聖霊降臨後第7主日礼拝(2024年7月7日)(緑)
エゼキエル書 2章1-5節(1297)
コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章2-10節(339)
マルコによる福音書 6章1-13節(71)
本日の福音書では、イエス様がナザレに帰られたにもかかわらず、そこの人々はイエス様を受け入なかったこと、その後弟子達を二人一組にして、方々の町に派遣なさったことを共に読みました。
本日の福音書前半には「驚き」という言葉が2回出てきます。ナザレの人々がイエス様の意外な成長ぶりに「驚き」、イエス様は彼らの不信仰に「驚く」という使い方です。日本語では同じ「驚く」という言葉を使っていますが、元の言葉は全く違う単語です。ナザレの人々の「驚き」は、こどものいたずらなどで、突然背中をぽんと押され、びっくりする時の「驚き」です。一方、イエス様の「驚き」は、「あきれる」という意味があります。
ナザレの人々はこの日、安息日の礼拝に集まり、イエス様のお話を聞きました。そのお話は今までにない切り口でわかりやすく、初めは素直に感動して喜ぶのですが、少し我に帰ると、イエス様の子ども時代のことが頭をよぎります。
自分達より特別偉くなかったはずの人間が、家族を捨てて故郷を離れたと思ったら、立派なお話や奇跡が行えるようになって帰ってきた。なぜなのだろう。人々の想いはそこにとらわれ、嫉妬心さえ顔を出します。こうなるともう、イエス様のお話の一番大切なところが全く耳に入らなくなってしまうのです。
人々のそんな気持ちはお話を聞く態度にも露骨に現れます。彼らはイエス様が神様の力を発揮できるとは信じられず、それゆえ、癒しの奇跡も受け付けようとしませんでした。イエス様がいくら素晴らしい力を持っておられても、思わぬけちをつけられ、裏切られ、拒絶されてしまうのです。イエス様は驚きと共に非常に残念に思われたことでしょう。
しかしイエス様はこのことを教訓として弟子たちにお教えになりました。伝道して行く時、こういった思いもかけない不信仰からの拒絶されることは必ずある、それに驚くことがあっても怒ることなく、あなたたち自身は気持ちを不信仰に陥らないように、と教えられたのです。
不信仰と信仰の間には大きな壁があります。みなさんもお気づきのように、神様を信頼する、イエス様を完全に信頼し、どんな時も委ね切るということは、口で言うほど簡単ではありません。
信仰を持って取り組んだはずのことが思い通りにいかなくて失敗した時、自分の不信仰のせいなのか、それとも神様は自分には特別厳しいのか、はたまた他に原因があるのか、と悶々とし、悩むことがあります。
しかし、それでもぎりぎり信仰を手放すことなく、うまくいかない中でもがき続ける時、いつの間にかこの苦しみは神様の時だったのだと信じられる時が来ます。何か劇的なことが起こったということでもなく、ふっとそう信じられるのです。すると分厚い壁だと思っていたものが壁でなくなります。信仰とは神様が育ててくれるものだ、目の前の現実にいちいち文句を言ったところで仕方がない、と受け止められて、信仰はさらに成長するのです。
イエス様は、弟子達に、自分の故郷のナザレという場所で、人々のやっかみから来る不信仰をしっかりと見せた後、彼らを宣教の旅に送り出します。神の前に自由に生きること、ブランドや名誉に縛られず、与えられたものに感謝しつつ、有効に活用することを教えられたのです。
すべては神様の計画の中にあり、人は人として与えられた状況の中で誠実に生きていくことが、何よりも大切なのです。ギャンブルみたいな生き方が、信仰的だと言う人がいますし、一か八かの大成功、みたいなな証や奇跡を喜んで聞きたがる人もいます。もちろんそのような体験を持つ方を否定はしませんが、誰かの成功例を必要以上に羨ましがることもないのです。
来年の春には新しくなった幼稚園施設と、耐震されリノベーションされた会堂が与えられます。そこで宣教の歩みをしていくよう、神様から語りかけられているのです。上手くいっても、失敗しても、周りからは何かを言われるのものです。しかし、それも覚悟の上で、ここに集う私たちで、神様に感謝していく歩みをしていきましょう。そして、新たにここに集まる人は、信仰のゆえに、心の内で気づくかも知れません。「神様の祝福が本当にここにある」。
暗誦聖句にも真面目に取り組んでくれました |
工作は全集中(古)…と言いたいところですが 手と同じくらい口も動いておりました |
一組だけ笑顔の写真をご紹介 |
0 件のコメント:
コメントを投稿