2026年7月5日日曜日

「共に担う軛」 (日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第6主日礼拝(2026年7月5日)(緑)

ゼカリア 9: 9~12 (旧1489)   ローマ 7:15~25 (新283) 

マタイによる福音書11:16~19、25~30 (新20)


 私たちは、キリスト教伝道の働きに召されていますが、人や環境に振り回されることは多くあります。聖書はそんな私たちに導きを与えてくれます。


 大前提として、聖書には、誠実に神の言葉を人々に取り次ぐ人々は、民衆から理解されにくく、権力を持つ人々からは迫害されると書いてあります。旧約聖書の預言者たちは皆同じように酷い目に遭いました。


 また、洗礼者ヨハネは、禁欲的に生き、腐敗した社会や権力者に厳しい言葉で悔い改めを迫りますが、結局権力者によって命を奪われました。


 ではイエス様はどうかといいますと、世の中で地位や権力を持っている人々は、やはりイエス様に批判の目を向けました。


 イエス様は洗礼者ヨハネとは対照的に、罪人や心に重荷を抱える人々に厳しい言葉で迫るのではなく、おおらかに振る舞い、食事しながら楽しく交流することもありました。しかし、本日の聖書箇所の19節でイエス様ご自身が言われているように、イエス様の態度を見た人々から「あれは大食漢の大酒飲みだ」と批判されたのです。


 厳しくても明るくても、自分と考え方の違うものを排除しようとする人々はいつの時代にもいます。それでもなお、わたしたちが信仰に結びついて、礼拝に集い続けているのは、主イエス様に招かれているからであり、イエス様と共に重荷を負っている、つまり軛を荷っているからなのです。


 この「軛」とは、週報の写真にあるように、牛や馬に農具や荷車を引かせるための木製の枠組みです。一般的には「軛」は「束縛」を意味する言葉ですが、キリスト教においては、イエス様と共に歩むことです。そしてイエス様は「その軛は軽い」と言われるのです。


 ここで私たちが勘違いしてはいけないのは、重荷そのものは無くならない、ということです。イエス様と共に負うと言っても、重さは感じますし、なぜ自分が負わなければならないのか、という疑問もつきまといます。けれども、その重荷は世間にある重荷より軽い、とイエス様は言われるのです。


 イエス様のお言葉を理解するために、少し視点を変えて見ましょう。どんな人でも、生きていく上でなんらかの責任や重荷、苦しみを持っています。生きるためだけに重たい荷物を背負い、どこに続くのかわからない道をひとりぼっちで歩くとしたら、非常に辛い人生です。


 しかしイエス様は、ご自分と共に歩こうとする人には、行くべき道を示して共に行き、重荷も共に担おう、とおっしゃるのです。しかもその道は神の国に続いているのです。こう考えるとイエス様が「その軛は軽い」とおっしゃる意味がわかってくるのではないでしょうか。


 さて、私事ですが、以前から時々幼稚園の送迎バスの添乗をしており、最近はその回数も増えました。帰りのバスの添乗では、ありがたいことに、子どもたちは喜んでくれます。友だちとさよならしての帰り、寂しい気持ちを紛らわす、お楽しみタイムがおまけされたと感じているようです。またバスを迎える保護者の方には、「理事長自らが」と畏れかしこむ方もいらっしゃいます。


 けれども、園バスは園児を安全に保護者の元に送り届けることが大前提です。「楽しく」というのは、安全が守られた上で、それなりのルールを守って成り立つものです。うれしくて羽目を外す子どももいるので、そこをどう牽制していくかが、添乗者の腕の見せ所となります。


 安全面だけを考えると、色々なルールを決めて守らせるというのも方法の一つですが、私は大騒ぎを注意するのでなく、「大騒ぎをコントロールするにはどうするか」だけを考えています。6歳にも満たない子どもを規則で縛ってもうまくいかないのは経験から分かるからです。


 ただ、日本人は諸外国に比べて規律を重んじ、ルールを守る傾向が強い国です。これは日本人の長所とも言われています。今、園にはさまざまな国にルーツを持つ子どもが増えてきましたが、ここで育つ園の子どもたちは、自然と日本的なルールを身につけるようになるのでしょう。


 とはいえ、ここに日本の欠点もあります。ルールそのものが現実に合わなくなっても、なかなか変更しなかったり、決められたことを守らない人、自由な行動を好んで全体行動を重んじない人を、批判したり排除したりてしまうのです。


 極端にいうと、日本人の多くは真面目で誠実だけれど、保守的で石頭なのかもしれません。そして程度に差はあっても、クリスチャンである私たちもそんな性質を持っていると思います。


 だからこそ、同じ教会に集っていても、価値観はズレるもの、と、どんと構えている必要があります。そして、そこをふまえた上でイエス様に従って共に奉仕しながら生きる。そう覚悟を決めることがイエス様と同じ軛を負って進もうとする私たちに必要な考え方なのでしょう。


 イエス様の御言葉「わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽い」を心に刻みましょう。恐れたり悩んだりしているばかりでは、埒が開きません。共に軛を担ってゆくには、私たちが培ってきたことを、もう一度取り戻して、まず自分自身を基本に忠実な信徒に戻すことが大切です。


 自分にあった聖書の学びをし、祈りの時を持ち、教会員として、クリスチャンとしての歩みを、ここで表現していくのです。最初は小さな集まりしかできないかも知れませんが、地道な歩みは、いつかは花が開くのです。


 今これから自分達が出来ることを、見返しながら、時間を整えて、主の僕となり、それが、共に担う軛となり、その重さや時間をかけながら、新たな歩みを共に歩んで参りましょう。



次の土曜日は土曜学校の日です

お話の内容も工作も、毎回すんなりとは決まりません

子どもたちの年齢に幅があるので

どうすればわかりやすく、楽しくいろんなことができるか

ヘトヘトになるまで考えることもあれば

突然閃くこともあります

今回は工作はすぐに決まったのですが

読み聞かせするお話がまだ決まっていません


この聖句を生かした紙芝居か絵本はあるかしら

「探しなさい」と神様がおっしゃいますから

うまく探し出せる…はず😓




スイカうちわ、小さいお友達も
うまくジャバラ折ができるよう
指導を考えるのが今回のポイントかもしれません

2026年6月28日日曜日

「私たちの救いの業」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第5主日礼拝(2026年6月28日)(緑)

エレミヤ 28: 5~9 (旧1229)   ローマ 6:12~23 (新281) 

マタイによる福音書10:40~42 (新19)


 先週は女性会で、旧約聖書を通して聖書の国・イスラエルの歴史についておさらいをしました。現代の、紛争の絶えない現代イスラエルと、聖書に記されている古代イスラエルは、どう違うのか分かち合う時間となりました。歴史が苦手、とおっしゃる方には酷かもしれませんが、聖書を読む上でイスラエルの成り立ちを把握することは欠かせません。


 古代イスラエルは紀元前1000年頃、ダビデ王によってエルサレムを首都とするイスラエル王国となりました。ダビデの息子であるソロモンは知恵のある人物として有名で、イスラエルを急速に成長させ、神様の為に立派な神殿を建築します。

 しかしソロモン王が死ぬと、北部の10部族が反乱を起こし「北イスラエル王国」として独立します。南側は「南ユダ王国」としてダビデの血筋を保ち神殿を守り続けました。


 この二つの国は兄弟国家でありながら、何度も凄惨な戦争を繰り返した挙句、北イスラエル王国はおおよそ建国200年ほどでアッシリアに滅ぼされます。


 南ユダ王国の方も350年ほどでバビロニア帝国に滅ぼされ、ソロモンが建設した神殿も壊され、民衆はバビロニアに連行されます。これを「バビロン捕囚」と言います。しかしやがてペルシャ帝国が台頭してきてバビロニアを滅ぼし、囚われていた南出身のユダヤの民は祖国への帰還と神殿の再建築を許可されます。


 しかし、その時には北の国があった土地には他民族が移住し、ユダヤ人と他民族が結婚してサマリア人と呼ばれるようになっていました。このサマリア人と南のユダヤ人は考え方が全く違うので、また反発し合うこととなりました。


 なんて面倒な歴史だろうと思われたことでしょう。現代のイスラエルはさらに複雑な歴史を持っていますが、そこの話は改めてするとして、イエス様がお生まれになるまでのイスラエルについて頭に入れておくことが、聖書を理解する上で欠かせないのです。イエス様の時代だけなんとなくわかっていればそれでいい、と思いがちですが、イエス様の時代においても、なぜ当時のイスラエルがローマ帝国に支配されていたのか、また、どうしてイエス様はわざわざベツレヘムで生まれたのか、などなど、歴史の知識なくては理解できないことがたくさんあります。


 こういった出来事を把握するには礼拝で説教を聞くだけでは足りません。それで教会には、礼拝以外にも聖書研究会を開いて学びの機会を得る伝統があるのです。


 では当のイスラエルの人々はどうかというと、やはり自分の国であってもの紀元前1000年まで遡る長い歴史を把握するのは簡単ではありませんから、子どもの頃から教育を受けます。彼らは、逆境の中で聖書の言葉を神様のメッセージとして真剣に心に刻みつけ、生きる指針としました。紀元前、戦争で囚われの身となっていた時はシナゴークと呼ばれる集会所を作り、聖書を暗記するほど熱心に学び、神様への信仰を熱くしてきました。そして聖書の大切なメッセージ、「必ず救い主が現れる」という教えを親から子へ伝え、信じて待ち望んだのです。


 しかしこの「救い主」のイメージは、イスラエルの戦争だらけの長い歴史の中で変化し、神様が「救い主とは平和の主である」と宣言しておられるにもかかわらず、武力でイスラエルを虐げる国をコテンパンにして解放してくれる方が救い主である、という解釈を持つ人が増えて行きました。ですからイエス様が登場した時、救い主とは思えない人々も多くいました。


 それでも、イエス様のお考えや行動を知るにつれ、この方こそ神の子だと信じる人は確実に増え、弟子となって多くを学ぼうとする人々もまた増えていきました。


 本日の福音書は、イエス様が大勢の弟子の中から12人を選んだ時の出来事です。この12人はイエス様から派遣され伝道の旅に出ることになりました。


 イエス様は伝道旅行につきものの試練について厳しいお言葉を語った後、励ますように「わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」と言われます。


 この「小さい者」という言葉は、この文脈ではイエス様の弟子と解釈できます。イエス様の御言葉を伝えるためにヘトヘトになっても、誰かがあなたに手を差し伸べてくれるし、神様があなたに代わってその人に報いを与えてくれる。だから勇気を持ちなさい、そう読み取ることができます。


 現代ではここに少し解釈と視点の転換がされて、虐げられている人、ホームレスの人や、今日一日の食事にもままならない人、人生を上手く生きられない人、トラブルメーカーといった人たちにイエス様のお姿を重ね合わせ、弟子として手を差し伸べなさい、と読み取る方もいます。


 とはいえ、そういった人々に本気で手を差し伸べるのは、捨て身にならないと難しいでしょう。しかしイエス様はハードルを上げすぎることはありません。関わった以上、喉が渇いている相手に冷たい水一杯程度なら飲ませてあげよう、という心の余裕を持って、ちょっとお節介な奴だなと思われながら生きることが案外隣人の助けになるなるものだよ、と教えておられるように思えるのです。


 イエス様は、大きなことをしようと気負うなと言われます。自分の出来ること、自分の信じるところを大切にし、実践して行きなさい、と教えておられます。


 繰り返しになりますが、旧約聖書は戦争や殺人の歴史が山ほど記されています。この戦争や殺人こそが人間が神様に逆らって犯した罪の結果です。人間というものは紀元前から分断の道を選び、本当に変わらないなあ、と思えてきます。謙虚に捉えるなら、何度も同じ過ちを繰り返す愚かさや無力さが自分の中にもあることも見えてきます。この愚かで暗い世界を神様はお見捨てにならず、神の子イエス様が来てくださったのだ、と希望が持てて、喜びと感謝が湧き上がるのです。


 私たちは複雑で色々な問題を抱えたこの時代にあっても、神様を信じ、聖書に学びつつ、イエス様に贖われた小さき者として、小さき者に関わる主の業に励んで参りましょう。



古代のイスラエルが南北に別れた後

それぞれの国に預言者と呼ばれる人々が登場し

神様からのメッセージを王族や民衆に取り次ぎ

「このように神様への信仰を蔑ろにしていると国は滅びてしまう」

と語ります

しかし預言者たちの声はなかなか届かず

逆に「国賊」とまで呼ばれました

中でも南王国ユダの滅亡を予言したエレミヤは

「涙の預言者」と呼ばれ

ヨーロッパの画家たちの想像力を刺激したのでしょう、

彼をテーマに扱った名画が数多くあります

レンブラントの描いた

「悲嘆にくれる預言者エレミヤ」(1630年)は非常に有名です





大国が「力こそ正義」と主張し

多くの国々を虐げている今の時代

私たちは聖書の歴史に込められた神様のメッセージに謙虚に耳を傾け

少しでも世界が正しい方向に向かうよう祈り、行動したいものです

2026年6月21日日曜日

「厳しさの中に」 (日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第4主日礼拝(2026年6月21日)(緑)

エレミヤ 20: 7~13 (旧1214)   ローマ 6:1b~11 (新280) 

マタイによる福音書10:24~39 (新18)


 本日の福音書には、イエス様から12弟子たちを宣教に派遣するにあたっての、厳しい言葉が記されています。26節には「人々を恐れるな」、38節には「自分の十字架を負え」、39節には「自分の命に執着するな」といったことが書かれています。


 こうした言葉は、受け取る人の人生経験や年齢によって、響き方が違うかと思います。恵まれた環境に育った若い人は「恐れるな」と聞いても「私は何も恐れていない」と答えると思います。しかし失敗して何度か厳しい批判の目に晒されると、「誰も恐れない」、「自分は自分だ」とはなかなか言えなくなります。


 しかし年齢を重ねると、家族を守る厳しさ、仕事を続ける厳しさ、病気や老いと向き合う厳しさ、大切な人を見送る厳しさ等を経験します。重い病気を経験したりすればなおさら、命は自分の力ではどうにもならないことに気づいて、失うことの恐ろしさに怯えるようになります。そんな自分の無力さに気づく時ようやく「命は、自分で守るものではなく、神に委ねて生きるものなのだ」と理解するのです。


 イエス様は39節で「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得る」と言っておられます。「命を失う」とは、自分の命を粗末に扱えという意味ではありません。そうではなく、自分中心の狭い価値観の中で生活し、その立場を死守しようとすれば、かえって命を縮め、神様からも遠くなってしまう、と解釈することができます。


 「私のために命を失う者」、つまりイエス様のために自分の命を投げ出そうとするものは、神様の持つ広い見識や価値観を自分のものにすることができて人生が豊かになる、と言う意味も込められています。


 また、ここで言う「十字架を負う」とは、死刑になるような犯罪を犯せ、と言う意味ではありません。また世間でよく使われる「避けられない宿命」を意味するわけでもありません。イエス様の言われる十字架とは、自分の欲望や都合を優先させないこと、そしてイエス様の教えに誠実に従う時、世間から批判されても、折れてしまうことなく、生き続けなさい、と言う意味です。


 若い頃は、「強くなければならない」「迷惑をかけてはいけない」と生きてきました。しかし、若いものには負けまいといくら頑張っても、若い頃のようには働けず、思うように体が動かないこと、人に頼らなければならないことが増えていきます。


 そんな弱さを認めるとき、人は初めて神がそばにいてくださり、支えようとしてくださることに気づきます。素直に寄りかかるならそこにあるのは、神の確かな腕です。厳しさの中にある「優しさ」と「命」。イエス様の言葉は厳しく聞こえます。しかし、その厳しさの奥には、深い人間理解と優しさがあります。


 キリスト教のある教派は、信仰を持てば強くなれて、人生の成功を掴むことができて、沢山の人を従えて、偉くなれる、と教ています。聖書の解釈にはそう言う側面もありますが、今のアメリカの福音派と呼ばれる人々の中には「人生の成功は信仰によって掴み取れ」と言う幻想に酔っているように見える人がいます。「神に捨てられたから負け犬になるのだ」と決めつけているように見えます。しかし、いつまでも若く成功し続ける人などいません。そしてイエス様はそこに人間の幸せはない、と言われるのです。


 カトリックやルター派には、「弱くされたもの、ちいさくされたものの福音」という信仰理解があります。神様は常に社会の「小さくされた者たち」の側に立たれる、と言う考え方で、力を持たない者たちに積極的に寄り添いなさい、というイエス様の教えです。


 私たちがこの姿勢を貫こうとすると、お人よしとか偽善者とか呼ばれ、批判に晒されることもあります。しかし、社会的地位や名声、経済的成功を手に入れるために人を傷つけ、蹴落として生きようとすることを神様は望まれません。


 キリスト教伝道は愛の奉仕で始まり、愛の奉仕で終わるものだと私は思っています。しかし、世間の人はなかなかその愛に気づきません。しかし、まれにそこに愛に気づく人が現れて、共に生きることを喜びにした時、その共同体は神の御心、愛の共同体としてひと回り大きくなることができます。


 日本のキリスト教は、伝来当初から苦難の連続で、第二次世界大戦前も後も、沢山の困難がありました。戦争責任の問題や、地域社会との土着化、信仰継承等、もう十分に戦い、十分に守り、十分に生きてこられました。日本全体の人口ピラミッドが崩れ、教会に人が減り、「どうやって維持するか」ばかりが話題に上る昨今です。しかしこれからは、委ねる人生へと招かれています。神様に委ねる、人に委ねる、弱さを委ねる、未来を委ねる。


 誰かに任せられるものではない、それでは無責任だ、と思いがちですが、振り返れば、私もあなたもそれぞれの時代に委ねられたものとして今ここに立っています。


 イエス様が伝道を弟子たちに委ねたように、未来の教会をを引き受ける者たちの数が少なく、その信仰が不完全に見えても、委ねることを信仰としてまいりましょう。

 これから数十年もすれば、ここにいる大人たちは皆、地上にはいません。しかし神の手の中で、永遠の命を与えられ、安心して満たされていくのです。


 本日の説教のタイトル、もしかしたら、牧師から厳しい言葉を浴びせられ、文字通り「お説教」をされるかもと思って身構えた方もおられるかも知れません。しかし厳しい言葉は、すでに聖書の中に、イエス様の御言葉の中にあります。そしてあなたが積み重ねてきた信仰生活によって、すでに心に中にあるのです。


 あなたを育んだ厳しい言葉を心から受け入れ、あなたを抱きしめる神の優しさを見いだせる人は幸いです。その優しさの中で、あなたの命は、今日も、永遠へと続いていきます。


ブログを書いている今、外は雨

梅雨だなあ、というお天気です

ところが、雨が上がって日がさすと

とんでもない強い光に目が眩みます


この写真の花はモナルダとかベルガモットとも呼ばれる園芸品種です

松明花(タイマツバナ)と言う別名もある通り

強光線に負けずまさに「松明」といった力強さです



このタイマツバナは

現在園舎が建っている場所が空き地だった時

雑草だらけなのを見ていられず

「植えっぱなしで大丈夫で華やかな植物」を選んで

何色か育てたものです




写真に写っているのは紫花ですが、これも綺麗です


整地するとき、全ては鉢上げできないので

せめて赤花だけでも、と株分けして

牧師館で管理していました

やっと教会周りが落ち着いて来たので

ひと月ほど前、地面に下ろしました

鉢に収まっている間は今にも消えてしまいそうだったのですが

地植えにするとあっという間に繁り始めました


伸び伸び育つ植物を眺めるのは良いものです

人もこんなふうに伸び伸びできるよう

そんな場所の一つとして教会が用いられますように