聖霊降臨後第18主日礼拝(2024年9月22日)(緑)
エレミヤ書 11章18-20節(1198)
ヤコブの手紙 3章13-4章8節a(424)
マルコによる福音書 9章30-37節(79)
本日の聖書箇所は、みなさんもよくご存知の箇所です。旅の途中でイエス様がご自分の苦難と復活について語られた時、弟子たちはそのお話を理解できず、誰が一番偉いかという話で盛り上がり、言い争いが起きるのです。
イエス様はその時は彼らをお咎めにならず、目的地である家についてから弟子たちを呼び寄せ「一番になりたいものは、全ての人の後になり、使えるものになるように。」と教えられました。
そして、その家にいた一人の子どもの手をとって真ん中に立たせ、自分の腕に抱いてこう言われました。「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」
イエス様が言われたのは「私の弟子になる人は子ども好きでなければならない」とか、「子どもを猫っ可愛がりしなさい」いう意味ではありません。人として対等に接し、その子と人格的に関わり合って、理解していく努力をしなさい、というニュアンスが近いかも知れません。
現代には国連で作成された「子どもの権利条約」というものがあって、子どもには「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」の4つがあるとされます。しかし心からこれに納得し、積極的に守るのはなかなか難しいのです。
私たちの信仰生活も素直に振り返るなら、礼拝でお話を聞いたり祈っている時に、飽きた子どもが騒ぎ出すと、つい「静かにしなさい」とか「あっちに行っていなさい」と、外に出そうとするでしょう。また「静かにさせるのが親の義務なのに、なぜ注意しないのか」と保護者に厳しい目を向けることもあるでしょう。
もちろん、静かに礼拝をする権利は全ての人にあります。ただ、礼拝はどんな時も静かに行うべきだ、という自分の感覚を絶対的な正義と考え、知らず知らずのうちに子どもを礼拝の場から遠ざけ、そうすることが神様が喜ばれることだと思い込んでしまうのです。もちろんいつもいつも騒がしい中で礼拝しろということではなく、たまたまその場に、その家に、ヤンチャなこどもがいたとして、その存在を頭から受け入れようとせず、自分の信仰的成長だけを願うなら、いくら厳しい修行を積んでも、神様が喜ばれることはないのです。
今でこそこうなのですから、2000年前のイエス様の時代、想像できないほど子どもの地位は低いものでした。子どもはちゃんと育って大人になるまで価値がない、と思い込んでいる弟子たちにとって、イエス様のご命令なのだから、と邪険にせずに受け入れるのは、初めての感覚、初めての経験だったことでしょう。
しかし、この世界を創られた神様にとって、この世に存在する人間はそれが何歳であっても、どのような人であっても、等しく神の似姿であり、無価値なものは存在しないと知っておく必要があります。イエス様は、本日の福音書において、弟子達だけが集まるような小さな家でなされる平和の業が、全世界に通じるのだと示されたのです。
イエス様が私たちにお教えになった伝道、そしてその先にある世界への宣教は、自分の内側にある偏見や、都合の悪いものを排除しようとする欲望、そんな罪を自覚することから始まるのだ、と知っておきたいのです。
小さな家でできることは、大きな世界へと広がっていくでしょう。強制されていやいやするのでなく、主人であるイエス様のみ教えに従い、幼子を受け入れる心を持って、意見の対立するものであっても寄り添えるところを見出し、乗り越えていくことこそが「イエス様に仕える」ことでもあります。
ところで、聖書には、この「幼子」という言葉について、真逆の文脈で使われている箇所があることを知っておきたいと思います。
もう一つの「幼子」の意味、それは、長い信仰生活を送りながら、聖書を学ぼうともせず、信仰の成長が止まってしまっている人のことです。いわばいつまで経っても一人前のキリスト者になれない人を表す言葉としても使われるのです。
ヘブライ人への手紙5章12節から14節にはそういった人々に向けて厳しい言葉が記されています。
「あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」
ヘブライ書の著者は「あなたがたはいつまで幼子のつもりでいるのか」と叱責しています。幼い子どもは自分をコントロールできず、周りに負担をかけることもある。しかしそれでも周りはイエス様の御命令だから、という理由で受け入れる。あなたが仮に年だけ重ねた幼児で、面倒な人物でも、周りは黙って受け入れてくれるでしょう。しかしそれでいいのですか?そんな人が幅を聴かせて駄々をこね続ける教会は決して成長できないのですよ、と記されているのです。
もちろん誰でも「幼子」的な部分は持ち合わせているでしょう。しかしだからこそ「互いに受け入れ合う」という教えが必要なのです。互いに謙虚に信仰に生き、人まかせの生き方を止めて、牧師がやればいい、役員がやればいい、ではなく、より健康的な群れとなるために、私たちは「互いに受け入れ合う」、それがイエス様のご命令なのです。
地震に続き、大雨で大変な思いをしておられる
能登半島の皆様のために祈ります
これ以上被害が広がりませんように
神様の慰めと励ましがお一人お一人の上に
ありますように
飯田では異常な暑さの夏の名残があるとはいえ
朝晩は少し涼しくなってきました
彼岸花や秋明菊が咲き始めました
忘れずに咲いてくれる姿にホッとします
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