聖霊降臨後第21主日礼拝(2026年10月18日)(緑)
イザヤ書 45:1-7(旧1135)
Ⅰテサロニケの信徒への手紙1:1-10(新374)
マタイによる福音書 22:15-22(新43)
みなさんは「政教分離」とか「信教の自由」と言う言葉をお聞きになったことがあるでしょう。正確には「政教分離の原則」と言います。国が特定の宗教だけひいきしたり、特定の信仰を強制するのを防ぎ、信仰を持つ人も持たない人も尊重する、という考え方です。
しかし、日本においては結局それは建前で、キリスト教は冷遇されてるなあ、と感じることは多いのではないでしょうか。
テレビなどでたまに、「うちの会社はイスラム教の人たちのお祈り時間に配慮しています」といった報道を見ることがありますが、「うちの自治体はキリスト教徒の礼拝時間に配慮しています」というニュースは聞いたことがありません。
信教の自由が憲法で保障されているとはいえ、あくまで日本の風習や慣例を損なわないようにやるのが前提で、町や地区の行事も当然のように日曜に設定され、キリスト者が礼拝に出席できないと嘆いても、「たまに休むくらいいいじゃないですか」という風潮です。その一方で「ルーテル幼稚園や教会は本物のクリスマスをこの地域社会に知らせて欲しい」と言われる事もあって、「どっちやねん」と悩ましい限りです。
結局のところ、日本のキリスト教は信仰者一人一人がしっかりと考えて神様に繋がり、矜持を持って自分の行動を決めていかなければ、潰されてしまいます。世間に合わせて流されていたら教会そのものが消えていくのです。
このような宗教と国家の問題は、もちろん日本の問題だけではなく、世界中の歴史の中で、繰り返し繰り返し問題となってきました。本日の福音書にも、そういった側面が出てきます。
イエス様の時代はイスラエルはローマとの戦いに敗れ、属国として支配されていました。イエス様がお生まれになったのは、アウグストゥスがローマの皇帝となった時代です。ルカ福音書のクリスマスストーリーに「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出た」と書かれている通りです。
アウグストゥスは通貨制度を整備し、確立させた人物で、金貨や銀貨の表面に自分の横顔の肖像を刻み、裏面には政治的・宗教的な図案を刻印して、ローマが支配しているさまざまな国に流通させました。
しかし、イスラエルでは皇帝の肖像は偶像と見なされ、これが刻まれたコインは不浄だと、神殿で神様への献金に用いることは絶対にしませんでした。ではどうしたかというと、両替商というビジネスを立ち上げ、神殿の境内で手持ちの通貨を両替したのです。ここからまた汚職が発生するのですが、説明が長くなりますので、本日は本日の聖書箇所に集中して参りましょう。
本日の福音書には「ヘロデ党」が登場します。彼らはヘロデの一族が王としてユダヤを統治する事ができるなら、皇帝の腰ぎんちゃくになる事も厭わない人々でした。今、平和なのはローマ皇帝に上手に取り入ってきた来たヘロデ一族のおかげだ、ありがたく思えという、なかなか世俗的な考えを持っていたのです。
一方、ファリサイ派はそんな世俗的な汚れや異教的文化から距離を置くユダヤ教の有力な宗派です。イスラエルの王は主なる神のみであって、ローマ帝国の支配などは排除したい、と考えていました。ですから対立を避けるためとはいえ、できる事なら皇帝への税金など納めたくない、と思っていました。
ファリサイ派とヘロデ党はいつもは対立する組織でした。それが、イエス様が民衆から人気を得ているのが目障りになったので、手を結び、言いがかりをつけてイエス様の抹殺を計画したのです。
まず、イエス様に対し、歯の浮くようなお世辞を並べ、理論武装した上で罠にかけようとしました。それが「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問でした。
もしイエス様が「神の民であるユダヤ人は皇帝などに税金を納めるべきではない」と答えるなら、ヘロデ党の者たちが、ローマへの反逆だ、と騒ぎ、ローマ総督に訴えることができます。逆にイエス様が「ローマへ税金を納めなさい」と答えるなら、今度はファリサイ派が「イエスが、実はローマの支配を受け入れて、それに従えと言っている」とイエス様をおとしめる事ができるのです。
この質問は、イエス様を陥れるための醜さに満ちていましたが、イエス様はそれを格調高いものへと変えてくださいました。イエス様はまず、このコインに刻まれている肖像は誰か、と質問されます。あさはかなファリサイ派とヘロデ党が「皇帝のものです」と答えるとイエス様はおっしゃいました。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」
聖書には、「これを聞いたファリサイ派とヘロデ党は驚き、イエス様をその場に残して立ち去った」と書かれています。彼らをこれほどまでに驚かせ、退かせたイエス様のお言葉には、どのような意味があったのでしょうか。
ここで私たちが先ず第一に考えなければならないのは、「神のもの」とは何か、という事でしょう。
創世記27節に「神は人を自分のかたちに創造された」と記されています。これはユダヤ教徒なら誰でも知っている御言葉でした。当然ファリサイ派とヘロデ党も子どもの頃から叩き込まれてきた考え方です。また、彼らはイエス様の揚げ足をとるために遣わされたのですから、その辺のならず者ではなく、イエス様が言わんとしていることにハッと気づくだけの教養があったのでしょう。
このイエス様の言葉をあえて言い換えるなら、「人間とは神様の形が彫り込まれたコインのような存在である」人間の心には、目には見えなくても神様のお姿が刻み込まれている、私たち一人ひとりは神様のものだ、という事なのです。
イエス様は「皇帝が払えというのがユダヤの秩序を保つために必要なら払ってやりなさい」と言われた上で、「しかし、私たちは神様のものなのだから、その良心や信仰まで渡してはいけません」とおっしゃったのです。
質問者たちは、自分達がどうでも良いような質問でイエス様をおとしめることは、神様の御心ではないことに気付き、自分の底の浅さが恥ずかしくなって逃げ出したのでしょう。これはいかにもイスラエルらしい問答と言えます。
残念ながら、イエス様は胸を打つ回答をしたにも関わらず、やはり、神殿やローマ帝国に叛逆を企て、世の中を騒がせたという罪を被せられ、十字架につけられ死刑になってしました。正しいものが正しく評価される事が少ないのは、政治や経済利益が優先される社会では、昔も今も変わらないことかも知れません。
しかしイエス様はこの世の権力に屈したように見えて、復活と天国を堂々とお示しになり、私たちは永遠に神のもの、天国のものであると教えてくださったのです。
私たちは、すでにイエス様を信じて、神のもの、永遠のもの、神の国のものになっています。改めて、神のものは神にかえす、その御心通り、誰かからの、どっちつかずの質問にもめげず、神にものとしての人生を歩むことを喜びといたしましょう。
秋から冬にかけて、教会は行事が目白押しです
来週10月25日は宗教改革記念礼拝
リーベクワイヤさんのハンドベル特別賛美があります
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| 昨年のリーベクワイヤの演奏 |
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| 11月15日は子ども祝福式 ルーテルキッズバンドのメンバーは田中としやさんの 指導のもと「私と小鳥と鈴と」を練習中 他にはこども讃美歌「コスレボナヨ」や 「海と空 つくられた主は」「花も」を練習中です 少しでも多くの方が礼拝に出席して 賛美の時間を共にしてくれますように |








