聖霊降臨後第14主日礼拝(2024年8月25日)(緑)
ヨシュア記 24章14-18節(377)
エフェソの信徒への手紙 6章10-20節(359)
ヨハネによる福音書 6章59-69節(176)
本日は、数週間にわたってご一緒に読んできた五千人の給食についてのまとめと言えるところを見て参りましょう。先週は弟子たちの多くがイエス様の元を離れ去ったことを見ました。イエス様の「私の肉を食べ、血を飲め」とのお言葉を理解できなかった一般の弟子たちが、勝手にイエス様に見切りをつけ、立ち去ったことを知りました。
今週はまず、ここに記されている一番弟子のペトロの言葉、イエス様に向かって語りかける言葉を見てみましょう。イエス様が12弟子に向かって「あなた方も離れていきたいか」と問いかけた時、ペトロはこう答えます。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」これはなかなかすごい言葉です。
現代の私たちは、聖書を通して「イエス・キリストの生涯」がどのようであったか知っています。クリスマスや受難節、復活節、聖霊降臨祭、といった大きな教会行事を通しても、イエス様がどのように地上に来られたか、どのように苦しみを受けられたか、そして天に帰られる時私たちに何を望まれたか、まで一貫して学ぶことができます。
しかしこの時のペトロはまだそういった出来事の入り口に立っているに過ぎず、この後何が起こるか全く理解してません。自分が一度はイエス様の元から逃げ去ることなど想像もしていないのです。ただこの状況でこの言葉を語るペトロからは「誰が裏切っても自分は裏切るものか」という決意と、イエス様への信頼だけはひしひしと伝わってきます。
私たちはこの時のペトロとは違って、イエス様がどのようなご生涯を過ごされたかは知っていますが、自分の人生に何が待っているのかは全くわかっていません。言い古された言葉ですが、人生には「まさか」という状況に陥ることがあり、何が正解なのか悩み、見つからない答えに苦しむことも多々あります。例えば多くの仲間が何かの理由で離れ去っていく中で「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と答えたペトロの信仰に学ぶ必要があります。
もちろん教会生活やその運営は甘いものではなく、経営的、人材的に「どうするんだ、どうするんだ」の連続です。心配すればキリがありませんし、お互いの意見が食い違って、強いストレスを感じる時もあります。もうこの教会に来るのはやめよう、信仰生活もなんとなく適当でいいかな、という誘惑を感じるのではないでしょうか。
しかし私たちは自分達の信仰生活だけでなく、キリスト教主義幼児教育事業を担う幼稚園のために祈り、支える役目を負った教会に属しています。その中心母体が、あやふやで良いわけはありません。
現在ルーテル教会に属する幼稚園や保育園はその多くが看板だけのキリスト教主義になり、母体である教会との間に溝ができています。この幼稚園も、先生方の中で信仰を持っている人はほとんどおられません。それでも、だからこそ、困難に思えても、神様に選ばれた私たちがしゃんとしてイエス様を証し、名前も覚えられない先生のためであっても、ここに集う人々がイエス様の御手に守られて、幸せで、安全に保育が行われるよう祈りを重ねなければ、と思うのです。
第二次世界大戦直後のようなキリスト教ブームは、私たちが生きている間にはもうやってこないかもしれません。しかしあの時のような、盛り上がるのは盛り上がっても、どこか人まかせで、美味しいところだけ取ろうとする人の多い組織は、いずれボロボロになって崩れていくのです。そういった現実をシビアに見る目を持つのが、賢いキリスト者と言えるでしょう。
どんなものにも終わりが来て新しい始まりがあります。そこには苦難や死があるけれど、そこにある希望をきちんと見据えて次世代に託す方法を考えることができる。今ある苦難さえも神様の導きだと捉えさえすれば、一般の人とは違った、別の生き方、神の御心にそった生き方が見えてきます。それこそが神の国に通じる生き方であり、私たちがいずれは永遠に住む天国を見上げながら、この世の現実に対応し、日々起こる些細なトラブルに誠実さと愛をもって対処し、命ある限り、感謝しながら生きるという、いわゆるライフスタイルができあがるのです。
自分達は俗っぽく、そう清いものでありえないと、自分で自分をおとしめるのは良くありません。自分を律することのできない弱さも時には顔を出すでしょうが、そこばかり気にしていては前へ進めないのです。
ただ注意しなければならないのは、弱い信徒のままでもいいのだ、という安心感が過ぎて甘えが生じ、傍目にはまるで「神様を舐めている」ような態度になることです。よくお祈りの中で「神様に委ねます」と言いますが、もしそこに甘えがあるなら、「めんどくさくなったから責任取れません、もう手放します」という意味になってしまいます。「やれることは全てやったので結果は神様に委ねます」という意味で、本心から「神様にお委ねします」と祈れるようになりたいものです。
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