復活節第6主日礼拝(2021年5月9日)
ヨハネの手紙Ⅰ 5章1-6節 ヨハネによる福音書15章11-15節
ヨハネの手紙Ⅰ 5章1-6節 ヨハネによる福音書15章11-15節
友人や友情、人との出会いは、たとえその時限りであっても、人生に大きな影響を与えることがあります。神様は聖書を通して、良い友を得ることの大切さを私たちに伝えてくださっています。
たとえば、旧約聖書サムエル記上20章には、ダビデとヨナタンの友情物語が記されています。ヨナタンというのは、イスラエルの初代の王、サウル王の息子です。イエス様のご先祖でもあるダビデ王は、戦いにも音楽にも秀でた人物でした。彼は少年時代に預言者サムエルを通してサウルの次に王様となるよう指名されました。
やがてサウル王の次女ミカルの婿となったダビデは、国民の人気を得、サウル王の息子ヨナタンもダビデと厚い友情で結ばれました。しかしサウル王はダビデを妬み、自分の王座が危うくなることを恐れてダビデを亡き者にしようと企みます。それを知った王子ヨナタンは矢を射る練習を使って暗殺計画を知らせ、ダビデの逃亡を助けます。ヨナタンは友情ゆえに、父であるサウル王からダビデの命を守ったのです。
聖書はこのように友情の大切さを示した上で、「神様は人間の友である」と教えます。旧約聖書の預言書イザヤ書41章には「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ」と記されています。
このイザヤ書が記された時代、イスラエルは南北二つの国に分かれていました。北側はイスラエル王国、南側はユダ王国と名乗りました。しかしイザヤの時代、北側のイスラエル王国は当時の超大国アッシリアに滅ぼされてしまったのです。
神の言葉を聞くことのできる預言者イザヤは、神様への不信仰な状態が続けば、南ユダ王国もいずれは滅びることを知っていました。しかしイザヤは、神は「決して見捨てない」そして「救い主」が与えられることを預言書に記しました。「救い主」こそが、人間にとって最良にして最高の友であることを預言したのです。それはイエス様誕生の600年以上前のことでした。
本日読みました福音書の箇所はイザヤの告げた救い主・イエス様が私たちを友と呼んでくださっている場面です。イエス様は言われます。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。
この「友」という言葉は、聖書の民においては決して軽い言葉ではありません。かつてヨナタンがダビデ王の命を救ったように、友情というのは、自分の命をかけて全うするものだからです。その「友」という言葉をイエス様は用いられたのです。イエス様は「友として、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない。」
イエス様はなんと「あなたのために私の命を捨てさせなさい」と命じられるのです。これがイエス様の言われる「私はあなたの友達だ」ということなのです。この後イエス様は自ら「友のために自分の命を捨てる」とはどういうことなのか実際に行動で示されました。
イエス様がゲツセマネで祈っておられた時、イスカリオテのユダは捕り物の先頭に立って、役人たちを手引きするためにやって来ました。マタイ福音書によれば、イエス様はそんなユダに対して「友よ」と呼びかけました。
イエス様は全てを知りながら、自分を裏切る者、敵対する者を友と呼び、その友のために十字架につけられ、しかもその十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたのです。
イエス様はどれほど誤解されても、どれほど裏切られても、相手を赦される心に限界がないのです。福音書のイエス様のお言葉や行動を見て自分と比べるならば、その凄みが伝わってきます。
さて、イエス様は本日の聖書箇所で、続けて「私の命じることを行うならばあなた方は私の友である」と言われました。これは「私の命じることを完璧にこなす人が友達だ」という意味ではありません。私たちはイエス様に完璧に従おうとしても失敗し、悲しんだりふてくされたりします。しかし、イエス様はそのような私たちの心を全てご存知の上で、「うまくいかなかったとしても、私を信じて行動を起こしてくれたのだから、あなたは友達だ」と言われるのです。
イエス様が復活後、弟子たちのところに現れてくださった記録などを読みますと、本当に赦しておられるお心が伝わってきて胸が熱くなります。ヨハネ福音書の最後の場面、漁師に戻ったペトロとイエス様の会話は特に有名です。イエス様がペトロに「わたしを愛しているか」と聞かれるのです。
ペトロはイエス様が捕らえられて大祭司の庭で不当な裁判を受けていた時、周りの人々に見つかって「イエスの仲間だろう」と言われ「あんな奴は知らない」と3度否定しました。復活したイエス様は、まるでその事実に上書きするかのように、3度「わたしを愛しているか」と尋ねられたのです。
イエス様は初めの2度、繰り返して「アガペー」つまり「無償の愛で私を愛するか」と尋ねられますが、ペトロは2度とも「フィリア」という言葉を使い「友情なら、友人としてなら」と答えてしまいます。自分の愛の限界を知ったペトロは自分は無償の愛で愛することなどできない、と苦しい判断をしたのです。
イエス様はそんなペトロに対し、3度目にはペトロと同じ同じ「フィリア」という言葉を用い、「わたしもまた、友としてもあなたを愛しているよ」と豊かな友情を示され、友としての絆を取り戻してくださったのです。もちろん、イエス様が「フィリア」を使われたからと言って、ペトロに対する思いが減ってしまったのではありません。何度もお話ししたようにイエス様の「友情」とは「友のために自分の命を捨てる」限りない慈しみに満ちた友情なのです。
世界中の人々が私を、あなたを、見捨てることがあっても、変わらぬ愛をもって労わってくださるイエス様を信じましょう。
試練の時も苦難の時も支え、導いてくださる方を私たちも愛して参りましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿