聖霊降臨後第16主日礼拝(2024年9月8日)(緑)
イザヤ書 35章4-7a節(1116)
ヤコブの手紙 2章1-17節(422)
マルコによる福音書 7章24-37節(75)
私たちは本日は、聖書日課に従い、2か所の「癒し」の出来事見てまいります。まず、イエス様に娘を癒して欲しいと願う女性ですが、彼女は自分がユダヤ人ではなく、その当時はイエス様の癒しの対象ではないことを十分知っていました。しかしイエス様に拒否されても機知に富んだ返答をし、いやしを与えられました。
耳が聞こえず、舌の回らない人の場合は、イエス様が「エッファタ」と言われたのと同時に、耳が開き、舌のもつれが解けて、はっきりと話すことができるようになったと記されています。
最初の癒しの舞台となったティルスはイスラエル人にとって神様に見捨てられた、汚れた異邦の地です。普通のユダヤ人ならそこに住む人々と個人的な関わりを持つことはありません。しかしイエス様はあえてティルスに行かれたのです。そこならばイエス様にいやしを求める人はいおらず、一休みできると思われたのかもしれません。
イエス様は神様のご計画により、まず第一にユダヤの民に神様の御心を伝えてこられました。しかしユダヤの民は、神の御心を求めるよりも先祖からの律法を守ることを重視しました。専門家たちも民衆を厳しく指導することで、満足していました。残念ながらいつの間にか神様との生き生きした交流は失われていたのです。
ところがこのシリア・フェニキアの女性は、イエス様を神様であると信じた上で関わっていただくことを強く求めたのです。娘が悪霊に取りつかれているという困難な状況の中で、救うことの出来るのは、イエス様だけだと確信していたのです。
彼女はイスラエルに律法があることを知っていましたし、律法を守らなければ神様に愛されないらしい、という知識も持っていたでしょう。それを基準にするならば、自分はイエス様に癒やされて当然などとは全く考えていなかったでしょう。
しかし彼女は、異邦の自分でも必死で祈って、求めて、信仰によって繋がろうとするならば、この心優しき癒し主は、決して突き放しはしない、そう感じていたのです。そして、そう信じて疑わない彼女の心を、イエス様は見抜かれたのです。
イエス様は「ユダヤ人優先」の基本を貫いてこられましたから、一旦は彼女の願いを退けます。しかし彼女は「子犬でもパン屑はいただきます」と答え、イエス様のお心を揺さぶります。
少し前に、私たちは、イエス様が5千人の人々にパンを与えたことや、もっとパンが欲しいと考えた人々がイエス様を追いかけ回したことを聖書から学びました。イスラエルの人々は、ユダヤ人である自分達が神様からパンをいただけるのは当然であると思い込んで、信仰的な意味を深く考えないままイエス様を苦しめました。
しかし彼女は自分の立場をわきまえた上で「ユダヤの人々の余り物でも私には十分な恵みです」と答えたのです。彼女が5千人の給食のことを知った上でこう言ったのかどうかはわかりませんが、イエス様はこの出来事から異邦人であっても豊かな信仰を持つことが可能であると確信してお喜びになり、癒しを行ったのです。
この出来事に続く物語は、ガリラヤへと帰ってきた後の出来事です。イスラエルの人から見れば、イエス様は異邦のけがれた地を巡って何をしてきたのかと思われるような状況です。しかし、それでもイエス様の癒しを求める人は待っていました。その人は耳が聞こえず舌が回りませんでした。ユダヤの律法によれば神様に見捨てられた人物ということになります。差別の中にいるこの人は、一人でイエス様の前に進み出る勇気はなく、なんとかしてやりたいと思った人々に連れられてやって来たのでしょう。
イエス様は異なる言葉を話す異邦人の土地を巡ってガリラヤ湖のほとりに戻られたばかりでした。この時わざわざ、ユダヤ人が日常的に使っていアラム語を用いて癒しを行ったのは、神様の御心はまだユダヤの人々から離れていないことを表そうとされたのかもしれません。
そしてまた、この「エッファタ」「開け」と訳されるこの言葉には「解放されよ」という意味もあったようです。イエス様はこの人の耳が聞こえ会話ができるようになるだけではなく、律法に縛られたユダヤの人々に向かって、行き過ぎた律法主義とそれが生み出す偏見から自由になりなさい、と言われたのではないでしょうか。
現代の私たちは、信仰を持つ身でありながら、イエス様に病を癒していただきたいと求める人に、現代の科学や医療の常識を振りかざすことがあります。イエス様を信じているといいながら、イエス様があらゆる癒し主であることを信じないでいるのです。知らず知らずのうちに神様に不遜な態度を取ってはいないでしょうか。
改めてこの箇所を読む時、私たちは自分に都合の良い「癒し」や「救い」を望んで勝手に失望するのではなく、頭から否定するのでもなく、ただイエス様を信頼して素直に願うことの大切さを教えられます。「祈っても何も起きない」という前に、自分がどれだけ真剣な祈りによる関わりを振り返る必要があるでしょう。
私たちは私たちと関わり合う身近な人々に、イエス様は「癒し主」であることを伝え、癒しを求める人々と共に祈ることを大切にしてまいりましょう。
最後になりますが、かつてイエス様が歩まれたイスラエルで、民族の誇りゆえに歴史や宗教に縛られ、本当の神様の姿を見失って暴力の連鎖に苦しむ人々のために祈りましょう。イエス様によって彼らが憎しみから解放されますよう、イスラエルの地に真実の癒しと平和が訪れますよう「エッファタ」「解放されよ」と祈るのはイエス様の御心を知るクリスチャンの役目であると信じ、願い求めてまいりましょう。
8月31日(土)に、園舎のお別れDAYが企画されました
台風の進路がどうなるか気がもめましたが
無事開催され、たくさんの卒園児や
保護者の皆様が来てくださいました
園舎は今月半ばには取り壊しが始まる予定です
「礼拝堂はリノベーションをしてそのまま残します」と
お話しすると多くの方たちが「それはよかった」と
喜んでくださいました
「故郷がそのままあるようで嬉しい」とおっしゃる方も
リノベーションが終わったら
ぜひ礼拝に来ていただきたいものです
実は地元のケーブルテレビの取材があり
8月2日(月)に放映されました
テレビに向かってシャッターを切るという
アナログなことをしてみました
色がおかしいのはそういう訳です(^^;)
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