2024年8月12日月曜日

「いのちのパン」(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第12主日礼拝(2024年8月11日)(緑)

列王記上 19章4-8節(565) 

エフェソの信徒への手紙 4章25-5章2節(357)

ヨハネによる福音書 6章35節、41-51節(175)

説教「いのちのパン」      朝比奈晴朗


 パリで開かれたオリンピックは心配されたテロなどもなく、無事終わりました。私はそれほど興味がないのですが連日ニュース報道されていますので、さまざまな情報を知ることになります。優勝候補の選手が思いがけず予選で敗退して「自分はこんなところで負ける選手じゃない」とばかりに取り乱して泣き喚いたり、自分を破った選手を罵ったり、駄々っ子のような言動をする姿に唖然とすることもあります。


 時には「メダルを取れないと祖国に帰れない」という選手の言葉を聞くこともあり、この選手の国の人々はそこまで心が狭いのか?完璧な成績を収めないと選手を追放するような政府なのか?と唖然とすることもあります。実際はそこまでする国は、ほとんどないだろうと思います。


 しかし信仰の世界では「私たちの神様は厳しくて、信仰の弱いものや信仰生活を失敗した者は神の国に入れてもらえないのではないか」とか「優等生の信仰者でなければ神様に捨てられるのではないだろうか」という疑問を持つことはあります。


 わたしたちは不平や不満に心を乱された時、神様やイエス様にどうにも抑えきれない感情をぶつけてしまい、「どうせ神様は私の願いなんか聞いてくれない」とか「神様がいるのならなんでこんなことになるんだ」とか、もし神様が目の前にいたら決して言えないようなひどい言葉を投げつけることさえあります。


 私たちはこんなにも身勝手ですが、神様は、イエス様は、そんな私たちを嫌うこともせず、遠ざけることもせず、本当に永遠に関わり続けてくださるのです。本日のヨハネ福音書は、神様の愛を信じきれず、不安に陥りやすい私たちに向かって語られたイエス様のお言葉なのです。


 本日の福音書の箇所は先週、先々週に引き続き、イエス様が5000人の人々にパンと魚を分け与え満足させた後、人々の間に起きた様々な騒動が記されています。


 日課はちょっと変則的な選ばれ方をしていて、まずヨハネ福音書6章35節の「わたしが命のパンである。わたしの元に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」というイエス様の宣言を読んだ後、ポンと飛んで41節から51節を読むように指示されています。


 6章35節の「私がいのちのパンである」は有名な御言葉ですが、実際にお腹を空かせてイエス様ならまた満腹させてくださる、と信じていたユダヤの人々は、その御言葉の意味がピンと来ませんでした。


 今日のところの少し前、31節では、イエス様を追ってきた人々がイエス様にあれこれ問いかけています。自分達の先祖がエジプトから逃げ出した時、神様からパンを与えられたことを引用して、イエス様に要求するのです。「先祖はマンナと呼ばれるパンを天から与えられましたが、あなたは何を与えてくださいますか?」。


 彼らは、「神様の恵みとは腹一杯食べられることである」と考えていたようです。もちろん私もその考え方が全く間違いであるとは思いません。もちろんイエス様も、空腹が人間を荒んだ気持ちにさせることがわかっておられたからこそ、5000人もの人々にパンを分け与えられたのですが、満腹して落ち着いた彼らに本当に知らせたかったのは、恵みを分け与える神様の御心なのです。


 イエス様の言われる「いのちのパン」は、先週もお話ししたように、一度満腹しても、再びお腹が空くこの世のパンのことではありません。神様がイエス様を通して与えようとうずうずしておられる「いのちのパン」とは、人間がどんな辛いことに直面しても、どんな困難に苦しむ時でも、神様の愛で心が満たされるようにしてあげたい、という愛そのものだったのです。


 それに気がつかないまま「食べたら終わり」のパンを、動物が餌を求めるように求め続けるのか、「変わらない愛」を感謝して受け取るのか、という問いかけが「私は命のパン」というお言葉なのです。


 この「パン」を表す言葉は「大麦で作られたパン」のことで、手に入りやすい庶民的なパンを意味するそうです。高級ではないけれど、親しみのある食べやすいパンです。神様の尊い恵みをそんな親しみやすい言葉に喩えたイエス様は「神様の愛はあなたのすぐそば、手に届くところにある」と言ってくださるのです。


 イエス様は「わたしの元に来る者は決して飢えることがなく、決して渇くことがない」と言われました。これは「決して捨てない」という意味がこめられており、投げ出さない、追い出さない、外へ放り出さないという愛と忍耐に満ちた想いなのです。


 日本では神様は八百万、という考え方がありますから、神様はよりどりみどりで、自分にとって都合の良い神様が良い神様、都合の悪い神様への信仰はさっさと捨ててしまう、という発想になりがちです。けれどもイエス様は、「あなたが、私のことを投げ出し、追い出し、外に放り出し、もはや信じない、と宣言したとしてもても、私はあなたを決して捨てることはない」と言われたのです。


 現にイエス様は、人々に捨てられる道を選ばれました。人々に十字架につけろと言われて、殺されました。神自身が、人間にそのような扱いを受けたにもかかわらず、真っ直ぐに人を救う道を選ばれたのです。だから、イエス様を「いのちのパン」として求める人々の心は満たされ、渇きも知らぬものになさるのです。


 神様のお心は広く、一度招いた人を決して手放すことも捨てることもありません。私たちは神様が与えてくださる、すぐそこにある「いのちのパン」を知り、共に分かち合っていくことを喜んで参りましょう。




現在の牧師館の物干し台は見晴らしがよく

角度のよっては遠くに南アルプスを臨むこともできます

…が、もうすぐこの眺めともお別れです

9月半ばには今の園舎を取り壊し

新しい園舎にお引越し

園舎の屋根の上に乗っかっている形の牧師館は

同時に取り壊しになります


牧師館から夕焼けを移して輝く
赤石山脈を臨む

物干し台には

牧師夫人が育てていた野菜や花々がありましたが

どんなところに引っ越すかわからなかったので

この春から少しずつ処分してきました

ほぼ整理し終わったものの

大阪の花友達さんからいただいた

プルメリアは何食わぬ顔で美しく咲き誇っています


引っ越しをひと月後に控えたこの水曜日

ギリギリになってようやく

貸していただける空き家の持ち主と

契約ができそうです


引っ越し先に運び込む荷物を前に

慌ただしく準備中ですが

この鉢をどこに置くのが最適かと

悩んでしまいます


ブーケのように咲き誇る
こんなに美しいプルメリアですが…

2020年の8月に
いただいた時は挿木の枝でした(^^)
植物の成長ってすごいですね!

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