2022年5月23日月曜日

人生を変えた御言葉(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2022年5月22日)
詩編67章2-4節 ヨハネによる福音書5章1-9節

 お話の舞台となったのは「羊の門」の傍の「ベトサダの池」で、エルサレムの街の東北の端にありました。「ベトサダの池」は人工的に作られた池で、長さが50メートルほどあったようです。

 この池は元々雨水を貯めるために作られたものでしたが、以前の聖書の訳には「主の使いが時々池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても癒された」という注釈がついていました。深刻な病に苦しむ人は、水が動くのを天使のわざと信じてひたすら待ち、一番最初に体を浸そうとしたのでしょう。


 この場所に大勢の病人が集うようになって歳月が流れるうちに、癒されて去っていく者がいる反面、いつまで経っても癒しを得られない人々もいました。本日登場する病人は38年もの間、病に苦しみながらその場に横たわっていたのです。

 彼はここで過ごす時間が長くなるにつれ、水に入れない病人たちが空しく待ち続けた挙句死んでゆき、その遺体が抜け殻のように雑な扱いでここから運び出される様子を何度も何度も目撃することになります。やがて彼は、次第に回復する希望を失い、自分もこのままここで朽ちていくに違いない、という絶望的な思いで毎日を過ごしていたと思われます。


 そんな時、彼は「良くなりたいのか」と呼びかける声を聞きます。思わず目を挙げると、彼よりずっと若い、30歳を越えたばかりの人物に見えました。しかしその人は威厳に満ちた穏やかな声で語りかけたのです。その質問は38年間も患っている人間に向かってするには非常識で冷たいように感じます。しかし「良くなりたいのか」と聞かれて即座に「はい、良くなりたいです!」と答えるのは希望を捨てていない人だけです。この病人はあまりにも長い間、期待しては裏切られることを繰り返してきたために、心の中には絶望しかありませんでした。そして自分が良くなれないのは自分勝手な人々のせいだ、という恨みでいっぱいだったのです。


 ですからイエス様に尋ねられ、何か答えなければと思った時、咄嗟に出たのが「誰も私を水の中に入れてくれない」という38年分の恨みのこもった言葉だったのです。「良くなりたいから、どうか私を水の中に入れてください」と頼むことすらできないほどに心が闇に囚われていたのでしょう。


 イエス様はこの病人の心のうちまでご覧になりました。あえて「良くなりたいのか」と問いかけられたのは、彼の心に今一度回復への希望を灯を灯し、神様に対する信頼や信仰を掻き立てるためでした。彼がとっくに放棄していた「神にすがる」という信仰を取り戻してもらうために、あえてこの言葉を語りかけられたのです。

 長い年月、誰も自分を見ようとしなかったのに、この方は真っ直ぐに自分に愛のこもった眼差しをむけ、力強い言葉で「治りたいのだろう」と促してくださる。このお方は一体誰なのだろう。病人の心が大きく動いたことを知ったイエス様が次に言われたのは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」でした。この言葉は、彼の人生を変える言葉となりました。


 イエス様の言葉に抗えないものを感じた病人は、立ち上がれると信じ、言われるままに今まで使っていた寝床、おそらく粗末な布のようなものでしょうが、それをたたんで歩きだしました。水に入ることなく、彼は癒やされたのです。

 イエス様は今までなさった奇跡の中で、病気を治された後、しばしば「家に帰りなさい」とおっしゃいました。しかしここでは「歩きなさい」と言われます。これには特別な意味があるようです。38年は長い時間です。家に帰っても、かつて自分を愛してくれた家族や友人はすでに存在していないかも知れません。まるで浦島太郎のように、さらに深い絶望を味わうかも知れません。いまさら元気になって何になるのかとまで思うかも知れません。


 それでもイエス様はこの人に「歩きなさい」と言われますした。あなたは神様の憐れみを知り、私という救い主を知った。あなたの苦しみを取り去り、暗闇から救い出してくださる神の存在と愛を、同じように苦しむ人々に伝えなさい。あなたが経験した苦しみは、救いを求める人に神の愛を伝える力と変わる。そのように、彼に生きていく意味をお与えになったのです。

 彼は癒やされた直後、ユダヤの人々から声をかけられます。それは「よかったね」という喜びの声ではありませんでした。癒やされたのが、イスラエルでは本来何の業もしてはならない安息日だったため、床を担いだことを厳しく問い詰められたのです。


 すると彼は「私を癒してくださった方が担げと言ったから担いだのだ」と、あやふやな言い訳のような言葉を述べます。癒していただいておきながら、責任はイエス様にある、と言わんばかりです。何だか危なっかしいなあ、と思う方も多いでしょう。

 この人がこの後、イエス様を信じて人生を変えていただいた喜びと感謝を持って歩んだのか、ユダヤ人たちの言いなりになってイエス様を批判する方に回り、再び神様の愛から離れてしまったのか、聖書からは知ることができません。


 しかしイエス様の真っ直ぐで慈愛に満ちた眼差しを受けた彼は、時々弱気になることがあったとしても、その都度自分に向けられた眼差しを思い返し、その後の人生もイエス様に忠実に歩んだことを願いますし、そうであろうと思います。

 私たちもまた、神の言葉を聞き、人生を変えられたものたちの集まりです。時々は弱気になったり、信仰があやふやになったりすることもあるかもしれません。しかしイエス様の眼差しを受け、人生の新しい目標を与えていただいた喜びを知るものとして、主に命じられるままに歩んで参りましょう。



来月の土曜学校の工作
10年ぶりくらいにプラバンクラフトをすることに決めて
材料を引っ張り出しました
ただSDGs的にどうなんでしょう
プラごみを増やさないように、と教えつつ
一方でプラスチック工作をすることに矛盾がありますが(^^;)
終わったら切れ端までていねいに集めて
教師たちで再利用しようと考えています

2022年5月16日月曜日

愛の主体になる(日曜日のお話の要約)

復活節第5主日礼拝(白)(2022年5月15日)短縮
ヨハネ黙示録21章3-5節(477)ヨハネ福音書13章31-35節(195)


 新約聖書を記したギリシャ語は「愛」について、4つの単語を使い分けています。ところが日本語にはそれらに対応する単語がないので、初めの頃は全部まとめて御大切(ごたいせつ)という言葉を使っており、しばらくたって「愛」と訳したようです。

 ギリシャ語で「愛」を表す4つの単語とは、エロース、フィリア、ストルゲー、アガペーで、それぞれ男女の間の愛、友情、家族愛、そして無償の愛、と書き分けて用いられています。聖書では、絶対にぐらつかない、状況がどうであれ失われることのない愛のことを「アガペー」という言葉で表しています。この愛について教えてくれるのが、本日読みました福音書の箇所です。十字架を前にして、イエス様は弟子たちに対し、無条件で他人を愛することの大切さを教えておられるのです。

 本日のお話はイエス様が十字架にかかる前、12弟子の一人、イスカリオテのユダがイエス様を裏切り、不当な逮捕に協力するため、最後の晩餐の席から出て行った直後の出来事です。
 「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたは探すであろう」と謎めいた言葉をお話になり、さらに「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」とイエス様はおっしゃいます。
 弟子達は、この言葉に激しく動揺します。彼らは、少し前からユダヤの一部の人々がイエス様の命を狙っていることに気づいていましたが、イエス様が死ぬなら、私も死のう、と言葉に出していました。

 弟子達は、イエス様が素晴らく完成された世界を作ってくださると信じ、その世界が実現することを強く望んでいました。そのためには激しい戦いもあるかもしれないが、ひるんでなるものか、とも思っていたでしょう。万が一の時には自分がイエス様を守って戦おう、そんな決心をし、武器を準備していた者もおりました。
 自分たちがこれほどの覚悟をしているというのにのに、イエス様ともあろう方が今になってそんな弱気なことをおっしゃるのはなぜだろう。弟子たちはそう思い、お言葉の意味を理解することができませんでした。イエス様のたびたびの受難予告を聞いて、疑問を通り越して腹立たしい思いさえしたかもしれません。

 しかし「イエス様こそイスラエルを支配する方だ」と目をキラキラさせて見つめる弟子たちの姿は、イエス様の目から見れば、初めの頃とかなり変わってしまっていました。弟子たちは初めの頃こそイエス様をお手本として、弱い人や世間から見放されている人を分け隔てせず、無償の愛を注ぐような人になりたい、と願っていました。それが、自分たちも奇跡も行うことができるようになると、イエス様についていけば高い地位や名誉を手に入れられると思い始め、仲間同士で言い争いさえするようになったのです。そんな彼らをご覧になって、イエス様はご自分の思いと弟子の思いに隔たりが生まれていることを寂しく感じておられました。
 弟子の方は、イエス様のためなら命も惜しくないほどの強い愛でイエス様を愛していると信じていたのです。しかしそれは単にイエス様にその身を捧げよう、という自分の愛に酔っていただけだったのかもしれません。
 一説によれば、イスカリオテのユダがイエス様を裏切って出ていったのは、イエス様が何度も「十字架にかかる」と宣言されるのを聞いて失望したからだとか、本当に十字架にかかるわけがない、とイエス様を試す心だったとか言われています。いずれにしても、神様がイエス様にお与えになった試練の数々の中には「手塩に欠けた弟子に裏切られる」という残酷な要素も含まれていたのでしょう。
 イエス様はユダも含めて全ての人の罪を背負い、全ての人に起こりうる不幸や裏切りを体験され、それを背負い、十字架にかけられ命を失ってもなお全てを受け入れ、全てを赦されました。残酷で惨めな死に様を選ばれた上で、人は裏切っても神は裏切らない、神は見守り、愛してくださる。それを証明するために復活をなさったのです。
 ただ、この段階では、イエス様の思いは全くといって良いほど弟子達に通じませんでした。イエス様が十字架にかかったとき、ほとんどの弟子たちはその場から逃げ去って隠れ家に潜みました。イエス様と同じように殺されるのではないかと怯え、復活したイエス様がここられても、幽霊ではないかと疑いました。そんな彼らにとっては、以前イエス様の前で「あなたのために死にます」と言い放った勇ましい言葉も、ただ自己嫌悪を引き起こすばかりです。自分たちは取り返しのつかない罪を犯してしまった。彼らは心の暗闇に捉えられ、死んだも同然だったのです。

 そんな彼らを再び光の元に連れ出し、生き返らせたのも、イエス様でした。弟子たちを愛で覆い、彼らが犯した罪を丸ごと受け入れてくださったのです。弟子たちはこのとき、本当に赦すとはどういうことなのか、愛を持って生きるとはどういうことなのか、理屈ではなく、体験を通して知ったのでした。
 イエス様は、人間が完璧な愛の心を持ち続けることの難しさを十分分かっておられます。それでも、その愛が難しいからと放棄するのではなく、その難しさを忘れないようにしながら、「互いに愛し合う」ことを行動に移し、取り組んでいきなさい、私は喜んで力を与えよう、と言ってくださるのです。

 キリストの愛を覚えながら、キリストに生きていくことが私たちには許されています。困難があるとき、そこにはより大きな愛が注がれていることを忘れないでいましょう。そのために、最も偉大なる愛を私たちが主体となって、この場所で示して参りましょう。

教会&幼稚園の敷地や
牧師夫人が雑草抜きなどをしている
隣の空き地には
たくさんのオダマキが咲いています
白っぽいオダマキはちょっと珍しいのではないでしょうか
背景に写っている虹の模様は幼稚園の園バスです
牧師は朝の登園時にバスの添乗奉仕をしています

2022年5月8日日曜日

神と共に生きる(日曜日のお話の要約)

復活節第4主日礼拝(白)(2022年5月8日)
使徒9章36-43節(231) ヨハネ福音書10章22-30節(187)

 本日読みました福音書は「エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた」という書き出しです。この神殿というのは、もちろんエルサレムの神殿のことです。

 イエス様の誕生される160年ほど前、イスラエルはギリシャに支配されており、エルサレム神殿も蹂躙され、異教の神が祀られていました。これに反発したユダヤ人のマカバイは激しい独立戦争を経て、異教の神を追い出し、ギリシャ人によってけがされた神殿を奪回して清め、元の神殿の姿を取り戻しました。それが紀元前164年の12月のことです。

 しかしイエス様の時代のイスラエルは再び他の国、ローマ帝国から支配されていました。ですからギリシヤから神殿を奪還した勇ましく信仰的な祭りを行うことはどこか嘘くさく、「宮清め」を記念すると言いながらも、空々しい記念日となっていたと考えられます。

 この「宮清め」という言葉を聞いて、イエス様の行動を思い出される方もあるでしょう。ヨハネ福音書では2章に書かれています。宣教を始められて間もないイエス様が神殿で商売をしていた両替商や生贄の動物を追い出した出来事です。「私の父の家を商売の家としてはならない」というお言葉が印象的です。

 イエス様が以前神殿で行った「宮清め」はかなり過激な行動で、神殿関係者の中にも覚えている人も多かったので、イエス様のお姿を見て、再び何かするのではないかとヒヤヒヤしていたことでしょう。
 と言いますのも、イスラエルの国の政治的トップは神殿の祭司やファリサイ人たちで、宗教の指導者でもあったのですが、ここ数年は言動も思想も堕落しているように感じられ、今こそ真の意味で宮清めが必要ではないかと、内心思う人も多かったからです。

 これまでイエス様は数々の奇跡を行い、目の見えない人の視力を回復させたりしておられました。それを知ったリーダーたちのある者は、イエスは悪霊の力を借りていると言い、またある者はそれには賛成せず、「イエスは神から遣わされたのではないか」と言いました。
 イエス様を支持しようと考えていた人々は、イエス様に、かつてギリシャから神殿を取り戻した英雄マカバイを重ね合わせていたでしょう。一方ローマに依存している人々は、イエス様の存在が火種となって反乱が起きれば、圧倒的武力を誇るローマによってイスラエルが叩き潰されてしまうだろうと考えていました。イエス様を新しいリーダーとして担ごうとする人々と、危険視する人々。イエス様への評価は二つに分かれていたのです。

 そこで人々はイエス様を取り囲み、「いつまで私たちに気を揉ませるのか。もしメシアならはっきりそう言いなさい」と詰め寄ったのです。彼らは救い主なら救い主と言ってくれ、自分を納得させてくれ、と求めているのですが、実はイエス様はこれまでもさまざまな奇跡やお話によってご自分の権威を示してこられました。すぐ前の箇所では、羊のたとえを語り、神様から委ねられた人々のことを「羊」にたとえ、「わたしは良い羊飼いである」と言われます。ですから人々に詰め寄られた時、イエス様は「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とおっしゃったのです。

 神様がイエス様に結びつくように定めた人々は、神様について高度な知識がなくても、イエス様のみ言葉を通して神様を知ることができ、神様との交わりを求めて集まってくる、という意味なのです。

 イエス様を取り囲んだ人々の中には、本当に神様が呼んでおられる人もいたかもしれません。であれば、その人は最初は無礼で疑い深く、傲慢な態度をとっていても、やがてイエス様が神の御子であることに気づいて悔い改めるでしょう。その逆に、いくら謙虚に振る舞う人であっても、神様が呼んでおられないなら、結局はイエス様のお話を理解できず、離れていくことになります。

 どんな態度でご自分に近寄ってこようとも、神様からご自分に与えられた人々のためならば、命を捨てる覚悟をしている、とイエス様は宣言されたのでした。私達の主はそういう方なのです。

 本日の聖書箇所はそれほど長くはありませんが、イスラエルの血生臭い戦争の歴史が秘められています。他国に支配され続けたイスラエル民族がイエス様に過去の英雄の姿を重ね合わせ、リーダーとして担ぎ出そうとしたことは、私たちにもなんとなく理解できます。しかしこの後40年ほどして、イエス様を担いで革命を起こそうとした人も、イエス様を排除して安定を求めた人々も、共にローマに滅ぼされていきました。

 当時のイスラエルのリーダーたちは、聖書という最高の神のメッセージを与えられていながら、真に「神と共に生きる」とはどういうことなのか、最後まで分かりませんでした。自分でも分からないだけでなく、自分が導くべき民衆に正解を与えることができなかったのです。その結果、ついに平和を作り出すことはできず、彼らの愛した神殿は完全に崩壊しました。

 しかし、そうなる以前、イエス様を信じたことによって国を追われた人々、クリスチャンは逆に生き延びました。そして行き着いた町々で、神殿ではなく、聖書に記されたイエス様のみ言葉を大切に学び、実践するスタイルを作り上げました。ですからキリストの教えは今に至るまで滅びることはないのです。

 私のまことの主はイエス様であることはどれだけ時代が変わろうと、永遠に変わらないのです。一人一人の近くにいる小さな隣人に、イエス様の思いを持って心を傾け、その人の救いを心から願い、自分のなすべきことに力を注ぎ、それを喜びとすることです。それが神と共に生きることであり、私たちにしかできない、イエス様が一番喜ばれることなのです。


本日は母の日です。
皆様どのようにお過しでしょうか。
昨日は久しぶりに土曜学校を行い
「母の日」のプレゼントを制作しました
イースターにできなかった
タマゴ探しゲームも行いました

感染症対策のため
小学生以上10名までの予約制だったので
2名お断りすることになってしまいました
次回は「来たい人はみんなOK」な
本来の教会学校に戻れるよう
ご加祈をお願いいたします

3号鉢にポスカで顔や模様を描き
ワイヤーで上下をくっつけ
ネックレスで飾って出来上がりです





メッセージをつけたカーネーションのピックは造花ですが
グリーンは本物です
ハオルチアという多肉植物で
牧師館で増えたものを使用しました


育てられるようメッセージカードもつけました
丈夫なので、きっとそれぞれのお家で
増えてくれるでしょう

迎えに来てくれたお母さんに
1日早いミニ贈呈式もありました(^^)

2022年5月1日日曜日

弟子のよみがえり(日曜日のお話の要約)

復活節第3主日礼拝(白)(2022年5月1日)

詩編 30編9-13節 ヨハネによる福音書 21章1-14節(211)


 本日の福音書は、イエス様が復活してどれくらい後のことなのか、はっきり書かれていませんが、ペトロとそのほかの7名は、ティベリウス湖という場所で漁師の仕事に戻っています。


 ルカによる福音書と使徒言行録にはイエスの弟子達がエルサレムにとどまってイエス様が天に変えられるのを見送ったことや、聖霊なる神に導かれ、新しく教会を建てあげていった様子が描かれています。いったいいつ漁師に戻ったのだろう、と不思議に思う方もおられるでしょう。しかし二つの福音書は同時期のことを複数の視点から記録しています。それによってその時起きていたことをより深く感じられてきますので、本日はそのように読み込んで参りましょう。


 本日の舞台である「ティベリウス湖」はガリラヤ湖をローマ風に言い換えたものです。以前よりローマの勢力が強まったため、ローマの皇帝に由来した「ティベリウス湖」という呼び方の方が通りが良くなったのかもしれません。


 ガリラヤ湖といえば、弟子達がイエス様から「人間を取る漁師にしよう」と言われ、従った所でした。弟子達はイエス様についていけば、ローマ帝国を追い出してイエスラエルが再び独立できるかもしれない、と考えていました。しかしその夢はイエス様の死によってあっという間に崩れ去りました。

 ところがそれから三日ののち、イエス様が復活して戻ってきてくださったのです。それは何にも勝る素晴らしい奇跡でした。彼らはイエス様に命じられる通り、新たな伝道活動に踏み出そうとしたはずです。


 しかし弟子達は何らかの原因で挫折を味わいます。もともと一般庶民だった彼らにとって、新しい弟子達を導いていく役割は荷が重かったのかもしれません。宣教活動を一旦休止し、ガリラヤに戻って来たようです。故郷で漁師の仕事を再開すれば、食べるには困らないでしょう。


 この日、シモン・ペトロが漁に行こうとすると、残りの弟子達も何か主体性なくぞろぞろとついてきます。しかし夜通し漁をしても網には何一つかかりませんでした。弟子達の何人かは、イエス様と出会ったあの日もこんな風だった、と思ったかもしれませんが、それはもはや遠い昔の出来事でした。


そのような弟子達の様子を、イエス様は一部始終見ておられました。神様は人間には強制的に介入せず、自分の意志で行動してほしいと常に願っておられました。神様はご自身がお作りになった人間の可能性を信じておられたのです。人間の世界は神の独り子イエス様を十字架にかけるほどに混乱と流血に満ちているけれど、同時に平和な世界を築く力を持っていると信じておられました。


 とはいえ、人間が私利私欲をコントロールし、互いを思いやる心を養うためには訓練が必要ですし、何より間違いのないお手本が必要です。そのために神様はどんな時も暴力で解決することをなさらなかった、復活の主イエスに学ぶことを望まれたのです。あの日と同じように、魚一匹とれないという経験を弟子達にさせたのは、イエス様の存在をもう一度リアルに感じさせるためだったのでしょう。


 その上で、イエス様はここしかないというタイミングで弟子達に声をおかけになりました。まず「子たちよ、何か食べるものがあるか」と質問され、彼らが「何もありません」と答えるのを確認されてから、網を舟の右側に網を打つように命じられます。弟子達は威厳に圧倒されて素直に従うと、網一杯の魚が獲れたのです。

 するとまず、イエス様の愛する弟子、つまり福音書記者ヨハネが、その人物がイエス様であることに気づき「主だ」と口にします。この声を聞いたペトロは目が覚めたように、岸に立っているイエス様を見つけ出すのです。


 彼らは漁の最中で、裸同然でしがペトロは急いで服を纏い、湖に飛び込むと約90メートルほど向こうの岸におられるイエス様の元へと一気に泳いでいったのです。水に飛び込むなら普通は衣類を脱ぐものですが、改めて服を着たところにペトロのイエス様に対する愛情と尊敬が感じられて、より印象的な場面です。イエス様の一番弟子と呼ばれたペトロです。今イエス様がそこにおられることを知ったとき、無気力な日々を過ごしていたことを猛烈に恥じたに違いありません。この時ペトロは再び主イエスの前に生きるものになり、よみがえったのでした。


 イエス様の教えを広く宣教していくには、イエス様のよみがえりも大事なことですが、その事実を信じ、その教えに仕えていく弟子のよみがえりがあってこそ可能なのです。漠然とイエス様の教えを知っている、というのではなく、自分を見守り、愛してくれる方を信頼し、おそばに喜んで近づこうとする心が全てを変えるのです。自分は主イエスの弟子であることを、心のうちによみがえらせたなら、イエス様は弟子である私たちが何をすべきなのか必ず教えてくださるのです。


 イエス様のご命令で弟子達が湖に網を下ろした時、あまりに捕れすぎて船に引き上げることができませんでした。仕方なく網を水中に下ろしたままイエス様のもとに来ると、イエス様はペトロに魚を何匹か持ってきなさい、と告げます。そこでペトロが船に乗って網を引くと陸に引き上げることができたのです。


 イエス様のご命令に従って「人間をとる漁師」となる時、イエス様のお声がけさえあれば、一人一人の働きは無駄になることは無く、網は決して破れないのです。

 私たちは、今も生ける神として、私たちの中心にいてくださるイエス様の存在を忘れることなく、今の時代に「平和ばかり説く宗教は無力だ」と罵られたとしても、正々堂々と聖書の教えを口にし、よみがえった弟子として、信仰と希望と愛に満たされた群れとして、共に歩んで参りましょう。

 イエス様に命じられて私たちが引く網は決して破れないことを信頼しましょう。ガリラヤ湖の岸辺に立つイエス様は、私たちにそう望んでおられるのです。 


今週末、5月7日(土)には
久しぶりに土曜学校を行う予定です
ただ、完全予約制・10人まで
小学生以上(園児参加不可)です
明日には対象者に葉書が届くはず
(連休中なので郵便事情が大変です)

誰が来ても良いはずの教会学校で予約を取るのは
苦肉の策とはいえ
どうにも心苦しいものがあります
予告しては中止、という状況が続いたので
行動に制限が加えられがちな小学生のために
今回は開催できますよう
これをお読みの皆様にもお祈りいただければ嬉しいです



5月7日(土)のクラフトは母の日のプレゼントです
3号の素焼きの鉢に顔や模様を描いて
上下をワイヤーで繋げます
多肉植物(ハオルチア)を
上の鉢にセットして
カーネーションのピックをさして出来上がり
牧師館で増えすぎたハオルチア
それぞれのお家で大きくなれたら嬉しいです