聖餐式・聖霊降臨後第15主日礼拝(2024年9月1日)(緑)
申命記 4章5-9節(285)
ヤコブの手紙 1章17-27節(421)
マルコによる福音書 7章14-23節(74)
本日はマルコ福音書からイエス様のお言葉を見て参りますが、その前に聖書の民、ユダヤ人の歴史について少し触れておきたいと思います。かれらは出エジプトの時代、おおよそ紀元前1300年ごろ、神様から十戒をいただきました。そしてそれに従って出エジプトの旅を終えた人々はヨルダン川流域に定住します。本日読んでいただいた申命記4章5節から9節は、十戒を与えて下さった神様への信仰を中心に、約束の地での国造りを行うための誓いの場面です。
しかしその場所は周辺諸国にとって交通の要所であり、エジプトやアッシリアといった大国との領土争いに巻き込まれやすい場所でもありました。そのため彼らは何度も民族が滅亡するようなピンチにさらされます。
中でも紀元前500年台のバビロニア帝国との戦いでは、神殿は壊され、主だった人々はバビロニアに連れて行かれるバビロン捕囚という過酷な経験をします。しかし彼らはバビロニアでも神様の掟を守ろうと必死でした。祖国にいた時と同じように集会所を作って礼拝を守り、子どもたちにも十戒や神様の素晴らしさを教え、民族の誇りを保てるよう教育したのです。
ただこの教育は厳しさを伴いました。国を守る為、社会を守る為、人を守る為、十戒をしっかり守るため、律法の専門家による指導が行われました。聖書を学び、律法を守るものは誉められ、そうでないものは切り捨てられたのです。
私たちは福音書を通して、障害を持った人が差別されたり切り捨てられたりする物語をいくつか知っています。いつも神様に愛される優秀な民族であろうとしたユダヤの人々は、生まれつき障害を持った人々は神様に愛されていないのだ、と決めつけ、人生の半ばで障害を負った人々に対しては「神様に見捨てられた」と判断しました。私たちの目から見れば歪んで見えるこの価値基準は、ユダヤの人々が神様の前に優れた民族でいようと頑張りすぎた結果生まれたものだったのです。
そんなユダヤの世界にお生まれになったのがイエス様でした。イエス様の教えは律法第一の人々の教えと真っ向から対立しました。イエス様は神様の愛を伝え、人間が幸せになるために十戒をお与えになったのであって、人が人を差別し障害を持つ人の生きる意味を奪い取るようなことをしてはならない、とお教えになったのです。イエス様は神様ですから、神様がお与えになったルールの本当の意味を100%理解しておられます。だからこそ大胆に神様の御心を教えてくださったのです。
しかしその教えは、古い律法解釈しか知らない人々にはバチあたりな教えと感じたようです。12弟子たちもその辺りにはかなり迷いがあったようです。しかし神様は、自ら新しい解釈を与えて下さいます。例えば、旧約聖書には食べるものを制限する「食物規定」がありますが、これは毒のある植物や食中毒を引き起こす食べ物についてまだよく知らない人間を守るためだったと考えられます。
ですから科学や調理法がかなり発達したイエス様の時代になると、神様のご命令も変わってきます。さまざまな民族に宣教していくためには他の民族の食文化を受け入れる必要があります。同じ釜の飯を食することで仲良くなれるのはどんな民族にも共通しています。ですから、イエス様が天に帰られた後、他民族に伝道するために、神様は一番弟子のペトロにむかって「私が清めたのだから、なんでも食べなさい」と命じられたことが使徒言行録10章にはっきりと書かれています。
そしてペトロ自身、「ユダヤ人が外国人と交際することは律法で禁じられてきたけれど、神様ご自身がどんな人をも汚れていると言ってはならないとお命じなりました。だから私は異邦人のあなた方のお招きに応じたのです」と語っています。律法の再解釈によってペトロは伝道者として大きく前進したのです。
本日のイエス様の教えは、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない」と語っておられます。これは現代のわたしたちが考えるような有害な食品添加物とか、そんなことではもちろんありません。
「あなたたちは、外に問題があると、外にばかりに目を向けて、自分の周囲に問題があると批判して押し付け、解決して気になっているけど、そもそもあなたの内面はどうなっているのか?」と問いかけておられるのです。
謙虚になって私たちの内側に目を向けるなら「悪い思い、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」といったよくないものがあることは、分かると思います。人の心にあるそれらの思いは、何かのきっかけで目覚めて溢れ出し、自分も周りも汚されていくのです。
しかし、そのようなものが心にあっても神の子・主イエスは受け入れ、コントロール方法を教えてくださり、私たちもこの方に頼りながら、心の中の悪い思いに振り回されそうになったら、悔い改めるかのようにイエス様に向き直り、執り成しの祈りを捧げるのです。
私が神様の前に清らかで正しいから祈って構わない、ということでは決してなく、悔い改める必要があるから、このままだと自分も他人も汚してしまいそうになるから祈るのです。悪意に染まりきってしまわないように神様は「祈る」という方法を与えてくださったのです。
神の掟とは、それを十分に行うことが出来なければ、神様の祝福は受けられない、というものでは決してないのです。私たちは、掟を重視しすぎた人々が結局神様の愛を見失った事実を聖書を通して知っています。だからこそ、完璧でなくても、今日も悔い改め、もう一度神様の愛を知り、前を向いてコツコツと、神の御子イエス・キリストを知る群れとして祈りつつ歩んでまいりましょう。
とんでもない台風が日本とその周辺地域に
酷い打撃を与えています
皆様のお住まいの地域はいかがでしょうか
これ以上被害が広がりませんように
また、被害を受けられた皆様の上に
主の慰めと励ましを祈ります
暑さの中でも植物は そろそろ秋の気配を漂わせ始めました 台風が過ぎ去れば あまりにも暑かったこの夏も終わるでしょう そう願いたいものです |
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