2026年8月23日日曜日

「キリストの教会」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2026年8月23日)(緑)

イザヤ書 51:1~6 (旧1146)   ローマ 12:1~8 (新291) 

マタイによる福音書16:13~20(新31)


 みなさんは「あなたは何者ですか?」と尋ねられたことがあるでしょうか。本日の福音書には、イエス様が弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになったと書かれています。


 まずここには、私たちにあまり馴染みのない「人の子」という表現が出てきます。旧約聖書の詩篇では「朽ちゆく、弱い人間」を意味する言葉として使われましたが、同じ旧約聖書のダニエル書では「神から絶対的な支配権を授かった存在」と記されます。


 一方、新約聖書の福音書ではイエスが自分のことを語るときに好んで使われました。それはイエス様が神様でありながら、私たちと同じ痛みや弱さを持つ「本当の人間」なのだ、ということを表す言葉です。


 同じ「人の子」という言葉でもかなり解釈の幅がありますので、混乱しないように丁寧に見てまいりましょう。


 本日イエス様が尋ねられた場所、フィリポ・カイザリヤはガリラヤ湖よりさらに北、ヘロデ大王の息子のフィリポが町を拡大し、フィリポ・カイサリアと名づけます。ローマ皇帝・つまりカエサルと領主フィリポの名前をくっつけて街の名前にしたのです。いわば、当時のイスラエルで絶対的な権力を負っている人間の名前をつなげたわけです。


 ですからこの町で「人の子のことを何者だと言っているか」と問われた時、ダニエル書の解釈を適応するならこの街で絶対的な権力を持っているのは誰か、という問いとなり、答えは「皇帝」です。しかし、イエス様の前でそれは言えません。ですから、取り繕うかのように、ヘロデによって殺されたバプテスマのヨハネを言ってみたり、イスラエルの英雄的預言者エリヤを持ち出して見たりしたのでしょう。


 「世の中は間違っている、けれども自分達ではどうにもならない」と、イエス様から怒られないように言ってみた、というような発言でもあります。そして、自分の意見ではなく、「誰かがそう言っています」と無責任な発言をしました。


 ろくでもない支配者に振り回され続け、私の人生何だったのかと嘆いて一生を終える。神様は、つまりイエス様は、この地の誰一人そのような生涯を送って欲しいとは思っておられません。


 神様を信じ、感謝を持って神様の導きや促しに従って、神様のお手伝いをしていく人生になって欲しいと願っておられます。そのために、本当にこの世界の支配しておられるのは神であることを伝えようとなさったのです。


 だからこそ「誰かがそう言っています」的なあやふやな意見ではなく、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と切り出したのです。おそらく、ここで弟子達の長い沈黙があったと思います。


 そんな沈黙を破ったのはシモン・ペトロ、つまりイエス様の一番弟子であるペトロでした。彼は「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。


 「メシア」とは「救い主」という意味です。メシアは私に人生を教えてくださり、共に生きるとはどういうことかを分からせてくださり、私の人生が権力者に振り回されないよう、手を差し伸べてくださる方。それがあなただ、と告白したのです。


 目の前にいるあなたこそ、世の救い主であると同時に、私の救い主であること、伝説や過去の英雄ではない、生きている神様です、と面と向かって伝えたのです。


 その心を聞いたイエス様は、さぞ喜ばれたことでしょう。その喜びが「あなたは幸いだ」という言葉に表れています。ペトロは元々シモン・バルヨナという名前でした。しかしこの時イエス様から「ペトロ」「岩」という名前を与えられたのです。


 イエス様はさらに続けられます。「私はこの岩の上に教会を建てる」これは「わたしはあなたの言葉の故に、わたしの教会をあなたの心意気の上に建て、不動のものとする」。これくらいの勢いのある言葉なのです。


 昔から、「教会は建物ではない」とは言われています。しかし多くの方は、ぼんやりとしか把握していません。それをなんとか取り繕おうと、「信仰」のあるところ、と言ったりしますが、実際には、自分が気が向いた時に聖書を読んだりお祈りをしたりしに行く場所の一つくらいに考えているのです。


 信仰は自由だという言葉にひっぱられて、行くも行かないも自分の自由と捉えているかも知れません。けれども、教会を教会にするには心意気が必要です。損も得もない、私は神様のためにこうしたいのだという思いから始まり、その思いが、イエス様の思いと共鳴したところに、キリストの教会が、実現すると、イエス様は言われたのです。


 私たちは、イエス様を神様だと知り、信仰告白して洗礼を受けました。その時に与えられた、救い主を信じてついていこうという心意気が、キリストの教会を教会として打ち立てるものなのです。私たち弟子たちの活発なやり取りが、命を与えるのです。それが「生きる教会」なのです。


 「生きる教会」とは、そして生きるとは、うれしいことや楽しいことばかりではありません。つらいことや苦しいこと、悲しいこと、失望して打ちのめされることもあります。そうしたことを共に乗り越えて、生きてて良かったと、共に思える場所のことです。


 どんな時も互いに見栄を張ったり取り繕ったりせず、共に歩みだす心がある。「キリストの教会」は、そうした心をもった集まりなのです。そして、私たちもその一人一人なのです。


 今は、キリストのそうした心を無駄だと言わんばかりに、生成されたコンピューターによって、人間の膨大な情報の塊から、人生の正解を導き出したり、困難を乗り切ろうとする人が増えているようです。


 そして、その答えをまるで神の声でもあるかのように絶対なものと受け止めて、自殺をする人や人殺しをする人も出るようになったとも言われています。


 聖書に記されたイエス様の言葉は、生成AIの答えのように分かりやすくはないでしょう。それでもこの2000年にわたって、人間を慰め励まし、良い行いに導いてくださる御言葉です。理解することが難しいからこそ教会という、与えられた場所で共に学び、正しく理解し、受け止めるのです。そしてストンと腑に落ちた時、神様のお力が何倍にもなって一人一人に流れ込んできます。


 私たちは、この社会にとって何者でもない、小さい者の集まりに過ぎないかも知れませんが、「キリストの教会」に集うようにと、神様によって召されていることを忘れてはならないのです。



Yahoo!マップの航空写真が更新されていました
ルーテル幼稚園の新しい屋根は紺色
その左斜め下の緑色の屋根が礼拝堂です
園庭が広くなったのがよくわかります

2026年8月16日日曜日

「祈りの家」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第12主日礼拝(2026年8月16日)(緑)

イザヤ書56:1&6~8(旧)   ローマ書11:1~2&29~32(新) 

マタイによる福音書15:21~28(新)


 本日の福音書には、ツロ、シドンといった地名が出てきます。それらの場所は、ユダヤ教は別の神を信じる、異邦の地であったことが印象付けられます。そしてその場所でカナンの女と呼ばれる人物がイエス様の前に現れます。


 イエス様が活動しておられた頃、イスラエルを支配していたローマ帝国は、政策として「ローマの平和」を打ち出していきます。圧倒的軍事力によってローマの法や秩序が地中海沿岸諸国に行きわたり、人びとが安全に暮らせた黄金期です。ローマは、宗教や思想においては寛容体制を持ち、身分制度はあるものの金を払ってでもローマ人になるものには自由を与えました。


 しかし、見方を変えれば制圧と搾取のうえに成り立っていたとも言え、全ての人が幸せだったわけではありません。表向きは平和でも、辺境や属州では異民族との激しい小競り合いや反乱が絶えず発生していたようです。


 異民族との積極的な交流を嫌うユダヤ人は、他の属州に比べても強くローマに反発し続けていたといえるでしょう。そのような中、イエス様はイスラエルを離れて、異邦の地に行く、また、その異邦の地において、イエス様に救いを求める人がいるのです。


 ユダヤの民が、他の民族や異邦の民と交わりを持ちたくない理由として、排他性が言われますが、その排他性は彼らに与えられた信仰の独自性から生まれてきたものです。


 ユダヤの人々は自らを「神に選ばれた民族」と信じ、誇りを持っていたことは旧約聖書にしっかりと記されています。イスラエルは地政学的に見て、紛争に巻き込まれやすい場所です。歴代の王たちはしばしば政治的判断を誤り、信仰がただのお飾りとなり、戦争がおきます。大国との戦争に負けて神殿を破壊されたり国そのものを失いかけるような目に遭うと、悔い改めて信仰を取り戻し、その出来事を聖書に刻んで後世に伝えました。


 さらに、神に愛される自分達はどう生きることが望ましいのか、それを事細かに記したものが律法です。礼拝の方法から日常の食事まで、あらゆる分野にわたって決まりが定められました。


 律法を守ることが民族の誇りでもありましたから、律法を守らず、信仰を共にできない他の民族に対しては当然態度が冷たくなります。仕事以外の付き合いはほとんどせず、食事を共にすることもまずありませんでした。


 ですから「娘が悪霊に苦しめられているので癒してください」といって追ってくるカナンの女に対し、イエス様は「私はイスラエルの家のもと以外は遣わされてといない」と突き放しますが、それはユダヤ人としては普通のことであり、カナンの女の方もこうなることは予想していたはずです

 もちろん、この女性がユダヤ人ならば、イエス様は即座に癒しの力を奮ってくださったことでしょう。しかし、イエス様はあくまで神の子です。頼ってきた人を何でもあり、とばかりに癒すことはなさらなかったのです。


 例えば、どんな神様でも良いから、病気を治してくれるなら、お賽銭を捧げて祈ろう、そんなふうに考えている人は世の中にたくさんいます。それはご利益を求めているだけであって、神様と人格的にふれあい、助けを求める態度とは違います。ですから、神様をまるで恵みの自動販売機のように扱う人に対して、OKとはなりません。本当の愛の交わりはそんなに安っぽいものではないのです。


 ただイエス様は、弟子達が、救いを求めるこのカナンの女を邪見に扱う様子にも、心を痛めておられました。この女性があくまでご利益だけを求めているなら拒否しなければならない。そう心に決めて、選んだお言葉は「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」でした。


 「子どもたち」とはイスラエルを表しています。本来ユダヤ人に用意されている恵みを、異邦人には与えられない、と言う意味です。ただ、女性自身を「その辺の野良犬」ではなく「愛らしい飼い犬である小犬」に例えられた選ばれたところに隠しきれない優しさが溢れています。


 イエス様は、信仰というものは、国の宗教として捉えることも大事だが、まず一人の人として神様と繋がることが大切だと教えようとなさいました。そしてこの女性が見事にその想いに応えてみせた時、娘は癒されます。


 そんなイエス様の思いは今も全く変わりません。この世にキリストの体として存在し、信仰に生きる私たちのキリスト教会でも同じことなのです。


 私たちが個人の信仰を深め、家族や友人に伝道しようとする時、周囲の人々はそれを警戒することでしょう。宗教には程々の距離感で、と思う人々が大半だからです。が、その一方で、本当に救いを求める人は、自然と神様に引き寄せられます。私たちにはその人と神様と間を取り持ちたい、と言う気持ちも芽生えるのです。


 現代では、教会に「祈り」が無くなったと言われることもあります。長年教会に通う信徒さんでも、人前で祈ることに躊躇する人も増えてきて「では主の祈りを持って」とお茶を濁すように主の祈りを用いることもあります。しかし、私たちは2000年の時を超えて、異邦人でありながらキリストの名によって祈ることが許されたものであり、カナンの女性が娘のためにあげた叫びの祈りに倣うものです。小犬のような拙い祈りでも、番犬のような、勇ましき祈りであっても、神様への祈りが私たちを救ってくだいます。そして教会はその拠点なのです。


 神様との会話である祈りを大事にし、この教会が祈りの家となるように、心して参りましょう。



今年もプルメリアが咲きました
園庭に面した教会のベランダが定位置です
残念ながら暑すぎてなかなか綺麗に咲き揃いません
暦の上では立秋ですが
南国の花がばててしまうほどの高温の毎日が続いています
みなさんどうぞ熱中症にお気をつけて

2026年8月9日日曜日

「主がおられる平安」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第11主日礼拝(2026年8月9日)(緑)

王上 19:9~18 (旧)   ローマ 10:5~15 (新) 

マタイによる福音書14:22~33(新)


 本日読みました福音書は「湖の上を歩く」という見出しがつけられています。弟子たちを乗せた舟が逆風で進まなくなり、悩まされているところにイエス様が湖の上を歩いてやって来られた、という内容です。


 同じエピソードはマルコ福音書6章とヨハネ福音書6章に記されています。そして、3つの福音書とも、この出来事の前には「五千人に食べ物を与える」というエピソードが書かれていて、湖の出来事とセットであることがわかります。


 イエス様が公けに宣教を始められてから2年半ほどが経った頃には、イエス様を見つけると大勢の人々が追ってきてお話を聞こうとしました。この時も、成人男性だけでも5000人いたと記されています。この人達の多くは、おそらく無学ではなく、気ままに生きている人達でもなく、ユダヤ民族として、ユダヤの風習や文化に習い、シナゴークと呼ばれる場所で、週に一度は礼拝と宗教教育を受けていたと思われます。学問や宗教の質問があればいつでも教えを乞うことができました。けれども、彼らはそれでは満足できず、イエス様から学ぼうとしました。つまり、社会に不満を持ち、自分の生き方の拠り所を求める人が5000人以上いたのです。


 ユダヤ社会のトップにいたのは征服者であるローマの皇帝です。そして皇帝に媚びへつらいながら神殿に君臨する大祭司が民衆を牛耳っていました。律法学者や神殿の祭司達も機会があれば自分の地位をひけらかします。そのような人々が作り上げる社会は、決して神様の御心に沿うものではありませんでした。


 そのことに気づいたのは国民の中のわずか数パーセントだったかも知れませんが、町を離れ、イエス様の話を聞いた人が5000人以上いたことは確かなことでした。ですからイエス様は、その5000人の人々を憐れに思い、大切に扱おうとお考えになって、弟子達を使って、食事の世話をさせたのです。


 弟子達は、そこにほんのわずかの食べ物しかないことを確認しました。そして「無理だ」と思いイエス様にもそう言ったのです。しかし奇跡は起こります。イエス様がパンと魚を祝福すると、5000人以上の人々がそれを食べて満腹し、食べ残りは12籠いっぱいであったのです。


 弟子たちは当然衝撃を受けます。そしてイエス様という方は、ご自分を信じ、慕う人々を空腹で追い返す事は決してなさらず、安心して帰れるように愛を注いでくださる方だと知ったのです。


 イエス様はその後、弟子たちにそれ以上無理をさせようとも思わず、弟子は弟子で休めるよう、弟子達だけを舟に乗せ、ご自分は山に登って祈りの時間をもたれました。イエス様は、大きな奇跡を見せられて興奮しているであろう弟子たちが、本当にイエス様を信頼できるようになるために、いわば信仰教育として、この時を定められたのです。


 神様はこのように時折私たちを試されます。「クリスチャンになってよかった、神様ありがとう」と思っていたら、今度はひどい失望や絶望を味わい「神様を信じても何にもいいことがない」と嘆く、そんな私たちであってはならないのです。


 自分の計画や予定ばかりを優先させて、その計画が上手く行った時だけ、神様を崇めるような信仰は、意味がありません。もし、仮に1回目の出来事が上手くいったとして、続く2回、3回と続いてうまくいったとしても、いつかは神様ご自身が、私たちに信仰に気づかせるために、どうにもならない時に遭遇します。そうしたどうにもならない時に、ある人は信仰を捨ててしまいます。また、ある人は信仰をないがしろにします。信仰というのは、良くても悪くても続いていきます。自分に起こる結果だけで、全てを判断してはならないのです。


 聖書に話を戻しましょう。弟子たちはイエス様から「舟に乗り、向こう岸へ向かう」という目標を与えられましたが、湖の真ん中で自分達の思った通りに進まなくなります。逆風が吹き、水面は揺れ、にっちもさっちも行きません。彼らは思わず「神様助けて」と叫びの祈りをあげたでしょう。


 その上、湖の上を歩く人を見たのです。漁師の弟子たちは「湖で死んだ人間が亡霊になって人を取り殺そうとする」的な伝説を思い出したかもしれません。自分達はもうだめだ、幽霊に殺されると恐怖のあまり悲鳴をあげます。そのように恐れる弟子達に、イエス様は「恐れるな」と声をかけてくださるのです。


 イエス様は5000人の人々を憐れまれます。それと同時に弟子一人一人も憐れまれる方なのです。そこにいる人々にざっくりと恵みを与えるのではなく、一人ひとりの顔も人間性も把握した上で夫も良いタイミングで手を差し伸べられるのです。


 私たちは信仰があるから危険なことや嫌なことは何事も起こらないというのではなく、私たちはどんな時も神様の憐れみの中に生きていて神様の憐れみに救われる存在なのだ、ということを覚え、それを伝える者でありたいのです。


 この話の最後は、ペトロが、イエス様に「水の上を歩きたい」と願ったことです。超人願望でしょうか、イエス様への信仰を表したかったのでしょうか。その心意気は大切ですが、ペトロはイエス様だけを信じて見ていれば良かったものを、自分の周りの風や波に目を奪われ、イエス様を見失ってしまいます。自分の命が危ないと思えた時に「イエス様助けてください」と叫びにも似た祈りの言葉を上げたのです。そして、同じくイエス様はその声を聞き取ってくださったのです。


 私たちはイエス様を信じると口にしても、何度も失敗を重ねます。しかし神様はそんなわたしたちを決して見捨てません。不出来だから、祈りを忘れるからと言って、裁いたりはなさらず、私たちに祈りを取り戻させるために厳しい出来事を引き起こされることもあるのです。それはいわゆる「バチ」とは違います。祈りこそがイエス様と私をつなぐものであり、なりふり構わず祈ることが、逆にイエス様と私をつなぐものなのだ、と教えてくださっているのです。


 今の日本では、クリスチャンがクリスチャンらしく生きることが難しい環境にあります。それでも私たちは逆巻く波の上を歩くようであっても、神様の平安の内にあることを覚えながら、信じて歩んでいきましょう。どれほど周囲がわたしたちを脅かしても、イエス様の「恐れるな、信じなさい」という御言葉だけを心に覚えて、ずっと共にいてくださる神の子救い主イエス様を見失わない者となりましょう。



昨日は8月の土曜学校でした

夏休み中なので、「常連さんたち」は

お出かけしているかもしれないなあ

誰も来ないかもしれないなあ、などと考えておりましたが

6名と、人数はいつもの半分以下ながら

楽しく参加してくれました


8月の御言葉が「平和な人には未来がある(詩編37編37節)」なので

そのテーマに則って「ぼくたちは、あらそうために生きるのか?」

という絵本を朗読しました

(山極寿一  文/あべ弘士  絵  偕成社)


ちょっと長いので、ところどころ省略しましたが

最後まで聞いてくれました

何か一つでも心に残ってくれますように


https://www.kaiseisha.co.jp/books/9784033337807

作品を手に、KさんとMさん
夏の星空リースです
Mさん、なぜか紐を咥えています(^^;)

2026年8月2日日曜日

「満蒙開拓団と平和の歩み」(日曜日のお話の要約)

 ヨハネによる福音書15章9節〜12節

本日は平和聖日合同礼拝でした。
日本キリスト教団吾妻町教会と合同で、ルーテル飯田教会を会場として行われました。
飯田ルーテル幼稚園にゆかりのある前澤節子さんの、満蒙開拓団の体験をうかがい、平和について考え、共に祈りました。

 前澤さんは5歳の時ご家族と共に満州に渡り小学校高学年まで過ごされました。敗戦によって生活は一変し、着の身着のままで同じ開拓団の皆さんと小学校での避難生活が始まったそうです。
 さらにソ連(当時)の参戦により、状態はさらに悪化、乱暴な兵士によってわずかに身につけていた時計などは全て奪われ、若い女性は性的被害を受けましたが、どうすることもできず、時間が過ぎました。やがて日本に帰るため大連に行ったものの、不衛生な環境で感染症が発生、多くの方が命を落とし、お母様と小さな弟さんも亡くなりました。
 船で日本に引き上げ、長野県に戻る途中、列車の窓から見た原爆後の広島の「見渡す限り煉瓦色の風景」が忘れられないそうです。
 ロシアがウクライナに侵攻した時、ご自分の体験が蘇ったそうです。
 戦争は体も心も破壊するもの、二度としてはならない、と締めくくられました。

 飯田市に程近い、下伊那郡阿智村駒場に満蒙開拓平和記念館はあります。
 なぜこのような悲劇が起こったのか、歴史について詳しく知りたい方、さまざまな方の体験談を聞きたい方、この出来事を通して平和について考えたい方はぜひ訪れてみてください。


熊本地震で被災された皆様のために祈ります。
厳しい状況が一刻も早く改善され、心と体が癒され、回復の道筋が見えますようにお祈り致しております。


満蒙開拓平和記念館(ホームページより)
https://www.manmoukinenkan.com/


前澤節子さん


2026年7月26日日曜日

「神の国について」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2026年7月26日)(緑)

王上 3:5~12 (旧531)   ローマ 8:26~39 (新285) 

マタイによる福音書13:31~33&44~52(新25)


 はるか昔のイエス様の時代、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。イスラエルの政治家たちは宗教指導者を兼任していましたが、ローマに媚びることで最低限の自治権を得て、なんとか国の対面を保とうとしていました。神殿も堕落する一方です。


 一般の市民は厳しい状況になんとか順応して生き伸びようとしましたが、中には不条理な支配に対抗して独立を強く望み、過激な行動を繰り返す熱心党と呼ばれる集団もありました。その一方で、徴税人となってローマに媚を売り、私腹を肥やそうと立ち回る人々もいました。


 興味深いことに、イエス様の弟子の中には、過激な熱心党員出身者もいれば、元徴税人という人物もいました。しかもどちらもイエス様の身近で学ぶ12弟子のメンバーでした。


 彼らはイエス様に招かれて弟子になったという以外には共通点がなく、12人それぞれに国の在り方、神の国の在り方をイメージを持っていて、その発想はバラバラだったようです。


 中には、イエス様が王となってローマ帝国を追い出した後で、自分もそれなりの地位を得て大臣になることを強く望むものもいて、仲間同士、「何を勝手なことを言っているのか」と、言い争いすることもあったと福音書に記されています。


 そんな彼らでしたが、当時のイスラエルの不甲斐なさへの苛立ちを抱いているのは同じでした。そして、イエス様こそ現実を変えてくださる方と信じて、イエス様の教えに耳を傾け、イエス様の語る神の国の在り方を必死で掴もうとしたのです。


 そこでイエス様も、その思いに応えて数多くのたとえ話で教え、示されたのです。

 本日読んだマタイ福音書13章31節からは、イエス様の喩え話が記されています。たとえ話は理解しにくいところもありますが、イエス様への信頼と素直な心を持って聞くことが、理解を助けてくれます。


 最初は「からし種」の例えです。「蒔かれた小さな種が成長する話」とは、初めは小さく目立たないイエス様の教えが、最終的には世界中に広がり、計り知れないほど大きく力強いものになることを示しています。これほど成長する種、信仰というものを心に撒いていただいたのですから、私たちは、この小さな種を責任もって育てなければばらないのです。


 ここにいる私たちが互いの心に種が蒔かれている、与えられていると信じて育てるならば、時が来れば、神様の業お力によって、全ての生き物の憩いとなるのです。それが第一のたとえの持つ意味です。


 二つ目のたとえは、「神の国は、探し回り、見つけ出すもの」であるという教えです。そしてみつけたならば、あらゆるものを捨て去っても手に入れる時に手に入れるのが賢いのだ、と記されています。


 神の国は何ものにも変えられない価値があるのです。それほどに尊いものであり、唯一無二であり、招かれて喜ばしいものであることを、イエス様は示してくださいました。


 しかし人間はその恵みの価値が分からなくなり、せっかくの招きを無駄にし、感謝を忘れ、踏みにじってしまうことすらあります。それでもイエス様は、そんな私たちを決して見捨てず、その罪を帳消しにする為に、十字架に掛かられ、貴い命を捧げられたのです。


 だからこそ、わたしたちは、今一度この場所で、平和とキリストの愛の中に生きることを確認したいのです。神の国に招かれ、永遠の命に生きるものとして、信仰によって、神様が定めてくださったことを繰り返し思い出し、喜びと感謝を捧げるために礼拝に集う者でありたいのです。神様に愛されている私たちは、社会がすさんでいる今こそ正しく聖書を読み、正しく歴史を振り返る必要があります。


 来週は満蒙開拓を体験した前澤節子さんのお話を伺います。長野県に生まれ育ったみなさんは、親戚の中に開拓団として満州に渡った方がおられるかもしれません。苦しみと激しい後悔を経験した人々が、次の世代が繰り返さないよう必死で訴えても、経験していない人間は何かを勘違いしたかのように戦争を美化し、平和を訴える人々を「お花畑」と揶揄します。


 先日、テレビのニュース番組で、特攻隊で兄を無くした妹さんが中学生の子ども達に伝える場面を見ました。けれども、その話を聞いた中学生は、特攻隊の軍服を見て、「格好いい」と言い、「僕も国の為に戦うのなら、死んでも構わない」というようなコメントを語っていました。


 それは特攻隊で兄を無くした妹さんの意図とは真逆の感想でしょう。今現在、武器を持って平和を守る、という矛盾した考え方がじわりじわりと日本を覆っていて、戦争を肯定する空気が広がっているようです。


 また、ニュース映像で、アメリカの福音派と呼ばれている人々が基督教会に集まって、イランを叩き潰すことを肯定している様子を見ました。イランの人々を、対話も和解も不可能な悪魔のような存在だと信じ込んでいるようでした。


 人間は放っておけば他者をおとしめ、争い、奪い取ることを好む生き物なのでしょう。しかし神様は聖書を通して、人と人が争うことの残酷さや虚しさを伝え、さらにイエス様に倣うことで平和を作り出せると教えてくださいました。


 「平和を実現する人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」私たちはこの御言葉をイエス様からはっきり教えられました。争う理由は無数にあるのかもしれません。それに対して、争わない理由はイエス様への信仰のみです。それを私たちの唯一の拠り所として、平和を実現するものとして、共に学び、共に歩んで参りましょう.



ご覧の方でご都合の良い方は是非お越しください。