーなので

幼稚園の古い椅子を持ってきて腰掛けました

Tさんが最低のマナーだけ教えて下さって

あとは自由にさせて下さったので

おしゃべりしながら柏餅をパクつき

楽しい茶席となりました


Tさん、本当にありがとうございました





2026年5月10日日曜日

「約束の弁護者」(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2026年5月10日)(白)

使徒言行録 17:22~31(新248)  1ペトロ 3:13~22(新432)

ヨハネによる福音書 14:15~21(新197)


 大阪や神戸では、街なかの交差点には必ずと言っていいほどお地蔵さんがありますが、お地蔵さんと閻魔大王は、仏教においては同じ存在で、閻魔大王は地蔵菩薩の化身なのだそうです。裁きを下す恐ろしい閻魔と、子どもを守り人々を救済する優しい地蔵という、二つの顔を持っているそうです。


 ある方は「閻魔さんが地獄から町を監視し、こいつは死んだら地獄に入れると判断する為にお地蔵さんはあるんじゃ」とも言われました。まるで監視カメラですね。もし、闇バイト本部の目の前にお地蔵さんがあって、アジトから出入りするたびにお地蔵さんと目があったら、良心が疼いて犯罪をやめたりしないだろうか。ふとそんなことを思います。


 今の人々は宗教や信仰に対する畏れをなくした世界なのか、宗教の方が形だけになりさがったのかどっちなのでしょう。


 私は最近までよく知らなかったのですが、関東や甲信では「道祖神」をよく見かけます。大きな石に道祖神という文字を刻んであるだけのものもありますが、成人した男と女が握手し、肩を寄せ合い、仲睦まじく、愛くるしい家の形に治められた石像になっているものがあります。


 以前、辰野に節分草と福寿草の花を見に行った時、その町の方に「ここに有名な道祖神がある」と案内されたことがあります。そのお爺さんは、「この道祖神は街の疫病や旅人等を守って下さる」と説明してくださいました。後で調べてみると、現存する最古の「道祖神」は、1505年の室町時代のもので、辰野にあるそうです。もしかしたらこの道祖神だったのかもしれません。


 道祖神は出稼ぎに行く人の旅を守り、疫病を防ぎ、縁結びや夫婦円満の神と言われ、旅人が道に迷った時、特長ある道祖神を見出せば、自分が今どこにいるのか分かる。長野県の道祖神はそんなふうに発達したという言い伝えもあります。


 なぜ、このようなお話をするのかと言いますと、本日の使徒言行録がまさに、私たちの状況を表しているからです。本日読んでいただいた使徒17章22節から31節はパウロがアテネで過ごした時、この町の至る所に偶像を見て憤慨し、町の人々に「イエス様こそ、まことの、唯一の神様である」と力説する場面です。


 パウロがアテネの町を歩いたとき、偶像の中に「知られざる神に」と刻まれた祭壇を見出します。アテネを首都とするギリシャは、遠くない将来にキリスト教を受け入れ、ギリシャ正教が生まれます。しかしこの頃のアテネの人々は、神を知りたいと願いながらも、どこか遠い存在としか捉えられなかったのです。


 しかしパウロは「名前も存在もよくわからない神」に漠然と祈るのではなく、「すぐそばにいてくださり、守ってくださる神」について教え、「神は、私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」と強く語ったのです。そして「神は遠くない。あなたのすぐそばにおられる。」と語りかけました。


 また、イエス様の一番弟子のペトロは、この世の役割を終えて死ねば天国に迎え入れられ、イエス様と再会できると確信していました。しかし、イエス様に対する愛と忠誠心を持って生涯を伝道に捧げ、苦しみの多い人生を歩んだのです。


 そんなペトロだからこそ、イエス様を信じる人々に、率直に励ましを伝える手紙を書き送りました。ペトロの手紙は、信仰に生きる私たちすべての人に時を超えて送られた愛のこもった手紙なのです。


 この手紙を受け取ったのは迫害や不安の中にある信徒たちです。15節には「あなたがたの内にある希望について説明できるようにしなさい。」とあります。迫害の苦しみの中で希望を見出し、迫害してくる相手に向かって堂々と語ることができるよう、キリストが死を打ち破り復活されたことを常に心に思い描き続けなさい、と励ますのです。


 ペトロは直接イエス様から教えを受けた人ですから、その言葉には説得力がありました。とはいえ、2000年後に読んでも今なお生き生きと私たちに迫ってくるよう感じられるのは聖霊なる神様のお力なのです。


聖霊は、恐れに沈む心に勇気を与え、言葉を失う者に語る力を与え、希望を見失った者に光を示し、キリストの勝利を思い起こさせる。そして、キリストを知らない人々から迫害にあう人々に、語るべき言葉を授けてくださる、まさに「弁護者」として働かれる方なのです。


 イエス様はかつて弟子たちに、「私はあなたがたをみなしごにはしない。」と約束されました。そして彼らから不安を取り除こうと、こう約束されました。「神はもう一人の弁護者を遣わす。その方は、あなたがたと共におり、あなたがたのうちにいる。」。


 聖霊は、外側から助ける存在ではありません。私たちの心の内側に住まわれ、そこから導き、慰め、力づける方です。聖霊は、あなたの内に、あなたの心に、今日も共にいてくださる神です。


 私たちが礼拝に集い、祈り、賛美し、御言葉を聞こうと心が動くのは、聖霊がすでに私たちの心に働いているからです。神は、遠く離れた天の彼方におられる方ではなく、私たちの弱さを知らない方でもなく、私たちの祈りを聞かれない方でもありません。私たちに静かに寄り添っておられる方です。そしてその近さを確かに感じさせるために、神は弁護者である聖霊を、私たちの心に与えてくださいました。


 山に囲まれ、色々な宗教もあり、四季の移ろいがはっきりとしたこの南信州で、私たちは日々、神の恵みと守りを受けながら生きています。けれどもまた、どんどんと悪い世界が忍び寄ってきます。


 どうか、あなたの心の内に住まわれる弁護者、聖霊の導きに、愛と平和を示す、イエス・キリストの心と言葉に、今日も耳を傾けてください。父・御子・御霊の三位一体の神様は、遠くではなく、あなたのすぐそばに、そしてあなたの内におられるのです。



昨日は土曜学校でした

常連さん、久しぶりさん、初参加のお友達

合わせて18人がわいわいと集まりました

こんなご時世なので、平和について考えてもらいたくて

小川未明の「のばら」の紙芝居を選びました


工作は母の日プレゼント

お手伝いの保護者の方が2人

教会スタッフは4名

大人達のサポートを受けて

全員作品を作り上げることができました


粘土に綿棒で優しくお花紙を差し込んでいきます
爪楊枝だと勢いよく刺しすぎて穴を開けてしまうので
今回は綿棒を採用

いつものように誇らしげな顔を見てあげてください

久しぶりに来てくれたMさんを真ん中に
記念撮影