2024年9月29日日曜日

「共に報いに預かる」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第19主日礼拝(2024年9月29日)(緑)

民数記 11章24-29節(232) 

ヤコブの手紙 5章13-20節(426)

マルコによる福音書 9章38-50節(80)


 誰でも心の中に自分にとっての「正しさ」や「正義感」を持っていると思います。それは一人一人の人生観や生き方を形作っています。しかし、間違った正義感や極端な正義感に固執し、悔い改めを拒み、他者の意見や価値観を何がなんでも受け入れようとしない人もいて、周囲を傷つけたり混乱に陥れたりすることもあります。


 そうなりかねなかった典型的な例が、本日の福音書に記されています。12弟子の一人であるヨハネがイエス様に「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、止めさせました」と誇らしげに話したのです。ヨハネはイエス様を心から尊敬し、イエス様は特別なのだから、軽々しくイエス様の真似をする奴は許さない、そんな強い熱意だけは伝わってきます。


 しかしイエス様は「やめさせてはならない」とおっしゃいます。イエス様はこの出来事は世界にキリスト教を広めていくために通る道として捉えておられましたが、この頃のヨハネはイエス様の深いお心がわかりませんでした。「イエス様の教えを否定しない相手には忍耐強く御言葉を語り続け、奉仕を共にしていこう」という心境にヨハネが到達するのはまだいぶん先のことです。


 ヨハネはイエス様に最も近い弟子の一人として学んでいましたが、性格としてカッとなりやすく、イエス様から「雷の子」とあだ名をつけられるほどだったのです。しかしヨハネはイエス様が天に帰られた後、イエス様が語られた愛について深く思い巡らしながら宣教活動をし、キリストの群れを形成します。そうやって生まれたのが、ヨハネによる福音書です。


 イエス様の弟子の多くが宣教活動の途中で殉教しましたが、ヨハネは高齢になるまで生きて、その教えを自分の弟子たちに伝え続けたと言われおり、本日読みましたマルコによる福音書のこの言葉は、若かりし頃のヨハネが、直接イエス様から教えていただいた考え方を自分なりに再解釈して言葉を選び直し、マルコに語ったものだと言われています。


 本日読みました福音書の後半の部分「罪への誘惑」の部分にはヨハネの本来の性格が垣間見えて興味深い書き方になっています。「イエス様は優しくも厳しい方だった」「神様の国に迎え入れるためには積極的に犠牲を払いなさいとおっしゃった」そんな思いと元々のヨハネの激しい性格も相まって、かなりショッキングな表現になっています。


 イエス様は本当に「重要な器官である手や足や目を切り捨てても地獄へ落ちるよりマシだ」と過激な表現で語られたのか、また「弱い信徒をつまづかせるものは、海に石臼をかけて投げ込まれた方がよい」と本当に言われたのか。


 この箇所については時代と共に解釈が進んできて、現代では「比喩」つまり「喩え」としてイエス様が語られた言葉をヨハネが強調した、という考え方になっています。「手」「足」「目」などの大切な器官や、自分の価値観や正義感やプライド、友人、家族、そのほか自分にとって掛け替えのないものでも、イエス様に従うときには手放さなければならないこともある。そしてイエス様を愛するが故にそれらを捨てた者だけがクリスチャンとして先に進むことができる。そういうことが語られているのだと解釈されています。


 こう言い換えると表現は柔らかいですが、厳しいことが書かれているには違いがありません。イエス様について行きたいなら、それまの自分を形作って来たものを手放す覚悟が必要だ。そう聖書は語っています。


 このヨハネはイエス様の弟子として生きる中で、共に伝道を担った友人や兄弟を殺され、自身も社会地位を剥奪されながら、高齢になるまで生き抜きました。その人生は幸せだったのか、私が天国に招かれるとき、会って聞いて見たいことの一つです。でもその答えはおそらく、十字架で一度命を捨てたイエス様を信じることで、ヨハネ自身が妬みや嫉みから解放され、一生をかけて愛を学び、また教えることができた、幸せな生涯だった、と言うのではないでしょうか。


 さて、お話を終える前に、最後に今一度注目しておきたいのは「逆らわないものは味方」と「罪への誘惑」の間に挟み込まれた「一杯の水」という御言葉です。大切なものを失ってもイエス様の教えを伝えようとするなら、石を投げる人々に囲まれることもある。しかし、そういった人々に同調せずただ一杯の水を差し出す誰かがいるならば、水を差し出した人の勇気は神様に見落とされることはなく、その人は報われると示されたのです。


 私たちは、「あんな人に宣教に関わる価値はない」とか「誰に宣教すべきか」とキョロキョロするのでもなく、寛容と忍耐の心を大切にして宣教に励むなら、必ずそこに誰かが寄り添ってくれる、とイエス様は語りかけておられるのです。

 ですから、私たちが個人的訓練を怠らず、かといって自分のやり方を人に押し付けるのもなく生きていくとき神様に招かれた隣人は必ずやってきます。それを信じて歩んでいくのです。


 現代は、お互いに水一杯のやり取りもできないほどに、渇いた時代かもしれません。お金が無ければ不幸だ、と子どもたちまでが言うほどです。これほど心の乾いた人々に囲まれているからこそ、私たちは、したたかに聖書を読み、イエス様の言葉を学び、信仰を共にする仲間と共に教会に集い、宣教を前進させていく役割があるのです。その働きに参与するとき、確かな報いが神様から与えられるのです。愛によって社会を変え、永遠のいのち、天国を目指していくこと。これこそ天から与えられた喜びです。この恵み、報いに共に預かることを感謝して参りましょう。


いよいよ教会と旧園舎の解体作業が始まりました。

旧園舎と礼拝堂は切り離され、リノベーションが行われます


牧師館だった部屋の窓が外され

がらんどうになっているのを見ると

やはり寂しさを感じますが

礼拝堂が新しく生まれ変わる春を

楽しみに待ちたいと思います


窓がなくなっているのが牧師館だった部屋です
奥に見えるのが新しい園舎です
玄関入り口の屋根にあった十字架も取り外されました
いよいよだなあ、という感じです


反対側から見たところ
ブルーのネットで覆われている部分から
切り離しが行われます

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