2024年8月18日日曜日

「主を求める人」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(2024年8月18日)(緑)

箴言 9章1-6節(1002) 

エフェソの信徒への手紙 5章15-20節(358)

ヨハネによる福音書 6章51-58節(176)


 人間はこうなったら最高だ!と思い描いていたものが得られたその瞬間だけが幸せで、それは決して持続しないものなのだそうです。思ったのと違った、と考えてばかりいるなら、人は決して幸福で居続けることができないのです。


 しかし、わたしたちが幸福を感じ続ける方法もあります。「これぞ幸福」と思って手に入れたものを簡単に手放して「次の幸福」を追い求めるライフスタイルを一旦やめて、手に入ったことに感謝して大切にし、その中に喜びを見出す工夫と努力を惜しまないなら、幸せはすぐそばにとどまり続けるはずです。


 さて、本日の福音書もまた、5000人のパンの給食の後にまつわるお話です。本日読みましたのは58節までですが、さらに読み進めていきますと、イエス様のお話を理解できなかった弟子たちがイエス様の元を離れ去るという出来事が記されています。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。


 確かにイエス様が人々に語られたお言葉は衝撃的なものでした。「ご自分の肉を食べ、血を飲むなら永遠の命を得られる」とおっしゃったのです。この宣言を聞いた普通の人は「人肉を食べて血を啜れ、とは。なんて気持ち悪いことを言うのだ」と感じるでしょう。


 もちろん私たちは「イエス様の肉を食べ、血を飲むなら永遠の命を得られる」という意味について知っています。肉と血とは、イエス様が十字架の上で肉体を裂かれ、血を流されることを意味しており、それが私たちの罪を贖うためにどうしても必要であったことも、それを心に刻むために聖餐式があることも知っています。


 しかし、2000年前のこの段階で、人々がそれを理解するのはまだ無理でした。イエス様は人々の幸せを願い、まずこの世のパンを用いて空腹から救った上で、本当の幸せとは神様に愛され天の国に導かれることだ、とお教えになろうとしているのですが、飢えを満たしたいだけの人々は「難しいことはわからない、もういい」とばかりイエス様から離れ去ったのです。


 この当時、ペトロたち12人の弟子とは別に、イエス様の評判を聞きつけて弟子になりたいと願った大勢の人々がイエス様を取り巻いていました。彼らの多くは、イエス様こそイスラエルの王になるべき人物だ、と見込んで弟子入りを希望しましたので、イエス様に自分の希望を押し付けるばかりで、お話を理解しようとする思慮には欠けていました。ですから「私の肉を食べ血を飲むなら、永遠の命を得られる」という教えについて何も考えようとせず、「ひどい話だ」とつっぱねたのです。


 イエス様の語られる幸福とは、本来とてもシンプルなものです。「神様はあなたを愛しているから、あなたも神様の愛を受け入れ、誠実に生活しなさい。そうすれば時が来たら天の国に招かれるから、そこで永遠に幸せに暮らそう。」


 しかしこの教えは、この世の中の幸せが全て、死んだら終わり、と考える人々にはなかなか理解されません。世の中が平和な時は「平和主義者」でいることは簡単ですが、今のように「核兵器や武力による平和の安定」という矛盾した意見が正論のようにまかり通る世の中では、「平和主義者」は「単なる理想主義者」、ひどい的には「平和ボケ」と批判されかねません。


 日本でもキリスト教がブームになったのは、戦争が終わった後の短い間だけです。その時は、平等で、健やかな日々が送れることこそ幸せと信じてキリストの道を歩む努力をしますが、多くの人々はあっさり教えを捨ててしまいました。


 キリスト教会はなんとか人を繋ぎ止めようとして、聖書の教えを薄めて綺麗事を語ったり、その逆に頑なになった牧師が教会員の悩みに耳を傾けず「俺の説教を聞け」と一方的に語り続けたり。そんなこんなで結局教会はダメになってゆき、神様の御心に従って世の中に警鐘を鳴らす人々もどんどん減ってしまいました。


 しかし、そんな時は本日読んでいただいたエフェソの信徒への手紙5章15節からを思い出していただきたいと思います。ここにはキリスト者の生き方が記されています。びっくりするくらい高度な要求が書かれていると思うかもしれませんが、今一度読んでおきたいと思います。


 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。無分別なものとならず、主の御心が何であるか悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。いつもあらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。


 とても無理だ、とお思いでしょうか。もちろん私たちはこの世と神の国のぎりぎりのところで信仰生活を送っていますから、完璧を目指しても、うまくできるものではありません。しかしどんな人でも努力することはできるはずですし、イエス様も最初から人間に完璧であることを望んではおられません。


 イエス様の弟子たちが何度も何度も挫折し、そのたびイエス様に励まされながら歩み続けた姿は聖書にしっかりと記録されています。主を求める道が不幸の道ではないことを彼らの人生が証しているのです。


 イエス様は私たちに一時的な幸せではなく、永遠の幸せを与えようとしておられます。イエス様の教えに従って学びと実践と賛美を続ける道は、一般の人々が思い込んでいるような修行僧のような険しさばかりではないのです。御言葉を学べば学ぶほどにイエス様のお心が分かってきて、私たちの幸せは決して失われることはありません。主を求めて歩む道は、この世を去って神の国に招かれるその時まで、主イエスに求め、イエス様が与えてくださる恵に満たされて歩む幸せの道なのです。




ようやく次の牧師の住まいを借りることができました。

教会のすぐ近くの古民家で

茶道と花道を教えておられた方の家なので

なんとお茶室がついてます!

教会員にお茶の先生がおられ

教会学校の生徒や保護者さんに

教えてくださる気満々なので

とても楽しみです


引っ越しは9月10日

今の牧師館はほとんど冷房が効かず

連日30度以上になります

汗だくになりながらの引っ越し作業は

なかなかハードですがお尻に火がついているので

とにかく頑張ります


教会の礼拝堂はリノベーションして残します

全国の教会や関係施設に送るため

趣意書を制作いたしました

ここをお読みになった皆様

もしももしもご協力いただけるようでしたら

何卒よろしくお願いいたします





八十二銀行 伝馬町支店 156989
飯田ルーテル教会 建設
2026年3月まで 

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