聖餐式・復活節第5主日礼拝(2021年5月2日)
ヨハネの手紙Ⅰ 4章13-16節 ヨハネによる福音書15章1-8節
ヨハネの手紙Ⅰ 4章13-16節 ヨハネによる福音書15章1-8節
「わたしはまことのぶどうの木」。
この「まことの」という言葉は、ギリシャ語で「正真正銘の」という意味です。イエス様は「わたしからは粗悪なぶどうが実ることは決してない」と宣言しておられるのです。
「ぶどうの木」や「ぶどう畑」はもともと「神の民イスラエル」を表す比喩的な言葉でした。イザヤ書5章には有名なぶどう畑の歌があります。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。」
これは神様がユダヤ民族を愛し、世話をされたことを表している言葉です。神様はこれ以上ないほどにこの民を愛されたのです。ところがこの歌はこう続きます。「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ酸っぱいぶどうが実ったのか」
この「まことの」という言葉は、ギリシャ語で「正真正銘の」という意味です。イエス様は「わたしからは粗悪なぶどうが実ることは決してない」と宣言しておられるのです。
「ぶどうの木」や「ぶどう畑」はもともと「神の民イスラエル」を表す比喩的な言葉でした。イザヤ書5章には有名なぶどう畑の歌があります。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。」
これは神様がユダヤ民族を愛し、世話をされたことを表している言葉です。神様はこれ以上ないほどにこの民を愛されたのです。ところがこの歌はこう続きます。「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」「わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ酸っぱいぶどうが実ったのか」
まさに神様の嘆きの言葉です。神様がこれほどユダヤの民に心を尽くしてくださったのに、人々は完全に神様の期待を裏切りました。旧約聖書に刻まれた歴史を見れば、政治家は国を安定させる手段として外交手腕ばかりに頼って神様への信仰をないがしろにしました。民衆は偶像礼拝にふけり、信仰は形だけのものとなり、神様が望んだ国の姿とはどんどんかけ離れていったのです。
ところで、話は少しそれますが、ユダヤの重要な農産物であるぶどうも、豊かに実らせるためにはそれなりの手入れと手順が必要でした。ぶどうの木の剪定は結実期の終わりごろに行われ、冬になると幹と少数の枝のみになってしまうそうです。
また、イスラエルではぶどうの若木は植えられてから3年間は実を結ぶことが許されず、徹底的に刈り込むことによって生命を貯え、やがて豊かに実を結べるようになるまで準備をさせたようです。
ユダヤの人々にとってぶどうは身近なもので、たとえ都市に住んでいてもこういったことはだいたい知っていたようですし、実のならない枝は切り捨てられ、実のなる枝は徹底的に保護する、という剪定の原則は皆理解していたと思われます。
しかし先ほどのイザヤ書は「実ったのは酸っぱいぶどうであった。」という言葉の後、「わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず耕されることもなく 茨(いばら)やおどろが生い茂るであろう」と記しています。神様は、とことん愛され世話をなさったユダヤの民の裏切りにどれほど失望されたかが良くわかる言葉です。この御言葉に表されているように、やがてユダヤの国はバビロニアとの戦争に敗れ、人々は捕囚の民として連れて行かれ、神殿は壊されて見る影もなくなり、国土は荒廃したのです。まさに茨やおどろが生い茂るところとなってしまったのです。
しかし神様はやはりユダヤの民を完全に見放すことはお出来になりませんでした。ユダヤの民は異郷の地で悔い改め、信仰を回復します。異教の文化、文明に頼るよりも神様に頼り祈るようになり、子どもたちにも信仰を継承しました。その結果、人々は故郷に戻ることを許され、イスラエルの国は再建されました。比喩的に言えば、「酸っぱいぶどう」の国から「良いぶどう」甘くて香り高いぶどうの実る国に戻ったのです。
ところが、それから数百年が過ぎたイエス様の時代、再び神様への信仰は危機的状況にありました。再び酸っぱいぶどうとなってしまった民衆は気づいていませんでしたが、神様の厳しい剪定が始まろうとしていたのです。
そこでイエス様は「わたしはまことのぶどうの木」と宣言され、豊かな身を実らせることができるよう、ご自分に繋がり続けなさい、と語られたのです。
イエス様につながらない枝が切り落とされる、というこのお話には、イエス様を裏切った12弟子の一人、イスカリオテのユダのことが暗示されているとも考えられています。本日の聖書箇所は最後の晩餐の席上でのものですが、イエス様がこのお話をされる前に、ユダはサタンに翻弄されるまま、イエス様を裏切るために食事の席から立ち去っていました。
イスカリオテのユダは12弟子の一人に選ばれたにもかかわらず、自らその生命を断つ道を歩んでしまいました。自分がイエス様につながる枝であることを否定し、自分の枝先に豊かな実りが生まれることを信じなかったのです。
こんな風にお話しすると、信仰を失ったらユダのように切り落とされるのだろうか、と心配し、不安になる方もおられるかもしれません。思い出していただきたいのですが、人間はその誕生の物語から、神様をとことん失望させエデンの園を追放されました。先ほど引用したイザヤ書でも、信仰の堕落した民はバビロニアに追放されました。しかし聖書をよく読み込むならば、神様は人間に何度失望させられようとも、その無限の愛ゆえに決して人を見放さず、救いの道を開くためにイエス様を送ってくださったことがわかるのです。
私たちが信仰によって理解しなければならないのは、神様は厳しいけれど、その一方でイエス様を通して私たちに惜しみなく愛を注いでくださる方だ、ということです。イエス様は私たちのために神の国から降ってこられた、まことの救い主であり、まことの愛の持ち主、まことの喜びを私たちに与えてくださる方なのです。その方が、「わたしにつながっていなさい」と言ってくださっているのです。無理難題を言われる方ではないのですから、私たちは死に物狂いで枝にしがみつこうとしなくて良いのです。イエス様が私たちを支えてくださるからです。
厳しい時代、私たちの愛する人々に、まことの救いがここにあることを、諦めることなく伝えて参りましょう。
教会の駐車場脇の植え込みに咲くオダマキです
教会の方からタネをいただいて
ばら撒いただけなのですが(^^;)
2年越しで花が咲きました
どれも色が微妙に違っていて
見ていて飽きません
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