2023年5月28日日曜日

「ペンテコステ」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨祭・聖餐式(赤)子どもと共に守る礼拝
使徒言行録2章1~13節 ヨハネによる福音書7章37~39節


 今日のお話の題にもなっている「ペンテコステ」とは、ギリシア語という外国の言葉で「50」という意味で、もともとは「五旬祭」と呼ばれるユダヤの大きなお祭りの日でした。

 ユダヤの人の大切な食べ物は、お米ではなく小麦です。秋に種蒔きした麦は厳しい冬をこえ、この時期に実を結びます。ユダヤの人々は無事に収穫できたことを神様に感謝してお祭りをしました。このお祭りが「ペンテコステ」で、ユダヤの人たちは今でもお祝いしています。

 ただイエス様を神様と信じた人たちには、全く別の意味があるお祭りです。それはこの日がイースターから数えて50日目だ、ということです。50日前の4月9日、私たちはイースターをお祝いしました。イエス様が十字架にかかって三日目に復活したことをみんなでお祝いしたのです。

 イースターとその後のことを、もう一度順番にお話ししますと、死んでお墓に入れられていたイエス様は三日目の朝復活して、ご自分を裏切った弟子たち、「イエスなんて知らない!」と逃げてしまった弟子たちのところに帰って来られました。

 弟子たちは確かに死んでお墓に入れられたイエス様を見て幽霊かお化けかとすごく怖がりました。本物だとわかった後も自分達が裏切ったことをすごく怒られると思いました。でもイエス様は以前と変わらず優しく彼らを赦してくださったので、弟子たちはとても嬉しくなりました。

 それからしばらくの間、イエス様は弟子たちと一緒にいてくれました。そして十字架にかかる前にお話ししてくれた「神様のこと」や「天国のこと」をもう一度くわしく教えてくださいました。弟子たちは「今度こそちゃんとやるぞ」と決心していっぱい勉強をしました。

 こうして40日目を過ごした後、イエス様は弟子たちを丘の上に集めました。どうやら今度こそお別れのようでした。イエス様は「私が十字架で死んで三日目に蘇ったことや、神様があなた方を愛していることや、この世で死んでも天国で蘇らせる力を持っていることをを、世界中の人々に伝えなさい。」と言われました。

 また、こうも言われました。「私が天国に帰ったら、代わりに聖霊と言う名前の神様があなたがたのところに来て力を与えてくださるから、散り散りバラバラにならないで仲間と一緒にいなさい。」
 言い終わると、イエス様は雲に包まれて天国に帰っていかれたのです。イエス様のお姿が天へ天へと高く上げられ、見えなくなっていくと、弟子たちはすごく寂しい気持ちになりました。でもイエス様の言われたとおり、みんなで一軒の家に集まってお祈りを始めました。

 その人数は120人くらいで、イエス様の弟子とその家族が心を合わせて、それはそれは熱心に神様にお祈りしたのです。「この世界が神様の治められる平和で素晴らしい世界になるよう、イエス様の力を与えてください。」「聖霊という名前の神様を早く送ってくださいますように。」

 お祈りして、お祈りして、10日が過ぎた時が、さっきお話ししたユダヤの「五旬祭」の日だったのです。大きなお祭りですから、街はすごく賑やかだったと思いますが、集まった人たちは街に遊びに出かけたりしないで、脇目も振らずにお祈りしていました。すると突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえて、彼らがお祈りしていた家中に響き渡りました。そして不思議な炎が現れて、一人ひとりの上にとどまったのです。

 「ペンテコステ」の日、こうして炎のような姿で来られたのが聖霊というお名前の神様だったのです。ですからこの日をもう一つの言い方で「聖霊降臨祭」とも呼びます。聖霊が天から降った日だからです。

 聖霊様はすぐに目に見えなくなりましたが、どうやら一人一人の心の中にすうっと入って、特別な力をくださったようでした。なぜなら、そこにいた人々は「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」つまり外国の言葉で喋り始めた、と書かれているからです。

 もし、特別な力でパッと外国語が話せるようになったら、もう英語を勉強しなくて良いし、外国の人とペラペラ喋れたらかっこいいなあ、と思う人もいるでしょう。でも聖書をよく読んでみると、弟子たちが外国語を話せるようになったのは「神様の偉大な業」つまり「神様がどんなにすごいか」を伝えるためのようです。楽をするために外国語が喋れますように、と祈ってもどうやら無駄なようです。

 しかし聖霊様はイエス様を信じる人みんなに特別な力を与えてくださる方だとわかりました。その力とは急に外国語が喋れるようになるだけではないのです。「イエス様が十字架で死んで三日目に蘇ったことを、世界中の人々に伝える」「神様が私たちを愛していることを伝える」「神様はこの世で死んでも天国で蘇らせる力を持っていることを伝える」ために一人一人に力を与えてくださるのです。

 自分は得意なことも人より上手なことも何もないから神様の役に立つなんてとてもとても、とか、病気や障害がある、歳をとってもう力が出ない、そんなふうに思う人もおられるでしょう。でもその方のそばにも聖霊様はおられます。そっと祈ってお話ししてみてください。どんなに苦しい時も、あなたを見離さないイエス様がすぐ近くに居られることをわからせてくださるはずです。

 最後になりますが、2000年前のペンテコステの日、聖霊の力によってイエス様を信じる人たちはどんどん増えて、大きなグループとなりました。それが今、世界中にある教会や私たちのルーテル教会の元となったのです。ですからペンテコステは教会の誕生日とも言われています。どうぞそれを覚えていてください。


2023年5月22日月曜日

「主の昇天」(日曜日のお話の要約)

主の昇天礼拝(2023年5月21日)
 使徒言行録 1章1-11節(213) 
 エフェソの信徒への手紙 1章15-23節(352)
 ルカによる福音書 24章44-53節(161)


 イエス様は十字架にかけられ一度死なれますが、三日後に復活し、その後40日間、弟子達と共に過ごされました。ちなみにイエス様は宣教活動に入られる前にやはり荒野で40日40夜を過ごしておられます。

 この40という数字は、聖書に繰り返し登場する数字で、神様からの大事なメッセージが込めらていると受け止められてきました。例えば創世記の「ノアの箱舟」では神様が40日40夜地上に雨を降らせ、箱舟に入ったもの以外を地の面からぬぐいさられます。

 出エジプト記では、イスラエルの人々がモーセに導かれて約束の地に到着するまでが40年です。また、その旅の間にモーセが神様の掟である十戒を与えられた時、彼は40日40夜シナイ山にこもりました。列王記上では、力尽きた預言者エリヤが神様に励まされて再出発するまでの期間が40日40夜だったと記されています。

 このようにユダヤ教徒は子どもの頃から40という数字を印象深く頭に刻み、神様が何事かを成し遂げられる時の数字であると学んできたのです。これはイエス様の弟子たちも同様でした。ですからイエス様が天に帰られるのが復活なさってから40日後だと気づいた時、イエス様の地上での使命が完了し天国にお帰りになるのだ、と強く感じたのでしょう。

 天国を本気で信じないならば、死というものは永遠の別れでしかありません。しかし、イエス様の弟子達は、イエス様から、はっきりと天国というもの、神の国というものを示され、疑うことなどできないところまで行き着いたのです。

 弟子たちがイエス様と共に過ごした最後の40日間、彼らは非常に深く学んだことでしょう。この世になぜ苦しみがあるのか、なぜ人生は自分の思う通りにはならないのか、なぜ人は死ななければならないのか。それらの答えはすべてイエス様が持っておられたのです。彼らはこの後、自分の人生にどのようなことがあっても、イエス様が共にいて導いてくださることを堅く信じたのです。

 そんな彼らに対し、イエス様は力強い約束をしてくださいました。それが弟子たちに聖霊を送るというものでした。ヨハネ福音書に記された最後の晩餐の席上でイエス様は「まもなく自分は父の元に帰るが、あなたがたをみなしごにはしておかない」と語っておられます。

 イエス様が天に帰られた後は肉体の目ではイエス様を見ることはできなくなります。しかし父なる神様がイエス様の名によって遣わしてくださるが聖霊が弟子たちに全てのことを教え、イエス様が話したことを思い起こさせてくださる、と言われたのです。

 弟子たちはこの約束を聖書に書き記し、後の世に伝え続けました。今の私たちが遠い国でスタートしたキリスト教を自分の教えとして受け入れて信じ、信頼して、イエス様に祈り頼ることができるのもこの約束のおかげ、私たちのところに来てくださった聖霊の働きなのです。

 日本では第二次世界大戦後にキリスト教ブームが起こりましたが、その時導かれた人々の多くは次第に教会から離れていってしまいました。なぜなら、そこには気持ちの高ぶりやアメリカへの憧れはあっても、一人一人が教会に通い、コツコツと聖書を読み祈り学ぶことを尊ぶという姿勢が欠けていたからです。

 ムードに流されて信仰生活を始めてみても、そこにあるのは地味な世界だったでしょう。しかし残った人たちは自分に与えられた賜物を生かして教会を中心に共に生きる社会を作って今に至っています。しかしその方々もすでに高齢化しています。

 かつて日本にキリスト教を伝えた欧米諸国においても、キリスト教離れが進んでいると聞きます。このような時代になってしまったからこそ、諸外国のクリスチャンを批判する前に、自分自身が今一度聖書に立ち返ること、初代のクリスチャンの信仰生活に立ち返ることが、大切なことだと気づく必要があるのです。

 聖書が難しいという嘆きをよく聞きますもちろん日本以外の文化や習慣がてんこ盛りですから、そこに足を取られてしまいがちなのはわかります。しかし、飽きずに読み続ける秘訣もあります。それは聖書に書かれた出来事が、遠い出来事ではなく、自分の身に起こっているのと同じだ、と意識することだけなのです。

 ドイツの詩人にして劇作家のゲーテは「聖書は、理解が進んで、この自分と関わりがあると分かるにつれて、美しくなる」と言っています。聖書は自分に向けて書かれているメッセージだと気づくなら、聖書に捉えられている証拠なのです。

 聖書にはお祈りに関して「気を落とさずに絶えず祈ることの大切さ」が書かれていますが、どんなことでも100回祈ったら自分の祈りが叶う、というのではなく、自分が必死で祈っているその出来事について、神様のお考えを知ることができる、ということなのです。祈り手と神様の思いと重なる時、そこに絶大な力が働くのです。自分勝手な解釈をしないためにも、聖書をクリスチャンの仲間と共に学んでいくことは大切なことなのです。

 改めて世界を見回す時、私たちは世界の終わりに突入しているのではないかと気持ちが暗くなる時があります。ルターは「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える。」と語りました。私たちも神様に支られながら、聖霊の促しを受けながら神様の御心を行って参りましょう。世の人に「愚かだ」と言われても、ここに神の国、天の国を私たちの手で実現させてまいりましょう。


道沿いの集会案内の看板の下に
一昨年ノイバラの鉢を置きました
ルターの紋章に似た花形で、色はうっすらピンクです
植え付けた年はあまり花も咲きませんでしたが
今年はこんな感じの花房を
伸ばした枝の先にたくさんつけています
道行く方が看板共々目に留めてくださいますよう
祈りを込めて

2023年5月14日日曜日

「聖霊の約束」(日曜日のお話の要約)

復活節第6主日礼拝(2023年5月14日)
使徒言行録17章22-31節(248) Ⅰペトロ3章13-22節(432)
ヨハネ福音書14章15-21節(197)


 ヨハネ福音書14章は、イエス様が最後の晩餐の席上で、主だった弟子たちに語られたお言葉です。聖霊降臨祭を再来週に控えてイエス様が真理の霊、聖霊なる神の到来を弟子たちに予告してくださる大切な場面です。

 この弟子の中に「熱心党」と呼ばれる組織の一員がおりました。福音書の12弟子の紹介の箇所で、彼は必ず「熱心党のシモン」と紹介されています。この「熱心党」とは、ユダヤ人の宗教的政治集団で、ユダヤ人以外の人々が自分達の国を統治することを拒み、ローマへの反乱をおこした人々です。

 彼らは、信仰の面ではファリサイ派のように熱心に律法を守るのですが、ファリサイ派の人びとが政治的な動きにかかわりなく暮らす立場をとったのに対し、自分たちの手で神の国を実現するために、血を流して戦いました。ファリサイ人たちがローマとの妥協点を見出しながら信仰生活をやりくりしていたのに対し、「熱心党」は非常に攻撃的になって異邦人を排除しようとしたのです。

 本日読みました第一ペトロ3章13節には、「もし、良いことに熱心であるなら、誰があなたがたに害を加えるでしょう」と記されています。ここで使われている「熱心」という言には「熱心党」を指すのと同じ「ゼロテ」というギリシア語が使われています。

 ペトロの手紙は、イエス様が天国に戻られた後、キリスト教会が一つの組織として纏まり始めていた、まだまだ初期の頃に記されたもので、何に熱心であるのが良いことなのか、活発に議論されたようです。

 12弟子の中に熱心党員がいたくらいですから、初期のキリスト教会の中に、熱心党と同じ考えを持つ過激な人々は何人もいたことでしょう。熱心党に入っていなくても、ユダヤの成人男性は熱くなりやすい気質を持ち合わせており、その上議論好きでした。そんな彼らが自分の思い込みで「これこそ良いことである」と考え、教会の意志を無視して自分の判断で情熱を注いでしまったら、まだまだ組織として始まったばかりの教会はまとまりが失われ、バラバラになってしまいます。

 指導者がその危険性を指摘して、熱くなりすぎないで心を合わせるよう促しても「私は良いことを熱心におこなっているのだから、私を批判したり、無理やり止めようと害を加える者は、仲間ではない」とムキになって反論したかもしれません。

 だからこそ指導者であるペトロは、その手紙の中でキリスト者であるならば、自分の正しさを証明しようと仲間同士で言い争ったりしないよう忠告しています。「あなたが熱心にしようとしていることについてはいつでもちゃんと説明できるように、ただし聞いてくる人には穏やかに、敬意を持って、正しい良心で説明できるように」と諭したのです。

 このような謙遜で真剣な姿勢をとって、あきらめずに自分の熱心さを周囲に知らしめることが神様が喜ばれることであり、キリスト者として神様を証しすることができる態度なのだ、と教えたのです。ただ、この言葉を記したペトロが最初から温和で謙虚な人物ではありませんでした。彼はイエス様の復活後少しずつ変えられてゆき、使徒言行録を読めばわかるように、聖霊なる神の導きによって真の指導者として立てられて行きます。

 しかしイエス様に見出された頃のペトロは一本気でイエス様のためなら火の中水の中、というくらい熱くなりやすい人物で、少々早とちりなところもあるけれど、仲間をまとめ上げる親分肌でもあったことが、福音書から見て取れます。

 このペトロも他の弟子たち同様、イエス様が王様や支配者になれば、自分も救われ、世の中は救われると心を躍らせました。しかしイエス様の教えは、人間が築き上げた制度や身分、社会的モラルや秩序への挑戦となってしまいました。

 イエス様はひたすら神様と人間が正しい関係に戻るために働いておられるのですが、時の政府にとってはイエス様の宣教は「新しい独立運動の一派が誕生した」としか思えなかったのです。結局イスラエルの上層部は、イエス様の活動はイスラエルにとって害にしかならないと考え、ローマの法に基づいて十字架にかけることを望み、実行したのです。

 イエス様は神の愛を説くために一歩も下がらず、妥協もせず、親しい弟子たちに理解されなくても、真っ直ぐに歩まれました。その結果として、酷い仕打ちを受けられたけれど、それは予想しておられました。そしてその上で、イエス様を十字架にかけたすべての人々の罪もあらかじめ赦しておられました。

 イエス様がこの世に来られたのがなぜ 2000年前のイスラエルだったのか、どうしてこのタイミングでなければならなかったのか、私たちにはわかりません。しかしこの時を逃しては、神の愛を示すことは出来ない、というのが神様のご計画でした。あの2000年前のイスラエルで起きた小さな出来事は、教会を通して世界に広がり、私たちもその恵みに預かっているのです。

 私たちは日本においては、イエス様の時代の最初のクリスチャン達と同じく、人数も少なく、理解者も少数です。しかし私たちの生きる世界とその万物を造られたのはイエス様の父なる神様であり、御子であるイエス様はそれを伝えるために命さえ惜しまなかったことを私たちは知っています。

 聖書を自分の人生の基準として神様に忠実に生き、御霊の促しに忠実にある時、その熱心さを神様は喜ばれます。ここに集う人達に信仰が与えられ、霊的に生きることを優先する時、物資もまた、神様が満たしてくださると信じてまいりましょう。

少し車を走らせると中央アルプスが見えてきます
まだ雪を被っています
雄大な風景です

教会の駐車場植え込みではオダマキが
そろそろ終わりを迎えています
これは「ノラバロー」という品種だそうで
タネをいただいてから2年目
小さな花がかわいらしく咲いています


2023年5月7日日曜日

「弟子への慰め」(日曜日のお話の要約)

復活節第5主日礼拝(2023年5月7日)
Ⅰペトロ2章3~5節(429) ヨハネ福音書14章1~14節(196)


 本日の福音書はイエス様と弟子の会話が中心で「道」が重要なキーワードとなっています。14章は「心を騒がせるな。神を信じなさい、そして、わたしをも信じなさい。」というイエス様のお言葉から始まっていますが、これは13章の終わりの方で、一番弟子のペトロの離反を予告するのに続いて語られている言葉です。

 13章36節でイエス様は弟子たちに「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とおっしゃいました。これを聞いたペトロはイエス様が自分達を離れてどこかへ行ってしまうのではないかと不安になります。そこで「あなたと離れないでどこへでもついて行きたいです。」という気持ちを表そうと「あなたのためなら命を捨てる覚悟があります」と豪語します。

 しかしイエス様はペトロに「鶏が鳴くまでにあなたは3度わたしのことを知らないと言う」厳しい予告をされました。ペトロは驚き「自分はそんなことは決して言わない、イエス様は自分を見損なっている」と心がざわついたでしょう。

 しかしイエス様は決してペトロをみくびったのではなく、ペトロの気質を本人よりも深く理解し、ペトロの複雑な心の内を見抜いて何が起こっても慌てたり心配したりしないよう、「心を騒がせるな」とおっしゃったのです。

 次に、ペトロに代わってトマスとフィリポがイエス様に問いかけていますが、彼らもペトロと同じように、イエス様のおっしゃることをきちんと捉えてはいません。そもそも、ペトロを不安に陥れた「あなたは今ついて来ることはできない」とイエス様がおっしゃった「その場所」とは、天国のことです。「後でついて来ることになる」とは、弟子たちが地上の使命を果たしたらご自分のいる天国に来ることができる」という約束でもありました。

 イエス様はご自分が天から来られた神様の御子であることを弟子たちには隠していませんでしたから「私は父の家に行く」そして「あなたも後から来る」と言えば、弟子たちはイエス様が行くのが「天国」だとわかるはずだと思われたのでしょう。ですから「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われたのです。しかしトマスは「どこへ行かれるかわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と問いかけます。

 弟子たちはみんな、イエス様にはイスラエルを解放する王様になってほしいと望んでいました。ですからイエス様が何度「十字架にかかる」と予告しても、それについて深く考えることもなく、受け入れようとしませんでした。そんな弟子たちにイエス様は辛抱強くお教えになり、そこで語られたのが、「私は道であり、真理であり、命である」という有名な御言葉です。ご自分を信じ、ご自分に従うものは必ず、目的地である「父なる神のおられる天国」に行って神様にお会いすることができる、と言われたのです。

 すると今度はフィリポが口を開いて「では今、神様に会わせてください、そうしたら満足できます」と言い始めます。イエス様はおそらく内心ガッカリして「こんなに長く一緒にいるのに、私が誰なのかまだわからなようだね」と言われますが、お怒りになることはなく、「私を見ているということは、父なるなる神様を見たのと同じことなのだよ」と答えられます。

 イエス様はご自分のなさること全ては、自分勝手に話したり行動したりしているのではないと言われました。イエス様のなさることは、イエス様の内に住んでおられる神様が行っているのだから、イエス様を見たものは神様を見たのと同じなのだ、と言われたのです。

 勘違いや思い込みの激しい弟子たちに辛抱強くお教えになり、そのように約束してくださったのです。イエス様の深い愛に基づいた忍耐は、やがて弟子たちを大きく変えていくことになります イエス様がこのようにしてじっくり弟子たちにお教えになるお姿は、私たちにも大きな慰めとなります。

 私たちは誰でも、最初から聖書やイエス様のお言葉がパッとわかるわけではありません。ずいぶん長いことクリスチャンをやっているのに、なかなか聖書を理解することができない、と嘆く方にたくさんお会いしてきました。その度に、イエス様の言われた「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私がわかっていないのか」というお言葉が心に浮かびます。

 誰でも、「私は道」と言われて最初から時ピンとは来ないでしょう。しかしイエス様を信じてクリスチャンに求められている生活を自分の歩む道として忠実に踏み出すなら、その道自体が先へ先へと導いてくれます。それにつれて聖書やイエス様への理解が深まっていくのです。

 信仰生活というものは、自分の都合で今日は熱心に、明日は自分中心に、と勝手気ままにご都合主義にやっているとイエス様の慰めは聞こえなくなります。楽しいことや好きなことは大切にしつつも、それに気を取られ過ぎればついついイエス様から離れた道に踏み込んでしまいます。そんな時は、一度立ち止まってどんどん戻って、イエス様の懐かしい声が聞こえるところまで引き返しましょう。勇気のいることかもしれませんが、迷子になったら元来た道を引き返すのが鉄則です。イエス様はそんな私たちを見守っておられ、慰め、導いてくださいます。

 イエス様が弟子たちに注いだ忍耐と愛と慰めは、今も私たちに注がれています。勇気を持って、共にこの道を歩いてまいりましょう。


昨日は月一回の土曜学校でした
GWでお出かけしている家庭も多いので
参加人数は少ないかなあと思ってましたが
子ども17名、お父さん2名が参加してくれました

礼拝のお話は「ペンテコステ」
工作はカットした松ぼっくりを使った
母の日プレゼントでした
羊毛フェルトやドライフラワーも加えて
同じ素材を使っても個性豊かに
仕上がりました


百均のカッティングボードに
着色したカット松ぼっくりを
木工ボンドで貼っていきます

メッセージカードや羊毛フェルトなどを加えて
華やかに仕上げます
みんな真剣!






グルーガンではなく木工ボンドなので
かわくまでちょっと時間がかかります
その間、希望者にドラムスを叩いてもらいながら
全員で「主イエスと共に」を熱唱!






恒例の「良いお顔写真」
ご紹介したい「良いお顔」がたくさんあります
保護者の皆様、お差し支えなければ
「うちの子OKです」とFBかメールで
ご一報くだされば嬉しいです(^^)

最後はみんなでお祈りです

おまけ写真
礼拝の中で使う「暗誦聖句」の文字は
毎回朝比奈牧師が頑張って書いています