復活節第3主日礼拝(2021年4月18日)
使徒言行録3章12-19節 ルカによる福音書24章36b-48節
イエス様は復活なさった後、隠れ家で怯えていた弟子達の真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と話しかけたことは先週もお話ししました。トマスが最初は信じられなかった、というところです。トマスでなくても、弟子達は恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったでしょう。イエス様の復活を簡単には信じられず、悲しみのあまり自分の頭がどうかしてしまったと思った者もいたでしょうし、死者が恨んで化けて出たと捉えた者もいたでしょう。
イエス様が捕らえられ、十字架に架けられた時、弟子たちは強い自責の念に駆られていたことも確かでしたから頭の中は大混乱です。彼らは、イエス様の死を通して、自分の情けなさや弱さと直面することになってしまいました。ええ格好するわりには、いざとなると薄情で、自分を優先させ、裏切り行為をしてしまう。その現実を見てしまったのです。もし自分がイエス様の立場だったら、自分を赦すことはできないだろうし、化けて出られても仕方ないくらいひどいことをしたのだ。彼ら一人一人はそう思っていたのです。
そのような有様でしたから、イエス様から「あなたがたに、平和があるように」と声をかけられても、ただただ恐ろしかったのです。
しかしイエス様は根気強く、ご自分が肉体を持って復活して亡霊ではないとお話になり、手足をお見せになりました。弟子達の緊張は次第にほぐれましたが、まだ半信半疑です。そこでイエス様がおっしゃったのは、意外なことでした。「ここに何か食べ物があるか」と言われます。
彼らが恐る恐る魚を一切れ差し出しますと、イエス様はパクッと食べられたのです。これはイエス様のユーモアだったのではないかと思いますし、おそらく弟子たちは、イエス様の茶目っ気たっぷりなこの行動に、くすっと笑ったことでしょう。
しかしその後に続いてイエス様が語られたお話は、無駄な言葉が一つもない、聖書全体の要約でした。イエス様が語られたのは、ご自分が苦しみを受けることも、三日目によみがえることも、罪の赦しを得させる悔い改めが起こることも、そして、この教えが世界に広がることも、実は、すでに聖書に記されていた、と話されたのです。
あれほど痛く悲しく思く辛い思いを耐え忍ばれたのは、それらすべてが神様のご計画であり、イエス様ご自身がその計画である神の御心を先頭に立って行ったからである、と説明なさったのです。
イエス様の弟子たちは、イエス様に出会う前、もともと平凡な漁師であったり、嫌われ者の徴税人でした。そんな彼らにとって神様の存在はあまりにも大きく偉大で、救い主がいつか来られるということは知識として知っていても、ピントは来ていなかったでしょうし、神様そのものの存在も身近に感じられませんでした。
そんな彼らがイエス様に弟子として招かれてと3年半を過ごし学び続けたのです。イエス様を慕う気持ちは強く持っていましたが、いつの間にかイエス様を利用して自分の野心を達成しようと思うようになっていきました。イエス様に王様になっていただき、自分達は側近になって権力を握ることを夢見るようになります。
しかし、彼らは結果として、イエス様を裏切り、十字架にかけられるのを見殺しにし、そのあとはただ引きこもり、社会との関わりも失ったかのように思えました。彼らのこの3年半はまるでジェットコースターに乗っているかのように急激に上がったり下がったり、大きな変化を経験したのです。そしてついさっきまで、つまりイエス様が戻ってこられるまで、人生のどん底にいたのです。
そこにイエス様が来られ、聖書に書かれている救い主とはこういう存在である、とご自分の身を犠牲にして示してくださったのです。神様が遣わしてくださる救い主こそイエス様だった。弟子たちは、イエス様のお話を聞き、その壮大なご計画の只中に、自分たちが招かれ、一人の証人として立ち会ったことを知ったのです。
頭だけでぼんやりと知っていると思っていた聖書の内容に新しい光が当たり、聖書に書いてあったのはこういうことだったのか、とストンと腑に落ちました。彼らは今こそ心から聖書の出来事を理解できるようになったのです。
小さきもの、弱きものにこそ、神の眼差し、愛は注がれており、自分は救いようのない罪人だ、生きていてごめんなさいと思うような人にこそ、神様の救いの手は差し伸べられている。そのような人を、神様は救い、導き、用いようとなさっている。それを今、イエス様は改めて教えてくださいました。
イエス様は、弟子たちに、改めてもう一度救い主イエス様の弟子として、歩みだすことを願われたのです。自分の弱さや、挫折を知ったあなたたちだからこそ、救われる喜びを知っている。痛みを覚えている人の救いとなるために、神の国を宣べ伝る働きに加わって欲しい。これがイエス様の願いでした。その使命を果たすために、その力もお与えになると約束してくださったのです。
こうして弟子たちは新しい一歩を踏み出しました。情けなくて弱いものであっても、神様が招いてくださっている以上、できることがあるのだと、互いに励まし合いながらイエス様を信じる群れを作り上げたのです。神様に召し出された者の集まり、これが最初の教会となりました。
その後の彼らの働きは使徒言行録に記されました。イエス様の弟子たちは、相変わらず悩んだり、失敗したりの連続で決してスーパーマンではありませんでしたが、自分の弱さと向かい合いながら、神様の力を受けて、その使命を果たして行ったのです。ですから、私たちがこの教会にいるということは、神様から招かれ、果たすべき使命を与えられているということなのです。この一点だけは決して譲れないのです。
こんな私に何ができるというのか。何もできなくて挫折感を味わうとき、無力感に苛まれる時、私たちはイエス様の弟子たちが経験したことを思い出し、改めて聖書に学びましょう。神様があなたの心に情熱を注ぎ込んでくださったのなら、必ず解決の糸口が見つかりますし、力も与えてくださるのです。私たちは救い主イエスの弟子であることを忘れてはならないのです。
教会から車で20分ほどの場所にある
カタクリの自生地に行ってきましたので
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