2026年4月26日日曜日

「良き羊飼い」(日曜日のお話の要約)

復活節第4主日礼拝(2026年4月26日)(白)

使徒言行録 2:42–47 (新217) 1ペトロ2:19–25(新431)

詩編23編(新854)ヨハネによる福音書 10:1–10(新186)


今日のお話のタイトルは「良き羊飼い」といたしました。福音書でイエス様は、ご自身を「羊の門」であり、羊を導く「羊飼い」と語られます。この箇所と旧約聖書の詩編23編を少し比べてみましょう。


 詩編23編には「あなたの鞭、あなたの杖が、それが私を力づける」と記されています。杖も鞭も武器になりますが、それは言うことを聞かない羊に体罰を加えるためではなく、外敵から羊を保護するために用いられます。ですから羊にとって「鞭と杖」が見えることは、羊飼いがそばにいて自分を外敵から守り、迷わないよう導いてくれる証拠です。


 しかしイエスは、杖や鞭すら用いず、自分の声で羊を導き、必ず安全な場所に連れていく、そのような「良き羊飼い」です。何より羊は羊飼いの声を聞き分け、その声に絶対的な信頼を持って従って歩きます。


 イエス様の「羊はその声を知っている」と言う御言葉は、私たちに深い慰めを与えます。私たちがどれほど弱く、迷いやすくても、イエス様は、私たちを知り、呼び、導く声を持っておられるということです。


 長年教会に通っていると、礼拝も聖書も、どこか「知っているつもり」「わかっているつもり」になってしまうことがあります。詩編23編の解釈も、ヨハネによる福音書の10章の「羊の囲い」についても、礼拝説教の中で何度も聞いてきたはずです。御言葉の中にイエス様の呼びかけや聖霊の導きがあることはわかっていても、右から左へ抜けてしまって集中ができなかったり、全く心が動かない時があるのではないでしょうか。


 そんな時は「イエスが語っておられない」のではなく、「自分の中にその声を聞こうとしない何かがある」と気づくと良いのです。


 残念ながら、人は自分の感情に訴えかける声に耳を傾けようとします。耳ざわりの良い声や、自分を甘やかしてくれる声。心のどこかで、その声に委ねてしまってはいけないと思っても、そちらに惹かれてしまいます。


なぜなら、私たちは、日々の生活の中で、あまりにも多くの思い煩いを持っていて、自分を受け入れ、手軽な解決方法や慰めてくれる何かを求めているからです。そして間違った「入口」を選んでとんでもない場所に入り込み、身動きが取れなくなることもあります。


しかしイエス様は「私は羊の門である」と言われました。門とは、出入り口です。羊は門を通って外へ出て、草を食べ、また門を通って囲いに戻りそこで休息します。つまりイエス様は、「私たちの生活の入口であり、出口であり、守りであり、導きである」ということです。


 「私を通って来る者は救われる」イエス様を通して歩むとき、私たちは迷わず、命へと導かれます。羊飼いは私たちの弱さを知りぬいておられますから、わたしたちを泥沼から導き出す方法も導く声も持っておられます。同じ言葉でも、今日の私に必要な響き方で語られるのです。


イエス様はさらに言われました。「私は、羊が命を得、豊かに得るために来た」。

ここでいう「豊かさ」は、成功、財産、順調な人生を意味しません。人々は宗教や信仰に、そうした結果を求めがちですが、キリスト教信仰は、目先の問題が解決すれば良い、と言うようなお手軽な救いは教えていません。「どんな状況でも、神に守られているという深い安心」、「失敗や弱さの中でも、神様に愛されているという確信」そして、世の中の人から「それでは損をするだろう」と言う批判を押し返して進んでいく。これこそが、イエス様が与える豊かさです。


 詩編23編には「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない」と記されています。それはもちろん羊飼いが共にいるからです。


 また、使徒言行録2章43節には「イエス様を羊飼いとし、羊飼いの声に従う群れ」その初代教会の姿が描かれています。彼らは「使徒の教えに熱心に聞き」「交わりを大切にし」「パンを裂き」「祈りに励んでいました」。これは羊飼いの声に従う群れの姿です。彼らは完璧ではありませんでしたが、「主の声に耳を傾け、互いに支え合うことで、神の命が満ちていった」のです。そのために「キリストは、あなたがたのために苦しみを受けられた」と1ペトロ2章に記されています。


 良き羊飼いは、迷った羊を探し、傷ついた羊を抱き上げ、弱った羊を休ませ、命をかけて守る。十字架のイエス様は、まさにその姿です。私たちがどれほど弱くても、どれほど迷っても、どれほど心が冷えてしまっても、イエス様は見捨てません。


 長年教会にいる私たちも、同じように、どんな時も招かれています。「知っているつもり」をやめて、もう一度謙虚に「主の声に耳を澄ませる」その姿勢が求められています。


 今日、私たちが聞くべき「良き羊飼いの声」とは、「あなたは私のもの。私はあなたを知っている。恐れなくてよい」という御声です。この声は、不安の中にいる人には慰めとなり、疲れている人には休息となり、迷っている人には道しるべとなり、長年教会にいる人には、新しい感動となります。


 イエス様は今日も、私たち一人ひとりの名を呼び、「私について来なさい」と語りかけてくださるのです。


どうか今日、主の声があなたの心に新しい響きをもたらし、豊かな命へと導きますように。私たちは今一度、「イエス様の声に耳を澄ませる者として歩みたい」と思います。イエス様以外の、別の声に振り回されていないか、正しく思える何かに気を取られ、主の声を聞く時間をないがしろにしていないか、羊としての自分の弱さを知りながら、信仰生活の歩みをご一緒に豊かで確かなものとして参りましょう。


5月の土曜学校は9日
母の日の前日なので
「お花紙」を使ってプレゼントを作る予定です
いつも悩むのは子どもたちにとって
簡単なのか難しいのか
今ひとつわからないところです
もし時間が余ったら紙コップに
メッセージを書いてもらおうかと
考えています

2026年4月19日日曜日

「エマオのキリスト」(日曜日のお話の要約)

復活節第3主日礼拝(2026年4月19日)(白)

使徒言行録 2:14a&22~32(新215) 1ペトロ 1: 3~ 9(新428)

ルカによる福音書 24:13~35(新)


 私たちの幼稚園と教会は、10年前から国の基準に合わせた耐震工事事業を始めました。私は7年前に名古屋からこちらに赴任してから関わることになりました。


 私は新人牧師として神戸市長田区の神戸教会に赴任した時、震災からすでに4年目でした。しかし三宮などの繁華街は復興していたものの、一歩住宅街に入るとまだ更地が目立ち、屋根にはブルーシートがかかっていました。


 しかし神戸教会を取り巻く人たちは好奇心旺盛で温かく、どうすれば震災に強い建物や街や人間関係が作れるか、という課題に共に懸命に取り組みました。その経験が活かされたことを神様に感謝しています。


 飯田では、コロナ禍や戦争の影響による資材の高騰など、さまざまな問題がありましたが、幼稚園は無事新築され、昨年の6月には会堂の耐震工事とリノベーションが終了しました。昨年の11月の終わりには園児を迎え入れてアドベントの合同礼拝を始めることができました。先日は卒園式と入園式を行いました。これから、ここでどんな物語が繰り広げられているいくか楽しみです。


 さて、本日お読みした聖書には、イエス様が復活された後、それをなかなか信じられなかった二人の弟子が登場します。イエス様が十字架にかかってから三日目のことです。お墓に行った女性の弟子たちから復活のイエス様にお会いした、と聞いたものの、どうしたら良いかわからず、エルサレム近隣のエマオという村を目指していました。おそらく二人のどちらかがエマオの出身だったのでしょう。


 神様の御子であったイエス様が、なぜ残酷な十字架刑で命を落としたのかといえば、当時の政治が複雑に絡んでいます。


 イエス様がこの世にお生まれになった目的は、絶望や失望だらけの闇の世界に光を与えることでした。イエス様を慕う人々は日に日に増え、たくさんの弟子ができました。弟子たちにとってイエス様は太陽のような存在でした。イエス様はこの世界に生きる人々に救いと希望を与えるために、数多くの奇跡を行い、寄り添い、愛を注がれました。


 ところがイエス様が有名になり始めると、周囲は勝手に「新しい王様だ」とか「革命家だ」と盛り上がり、担ぎ上げようとしました。その一方、社会の実権を握っていた人々はイエス様が邪魔になり「イエスは神を冒涜して治安を乱す悪人だ」と罪をでっち上げ、ついに十字架にかけて殺してしまったのです。


 まさかそんなことになると思っていなかった弟子たちは、自分も同じように逮捕されるのではないかと恐れ、逃げ出したり隠れ家に閉じこもったりしました。この二人の弟子もまた、追手に怯えながらも、「復活されたってほんとかなあ」「いや、そんなことは信じられない」などと堂々巡りの会話をしながらエマオ村を目指していたのです。


 そんな二人に近づいてきたのはイエス様ご本人でした。しかし聖書には「二人の目は遮られていてイエスだとはわからなかった」と記されています。復活などあり得ない、と思うあまり、イエス様を認めることができなかったのでしょうか。

 しかしイエス様は「歩きながらやりとりしているその話は何のことですか」と穏やかに問いかけます。聞いた二人はイエス様が十字架にかかったという大事件も知らないのか、と驚きますが、旅人から重ねて「どんなことですか」と問いかけられ、自分達の抱えた葛藤や悲しみや疑いの思いを、謎の旅人に向かって語ったのです。


 状況を考えると、彼らはイエス様の仲間だとバレるのはまずかったかもしれません。それでも語らずにはいられない安心感と優しい雰囲気をイエス様がお持ちだったのです。


 結果として、二人の弟子は自然と「イエス様は復活されたのだ」という喜びの結論へと導かれていきます。イエス様は決して「私がイエスだ!」と名乗ったりしていません。ただ、彼らの中にある信仰に働きかけ、もう一度弟子としてやり直す力を引き出してくださったのです。


 イエス様がよく、優れた教育者とか比類なきカウンセラーと評されるのはこのお力によります。相手の言葉に耳を傾け、訂正すべきところは静かに訂正し、正しい結論に導いてくださるのです。

 私たちがイエス様に学ぶことは数えきれないほどありますが、日々現場にいる時のその心には、子ども達の言葉に耳を傾けることが大切です。その対話の中に、実はイエス様が神様が共にいてくださるのです。


 大人である私たちは受けてきた教育と経験によって「正解」を知っていますが、子どもにとっては全てが初めての体験です。友達とのやり取りや、初めてする運動、上手くいかなくて、泣いたり、怒ったりする光景が毎日繰り広げられています。


 そうした日々の中で、私たちが強引に子ども達を正解に導こうとしても無理があります。そんな時、イエス様ご自身が私たちと子ども達の間を歩いておられることを知り、教師自身が安心感をいただけることが、キリスト教保育の特長でしょう。私たちは誰ひとり完璧ではありませんが、どんな時も、イエス様に祈ることで、ここは神様によって建てられた場所だ、という思いに立ち返ることができます。みなさんが神様の平和に心を委ねる時、子どもたちにも保護者の方々にも平和の心が広がっていくのです。


 最後になりますが、改めて、日々この園で、そして教会学校で、子ども達の隣りを歩み続けている先生方に心からの感謝を申し上げます。


 皆さんのその尊い働きを、神様は決して見過ごされません。皆さんが子ども達にパンを分け与えるように愛を注ぐ時、神様もまた、皆さんの心に新しい命のパンを与えてくださいます。どうぞ、一人で背負わないでください。イエス様と共に神が共におられます。そして、この教会も、私も、皆さんと共に歩みます。



この4月から、朝比奈は山梨県の甲府教会と兼牧を

することになりました。

甲府教会は残念ながら無牧となりましたが

土曜日の午前11時から、週替わりで複数の牧師が

礼拝をいたします

朝比奈は第3週の土曜日、礼拝と役員会を担当

他の土曜日は東京方面から他の牧師先生が

行くことになっています


飯田からは高速道路を使って片道2時間半ほど

今日は良いお天気で、富士山が見えました





さて飯田教会の周辺ではさまざまな花が一気に咲き始めました


戦後に飯田市内を襲った大火
復興のために中学生たちが大人の反対を押し切って
りんご並木を作りました
今でもその伝統は東中学に受け継がれています


りんご並木近くの公園では
藤の花が咲いています
白藤も良いものですね

2026年4月12日日曜日

「イエス様とトマス」(日曜日のお話の要約)

復活節第2主日礼拝(2026年4月12日)(白)

使徒言行録 2:14a&22~32(新215) 1ペトロ 1: 3~ 9(新428)

ヨハネによる福音書 20:19~31(新210)


 毎週月曜日の午前中は、在園児のための合同礼拝が行われています。幼稚園の先生から「今日は進級したばかりの子どもが初めて参加する礼拝です。子ども達に復活について教えてあげてください。」とリクエストされました。


 生まれてから3年、4年位の幼い子どもに「復活」について教える。「死ぬ」ということも、よく分からない子どもに「復活」のお話をするのは至難の業です。とはいえ、わたしなりにコツを掴んできまして、いきなり「復活」について話をすることはやめ、イエス様とはどういう方なのかということからお話しをすると、みんなが真剣に聞いてくれるのです。


 こども達一人一人と目を合わせて「みんなのことを本当に大事にしてくれて、困った時には助けてくれて、間違ったことをしたときには叱ってくれる人が死んでしまったら、どうする」と聞いてみたのです。


 病気の時は、抱きかかえて病院に連れて行き、転んで怪我をしたら痛くなくなるまで手当をしてくれて、大丈夫、大丈夫といってくれる方が、死んでしまったら?この言葉に子ども達は半泣きです。3年、4年しか生きていなくても、子どもは子どもなりに自分が愛を受けて育ってきたことは分かっているのです。いままで悪いことをしてしまったり、怒られてしまったことを、今からはしないようにとするから生き返って欲しい、とまで言ってくれました。すごい感受性だなあと思いました。


 幼い子どもでも自分は愛を受けて育ってきた、と理解できるように、2000年前のユダヤの人々もイエス様という方は、虐げられた者たちに心からの愛を注いでくださる方だと信じ、イエス様を慕いました。


 ところが、一部の人たちは、イエス様に革命家とか武力的に強い王様だとか、勝手に理想像を重ねており、イエス様の穏やかな姿に何か違うなあ、と思い始めます。権力者たちはそこにつけ込んで、イエス様を逮捕し、不当な裁判にかけて、十字架の上で殺してしまったのです。


 イエス様を信じていた人は、愛の教えも大きな力の前では無力なのかと絶望を抱きます。そして、イエス様を十字架に押し上げて殺した大きな闇の力から、なんとか逃れて自分の命を守ろうとしました。しかし、みなさんもご存知の通り、イエス様は三日後に復活なさったのです。


 本日読みました福音書は、イエス様の弟子の一人「トマス」の物語です。イエス様には12人の忠実な弟子たちがおり、トマスもその一人です。しかし12弟子のうち、ユダはイエス様を裏切った後、自殺してしまいます。残された11人の弟子たちは、自分達もイエス様と同じように捉えられて死刑になるのではないかと恐れ、閉じこもっていました。


 ところがイエス様は復活なさるとすぐ、弟子たちの隠れ家に来てくだださいました。しっかり戸締りされた部屋へ不思議なお力を使って入って来られたのです。弟子たちは驚きと喜びに包まれました。


 しかしなぜかトマスはそこにいませんでした。隠れ家に戻ったトマスは、他の弟子たちが見違えるように明るい顔で「イエス様が復活された」と語るのを聞きます。トマスは混乱し、「イエス様の釘の跡に指を入れるまで信じない」と乱暴な言葉を口走ってしまいます。


 この描写が一人歩きして、彼はよく「疑り深いトマス」と呼ばれますが、トマスが復活をすんなり信じられないのはもっともなことです。トマスはイエス様の掲げた愛の教えが無惨に踏み躙られたのを見ました。イエス様の教えを引き継ぎたい、という思いがどこかに残っていたとしても、そんな力は出て来なかったのです。


 トマスは「イエス様が復活したのが本当だとしても、なぜわざわざ自分がいないときに隠れ家に来られたのだろう」と、仲間はずれにされたような、悲しさと怒りを覚えたのでしょう。


 しかし、もちろんイエス様ご自身はトマスに意地悪をしたわけではありません。イエス様がなさることには全て理由があります。イエス様はこれから先、いつまでもが弟子たちと共にいられるわけではありませんから、「見なくても復活を信じることができる」という信仰を授けようとされたのです。


 トマスが悶々と過ごして8日後、イエス様は再び弟子たちの隠れ家を訪れました。鍵のかかった扉を通って入って来られたことも前回と同じです。そして今度はトマスもそこにいました。イエス様はトマスに向かって、ご自分の傷に触れるようおっしゃいます。それは8日前トマスの「釘跡に指を入れ、脇腹の傷に入れなければ信じられない」という暴言をちゃんと聞いておられたことを表しています。


 この瞬間、トマスは悟ります。イエス様は自分が駄々っ子のように「見てない、会ってない、だから信じられない」と喚いていた時も、本当はすぐそばで見守ってくださり、自分を導くために最良のタイミングを計画しておられた、とわかったのです。ですからトマスはイエス様の傷跡に触れることなく「我が主、我が神」と信仰を言い表しました。


 するとイエス様はトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。このメッセージは、トマスに向けられたのと同時に、イエス様が天に帰られたあとも、今に至る2000年の間に信仰に導かれたすべてのクリスチャンに向けられた、尊い御言葉となりました。


 「疑いから確信へ」。まず疑いから始めることは誠実なプロセスです。揺るがない信仰を持つために、神様が与えてくださった恵みです。復活を信じるとは、理屈ではなく、聖書を通してイエス様の愛に触れた時、イエス様が神様であり、十字架からの復活は決しておとぎ話ではない、と染み入るようにわかってくるのです。


 教会は、神様がご計画された者たちの巡り合いの場でもあります。あらゆる理屈を超えて、トマスが「私の主、私の神」と告白したように、私たちも力強い信仰を告白してまいりましょう。


昨日は土曜学校でした

一週間遅れのイースターをみんなでお祝いです

保護者の方に協力していただいて

園庭にゆで卵を隠し

エッグハントを楽しみました


エッグハントでゆでたまごをゲットした後は
木製の小さなウサギに色をつけました


D君のウサギは鮮やかな黄色
本人とお揃いだね

2026年4月5日日曜日

「あの方は復活された」(日曜日のお話の要約)

主の復活礼拝(2026年4月5日)(白)

マタイによる福音書28章1-9節


 みなさん、イースターおめでとうございます。


 突然ですが、みなさんは怖いものってありますか?小さいお友達は、虫とか、注射とか、夜中にトイレに行くのが怖いとかかな?大人の人も「私は怖いものなんかない」と威張っていても、本当はいろんなことが怖いものです。


 神様やイエス様、天使たちはそれを知っているので、人間たちを「恐れるな」、と励ましてくれました。だから聖書には「恐れるな」という言葉がたくさんあります。ある学者さんが聖書を全部調べて数えたら、なんと300以上あったそうです。


 今日の聖書箇所にもありますよ。天使が言った言葉が「恐れることはない」ですね。この他に「恐れることはない」と書かれているところを知っていますか?例えば、クリスマス劇で天使が羊飼いに言った言葉を思い出してください。


 天使が羊飼いに「イエス様がお生まれになった」と、嬉しいお知らせをしようとしました。ところが、羊飼いは自分のところに立派な天使が来るなんて考えたこともなかったので、何か悪いことをして天使がバチを当てにきたんだ、自分は死んでしまうかもしれない、と怖くなりました。天使はそれに気がついて「羊飼いさん、怖がらなくていいですよ」と言ったのです。


 他に有名なところでは、お弟子さんたちが夜の湖で、うまく舟が漕げなくて困っている時、イエス様が湖の上を歩いて助けに来た時のことです。


 お弟子さんたちは、まさかイエス様が水の上を歩けると思いません。夜中に水の上を歩いて近づいて来るイエス様を幽霊と見間違え、呪い殺されると勘違いしてとっても怖がりました。それでイエス様は「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」と言ってくださったのです。


 人間はいろんなものが怖いけれど、「死ぬこと」が一番怖い、と天使もイエス様も知っていました。大人になると「あとどれくらい生きられるのかなあ」とか、「死んだらどうなるんだろう」とか、「苦しんで死ぬのは嫌だなあ」とか「死ぬこと」を考えることが多くなって、怖くなってきます。


 神様は天国からそれをご覧になって、人間がかわいそうになりました。そこで「きれいな心を持っていれば、死んでも神様の国に来られるから、怖がらなくても大丈夫です」と教えました。


 ところがです。大抵の人間は、自分が綺麗な心を持っている、と思えないのです。小さい子でも、お友達の嫌がるいたずらや意地悪を、わざとすることがあります。大人になれば、仲良くできない人に意地悪をすることはもっと増えます。綺麗な心の正しい人になるのはとても難しいのです。そして「私のやった意地悪や嘘は神様には全部バレているだろうなあ」と思って、自分みたいな人間は天国に行けない、地獄かもしれない、死ぬのが怖い怖いと言い続けるのです。


 困ってしまった神様は、人間を助けるために、すごい計画を立てました。それはこんな計画です。ある人が、もうめちゃめちゃに悪いことをしたとします。警察に捕まって、死刑になることが決まりました。普通ならそんな人は地獄行きまっしぐらです。でもその人が心の底から悔い改めて、つまり反省して、イエス様にお祈りするなら、死刑になっても、地獄ではなく天国に行けるようにイエス様が助けてくれる、というのです。


 どうやって助けると思いますか?それはイエス様が、悪いことをした人の身代わりになって、最高に痛くて苦しい死に方で本当に死ぬ、という計画だったのです。


 イエス様は「死ぬのが怖いよう」と泣いている人間が、もう怖がらなくて良いように、苦しい十字架の死刑になりました。悪いことをした人でも、「イエス様、私の代わりに十字架にかかって、苦しい思いをさせて本当にごめんなさい。ありがとう」と心からお祈りできれば、もう大丈夫。天国に行くことができるのです。


 さて、今日の聖書の箇所をもう一度見てみましょう。イエス様が死んで三日目の朝早く、お弟子さんの中で、勇気のある女の人が二人、お墓に行ったと書いてあります。死んでしまったイエス様のお体を綺麗にしてあげようと思ったのです。


 女の人たちはすごく悲しくて、「イエス様を助けてあげられませんでした、ごめんなさい、赦してください」。そんなふうに考えているうちにお墓につきました。するとそこに天使がいたのです。女の人たちは、イエス様を助けられなかったバチを当てにきたのかな、私たちは死ぬのかな、とガタガタ震えました。


 でも天使は言いました「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」


 女の人たちはびっくりです。嬉しくなって、他のお弟子さんたちにも教えてあげようと、お墓を飛び出して走り始めました。するとなんと目の前にイエス様が立っていて、明るく「おはよう」と言ってくださったのです。天使の言ったとおり、イエス様は一度死んで、三日目に復活なさったのです。これが神様のご計画でした。


 「あの方は復活なさったのだ。」天使の言葉はとても大切です。イエス様は冷たいお墓にいるのではなく、天国からただ見下ろしているのでもなく、どんな時も私たちを見守ってくださいます。


 私たちの人生は幸せなことがいっぱいあるでしょう。そしてそれと同じくらい泣きたくなって、怖くなって、もうだめだ、と思うこともあるでしょう。でも、どんな時も、イエス様も天使も神様も「恐れるな」と言ってくださいます。


 そのお言葉を信じて、私たちが天国に行く時まで、イエス様と共に歩き続けましょう。「イエス様は復活なさった。恐れるな」これを私たちの大切な言葉としてまいりましょう。



本日は復活祭

皆様はどんなふうに過ごされたでしょうか?

飯田教会では、リーベクワイヤ(ハンドベル)と

ルーテルキッズバンドが賛美を担当

キッズバンドのメンバーは朝のリハーサルが終わると

たまご探しを楽しんでから

礼拝に参加しました


リーベクワイヤさんのハンドベル演奏を
ちゃんと座って聞いている子どもたち


教会員の方から写真をいただきました(^▽^)


アレルギーのお友達がいるので
たまご探しはゆで卵ではなく
「たまご型カプセル」に
キャンディと小さな十字架の
ペンダントを詰めてみました
どんな反応かなあと思いましたら
「これをつけて歌っていい?」と大はしゃぎ
予想を上回る反応にこちらも嬉しくなりました