三位一体主日礼拝(2021年5月30日)
ローマの信徒への手紙8章12-14節ヨ ハネによる福音書3章1-8節
ローマの信徒への手紙8章12-14節ヨ ハネによる福音書3章1-8節
本日、イエス様と会話しているニコデモはユダヤ教の教師でした。数百年に渡るユダヤ教の中で培われた伝統的でハイレベルな学びを身につけた人物だったのです。ところが肝心なユダヤ教そのものがいつの頃からか神様のみこころから少しずつずれてしまっていたので、ニコデモがいくら熱心に学んでも、真理にはたどり着けないまま、歳を重ねていました。
ニコデモは近頃評判の教師・イエス様の振る舞いや教えを見聞きして、自分の考えや生き方に確証を持てなくなったのです。苦しんだニコデモは、ついに夜の闇のに紛れてイエス様のもとを訪れ「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできません」と告白したのです。
ニコデモのこの言葉に対し、イエスはまるで突き放すように言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ここには注目していただきたい言葉が二つ出てきます。まず「はっきり」という言葉です。これは、本文のギリシャ語では、「アーメン」という言葉です。私たちが祈りの後等に言葉にするこの「アーメン」と同じです。「アーメン」には「本当に」と言う意味があり、また「真実の」という意味を持ちます。これは今から非常に大切なことを言うよ、と言う前置きでもありました。
ニコデモはイエス様が非常に大切なことを自分に伝えようとしてくださっていることに気づきましたが、その言葉は彼の理解を超えていました。それは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」というお言葉でした。
ここで言われた「新たに」とは、ギリシャ語で「アノーテン」という言葉で、「上から」とも訳せます。イエス様は「上から」、つまり「神からの力によって」「新たに生んでいただいかない限り、神の国を見ることはできない。」とおっしゃったのです。このお言葉は「あなたは努力の方向性を間違っているので、今のままではどんなに頑張っても天国には入れない」と言われたのと同じでした。
ニコデモは今まで信仰者として、教師として、議員として、何より人として努力してきたという強い自負心がありました。それなのにイエス様は「あなたのやってきたことは全て無駄で天国には入れない」と言われたのです。
ここでニコデモが怒りに任せて「ああそうですか」とイエス様の前から引き下がってしまったなら、この後交わされたはずの意味深い会話は存在しなかったでしょう。しかしイエス様はニコデモが愚か者でないことをご存じでした。イエス様はニコデモがこれまで学んできた知識に光を当て正しい解釈に導き、その上でご自分がこれから何をしようとしておられるのか、お伝えになったのです。
14節で語られる「荒れ野で犠牲になる青銅の蛇」とはイエス様ご自身のことです。旧約聖書民数記21章8~9節には「主はモーセに言われた。あなたは炎の蛇を作り、旗ざおの上に掲げよ」と記されています。イエス様はこれを引用して「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠のいのちを得るためである」と言われました。
かつてエジプトを脱出したイスラエルの民は砂漠の只中で神様を信頼できなかったため、毒蛇に噛まれる罰を受けます。民衆が悔い改めてモーセにとりなしを願うと、神様はモーセに青銅の蛇を作らせ、蛇を見上げたら救われると教えられたのです。
旧約聖書に精通した教師ニコデモはこの出来事は当然知っていました。しかしイエス様がご自身を蛇に例えられることに戸惑い、お話がどう繋がっているのか、とっさに理解することができませんでした。ただ、イエス様がニコデモに向けたメッセージは、非常にシンプルなものだったのです。それは「神の国に入りたいなら、あなたは私・イエスから目を離すな」という強い招きの言葉でした。
ニコデモは長年ユダヤ教の教師という立場に立ち続けたため、人に弱みを見せることを嫌い、知らず知らずのうちに完璧な教師としての自分を演出してきました。それでも、彼はこれでいいのかという、思いに逆らえませんでした。
その様子を見てとったイエス様は、続けてニコデモに「風は思いのままに吹く」と教えられました。誰かに何かを教えた経験がある人なら分かると思いますが、教えた人全てが飲み込みが早く、どんどん理解し、上達することは稀です。けれども、自分のあてが外れても、聖書を教えるという行為は、やり続けないといけない。自分が予想もしなかった時に聖霊なる神の息吹は吹き付けるのだから、と言われたのです。
さて、ニコデモとイエス様のつながりは、これだけでは終わりませんでした。ニコデモは立場上、イエス様から少し距離を置きましたが、その教えを学び続けたのです。議会の中でイエス様の反対派に対しイエス様を弁護し、周囲から批判されます。ニコデモの願い虚しくイエス様は十字架の上で亡くなりますが、その葬りの手伝いをし、最後の最後までイエス様を見つめ、学び続けました。
そして、おそらく、ニコデモは復活したイエス様にお会いし他はずです。『私は蘇ったイエス様とお会いしたのだから、たとえ国が滅び、神殿は焼け落ち、自分が今までしてきたことが全て無駄になっても、私に与えられた信仰は誰かにも奪われない。どんなときもイエス様を見上げる信仰を与えられたのだから、イエス様にならい、この道を歩み続け、やがては天国に入るのだ』ニコデモがそのように確信を持って信じたこのイエス様こそ、わたしたちの神であり、神の国へ至る道です。
わたしたちはもはや神の国の門の前で立ちすくんだり、夜の闇にあてもなく俳諧したりする必要はないのです。私たちは「イエス様教えてください」と絶えず聞き、わからなくなったら十字架を仰ぎ、どんなとき、どんなことを前にしても、「主よ信じます」と告白し、主の十字架にあずかるものとなりましょう。
福音は決して難しいものではありません。私たち人間のために十字架にかかってくださったイエス様を信じ、あおぐところに信仰はあります。神の国は、霊の息吹と共に、どんなときでも、どこにいても、わたしたちの前に現れるのです。
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