詩編23編 ヨハネによる福音書10章11-15節
ただ、羊飼いというのは全て羊優先ですから、定期的な休みをとることはできません。律法で「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」と決められても、礼拝に出ることもできませんでした。次第に文明が発達し、都市で暮らす人々が増えるに従い、羊飼いたちは蔑まれるようになっていきます。大抵の場合、貧しく、文字も読めず、動物に触れる汚れた職業とされ、裁判での証言も認められなかったとまで言われています。かなりひどい差別が行われていたのでしょう。
こんな風に、現実の羊飼いは差別の対象となりましたが、イスラエルの人々には聖書から学んだイメージがしみ込んでいましたから、「良き羊飼い」が何を意味する言葉であるかは理解していました。導者たちは、かつて良き羊飼いが羊を導いたように、力強くかつ優しく民を導き、時には民衆のために命をも惜しまない「良き羊飼い」であることが理想とされました。
しかしイスラエルの指導者たちはローマ帝国に支配されるようになってからは、国民のためと言いつつ自らの保身のために必死になりました。羊の為に命を落とす覚悟を持つリーダーは、いなくなってしまいました。民衆は、権力を持つものからは守られるどころか搾取され、まさに飼うものない羊のような哀れな状態で、希望もなく、その日その日の生活を送るしかなかったのです。
そのような状況の中にあって、イエス様が「私は良い羊飼いである」と言われたのです。イエス様はお言葉にもなさることにも力があり、素晴らしい奇跡の数々を行われたので、民衆はイエス様に大いに期待を寄せ、「良い羊飼いである」という御言葉を聞いて救われた気持ちになり、イエス様こそ自分たちの求めたリーダーであると思ったことでしょう。
しかし、イエス様と当時の権力者、ファリサイ派やサドカイ派の人々との関係は悪くなる一方でした。権力者達の中にもイエス様の言葉を聞いて我に帰り、正しい役割に立ち戻ろうとする人もわずかながらいましたが、大抵はイエス様に敵対し、議論を挑んではやり込められ、さらに敵意を燃やすような有様でした。イエス様の言葉が真実であればあるほど、そのお言葉は彼らの怒りを掻き立てました。彼らは自分達が責められていると思い、素直に聞き従うことも悔い改めることもできずに逆恨みしたのです。
イエス様が彼らの計略から逃げることはなさらず、ゴルゴダへの道を歩まれた時、周りの人々は誰も彼も正しい判断ができなくなっていました。ファリサイ人と祭司たちはイエス様の罪をでっち上げ、ポンテオ・ピラトはイエス様に罪がないことを知りながら保身のために言いなりになって不当な判決をくだしました。そしてイエス様を愛していたはずの弟子たちはイエス様を否定し、逃げ去りました。
良い羊飼いが羊を守って命を落すのは当たり前と言えば当たり前です。しかしこの時、イエス様が何ために命を捨てようとなさっているのか、直接教えを受けた弟子たちでさえ誰一人理解できませんでした。人の目には、十字架にかかったイエス様は大きな権力を前に敗北したようにしか見えなかったのです。
しかし、イエス様という、良き羊飼いが、まるで無力であるかのように命を落としたのは、単に目の前の羊を守るためだけではありませんでした。それは羊に命を与えるためでした。聖書に書かれた全ての神様のメッセージを、真実の言葉として人間に届けるため、イエス様は唯一の方法として、この道を選ばれたのです。
人間の考える幸せというのは、地位であったり名誉であったり、経済的成功であったりします。しかしどれほど成功を収め、どれほど財産があっても死後の国には何一つ持っていくことはできません。人は時に不老不死を夢見て、全財産をつぎ込んだりしますが、ただ空しいだけです。全ての人はやがて死んでいきます。
神様はこの世に人間をおつくりになった時、幸せに暮らせるようエデンの園を与えてくださり、たった一つ、善悪の知識の木の実だけは食べないようにと命じられました。アダムとエバはただ神様を信頼さえすればいつまでも幸せに暮らせたのです。しかし彼らは神様の言葉を疑って誘惑者の言葉を信じ、結果としてエデンから追放され、汗を流して労働し、いつかは死を迎える存在となってしまいました。
それでも神様は人間を愛し続けてくださったのです。人は死ぬことによって終わるのではない。死んだ後、神の国に迎え入れるから、私の言葉を信じなさい。長い長い間、神様はそうメッセージを送り続けてくださいました。人間はそのメッセージを受け取り損ねてきたのです。
イエス様はその御心をはっきりと示すために、厳しい試練を耐え抜き、蘇ってくださいました。私たちの人生は楽なことばかりではなく、むしろ何もかも失った、こんな人生に価値はない、なんで私ばかりがこんな目に、と思うほど追い込まれることもあるでしょう。しかし良き羊飼いであるイエス様は、あなたは何を失っても私がいる、私に従いなさいと言われるのです。これほど心強いものはありません。
今の時代、信仰に生きることは、時代遅れの要領が悪い生き方だと言われるかも知れません。しかし私たちが本当に豊かな人生を生きるために、命を捨ててくださったイエス様を信頼し、その導きと守りを信じ、神の国の扉は自分のために開かれていることを確信しながら、信仰の歩みを共に歩んで参りましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿