2021年5月31日月曜日

誰でも理解できる救いのために(日曜日のお話の要約)

 三位一体主日礼拝(2021年5月30日)
ローマの信徒への手紙8章12-14節ヨ ハネによる福音書3章1-8節

 本日、イエス様と会話しているニコデモはユダヤ教の教師でした。数百年に渡るユダヤ教の中で培われた伝統的でハイレベルな学びを身につけた人物だったのです。ところが肝心なユダヤ教そのものがいつの頃からか神様のみこころから少しずつずれてしまっていたので、ニコデモがいくら熱心に学んでも、真理にはたどり着けないまま、歳を重ねていました。

 ニコデモは近頃評判の教師・イエス様の振る舞いや教えを見聞きして、自分の考えや生き方に確証を持てなくなったのです。苦しんだニコデモは、ついに夜の闇のに紛れてイエス様のもとを訪れ「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできません」と告白したのです。
 ニコデモのこの言葉に対し、イエスはまるで突き放すように言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ここには注目していただきたい言葉が二つ出てきます。まず「はっきり」という言葉です。これは、本文のギリシャ語では、「アーメン」という言葉です。私たちが祈りの後等に言葉にするこの「アーメン」と同じです。「アーメン」には「本当に」と言う意味があり、また「真実の」という意味を持ちます。これは今から非常に大切なことを言うよ、と言う前置きでもありました。

 ニコデモはイエス様が非常に大切なことを自分に伝えようとしてくださっていることに気づきましたが、その言葉は彼の理解を超えていました。それは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」というお言葉でした。
 ここで言われた「新たに」とは、ギリシャ語で「アノーテン」という言葉で、「上から」とも訳せます。イエス様は「上から」、つまり「神からの力によって」「新たに生んでいただいかない限り、神の国を見ることはできない。」とおっしゃったのです。このお言葉は「あなたは努力の方向性を間違っているので、今のままではどんなに頑張っても天国には入れない」と言われたのと同じでした。

 ニコデモは今まで信仰者として、教師として、議員として、何より人として努力してきたという強い自負心がありました。それなのにイエス様は「あなたのやってきたことは全て無駄で天国には入れない」と言われたのです。
 ここでニコデモが怒りに任せて「ああそうですか」とイエス様の前から引き下がってしまったなら、この後交わされたはずの意味深い会話は存在しなかったでしょう。しかしイエス様はニコデモが愚か者でないことをご存じでした。イエス様はニコデモがこれまで学んできた知識に光を当て正しい解釈に導き、その上でご自分がこれから何をしようとしておられるのか、お伝えになったのです。

 14節で語られる「荒れ野で犠牲になる青銅の蛇」とはイエス様ご自身のことです。旧約聖書民数記21章8~9節には「主はモーセに言われた。あなたは炎の蛇を作り、旗ざおの上に掲げよ」と記されています。イエス様はこれを引用して「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠のいのちを得るためである」と言われました。
 かつてエジプトを脱出したイスラエルの民は砂漠の只中で神様を信頼できなかったため、毒蛇に噛まれる罰を受けます。民衆が悔い改めてモーセにとりなしを願うと、神様はモーセに青銅の蛇を作らせ、蛇を見上げたら救われると教えられたのです。
 旧約聖書に精通した教師ニコデモはこの出来事は当然知っていました。しかしイエス様がご自身を蛇に例えられることに戸惑い、お話がどう繋がっているのか、とっさに理解することができませんでした。ただ、イエス様がニコデモに向けたメッセージは、非常にシンプルなものだったのです。それは「神の国に入りたいなら、あなたは私・イエスから目を離すな」という強い招きの言葉でした。

 ニコデモは長年ユダヤ教の教師という立場に立ち続けたため、人に弱みを見せることを嫌い、知らず知らずのうちに完璧な教師としての自分を演出してきました。それでも、彼はこれでいいのかという、思いに逆らえませんでした。
 その様子を見てとったイエス様は、続けてニコデモに「風は思いのままに吹く」と教えられました。誰かに何かを教えた経験がある人なら分かると思いますが、教えた人全てが飲み込みが早く、どんどん理解し、上達することは稀です。けれども、自分のあてが外れても、聖書を教えるという行為は、やり続けないといけない。自分が予想もしなかった時に聖霊なる神の息吹は吹き付けるのだから、と言われたのです。

 さて、ニコデモとイエス様のつながりは、これだけでは終わりませんでした。ニコデモは立場上、イエス様から少し距離を置きましたが、その教えを学び続けたのです。議会の中でイエス様の反対派に対しイエス様を弁護し、周囲から批判されます。ニコデモの願い虚しくイエス様は十字架の上で亡くなりますが、その葬りの手伝いをし、最後の最後までイエス様を見つめ、学び続けました。
 そして、おそらく、ニコデモは復活したイエス様にお会いし他はずです。『私は蘇ったイエス様とお会いしたのだから、たとえ国が滅び、神殿は焼け落ち、自分が今までしてきたことが全て無駄になっても、私に与えられた信仰は誰かにも奪われない。どんなときもイエス様を見上げる信仰を与えられたのだから、イエス様にならい、この道を歩み続け、やがては天国に入るのだ』ニコデモがそのように確信を持って信じたこのイエス様こそ、わたしたちの神であり、神の国へ至る道です。
 わたしたちはもはや神の国の門の前で立ちすくんだり、夜の闇にあてもなく俳諧したりする必要はないのです。私たちは「イエス様教えてください」と絶えず聞き、わからなくなったら十字架を仰ぎ、どんなとき、どんなことを前にしても、「主よ信じます」と告白し、主の十字架にあずかるものとなりましょう。

 福音は決して難しいものではありません。私たち人間のために十字架にかかってくださったイエス様を信じ、あおぐところに信仰はあります。神の国は、霊の息吹と共に、どんなときでも、どこにいても、わたしたちの前に現れるのです。




早すぎる梅雨入り
今日は晴れ間の清々しいお天気です
ご近所の庭で
ロニセラ(ツキヌキニンドウ)らしき花が
鮮やかな朱色に輝いていました

2021年5月25日火曜日

いっしょにうたおう(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨祭(2021年6月6日)
使徒言行録2章1~4節

 みなさん、おはようございます。今日は聖霊降臨祭と言って、教会の大切なお祭りの日です。

今日はイースターから数えてちょうど50日目です。教会は毎年この日に聖霊降臨祭のお祝いをするのです。どうして50日目か?順番に話すので聞いてくださいね。


 まず、イースターですが、この日は十字架にかかって死んだイエス様が三日目に蘇ったことをお祝いする日でしたね。イエス様は、十字架にかかる前、困った人や仲間外れにされている人を助け、神様が守ってくださるとお話されました。そして普通の仕事をしていたおじさんたちを集めて、お手伝いをしてもらいました。そのおじさんたちは弟子と呼ばれました。


 弟子たちはイエス様が大好きで一生懸命勉強しました。けれど一番大切なこと、イエス様の「私は復活する」というお話を信じられませんでした。だからイエス様が十字架にかかった時、もうおしまいだ、と思って怖くなって逃げ出したのです。

 ところがイエス様は約束どおり三日目に復活して弟子たちのところに帰ってこられました。すると弟子たちは、今度はイエス様が自分たちを恨んでお化けになってやってきた、と思ったのです。

 でも蘇ったイエス様は全然怒っていません。「私があなたたちを選んだんだから自信を持ちなさい。もう一度勉強して私の代わりに困った人たちを助け、神様のお話をしたげなさい」と言われたのです。弟子たちは、イエス様が自分たちが卑怯で弱虫だったのを赦してくださったので、嬉しくて嬉しくて、今度は何があっても頑張るぞ、と思いながらイエス様のお話を聞きました。


 そうして40日がすぎて、イエス様がいよいよ天に帰られる時が来ました。その日、イエス様は弟子たちと一緒に山に行かれました。そして「世界中の人に神様のお話をしなさい。私は世界が終わるまでいつもあなたたちといっしょだよ」と言われました。そしてその後、すうっと天に登られ、ち雲に隠れて見えなくなりました。


 イエス様は弟子たちに「さよなら」という代わりに「いつもあなたたちといっしょだよ」と言ってくださったのですが、周りを見ても、イエス様がどこにおられるのかわかりません。弟子たちはとても寂しくなったことでしょう。

 それで、弟子たちはみんなで集まって、熱心に神様にお祈りを始めました。友達も誘ってたくさん集まって毎日毎日お祈りをし始めて10日目のことです。すごいことが起きたのです。40日足す10日で50日目、イースターから50日目にすごいことが起きた、ということです。


 週報の表紙の絵をみてください。土曜学校や聖歌隊に来てくれているお友達は、この絵を見て、最初「人魂」とか「おばけ」と言いました。でも、これはもちろん「人魂」絵でも「おばけ」でもありません。

 聖書には「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった」と書いてあります。

 そう、この「炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった」というところを想像して描いています。この炎のような舌が頭の上にポッポッと止まった時、天に帰ってしまったはずのイエス様が、すぐそばにいてくださることが、いきなりハッキリとわかったのです。


 イエス様は見えないけれど、そばにいて守ってくださる。目を閉じてお祈りをすると、もっともっとわかりました。なぜかというと、聖霊と呼ばれる神様がブワ~と天から降りてきて、イエス様を信じる人たちの心の中に入ってくださったからです。「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえた」というのは聖霊なる神様が来られた音だったのです。そしてイエス様を信じる人たちの信じる心や勇気を何倍、何百倍にもしてくださったのです。


 それから弟子たちは、イエス様が言われたこと「世界中の人に神様のお話をしなさい。」というご命令を、頑張ってやる勇気がどんどん湧いてきました。どんな人にもどんな時でも神様のお話をたくさんの人にしました。神様を信じない人からいじめられてピンチの時も、イエス様が守ってくださることを知っていたからです。

 弟子たちがイエス様の教えをどんどん広めたので、イエス様を信じる人もどんどん増えていきました。そしてお祈りしたりイエス様のお話を聞いたりするために自由に集まるところを作り、そこに「教会」と名前をつけました。ですから、「聖霊降臨祭」は「教会の生まれた日」「教会の誕生日」という意味もあるんですよ。

 イースターから数えて50日。聖霊なる神様が降ってきてくださったので「聖霊降臨祭」と言います。それからペンテコステという言い方もします。ペンテコステというのは「50番目の日」という意味です。

 

 さてさて、イエス様を信じた人たちは、みんな歌うのが大好きでした。上手とか下手とか関係なく、イエス様ありがとうの気持ちを歌にしていっぱい歌いました。そういう歌を賛美歌と言います。

 歌によく出てくる「ハレルヤ」という言葉は「神をほめたたえよ」という意味で、簡単に言うと「神様ありがとう、神様すごい」みたいな意味です。みんなが心を込めて「ハレルヤ」と歌うたびに、神様は、イエス様は喜んでくださいます。

 これからも、気持ちが暗くなったり悲しくなったりすることがあっても、みんなで一緒に歌っていきましょう。イエス様は私たちの賛美を必ず聴いてくださいます。そして私たちと一緒にいて助けてくださるのです。 



今年の聖霊降臨祭は
コロナ感染拡大防止のため
賛美奉仕者と役員数名の出席とし
教会員にはSkypeで配信しました
ハンドベルチーム・リーベクワイヤと
こども聖歌with先生バンドは
フェイスシールドを装着
聖餐式も中止とし
観客試合ならぬ「ほぼ無観客礼拝」と
なりましたが
礼拝堂は賛美にあふれました
Skypeで参加してくださった皆様
ありがとうございます

F姉のアコライトで礼拝開始

前奏はオルガンの代わりにハンドベルで
演奏は「リーベクワイヤ」

こども聖歌隊の登場です


元気な「いっしょにうたおう」

パッヘルベルのカノンに乗せて
「神の国と神の義」
2部に分かれてコーラスを披露しました

さんびメドレーの演奏

後奏も「リーベクワイヤ」が演奏してくださいました
リーベクワイヤにお母さん こども聖歌隊にお嬢さん そんな家族が2組います なんだか嬉しいですね





2021年5月18日火曜日

キリストの守り(日曜日のお話の要約)

 復活節第7主日礼拝(2021年5月16日)
ヨハネの手紙Ⅰ 5章9-13節 ヨハネによる福音書17章12-19節


 キリスト教の本質はただイエス様を信じることです。しかし教養のある人々が多くなった現在では、シンプルな教えでは真実味がないかも、と思ってしまいズバッと真理を語れません。そこで様々なプログラムを作って人を教会に呼び込むことを試みます。ストレートに福音を語ることよりも、教会に親しみを持ってもらうことを第一とした行事を考え、実行することにしたのです。

 キリスト者達は熱心に奉仕しますから、教会主催の音楽会やバザーなどは人気が出て人は集まるようになりますが、キリスト教そのものに興味を持ってくださる方は依然として少なく、礼拝につながってさらに洗礼に至る方達はもっと少ない、というのが現状です。

 こんなことが何度も繰り返されるうち、クリスチャン達は諦めをにじませながら、この教会が先々続くかどうかは神様にお任せ、という思いを持って日々過ごしています。そんな今、私たちはもう一度、一人一人がどれほどイエス様に愛されている存在であるか自覚し、信仰の火を心の中に燃え立たせる必要があるでしょう。


 さて、ヨハネ福音書の「最後の晩餐」の場面はかなり長いものです。13章で弟子達の足を洗うところから始まり、15章、16章は弟子達への最後の説教です。

 続いてイエス様は17章では父なる神に祈りを捧げます。祈りの言葉の中心には神様が弟子達をご自分に与えてくださったことへの感謝があります。神様がこの世から弟子となる人々を選びとられ、イエス様に委ねてくださったことを、イエス様は心から喜んでおられるのです。この祈りの後ゲツセマネに赴かれたイエス様は18章で逮捕されるのです。


 本日読みました17章6節に印象的な御言葉があります。イエス様は「彼らは御言葉を守りました」とおっしゃるのです。弟子たちがとても優秀であるかのような印象を受けますが、この時弟子達はイエス様の予告した復活をまるで信じられないでいます。ヨハネ以外の弟子達は十字架にかかるイエス様を見捨てて逃げ去ってしまうのです。

 イエス様はそのことをあらかじめ全てご存知の上で、神様のみ前で弟子達を愛されるのです。祈りの言葉は神様に向けられていますが、その内容は「あなた達と会えて本当に良かった。嬉しい」と言っておられるのです。迫ってくる十字架の死を前にそう言われるのです。


 イエス様は人々の病を癒し、悪霊を追い出し、社会からのけ者にされている者たちに手を差し伸べ、共に生きるように関りをもたれました。それは、神様のみこころだから、ということがたった一つの理由でした。何一つご自分に見返りを求めようとはされなかったのです。


 人はアダムとエバの昔から、自分の思い通りに生きようとして神様の言葉を否定し、不幸を呼び込んでしまうことを繰り返してきました。一度神様を否定してしまえば、頼るものは自分しかありません。しかしどん底を味わって自分自身に絶望してしまうなら、生き続けることさえ困難になってしまいます。そんな人間を神様は見捨てることができません。ご自分のお心を伝えるためにイエス様を地上にお遣わしになりました。イエス様は人々に神様が見守っておられることを伝え、信じるものに新しい命を与えるという働きを担って地上を歩まれたのです。


 神様はイエス様が働きを終えて天に帰られた後、その働きを引き継ぐもの達として前もって弟子達を選び、イエス様にその教育を委ねられたのです。

 これから先、弟子達は神様のみ旨を実行し、神様を否定する人々と向き合っていかなくてはなりません。弟子達はまじめさや勇気を持ち合わせていましたが、臆病者だったり短気だったり、数々の欠点を持っていました。イエス様は丸ごとそれを受け入れ、ひたすら愛し、導かれたのです。

 15節でイエス様は父なる神にこのように祈っておられます。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」この祈りの言葉は、主に祈りにもありますように、「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と同じであると言えるでしょう。

 

 私たちがここで心に刻むのは、イエス様が「あなた達と会えて本当に良かった。嬉しい」と言って神様に感謝の祈りを捧げ、守りを求められたのは、最初の弟子たちだけではない、ということです。イエス様を信じ、ここに集っている私たちすべては弟子であり、受け入れられ、祈られる存在なのです。

 私たちはすでに神によって救われています。そして守られ続けることを神ご自身がイエス様ご自身がその命と引き換えに約束してくださったのです。この約束は永遠に変わることがありません。


 信仰の道は、楽な道ではありません。キリストが歩まれたように、苦難の道かも知れません。否定され、嘲られることもあるでしょう。けれども、どんな道を歩もうとも、神様とイエス様が交わした「守ってくださる」その約束は、決して破られることはなく、私たちが怯えや苦難を覚える時でも、この約束は守られると信じて歩んで参りましょう。



少しずつ手を入れている隣の空き地

そのままにしているとあっという間に雑草で覆われてしまうので

気に入った野草だけを残し

そこそこ放置しても育ってくれそうな

植物を植えています

2年前にいただいたワイルドストロベリーが

今年はかなり広がって

実をつけています

味見をしてみるともともと持っていた品種より

甘さは劣りますが

可愛らしいので良しとしましょう


マーガレットのような花を咲かせる

フランス菊も今が盛りです




教会のFさんにいただいた
ワイルドストロベリー
可愛らしい実をつけています

牧師館の物干し台から見下ろすと
こんな感じです
白い花がフランス菊です
地下茎の断片やこぼれ種であっという間に広がり
雑草化するので、除去している地域もあるようです


切り花として礼拝堂に飾ることもできるので
重宝しているのですが
飯田でも栽培が禁止される日が来るかもしれません

2021年5月10日月曜日

友なるイエス(日曜日のお話の要約)

 復活節第6主日礼拝(2021年5月9日)
ヨハネの手紙Ⅰ 5章1-6節 ヨハネによる福音書15章11-15節

 友人や友情、人との出会いは、たとえその時限りであっても、人生に大きな影響を与えることがあります。神様は聖書を通して、良い友を得ることの大切さを私たちに伝えてくださっています。

 たとえば、旧約聖書サムエル記上20章には、ダビデとヨナタンの友情物語が記されています。ヨナタンというのは、イスラエルの初代の王、サウル王の息子です。イエス様のご先祖でもあるダビデ王は、戦いにも音楽にも秀でた人物でした。彼は少年時代に預言者サムエルを通してサウルの次に王様となるよう指名されました。
 やがてサウル王の次女ミカルの婿となったダビデは、国民の人気を得、サウル王の息子ヨナタンもダビデと厚い友情で結ばれました。しかしサウル王はダビデを妬み、自分の王座が危うくなることを恐れてダビデを亡き者にしようと企みます。それを知った王子ヨナタンは矢を射る練習を使って暗殺計画を知らせ、ダビデの逃亡を助けます。ヨナタンは友情ゆえに、父であるサウル王からダビデの命を守ったのです。

 聖書はこのように友情の大切さを示した上で、「神様は人間の友である」と教えます。旧約聖書の預言書イザヤ書41章には「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ」と記されています。
 このイザヤ書が記された時代、イスラエルは南北二つの国に分かれていました。北側はイスラエル王国、南側はユダ王国と名乗りました。しかしイザヤの時代、北側のイスラエル王国は当時の超大国アッシリアに滅ぼされてしまったのです。
 神の言葉を聞くことのできる預言者イザヤは、神様への不信仰な状態が続けば、南ユダ王国もいずれは滅びることを知っていました。しかしイザヤは、神は「決して見捨てない」そして「救い主」が与えられることを預言書に記しました。「救い主」こそが、人間にとって最良にして最高の友であることを預言したのです。それはイエス様誕生の600年以上前のことでした。

 本日読みました福音書の箇所はイザヤの告げた救い主・イエス様が私たちを友と呼んでくださっている場面です。イエス様は言われます。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。
 この「友」という言葉は、聖書の民においては決して軽い言葉ではありません。かつてヨナタンがダビデ王の命を救ったように、友情というのは、自分の命をかけて全うするものだからです。その「友」という言葉をイエス様は用いられたのです。イエス様は「友として、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない。」
 イエス様はなんと「あなたのために私の命を捨てさせなさい」と命じられるのです。これがイエス様の言われる「私はあなたの友達だ」ということなのです。この後イエス様は自ら「友のために自分の命を捨てる」とはどういうことなのか実際に行動で示されました。

 イエス様がゲツセマネで祈っておられた時、イスカリオテのユダは捕り物の先頭に立って、役人たちを手引きするためにやって来ました。マタイ福音書によれば、イエス様はそんなユダに対して「友よ」と呼びかけました。
 イエス様は全てを知りながら、自分を裏切る者、敵対する者を友と呼び、その友のために十字架につけられ、しかもその十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたのです。

 イエス様はどれほど誤解されても、どれほど裏切られても、相手を赦される心に限界がないのです。福音書のイエス様のお言葉や行動を見て自分と比べるならば、その凄みが伝わってきます。
 さて、イエス様は本日の聖書箇所で、続けて「私の命じることを行うならばあなた方は私の友である」と言われました。これは「私の命じることを完璧にこなす人が友達だ」という意味ではありません。私たちはイエス様に完璧に従おうとしても失敗し、悲しんだりふてくされたりします。しかし、イエス様はそのような私たちの心を全てご存知の上で、「うまくいかなかったとしても、私を信じて行動を起こしてくれたのだから、あなたは友達だ」と言われるのです。

 イエス様が復活後、弟子たちのところに現れてくださった記録などを読みますと、本当に赦しておられるお心が伝わってきて胸が熱くなります。ヨハネ福音書の最後の場面、漁師に戻ったペトロとイエス様の会話は特に有名です。イエス様がペトロに「わたしを愛しているか」と聞かれるのです。
 ペトロはイエス様が捕らえられて大祭司の庭で不当な裁判を受けていた時、周りの人々に見つかって「イエスの仲間だろう」と言われ「あんな奴は知らない」と3度否定しました。復活したイエス様は、まるでその事実に上書きするかのように、3度「わたしを愛しているか」と尋ねられたのです。

 イエス様は初めの2度、繰り返して「アガペー」つまり「無償の愛で私を愛するか」と尋ねられますが、ペトロは2度とも「フィリア」という言葉を使い「友情なら、友人としてなら」と答えてしまいます。自分の愛の限界を知ったペトロは自分は無償の愛で愛することなどできない、と苦しい判断をしたのです。
 イエス様はそんなペトロに対し、3度目にはペトロと同じ同じ「フィリア」という言葉を用い、「わたしもまた、友としてもあなたを愛しているよ」と豊かな友情を示され、友としての絆を取り戻してくださったのです。もちろん、イエス様が「フィリア」を使われたからと言って、ペトロに対する思いが減ってしまったのではありません。何度もお話ししたようにイエス様の「友情」とは「友のために自分の命を捨てる」限りない慈しみに満ちた友情なのです。

 世界中の人々が私を、あなたを、見捨てることがあっても、変わらぬ愛をもって労わってくださるイエス様を信じましょう。
 試練の時も苦難の時も支え、導いてくださる方を私たちも愛して参りましょう。


教会の近くに「ナンジャモンジャの木があります
正式にはヒトツバタゴと言うそうです
そろそろ花の時期かな、と見に行ってみました
大当たりです!
満開の花が雪が積もったようで
とても美しく咲いていました

2021年5月5日水曜日

まことの救い(日曜日のお話の要約)

 聖餐式・復活節第5主日礼拝(2021年5月2日)
ヨハネの手紙Ⅰ 4章13-16節  ヨハネによる福音書15章1-8節

 「わたしはまことのぶどうの木」。
 この「まことの」という言葉は、ギリシャ語で「正真正銘の」という意味です。イエス様は「わたしからは粗悪なぶどうが実ることは決してない」と宣言しておられるのです。
 「ぶどうの木」や「ぶどう畑」はもともと「神の民イスラエル」を表す比喩的な言葉でした。イザヤ書5章には有名なぶどう畑の歌があります。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。」
 これは神様がユダヤ民族を愛し、世話をされたことを表している言葉です。神様はこれ以上ないほどにこの民を愛されたのです。ところがこの歌はこう続きます。「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ酸っぱいぶどうが実ったのか」

 まさに神様の嘆きの言葉です。神様がこれほどユダヤの民に心を尽くしてくださったのに、人々は完全に神様の期待を裏切りました。旧約聖書に刻まれた歴史を見れば、政治家は国を安定させる手段として外交手腕ばかりに頼って神様への信仰をないがしろにしました。民衆は偶像礼拝にふけり、信仰は形だけのものとなり、神様が望んだ国の姿とはどんどんかけ離れていったのです。
 
 ところで、話は少しそれますが、ユダヤの重要な農産物であるぶどうも、豊かに実らせるためにはそれなりの手入れと手順が必要でした。ぶどうの木の剪定は結実期の終わりごろに行われ、冬になると幹と少数の枝のみになってしまうそうです。
 また、イスラエルではぶどうの若木は植えられてから3年間は実を結ぶことが許されず、徹底的に刈り込むことによって生命を貯え、やがて豊かに実を結べるようになるまで準備をさせたようです。

 ユダヤの人々にとってぶどうは身近なもので、たとえ都市に住んでいてもこういったことはだいたい知っていたようですし、実のならない枝は切り捨てられ、実のなる枝は徹底的に保護する、という剪定の原則は皆理解していたと思われます。
 しかし先ほどのイザヤ書は「実ったのは酸っぱいぶどうであった。」という言葉の後、「わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず耕されることもなく 茨(いばら)やおどろが生い茂るであろう」と記しています。神様は、とことん愛され世話をなさったユダヤの民の裏切りにどれほど失望されたかが良くわかる言葉です。この御言葉に表されているように、やがてユダヤの国はバビロニアとの戦争に敗れ、人々は捕囚の民として連れて行かれ、神殿は壊されて見る影もなくなり、国土は荒廃したのです。まさに茨やおどろが生い茂るところとなってしまったのです。

 しかし神様はやはりユダヤの民を完全に見放すことはお出来になりませんでした。ユダヤの民は異郷の地で悔い改め、信仰を回復します。異教の文化、文明に頼るよりも神様に頼り祈るようになり、子どもたちにも信仰を継承しました。その結果、人々は故郷に戻ることを許され、イスラエルの国は再建されました。比喩的に言えば、「酸っぱいぶどう」の国から「良いぶどう」甘くて香り高いぶどうの実る国に戻ったのです。
 ところが、それから数百年が過ぎたイエス様の時代、再び神様への信仰は危機的状況にありました。再び酸っぱいぶどうとなってしまった民衆は気づいていませんでしたが、神様の厳しい剪定が始まろうとしていたのです。
 そこでイエス様は「わたしはまことのぶどうの木」と宣言され、豊かな身を実らせることができるよう、ご自分に繋がり続けなさい、と語られたのです。
 イエス様につながらない枝が切り落とされる、というこのお話には、イエス様を裏切った12弟子の一人、イスカリオテのユダのことが暗示されているとも考えられています。本日の聖書箇所は最後の晩餐の席上でのものですが、イエス様がこのお話をされる前に、ユダはサタンに翻弄されるまま、イエス様を裏切るために食事の席から立ち去っていました。
 イスカリオテのユダは12弟子の一人に選ばれたにもかかわらず、自らその生命を断つ道を歩んでしまいました。自分がイエス様につながる枝であることを否定し、自分の枝先に豊かな実りが生まれることを信じなかったのです。

 こんな風にお話しすると、信仰を失ったらユダのように切り落とされるのだろうか、と心配し、不安になる方もおられるかもしれません。思い出していただきたいのですが、人間はその誕生の物語から、神様をとことん失望させエデンの園を追放されました。先ほど引用したイザヤ書でも、信仰の堕落した民はバビロニアに追放されました。しかし聖書をよく読み込むならば、神様は人間に何度失望させられようとも、その無限の愛ゆえに決して人を見放さず、救いの道を開くためにイエス様を送ってくださったことがわかるのです。

 私たちが信仰によって理解しなければならないのは、神様は厳しいけれど、その一方でイエス様を通して私たちに惜しみなく愛を注いでくださる方だ、ということです。イエス様は私たちのために神の国から降ってこられた、まことの救い主であり、まことの愛の持ち主、まことの喜びを私たちに与えてくださる方なのです。その方が、「わたしにつながっていなさい」と言ってくださっているのです。無理難題を言われる方ではないのですから、私たちは死に物狂いで枝にしがみつこうとしなくて良いのです。イエス様が私たちを支えてくださるからです。

 厳しい時代、私たちの愛する人々に、まことの救いがここにあることを、諦めることなく伝えて参りましょう。




教会の駐車場脇の植え込みに咲くオダマキです
教会の方からタネをいただいて
ばら撒いただけなのですが(^^;)
2年越しで花が咲きました
どれも色が微妙に違っていて
見ていて飽きません