復活節第5主日礼拝(白)(2022年5月15日)短縮
ヨハネ黙示録21章3-5節(477)ヨハネ福音書13章31-35節(195)
新約聖書を記したギリシャ語は「愛」について、4つの単語を使い分けています。ところが日本語にはそれらに対応する単語がないので、初めの頃は全部まとめて御大切(ごたいせつ)という言葉を使っており、しばらくたって「愛」と訳したようです。
ギリシャ語で「愛」を表す4つの単語とは、エロース、フィリア、ストルゲー、アガペーで、それぞれ男女の間の愛、友情、家族愛、そして無償の愛、と書き分けて用いられています。聖書では、絶対にぐらつかない、状況がどうであれ失われることのない愛のことを「アガペー」という言葉で表しています。この愛について教えてくれるのが、本日読みました福音書の箇所です。十字架を前にして、イエス様は弟子たちに対し、無条件で他人を愛することの大切さを教えておられるのです。
本日のお話はイエス様が十字架にかかる前、12弟子の一人、イスカリオテのユダがイエス様を裏切り、不当な逮捕に協力するため、最後の晩餐の席から出て行った直後の出来事です。
「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたは探すであろう」と謎めいた言葉をお話になり、さらに「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」とイエス様はおっしゃいます。
弟子達は、この言葉に激しく動揺します。彼らは、少し前からユダヤの一部の人々がイエス様の命を狙っていることに気づいていましたが、イエス様が死ぬなら、私も死のう、と言葉に出していました。
弟子達は、イエス様が素晴らく完成された世界を作ってくださると信じ、その世界が実現することを強く望んでいました。そのためには激しい戦いもあるかもしれないが、ひるんでなるものか、とも思っていたでしょう。万が一の時には自分がイエス様を守って戦おう、そんな決心をし、武器を準備していた者もおりました。
自分たちがこれほどの覚悟をしているというのにのに、イエス様ともあろう方が今になってそんな弱気なことをおっしゃるのはなぜだろう。弟子たちはそう思い、お言葉の意味を理解することができませんでした。イエス様のたびたびの受難予告を聞いて、疑問を通り越して腹立たしい思いさえしたかもしれません。
しかし「イエス様こそイスラエルを支配する方だ」と目をキラキラさせて見つめる弟子たちの姿は、イエス様の目から見れば、初めの頃とかなり変わってしまっていました。弟子たちは初めの頃こそイエス様をお手本として、弱い人や世間から見放されている人を分け隔てせず、無償の愛を注ぐような人になりたい、と願っていました。それが、自分たちも奇跡も行うことができるようになると、イエス様についていけば高い地位や名誉を手に入れられると思い始め、仲間同士で言い争いさえするようになったのです。そんな彼らをご覧になって、イエス様はご自分の思いと弟子の思いに隔たりが生まれていることを寂しく感じておられました。
弟子の方は、イエス様のためなら命も惜しくないほどの強い愛でイエス様を愛していると信じていたのです。しかしそれは単にイエス様にその身を捧げよう、という自分の愛に酔っていただけだったのかもしれません。
一説によれば、イスカリオテのユダがイエス様を裏切って出ていったのは、イエス様が何度も「十字架にかかる」と宣言されるのを聞いて失望したからだとか、本当に十字架にかかるわけがない、とイエス様を試す心だったとか言われています。いずれにしても、神様がイエス様にお与えになった試練の数々の中には「手塩に欠けた弟子に裏切られる」という残酷な要素も含まれていたのでしょう。
イエス様はユダも含めて全ての人の罪を背負い、全ての人に起こりうる不幸や裏切りを体験され、それを背負い、十字架にかけられ命を失ってもなお全てを受け入れ、全てを赦されました。残酷で惨めな死に様を選ばれた上で、人は裏切っても神は裏切らない、神は見守り、愛してくださる。それを証明するために復活をなさったのです。
ただ、この段階では、イエス様の思いは全くといって良いほど弟子達に通じませんでした。イエス様が十字架にかかったとき、ほとんどの弟子たちはその場から逃げ去って隠れ家に潜みました。イエス様と同じように殺されるのではないかと怯え、復活したイエス様がここられても、幽霊ではないかと疑いました。そんな彼らにとっては、以前イエス様の前で「あなたのために死にます」と言い放った勇ましい言葉も、ただ自己嫌悪を引き起こすばかりです。自分たちは取り返しのつかない罪を犯してしまった。彼らは心の暗闇に捉えられ、死んだも同然だったのです。
そんな彼らを再び光の元に連れ出し、生き返らせたのも、イエス様でした。弟子たちを愛で覆い、彼らが犯した罪を丸ごと受け入れてくださったのです。弟子たちはこのとき、本当に赦すとはどういうことなのか、愛を持って生きるとはどういうことなのか、理屈ではなく、体験を通して知ったのでした。
イエス様は、人間が完璧な愛の心を持ち続けることの難しさを十分分かっておられます。それでも、その愛が難しいからと放棄するのではなく、その難しさを忘れないようにしながら、「互いに愛し合う」ことを行動に移し、取り組んでいきなさい、私は喜んで力を与えよう、と言ってくださるのです。
キリストの愛を覚えながら、キリストに生きていくことが私たちには許されています。困難があるとき、そこにはより大きな愛が注がれていることを忘れないでいましょう。そのために、最も偉大なる愛を私たちが主体となって、この場所で示して参りましょう。
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