2026年11月1日日曜日

「キリストに報われた人々」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・全聖徒の日礼拝(2026年11月1日)(白)

ヨハネの黙示録 7:9-17(新)

Ⅰヨハネの手紙3:1-3(新) 

マタイによる福音書 5:1-12(新)


 核家族化が進み、高齢者を自宅で看取ることはほとんどなくなりました。高齢者は次々とこの世をさっていきますが、幼いこどもたちが臨終に立ち会あうことはあまりないようす。しかしどんなに幼いこどもでも昨日まで生きていた人が「死」んだと聞かされる時、心が強く揺さぶられたり、悲しみや嘆きが湧き上がるのではないでしょうか。


 近年、動物行動学などの研究が発達したことで、多くの動物が仲間の死に対して深い悲しみやストレスを感じ、人間と非常によく似た行動をとることがわかってきました。


 ただ、動物と人間が違うところは、遠い土地に住む会ったことのない人の命や、自分の命を脅かした敵の命さえ悼むということです。戦争で敵を殺したような場合「殺さなければ殺されたのだ」と、その時は心を麻痺させることもできますが、やがて強い罪悪感を覚え、「自分は人殺しだ」という自己嫌悪と心の傷に苦しむ、いわゆるPTSDもよく知られています。


 人間は神様に作られた、神様の思いを刻みつけられた存在で、それが良心と呼ばれるものです。「この世は弱肉強食、強いものが勝つんだ」と自分自身を納得させようとしても「本当にそうだろうか」という思いは繰り返し湧き上がってきます。


 それは、言い換えれば、神様の前に人の命は皆平等である、ということを心の深いところで知っているからです。これは人間にとって、かけがえのない教えです。神様の前には、生まれながらに重い命も軽い命もない。そう信じるからこそ私たちは生きていけるし、無惨に奪われる命があることを知って、悲しみや悼む気持ちが起こされるのです。


 様々な宗教がある種似た教えを伝えますが、自分自身の生き方と十字架での死を通してはっきりと世に知らしめたのがイエス様なのです。


 本日、お読みした聖書の箇所は「山上の教え」、古くは「山上の垂訓」と呼ばれ、繰り返し読まれてきた箇所で、弟子や群集がイエス様の教えを聞くために山に登ったという書き出しで始まります。


 ここで語られたイエス様のお言葉を直訳すれば「幸いなるかな、心の貧しい人」となり、全て「幸いなるかな」が先に記され、その後に「これこれこういう人は」という語順で語られています。


 この教えが語られたのは、西暦30年過ぎで、ローマという強大な軍事大国が、共和制から帝国主義へと移行した頃です。力を持つものが頂点に立って政治を行うのがベストだと民衆に信じさせようとしていた頃でもあります。


 ローマは市民のために娯楽を用意しました。「パンとサーカス」という言葉をご存知でしょうか。ローマ帝国の皇帝が市民の不満をそらし、政治への関心を薄れさせるために資材を投じてパンを無料で配り、戦車競走や剣闘士試合などの見世物で民衆を喜ばせたことを皮肉った言葉です。当時のローマ皇帝は食物と娯楽さえ与えれば市民は簡単にコントロールできると信じており、実際そういう時代がある程度続いたわけです。


 しかし、きちんとした社会構造が出来上がり、表面的には平和な世の中に見えても、人間が作った枠組みは完璧ではありません。その社会の中で、それなりの豊かさを享受しながら満足して生きられるかといえば、そういう人ばかりではなく、仲間を蹴落としてでももっと満たされたい、もっと幸せになりたい、という思いを抱く人は必ずいるのです。


 そして「もっともっと」という思いに囚われてしまった人は、決して満足することはなく、心穏やかに、幸せに過ごす人生からどんどん離れてしまうのです。


 だからと言って、イエス様は聖書の中で「そこそこの幸福で満足しなさい」と言っている訳ではありません。むしろ全く違う価値観を私たちに与えようとしておられるのです。


 「山上の説教」の全てをここで取り上げますと長くなってしまうので、本日は最初に書かれている「心の貧しい人々」についてお話しいたします。イエス様の言われる「貧しさ」とは、「権力や富だけでは、人は幸せになれないことを知っている人」と言い換えることができます。言うなれば、自分が幸せになるには、この世の力だけでなく、神様の助けが絶対的に必要であることを知っていて、神様に導いていただきながら生きている素晴らしさを知っている人のことなのです。


 イエス様は、この「山上の説教」の中で、人間の幸せは世間的な豊かさや成功ではなく、神様の恵みによって心が満たされている状態なのだと教えておられます。

 人生で経験するの辛さ貧しさ。もう神に祈る他に道はないとしか、そのような出来事に遭遇した人は、イエス様の教えの内に生きる道を見いだし、どうにもならない問題を神様に委ねつつ、同じ信仰仲間と寄り添うことを覚えていきます。そしてやがて他者の痛む心をいたわることの必要にも目覚めていくのです。


 私たちが、この教会で、こうして先に召された方々の在りし日の姿を思い起こすとき、お一人お一人の中にイエス様の教えに従って生きようとした足跡を見ることができます。


 日本は、戦後の貧しかった世の中から這い上がり、高度経済成長を作りだしました。そのような時に、キリスト教信仰に触れ、信仰を持った人もいます。ただ、海外、特にアメリカの恩恵を受け、宣教師の生活スタイルに憧れて教会へと導かれた人々の多くは、日本が平和、安定した世の中になって競争社会に突入すると、当然のように教会から離れていきました。


 けれども、ここに並んだお写真の方々は、イエス様の教えを尊び、神様から与えられた家族を愛しつつ、教会にとどまった人々です。


 この方々の人生と歩みは、殺伐とした社会においては、大きな評価を得られることもなく、努力や費やした時間に応じた報いもなかったかも知れません。けれども私たちは知っています。強いもの、長いものに巻かれろ的な風潮に翻弄されても、その心を奪われなかった方々は、キリストが天国で報いてくださるのです。「幸いなるかな」と、お一人お一人の名前を呼んで天国に迎え入れてくださるのです。


 ですから、私たちは故人のお写真を見て、ただ「死を悼む」のではありません。この世においては報いの少ない歩みをしているかもしれない自分自身であっても、いずれ天国において、先に召された人々と再会し、報いとして「幸いな時」をもつことが約束されているのです。



本日は「全聖徒の日礼拝」でした。

キリストを信じ、天に召された方々や、信徒のご家族で教会にゆかりのある方々などのお写真を礼拝堂に飾り、天においても地においても、共に礼拝できることを神様に感謝する日です。


実はこの日は宗教改革と密接なつながりがあります。

宗教改革以前、11月1日はカトリックで「諸聖人の日」と呼ばれ、ヴィッテンベルク城教会で大量の聖遺物が一般公開される伝統があり、国内外から多くの人が町や教会に集まりました。

この教会に通っていたルターは、より多くの人々の目に触れるようにこの前日を選んで『95か条の提題』を貼り出し、これによって宗教改革の運動に火がつきます。


巷では10月31日は「ハローウィン」。

お化けや魔女の仮装をして賑やかに過ごす人が多いのですが、個人的にはは、そういったお祭りに加わるのではなく、キリスト教を正しい方向へと導くために尽力し、時の権力者から処罰された人々の勇気と信仰に思いを馳せ、静かに祈りを捧げたいと思っています。



何だか慌ただしいですが、教会の暦では
11月29日からイエス様のお誕生をお祝いする
クリスマスの準備期間「待降節」
(アドベントとも言います)が始まります
…といっても、世の中の方がきっと
もっと早くクリスマスの飾りや
小物を売り出すのでしょうね(^^:)
(先日行ったニトリでもすでにツリーが並んでいました)

ということで、土曜学校でも
世の中より少し遅れて
小さなツリーを作ることにしました
白いモールを使ったモコモコツリーです
小さい子どもたちでも作れるよう
可能な限りパーツを準備してお待ちしてます

2026年10月25日日曜日

「愛と奉仕で我ここに生きる」

聖霊降臨後第22主日礼拝(2026年10月24日)(緑)

レビ記 19:1-2&15-18(旧)

Ⅰテサロニケの信徒への手紙2:1-8(新) 

マタイによる福音書 22:34-46(新43)


 本日の礼拝は宗教改革記念日も近いので、500年と少し前、マルティン・ルター、つまり私たちルーテルの教会の元を築いたルターが大きく関り、世界のキリスト教事情が大変革した出来事に触れてまいります。


 500年前のキリスト教は、今のカトリック教会の古い姿ですが、政教分離どころか、ヨーロッパ社会のほとんど全てを支配していて、教皇は諸国の王の上に君臨していました。ですから教会を変革を試みることは、社会秩序を乱す大きな罪と見なされました。


 当時、カトリック教会は、主にサン・ピエトロ大聖堂の改築費用を集めるため「贖宥状」、いわゆる免罪符を販売していました。これを買えば罪が赦され、地獄に行かなくて済む、と宣伝したのです。


 ルターは修道士の傍ら、大学で教授として聖書を深く研究し、学生にも教えていましたから「お金で救いや喜びが買えるかように教えるのは、イエス様を侮辱することであり、神様が最もお嫌いになる愚かな考え」だとわかっていました。こんな考えが広まればキリスト教は堕落しきって、いずれ崩壊してしまう、と強い危機感を覚えます。そこで1517年10月31日にヴィッテンベルクの城教会の扉に教会の間違いを指摘した『95箇条の提題』を掲げたのです。


 興味深いことに、同じ時期に印刷機が発明され、書籍が出版できるようになったので、これを活用し、自分と考え方の似ている学者同士で議論するため、『95箇条の提題』を発表し、その後もいくつかの本を出版しました。


 しかしカトリック教会がルターをそのままにしておくはずもなく、1521年に、神聖ローマ帝国、現在のドイツですが、そこのボルムスという町で宗教裁判を受けさせるために呼び出します。その裁判で、ルターに出版したすべての本を否定し、撤回するよう迫ったのです。


 宗教的リーダーや国の支配者は、被告人ルターが「私がわるうございました、間違っていました、もう大学の教授や教師は辞め、宗教改革運動から手を引きます」と言わせようとしたのです。


 そしてもしルターがこれを受け入れない場合は、誰がルターを殺害しても罪に問われない、と決められてしまいます。ルターが裁判所から一歩出れば命の保障はない、誰に殺されても文句は言えないのです。そして権力者の側は被告人ルターのことを殺す気、満々でした。


 ここにきて、ルターは神様のために正しいと思うことをし続けるか、信念を曲げて自分の命を守るか、という究極の二択を迫られたのです。ルターは一晩悩みに悩み、翌日、裁判の場で語ったのが「我ここに立つ」という有名な言葉でした。この言葉はその前後も重要な言葉なので、それを含めてご紹介します。


 「私の良心は神のことばの虜です。良心に反して進むことは安全でも正しくもないため、私は何も撤回できないし、するつもりもありません。ここに私は立ちます。これ以上どうすることもできません。神よ、私を助け給え。アーメン」


 ルターは、自分が宗教改革へと召されたのは、自己顕示欲などではなく神様の導きだから、神様が自分に「やめろ」とおっしゃらない限り、神様に与えられたこの使命を貫き通すと覚悟を決めたのです。


 命懸けの宣言であるこの言葉は、心の中にイエス様が住んでおられるクリスチャンなら、みな胸が熱くなるはずです。元々宗教改革に理解を示していたザクセンの領主フリードリヒもその一人で、彼はルターを守るためにあえて誘拐するような形で連れ去り、自分の城に匿います。ルターはここで、ラテン語でしか読めなかった聖書を、民衆でも読めるようドイツ語に翻訳していきます。こうして宗教改革はさまざまな理解者を得て前進していったのです。


 さて、本日の福音書では、ユダヤ教の律法の専門家が、イエス様に質問します。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょう」


 当時の律法には613もの掟がありました。律法学者たちはこれらの掟をどのように整理し、どれを最優先すべきか神様そっちのけで日々議論を交わしていたそうで、本気でイエス様の意見を聞きたかったわけではなく、イエス様を陥れようとしただけでした。彼らの頭の中は地位や名誉への執着でいっぱいだったのです。


 イエス様は、そんな彼らに向かって、神を第一に、大切にしなさいというだけでなく「神様を愛しなさい」と強調されました。それは神様を盲目的に崇拝したり、熱狂的に畏れ敬うのでなく、情熱を持って、命をかけて、ただし知性や思考、判断力を持った上で、自分の生活の中で神様を最優先にする、という考え方です。


 そして、もう一つ大切だと宣言されたのが「隣人を愛しなさい」という御言葉です。椅子取りゲームではありませんが、自分の隣に座る人が、尊敬に値するとか、仲良くできるタイプとは限りません。そんな時も、まず神様が自分を無条件に愛してくださっていることを思い出し、神様への感謝の印として隣人を大切にする、ということなのです。


 「ヨハネの手紙一」4章20節には、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」という、ぐさっと刺さるような御言葉が記されています。それは単に「みんなと仲良くする」とか「誰に対しても好意を持つ」ということではありません。それは感情に左右される人間には鼻っから無理なのです。そうではなく、仮に日頃の価値観が違ったり、相容れない相手であっても尊重し、その痛みに共感し、相手の幸せのために具体的な行動を起こすことです。


 イエス様は別の聖書箇所で、「良きサマリア人」の話を通して「今、目の前で困っている人、助けを必要としている人」のすべてがあなたの隣人であると教え、奉仕の大切さを説いててくださいました。


 今お話しした一つ一つの御言葉は、聖書に記されて受け継がれ、ルターたちの宗教改革を経て、誰でも読めるようになりました。聖書は知恵に満ちています。そしてイエス様の示してくださった生き方は難しいようでいて、互いを尊重し合うことでこの世を住みやすくできることを教えてくれています。


 今、まさに難しい時代がやってきました。世界では一握りの権力者たちが武力や経済力に物を言わせて弱い物を踏み躙り、ヨーロッパでは暴動が広まり、AIの世界は一般人には理解できないレベルの不正なアクセスが生活を侵害しています。


 あれ、私たちが想像した近未来は誰もが愛と平和を享受する世界ではなかったのか、溢れる情報が互いに人を弱らせ、傷つけている。

 

 ニュースを見るたびに気持ちが暗くなり、社会に背を向けて楽園はどこかにないものか、と探しに行きたくなります。しかし心が折れてしまいそうなことばかり起きる今だからこそ、私たちも神様に示されたここに立ち、社会の只中にあって、愛と奉仕の思いを大切にし、与えられた信仰に生きるものであり続けましょう。



本日の礼拝で予定通りリーベクワイヤの皆さんに賛美演奏していただきました
ありがとうございます
小さい礼拝堂なのでベルを置くための長机を3本置くと
礼拝堂の幅いっぱいになってしまいます
縦に並べたり横に並べたり、少し斜めに並べたり
毎回あれこれやっていますが
今回の横幅いっぱい、やや斜め
出入りはサイドのピアノ教室から
というパターンが一番いいかもしれません
リーベさんにはクリスマス礼拝も演奏していただく予定です
みなさま、どうぞ聴きにいらしてください


「横幅いっぱい、やや斜め」のパターンで机を並べました


飯田教会「みんなのトピックス」最新号です
お読みいただけたら幸いです

2026年10月18日日曜日

「神のものは 神に返す」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第21主日礼拝(2026年10月18日)(緑)

イザヤ書 45:1-7(旧1135)

Ⅰテサロニケの信徒への手紙1:1-10(新374) 

マタイによる福音書 22:15-22(新43)


 みなさんは「政教分離」とか「信教の自由」と言う言葉をお聞きになったことがあるでしょう。正確には「政教分離の原則」と言います。国が特定の宗教だけひいきしたり、特定の信仰を強制するのを防ぎ、信仰を持つ人も持たない人も尊重する、という考え方です。


 しかし、日本においては結局それは建前で、キリスト教は冷遇されてるなあ、と感じることは多いのではないでしょうか。


 テレビなどでたまに、「うちの会社はイスラム教の人たちのお祈り時間に配慮しています」といった報道を見ることがありますが、「うちの自治体はキリスト教徒の礼拝時間に配慮しています」というニュースは聞いたことがありません。


 信教の自由が憲法で保障されているとはいえ、あくまで日本の風習や慣例を損なわないようにやるのが前提で、町や地区の行事も当然のように日曜に設定され、キリスト者が礼拝に出席できないと嘆いても、「たまに休むくらいいいじゃないですか」という風潮です。その一方で「ルーテル幼稚園や教会は本物のクリスマスをこの地域社会に知らせて欲しい」と言われる事もあって、「どっちやねん」と悩ましい限りです。


 結局のところ、日本のキリスト教は信仰者一人一人がしっかりと考えて神様に繋がり、矜持を持って自分の行動を決めていかなければ、潰されてしまいます。世間に合わせて流されていたら教会そのものが消えていくのです。


 このような宗教と国家の問題は、もちろん日本の問題だけではなく、世界中の歴史の中で、繰り返し繰り返し問題となってきました。本日の福音書にも、そういった側面が出てきます。


 イエス様の時代はイスラエルはローマとの戦いに敗れ、属国として支配されていました。イエス様がお生まれになったのは、アウグストゥスがローマの皇帝となった時代です。ルカ福音書のクリスマスストーリーに「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出た」と書かれている通りです。


 アウグストゥスは通貨制度を整備し、確立させた人物で、金貨や銀貨の表面に自分の横顔の肖像を刻み、裏面には政治的・宗教的な図案を刻印して、ローマが支配しているさまざまな国に流通させました。


 しかし、イスラエルでは皇帝の肖像は偶像と見なされ、これが刻まれたコインは不浄だと、神殿で神様への献金に用いることは絶対にしませんでした。ではどうしたかというと、両替商というビジネスを立ち上げ、神殿の境内で手持ちの通貨を両替したのです。ここからまた汚職が発生するのですが、説明が長くなりますので、本日は本日の聖書箇所に集中して参りましょう。


 本日の福音書には「ヘロデ党」が登場します。彼らはヘロデの一族が王としてユダヤを統治する事ができるなら、皇帝の腰ぎんちゃくになる事も厭わない人々でした。今、平和なのはローマ皇帝に上手に取り入ってきた来たヘロデ一族のおかげだ、ありがたく思えという、なかなか世俗的な考えを持っていたのです。


 一方、ファリサイ派はそんな世俗的な汚れや異教的文化から距離を置くユダヤ教の有力な宗派です。イスラエルの王は主なる神のみであって、ローマ帝国の支配などは排除したい、と考えていました。ですから対立を避けるためとはいえ、できる事なら皇帝への税金など納めたくない、と思っていました。


 ファリサイ派とヘロデ党はいつもは対立する組織でした。それが、イエス様が民衆から人気を得ているのが目障りになったので、手を結び、言いがかりをつけてイエス様の抹殺を計画したのです。


 まず、イエス様に対し、歯の浮くようなお世辞を並べ、理論武装した上で罠にかけようとしました。それが「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問でした。


 もしイエス様が「神の民であるユダヤ人は皇帝などに税金を納めるべきではない」と答えるなら、ヘロデ党の者たちが、ローマへの反逆だ、と騒ぎ、ローマ総督に訴えることができます。逆にイエス様が「ローマへ税金を納めなさい」と答えるなら、今度はファリサイ派が「イエスが、実はローマの支配を受け入れて、それに従えと言っている」とイエス様をおとしめる事ができるのです。


 この質問は、イエス様を陥れるための醜さに満ちていましたが、イエス様はそれを格調高いものへと変えてくださいました。イエス様はまず、このコインに刻まれている肖像は誰か、と質問されます。あさはかなファリサイ派とヘロデ党が「皇帝のものです」と答えるとイエス様はおっしゃいました。


 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」


 聖書には、「これを聞いたファリサイ派とヘロデ党は驚き、イエス様をその場に残して立ち去った」と書かれています。彼らをこれほどまでに驚かせ、退かせたイエス様のお言葉には、どのような意味があったのでしょうか。


 ここで私たちが先ず第一に考えなければならないのは、「神のもの」とは何か、という事でしょう。


 創世記27節に「神は人を自分のかたちに創造された」と記されています。これはユダヤ教徒なら誰でも知っている御言葉でした。当然ファリサイ派とヘロデ党も子どもの頃から叩き込まれてきた考え方です。また、彼らはイエス様の揚げ足をとるために遣わされたのですから、その辺のならず者ではなく、イエス様が言わんとしていることにハッと気づくだけの教養があったのでしょう。


 このイエス様の言葉をあえて言い換えるなら、「人間とは神様の形が彫り込まれたコインのような存在である」人間の心には、目には見えなくても神様のお姿が刻み込まれている、私たち一人ひとりは神様のものだ、という事なのです。


 イエス様は「皇帝が払えというのがユダヤの秩序を保つために必要なら払ってやりなさい」と言われた上で、「しかし、私たちは神様のものなのだから、その良心や信仰まで渡してはいけません」とおっしゃったのです。


 質問者たちは、自分達がどうでも良いような質問でイエス様をおとしめることは、神様の御心ではないことに気付き、自分の底の浅さが恥ずかしくなって逃げ出したのでしょう。これはいかにもイスラエルらしい問答と言えます。


 残念ながら、イエス様は胸を打つ回答をしたにも関わらず、やはり、神殿やローマ帝国に叛逆を企て、世の中を騒がせたという罪を被せられ、十字架につけられ死刑になってしました。正しいものが正しく評価される事が少ないのは、政治や経済利益が優先される社会では、昔も今も変わらないことかも知れません。


 しかしイエス様はこの世の権力に屈したように見えて、復活と天国を堂々とお示しになり、私たちは永遠に神のもの、天国のものであると教えてくださったのです。

 私たちは、すでにイエス様を信じて、神のもの、永遠のもの、神の国のものになっています。改めて、神のものは神にかえす、その御心通り、誰かからの、どっちつかずの質問にもめげず、神にものとしての人生を歩むことを喜びといたしましょう。


秋から冬にかけて、教会は行事が目白押しです

来週10月25日は宗教改革記念礼拝

リーベクワイヤさんのハンドベル特別賛美があります


昨年のリーベクワイヤの演奏


11月15日は子ども祝福式
ルーテルキッズバンドのメンバーは田中としやさんの
指導のもと「私と小鳥と鈴と」を練習中
他にはこども讃美歌「コスレボナヨ」や
「海と空 つくられた主は」「花も」を練習中です
少しでも多くの方が礼拝に出席して
賛美の時間を共にしてくれますように