2022年8月7日日曜日

「しっかりと信仰に生きる」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2022年8月7日)
ヘブライ人への手紙11章1-6節  ルカによる福音書12章35-40節 


 本日はルカによる福音書12章32節の「小さな群れよ、恐れるな」と言うイエス様の言葉から始まります。この「小さい」という言葉は、私たちも知っているミクロ、あるいはマイクロという言葉で、1ミリの千分の1です。まさに吹けば飛ぶような小ささです。しかしイエス様はその小さいものに向かって「恐れるな」と言ってくださいました。このところから今日は聞いて参りましょう。


 イエス様の言われた「恐れるな」とは、もともと「逃げ出すな」という意味にもとれるそうです。イエス様は「あなたはとても小さいけれど、もう逃げ出すな」とおっしゃいます。「あなたは、喜んで神の国に迎え入れてくださる神様に愛されているのだから、逃げ回る必要はない」と示してくださいるのです。


 イエス様は、わたしたちがどんな良いことしたら天国に行けるか、と教えておられるのではありません。あなたは最初から神の国に行くことが定められている、と言われるのです。わたしたちは良い意味で神様の御手の中にあって、守られ導かれているのです。人生の中の小さなことも大きなことも、神様ご自身があなたの人生を愛して計画してくださったことなのです。


 ただし、その中には、事件や事故、災害、病気、怪我、愛する者の死、別れという、人にとって全くありがたくないものも含まれます。絶対手放したくないと思っていたものをある日突然奪い取ることすら神様のプレゼントだというのなら、そんな神様は信じられない、そう思って嘆き悲しむこともあるでしょう。その思いは人として当然と言えば当然です。

 私たちは誰でも「絶対手放したくない大切なもの」を持っています。しかしイエス様は、あなたにはもともと神様から頂いた多くの恵みがある。何かを失いたくないあまり、一人で抱えこんだりしないで、大切なものであればあるだけ、神様を信頼して委ね、身軽になって、神様が注いでくださる新たな恵みの賜物をシャワーのように受け取りなさい、と教えてくださるのです。


 そして、このお話に続いて、イエス様は「目を覚ましている僕」の話をなさいます。この僕は結婚式の披露宴に招かれた主人が帰ってくるのを待っています。当時のユダヤの婚宴は何日も続き、一週間かかるのも珍しくありませんでした。主人が1週間も留守にすると聞くと、大抵の人は「あーしばらくの間、帰ってこないなら、少しはリラックスできるな」とばかり、戸棚に隠しておいた自分の好物のせんべいを頬張り、テレビでもつけてんのんびりしようと思うかも知れません。


 本当は主人がいつ帰宅してもきちんと対応できるように準備して待ち続けるのが仕事なのですが、それができる人の方が少ないでしょう。だからこそ、突然戻ってきた主人に、ちゃんと仕事をしているところを見られた僕は幸いだ、とイエス様はおっしゃいます。

 主人は僕の誠実な働きを心から喜び、僕たちを座らせ、自分は使用人の証である帯を腰に締め、僕のために給仕を行う、と言われるのです。2000年前の主従の関係を考えれば、現代の私たちが思う以上にあり得ないほどの悦びようです。


 イエス様はこの例えを通して、神様に誠実であることはどんなことより神様に喜んでいただけることだと教えておられます。形だけ信心深い行いをしたり、心のこもらない多額の献金をしても神様はお喜びにならない、神様はあなたの心の内をいつでも見ておられ、その誠実さを喜ばれる、と教えるのです。


 トルストイの「愛あるところに神あり」というお話をご存知でしょうか。日本では「靴屋のマルチン」というタイトルで有名です。この物語には腕の良い靴屋のマルチンが登場します。彼は妻と息子を亡くしたことから希望を失い、神さまを責め、教会からすっかり離れてしまっていました。

 しかし、ふと聖書を読み始めたマルチンは、毎晩、毎晩、夢中で読むようになります。そんなある日、マルチンは夢の中で「マルチン、マルチン。あした行くから待っておいで」というイエス様の御声を聞きます。


 翌日、マルチンが店で仕事をしながらイエス様が来られるのを今か今かと待っていますと、彼の前に次々と貧しい人々や困難な状況に置かれている人々が現れます。マルチンは自分のできる方法で彼らに手を差し伸べ、もてなしました。

 日が暮れて、イエス様は結局いらっしゃらなかったのかと思った時、イエス様の御声が聞こえます「マルチン、お前が助けた人々はみんな私なんだよ」。マルチンは夢ではなかったことを大いに喜び、その心は満たされた、という物語です。


 作者であるトルストイは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というマタイによる福音書25章40節の聖句を引用しています。マルチンは特別力むことなく、自然体で人々をもてなしますが、その人々こそ主ご自身だった、という出来事は私たちの信仰生活に喜びと同時に緊張感を与えます。


 イエス様は、2000年前、地上の役割を終えて天に帰られる際、必ず再び戻ってくるという約束を弟子達になさいました。イエス様はご自分がお留守の間、ご自分の仕事を弟子たちに託し、その帰りを待つようにとに教えられたのです。

 イエス様の弟子であるならば、イエス様がいつ帰って来られても大丈夫なように、キリスト者として誠実に生きることが何より大切です。私たちの先輩である歴代のクリスチャンたちも、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という御言葉を心に刻んで人生を生き抜きました。


 私たちは、この時代に、この場所で、一歩踏み込んだ信仰に生き、日々与えられる恵みに感謝と祈りを捧げつましょう。恐れることなく大胆にイエス様を信じ、この世の嵐に吹き飛ばされることなく、しっかりと信仰に生きて参りましょう。





2022年7月31日日曜日

神に対して富む(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第8主日礼拝(緑)(2022年7月31日)
コロサイの信徒への手紙3章1-4節 ルカ福音書12章13-21節

 本日の福音書は「愚かな金持ち」の話です。
 イエス様がご自身がお伝えになりたいことを半分ほど話し終え、一息ついた時、集まっていた群衆の中の一人が「身内の遺産を自分に有利になるように、自分の味方になってください」と願ったのです。

 当時のユダヤでは律法学者が律法に基づいて相続分配についての調停役を担っていましたから、イエス様ほどの方なら兄弟を説得して、きちんと財産分与されるようにして下さると考えたのでしょう。

 しかしイエス様は従来の律法学者のように財産に関わるのはご自分の仕事ではないとおっしゃいました。とはいえ、そのままこの人を突き放すことはなさいませんでした。それはこの人が金銭や財産にからむ貪欲によって神様の御言葉が耳に入らなくなり、神様から離れてしまうという「悪魔の誘惑」に陥ろうとしていたからです。

 そこでイエス様は続けて人々に向かって「どんな貪欲にも注意を払い、用心をしなさい」と教えらます。いつの時代も人間の世界には欲しいものが溢れています。お金があればあるだけ欲しいものが増えていきます。お金があれば名誉や地位も手に入れられる、何でもできるのに、といった誘惑に晒されます。その誘惑に抵抗できなくて、盗みや人殺しまで犯してしまう、そんな思いが人の心の中には潜んでいます。

 イエス様に遺産分与の口利きを願ったこの人は、そんな闇に囚われる寸前だったのでしょう。「財産さえあれば」と思うあまり周囲が見えなくなっているこの人の有り様は、イエス様の目には非常に哀れに映ったのでしょう。それでお話の流れを変えて、この「愚かな金持ち」のお話をなさったのだと思われます。

 お話は至ってシンプルです。ある金持ちの畑が豊作になりました。あまりにたくさん収穫があったので、どこに保管したら良いだろう、という贅沢な悩みが生まれました。そこで彼は今まであった蔵を壊してもっと大きいものに建て替え、そこにしまおうと考えます。何年も生きて行けるだけの蓄えができた彼は幸せな気持ちで一杯になってつぶやきます『さあ、これから先何年分も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。』

 しかし神様はその夜に彼の命を取り去ると宣言されます。人生を思う存分楽しもう!という時に「愚か者よ、お前の人生は今夜で終わりだ」と神様から言われてしまったのです。まるで悪夢のような物語です。

 たとえに語られているこの愚かな金持ちの言葉は、原文では「私の」「私の」という表現が繰り返し使われています。例えば17節、18節を原文に近いニュアンスで訳してみますと「どうしよう、私の作物をしまっておく場所がない。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに私の穀物や私の財産をみなしまい、こう私に言ってやるのだ」。

 ここには働いてくれた雇い人に恵みを還元しようとか、貧しい人のために援助しようという考えはみじんもありません。それどころか神様への感謝などすっかり忘れてしまっているのです。成功したばっかりに神様を忘れて自分の幸せに酔いしれ、自分のことしか考えない、自己中心的な人間に成り果ててしまったのです。

 しかし、この例え話を同じ日本人にするとキョトンとされてしまうことがあります。自分の儲けを自分のために使うのは当然ではないか、キリスト教の神様は恐ろしい、ひどい、勝手だ、といった反応です。実は、この反応は日本人によく見られる、と指摘されています。

 日本人の多くは特定の宗教を持たず、なんとなく善人で、警察のお世話になるような悪いことは一切していない正直者であることを誇りに思っています。
 漠然と神仏を信じていますし、先祖の供養もちゃんとして、お守りなども購入しますが、それらに自分の人生を委ね切るようなことはしません。結局は自分を信じ、頼れるのは自分だけだと感じていて、自分の正しいと思うところに留る。日本にはそういった人々が圧倒的に多いのです。

 私たちはこのような人々が構成する社会の中で暮らしています。
あなたのごく親しい方々もそうではないでしょうか。教会生活を大切にし、自分の収入の何割かを神様に捧げ、重大な決断は祈りと聖書のみ言葉によって導かれることを願う、そんな私たちの生活は周囲から奇妙な目で見られたりします。まして、今ニュースで旧・統一教会が盛んに話題になっていますが、そういった組織と混同されてうさん臭い目で見られることすらあります。
 そういう意味では、日本人クリスチャンは欧米のキリスト者と比べて「信仰的」に生きることはなかなか難しいと言えるでしょう。神様に従って生きることを第一にしようと奮闘している私たちは世間から変わり者と見られるかもしれません。しかし周囲の人から「変わり者と呼ばれても、神様から「愚か者」と呼ばれるより遥かに素晴らしいのです。

 イエス様は人々に神様の元にある平等をお教えになるために、ご自身の生涯を献げられました。全ての人は神様の愛の対象であり、全ての人は神様の愛によって生きることを命をかけてお教えになったのです。そして私たちはその神様から永遠の命という財産をすでに与えられているのです。これはこの世の財産とは比べ物にならないのです。そして、いくらお金を積んでも決して手に入らないものなのです。
 どんな時も神様から与えられた賜物を用いる工夫を忘れず、最後まで感謝を持って生きられるよう願い求め、天に宝を積む信仰を持って歩んでまいりましょう。



新型コロナが南信でも一気に広がったため
またまた土曜学校はお休みで
「ごめんなさいハガキ」を郵送したところです
子ども達が楽しみにしてくれているので
少人数の集まりに変更してでも実施したいのですが
会場が幼稚園の園舎で、夏休み中もこども園として
保育が行われているので
感染対策のためには土曜学校の方を休会にせざるを得ません
神様から委ねられた小さな魂がそこにあるのに、と
歯痒い思いです
いつかこの出来事も益となることを信じて
幼な子のために祈ってまいります

2022年7月24日日曜日

主の祈り(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(緑)(2022年7月24日)
コロサイの信徒への手紙2章6-12節 ルカ福音書11章1-13節

 本日は「主の祈り」について聖書から聞いてまいります。「主の祈り」はマタイ福音書の6章と、ルカ福音書の11章に記されていますが、今日はルカ福音書を中心に見ていきましょう。


 弟子たちはイエス様に「祈りを教えてください」と願いますが、ユダヤ教徒だった彼らが祈り方を知らなかったわけはありません。彼らは子どもの頃から聖書を学び、祈りの言葉を唱えました。神殿の祭司やファリサイ派の人々は祈り方を指導し、彼ら自身も人前で祈ることを得意としていました。一般の人々は、あれほどしないと祈りは聞かれないものだ、あれほど厳しい断食なようなことをして、一晩中や熱心に祈らなければ、神様は聞いてくださらないのだ、と思っていました。


 そんな時、イエス様の先駆けとして現れた洗礼者ヨハネは、祭司やファリサイ派のやり方を「見せかけだけ」と批判しました。自分の弟子達にヨハネ独自の祈り方も教えたでしょう。おそらく今までの伝統的で形式的な祈りとは全く異なる祈り方だったと思われます。それを知ったイエス様の弟子たちは尊敬するイエス様から自分たちも祈り方を教わりたいと願ったのです。


 そんな彼らの思いに応えてイエス様が教えてくださったのが「主の祈り」でした。ただし、イエス様の教えてくださったこのお祈りは、当時の習慣からすれば異例ずくめでした。単純で、ストレートで、誰でも理解できるよう、簡単明瞭な言葉が用いられました。


 その祈りの始まりは「お父ちゃん」と言う言葉だったので弟子達もたまげたのではないでしょうか。イエス様は、まだ幼いユダヤの子どもが父親に愛情と信頼を込めて呼びかける「アッバ」という言葉を用いて、祈り方を教え始められたのです。

 幼い子どもは甘える時はたいてい母親に呼びかけます。あえて「お父ちゃん」と口にするのは、何かをねだるときか、誰かにいじめられて、自分の力ではどうにもならない時など、自分の力では解決できないことに直面した時、お父ちゃんならなんとかしてくれる。子どもはそんなふうに自分の弱さ、小ささを知った上で「お父ちゃん」に頼り、呼び掛けるのでしょう。


 天地創造の神様にまず「お父ちゃん」と呼びかけるよう教えられたイエス様は、人間が自分の弱さや小ささを知り、神様に頼ることから始めよう、とおっしゃったのです。神様の前に無力さを曝け出して、幼児のようにおねだりしなさい、と教えられるのです。


 ここに記されている主の祈りを、あえて幼い少年のような言葉で言い直すなら、こんなふうになるでしょう。「お父ちゃん、おれ、お父ちゃんに恥かかさないように、お父ちゃんがこうなってほしいって思う世界を作るために頑張るから今日もご飯ちょうだいね。時々失敗すると思うけど、その時は勘弁してね。誰かが邪魔したり喧嘩ふっかけてきて酷い目にあっても、やり返さないでちゃんと赦せるようにするから、そんな事があんまりないよう守っていてね」


 こんな祈りは格調も何もあったものではない、と思われるかもしれませんが、最初の弟子たちはそれほど学歴もない、平凡な経歴の人々でした。イエス様は、ご自分の弟子たちが祈りの本質を理解できるように、気取った言葉や型式ばった言葉を取り払い、弟子たちが祈りの本質を理解して祈れるようお教えになったのです。

 改めて一つ一つの言葉をもう少し細かく見ておきましょう。


 この「父よ、御名が崇められますように」は「俺は父ちゃんの顔に泥を塗らない」と解釈できる言葉です。神様の望まれる世界は平和に他人を思いやって過ごすことができる世界ですが、なかなかそれは実現できません。人間の力だけでは到底実現できないのです。だからこそ神様が統治される「御国」が一日も早く実現するように、と強く望むのです。


 「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」とは、その働きを進めていくために、「お腹が空いたら働けないからご飯をください」という意味です。こんなことを祈るのは神様に失礼だ、浅ましい、などとはイエス様はおっしゃいません。飢餓に耐えて信仰を貫ける強い肉体や精神を持っている人はごく稀です。ですから神様から離れないでいられるように「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」と祈るのです。


 この後は「わたしたちの罪を赦してください」です。さらに続けて「私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と教えられます。ここが主の祈りの中で一番難しく、思わず声が小さくなる、と皆さん言われます。「自分に負い目のある人を皆赦し」ていない心のありようをご存知だからです。だからこそ、主の祈りはここがキモだとも言えます。


 神様に受け入れられ、愛されるということは、返せるはずのない莫大な借金を丸々帳消しにされるのと同じです。イエス様は返しきれないはずの負債を、ご自分の命で支払ってくださいました。その愛を知った私たちはイエス様を再び苦しめないために、罪を犯さないでいられるよう、願い求めるのです。


 イエス様によって神様の子とされて生きるものは、どんなに難しい関係がそこにあっても、憎み合いやひどい仲違いを止められるはずです。「仲良し、仲良し」とベタベタしなくても良いから、相手の存在を受け入れなさい、お互い神様に生かされている存在であることを認め合いなさい、と教えられるのです。

 礼拝では必ず主の祈りを唱えます。あれこれ意味を深掘りして結局お手上げ、となるのではなく、一つ一つの意味をシンプルに理解しながら、声と心を合わせ、口にして参りましょう。イエス様が教えてくださった祈りを共に唱えるとき、そこに父なる神様の恵みと愛と微笑みが注がれていることを忘れないで、願いを込めて参りましょう。 


土曜の午後、短く書き改めた説教を
YouTubeで配信するため、収録を行います
幼稚園兼教会の建物は土曜日でも
保育が行われているので結構賑やか
小さな乱入者(笑)を避けて、2階の牧師館で撮影します
映り込んでほしくない私物をあれこれ片付けて
やっと撮影が始まります


2022年7月18日月曜日

心に響いた主の言葉(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第6主日礼拝(緑)(2022年7月17日)
コロサイの信徒への手紙1章24-26節 ルカ福音書10章38-42節


 本日の福音書は皆さんもよくご存知の「マルタとマリア」のお話です。ここに描き出されたマルタという女性は、客人をもてなすことが大好きで、そこに自分の才能を見出している人です。


 彼女は今や時の人とも言えるイエス様を尊敬していました。この人は救い主、世の中を変える人だと直感していました。自分の家にイエス様がやってくる、というだけで、どんなふうにもてなせば喜んでいただけるだろう、とワクワクして、あれこれ準備に余念がありませんでした。


 一方マルタの姉妹であるマリアは全く違う性格をしていたようです。マリアはイエス様が家を訪れると、その足元に座り、イエス様が語られる言葉を聴き始めました。彼女はマルタの手伝いを放り出し、イエス様の男性の弟子に交じってイエス様の近くに座り、誰よりも真剣にイエス様の教えを聞き始めたのです。

 男尊女卑が当たり前の時代です。男性の弟子たちはなんとなく違和感を覚えたでしょうが、イエス様がマリアの存在を受け入れておられましたし、マリア自身どんな目で見られてもそこから離れようとはしませんでしたから、誰もマリアの行動に口を挟むことはありませんでした。


 しかしマルタはこのマリアの行動に苛立ち始めていました。マルタはイエス様がこの家に宿泊されるたびにイエス様のお話を聞いてきた、という自負がありました。イエス様がおっしゃること、その教えについては自分はよく知っていると思っていました。だから今は手をとめて改めて耳を傾けるのではなく、家の主人として最大限の接待を行うべきだと考えていたのです。


 ついにマルタの堪忍袋の尾が切れました。しかしあろうことかその怒りの矛先はマリアではなくイエス様に向かったのです。


 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおしゃってください」。「私はあなたのもてなしで忙しくしているのに、マリアは手伝おうとしない。それはイエス様の責任だ。」大切な客人にイライラをぶつけるのはとんでも無いマナー違反です。そこにいた弟子たちは緊張して成り行きを見守ったかもしれません。


 その時、イエス様は「マルタ、マルタ」と、彼女の名を二回呼びました。イエス様は「マルタ、お前は間違っている」とはおっしゃらず、ただ「多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われました。イエス様は、マルタが自分の働きを肯定してほしいと願っていたことがわかっておられたのです。

 しかしイエス様は、宣教を開始された時、ご自分を誘惑する悪魔に向かって「人はパンだけで生きるのではなく、神様の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とおっしゃいました。それはすなわち、心を静め、ご自分の言葉に耳を傾けることの大切さを語っておられたのです。ですから全てを忘れてイエス様のお話に集中するマリアの姿勢は、かけがえのないものなのです。


 ただし、イエス様は「パンは必要ない」、つまり「聞くことだけが大切で、他の働きは必要ない」とはおっしゃっていません。確かにみんながみんな聞くだけで行動しなければこの世においては組織は成り立ちません。イエス様の弟子の集団の中には様々な役割があり、一人一人がイエス様のお言葉に背中を押されながら、それそれの賜物に応じてそれぞれの責任を担って行くのです。


 ですからイエス様はマルタの奉仕の重要性を認めた上で、まず何を優先させるかを改めて教えられたのです。そして他の人のやり方に踏み込む必要はない、とおっしゃったのです。マルタとマリアは性格も違えば奉仕の方法も違うけれど、二人ともきちんと私と繋がっている。イエス様はそう語りかけてくださいました。

 私たちは自分がかけがえのない働きをしていることを教会の仲間に、そして牧師に認めてもらいたい、と思うことがあるでしょう。しかし苦労している割に評価が低く、イライラすることもあるかもしれません。

 そんな時に、イエス様があなたの名前を呼ばれるのです。心がざわつくとき、「マルタ、マルタ」という呼びかけにご自分の名前を入れてみてください。そしてイエス様のお心を感じていただきたいのです。


 教会では礼拝に来ることを「礼拝に預かる」という言い方をします。それは自分の意思でここに来るのではなく、神様に招かれてやってくるのだということを表しており、ここでは心を鎮めて素直に神様の赦しと愛のもてなしを受けなさい、ということでもあります。


 礼拝が終わった途端、あなたにはあなたの働きが待っているでしょう。忙しいないなあと思うこともあるに違いありません。それもまた、神様の招きと選び、そして導きなしには成り立たない事なのです。


 礼拝において私たちはまずマリアのように集中し、神様の言葉を聞き、心に響かせてまいりましょう。そしてその上でマルタのように奉仕に心を向けましょう。ただし、繰り返しになりますが、どんな時も自分の奉仕とその忙しさに心を乱されず、落ち着いて、まず神様の御言葉を聞き、神様のもてなしを受けていることに気づいて参りましょう。


 あなたの名前を呼んでくださるイエス様の言葉を心に響かせ、一人一人に与えられた生きる言葉として大切にしてまいりましょう。




8月の土曜学校で作る予定のクラフト見本です
ただコロナの感染が急拡大しており
実施できるかどうか、まだわかりません
子どもたちが教会で楽しい時間を過ごせるよう
どうぞお祈りください



2022年7月11日月曜日

心の壁 愛の橋(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第5主日礼拝(緑)(2022年7月10日)
コロサイの信徒への手紙1章10-14節 ルカによる福音書10章25-37節

 聖書には魅力的な物語がたくさんあります。登場人物の波乱に飛んだ人生にハラハラしたり、神様の深い愛や力強さに感動することだらけです。ただ残念なことに、私たちは「それはそれ、これはこれ」と考えやすく登場人物たちのような奇跡の出来事は自分の人生には起こり得ない、と心に壁を作ってしまいます。


 かつて人間がエデンの園で神様に愛され守られて暮らしていた人間は、神様とのたった一つの約束を破り、食べてはならない果実を食べたため、神様との関係は壊れました。神様との豊かなコミュニケーションは失われ、人間の心の内に「どうせ私は神様に愛されていない」という壁が出来上がってしまったのです。


 しかし人間が心の壁を作ってしまった後も、神様はあらゆる方法を使って人間に働きかけられました。その結果イスラエルの民の中に、稀に心の壁の薄い人物やほとんど壁のない人物が誕生しました。神様はそういった人々に語りかけ、リーダーとして召し出したのです。


 彼らもまた完璧な人間ではありませんでしたから、神様よりも武力や経済力に頼ろうとすることもありましたし「自分は神様に不当に扱われている」と暴言を吐くことすらありました。それでも神様は彼らを見放さず、彼らも再び心を神様に向け、困難という流れの中に信仰という橋をかけて乗り越えていきます。


 数百年の時が流れ、イエス様の時代には神様と人との愛と信頼の出来事は巻物としてまとめられ、礼拝で読まれるようになりました。これを読み解く専門家が「律法学者」で、彼らはイスラエル社会の中で高い地位を得て、国の政治から人々の日常生活にまで大きな影響を与えていました。


 そんな社会の中に、イエス様は神様から遣わさました。神の御子であるイエス様は律法を人間の専門家から学ぶ必要などありません。専門家たちが驚くのを尻目に、深い知識と豊かな言葉で、人々が待ち望んできた神の国の到来を告げました。しかし律法学者や、彼らが所属している宗教派閥のファリサイ派、そして神殿の祭司たちはイエス様のお言葉や奇跡を実行されるその行動に強く反発しました。


 イスラエルの常識では「神は律法を犯した者は容赦無く罰する方だ」でしたから治療不可能な病気や障害を負ったものは神に見捨てられたのだ、と説きました。そんな人々を癒すイエス様の行動は彼らにはむしろ罰当たりに見えました。律法学者たちの考えはイエス様と真っ向から対立したのです。


 本日イエス様は「よきサマリア人」のお話をされましたが、これはこうした律法学者とのやりとりの中で語られたものです。彼は永遠の命を得るにはどうしたら良いか、と質問しましたが、実は聖書にはどう書かれているか既に知っていましたからイエス様に問い返されて、自慢げに聖書から引用して「心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えます。


 そこでイエス様は「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃいます。しかし律法学者はそこで引き下がりません。「では私の隣人とは誰ですか」と食い下がります。

 イエス様は、その律法学者が知識は豊かでもそれを解釈する方向が間違っていることに気づかれました。彼の心に神様の愛を弾き返してしまう分厚い壁がありました。イエス様はその壁を取り除くために、この物語を創作して語られたのです。

 イエス様は「ある人が」と語り始めます。おそらくユダヤ人であろうその人が、エルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われた。そのままなら、確実に命を落とすという状態です。


 この窮地に通りかかったのが同じユダヤ人で宗教関係の人物でした。最初に祭司、二番目にレビ人がやってきます。しかし二人とも道の反対側を目を背けて通って行ってしまいます。

 三番目にやってきたのがサマリア人です。サマリア人はユダヤ人からみれば、同じ先祖を持ちながら歴史の中で混血し、イスラエルの神様から離れてしまった汚らわしい民族でした。しかしこのサマリア人は倒れている人を見て放っておけません。彼は、自分ならこうして欲しい、という助け方を全て実行します。次の日にはお金を渡して介抱を頼み、間違ってもこの人が人買いに売られないように、帰りにまた様子を見にくる、と言いおいて自分の用事をするために去っていったのです。


 イエス様はここで話を終え、改めて律法学者に問いかけます。「誰がこの人の隣人になったか」イエス様を試そうとした律法学者は、先ほど「隣人を自分のように愛しなさい」という教えが重要だ、と答えた手前、ここで答えないわけにいきません。絞り出すように「その人を助けた人です」と言ったことでしょう。それを聞いたイエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」とおしゃっただけでした。


 「同じようにしなさい」の「しなさい」というのは、作るとか結ぶという意味で、橋を作るという建造物等を建てる時もこの言葉を使います。

 この律法学者のように、正しい答えを知っていることと、それを実行することには大きな隔たりがあります。その隔たりを超えるために、心の分厚い壁を壊して自分のカラから飛び出し、全身全霊を使って隔たりに橋をかけるように行動することが、神様に喜ばれることなのだと、イエス様は律法学者に教えられたのです。


 この後、この律法学者が、悔い改めたかどうかは分かりません。彼は本当に悔しかったと思いますが、「その人を助けた人です」と明言しました。彼は律法学者として、神様の掟とは「そこに苦しむ人がいるなら、その人を助けることが神様の喜ばれることである」という土台の上に立つことはできたのです。


 自分の身近で助けを求めている人が誰一人いない、ということはないはずです。みなさんが高齢であっても、障害があっても、誰かしらあなたの助けを必要としている人がいるはずです。ただ温かい挨拶を交わすだけでも、笑顔を向けるだけでも、どんなささいなことであっても、できる範囲で構わないのです、神様の御心を抱いて実行に移していくことが私たちに望まれているのです。




飯田教会は「丘の上」と呼ばれる
少し高いところにあるため
近隣で上がる花火が
2階の牧師館からよく見えます
飯田は花火の盛んな土地ですが
大抵の場合土曜の夜なので
翌日の礼拝の音響などを設定しながら
チラチラと見る程度しかできないのがとても残念です


2022年7月4日月曜日

渦中のクリスチャン(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第4主日礼拝(緑)(2022年7月3日)
ガリラヤの信徒への手紙6章7-16節 ルカ福音書10章16-20節

 本日読みました福音書にはイエス様が宣教に派遣された弟子72人が「喜んで帰ってきた」ことが記されています。イエス様の弟子たちは、初めのうち、自分たちだけで宣教に出かけることを躊躇していました。イエス様の教えの素晴らしさは知っているけれど、帝国ローマが支配しているこの世の中で、神の国や、愛の教えを伝える力が自分にあるだろうかと、不安で仕方がなかったはずです。


 確かに弟子達が遣わされた先々は、心穏やかな優しい人ばかりが待ち受けていたわけではなかったでしょう。荒くれ者で、容赦のなく暴力を振るうような人もいたでしょうし、イエス様の教えをきれいごとと決めつけて、弟子たちを馬鹿にしたり罵倒したりする人もいたでしょう。

 しかし彼らが伝える平和のメッセージを待っている人もいました。イエス様はそれを見越して「あなた方は小羊のようではあるが、神の使者なのだから堂々としていなさい。ただ、自分自身に力はないことを肝に銘じ、もし受け入れられないなら、すぐにその場から去りなさい」と教えられました。


 イエス様は神様の無限大の力を弟子たちに伝えるため、あえて弟子達に、人としては無力であることを徹底して自覚させたのです。そしておのれの無力さと引き換えに、神の限りない力強さを体験してほしい。イエス様はそう願われて、弟子の教育方針となさったのです。


 弟子達は行く先々で「神の国の平和はここにある」と伝え、人々と関わりを持ちました。結果として彼らは成功し、喜び勇んで戻ってきたのです。弟子たちの「主よ、お名前を使うと悪霊さえも私たちに屈服します」という言葉には、ちょっとはしゃいでいる雰囲気もあります。イエス様の弟子達は「お名前を使うと即座にすごいことにが起きた」と大喜びをしているのです。


 イエス様は別名「インマヌエル」と呼ばれ、この名前には「主が共におられる」という重要な意味をがあります。弟子達は追い込まれた状況の中で、目には見えないけれど、ここにはイエス様がおられる「イエス様はインマヌエルだ、主が共におられるのだ」と信じました。だからイエス様がいつもなさっている奇跡は、ここでも必ずしてくださると信じて、そのお名前を口にしたのです。


 恐怖のどん底に陥った時、悪霊に心を乱された時、イエス様の名前を思い出し、その名前の意味を堅く信じて心に刻み、主は私と共にいてくださるのだ、と強い決意を持って悪霊に対峙したのです。すると悪霊は屈服し、主の平和がそこにやってきたのです。弟子たちの成長はイエス様の目にも頼もしく映ったことでしょう。

 ところが、イエス様は弟子たちに「よくやった」とか「お疲れさん」とはおっしゃいませんでした。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。」と言われたのです。「イエス様の名前によって、悪霊に勝利することはできるが、喜んでばかりいてはいけない」「あなたの喜びに水を差すように、心が落ち込むような出来事は必ず起こるのだから」と言われたのです。


 弟子たちは心のどこかで自分には悪霊を屈服させる実力があると勘違いし始めていたのかもしれません。ですからイエス様は、悪霊はイエス様に屈服したのだということを忘れないように、と念を押されたのです。


 イエス様を信じる人々が信仰を貫いて試練に耐えて成功し、満足や喜びを得たとき、サタンはほんの少しの気持ちの隙を狙って、神様からその人を引き離そうとします。イエス様はそれをご存知だったからこそ、心を緩めてはならない、とおっしゃるのです。

 例えば奉仕がうまくいって喜んでいる人の心に向かって「あなたのような優秀な人間が教会でもっと重く用いられないのは教会が間違っている」と唆すことがあります。その逆に「お前なんか本当は全然大したことない人間で、調子に乗ってあれこれやっているようだが、お前一人くらい教会に行かなくても本当はどうってことないんだ」と落ち込むような囁きを吹き込んでくることもあります。


 そういった囁きは、肉親や友人を利用してクリスチャンの心を傷つけます。サタンの企みはあまりにも巧みで、よほど気をつけて平常心を保っていなければ、まんまと罠に引っかかってしまい、教会組織や教会の仲間、牧師に対して不平不満がふくらんでいきます。その結果、その人の信仰はどんどん弱まっていくのです。


 しかしイエス様は、「あなたがたの名前が天に記されていることを喜びなさい」と力強く宣言されます。それは、ひとたびイエス様を信じたものは天に名前が書き記され、永遠に神の民に加えられ続ける、という意味です。永遠に神のものとされている私たちは、自分の思いが乱れ、クリスチャンらしくない思いで苦しんだとしても、神様の方が私たちを受け入れ、永遠に手放さない、という喜びなのです。


 さて、この時からしばらくして、イエス様は不当な逮捕と裁判を経て十字架にかかり命を落とされます。一旦は剣を握った一番弟子のペトロもサタンに弱いところを突かれておじけ付き、弟子のほとんどは逃げ去りました。イエス様とその弟子集団は完全に敗北したかのようでした。


 しかし、イエス様は三日目に甦り、さらに50日たって聖霊降臨の出来事が起こり、弟子達は神様の真理を見つけるのです。自分たちのなすべき使命は武器を持って戦うことではなく、私たち一人一人が神様によって与えられた命で生かされていることを、信仰と喜びと感謝をもって証していくことなのです。サタンの誘惑に打ち勝つ方法とは、「私の名前は天に記されている、だから主は共にいてくださる」それを決して忘れないこと、ただそれだけなのです。





7月2日は土曜学校の日でした
予約を取らず「誰が来てもいいよ」という
本来の教会学校スタイルに戻しました
クラフトは毎回なかなか人気があるので
今回は多めに20人分を準備
…ところが、礼拝の開始時間になると
そこには21人のおともだちが!


クラフトだけに来るのではなく、きちんと礼拝から参加して
賛美、お祈り、暗誦聖句、献金
聖書のお話もしっかり聞いてくれます
(さすがキリスト教幼稚園出身!)

こんないい子達に
「誰か一人は材料が足りなくて工作できません」なんて
とても言えません!(^^;)


結局、貧乏くじを引いてしまった一番小さなおともだちには
しばらく待っていてもらい
大慌てで牧師館から材料をかき集めて来て
瓶のサイズは違いましたがなんとか完成しました


モデルは工作名人のNさん
ジャムの瓶の中にお魚シールや水草などなど詰めて
糊と精製水で水溶液を作り
中身がふわふわ動く小さな水族館を作りました



Mちゃんの瓶は小さくて
他のおともだちと一人だけ違ったけれど
ちゃんと完成しました!


Mちゃん、みんなと同じようにさせてあげられなくて
本当にごめんなさい!
これに懲りずにまた来てね

次回は8月6日
夏休み中で、習い事の日程とかぶる子が多いようなので
ここまで大人数にはならないでしょうが
油断はできません
祈りつつ頑張って準備を進めます

ここからは作業中のスナップです

丸いふわふわを おたまで2すくい
(おともだちは「ぷよぷよボール」と呼んでいました)

人数が多いので、今回は
先生が水溶液を作りました
みんな興味津々


ここに水溶液を入れるよ

小さな桶の上で蓋を閉めます
ジャバっと溢れるからです!
ここでは牧師先生がみんなをお手伝いして
水が漏れないようにしっかり蓋を閉めました


まんぞく〜です!


2022年6月28日火曜日

聖霊降臨後第3主日礼拝

ガラテヤの信徒への手紙イザヤ書5章18〜25節
ルカによる福音書9章51〜62節
説教「イエスを道標として」中島康文牧師

この日曜日はルーテル市川教会の中島康文牧師をお招きして
お話をしていただきました
少し編集してYOUTUBEにUPいたしました
飯田ルーテルで検索してご覧ください

6月25日、天竜峡の「龍峡亭」で
教会員10名ほどが集まって教会修養会を行いました
天竜川を見下ろす眺めの良い部屋で
中島牧師にも同席していただき
教会の建築について話し合いの時を持ちました