聖霊降臨後第13主日礼拝(2026年8月30日)(緑)
エレミヤ書 15:15~21 (旧1206) ローマ 12:9~12 (新292)
マタイによる福音書16:21~28(新32)
知らない町を歩くとき、たまに中世の教会を模したような、豪華な教会を見かけます。しかしそういう建物はかなりの確率で結婚式場です。こういう建物にどんな気持で十字架を掲げるのか、眺めていて不思議な気持ちになることがあります。
キリスト教は最初のうちローマ皇帝から迫害されたため、目立たないよう地下で礼拝を行い、建物自体ありませんでしたし、十字架刑という処刑の象徴をわざわざシンボルに据えることはなかったはずです。むしろクリスチャンの証としては、こっそり地面に魚や羊の簡単な模様を書いてお互いがクリスチャンであることを確認しあったり、キリストの集会に集うものであることを示したようです。
クリスチャンは祖国イスラエルでも、ローマでも、迫害される立場でしたが、イエス様に従って生きることを常に意識し、倫理観や人間性を磨いていたので、次第に周囲の人々を惹きつけるようになり、いつの間にかキリスト者の生き方を受け入れる人々は無視できない数に膨れ上がっていきました。
その影響は、ローマ皇帝にまで及び、4世紀初め、コンスタンティヌス1世が天空に輝く十字架の幻を見て、十字架を掲げて戦をすれば勝てるお告げだと考え、軍旗や兵士の盾に十字架を刻んで戦ったら本当に勝利してしまいました。
この劇的な勝利と奇跡の体験をきっかけに、コンスタンティヌス1世はキリスト教を受け入れ、313年にキリスト教を公認する法令、ミラノを発布し長い迫害の時代は終わり、380年にはキリスト教がローマ帝国の国教となりました。
また、コンスタンティヌス1世の母ヘレナがエルサレムを訪れた際、「イエスの本物の十字架」を見つけたというニュースがローマ中を駆け巡り、本物の十字架とされる木片が細かく分割され、ヨーロッパや中東の教会に配られました。貴族や熱心な信者は、この木片を入れた小さなペンダントを首から下げるようになり、これが現在の「十字架ネックレス」の遠いルーツとなったようです。
5世紀くらいになると、金や宝石をちりばめた美しい「装飾的十字架」が生まれ、十字架が装飾品としても定着していったようです。
しかし、15世紀、宗教改革が始まると、あまりにも華美なものや、イエス様の像をあしらったものは、聖書を基盤とした信仰にそぐわないと考えられるようになり、十字架のデザインもシンプルなものになっていきました。が、十字架はキリスト教の不変のシンボルとなって定着し、教会堂の屋根に十字架が掲げられたり、十字架をあしらった塔が建設されるのは普通のこととなりました。
時代が移り、近年になると、十字架がファッションに積極的に取り入れられるようになり、パンクロックやゴシックファッションなど、宗教とは無関係に用いられるようになり、単なるお守りのような感覚で身いつける人も多くなって現在に至っています。こうして十字架のイメージは一人歩きするようになりました。
では、本来十字架が象徴している「救い主」への思いはどうなのでしょうか。これも実は残念ながら移ろいやすいもののようです。
前回、ペトロがイエス様に向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白したお話をしました。この時ペトロはイエス様が自分を救ってくださる、神様から遣わされた尊い方だと心から信じてこの言葉を発します。そしてこの言葉に偽りがなかったからこそ、イエス様は大いに喜ばれたのです。
しかしそれからあまり時間が経たないうちにペトロはイエス様から「サタン、引き下がれ」と言われてしまうのです。この時イエス様は、ご自分がいずれ祭司長や律法学者たちに捉えられ、十字架にかかって殺されるが、三日目に復活すると初めて弟子たちに打ち明けれました。それは弟子たちを信頼してのことでしたが、非常に衝撃的だったため、ペトロは思わず叱るような口調で「そんなことがあってはなりません」と言ったのです。
ペトロはイエス様が苦しんだり死んだりしなくても、メシアとして栄光や成功を掴めるはずだと思っていました。強い思い込みがあったので、イエス様の言葉の意味や神様のご計画を理解しようとはしなかったのです。この態度はイエス様の御心に叶いませんでした。イエス様はペトロに間違いを気づかさせるために「引き下がれサタン」と言われたのです。篤い信仰を持っていたはずのペトロさえも気づかないほどに、サタンの誘惑は忍び寄ってくるのです。
これは私たちにも同じことが言えます。誰でも、洗礼を受けるときには自分がイエス様に救われた感謝や喜びがあったはずです。イエス様に導かれ、クリスチャンとして誠実に生きた結果として、社会的な地位や成功を得る人もいるでしょう。しかし一度この世の幸せを手に入れてしまうと、それを守ろうとするあまり、今度はクリスチャンでない人々の目を気にして、信仰的な行動が取れなくなってしまう。それが人間の弱さなのです。
イエス様から「あなたの信仰の上にキリストの教会を立てる」と祝福されたかと思えば「引き下がれサタン」と叱責されてしまうペトロの出来事を通して、私たちが、どれほどキリストの愛から離れやすい存在であるかを自覚し、この叱責を自分に向けられたものとしてしっかりと受け止め続ける必要があります。
繰り返しになりますが「十字架」は、現代ではアクセサリーや様々なデザインのモチーフの一つで、元々は大罪を犯した者がかけられた死刑の道具です。イエス様は政府に対する反逆罪として、ローマとイスラエル両方に死刑宣告をされ、十字架にかかりました。しかし、それはやがて私たちの罪の為にイエス様が十字架に掛かり、死んで、償ってくださったのだと信じられるようになりました。そして、それは私たち一人一人を愛しているから、と理解するようになりました。イエス様の行いは自己犠牲と呼ばれるようになりました。
自己犠牲の生き方は、キリスト教の特長的な生き方ですが、なかなか実行できないでしょう。貧しい人や、虐げられた人、困難の中にある人に対し、誰の善意に便乗し、自分が困らない程度に手を差し伸べることは比較的簡単です。しかし、自ら率先して困難の中にある人々と共に歩み、周囲から誤解されても耐え忍び、何を失ってもこれは神様から与えられた使命なのだという信念を持って続けていく、これは非常に難しい生き方です。
しかしそのような心を抱いて生きる人が一つの所に集まる場所、それが教会が教会の始まりであり、わたしたちが受け継いでゆく信仰なのです。
私たちは今、災害や戦争、痛みや悲しみの中にある人々に囲まれるように生活しています。いつ自分の日常が破壊されるかわからず、閉塞感や無力感に苛まれ、未来が見えなくなります。悲惨な情報から目を背けて楽しいことで気を紛らわしたり、無関心に走りたくなることもあります。
それでも、こんな時代だからこそ、イエス様から十字架の愛を受けた私たちは心に十字架を刻みつけ、恥じることなく心のうちにそれを掲げ、前を向いて共に生きてまいりましょう。
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| 「これ、受けるかなあ」とサンプルを作りつつも 何やら心配でしたが、眺めているうちに 間の抜けた顔がちょっと可愛く見えてきて 子どもたちがどんなカメさんを作ってくれるか 楽しみになりました |





