2024年7月28日日曜日

「キリストの恵み」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第10主日礼拝(2024年7月28日)(緑)

列王記下 4章42-44節(583) 

エフェソの信徒への手紙 3章14-21節(355)

ヨハネによる福音書 6章1-21節(174)


 本日は「五千人の給食」と呼ばれる有名な奇跡について見てまいります。どの福音書にも記録されている奇跡ですが、本日は与えられました聖書日課に従って、ヨハネによる福音書から読み取って参ります。


 4つの福音書は、同じ出来事を記しても、著者の視点が異なりますから、強調している部分が違います。例えば一番最初に書かれた福音書であるマルコ福音書では、イエス様を追ってきた人々に、まずイエス様が「色々と教え始められた」としっかりと書かれており、弟子たちが食事を配ったのはその後です。


 しかしヨハネ福音書は、人々は病人を癒やされたイエス様を見て、癒して頂くことを求めて追いかけて来た、と描かれています。簡単に言えば、最初に書かれたマルコ福音書では、人々は神の国についての教えを求め、最後に書かれたヨハネ福音書では教えそっちのけで癒しだけを求めたというふうに読み取れます。

 果たしてどちらが現実に近かったのでしょう。


 少し話は変わりますが、第二次世界大戦後、宣教師たちが自由に来日できるようになり、キリスト教がブームになったのは皆さんご存知の通りです。当時の日本の若者は新しい価値観を求めて教会へと足を向けました。しかしブームが去っても信仰生活を続けた人々は意外に少ないのもご存知の通りです。


 牧師をしていて「青年時代、教会に行ってたんですよ」という方と時々お会いします。その方達は「あの頃宣教師の先生にお菓子やお料理を教えてもらって楽しかった」とか、「青年会でカレーライスを作ってワクワクした」といった思い出話をなさいますが、当時の宣教師や牧師が必死で教えたはずの聖書の内容やイエス様の愛について何かを覚えている方は、ほとんどおられません。イエス様の教えを信じることができていたなら、何かの事情で一度信仰生活から離れたとしても、再び教会に戻ってこられたでしょうか。その方達の記憶にあるのは「イエス様の教え」より「食べ物」だったか、と残念に思えるのです。


 とはいえ、幼い頃から教会で遊んでいた私としては「教えより、食い気や楽しさ」という考え方は、すごく間違っているとは思えません。眉間に皺を寄せて苦行するような面持ちで教会に来ても続かないからです。


 ただ、人が教会に求めるものは人の数だけあるので、全ての求めを一つの教会、一人の牧師で与えることなどできないのも事実です。そんな時どうするのか、今日の福音書は私たちにそれを教えてくれます。


 本日のヨハネ福音書では、イエス様の元に癒しを求めて集まった人々は男性だけでざっと5000人、女性やこどもの数を合わせると、もしかしたら、1万人以上の人がいたかもしれません。それほど大勢の群集がイエス様の方に向かって行ったと記してあります。人数が人数ですから、少し恐怖を覚える描写です。


 そのような緊張状態であるにもかかわらず、イエス様は弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えば良いだろうか」と声をお掛けになります。何かのんびりとした問いかけです。


 フィリポは弟子の中では現実主義で用心深い一方、真理に対する探究心の強い人物です。イエス様の昇天後はギリシャや今のトルコ辺りまで宣教旅行に赴いて教会を形成し、主に異邦人に伝道し、のちに殉教したと伝えられています。


 フィリポはそもそもイエス様の教えに感銘して弟子になった人物ですから、食事など後回し、各自でなんとかすれば良い、という思いがあったかも知れません。そもそもこの人数ですから、最初から弟子達だけでなんとかできるとは思わなかったでしょう。


 けれども、本日の旧約聖書では預言者エリシャが、足りないはずのパンを人々に分け与えさせたところ「食べきれずに残った」と書かれています。勉強熱心なフィリポなら、この記録を知っていたはずです。しかし現実主義の彼は「それはそれ、これはこれ」と考えたのでしょう。


 フィリポはつい最近、イエス様に伝道旅行に派遣され、病人を癒し、教えを説き、奇跡を行う体験をしたばかりです。それなのにハナから無理、と否定したのです。ですから、フィリポは、イエス様から試されたと記されています。


 このやり取りを傍で見ていたのが、ペトロの弟アンデレで、パン5つと魚2匹を所持している少年がいることをイエス様に伝えます。アンデレも「どうせ足りないだろうけど」という言い方でした。しかしイエス様はそれを聞いて行動を起こされたのです。


 イエス様は、私たちが現在行っている聖餐式のようにパンを取り、感謝の祈りを唱えてパンと魚を人々に分け始めます。この記述にすでに、聖餐式のイエス様の思いが込められていると分析する学者もいます。


 ヨハネ福音書のこの箇所をよく読むと、この段階ではまだ学びも癒しも行われていません。ただ、空腹な人々を見たイエス様が彼らを放って置けずにまず食事を用意してくださった、その事実だけがあるのです。


 ここから学べることはたくさんあります。私たちは、イエス様の教えではなく、癒しや食事、何か楽しいことがあるだろうか、と教会に来た人に対し「何しに来たんだ」と否定するのではなく、まずその人々をもてなすことも大切な役割であり、仕事であり、それに携わることを感謝すべきである、とこの福音書は伝えているのです。


 この箇所から学べることは、イエス様は弟子達のお手本となるために、感謝をし分け与えることこそ神の御心であると示されたこと、集まった人々を満腹するまでもてなし、奉仕した弟子たちにも十分な食事が与えられたことを、12籠一杯になることで示されたのです。


 私たちは長引くコロナ禍などの影響で、長らく教会で共に食事をすることができませんでした。これからもどうなるかわかりません。しかし、どんな状況のもとであれ、キリストの恵みを分け与える覚悟は必要です。


 5000人の給食の中で、キリストの恵みが示されたように、私たちも、キリストの恵みを示すものとして、ここに集う人々におもてなしをする心は忘れずに、キリストの恵みにある信仰を積み重ねて参りましょう。教会に不慣れた人々への配慮の心を持ちつつ、キリストの恵みを分かち合って参りましょう。



あっという間に8月です
飯田も37度越え、災害級の暑さが続いています
土曜学校は冷房のあるゆり組の教室で行う予定ですが
行き帰りは十分お気をつけくださいね

0 件のコメント:

コメントを投稿