聖霊降臨後第8主日礼拝(2026年7月19日)(緑)
イザヤ 44:6~8 (旧1133) ローマ 8:12~25 (新284)
マタイによる福音書13:24~30&36~43(新25)
人は、今の状態がパッとしないのは、あるいは、今が不幸なのは、きっとあの時の悪い出来事が影響しているからに違いない、と思う心の動きがあります。それはごく個人的なことから、国を揺るがすような、歴史を変えるような、ものすごく大きなことまであります。
「あの時の失敗や判断ミスが今の不幸を生んだのだ」と、後悔しても仕方のない堂々巡りを、歴史の中にも数限りなく見ることができます。
教会の歴史も例外ではなく、間違いや後悔の歴史でもあります。しかし神の手の中にあるキリスト教会は、大きくつまづいても、必ず軌道修正して今日に至っています。
西暦392年、キリスト教が正式にローマ帝国の国教になります。もちろん名もなき信徒たちの信仰がローマを変えていったのですが、そこには政治的思惑もあり、ローマ帝国を統一し、維持するために、唯一の絶対神による正統性の確立が必要だったようです。
ですから教会の威厳を保ち続けるためにも、非のうちどころのない、聖なる信者だけが集まり、純粋な教会であるべきだと考えました。その時、かつてローマの厳しい迫害に耐えかねて、一度は信仰を捨てた人々をどう扱うか、と言う問題が持ち上がりました。
ドナティウス派と呼ばれる人々は非常に厳格に考え、そういった人々が教会に帰ってくるのを許そうとしませんでした。特に迫害に屈服した教会指導者から洗礼を受けた人々は、その洗礼すら無効だと主張したのです。
しかしこの意見に反論したのがアウグスティヌスです。アウグスティヌスは、皆さんもご存知のように、聖人とか教父と呼ばれ、キリスト教の正統信仰の確立に貢献した人物です。
アウグスティヌスは、キリスト教の洗礼は、どんな聖職者から受けたかが重要なのではなく、洗礼を受けたことそのものにキリストの導きがあるのだから、誰も否定してはならない、と反論しました。
そしてアウグスティヌス自身、かつて不道徳な生活から救われた信仰経験を持っていたので、地上の教会は「聖なる者」と「罪人」が混在する場であることはやむを得ない、と主張しました。
アウグスティヌスは、イエス様の語られた「麦」のたとえを根拠に、教会は完全な聖人だけの集まりではなく、良い麦も毒麦も混在する共同体であると述べたのです。誰がどんな麦なのか、天に召されて神様の審判を受けるまではわからないのだから、両者は生きている間一つの教会で共存していかなければならないし、人間が性急に選別してはならないと説きました。
この教えは何百年も正統的な考えとして引き継がれ、宗教改革の時代、さらに強固なものとなります。ルターは、この「麦」のたとえを用いて、みなさんもよく知っている「信仰義認」の教理を完成させたのです。ルターは、人間が自力で救いを勝ち取るのではなく、「神の恵みと信仰によってのみ義とされる」と示します。
ルターは、人間を「義人であり、同時に罪人である」と考えました。1人のキリスト者の内側には「良い麦麦」にたとえられる素直な信仰と、「毒麦」にたとえられる「罪」や「弱さ」や「言い訳」などが混在しています。「罪」を強引に抜こうして果たせず、「自分はどうせこの程度」と絶望するのはではなく、こんな自分でも神が赦してくださると信じ、「毒麦」さえ救ってくださる「解毒剤としてのキリスト」により頼むべきだと教えました。
ルターに続く宗教改革者カルヴァンも、イエス様が「畑は世界である」と解説している点を重く見て、世界全体には神に選ばれた者、つまり「小麦」と、最初から見捨てられた者「毒麦」が混在しているが、その最終的な選別は世の終わりの時、神の主権に完全に委ねられていると述べたています。
さらに第二次世界大戦ののち、20世紀最大のプロテスタント神学者と呼ばれたカール・バルトもまた、このたとえを用いました。「人間は自分自身の力で「良い麦」つまり食用となる小麦となることはできず、すべての人間は元々神の前に「毒麦」罪人のような存在であり、それをキリストが贖ってくださったおかげで、私たちは「小麦」になった、そう信じるべきだと勧めました。
バルトは神を信じることを、人間の弱さや思考の放棄ではなく、神の徹底的な恵みに対する「服従」であると捉えました。世界を巻き込む大きな戦争の残した傷跡は深く、敵対する相手を「毒麦」と呼んで排除しようとした当時の教会の在り方に警告を与えたのです。
このように、キリスト教会は御言葉を堅く信じるリーダーたちのもとで何度も立ち直ってきました。しかしまた間違える時代はやってくるでしょう。どんな時代になっても、神様こそ私たちのお仕えする唯一の王である、と告白して自分はキリスト者になったのだ、その事実を忘れてしまうと、人間は現実に振り回されたり高慢になったりして、結局は宗教も人生も無茶苦茶になって破滅してしまいます。
だからこそ私たちは聖書を読み続けるのです。本日のイザヤ書にあったように神様ご自身の「わたしをおいて神はない」と言う御言葉を繰り返し心に刻むのです。
そして先ほど読みましたローマ書に記されているように、自分自身が「神の霊によって導かれる神の子ども」であると信じ、神の導きを何より大切にする生き方を新たにするのです。
自分自身の心をもう一度見つめ、自分が良い麦であるキリスト者として召されていることを信じましょう。繰り返しになりますが、一人の人の中には「毒麦」にたとえられる「罪」や「弱さ」が存在しています。しかし絶望するのはやめましょう。神の赦しを信じ、キリストにより頼み、互いに「あの人は毒麦のようだ」と捌き合うこともやめ、神様に喜ばれる生産性豊かな場所に整えてまいりましょう。





