2024年8月5日月曜日

「永遠の命の糧を知る」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第11主日礼拝(2024年8月4日)(緑)

出エジプト 16章9-15節(120) 

エフェソの信徒への手紙 4章1-16節(355)

ヨハネによる福音書 6章24-35節(175)


 本日、読みました福音書は、先週の五千人のパンの給食の奇跡の翌日の出来事で、ここに登場する群衆は、イエス様のパンと魚の奇跡で満腹した人々です。彼らは必死でイエス様を探し求め追いかけますが、イエス様の教えを求めたからではなく、また満腹することを願った、つまりおかわりをイエス様に要求したのです。


 このピントのずれた熱心さに、イエス様もイエス様の弟子達もいささかうんざりしてしまいます。弟子の中には、心の中で「ほれ、言わんこっちゃない」とか「人の欲深さをイエス様は知らないのではないか」と呟いた者がいたかもしれません。


 ヨハネによる福音書に記されている、五千人の給食の後日談は、教会が辿りやすい過ちについて警告しているかのようです。良かれと思って行った食事やもてなしなどの提供が仇となって、信仰の本質やメッセージが伝わらなず、教えがそっちのけになって、もっともてなしてくれ、もてなしてくれてこそ教会だろう、と求められてしまうのです。これは教会だけでなく、善意で働くキリスト教主義の事業体も、気をつけなければならないところなのです。


 本日読んでいただいた旧約聖書の出エジプト記は人間の貪欲さがよくわかるところです。エジプトを脱出したイスラエルの民は、40年間荒野をさまよいますが、神様の助けにより飲み物も食事も与えられ、養われ続けました。これは神様がイスラエルの民を愛している証で、なんとかして約束の地へ導きたいと願う神様の情熱の表れだったのです。


 その視点で改めて5000人の給食の記述を読みますと、この奇跡は神様がイエス様を通して人々に愛を注いだ出来事として受け止められます。しかし次の日、群衆は食事を通して受け取るはずだった神の愛をすっかり取りこぼし、感謝すら感じず、ただ空腹を満たすためだけにパンを求めたのです。まるで「餌をくれ」という動物のような態度です。しかしイエス様は、彼らををあさましい獣のように扱うことはできませんでした。欲深く、奔放な生き方をするような人にこそ、適切な教育が必要だと思っておられたのです。


 神様を求める時は、幼子が母親を求めて泣くように純粋でいてほしいけれど、ひとたび神様の愛に気づいて信仰を持ったなら、様々な試練を乗り越えながら、神の恵みは変わらずあることを体験を通して確信していくのです。この世の命が終わる時まで、イエス様と共にあることを証していく。そのような人間をイエス様は求めておられるのです。


 毎日を生きていくために必要なパンは、神様が配慮してくださると旧約聖書の昔から約束されています。しかし神様の本当の恵みは、一度満腹しても、再びお腹が空くこの世のパンではありません。イエス様は「私がいのちのパン」であると言われました。神様がイエス様を通して与えてくださるのは、人間の思いをはるかに超えた豊かな恵み。どんな時でも、いつも心が満たされている、という素晴らしい恵みなのです。


 人は「あれが足りない」「これが足りない」「私には足りないことばかりだ」と不平不満を呟苦ことが多いものです。ただ、いつも不満タラタラというわけではなく、正しく努力することもできます。ただ、誰かに自分の頑張りを認めてほしいという承認欲求も強く、これだけ頑張ったのだから認められて当然だ、幸せになって当然だ、と考えるのです。それなのに、それを手にすることができないと、また不満を抱く。悪循環が起きてしまうのです。


 経済的に豊かになることや社会的に認められることに喜びを感じるのは悪いことではありません。しかし、もっともっとという浅ましさが生じれば、気付かぬうちに悪への道、滅びへの道を選び取ってしまい、やがて目的を果たすためなら罪を犯すこともへっちゃらになる。本当に悲しき人々がこの世に次々と作り出されてしまうのです。


 日本人は「罪」というものについて、あまり深く考えようとはしません。大抵の人は「何にでも神が宿る」という感覚で持っていきているので、聖書の神様のような「絶対者」という存在をあまり意識しません。神様が常に自分を見ていて、愛を注ぎ、正しく生きてほしいと望んでいる、とはほとんど考えないのです。


 しかし、イエス様は、罪ある者にも愛を持って接し、悔い改めを起こさせようとなさいます。やみくもに努力しては挫折し、この世を恨んだり不平を垂れ流したりするような生き方ではなく、落ち着いてイエス様の教えを聞き、神様から与えられている恵みに目をむけ、永遠の命とは何かじっくり考えることで、尽きることのない命の糧を得ることを望まれるのです。


 永遠の命を知り、人を愛し、平和を実現するために、喜びを抱く私たちは、この苦しみの多い世の中で、自分が与えられている役割に目覚めていく必要があるのです。楽に生きたいと願って闇に堕ちていこうとする、そんな予備軍の人たちにさえも、チャンスのあるかぎり手を差し伸べ、宣教していく覚悟が必要なのです。


 社会の情勢が悪くなればなるほど、闇に生きていこうとする人が多くなることでしょう。そのような人たちが、自分の道を修正できるように、私たちは永遠の命の糧を知るものとして、覚悟を持って、共に歩んで参りましょう。


8月3日は土曜学校でした

紙芝居「しもべはききます」のサムエルの姿を通して

お祈りについて考えました

工作は紙皿を台紙にしたローズウインドウ

まだハサミを上手に使えないお友達も頑張りました

夏休み中のこの日は飯田のお祭り「りんごん」の日でしたから

お友達は少ないだろうなと思っていましたが

7人のお友達と楽しく過ごせて大感謝です


全員の作品と笑顔をご紹介します










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