2021年7月19日月曜日

キリストの憐れみ(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝(2021年7月18日)

詩編23編  マルコによる福音書6章30-34節


「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」で始まる詩編23編は、欧米の映画やドラマでは良く用いられていますし、日本に暮らす私たちキリスト者にも馴染みのある聖書箇所だと思います。美しく心に響き、渇いた魂を慰め、逆境に置かれた信仰者を励まします。この詩は、羊飼いと羊のイメージを通して、神の家で過ごす憐れみと恵みに満ちた日々を強い信念を持って期待し、歌い上げているのです。


 作者は、イスラエルの英雄、ダビデ王とされています。イエス様の先祖の系図に名を連ねる人物です。ダビデは王様となる以前、ベツレヘムの羊飼いの家に生まれ、羊飼いとして生きてきました。彼は幼い時から、羊を守るためなら野獣とも命がけで戦い、慈しんで世話をしてきました。羊飼いは強靭な体だけでなく、どこに餌となる青草が生え、どこに飲み水があるかという知識も必要です。一匹一匹の名前や性格を知り尽くし、愛と威厳を持って羊たちを導くのです。


 ダビデの生涯は波乱に満ちていました。ダビデがまだほんの少年であった時、神様は彼がいずれイスラエルの王となるよう選ばれます。やがて勇ましい戦士となったダビデはイスラエル初代の王様サウル王の次女の娘婿となりますが、サウル王の嫉妬によって命を狙われ、ユダの荒れ野をさまよい、何度も命を失いかけました。それでもダビデの方からはサウル王の命を狙おうとしなかったことは聖書の中で高く評価されています。

 やがてサウル王が他民族との戦いで戦死したことにより、ダビデの放浪は終わり、イスラエル王座に就きます。すると彼は戦に連戦連勝、周辺諸国を従えてイスラエルを発展させ、良い政治を行いました。ただ残念なことに、たくさんの妻や子がいたため、王位継承は揉めに揉めました。

 さらには人妻と不倫の関係に陥り、彼女の妊娠をごまかそうとした挙句、その夫を戦地に送り込んで戦死させたことすらありました。さすがにこの時は神様も預言者ナタンを通してダビデを叱りつけました。


 その時預言者は「貧しい人がたった一匹の羊を自分の子供のように慈しんでいたが、ある金持ちが客をもてなすのに自分の羊を提供するのを惜しみ、貧しい人の羊を取り上げて殺し、自分の料理に使った」と話します。ダビデはそんな身勝手な金持ちは死刑だと憤りますが、「その金持ちとはあなたのことです」と指摘され、自分の犯した罪の深さに気づきます。彼は深く悔い改め、神の憐れみを求めました。その心情を詩編51編に綴っていますので、お時間のある時、読んでみてください。

 このように、ダビデ王という人物はざっくりいうならば、神に愛され、彼自身も信仰心が篤く、才能にあふれる人物ではあったけれど、欠点もまた多かった、ということになるでしょう。


 話を詩編23編に戻しましょう。ダビデは自分自身の欠点を知り、それでも「あなたがわたしと共にいてくださる」と歌い上げました。神と人の関係を、自分が熟知している羊飼いと羊の結びつきにたとえたのです。羊は羊飼いとの関わりが深くなれば深くなるほど、羊飼いに全幅の信頼を寄せ、自分の命をゆだねます。その時、自分は自分が羊飼いにとって役に立つ羊だろうか?などと考えません。

 羊が生きていくためには、自分を最も愛しているのが誰なのかを知ることが何より大切なのです。私のために戦ってくれる羊飼いがいる。この羊の性質を引用しながら、ダビデは、自分のダメさ加減も全て受け入れ、愛し、守ってくれる主がいる、神がいる、と私たちに伝えてくれたのです。


 詩編23編がキリスト者に愛されるのは、ダビデのこの思いに共感するからでしょう。キリスト教信仰に生きる私たちにとって、最も安らげる道は、イエス様に愛されていると知ることです。何か特別な才能があるとか、一生暮らしていける財産を持っているとかいうことではなく、今のこの私を神ご自身が、イエス様が憐れみ、愛し、導き、守ってくださり、溢れんばかりの恵みを与えてくださる驚きを、感謝を持って受け止め、歩んでいくことなのです。ダビデは、23編の終わりに「主の家にわたしは帰り」と記しています。「私は主の家にとこしえに住む」それはダビデにとって最も幸せなイメージだったことでしょう。


 そんなダビデは、王様としてひとまず国が安定してきたと見るや、神様のために豪華な神殿を建てることを計画します。しかし神様はそれを止め、神殿建築は次の王、ダビデの息子ソロモンに譲るように、とお命じになります。神はダビデにこのように言われました。「なぜ私のためにレバノン杉の家を建てないのか、といったことがあろうか」、つまり「あなたに立派な神殿を要求したことはない」と言われたのです。そして「あなたがどこに行こうとも、私は共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断つ」と宣言してくださいました。

 ダビデはこの出来事を通して、主に向かって祈るならば、その場所がどおであろうと、主は耳を傾け、答えてくださることを改めて確信したのです。この出来事から私たちは、たとえ神殿や礼拝堂にいなくても、神は祈りを聞いてくださる、という信仰を得ることができるのです。


 今、私たちは新しい礼拝堂を作る使命を委ねられています。どうしても資金のことが頭をよぎりますし、迷いや悩みがたくさん生まれます。だからこそ、私たちは主が共にいてくださり、キリストご自身がわたしたちを慈しんでくださることを繰り返し思い出し、自分たちにできる最善を尽くして計画を進めてまいりましょう。

 私たちのすべてをご存知であるイエス様の憐れみを受けつつ、安らぎを得ながら、歩んでいこうではありませんか。



保護者の方から了解を得たので
11日の賛美礼拝の写真を追加しておきます
よかったら見てくださいね










2021年7月12日月曜日

「オネシモ物語」を上演しました

新約聖書「フィレモンへの手紙」より

7月11日の礼拝は
予定通り特別賛美礼拝として「オネシモ物語」を上演しました

コロサイに住むフィレモン家の奴隷だったオネシモが
自由を求めて逃亡します
紆余曲折を経て、逃亡先のローマで軟禁されていたパウロと出会い
回心に導かれます
キリストを知ったオネシモは、本当の自由とは何かを知り
厳罰を覚悟の上で
再びフィレモン家に戻っていく、という物語です

出演者が全員揃うのは当日朝のリハーサルだけ
各パートごとに練習を重ねました

基本、朗読劇なので、出演者は座ったままセリフを読みます
園の先生方は園児相手に鍛えた声で
会堂に声を響かせてくれました。
場面場面で子ども聖歌隊&先生バンドが賛美します
子どもたちも最後の方でちょっとずつセリフあり(^^)

この日は梅雨の終わり近くの晴れ間と言うのでしょうか
とんでもない暑さ!
古い会堂には冷房設備がなく
体調不良が心配されましたが
飲み物を大量に用意し
クーラーのある保育室を休憩室とし
看護師経験のある教会員に
体調管理をお願いしました

暑さで子どもたちのパワーが
いつもの三分の一くらいになってしまったのは
残念でしたが、無事に終えることができました
体調不良になった人もおらず安心しました

お骨折りいただいた皆様、本当にありがとうございました。



リハーサルのエンディング
この時はまだまだ元気いっぱい


本番のラスト近くです
「ハレルヤ私はクリスチャン」を賛美
暑さでいささか参った表情になっていますが
最後まで頑張りました



原案はこの本です
優子姉が洗礼を受けた直後に教会の本棚で見つけ
牧師先生からいただきました
今回はここから書き下ろしてもらいました

2021年7月7日水曜日


次回の礼拝は特別賛美礼拝です
と言っても、ゲストを
お招きするのではなく
教会のこども聖歌隊と
幼稚園の先生方が出演します

なかなか一緒に練習できないので
全員揃うのは当日のリハーサルのみ
みんな全集中!笑顔で頑張ろう!

2021年7月5日月曜日

イエス様の悲しみ(7月4日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第6主日礼拝(2021年7月4日)
エゼキエル書2章1-5節  マルコによる福音書6章1-6節


本日の聖書箇所は教会の説教ではよく「ナザレでは受け入れられない」という表題でお話されるところです。時折、「どんなに立派なことをしても言っても、小さい頃に泣き虫だったりやんちゃだったりした様子を知っている人には頭が上がらない」ということですよね、と感想を述べる方がおられます。

 しかしイエス様は神の御子ですから、幼い時から神様を信じ、神様から離れず、神様の導きに従って、歩み続けました。わがままをいって親を困らせたり、理不尽な兄弟喧嘩で弟や妹泣かせたり、といった人間の幼子とは全く違う子ども時代を過ごされたはずです。大人になって、近所の人々から「あのときのイエス君と来たら…」と、暴露されて困るようなことはなかったと思うのです。

 人としてのイエス様は、父親であるヨセフを早くに亡くしたとされており、長男として弟や妹を養う必要がありました。ヨセフの木工技術を引き継ぎ、聖書の記述から見て8人以上の家族を養いました。

 イエス様は幼い頃から神の教えに精通していましたし、人格的にも優れた存在だったはずですが、世間から見れば「なかなかよくできた一般家庭の長男」にすぎなかったのかもしれません。


 さて、この日、イエス様はご自身が幼い頃より通いなれた会堂でお話をされました。そのお話には誰もが感じ取れる権威がありました。それは他でもない神様の権威であり、この権威は、本来なら有無を言わさないほどの、強い権威であるはずでした。しかし彼らはそれを素直に受け止めることができませんでした。彼らの心は「大工のイエスがなぜこんな話ができるようになったのか」という疑問でいっぱいになり、それ以外のことを受け付けられなくなっていたのです。

 その上、イエス様に敵対する人々が、イエス様の奇跡や不思議な業や力強い言葉は、神様の力ではなく、ベルゼベルという悪霊の頭の力を使っている、という噂でを流しました。

 イエス様は、誤解を解き、神様の救いに素直に預かれるよう、身近な人々を導くことを望まれました。しかし、その愛は受け入れられることも理解されることもありませんでした。

 ルカ福音書の4章にも、本日のマルコ福音書と同一の記録があります。その記録は非常に過激で、イエス様がナザレ人々によって崖に連れていかれ、突き落とされそうになったと書かれています。 イエス様の教えを受け入れることのできなかった彼らは、神様の真の教えも愛も受け入れることができなくなってしまったのです。


 人間の命は限りがありますし、その命さえ、いつまで生きていられるのか知ることができません。当たり前のような顔をして生きていても、心の奥底には不安が渦巻いています。悲惨な事件や事故が起こると、信仰を持っていても、この出来事は、神の罰ではないか、と思うことがあります。絶望の深さによっては、もはや神はいないとまで、言い切ってしまうことすらあります。イエス様そのような人間を救いに導きたいと徹底的に願われました。

 ですからイエス様は、そのご生涯をすべて人々のためにささげられました。その中には、罪人もいれば心や体の病に苦しむ人もおりました。社会からはみ出し、見捨てられ、絶望していた人々たちでした。

 その時代のすべての人が彼らを人を見捨てたとしても、イエス様は彼らを見捨てませんでした。彼らがからし種の一粒ほどでも信仰を持って求めるならば、イエス様は喜んで癒しや社会復帰の道を与えられました。

 イエス様は荒れ狂う湖の波や風を鎮めることがお出来になりますし、悪霊を追い出したり、死んだはずの少女の命さえ取り戻す力をお持ちでした。

 イエス様のなさるすべての奇跡には目的がありました。神様は世界にあるすべてのもの、命も自然も創造を支配しておられること、そのお力を持ってすべての人を愛そうとしておられること。イエス様はそれを誠実に証しするため、数々の奇跡を行われました。

 そのイエス様が、5節には「奇跡を行うことがお出来にならなかった」と書かれています。「お出来にならなかった」というのは、ナザレの人々はそれほどまでに強烈に神様を拒んだ、ということです。イエス様は驚かれるとともにに深く悲しまれたのです。自分の身近な人に殺されそうになった事実は、誰であれ、大きな驚きと苦痛を感じます。イエス様は人の心と肉体を持つ神様ですから、誰よりも悲しみと苦しみを感じられたことでしょう。


 人の不信仰というものは、イエス様を驚かせ悲しませ、その奇跡の力すら阻んでしまうほどに恐ろしいもの。この出来事はそう伝えているのでしょう。

 キリスト教の歴史においては、神様の名のものとに数々の過ちが行われました。互いにイエス様の名を掲げていても、建前や権力欲第一で戦うとき、信仰は脇に押しやられてしまいますから、イエス様もお手上げということになりかねません。人間のそんな愚かさはイエス様を驚かせ、悲しませ続けるのです。

 しかし私たちが神の愛に生きる時、この世が、この社会が、私たちに関わる人すべてが変わります。すぐには結果は出ないかもしれませんが、神様に、この地上での生涯の歩みをゆるされるかぎり、時間をかけて、「誰も悲しませることなく」イエス様を中心とした神の国を、ここに実現させて参りましょう。



7月3日は月一回の土曜学校の日でした。

飯田では一ヶ月以上コロナ感染者の発表がありませんので

感染対策に神経をとがらせつつも

楽しく実施することができました。

この日は18名のお友達が参加。


今まで工作の時は「先生アレは〜?」「先生コレは〜?」と

あっちこっちから上がる声に振り回されていましたが

先月から教会の皆さんが色々とお手伝いくださるので

グループに分かれて楽しく作業を進めることができました


今月の工作は万華鏡です


まずは礼拝から
今月の聖句はルカによる福音書6章31節
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
牧師先生は最近読みやすい字を書くことにこだわっています

テーマに沿ってお話しです
紙芝居や視聴覚教材の絵を利用しながら
オリジナル展開に持っていくのがお得意の優子先生

さて工作です!
まずはビーズを選びます
散らばらないよう紙皿の上で
真剣に選びます

付属のカプセルの中に
こんな風にビーズを入れて蓋をします

ビーズを選び終わったら
ミラーシートを貼り合わせます
万華鏡の心臓部
真剣にミラーシートの保護フィルムを剥ぎます

紙筒に入れて組みたてれば一先ず完成
ここから20分かけて紙筒を思い思いにデコります(^^)

どのグループも力作が出来上がりました
代表でこのグループの写真をご紹介

来月は8月7日の予定
「なんちゃってローズウインドウ」を作る予定です


2021年6月28日月曜日

神の力と出会う(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第5主日礼拝(2021年6月27日)

哀歌3章22-33節  マルコによる福音書5章21-43節


 本日の福音書はヤイロの娘のいやしの話と長血を患う女の人のいやしの話が複雑なパズルのように入り組んでいます。2つのいやしの出来事が同時に起こってしまい、弟子たちがてんやわんやの状態だったようです。


 当時、「出血が止まらない」病を負った女性は、社会だけでなく、礼拝に出ることも、人前に出ることすら許されない律法がありました。(旧約聖書レビ記15章25節)斧病に限らず、古代、原因のわからない病や、治療の見つけられない病は恐怖の対象でした。祭司や律法学者、ファリサイ人は、そういった人々を哀れむよりも、何か罪を犯したので神様の怒りを買ったのだ、と決めつけ、隔離されたり共同体から追い出したりしたのです。

 しかしイエス様は当時の人々にとっては得体の知れない病でも、奇跡の力で癒しの技を行いましたし、悪霊に取りつかれた人々や、精神的な病を負った人々も癒し、社会生活に復帰できるようになさいました。


 本日登場した女性は、どこかでそのようなイエス様の噂を聞いて、居ても立っても居られなくなったのことでしょう。彼女はこの病を治すために、長い間役に立たない治療によって苦しめられ、ますます症状が悪化し、財産さえもすっかり無くしてしまいました。彼女に関わった医者の誰かが、イエス様に取り次いでくれれば良かったのですが、彼女の周りにはそうした医者達はいなかったようです。

 このまま閉じこもっていても何も変わらない。彼女は一大決心し、人込みに紛れてイエス様の近くに行くことにしました。「イエス様の服に触れることさえできれば癒していただける」彼女はそう信じたのです。


 ちょうどその頃、ユダヤ教の会堂のリーダーであるヤイロが娘のいやしを求めて訪れ、イエス様とその弟子達と共に自分の家へと急いでいました。イエス様の噂を聞きつけた町の人々も、押し合いへし合いしながらイエス様一向について歩いていたと書かれています。

 病の女性は人混みに紛れ、後ろからそっとイエス様の服に触れます。その時、イエス様は誰かが信仰を持ってご自分に触れたことを感じ取られます。イエス様はすぐさま振り返り「私の服に触れたのは誰か」とおっしゃいました。イエス様は群衆に取り巻かれていましたから、弟子たちは「見つけることは不可能です」と言いました。

 しかし、イエス様は自分に触れた人がみつかるまで、テコでも動かないご様子でした。イエス様があくまでもご自分の服に触れた人を探し出すのにこだわられたのにはちゃんとした理由があったのです。


 イエス様は人となって地上に来られてからというもの、当時の宗教指導者が作り出した神様のイメージに悩まれました。それは掟に厳しく、間違ったものは容赦無く裁かれ、憐れみや愛などまるで感じられないような怖い存在だったからです。しかしイエス様がご存知の神様は、愛に満ち、求めるものには与え、いやし、ゆるされる神様でした。宗教指導者達の教える神様とイエス様が教えられる神様のイメージとの間にはあまりにも大きなギャップがありました。


 この女性は12年もの間、律法によって汚れている女と定められ、無能な医者にお金だけ巻き上げられ、掟に縛られて外出もままならず、礼拝に出席することなど全くできなませんでした。神様からなんらかの罰を受けたと考えられたからです。彼女は当時の社会と宗教事情の犠牲者であったとも言えます。

 しかし真実の神様は、人間の側が病や罪によって自分は汚れていると思い込んでいても、神様の方ではそんなことは全く関係ないのです。求められれば躊躇せず手を差し伸べるイエス様のお姿は、神様そのものでした。彼女はイエス様を通してまことの神様の力に出会い、癒されたのです。


 ただその場にいる人々はまだそれを知りません。彼女が神様の力によって癒されても、彼女自身が律法違反を犯して外に出たことを知られないように沈黙しているならば、これから先、偏見から自由になる保証はありません。ですからイエス様はこの場にいる全ての人々が彼女が健康になったことの証人となる必要があると思われたのです。


 こうして、彼女はイエス様の前に呼び出されますが、イエス様の意図を理解していなかったため震えながら進み出て平伏します。ただ、彼女は12年病に苦しめられたにも関わらず、誠実な信仰を保つ続けていましたから、恐る恐るイエス様と顔と顔を合わせた時、この方こそ神様だとはっきりわかりました。

 自分のような汚れた存在に触れられてもなお、優しく声をかけてくださる神様。彼女の中にあった古い神の姿は消えました。自分の目の前におられる神様は、人生の中で、失望したり無力さに苦しむ時、決して見放さない方なのだと知ったのです。彼女は病だけでなく、傷ついた魂も癒されたのでした。


 私たちの毎日は複雑なパズルのように、良いことと悪いことが組み合わさっています。自分の考えや思いとは全く異なることが起こり、がっかりしたり苦しんだりすることもしょっちゅうでしょう。

 しかし、どれほど失望しても、イエス様なら助けてくださる、いやして下さると信じるなら救われます。私たちはこれから先、「自分は救われるに値するのか」とか「誰が救われるべきか」「誰がいやされるべきか」などと無理やり人生のパズルを解こうとするのではなく、イエス様に委ね、イエス様と共に手を差し伸べる者となって歩んでまいりましょう。 




露草が涼しげに咲いています
空き地で好き勝手に増えていますが
もともとは園芸種なのでしょう
大きくて綺麗です

直射日光が当たると
あっという間にしぼんでしまうのが残念です

2021年6月21日月曜日

嵐を静める(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第4主日礼拝(2021年6月20日)
コリントⅡ6章1-2節 マルコ福音書  4章35-41節

 本日の福音書の記録は最初の弟子がイエス様に招かれて学び始めてから1年が過ぎた頃です。イエス様は、12人の弟子たちに使徒と名付けられ、特別な教育を受け始めたところでした。


 この日、夕方になっても多くの人々がイエス様を取り巻き、一向に解散する気配がありませんでした。そこでイエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言い出されます。弟子たちはその意図を理解できず、言われるままに舟を漕ぎだします。

 使徒たちの中にはイエス様に招かれるまで漁師だった者たちが多く、舟を漕ぐのは得意でした。しかし日が暮れて真っ暗な中、いつも漁をしていた岸辺とは違うところから漕ぎ出すのですから、大変なことです。例えていうなら、どんなに車の運転に慣れた人でも、街灯のない初めての田舎道を走れと言われたら心細い気持ちになるでしょう。弟子たちはなんとも頼りない気持ちになったかもしれません。


 仮に天候が変わり、嵐になったら大変なことになるのを元漁師だった弟子たちは知っていました。それでも彼らは、イエス様が共にいるなら、何とかなるだろうという気持ちで出発したのです。

 彼らは何事もなく目的地に着くことを願いましたが、嫌な予感というのは当たるもので、たちまち激しい突風が起こり、舟は波をかぶってしまします。大きな舟ではありませんから、このまま水浸しになれば沈んでしまいます。彼らは必死で水を汲み出そうとします。


 ふと見ると、イエス様は舟の奥でぐっすり眠っておられます。弟子たちはすぐさま後悔します。「なぜ、あの時、イエス様危険です」と言わなかったのだろう。「なぜ、漁師の直感を信じなかったのだろう。」「イエス様、ガリラヤ湖のことは、私たちの方がよく知っています、となぜ言えなかったのか」「こんな風に嵐で死ぬのは神様の罰なのだろうか」。

 自分たちではもはやどうすることもできない中で、弟子たちのイエス様に対する尊敬の念は消え、怒りさえ湧き上がってきました。この出来事はマタイ福音書とルカ福音書にも記されていますが、比べてみますとマルコ福音書の弟子たちが、一番不遜な態度をとっています。


 危機的な状況の時、信仰が本気かどうかは、はっきりと表れます。「死にそうです。お助けください」は一番シンプルな祈りの形です。しかし、この時、マルコ福音書に記された言葉は、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という、イエス様をなじる言葉でした。彼らの気持ちを考えてみますと、共感できる気がします。

 信仰に生きる者にとって、一番恐怖を感じるのは、神の沈黙です。神が祈りに応えてくださらない。私のことなどどうでもいいと思っておられるのではないか。そう感じる時、最も信仰がぐらつくのです。


 この舟旅はイエス様のご命令で始まったことでした。自分たちは賛同したにせよ、このまま、みんな溺れ死んでしまうなら、それはイエス様の判断ミスではないか。こんな目にあわされて神様が憐れみ深い父などとよくもおっしゃったものだ。まだ舟は沈まず、誰も死んでいないのに、彼らはイエス様に恨みごとをぶつけるほどに追い込まれたのです ここではっきり分かることは、のちに弟子たちがどれほど偉大な伝道者になったとしても、最初からイエス様を完全に信じていたわけではなかった、ということです。

 しかしイエス様は弱音を吐き、不遜な言葉をぶつけてくる弟子たちを見捨てるようことはなさいませんでした。おもむろに起き上がると、弟子たちを恐怖に陥れている風に向かって、また湖の波に向かって、「黙れ、静まれ」とおっしゃいます。すると風は止み、すっかり凪になった、と福音書は伝えます。

 そして、弟子たちを怖がらせるものがすっかり過ぎ去ってから、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とおっしゃいました。


 弟子たちがイエス様の前で犯した失態は、いつの時代にも繰り返される出来事です。どれほど信仰的と言われる人物であろうとも、想像を超えた危機に陥った時、神様に見放されたかと怯え、苦しみます。けれども、イエス様は一度弟子として招いたものたちを決して見放されません。私たちの目からは眠っておられるように見えても、その助けは決して遅すぎることはないのです。


 私たちはキリスト者の少ない日本という国で生きています。イエス様を信じていない人からキリスト教批判をされるのは日常茶飯事です。そんな時、心の中はざわつき悲しい思いをしますが、舟が転覆するほどの大嵐にはなりません。「あの人はキリストの愛を知らないのだから」と自分に言い聞かせることができるからです。

 しかし、もし教会の中でキリスト者同士がいがみ合ったりイエス様への不信を口にすれば嵐は心の中で何倍にも増幅されます。互いに「クリスチャンのくせに」とののしりあえば、同じ目的に向かって進んでいるはずの教会という舟は嵐の中で沈み始めるでしょう。


 そんな時は躊躇することなく「主よ、船が沈みそうです。お助けください」と祈ることです。「私たちの教会が壊れてもいいのですか」という、喧嘩腰の態度ではなく、謙虚にイエス様を主として祈るのです。

 今の時代、イエス様は聖書を通して私たちがいつでもどこででも御言葉を聞くことができるようにしてくださいました。不器用でも、神様の御心を行っていこうとするものたちには聖霊なる神の力と導きがあたえられます。



7月3日の土曜学校の工作は
「万華鏡」です
アクリスビーズを入れて涼しげに仕上げる予定です




2021年6月14日月曜日

この小さな種に(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(2021年6月13日)(日曜日のお話の要約)
エゼキエル書17章22-24節 マルコによる福音書4章30-34節

 皆さんもご存知と思いますが、熊本は日本福音ルーテル教会の宣教の拠点となった土地です。120年前アメリカから来た宣教師とフィンランドから来た宣教師は、宣教の一環として、それぞれに幼稚園から大学まで、教育施設を作り上げました。

 熊本での働きに一区切りつけたフィンランド宣教団体が次の宣教の拠点として信州に導かますす。熊本と飯田の宣教規模は大きく違うものの、その精神はよく似ています。下伊那で一番古い幼稚園、飯田ルーテル幼稚園は熊本での働きを終えた宣教師の先生方によって種を撒かれたのです。


 熊本においても、飯田においても、日本福音ルーテル教会は、宣教をしながら虐げられた女性の権利を守るために戦いました。飯田では、教会に逃げてきた女性をかくまったところ、彼女を連れ戻すためにやくざ日本刀を振り回し脅してき来て、その相手を宣教師の先生が追い払ったという逸話があります。宣教師たちは命の危機にさらされながら、裏社会に追いやられた女性たちが人として生きられる社会を作ろうと懸命に働いたのです。


 今、日本社会は男だとか女だとかにこだわらない社会へと大きく舵を切ろうとしています。かつて弱い立場に置かれた女性たちを必死で守った信仰を、今の教会も引き継ぐ必要があります。LGBT(性的少数者)の問題は見て見ぬ振りをすることはできません。

 幼稚園のでは、今年から卒園式や入園式などの公式の場では、男の子には「君」、女の子には「ちゃん」と呼び分けるのをやめ、全員「さん」と呼びましょう、と取り決めました。些細なことと思われるかもしれませんが、この園にも心の性と体の性の違和感に悩む園児が存在しているかもしれません。小さき者を守るという精神は飯田ルーテル幼稚園でしっかり守られ、教会はそれを誠実にバックアップしていく必要があります。


 本日読みました福音書「からし種のたとえ」は、神の国についてイエス様がお話なさった箇所ですが、聞く力が弱ければどう理解して良いのかわからないお話しでもあります。イエス様ご自身、弟子たちに向かって「一般の人々にはわかりにくいだろう」という意味のことをおっしゃっています。

 この「からし種」のたとえを私たちの教会に当てはめるならば、宣教の始まりに、虐げられた人と命をかけて関わり、教育していった、それこそが大切な種まきであった、ということです。神様から与えられた使命感こそが「種」であり、それが教会にまかれ芽を出したのです。ですから現在の教会というのはその種が成長した状態であるはずです。


 振り返るなら、飯田に蒔かれた小さな種は確かに育ち、110年の年輪をもつ大木となりました。幼児教育を通して園児、保護者、そして社会から信頼を受けています。ただこの建物は、国の耐震基準を満たしていないと指摘されています。この場で幼児教育と伝道を続けて行くなら早急に建て直さなければなりません。重たい使命ですが、素晴らしい使命でもあります。

 小さな種がなぜ大木のように育つことができるのかといえば、小鳥のような弱い生き物が安心して住処にし、生きることを神様自身が望んでおられるからです。私たちが神様のみ心を行おうと祈り、努力を重ねるならどれほど小さな種からでも、豊かなものを生み出すことは必ずできます。


 小さなからし種は土に落ちてこそ、成長段階に入ります。机の上においたままでもポケットの中に入れたままでも、発芽、成長することはありません。それは聖書も同じです。机や本棚の置いたまま、いくら背表紙を眺めても、聖書と書いてある文字が見えるだけで、そこからイエスさまのお話は聞こえて来ません。しかし、すぐには理解できなくても、眠気が襲ってくるとしても、日々読むことによって、心が神様の語りかけに反応してくるものなのです。あなたの心の中にある土にイエス様のみことばという種が蒔かれた時、命は輝き始めます。


 かつてイスラエルに行った時、からし種の花を見たことがあります。一輪一輪は菜の花のようで派手さのない花ですが、その花が群生しているのを見たときの事は今も忘れられません。

 その日、私たち一行はガリラヤ湖を渡る船に乗り込み、遊覧しました。その日は風の強い日で、雷が鳴り、雹やあられも降っていました。遊覧中止かと思いましたが、西の空が若干明るく雲が流れていました。

 時間と共に雲の隙間から日差しの強い太陽の光が差し込み始めました。するとガイドの方が「あの辺にからしだねを植えている畑があります」と指を指しました。そちらの目を向けるとそこはすでに雲が切れて日向になっており、その日差しに照らされて黄色い花が一面に咲いていました。それは陽の光に照らされて、一斉に咲いたかのように見えました。それは見事な光景でした。


 今、私たちに与えられている役目は、教会が神の国であることを守り、神の国に相応しい場所として整えていく事です。これから先、学校法人化するのを機会に建物を全改築します。来年から大きな工事に取り掛かる予定ですが、みなさんと共にみ言葉と結びついた信仰を持って、この小さな種から、立派な神の国を作っていくことに、心を砕いて参りましょう。考えていくこと、悩んでいくことも沢山ありますが、一切のことをキリストの為、教会の為、隣人の為に行ってまいりましょう。




隣の空き地に昨年植えたモナルダが

美しく咲きました

モナルダという名称の他にも松明花(タイマツバナ)

ベルガモット、ヤグルマハッカなどなど

様々な呼び名があるそうです

芳香があり、ハーブに分類されるようです


華やかなハーブです

咲き始めはこんな感じです
面白い形ですね

咲き始めてから2日くらいで
整った姿になります

ドクダミの花も一緒に咲いています(^^;)